2018年6月21日木曜日

「はな」ちゃん、来る。こんなに育ち可愛くなったよ

「はな」ちゃん、覚えていますか。昨年の10月に載せた。それ以来です。ホームの職員、絵里さんの長女。絵里さんは北海道の出身。高校卒業後、何かに導かれるように、長崎へ。18歳でホームの職員となった。21年前です。3年前に、湯江教会で結婚式を挙げた。皆さんから祝福された。日記にも載せました。平成28年3月2日に、はなチャンが生まれる。「こんなに成長しました」。満2歳と4ヶ月になる。
★子どもの成長って早いね。「はな」という名前が、優しくて、いいね。呼びやすいし、書きやすい。ホームで幼児の声や動作を見ると、ホホがほころびる。
★昨夕、夕食後、自室でくつろいでいると、「はなが、来たよ」と絵里さんが連れてきた。「おお、来たか。待っとったぞ」。はなチャンは、広い廊下をゲンキよく走り回る。先日、磨きをかけて、ワックスを塗ったばかりの廊下だからね。子どもの「アンヨ」には、冷たくて、心地よいのだろう。「こっち、来なさい」。こないんだよ、な。目が輝いている。夢がある。希望がある。「はな」ちゃんの成長が楽しみです。どんな女の子になるんだろうね。「はな」ちゃんも、ここは、ジイチャン、バアチャン、ばかり居て、おかしいな、と思っているんだろうね。そのうち、ここは、どこだい?ママは、どんなお仕事?しているか、わかるよね。
★今日は、2ヶ月に1度の、本会修道会4地区の合同集会があります。午後3時に出かけます。20数人位の本会の修道者が集り、祈りを唱え、お互いの地区の報告をして、夕食を共にする予定です。ホームに帰るのは、夜の9時頃でしょう。

2018年6月20日水曜日

診察日。雨の中を長崎へ。帰りの会話に、ギョギョ


定期の診察日。長崎市へ。雨が激しい日になった。梅雨前線の刺激であろう。この日の朝食は、いつも修道院でお世話になる。ホームの朝食は、8時15分からです。8時には、高原修道士さんの運転で、出発します。「朝食後のクスリを飲むのを忘れないように」と看護師さんから念を押される。湯江修道院のヨゼフ橋口修道士さんも一緒だった。降りしきる雨の中を車は走る。1時間程で、ヨゼフ・クリニックへ着いた。雨の影響か、待合室に患者さんは3,4人がいた。早々と、先ず「橋口ブラザー」と先生の大きな声で呼ばれる。橋口修道士の診察は、余談が多いと自慢する。次に、私の名前と「ブラザー」と声がかかる。診察室の壁には「聖ヨゼフ」の聖絵。コルベ神父がポーランドから持参した由緒ある聖絵で、高木先生が開院のときに贈った。今も掲げられている。クリニックは聖ヨゼフと幼いイエスに見守られている。患者も安心です。「心電図を撮りましょう」と先生。大学医学部で心臓外科専門の先生だった。お任せすれば、心臓に心配はない。「ブラザー、心臓は上等だよ」「不整脈はないですか」「大丈夫だね」。私の後で、「高原ブラザー」が呼ばれた。
★診察は早めに終わった。橋口修道士さんは用件で別行動になった。高原さんと2人、車は雨の中を走る。行きの気持ちは重いが、帰りはホッと楽になる。2人の会話もはずむ。信仰の話も出る。洗礼の話になった。「洗礼を受ける人が少ないね」「家族や、宗教の違いもあるからね」「でも進んで働きかけないと、効果は出ない」「信頼されることが必要だね」「洗礼、センレイ」と話ていると、横にトラックが追い抜き、雨にぬれたガラス窓の向こうに、なんと、トラックに「センレイ」と書いているではないか。「オイ、見ろ。センレイ、だぞ」。あたかも洗礼を勧めるかのように、タイミングよくトラックに文字が現われようとはーーしばらく「センレイ・トラック」と並んで走った。その不思議さに、2人は車の中で大笑いした次第でした。

2018年6月19日火曜日

9人の修道会員が集った。楽しい昼食と会話だった

小長井町の修道院で、昼食のご馳走があった。湯江から2台の車で出かけた。山へ向かって、10Km。樹々に囲まれて、養護施設があり、教会、修道院がある。集ったのは、9人。(小長井の3人と、湯江の6人=司祭が5人、修道士が4人)。ベルナルディノ萩原神父さん、パウリノ山下神父さん、洗礼者ヨハネ高原修道士さん、3人の修道名のお祝いのご馳走だった。修道者の経験を重ねて、話題も豊富だった。
★この修道院へ来ると、トマには昔の思い出が湧き起こってくる。2度にわたって、この修道院で暮らした。
★最初は昭和29年から11年間で、その時は療養のためだった。体が回復すると、小・中学生たちに理科や算数を教えた。男子ばかりの施設で140人が居たから、毎日が事件の連続だった。忘れないのが、夏休みに、東望の海で、小舟の漕ぎ方を教えた。山の中の環境だから、退屈になった4,5人が、一団となって施設を抜け出し、海辺の町に下りて、小舟を盗んだ。有明海に乗り出し、海上で御用となった事件もあった。あの頃は「自分で生きる」迫力に満ちた子どもが多かった。
★次は、昭和60年から6年間であった。施設の中に私立の小・中学校があって、毎日、学校に勤務した。小学校に児童50人、中学校に生徒50人が居て、賑やかだった。山の空気が澄んでいて、森の精気があったのだろう。1日も休まない。健康に恵まれた。町の小学校4校の合同運動会で、投げる競技で記録をつくったり、走る競技で一等になったり、全国作文では建設大臣賞になったり、子ども達の間に、楽しい思い出が沢山できた。中学生の女子は郡の合同バレーボール大会で活躍した。
★今は施設は静かな、たたずまいを見せている。子どもの人数も少ないという。樹木だけが生い茂っている。おナカは満腹になり、胸には清らかな空気をいっぱいに吸って、山を去った。

