長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年5月26日土曜日
話の裏に隠された基本的な項目に、興味がある。沢山知りたい
オバマの温泉へ行ったとき、左側の女性(先生)が色々な話をしました。その話のなかで、2つのことが心に残りました。①信仰が、有るか、無いかで、違うこと。②いま苦しくても、その苦しみには、意味があること。①の話。純心の会長さん、江角先生。亡くなる2週間ほど前、病気のため苦しかった。見舞いに来た人が「先生、苦しいときは、苦しいと言った方が、楽になりますよ」。江角先生は、「ありがとう」と感謝されて、「どうしても天国へ行きたいので、がまんします」と。私はこの話を聞いて、これこそ信仰者の言葉です、と思いました。なぜなら、以前、私が病で苦しんだ経験から、病人に対して、10の苦しみがあれば、7ぐらい忍耐して、あと3は文句を言ってもいいのだよ、と言っていたからです。やっぱり全部忍耐するのが信仰者です。②の話。この女性先生は、県立女専を出たあと、女専に残って助手を勤めた。あるとき校長と意見の対立があって、解雇になった。傷心の先生は、学校の坂を下っていると、下から初めて見るシスターが来られて、ぐう然出合ったのが、きっかけで、純心の英語の先生を30何年勤め、信仰にも入った。神さまのお恵みではないですか。本当によかったですね。あの校長さんが解雇にしなければ、また人生は変わっていたかも。私は話を聞きながら思うんです。★信仰が有るか、無いかの違い。★苦しみにも意味がある。その基本が私には、いま興味がある。話しは、あとで、付いてくる。
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「十七歳の夏」にも、この2つのテーマが見られます。
返信削除①はシスター永松の臨終の場面、
②は若き日の修道士さんが、長い闘病生活を終えた時の悟りの場面。
一貫して追求し続けてきたテーマなんですね。
人生において、常に②を体験していなければ、
死ぬ時に、①を実現することはできない、とあります。
この2つは、2つに見えて、実は1つのことなのではないでしょうか。
常々「多くのことを知らなくとも、1つのことを知っていれば、充分幸せ」とおっしゃるのは、このことだったのですか。
元日のエリザベットさんに教えられることが多いです。とても深いですね。
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