2018年1月31日水曜日

平凡なホーム生活に「ドカン」と突き上げる勲章


時折「歳は幾つ?」と聞かれる。「近々、90」と答えると、「え?お若い」など言われる。自分では、顔はボケ老人と思っていて、食堂のカガミに鼻を拭きながら顔を映すと、「まあ、いい顔、しているな」。小さな満足する。だが問題は、テレビにどう映るかだ。叙勲会場にはテレビが来ていたからね。勲章を戴いてホームへ帰った夜、5時半だった。6時15分から長崎版のテレビがある。そうか、日曜日だな。長崎版のニュースは6時45分からだった。待っていたよ、とテレビに出たのが、この写真です。
★場面は、ポーランド外務副大臣が入室する処から始まり、長崎市長さんの挨拶、私の神学校時代の同級生たち、勲章を授与する処、コルベ神父のお姿、そして出た、私の顔が。「ああ、やっぱり老人だよ」が感想だった。まあ、それでも無事に、テレビにも出させて貰って、有り難い事です。
★ホームの自室に戻ると、やっと緊張が解けてか、ゆっくりした気持ちになった。だが、シンは疲れていたのだろう。心底で興奮が未だ冷めないのか。ベッドへ横になっても中々眠れなかった。「勲章」を戴いた夜だから仕方はない。突然、携帯が鳴る。「なんで、いま時」。起きて、携帯をつかむと、佐世保の親戚の女性からだった。「テレビ、見たよ」と喜びの声。「おお、ありがとう」。10時近い。ますます、その夜は眠れない。
★ホームの職員さんや入居者からも「おめでとう」の挨拶を沢山戴いた。授与の夜は、2度もニュースに流れた。次の朝も、また放送された。しかも「九州・沖縄のニュース」でも放送されたらしく、福岡からも、2回、電話が入った。嬉しい反響でした。
★ホームの生活は、単調で、平日、何事も起こらない。日々、淡々と過ごしている。何事も無いようだが、トマの場合、時々、「ドッカーン」「ドッカーン」と突き上げるような何かが起こる。ホームに居て、それが面白い。
★それと、もう1つ、長崎の人に、時々、忘れないように「コルベ神父」の話題を提供する必要があると感じた。長崎は鎖国時代から、シーボルト先生や、グラバーさんなど有名な外国人が多々出ている。その中で、身代わりの愛の聖人、コルベ神父を忘れてもらっては困る。長崎の人には時々話題にして、「コルベ」を心に刻み付けて欲しいと願う。それを果たした意味でも良かったと思う。

2018年1月30日火曜日

勲章の授与は誰が申請したのか。きっかけは何か?


突然、ポーランド国から名誉勲章を授与されるなんて、誰が想像できたであろうか。私としても、とても、そんな考えが、アタマの中に浮かぶことは1点も無かった。出来事は偶然ではなく、これには誰かが、手を動かした、申請をした者が居るはずだと思う。
★事の起こりは、コルベ神父の映画「二つの冠」が長崎で上映された日にある。当日、ポーランドの全権大使が上映会に見えられていた。おそらく勲章の授与を大使に進言したのは、ポーランド人の神父さんたちであろうと思う。左側・写真は、左からソボン・タデウス神父さま、ポウォムスキ・スタニスラワフ神父さま、トマが居て、後ろが、ブリ・ヤン・アロイシイ神父さまです。このブリ神父さんと関係がある。
★2年前に、ブリ神父さまの愛野教会で信徒たちに、原爆とコルベ神父の身代わりの愛の語り部を勤めたことがある。ブリ神父さんは非常に感激して、喜んでくれた。映画の上映が決まった時、ホームへわざわざブリ神父さまとタデウス神父さまが来られて、映画の前に短い話をして欲しいと、熱心に頼んた。「この勤めは、トマさんしか、話す人は居ないよ」。考えは揺れ動いて、途中で1度はお断りの手紙も出したが、結局、当日になると、上映前には急に話すハメになった。
★その辺から、ポーランド人の神父さま方を通じて、ポーランド大使へのお願い申請になり、それがポーランド外務省に通じて、勲章の授与になった、と私は思っている。神父さま方が勲章授与に適当すると判断されて申告されたのであろう。
★右の写真は、勲章を授与されて、感謝を述べるトマです。新聞記者も居たが、「長崎新聞」に出た見出しが満足だった。大きく「小崎さんにポーランド勲章」。長崎の人は「小崎さん」って誰だろう?思うだろう。それでも親しみを込めて「小崎さん」と呼んでくれたのが嬉しかった。それに長崎新聞の記事の最後の部分の文章が良かった。「大切な人に『ありがとう』と伝えることの大切さ、を訴えてきた」「コルベ神父は、戦争が生んだ人間の暗い闇の中に『愛』という希望の灯をともした」「愛と平和を貫いた人が居ると、若い人たちに伝えたい」
★今日は、その新聞記者に、お礼を一筆書いて、小冊子「トマさんのことば」を送った。
★ホームに入って、4年目を迎えた。入居の当時は、「自分は、この道で良かったのか」の迷いも起こったが、いまは考えも整理されて、勲章を授与されたことで、「ああ、自分の人生は、この流れの中にしか無かったんだ」と確信が持てるようになった。人間は弱い存在だ。常に迷っている。打開策のためにも受賞は意義があった、嬉しい、と感謝している。

2018年1月29日月曜日

勲章輝く。長生きすれば、いいことも、あるモンだ

トマ1人のために、こんなに沢山の関係者が集り、一席を設け、祝福してくれる。夢のような気がした。
★長崎・原爆資料館。ここを見学する修学旅行生たちのため、原爆体験の語り部を勤めたこともある。だから内部の勝手も良く知っている。久しぶりに、懐かしい場所に来た。3階の一室に式典場が設けられていた。写真は左から、原爆資料館長、県の副知事(知事さんは今、選挙中)、長崎市長、そしてトマ。ポーランド外務副大臣、駐日ポーランド全権大使、これらの高貴な面々が相対して、それぞれ長い挨拶があった。特に外務副大臣からは、ポーランド外務大臣の「勲章を授与する理由」が細かく代読された。恐縮ですが、トマを誉めて、褒め上げる文面でした。全く光栄の至りです。
★この他に、ポーランド人の司祭3名、ポーランド人のシスター1名、山口院長神父、他にもシスターやテレビ、長崎新聞、朝日新聞などの取材者たち、また黒のスーツを着た数名の男性がいた。野々村哲さん、塩沢美樹さんも参加して、見守ってくれた。
★こうしてトマは、ポーランドの名誉勲章「べネ・メリト」を戴いた。受賞の後、トマのコメントを求められた。「長生きすれば、いいことも、あるんですね」「ポーランドを助けたというより、原爆で孤児になった私は、ポーランド人から助けられたのです。これがホンネです」。この2つの言葉が、当日の夜、テレビの長崎ニュースで放映された。
★今日の長崎新聞が、これです。高原修道士さんも一緒に大きく写っているので喜びました。高原修道士さんにも恩返しが出来たかな。