2018年6月18日月曜日

いよいよ小学校で原爆・語り部の出番が来るか

「車で、40分、かかりました」と、飯盛西小学校の女性の先生が、お1人で来られた。小学校では「平和学習」の担当をしておられる。ホームの応接室で、運転の高原修道士さんも同席して聞いた。
★先生の説明によれば、この小学校では、6月の最後の週を、平和学習に当てている。26日、火曜日の午前中に、児童たちに、「原爆の語り部をお願い出来ませんでしょうか」と申し込まれた。興味は「どうして私の事を知ったのですか」である。昨年、湯江小学校で、語り部を努められたでしょう。その時、話を聞かれた男性・先生が、飯盛西小学校に転任されて、知りました、の返事だった。
★昨年の湯江小学校が、最後の語り部になると思ったのに、こうしてご縁をつないで下さるのは有り難い。1年が経って、やはり体力というか、口元のガク・リョクというか、劣っているのは確かです。それでも声がかかるのは有り難い事です。頑張りますと、引き受けました。
★原爆の体験者で語り部を努める人は、90歳以上は、もう殆ど居ない。このまま核兵器の恐怖を忘れ去っていいのか。今の核兵器は、私が体験し、見て、感じた、すさまじい威力よりも、何十倍も、何百倍も増加している。もし核兵器が爆発したら、人類はどうなるか。その恐ろしさを後世に伝えて、反対して行かねばならぬ。
★子ども達の心に、小さな灯かりが点もれば、幸いです。題は、「助ける心、困難が来ても逃げない心、赦す心」。これらの心が、学校に広がれば、集落に広がれば、都市に広がれば、日本に、世界に広がれば、地球に平和は来るでしょう。心は大きく持ちましょう。
★平和の原点は「人の痛みを分かる心を持つこと」にあります。
★今日の日記の書き込みは夕食後になり、遅くなりました。

2018年6月17日日曜日

父の日、父を想う日。北朝鮮に父の墓。墓参は不可

今朝の日の出です。ミサへ行こうと、自室を出たとき、廊下から、丁度、素晴らしい日の出を見ました。5時20分頃でした。日曜日のミサで、司祭が「父の日」でもあるのを告げました。家族の父親、天の御父の事にも触れました。
★今日は自分の父親の事を考えました。「とうちゃん、なんで、早よー死んだと」。小1で、7歳のとき、父は出稼ぎの地、北朝鮮・羅津で病死した。46歳でした。朝鮮の墓は、お椀を伏せたように土を盛るのです。今、あの墓が、どうなっているのか、分かりません。戦後1度はお参りに行きたかった。叶いませんでした。
★父親の名前は、松吉。霊名は、トマ。明治22年7月25日、外海・黒崎村で生まれた。貧しい農家の3男でした。電気はなく、吊り下げる石油ランプの家は上等の方で、一般は『ことぼし』という灯火の生活でした。『ことぼし』とは、細長い木の上に灯油のカンを乗せた灯です。電気が点いたのは戦後でした。長男だけを家に残して、次男、3男、4男は北朝鮮へ出稼ぎに行く。
★浦上出身の母と、どうして縁があったのか。黒崎の父の姉が、隣の男性と結婚して、出稼ぎへ朝鮮(韓国)で商売をしていた。母の方も、姉が結婚して、夫妻で朝鮮(韓国)で商売をしていた。母は、結婚前に、その家に子守の手伝いへ行っていた。父、松吉は、その縁で、見合いに朝鮮へ出かけた。「朝鮮へ見合いに行って、相手は目の細い女だった」という話が、黒崎の家に残っていた。確かに母は、目が細く、丸い顔をしていた。
★父、松吉と、母、ワサは、大正15年(1926年)3月13日に結婚した。父は、37歳。母は、26歳。11歳も年の差があった。結婚式を挙げた頃の写真が1枚残っています。父親の写真は、これ1枚しかない。母が立っており、父が座っている。父は足に少しばかりの障害があったそうです。父親の死後、母親は苦労した。10年後、その母親も、故郷の浦上で、原爆で行方不明となった。45歳でした。父親の遺骨もない。母親の遺骨もない。外海・黒崎の墓には、この1枚の写真を納めています。
★90歳になったトマは、父親トマ松吉に言いたい。「なぜ、とうちゃんは、はよー死んだとね。とうちゃんの思い出、なんーも、なかよ。サビしかバイ。とうちゃんから、なーんも教えてもらわん、やった。かなしかバイ。それでも、北朝鮮の墓に眠って、とうちゃんもサビしかろう。かわいそうや、ね。祈りは忘れません」

2018年6月16日土曜日

父の日の集い。優しいお父さん。女性職員たちの熱演


父の日の集い。皆さんが食堂に集まる。全員で「バラが、咲いた。真っ赤なバラが」を歌った。飲み物と、ミルキー・クリーム・パンを食べて、次に期待し楽しみにしているのが、(母の日は、男子職員の演技だったが)、父の日は、女性職員の出番でした。演目は「6人の放蕩ムスメ」。聖書の「放蕩息子」から取った。父の日ですから、お父さんの物語です。黒メガネがお父さん。お腹が大きい。お金持ち。「6人も女の子が居るが、ヨメにも行かず困ったモンよ」。優しいお父さんは、6人のムスメに大金をくれて、旅に出した。帰ってきた6人は、スッカラ、カン。ボーっとして、お金を失う。オレオレ・サギに会う。イケメン男と遊ぶ。ハラ・ペコになって食べないが、痩せないよ。様々な理由を抱えて、お父さんの元へ戻って来た。優しいお父さんは抱きかかえて赦してあげるンですね。ここで拍手喝采だよ。「お父さんの愛に支えられ、過去のアヤマチは何度でも赦され、心も元気になっていくのです」との解説で締めくくられた。人は何度も過ちを犯すが、父なる神さまは「7度を70倍するまで赦してくださる」。赦されて、立ち上がって、前へ、神さまの方へ進むのです。最後に男性だけに、お花をもらった。小さなカードもあった。名詞の大きさで、黄色いリボンで結ばれ、周囲の飾りの中に、2行の字が書かれていた。「きょうは素直に、ありがとう」

2018年6月15日金曜日

レーザー治療、イッパツで見える。感動の日だった

昨夕、丁度、夕食の時でした。食卓の傍に、看護師さん、栄養師さん、高原修道士が(屋外)に居た。その時に、事務所の職員が、毎月、ホームで診てもらっている女医さんから、「まつお眼科」への紹介状が届いた。「これは幸いだ。早い方が、いい」。今日、診察に行くことに、看護師さんと高原修道士さんと話が決まった。
★「まつお眼科」は患者さんが多い。診療開始の9時には、4、50人の患者さんで待合室は満席です。栄養師さんが、早朝に、順番表に、私の名前を書いてくれるという。今朝、ミサ後、自室に、スピーカーが知らせた。「順番は、4番です」。8時過ぎの朝食が終わって、高原修道士さんが車で「まつお眼科」へ。着いたのは9時だった。もう47番目まで名前が連なっていた。私の名前は、4番目にあった。
★初診なので、1枚の紙に、状況を書いた。しばらく待つと、視力検査、眼底検査を終わり、順調よく診察室に呼ばれた。「7年前に、両眼の白内障の手術をしました。最近、左の目がカスンで、よく見えません。本が読めません」。真っ白の髪の多い先生。「長崎は、どこですか?」「本河内です。聖母の騎士です」「山手の方ですね。行ったことが、あります。○○神父さん」と言ったが、その名前の司祭は居ない。黙って頷いた。「レーザーで治療しましょう」。(え?もう、するの?)内心、ちょっと驚いた。しばらく待合室で待っていた。看護師さんが、2度、点眼にくる。別の部屋へ導かれる。目を診る機械が並んでいた。奥の席で待っていた。白髪先生が来られて、「浦上は、どこですか?わたしは山里小学校の近くです」「え?私は山里小学校の門の前ですよ」。(なんで、こんな話になるんだろう?)。レーザーの治療が始まった。赤い線が走る。「ボリ、ボリ」と音がした。なにか網を切っている感じだった。2分ほどで終了した。「1週間後に、診せに来てください」「目薬は?」「いま使っている薬で、いいです」
★11時に、「まつお眼科」を車で出発した。車内から、左目を閉じて、風景を見る。「おお、カスミは取れているぞ。目は元に戻ったぞ。神に感謝」。新聞の題字も、見えなかったのに、題字は勿論、文章の活字も読めるようになった。「こんな事って、あるんだな」。感動したよ。昼食のとき、看護師さんが食卓に来た。報告すると、喜んでくれた。栄養師さんが女性職員さんに連絡して、その人が「番取り」に行ってくれたそうです。高原修道士さん、看護師さん、栄養師さん、番取りの女性職員さん、ありがとう。皆さんのお陰で、スムーズに行きました。
★こうして半日で、右のカスミは取れて癒されました。グット、デイ、でした。

2018年6月14日木曜日

落ち込んだ時に受けたアドバイス。ヒトリ、これ大事

苦境にあって、自らの人生を振り返ったとき、「あれを成した」「これを果たした」。それらの自慢が、なんと、ツマラヌものなのか。実は、なにも成してはいない。苦労して働いた日々は、沢山のアワに思えた。ニンゲン、なんの功績があるか。誇れる実りがあるか。霊的にも落ち込んだ。
★あるとき、私はふと思い直した。「私が働いたのではなく、神さまの恵みが働いた。神さま、バンザイ。神さまに感謝。それで、いい」。我は、無益のシモベなり。
★その折だった。私にアドバイスした長崎出身の司祭がいる。司祭の言葉が、私に生きるチカラ、希望を与えた。その言葉が、次のような件(くだり)だった。「神さまから『イノチ』を戴いて、神さまに生かされて、神さまにお返しする。弱さも、あったろう。自分の無も知る。ひとえに、すべては神の恵みだったことを知る。神さまは、トマさんに存在を与えた。神さまは、トマさんを通じて、(沢山、書いているでしょう)、他の人に恵みを与えた。弱さはあったにしても、神さまは、この人との目的があった。神さまは、賢い。沢山、ニンゲンが居る中で、トマさん、ヒトリ、(この、ヒトリ、が大切だよ)、見つめておられる。トマさんも、ヒトリで、神さまを見つめる。神さまに呼びかけて、助けを求め、自分が無であることを、告げてください」
★落ち込んだ時、生きれる言葉になった。ありがとう、神父さん。聖書に曰く、「神の恵みによって、今日のわたしが、ある。わたしは多く働いた。しかし働いたのは、わたしではなく、神の恵みなのです。(コリント・15・10)」
★オマエの人生、オマエのもの。雨も、嵐も、贈り物。オマエが、自覚し耐えるしかない。神さま、御身は、見えませぬ。触(さわ)れませぬ。しかし、何かの霊的な、手ごたえが、苦しみを耐えることの中にある気がします。「心のうちに、愛を宿せば、宿すほど、苦しみの必要性を感じるようになるでしょう」。聖コルベの言葉を覚ゆべし。