2018年1月28日日曜日

勲章を授与される日。早朝、出て、夜に帰ります

もう50年程、前になる。ポーランドを初めて旅行した時、1971年・昭和46年に、クラクフの古城で撮ったスナップです。この風景を忘れない。当時は未だ、ソ連の抑圧化にあった。なぜか素朴さが現われている心に残る一枚だった。自画自賛。今でも好きな場面です。
★今日は、日曜日。勲章を授与される日です。めだたい、希望に満ちた日です。嬉しいですよ。早朝、今、ホームのミサで祈り、自室に戻りました。ミサでも感謝の祈りをしました。これから朝食は修道院で戴いて、8時前には出発します。高原修道士さんが運転のクルマです。修道服を着て行きます。
★予定は、9時から、聖母の騎士でミサ。ポーランドの外務副大臣、全権大使もミサで祈るそうです。その後、一行は聖コルベ記念館、印刷所、ルルドへ参詣されます。これが第1部になっている。
★第2部は、市内のホテル・レストランで会食です。お祝いでしょうか、食事に招待されています。次いで第3部が、いよいよ本番となり、午後3時から、原爆資料館で、勲章式が行なわれます。どのような具合になるのでしょうか。勲章なんて、似合うでしょうか。ゼノ修道士は言っていました。「天国、勲章、イラナイよ」。イヤ、やっぱり有り難いです。名誉な贈り物に感謝します。功労があるとすれば、トマの功績ではなく、多くの人たちのチカラ、聖母マリアさまの助けでしょう。
★今日の帰りは遅くなる予想ですから、詳しくは、また、お知らせします。では、行ってきます。

2018年1月27日土曜日

美しい太陽がのぼる。ああ、いい事がありそうだ


今朝の日の出です。ホームの窓から見える。有明海の彼方に太陽がのぼる。「きれいだなァ」。一瞬、新鮮な気持ちになる。陽が次第に上がって行くと、空が真っ赤に燃えた。「こんな太陽、誰か、見ているのだろうか」。余計な事を考える。「何か、いい事が、起こりそうだよ」
★「明日、長崎へ来て下さい」と、聖母の騎士の院長・山口神父さまからファックスと、電話の連絡が入った。「ポーランドの外務副大臣と、駐日ポーランド大使か来られて、トマさんに勲章を差し上げるそうです。来られますか」「え?勲章?、ですか。ハイ、喜んで、行けるように湯江修道院の院長さまに相談してみます」。「二つの冠」の映画上映の後、感謝状を戴いたではないか。更に、トマに勲章を、なんて、どこから発想が出ているのだろうか。分からない。勲章を下さるなんて、考えもしなかった出来事です。これは一大事ですよ。自分は、そんなにポーランドのタメに尽くしただろうか、クビをひねるばかりです。
★勲章の説明がファックスに記してあった。2009年に制定された名誉勲章「べネ・メリト(功労者のために)」は、国際舞台におけるポーランドの地位向上を目指す活動への貢献が認められた人物で、ポーランド共和国外務大臣が授ける勲章である。
★明日は、どういう日になるだろうか。

2018年1月26日金曜日

偶然は、ない。すべては、み摂理。そのままで、よい

いま「昭和の修道士たち」という題の試作本を校正している。その中に、ヨハネ村山修道士さんの良い写真がある。村山修道士さんは眼が不自由で、見えない。大正13年7月生まれ。ホームで静養しておられる。「この写真、載せても、いいですか」と、写真を説明して許可を願った。「いい、ですよ」と快く承知してくれた。
★村山修道士さんは、戦後間もなく洗礼を受けて、本会の修道士となった。職務は養護施設の指導員。10年が経った頃、眼の病気に罹り、両眼の視力を全く失った。その頃、私も施設の修道院に居たので、よく知っている。
★昭和58年・1983年、東京で、盲導犬「アルゴン」と生活を共に始めた村山修道士さんです。アルゴンには、10年間、お世話になった。早朝、アルゴンと一緒に、ロザリオを3本唱える時間、散歩する。修道院へ帰ると、犬の汗ばむ体を拭ってやる。愛情いっぱい注いだ。アルゴンも老いて、引退の時が来た。平成5年・1993年、最後の日、悲しみを堪えて、アルゴンに最後のシャンプーを3度丁寧にしてやった。次の盲導犬は「カール」だったが、5年で、血液の病気で亡くなった。それから盲導犬なしで、村山修道士は修道生活をつづけてきた。
★いま、ホームで、職員さんたちのお世話、介護を受けながら、食事は食堂で、後は自室で静かに暮らしておられる。93歳。私が写真の許しを願うと、彼は、次のように私に語りかけた。「イスラエル、ルルド、ファチマを巡礼していた時、声が聞こえた。『そのままで、いいんだ。すべては、み摂理。偶然は、ない』。奇跡を望んでいたからね。偶然は、なく、み摂理。聖母。聖霊さま。賛美と感謝。その心で、生きている」

2018年1月25日木曜日

ホームからの景色はハレバレ。帰るとホッとする

自室の前の廊下の窓から見た風景です。前にも紹介したと思います。それでも今日の多良岳・山並みが美しく、くっきりと線を引いているので写真に撮った。何度も登った思い出もある岳です。「長崎は、こんなに晴れているのに」。テレビの報道によると、ここ数日前から、特に日本海側では何十年ぶりかの大雪に見舞われ、ご苦労なさっておられるようです。同じ日なのに、同じ日本なのに、天候の変化の不思議さを感じまて、風景に感謝しました。
★長崎・クリニック診察の日でした。いつものように朝食は修道院でお世話になり、8時前には、高原修道士が運転で、橋口修道士、私、それに平田君を乗せて出発する。速度を上げて、9時前にはクリニックへ着いた。1番に呼ばれたのは「橋口ブラザー」。2番が私で、早めに診察は終わった。一方、高原さんと平田君は聖母の騎士へ。ルルドの水汲みに、車のトランクに一杯のポリ・タンクを積んで走り去ったが、水を汲まずに迎えに来た。ルルドから修道院の庭まで水道管でルルドの水を引いているが、寒気のため管が凍結しており、水が出ない。あきらめた。ホームへ戻ったのは、早々と11時前だった。
★ホームに帰ると、ホッと、します。外出して、時間があるから、「あれ、しよう。これ、しよう」。そういう気持ちには最近は成りません。ホームに戻ると安堵します。「ここがトマの住み家ですから。