2018年6月13日水曜日

山の女子修道院のシスターの誓願60年50年祝い


ホームから車で15分。山の女子修道院がある。シスターたちが6,70人、神への奉献生活を続けている。誓願を立てて60年(ダイヤモンド祝)=6人、50年(金祝)=3人のお祝いが行なわれた。ホームから高原修道士の運転で、トマと、滝神父さん、湯江修道院の浜田神父さんが参加した。他にも司祭2人、修道士1人が居た。女子修道院の教会で、お祈りと、立・誓願者たちの「誓願を決意を新たにする文」が唱えられた。その後、集会室において、祝賀会があった。とにかくシスターたちは皆、明るいのです。笑いがあり、優しさがあり、手作りの料理、ご馳走で、和やかに、感謝しながら祝いました。これだけの大勢のシスターを見るのも珍しいです。60年、50年と、苦労して来られたシスターたち、本当によく頑張って来られました。人生には、いろんな生き方があるでしょう。だがシスターたちは家族も青春も総てを残して、神に奉献する生活を望み、果たしているのです。幾つもの大きな福祉施設を経営しているので、施設で働いている。祈り、働け、です。ポーランド人3人、韓国人2人、ベトナム人2人も含まれていて、歌も披露された。「ウサギと大黒さま」の小劇や、外海・出津の「わらべ歌」も紹介された。最後は皆で輪になって、歌い、踊りながら、廻りました。皆さんの心は、神さまにおいて、マリアさまにおいて1つです。楽しい、ひと時を過ごし、満たされ、自分も励まなくては、と心に新たに誓いました。こういう雰囲気は、ここにしか無いですね。信じる者は幸いなり。

2018年6月12日火曜日

右目に、レーザー治療が必要です、と眼科の女医さん


最近、右の目がカスムようになった。視力が落ちている。目については心配になる。毎月、ホームには眼科の女医先生が診察に見えている。その度に診てもらっている。「3月に来られたが、また視力の検査に来なさい」と言われた。高原修道士さんの運転で、諫早市内の女医先生の医院へ出かけた。視力の検査、眼底の検査、眼圧の検査、ホームでは検査が出来ない目の内部のフラッシュ焚いての検査、薬を時間を置いて点眼しての検査など、時間をかけて丁寧に診てくださった。7年前に、左右の白内障の手術をしたが、右の目にカスミがかかっている。レーザーの治療が必要、ここでは出来ない、他の眼科に紹介状を書きます、と言われた。レーザーを掛けると、治癒するそうです。
★眼科医院で遅くなり、正午ちかくになった。ホームに電話して、昼食を断った。ホームに帰る途中に、小さな食事処がある。「コーヒー・ショップ」。かわいい家だ。いつもと通る道すがらだが、1度も入ったことはない。高原さんは入ったという。ホームの職員も時々利用するという。それではと、入った次第です。ハンバーグ定食を注文した。窓から、「白いカモメ」特急が一瞬、走り抜けるのが見えた。「白い、はずなのに、胴体に何か書いてある?」。高原さんの説明。長崎サッカーの応援の色彩らしい。

2018年6月11日月曜日

理髪屋さんから語り部、ボケのテストまで、まだOK

ホームに、2ヶ月に1度、夫妻で理髪屋さんがくる。髪を切り、さっぱりするのは楽しみでもある。希望者は15,6人はいる。朝食のときに、事務職員から順番を告げられる。「なんと、1バンだった。初めてだよ」。ビックリ。やっぱり最初とは、嬉しいね。先月まで「お父さん」の3人で理髪していたが、[お父さん」は89歳。さすがに、来なかった。
★トマは、いつもダンナさん。会話をするうち、ダンナさんの子供の頃の友達が、湯江小学校の校長先生という縁で、声を掛けてもらって、昨年の今頃は、湯江小学校で、原爆体験の語り部を努めた。今日は、ダンナさんに言ったよ。「お陰で、今年は、飯盛(いいもり)西小学校(車で45分は離れている)から、語り部のお願いがあった。6月の末に実施します。湯江小の先生が、飯盛西小に転任したのか、飯盛西小の先生が湯江小に来たのか、何かの『連携』があったのでしょう。これも理髪屋・ダンナさんのお陰です」とお礼を言った。「それは、よかったですね」。喜んでくれた。求められれば、チカラ有る限り尽くしたい。
★だが、89歳の語り部の気力と、90歳の元気とは、やはり違いますね。45分、立って話せるかな?声が十分に出るか?の心配もあります。廊下で、すれ違いにA看護師さんから「アタマの体操しますから」と、いきなり言われた。「100から3引いて、野菜の名前10個言って」の、あれですよ。「ちょっと、待ってよ。この次にね」とその場を逃げた。こっそり野菜の名前を暗記した。大根、人参、カボチャ、さつま芋、サトイモ、トマト、キュウリ等々。スラ、スラ、言えるように覚えた。2,3日経って、B看護師さんに急に医務室に呼び込まれた。早速、始まった。「歳は何歳?今日は、何年何月何日、何曜日?ここは何処か?3つの数字、反対に言え。5つの数字、反対に言え。野菜の名前を言え(さあ、きたぞ。アタマに整理していた名前を一気にペラ、ペラ答えた)。看護師さん、びっくり。次は、梅、犬、自動車、後で聞きますよ。100-7=?、また7引く。最後は、箱に小物を5つ入れる。フタをして、ハイ、答えなさい」
★ぜんーぶ、できました。マンテン、でした。まだ、ボケて、いません。語り部は十分出来るぞ、と気合を入れています。

2018年6月10日日曜日

廊下、ピカ、ピカ。心も、貧しさで、ピカ、ピカなれ


日曜日に、男子の職員が7、8人、総出で、ホームの床の清掃を行なっている。「ウン、ウン」と音がする床磨き機、汚れを拭き取って、ワックスを塗る。扇風機で乾かす。「ホームを奇麗にしたい」、一念からの作業です。1階の床と、私の前の廊下、3階を丹念に磨いた。2階は先日行なった。「ご苦労さま」。本当に、ピカ、ピカになりました。業者に頼めば、相当な金額がかかるでしょう。少しでも費用を浮かしたい。床がピカ、ピカに輝けば、暮らす人の気持ちも安らかになるし、来客があっても、その美しい廊下、環境に感動するでしょう。これもホームの皆さんの為を思っての作業です。歩きながら感謝しています。
★朝食が終わる頃、食堂に長崎の白浜さんが訪ねてきた。ルルドの水10本と、日記をA4の紙に起こした1か月分を持ってくる。「長崎・修道院で、10時半から、召命の集いがある」と言って、早々に帰った。召命の集いとは、毎年、いま時、市内の信徒(在世フランシスコ会・騎士会)が聖母の騎士に集って、修道会・本会の志願院の学生たちを励ます集会です。何十年も続いている。目指すはフランシスコ会の修道士になるか、司祭の道に進むか、「貧しく生きる」のが、本会の、神さまの召命へ招きです。
★以前に、簡素な生活をし、清貧の生き方を追求した作家に(故人)中野幸次さんがいた。著書「清貧の生きかた」(1993年・筑摩書房刊)の編者で、その中に、私の「長崎のコルベ神父」の一章、「清貧との出会い」を収録させていただいた。その彼が次のように言っている。「ものがあっても、心は満たされない。大事なことは、人が見ていようが、見ていなくても、自分で律していく。自分が正しいと信じた道をゆく。人の目は気にしない。もっと単純な生活、シンプル・ライフ、ものを持たないが、心豊かに内容のある生き方、それが清貧の原理です」
★心も、貧しさの中で、真の貴重な宝を発見して、ピカ、ピカに輝け、ということでは、ないでしょうか。