2018年1月24日水曜日

故あって、今、自著を読み直している。いい本だよ

野々村哲さんと塩沢美樹さんが編集をしている、試作本の白黒・写真集「昭和の修道士たち」が送られて来た。今、その写真に説明文を付けている。内容は4部に分かれていて、「ポーランド・ニエポカラヌフ修道院」の項目もある。昭和46年・1971年に撮った古い写真である。
★説明文を書くために、久しぶりに自著の「身代わりの愛」を読んだ。平成6年・1994年、聖コルベの生誕百周年に書かれた本で、もう20年以上前になる。
★この本を読んで、自分ながら感心した。よくぞ、これだけの記事を書いたと思う。最初、ニエポカラヌフを訪れた時、1971年、案内してくれたのは、かつては長崎・聖母の騎士に居たこともある「ヘンリコ修道士」さんであった。それから22年後、1993年に5度目にニエポカラヌフを訪問した時、ヘンリコ修道士は病床に横たわり、反応はなかった。院長神父が「言葉を出すことが出来ません」。私は思い切って、「ヘンリコさん」と声をかけた。「オイチェ(神父)コルベ、長崎のこと、思い出して下さい。長崎の兄弟、みんな祈っています」。すると目を閉じていたヘンリコさんが、はっきりとした声で言った。「カミサマ二・・・カミサマ二・・・」。2回、3回でなく、続けて彼は正確な声で言った。「サヨナラ・・・」。私の目には涙があふれた。
★ポーランドで生まれて、若い時代に遠い国、日本へ宣教に出かけて、戦争中、苦労した。健康を害して戦後ポーランドへ帰り、これまで修道士の務めを果たして、老いた。長崎へ1度、里帰りした思い出もある。83歳の人生であった。その人生を終わるに当たって、彼が口ずさんだ言葉は、日本語の「神サマ二(イキマス)・・・サヨナラ」だった。
★この本は、いいこと、書いてあるじゃ、ないか。改めて、思い直した次第です。

2018年1月23日火曜日

昨日のコメントで感じたこと。ご縁は、神の恵み

昨日は、2つのコメントが載っていた。
★1つは、北海道・札幌のマリア・フランチェスカさん。「北海道でも、映画『二つの冠』を見たい。DVDは出ないのでしょうか」の問い。日曜日に、ポーランド大使さんんに会った時、聞いてみたいと思います。それに聖母の騎士誌の記事の喜びと配布の努力も記してあった。
★もう1つは、幼稚園のお母さんからの記事。娘が、幼稚園から戴いた聖母の騎士誌に、「ママ、トマさん、載っているよ。読んで」と声をかけてきた。心をほのぼのさせるコメントでした。娘さんの姿が目に浮かびます。3月で卒業。確か、「トマさんのことば」の申し込みがあった家族と思いました。3年前の写真を見つけました。聖母の騎士の食堂で写した写真です。毎日、聖コルベ館に通って、案内係を勤めていた。幼稚園のバスや、園児やお母さんたちが、聖コルベ館の前を通っていました。時には、幼稚園の「マリア祭」や「教会での行事」も通っていた。あの頃のことを懐かしく思いました。卒業するまで、会えたら、ラッキィですね。ご縁はどこで繋がっているか、本当に分からないと思います。幼稚園児から「トマさん」なんて呼ばれたら、そりゃ嬉しいよ。聖コルベ館に勤める時は、年に1度、隣の幼稚園児たちに、コルベ神父さまのお話をして、館内を案内していました。終わると、必ず、飴を2個づつ、「とりなさい」と喜ばせていました。あれから4年、老人は変化が早い。娘さんの幸せな成長を祈ります。

2018年1月22日月曜日

ネコちゃん来れば、賑やかだよ。長崎から電話あり

ジーッと見つめるネコちゃん。何、見ているの?赤い着物、着ているね。オンナの子だね。職員の松村クンが連れてきた。「そりゃ、女性の老人たちは騒ぎますよ。喜びますよ。可愛いね。誰だって、そう思うさ」「バナナ、ね」「イヤ、桃(もも)」と松村クン。「ああ、そうか、赤だからね」。松村クンの家には、4匹居る。まだ1歳にも、ならない。モモ(オンナ)、バナナ(オトコ)、イチゴ(オンナ)、ミカン(オトコ)。楽しい家族だね。
★ネコと言えば、「ライモンドは、どうなったかなァ」。あのネコちゃんだけは、忘れないよ。名前のセイかも知れない。
★長崎・聖母の騎士から電話があった。「28日、日曜日。東京からポーランド大使さんが見えて、トマさんに表彰状の「楯」を贈るそうです。その日、空けていて下さい」「え?まだ、あの映画の出来事が引きずっているの?」。嬉しいやら、期待するやら、そんな気持ちで電話を受けた。追加。2月4日、日曜日には、トマさんの修道名のお祝い(日本26聖人・聖トマス小崎)を、長崎の修道者の皆さんが諫早まで出て来て、祝ってくれるそうです。有り難い。これも感謝し、期待しています。

2018年1月21日日曜日

久しぶりに傾聴ボランチア女性が来る。待っていた

絵手紙教室で描いた「水仙の花」です。「春は、まだ遠い」と寄せ書きした。
★日曜日。この処、正月もあって、久しぶりに傾聴ボランチアの女性が来た。「待っていました」の心で迎える。日記を見ると、去年の3月に最初に来られている。「高原修道士(当時・職員)が自室に連れて来た」とある。それから毎月。1度だけ台風で休まれた。
★今日は先ず当方から2点について「傾聴」する。①住所が、小浜(おばま)から長崎市へ変わられたこと。だから長崎から湯江直通の電車で来た。②なぜ私の所へ来るようになったのか。ネットで調べていたら聖フランシスコ園が出て、ボランチアを募集していた。その項目に「傾聴」があった。それで応募した。
★今度は私が話し始めた。会話でなし、対話、相談でなし、私が一方的に話せばいいので気が楽です。先ずは、やっぱり「九十、人生の峠」だね。1月も、もう直ぐ終わる。2月は短い。3月1日、誕生日だよ。「九十歳、一応、区切りが付いて、人生の峠だよ」というと、「人生の峠、ですね」と傾聴さんが繰り返す。次いで、日記にも書いたが、時々、幸せって何だ?の話を出した。傾聴さんも、日記は読んでいると言う。
★1時間10分は、あっと言う間に過ぎた。私だけが勝手に語れば、いいので疲れない。話すことでアタマの整理が出来てくる。有り難い時間です。職業は看護師。自分で旅費まで出して、時間も費やして、「感心なヒトや、と思いますよ」。待つ心にも、なりますよ。信念があって、人生に感じる処があって、傾聴の会に入られたのでしょう。合掌する気持ちで見送った。
★昼食後、食堂に最後まで残って、栄養師さんと「傾聴ボランチア」さんについて話した。「自分も、送り迎えか、何かのお手伝いは、したい」。そう語って、人の心には、底流に見えない優しさがあるんだな、そう感じた次第です。

2018年1月20日土曜日

何でも参加、カラダ、こころ、タメになる。喜び

「小春日和(こはる・びより)というのか、ね。温かい、ポカ、ポカ、陽気の日がつづきます。気持ちも和やかになる、ね。入江さんと久しぶりに一緒に入浴した。カゼを引いて、部屋に閉じ込められていたのです。「何日、ぶりか、ね?」「12日」「えーェ、そんなに」。風呂から上がると、食堂で、2人の女性職員が、「軽体操クラブ」といって、幾人かが集って、カラダを動かしていた。手馴れた職員だし、また小道具も揃っているんだね。手の運動。「グー、チョキ、パァー」「ハイ、足も出しなさい、足の指で、グー、チョキ、パァー」。何でも参加してみる。職員さんだって喜ぶよ。耳は遠いし、無口で、活力がない。こんな老人になりたくない。目標を失ったら、ガタ落ちだよ。「クル、クル、パァー、さ」。

2018年1月19日金曜日

シクラメン、赤い花、こころは燃える。春は遠い

絵手紙教室。水仙とシクラメンの2点を描いた。水仙には「春は、まだ遠い」と寄せ書きする。シクラメンは、赤くて大きな花で、花の淵の周りが白い。艶やかな気を漂わせる。老いた身だが、「花をみると、こころ、燃える」と書いた。
★午後から月に1度のショッピングに出かけます。そこで早めにパソコンに向かった。
★今朝、考えたこと。幸せって、何ですか。平凡な問いだが、時折、思い直して考える。
★①病気をせずに、健康に暮らすこと。②自己の才能を伸ばし、人のために尽くし、生き甲斐が持てること。③は、省略。④事故や、天災、事件に巻き込まれることなく、日々安泰であること。⑤神を信じ、自己の欠点、弱さを正し、神の聖心の添い、社会に恥じない生き方をすること。⑥自分の足で、自由に歩けること。
★この6番目が、何と、人にとって幸せなことか。人は、歩けることが、いかに幸せか気付いていない。自由に歩き、旅行をしていた頃は、今の状態になることは予想だにしなかった。今は、そうではない。
★歩けることを感謝して、1歩、1歩、踏み出そう。足跡は、こころの足跡でもある。そう思って、今日も感謝のうちに生きる。あなたも、歩ける幸せを感じてください。

2018年1月18日木曜日

黄な粉餅で正月も終わるか。長生きしても苦痛あり


食堂の入口です。左に予定表の白板。右側にお湯、水、お茶、ほうじ茶などのスタンドがある。車椅子の女性が入口で時が来るのを待っている。
★右の写真が、今日の昼食でした。黄な粉餅2個、卵入りのウドン、エビの天ぷら、みかん、でした。食事が出来るお恵みを感じます。寒い日がつづいていたが、今日の午後は自室に陽が入り、暖かさを身に覚えます。朝から、大きな風呂で独りで湯に浸かり、幸せを身体に心に受けました。「生きているのは、いいことだよ」。だが、長生きしても、苦痛は沢山、出てくる。「苦しみ、痛みを、神の喜びに変える。この体験が難しい。苦しみは、イヤだ。イヤなものを、どうして宝に変え得るか。信仰がなければ、望めない」

2018年1月17日水曜日

瀧神父さまはホームでチカラ強い味方、理解者です

瀧憲志(たき・けんし)神父さま。同じくホームに入っている人。昨年の4月6日に入居した。三度の食事は同じ食卓、隣同志。「もう年を越したね。よくガンバッタね。慣れましたか」「トマのおかげさ。大曾神父さまもお元気だったから、よかったよ」。前々から瀧神父さまには、「ホームに入るなら、早めに入った方がいいですよ」と勧めていた。「前から考えては、いたのさ」
★「トマ、昨日のブログは良かったぞ」。いつも反応を最初に教えてくれるのは瀧神父さまです。「良かった」と言われれば、こっちだって嬉しくなる。瀧神父さまは誰にでも気安く心を開き、お話されるので皆さんから慕われ、喜ばれている。ミサは修道院の司祭、浜田神父さま、山内園長神父さまと一緒に捧げて、午後からのロザリオにも参加される。祈る姿が大きなチカラです。トマにとっても、よき相談者であり、会話の相手です。「やっぱり、カトリックのホームはいいね。大声を上げたり、騒いだりする者はいない」と、トマ。
★「年賀状は、切手が2枚当たったよ」「ええ、よかったな。トマは1枚も当たっていない」。写真の老人から、スマホの操作を見せられている。教皇さまの情報、お説教など、出てくるらしい。夜、7時半、そろそろ寝ようと整えていると、瀧神父さまから携帯がかかった。「パパさまが出ているよ」「こっちは、もう寝るよ」

2018年1月16日火曜日

聖ベラルドの記念日。沖縄の押川司教さまの修道名

今朝、朝食のときに、瀧神父さまと「今日は、沖縄の押川司教さまの修道名のお祝い日だね」と話し合った。聖ベラルドと同志殉教者の記念日です。押川司教さまは「ベラルド」が修道名です。フランシスコ修道会の最初の殉教者たちで、モロッコで殉教して、イタリアの港へ帰還した。その光景を目の当たりに見て、アントニオがフランシスコ会に入会した。有名なパドアの聖アントニオとなった。聖人が、聖人を創るのです。
★写真を見つけました。去年の11月、聖母の騎士で、修道者たちの金祝のお祝いが行なわれた。ベラルド押川司教さまも叙階・金祝を祝われた。お祝いを受けて喜ぶ司教さまです。「司教さま、今日は、おめでとうございます」。お歳を召されて、最近、沖縄の司教を引退された。新しい司教さまも発表された。写真・中央は、もとホームの園長の古川神父さまです。沖縄で宣教しておられる。その隣は、ホームの職員さん。
★沖縄には思い出があります。毎年、正月の休暇には訪問していた。特に最後の4年前の正月は、ブログ(日記)にも載せている。瀧神父さまと食事しながら語り合った。司教館や、教会は、とても良い場所にある。モノレールから直ぐ近くに十字架が見える。司教館には、小さな、アイキョウのあるイヌが居て、教会に来た人を案内してくれる。司教さまが可愛がっている。「名前は、ピカ」「ピカって、アシジの聖フランシスコのお母さんの名前でしょう?」。リッパな名前をもらって光栄と思ったよ。ピカちゃんは元気だろうか。私も、もう1度、沖縄へ行きたいと思う。