2018年6月9日土曜日

室内で運動会。万国旗の下で、盛り上る、笑い、喜び


楽しい室内・運動会。賑やかに、子ども心になって、騒ぎ、喜び、拍手を何回もして声援しました。「お祈り」から始まって、園長神父さんの挨拶、車椅子の男子、女性による「国旗掲揚」もあった。それから競技に入る。皆さん、65人程が、赤組、黄色組に分かれた。職員も25人程、2組に分かれた。皆さんはハチ巻、職員は色別のシャツを着ていた。先ずは、パン食い競争でしょう。これは、いつも、やります。パン食いは要領がある。モタ、モタしていたら恥かしいからね。大きな口をあけて、2つ入ったパン袋を狙った。次は、団体競技で、ゴム風船の丸い輪を、次々の人に送って行く。赤組が早いか、黄色組が早く終わるか。黄色が2勝、赤は1勝だった。ホームといえども、バンザイだけは、チカラが入る。嬉しいんだね。水分補給もあって、冷たい水も配られる。職員の細かい配慮もあるわけだ。最後は、サカナ釣りです。これが中々難しい。サオの糸が長いので、サカナの丸い針金に入らない。園長神父さんも苦労していた。こうして1時間30分楽しんで、チッシュと、ポカリを貰いました。西山神父さんは赤組。瀧神父さんは、故・谷村神父さん、村山修道士さんの納骨式のため長崎へ出かけて不在でした。
★三食全部食べて、大のトイレが毎日あって、夜はよく眠って、目もメガネなしで見える。耳もよく聞こえる。自分の足で歩けるなら、それが一番の幸せです。

2018年6月8日金曜日

子供の頃は、イエスの聖心の絵が、ふしぎに思えた

イエスのみ心の祭日。長崎・聖コルベ館のコルベ神父居室の聖絵です。野々村哲さんが写した。「トマさんのことば」からの転載です。
★子供の頃、家庭祭壇に、この聖絵があった。胸に、心臓が描かれていて、痛ましく思える。長崎・浦上の、どの家庭にも、この聖絵が飾られていた。信仰を表現する印しの絵だった。
★コルベ神父は、イエスのみ心の聖絵の下に、必ず無原罪の聖母マリアのご像を置いた。「マリアを通して、イエスへ」が、コルベ神父の信念である。聖コルベ館で、この壁の配置を見ると、懐かしいというか、コルベ神父の思いが伝わってくるのを覚える。
★眼科の女医先生の診察日。右の目の視力が落ちた。カスミが、かかっている。右の目だけでは、新聞の字は読めない。壁の大きな墨字も読めない。名前を呼ばれて、診察を受ける。眼圧の検査、熊の絵を見せる検査、熊が、ぼやけて、見えずらい。女医先生の診察。「右の視力が、落ちています。カスミが、かかった状態で、字が読めません」。心配になる。幸いに、左目が健在なので、メガネなしで、聖務の字や、聖書の字は、かろうじて読める。「3月に目の検査は、しているが、また医院に来なさい」と言われた。ホームの老人たちには、目の不自由な人が多い感じがする。歳と共に、目の状態は、どうなるのだろうか。

2018年6月7日木曜日

食堂での会話から、古いメモを思い出した。魂の存在

今朝、自室の前の廊下の窓から見た「朝焼け」の風景です。梅雨というのに、この空。日中は、曇りでした。今から、ミサへ教会に行く。1日の始まりです。
★食堂で、左隣は、瀧神父さん。右隣が、入江さん。入江さんは耳が遠いので、会話が困難です。瀧神父さんと、よく話す。入江さんの機嫌も損なわないように気にしている。
★瀧神父さんが、自分のiPadから話題を提供する。「大江健三郎が、原爆被爆者の証言を残す会を立ち上げたそうだよ」「ノーベル賞の作家ですか。被爆者の年齢も老齢化しているからね」。当時、5歳、7歳の体験者が語り部を努めている。もう10年もすれば、居なくなるだろう。大江健三郎さんは何歳か知らないが、証言を残す会とは賛成です。
★大江健三郎、といえば、私は1枚の古いメモを持っている。1999.9.14。大江健三郎氏(ノーベル賞作家)が言った。「人間には、頭で考える、心で感じる、生き方の技術(テクネー)があって、それを統合する、まとめるもの、集める力がある。それが魂だ。自分は今、魂のことを考えている。魂のことをする場所を考える。今は、魂の存在が分かりにくい時代になった。若い人に聞いても、半分位が手をあげる。魂は、まとまった力で、まとまったものとして、未来に向かって押し進めていく。経済、国際、文化、連続性が有ること、一貫性が有ることを魂(タマシイ)と呼びたい。場所をつくるコムニケーション、一番重要なことに汗を流す」(日付はあるが、残念ながら出処=新聞か雑誌かラジオか、を記していない)
★我ながら、よくぞ、このメモを残していたモンだし、ノーベル賞作家は、人間の根源を見ている、考えている気がする。古いメモが役に立った日になった。