2018年1月15日月曜日

古い写真。修道士たちの食事の風景。なつかしいね

何年頃か、わかりません。長崎・聖母の騎士修道院の食堂での風景です。私も、その中の1人でした。皆さん、修道士で、写っているだけで、8人が居る。あの頃は皆、若かった。若いとは、熱情があった。激しく燃えていた。でも、皆、仲が良かった。印刷所、受付、炊事場、洗濯場、畑で働く者など、修道士の仕事に専念していた。
★皆、神さまの声を聞いて、導かれて、この道に入った者たちです。朝は5時に起きて、夜は10時には眠る。厳しい規則の生活でしたが、幸せでした。神さまと共に生きている気持ちがあったからです。冬でも暖房はなかった。若さは寒気にも強い。
★食事の前後には、1列に並んで、ラテン語で祈りを唱える。食卓に付くと、1人が読書台で読書を初め、それを聞きながら、黙って食べる。院長さんが、小さな鈴を「チリン」と鳴らすと、沈黙が解けて、話し出す。院長がポーランド人の時は沈黙が多かった。しかし院長の好物の食材、例えばポーランドのチーズなどが出ると、必ず沈黙は解けた。笑ったものだよ。修道士は、いろんな所の産物だからね。話題が多い。平戸、五島、長崎は勿論、関西や、名古屋や、福井からも来ていた。正月になると、福井から「手つきの餅」が送られてきた。これが旨かったね。
★時代は流れ、人は変わるね。今、この中で生存しているのは、2人だけかな。手前の食卓にはポーランド人の修道士たちが居たが、今は皆、天国です。ポーランド人も、日本人も、いや、楽しかったよ。あんな時代が又、来るだろうか。
★ホームの教会では、毎朝、ミサ後と、午後の共同のロザリオのとき、「司祭、修道者の召命を求める祈り」を捧げています。昔の時代は、良かったね。懐かしい。

2018年1月14日日曜日

年賀状で思い出した歳老いた女性の「愛の話題」

今年の私の年賀状です。ホームに居ても、若干の年賀状を出した。私に届いた賀状は、56枚でした。ホームに居れば、やはり忘れられた老人になるのは当然でしょう。人のために尽くす、奉仕する働きがないのですから。そう考えると、この先、人生、やはり寂しい。
★朝食のとき、瀧神父さまが「あした、楽しみ、だな」と言った。「どうして?」「年賀の抽選会があるから」「切手しか当たらないよ」「切手の他に、当たった事がある」。嬉しそうに笑った。楽しみがあるのは、いいことです。
★今年の年賀状に、心引く2通があった。1通は「20年ほど前、長崎にて小崎修道士の語り部をナマでしっかりと受け止め、浦上天主堂に導いて下さいました。書物もすりきれる位、愛読しています」と嬉しい便り。20年も経って忘れないのは喜びでもある。
★もう1通は、「シスターMが天に召され、少々さみしく存じます」と1行記してあった。シスターMといえば、私には思い当たる事がある。「ああ、そうか?」と自著「ドキュメント・キリスト信者」を開いた。「ねこ同居」の題で載っている。古い以前の記事だが、歳老いた女性を書いている。朝の目覚めから、着物を着て、家庭祭壇で亡き主人の写真に祈る。次に雨戸を開けると、朝陽が差してくる。愛猫のチャムが寄って来る。そこから彼女の一日が始まる。子供は男1人、女4人居た。息子は終戦直後、若くして結核で亡くなった。病床で洗礼を受ける。女性が洗礼を受けたとき、三女を身ごもっていた。この子が、もし女なら、「マリア」と名づけたい。当時は、そういう名前は付けなかった。それに近い「M子」とつけた。その子がシスターの道に進むことになる。天に召されたのは、そのシスターであろう。
★歳老いた女性の生き甲斐は、毎日の新聞を丹念に読んで、「愛の話題」を見つける作業であった。切り取って集めて、カトリックの「愛」誌に送った。愛誌は季刊誌だが、32号にわたって載っている。殺伐とした時代に「愛の話題」を載せたのは、愛誌の特徴とさえなった。私は、記事を書くため、その女性に会いに行った。シスターMの話も聞いた。愛の話題も時代と共に変わってきたと言っていた。
★物資欠乏の時代は、物や金銭の寄付は歓迎された。世の中が豊かになると、やがてシラケの時代になり、心が尊重される。植木屋が、選定の木に小鳥が巣を作ったが、切るべきか、切らざるべきか、心は揺れる、そんな話も好まれた。
★愛は神の心で慈しむもの、愛の話題は忘れてしまった「心」を取り戻すことといえよう。歳老いた女性は、10年後、神に召された。15日目に愛猫チャムも死んだ。

2018年1月13日土曜日

ボケないように手を足を動かせ。自己でガンバレ

月に1度、「コーラス」がある。コーラスと言っても、皆んなで、声を合わせて、美声を張り上げる歌ではない。20人ほどが参加している。必ず、「タオルを持って来てください」と言われる。先ずは、「今日は、何月何日ですか?」から始まる。余り日にちは気にしていないので、とっさに、出ない時もある。次いで、タオルを使って、軽くカラダを動かす。タオルを両脇から鷲づかみにしたり、大きく開いて舞わしたり、これが結構、運動になる。「海は広いな」とか、「もし、もし、亀よ」とか歌いながらリズムに合わせて動作を行なう。これが老人にはタメになる。半ば頃、ヤクルトが配られる。水分補給だ。細かい心遣いもある。最後は、「幸福ですか?」の問いかけか、「ハァーイ」の返事。「幸せなら」の歌が唄われ、手、肩をたたき、足をならし、そして隣の人と手をつなぐ。これが笑を誘うのだ。認知症、ボケにならないように、自己鞭撻も必要だ。行動や歌は幼稚に思えるが、何のその、必ず参加している。
★今日は午後から、歯医者さんへ出かける。帰りは遅くなるでしょう。

2018年1月12日金曜日

遅まきながら「書初め」。平和なホームの生活です

「書道」の日。遅まきながら、書初めです。わざわざ女性の先生が来て下さるのに、習う者が少ない。男2人に、女性2人が参加した。他に高原修道士も加わった。男性の1人は、小学校の時から「書き方」は好きだった、と見事な墨字を書いている。書くのを楽しみにしている。何でも進んで取り組む事があれば幸せだ。私は、「百壽」や「大寒」などを書いた。「せり、なづな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七草」と手本通りに書いて、七草を覚えました。書道は10時からです。朝食が終わると、直ぐに入浴をした。午後からはベッドで休む。安らかなホームの生活です。争いもない。故・中島神父さまが使っていたマットは、夜、寝るとき、電気毛布がなくても、今年は温かい。
★昨夜、昌子さんから「フランス語の訳」について電話があった。何とか、うまく、行くらしいです。期待しています。ジャムさん、待っててね。

2018年1月11日木曜日

田舎ぜんざい、食べて、ホームで暮らす幸せ味わう


テレビでは、シベリアから今年初めての寒波が下り、東北地方は、1m、2mの大雪が降った。長崎地方も「雪」の情報は流れていたが、ごらんの通り、ホームの窓から見ると、各屋根に、白い粉のような雪がパラパラと降っている状態でした。陽が登ると、解けてしまった。
★今日は「鏡もち開き」だそうで、ホームの昼食に、「田舎ぜんざい」が出た。「ぜんざい」なんか、中々食べないので、お替りをした。他に、焼きうどん、たくわん、があった。お正月も、これで終わるか。ホームで暮らす幸せを味わう。

2018年1月10日水曜日

「トマさんのことば」。フランス語版が出来るか?

昨年の夏、7月の終わり、フランスから1人の男性がやって来た。ジャム・ブリュノさん、47歳。トゥールースに住んでいる。ルルドに近い都市だ。「なぜ、わざわざ訪ねて来たの?」「3年前、夏休みに、聖コルベ館へ行った。小崎さんは丁度、出かけるところでした。それでも短い時間でしたが、冷たい飲み物を一杯下さった。その後、ホームに入ったとブログで読んだ。お祈りして、今回の長崎の旅で恩返しをしようと来ました」
★職業はエンジニア。仕事の都合で、3年間、4年間と、日本で暮らしている。奥さんは日本人。2人の子供も居る。奥さんが難病に罹って、2012年7月に、50歳で神に召された。それから生き方、考え方が変わった。「苦しみから、恵みを探すのは難しい」「教会のため、奉仕したい、それです」。ジャムさんの言葉です。彼は又、こうも言った。「聖フランシスコ・ザビエル、聖コルベは宣教に挑戦した。自分の命を捨ててまで、キリスト教を守り通した。自分の命より、死んだ後の皆さんの魂が大事です。生きている人と死んだ人と、つなげている。小崎さんの『長崎のコルベ神父』『信仰の出会い旅』を読みました」。仕事柄、各国を周っている。「世界を回って、人と出会う。心と、心を、つなぐ」「つなぐためには、何が必要ですか?」。即座に答えた。「エガオ、ですね。笑顔は心の窓口です。笑顔になるには、心の余裕が必要です」。別れに、「トマさんのことば」を贈呈した。
★笑顔を残したジャムさんは、その後、小瓶に入ったルルドのお水を送ってきたが、この度、フランスで「トマさんのことば」を出したいと、フランス語の訳文を送ってきた。A4に6ページ。完全な訳文にしたい、と書かれていた。私は、日本人のためのルルド案内専門のガイドさん、昌子さんを知っているので、訳文を送って相談してみた。昌子さんのフランス語の先生に、フランス人が居るので、先生に相談してみましょう、との返事を得た。「ジャムさん、今日、あなたに手紙を送りました。1週間程で着くでしょう。完全な訳文に仕上げましょう」
★何か、今年も、いいことが、起こりそうな気持ちがする。

2018年1月9日火曜日

「9」の日は両親のためミサで祈ると瀧神父さま

父の写真です。これ1枚しかない。今朝、朝食の時、瀧神父さまが食卓に来た折をみて、「今朝は、ありがとう」と礼を述べた。「9」の日には、ミサの意向で、トマの両親のため祈ってあげるからな、と以前、言っていた。「お父さん、お母さんの名前は、何だったかね」「トマ・松吉、クララ・ワサ」。父は、3月に病死し、母は8月に原爆死する。「同じ、9の日って、ふしぎだよね」。父は昭和10年、46歳。母は昭和20年、45歳の人生だった。
★以前は、カトリック教会では、亡くなった煉獄の霊魂のため、本当に沢山の祈りを捧げていた。犯した罪は赦されても、ツグナイ(償い)がある。これが消えるまで、魂は煉獄の苦しみを味わっている、そう教えられて、死者の霊魂のため祈っていた。また死者の霊魂の救いのために、司祭にミサをお願いして、ミサで意向を立てて、お祈りを捧げて戴いていた。「煉獄の霊魂を助ける修道女会」まで有ったほどだった。今は、煉獄のことは殆ど語られない。死者と私たちは、つながっている。それは教会の教えです。
★亡くなった死者にため、忘れずに祈りたい。浦上信者の老いた女性は、つぶやいた。「生かされているからには、死者のため祈るのは、勤めタイ」

2018年1月8日月曜日

3年前に来た女性が、フィンランド男性とホームへ


人の人生、環境、生き方は、3年も経てば、ずい分と変わるものですね。この度の出会いは本当にオドロキでした。左は、3年前、2015年4月に、ホームに突然、レンタカーで訪ねて来た直美さんです。鹿児島に住んでいる。東京で、大学を出て、就職もしたが、精神的に前に進めなくなった。その時、出会ったのが聖書で、パウロの言葉でした。洗礼前に、長崎・教会巡りのツアーに参加した。聖母の騎士のルルドに感動する。今度は、長崎・一人旅。トマさんの本を手にして、長崎・五島・ポーランドへも出かける。もちろん一人旅。「エライなァ」と感心した。「苦しみの吐け口は、マリアさま。イエスさま。全部、話します。両親に言わないことも、ご像に向かって話します。信仰、あった時、違った。イエス、マリアが、いつもソバに居てくださる。神の愛、好きになった」。直美さんに出会ってから半年が過ぎた。「結婚しました」と、しかも「フインランド」から手紙が来て、又ビックリしました。
★そして、2日前です。午後、教会で共同でロザリオを祈っていると、事務長さんがソバに来て、ささやいた。「フィンランドからのお客さんです。大勢、来ています」。それが右側の写真です。赤いセーターが直美さん。その隣、背が高い男性がダンナさん。フィンランド人。直美さんの鹿児島の両親。瀧神父さまも。同行の若い女性も。応接間で話は尽きなかった。メールのやり取りで結婚へ。思い切った人生を選んだ、若いって、いいなァ、と羨ましくなった。フィンランドは人口500万人(聞き違いか?)。戦争の無い国かと思ったら、ドイツ、ロシアに攻められた歴史もある。会話も夢のような話だった。
★とにかく、ビックリ仰天の直美さんの生き方、それを愛で取り巻く皆さんでした。心温まる日となりました。