2018年6月6日水曜日

古い写真を見つけた。修道士の農作業。苦労多し頃


古い写真が見つかった。写真の裏に「1955年5月、長崎修道院の畠仕事」とあり、修道士の霊名だけが記されている。戦争が終わって、10年が経った時の修道士の労働です。場所は、ルルドへ登る坂道の左手側、現在はロザリオの玄義のレリーフが、1留、2留、3留と立っている、あの場所です。当時は畑で、農作物を作っていた。食料が不足の時代でしたからね。修道服を着たままの作業ですよ。汗と、埃まみれになり、厳しい仕事でした。
★「神さまの為に働きたい。自分を捧げたい。神さまのことが好きです」。そんな真っ直ぐな思いから10代終わりから、20代前半の若者たちが集った。気持ちは本当に最初は純粋でした。だが神に一生を捧げるのは難しい。長い人生には、迷いもあれば、疑いも起こる。それを乗り越えて人生を貫くのは、大変な勇気と忍耐と決断が入ることです。
★写真の裏に、書かれた修道士の名、1人は「ボナベンツラ」と記されている。今年の4月、ボナベンツラ修道士さんは、91歳で神に召された。ホーム「聖フランシスコ園・事務長」を勤めたこともある。幼稚園勤務で、バス運転や環境整備に尽力した。園児たちから親しまれる。「継続は宝なり」というが、神に助けられての人生であっただろう。長崎修道院には、司祭よりも修道士の数が多かった。ポーランド人の修道士も健在だった。
★私たちは、彼の事を短く「ボナさん」と呼んだ。ボナさんが召されて、修道会・日本管区(60人が居る中で)、最年長者は、大曾神父さん、91歳となり、次がトマ修道士の90歳となった。次に2人入れて、5番目が瀧神父さん(87歳)になる。
★1955年5月、写真の当時、私は何をしていただろう。修道服は着ていたが、病気療養で、小長井町の山中の修道院で暮らしていた。まだ誓願は立てていなかった。誓願を立てたのは、それから10年後の1965年3月になる。修道士だが、農作業の苦労を知らない。この写真を見ると、私は病気の苦労はあったが、楽な道だったのか。なぜか、私の心は痛む。

2018年6月5日火曜日

入用ならば、私を、使ってください。奉仕の精神です

ホームの隣、湯江教会の祭壇の生け花です。
★朝、5時半には、前の席に6人の修道者たちが音もなく座る。司祭が3人。修道士が3人。トマ修道士はその中の1人。彼らを見渡すと、なにやら心強い。朝はもう明けている。辺りは静かな雰囲気。ジッと、祭壇を見ると、心が落ち着いてくる。今朝は、しきりにウグイスがさえずっていた。なき方が、うまい。鳥も、朝から忙しい。
★今朝のミサは、初めに司祭が「ミサは谷村神父さまのため祈ります」と告げられた。アルナルド谷村達郎神父さまの死去の悲しみは大きく広がっている。故・神父さまのためミサ依頼も多く寄せられた。谷村神父さまと、ヨハネ村山安治修道士さんの遺骨は、長崎・聖母の騎士教会に安置されている。今週の土曜日、9日に納骨式があります。
★入院が近くなると、悲痛な顔をしていたが、帰ってきたら、明るい顔になった。修道服を着て、湯江教会で祈ると、また自分の中に、アシジの聖フランシスコや、コルベ神父の生き方が甦ってくる。心が燃えてくる。嬉しくなるのだ。生きる道は、これしか、ない。
★以前に読んだ雑誌に、こんな1文があった。「廊下の片隅に、チリ箱が置かれていて、『Use Me!』と、紙が貼り付けてある。『私を、使ってください』」。なんと、いい言葉じゃないですか。「入用ならば、どうぞ、ご自由に、使ってください」。奉仕の精神です。アルナルド谷村達郎神父さまは、そんな司祭だった。気安く人びとを訪ね、慰め、その人の望みを叶えてあげる司祭だった。
★自分も、今から何かのお役に立つだろうか。

2018年6月4日月曜日

自室の天井と、病室の天井は、違いますね

入院の日。病院の玄関に荷物を置いて、高原修道士さんは車を駐車場へ。木製の長い椅子に腰掛けて、彼が来るのをを待っていた。隣に老人の夫妻。妻が私に声かける。「奥さんは?」。こういう問いかけが一番困る。短く返事するのが難しい。「独り身だ」とも言えないし、「居ない」とも言いたくない。とさに出た言葉は、「相棒がー」だった。高原さんが来たので、急いで中へ入った。
★病室は6階。窓から見た町並みです。最初の日、心電図(3階)と、レントゲンの検査(1階)。A看護師は転倒を心配して、「車椅子に乗って下さい」。大事にされる。エレベーター前で待っていると、ベッドに寝かされ、頭から足先まで白い布を被せられ、7、8人の一団に出会った。「地下」の言葉が耳に入る。次の日、もっと詳しく胸を調べると、レントゲンCTを撮る。B看護師は「自分で、歩いて行きなさい」。(ずい分、違うな)。看護師によって扱いが異なる。思いやり、扱い方が違うからね。CTの前のソファーには、待っている老人男性がいた。彼が気さくに声をかけてくる。「肺が硬くなる病気。タバコも、酒も、(小指を立てて)コレも、やめられんケンな」。私は相づちを打った。(好きな事、やって、酒飲んで、タバコ吸うて、病気になって、白い布を被せられる。いい、じゃ、ないですか、それで。ジンセイ、満足なら)。冷たい反応かも知れないが、一般的に、人生って、そんなモンだと思います。だが、それに満足しない者も居る。彼が呼ばれて、CT室に入った。笑いが起こった。次に私も呼ばれて入ったが、笑いは起こらなかった。
★病院食です。軟菜食。ご飯は主ニ度炊き。サカナ、野菜、ごらんの通りです。食べやすい。
★ベッドに寝ていて、天井を見る。ホーム・自室の天井と、病室の天井とは、違いますね。病室の天井は、ナマに声をかけてくる。「生きてきた、生き甲斐?どこに、ある?」「この世に、何が残るのか?」[自分を見失うなよ」「自分の満足?、なにが満足か?」。答えは簡単には出ない。天井を見つめながら、ロザリオを唱えました。
★退院してホームに戻る。ここが我が住処(すみか)です。早速、自室にホームの看護師さんがニコニコと体温計と血圧計を持ってきた。「お疲れさま」。やっぱり看護師も違うな。安堵してか、退院の夜は、ゆっくり休みました。
★今朝は、朝食後、入浴しました。入江さんが、もう肌着をつけていた。病院では、1度だけ、処置の朝に一番フロに入れてもらった。やっぱりホームのフロは、湯船も広くて、明るくて、いいね。