2018年1月7日日曜日

天草の話。昔、ホームには、由緒ある女性が居た

長崎・聖コルベ館を出て、ホームで4回目の正月を迎えているのに、聖コルベ館へ年賀状が届く。その年賀状を手にして、大野神父さまが自室に来た。10枚程あった。滝神父さまの分も一束あった。大野神父さまは、聖母の騎士修道院で、修道会の修練長を勤めている。私の部屋を見回しながら、「母も、(県外の)ホームで生活している。元気で、92歳になる。1月に誕生日がくる」と言った。「ところで、コルベ師の映画、見ました?」「いや、丁度、その時、天草の巡礼に行っていた」「それは残念でした」「天草の教会巡りは良かったよ」。スマホで写真の数々を見せてくれた。私にとって天草は親しみのある懐かしい土地だった。大野神父さまは長居をせずに、瀧神父さまの部屋へ行った。短い時間で、お別れした。
★天草に付いて、少し書きたいと思う。1957年・昭和32年、当時の聖フランシスコ園に、山野キマさん(78歳・旧姓三宅)が入居していた。キマさんが言うには、自分は明智光秀の13代目と自称する。光秀の家臣に、安田佐兵衛が居て、光秀が滅亡した後、佐兵衛は秘かにガラシアの弟、左馬介を伴い、九州に逃れた。その一子が三宅藤兵衛で、彼は出世して天草富岡城の番代となる。三宅藤兵衛は、島原の乱の際、天草四郎軍が攻めて来て、本渡で合戦となり、戦死した。藤兵衛の子孫は、その後、熊本本家と、島原移住の2つに分かれたが、キマさんは島原移住の子孫で、旧姓は三宅で医師の家で生まれた。彼女の持っている系図も見せてくれた。
★キマさんはホームで静かに生活しているが、長崎・シスターの学校で学び、看護学校、師範学校でも学び、日露戦争では看護婦で従軍も果たした。その後は女学校の教師も勤める。結婚して、山野の姓に変わった。秘めた生活をした人がホームでは暮らしている。
★私は、昭和32年8月に、キマさんの話を元に、天草に旅をして、三宅藤兵衛の墓参をした。本渡には「殉教戦激闘之地」の碑が立っていた。近くの店で「天草四郎おこし」を売っていた。あの頃は、終戦12年目頃だから、時代は古く、有名なガル二エ神父の、賄いをした「茂助」の養子、森口等さんにも会えた。切支丹遺物を持っている山下さんにも会った。大江には地蔵が多く、天草の乱時代の庄屋の家も残っていた。あの人たちは、今も健在であろうか。

2018年1月6日土曜日

誕生会に新年会。獅子舞も出た。長崎和牛のすき焼き


待っていました、誕生会と新年会。昼食時に、一緒に祝い、盛り上りました。1月生まれは8人です。その中に、なんと、1月1日生まれの西山達也神父さまが居られます。「ハッピーバスデイ」。皆さんが歌と拍手で祝う中、山内園長神父さまが、お花とおミヤゲを持って、誕生者の所へ1人、1人、配ります。今年の誕生会のトップは西山神父さまでした。写真には写っていないが、この後、西山神父さまに喜びの笑顔が見えた。
★新年会も一緒です。出ました。例の大きな「獅子舞」の踊りが湧かせました。獅子は、ハゲ頭も、白髪アタマも、大きなお口で噛んでいく。噛まれたら、長生きできるよ。ボケなくなるよ。新年会らしい雰囲気は最高にありました。
★食事は、3組に分かれる。好みに従って、「牛肉のすき焼き」「豚肉のすき焼き」「お魚の鍋」でした。トマの隣の席に大曾神父さま。特別食。次に瀧神父さま。栄養師さんが笑顔で言った。「長崎和牛の上等ですよ」。霜降りのある牛肉でした。4人で2パック・ケースの牛肉。おいしく戴いた次第です。


2018年1月5日金曜日

笑って暮らそう。笑えば福も来る。長生きも出来る



午後の体操が終わって、食堂へ集った。「福笑い」。今年も大いに笑おうじゃないか。笑えば心も軽くなる。楽しくなる。急いだって、仕方がない。ホームはゆっくり生きる所だよ。先ずは職員が手本を示す。「こー、やって、あー、やって、マユをつける。目もつける。ホッペタは、どこかな?」。女性が上手にやった。次は瀧神父さま。神父も合わせて頑張った。上手やったよ。次は、ボク。出来具合はどうかな。うまく行かないね。それでも、ピィースだよ。
★次に職員3人で、食べるゲームをやった。椅子に座って、後ろに、もう1人。上着を被って、手を出して食べさせる。最初は、長崎有名店のカステラだよ。ゼイタクだな。その後で女性職員がカップ・ラーメンを持ってきた。これを食べさせるのには苦労していたね。緊張が解けて、笑いが起こる。そうだ、そうだ、仲良くやろう。人も、国も、仲良くなれば平和になるのに、なぜ実現しないのだろう。今年こそ、誰の心にも福をもたらしたい、そう願って、小さな集まりを終わって、教会へロザリオに行った。

2018年1月4日木曜日

白浜さんが来る。浦上四番崩れの話を語り合った

正月休みに、長崎の白浜さんが自室に来た。聖母の騎士の「ルルドのお水」10本と、ブログ(日記)をA4の紙に起こした冊子を持参する。白浜さんは、ルルドと、修道院の屋外の仕事をしている。上五島の出身で、金沢で長年、働いていた。
★今日の話しは、「浦上の信徒でも、『浦上四番崩れ』を知らない者がいる。残念だ」から始まった。白浜さんによると、金沢は加賀百万石で、526人の浦上信徒が流配された。現地で食料不足や「はやり病い」で、105人が亡くなった。この信徒達の事を忘れてはならぬ。金沢に殉愛キリスト教の牧師さんが居て、熱心に高山右近を研究し、教会内に資料館も作っている。牧師さんは聖コルベ館にも、7、8人の信徒と共に、見学に来た。こんな感心な人もいる。
★確かに、こられの先祖達の殉教の話は、親が子どもに伝えて行かねばならない。私が始めて浦上受難の記事を書いたのは、1957年・昭和32年8月、戦争が終わって12年後だった。この時、86年前にさかのぼる、とある。3413人が流された。その年の5月26日に、流配記念祭があったが、男子1人(84)、女子3人(92)(88)(87)の4人が生存していた。私はその信徒たちを写真に撮った。名前も分かっている。土佐藩、鳥取藩、紀州に流された人たちだった。現地で生まれた人かも知れない。当時は80代といえば、高齢者であった。
★私は、白浜さんに言った。「流配から帰って、何十年か、経ったとき、記念碑を浦上天主堂に建てた。それにはラテン語で『神の仕業によって、苦難を受け、帰郷できた』と書かれている。永井博士は、その精神を基本に、『神の摂理』と受け止めたのではないか。浦上の復興が、どこの被災地よりも早かった」

2018年1月3日水曜日

食事会で語る。年賀状と挨拶の話。盛り上がった

修道院での新年・夕食会です。高原修道士さんが写したので、全部で6人居ります。ワインで乾杯、サシミ、すき焼きでお祝いした。食べながら、私は、「教区の大山神父さまから年賀状をもらった。教区の神父さまから貰ったのは初めてだったよ。大山神父さまは今、黒島教会に転任している」と言うと、黒島出身の山内園長神父さまは「オー、そうか、よかったな」と、凄く盛り上って喜んでいた。話題は大山神父さまに及んだ。信仰・司牧に熱心な神父さまで、在世フランシスコ会員でもある。高校生のため問答式の要理の本を書いた。「あれは、いいね」「あのような問答式の説明は、信徒のために必要だ」など言葉が出た。大山神父さまは、黒島の前は黒崎教会にお勤めで、私の出身の教会でもあり、私の誓願金祝を黒崎教会でお祝いしてくださった。
★もう1つ、私は皆さんに知らせる事があった。大晦日の夜、自室の戸を「トン、トン」と叩く者がいる。「どうぞ」と言って、戸を開くと、隣の部屋の男性さんが、「今年は色々お世話になりました」と挨拶された。私は、びっくりして座っていた椅子から飛び上がって、戸に近寄って、「ご丁寧に、こちらこそ。お隣り同士だから仲良くしましょう」と、あわてて応じた。年末に、隣の人に挨拶する習慣は、これまで修道士には無かった。先を越された感じでした。すると30分ほど経つと、また「トン、トン」と戸を叩く。「どうぞ」と応じると、今度は、若い男性職員さんが部屋に入って来て、(畳代わりの)ゴザに、ヒザを折って、三つ指ついて(言葉は覚えていないが)「来年もよろしく」の意味を告げた。「これにも、びっくりしたよ」と修道院の皆さんに告げると、園長さんは「ハ、ハ、ハ」と手を叩いて喜んでいた。「男性職員は、わたしの部屋にも来たよ」と瀧神父さま。元日の朝、ミサから帰るなり、隣の男性さんに元気よく「新年おめでとうございます」と大きな声で挨拶した。こころ、すっきりです。
★楽しい語りの食事会だった。ただ部屋の温度が低く、体がブルブル震えた。ホームの自室に帰ると、温かい部屋で、「いまのボクには、ホームが慣れて、いいな」と思った。

2018年1月2日火曜日

「はな・ちゃん」来たよ。夕食は隣の修道院で戴く

「はな・ちゃん、おめでとう」。ホームに勤める絵里さんが、「はな・ちゃん」を連れて来た。3月2日が誕生日です。この日が来ると、満2歳になります。毎日、保育所へ連れて行く。寂しいけれど、はな・ちゃんは喜んで、保育所に溶け込んでいます。保育所はホームから車で3分。迎えに行くと、持っていた人形、オモチャとお別れして、お母さんの処へ飛んでくるそうです。ホームの事は、「ジィージ。バァーバ」。確かに、爺さん、婆さんです。はな・ちゃんが育つのが楽しみです。「育つ」というのは、それだけ当方が歳を取っていくということです。
★朝食がすむと、直ぐ入浴した。初風呂になる。その後、教会で、昨日亡くなった女性の葬儀と告別式があった。山内園長神父さまは、「11年勤めるが、お正月にお通夜で、お葬式をしたのは今回が初めてだった。23年、ホームに入居して、女性は家族同然だった。神さまのお恵みを感じる」と話した。ホームで逝くのは本当に幸せだと思う。
★夕食は、隣の修道院の会食に呼ばれている。瀧神父さまと一緒に参加する。6時から教会の祈りを修道者で唱えて、それから食堂へ行きます。楽しい夕食になるでしょう。新年会です。

2018年1月1日月曜日

新年・平成30年・2018年・戌年。おめでとう

新年おめでとうございます。元日。教会では「神の母・聖マリアの祭日」であります。また「平和祈願の日」でもあります。
★いつもの通り、4時40分に起きました。身なりを整えて、廊下から屋外へ出ると、15夜らしい見事な月が山に落ちかかっていました。5時40分から「教会の朝の祈り」が全員で始まり、6時からミサでした。司祭から「マリアさまを通しての平和」のお説教がありました。テレビを見ても、今は真剣に平和を願う時です。
★ミサを終わって、ホームの廊下を通ると、部屋の前に数人の職員が居て、「いま、93歳の信者女性が神に召された」と教えられた。元日に亡くなる女性も居ります。70歳の時に、上五島から入居して、23年、ホームでの生活でした。入所当時は勿論お元気で、農作業などもされていた、と聞きました。元日に、神の母聖マリアの祭日に神に召されるのは、喜びでしょう。
★初日の出は見れるか、と窓から海を眺めると、海の上に灰色の厚い帯が伸びていました。海から上がる初日の出は見られない、と写真に撮るのは諦めました。
★10時から、ホームの利用者のための新年のミサが行なわれました。ホーム外の信徒も大勢祈りました。ミサが終わって写した写真です。毎年、この場で写しております。
★11時30分から新年の昼食(お祝いの会食)がありました。全員が集り、「君が代」を歌い、「年の初め」を2番まで歌いました。皆さんは、この2つの歌で育ち、大人になり、苦労した「背中に大きく通った柱」のような歌です。お屠蘇を戴いて、お雑煮を食べた。これが午前中の出来事でした。
★午後、しばらくベッドに休んだ後、パソコンに向かいました。皆さま、今年もよろしくお願いします。いま、アナウンスがありました。「3時から、教会で、お通夜を行ないます」。それでは教会へ参ります。祈ります。