2018年6月3日日曜日

入院5日目。午後、退院。ホームがヨカです

入院中にお見舞いに来られたホームの事務長・岩田さんと湯江修道院の院長・浜田神父さんです。
★午後から高原修道士さんと浜田神父さんがお迎えに来て、退院しました。久しぶりの屋外の空気を吸って、ホームに戻って来た。「おかえりなさい」。皆さんが喜んでくれた。ホームが、やっぱりヨカです。
★命を、又、半年、つなぎました。イノチは神さまのことです。お祈りして、支えて下さった皆さん、ありがとう。又、活動が始まります。生きている限り、前へ進むしかない。
★入院中、日記を書いて下さったのは、長崎の「はるみ」さんです。携帯で、日々内容を告げました。ご協力ありがとう。

2018年6月2日土曜日

入院4日目 明日退院します

★主治医の先生から許可が出ました。明日、午後1時退院します。術後の微熱も無く、ゆっくり過ごしています。ホームでは誕生会があり、出し物が観られないのが残念でした。高原さんが、長崎のビワを持参。明日、高原さんが迎えに来ます。
★短い期間で退院出来るのは幸いです。皆さんの見守りとお祈りは有難うございました。

2018年6月1日金曜日

入院3日目 無事にステント入れ替え終わる

★午前中、高原修道士さんが来る。午後から湯江修道院の院長・浜田神父様、ホームの事務長・岩田さん、湯江教会の信徒・木村明子さん、3人に見守られて安心しながら無事に痛みも無くステントの交換を終わりました。処置室に入って出る迄、約30分程掛りました。これで安堵しました。皆さんのお祈り有難うございました。

2018年5月31日木曜日

入院2日目 ステントの入れ替えは明日

★入院の夕方、主治医の先生の診察「胸のCTを撮りましょう。ステントの入れ替えは、6月1日(金)午後に行ないます」今日はCTを撮った。
★日程が早くなりそうです。明日が辛抱の日です。乗り越えれば安心でしょう。高原修道士と木村さんが見舞いに来た。

2018年5月30日水曜日

入院1日目 午前中に入院

★高原修道士の運転、付き添い、で午前中に入院。幸いに個室が与えられた。広くて明るい恵まれた部屋。今日は血液、尿、心電図、胸と腹部のレントゲンのみ。ステント入れ替えは6月4日(月)の午後。8カ月目になる。
★小川に流される「笹舟」の様に、お任せの気持ちで落ち着いています。どうぞお祈りください。
 (トマさんの代筆)

2018年5月29日火曜日

朗報です。フランス語「トマさんのことば」を出版

昨年の7月、フランスから1人の男性がホームに訪ねてきた。ジャム・ブリュノさん。ルルドの東、大きな町、トゥールーズに住んでいる。エンジニア。48歳。日本人の奥さんを難病で亡くして、人生が変わった。教会奉仕や、社会奉仕に努力している。2人の子供がいる。「なんで、ホームに?」「3年前の夏休み、聖コルベ館で出かける前の小崎さんに会った。短い出会いだったが、冷たい飲み物を一杯下さった。それで又、来ました」
★ホームで遠来の客と語り合い、ちょうど「トマさんのことば」を出版した時だったので、1冊差し上げた。
★今年になって、「トマさんのことば」をフランス語に訳して出版したい、と便りがあった。訳したフランス語の原稿が送られてきた。早速、福岡の倉田さんのフランス語の先生に見てもらい、修正して返送し、写真は騎士社から郵送した。結果を待っていました。フランス語「トマさんのことば」が送られて来ました。「ああ、日本語と、全く同じだよ」。本当に嬉しかった。実現しました。ジャムさん、ありがとう。あなたの努力に感謝します。良く出来ておりますよ。
★フランス語「トマさんのことば」5冊と、ジャムさんの便りが入っていた。「フランス語版が完成しました。出来上がったばかりの本です。200冊、印刷しました。印刷費用の募金のため、6月23日に、トゥールーズ市に住んでいる日本人とフランス人の友人のオルガニストに頼んで、チャリティのパイプ・オルガンのコンサートを催す予定です。ご参考までに、チラシを同封しました。コンサートの参加者に配る予定です。そして、ルルド市にコルベ神父さんの記念館があるので、そこに置きましょうと考えておりますが、如何でしょうか。『トマさんのことば』がフランス人の読者の心を慰める事が出来れば、嬉しいと思っております。お元気いっぱいの90歳の1年になりますように」
★ジャムさん、フランス語「トマさんのことば」を、ルルドのコルベ神父の記念館に置いてください。沢山のフランス人の目と心に留まりますように。またコンサートに協力してくださるジャムさんの親友たちに感謝致します。
★明日、朝、9時20分、ホームを高原修道士さんの車で出発し、諫早総合病院に入院します。お祈り下さい。

2018年5月28日月曜日

傾聴ボランチアの女性が来る。世の中に愛の奇特な人

「お待ちして、おりました」。愛の実践の奇特な人、傾聴ボランチアの女性が、午前中に来た。月1度、女性が来るようになって、1年が過ぎた。世の中には、苦しむ人、悩む人、癒しを待っている人の傍に寄り添って、「苦しいね」「痛いねぇ」と言葉を掛ける人は居る。だが、この女性のように「黙って聴いて、受け止めてくれる、だけの人」は、そうは居ない。セチがらい世の中だ。誰がヒマをもてあそび、人の話を根気よく聴いてくれる他者が居るんですか。無視する人は居る。説教する人は居る。イヤがる人は沢山居る。
★だが、この女性は違うんです。胸に下げたカード。傾聴の訓練を受けている。語る人の話を聞いて、その人の言葉を繰り返して聞かせる。当方、話をしている内に、「ああ、この人は、大事にして、くれる」。それが分かりました。ボランチアだから、気兼ねがない。仕事だったら、次の場所に行かなくては、ならないだろう。「傾聴=ボランチア」。2つ合わさった処に、聴いてくれる人の愛情、好意、思いやり、が感じられる。「よくぞ、傾聴ボランチアをなさって、おられますね」。時間も、交通費も自腹です。本当に感心します。自分を振り返って「オレは、傾聴ボランチアだっただろうか」の反省も起こる。
★女性に言いました。30日に入院する。ステントの入れ換え。心配です。お医者さん、看護師さんの応対も気になる。1週間の辛抱です。これは自分の宿命。生きる為に受け入れる。更に、目は、ナミダ目。良くならない。老いも感じる。だが今年一杯は頑張りたい。
★あっと言う間の、1時間半。アタマの整理も出来て、すっきり、なった。喜びが湧いた。有り難い。また来て下さい。

2018年5月27日日曜日

聖母の騎士・ルルド祭。説教は水浦征男神父


5月は聖母月。最後の日曜日には恒例の長崎・聖母の騎士の「ルルド祭」。コルベ神父から続く祭典です。最近は、先ず教会でミサが行なわれ、その後、ルルドへロザリオを唱えて登る。足の弱い人は教会内で、修道士の先唱でロザリオを唱える。お説教は水浦征男神父さんでした。ホームからも車2台が出て、瀧神父さん、トマ修道士を含む12人が参加しました。
★水浦神父さんは、先ず「聖母の騎士の祭壇を見てください。大きくマリアさまが安置され、その上に十字架のキリストさまが居られる。珍しい祭壇です。これはコルベ神父の『マリアを通してイエスへ』を示しています。今日は、コルベ神父の出版の聖母の騎士誌に就いて考えてみましょう」と、如何に苦労して出版に専念されたかを話された。長崎旅行で、マチア修道士から貰った1冊の騎士誌で、信仰に導かれた女性も居る。水浦神父さんが言われた「神さまへの道筋」が、心に響いた。マリアさまが神さまへの道筋をつける。
★私たちの人生にも、神さまへの道筋をつけてくれる人が居るのでないか。神さまは色んな手段で、道筋をつけられる。お恵みを戴ければ、お恵みに応えて行こう。すると、またお恵みに、つながっていく。神さまの声、導き、愛を大切に生きたいと思った。
★教会内に飾られていたのは、ファチマのマリアさまの美しい御像だった。丁度、祭壇の壁に電灯があり、それが聖母の御頭で輝いて、いい写真になったと満足した。
★ホームの皆さんの昼食は、聖コルベ館の小・ホールで弁当を頂いた。トマにとっては懐かしいホールであった。「ここで24年間、働いたのか」。そう思うと、背中が何やらムズムズした。

2018年5月26日土曜日

ペトロ瀧憲志神父さん、誕生日。87歳。おめでとう

今朝、朝食の食卓に就いた。隣の席、瀧神父さんの朝食の傍らに、封筒があった。「あッ、神父さんの誕生日だ。おめでとう」。誕生日には、職員一同からお祝いの手紙がくる。これが、そうです。縦、14cm。横、20cm。Pushを押すと、音楽が鳴る。写真は昨年の夏、近くの轟(とどろき)の瀧へ、流しソーメンを食べに行ったときの神父さんです。職員は、ちゃんと、丁寧に、飾ってカードを作ってくれるんですね。ありがたいことです。こちらも嬉しくなります。
★瀧憲志神父さんは、1931年、昭和6年5月26日に、鹿児島県大島郡喜界島で生まれた。87歳になられた。1951年12月に洗礼を受ける。永井隆博士の「滅びぬものを」の本が信仰に入る決めてとなったそうです。1956年4月、聖母の騎士修道院に入る。コンベンツアル聖フランシスコ修道会に入会する。修道名は、ペトロ。司祭叙階は1965年3月です。ホームに入所は、2017年4月6日です。1年が過ぎた。「トマのおかげだよ」と言われる。「いえ、いえ、どうも。こちらこそ」
★瀧神父さんが入所されたので、トマも寂しくない。お互い慰め励ましている。トマが寝込むと、心配して声をかける。たのもしいです。食堂は、2階。瀧神父さんのお部屋は、1階です。トマは3階で、離れている。食事が終わると、一緒に2人でエレベーターに乗って、先ず1階へ、次に3階へ直行します。仲良くやっています。
★瀧神父さんは、朝、ミサは、湯江教会で、修道院の司祭、浜田神父さん、山内園長神父さんと一緒に祈ります。朝は信徒と共に、聖務の朝の祈り、午後からのロザリオも一緒に祈ります。神父さんが居られるので、信徒も心強いです。時々、お説教もなさいます。声が大きいので、よく聞こえます。87歳、お歳に負けず、杖をついて、ゆっくり歩けます。トマの日記の最も近い読者は、瀧神父さんです。
★ペトロ瀧神父さん、いつまでもお元気で居てください。皆さんも瀧憲志神父さんを見守ってください。お祈り下さい。

2018年5月25日金曜日

あのグレゴリオ、このグレゴリオ。心の中のキズナ

ポーランド人修道士、グレゴリオさんの写真です。コルベ神父の時代に長崎へ来て、戦争中は苦労しました。顔は、ゴッツイ感じの修道士でしたが、心の優しい人でした。受付の印象が深い。晩年、ポーランド・ニエポカラヌフ修道院へ帰国して、養生していた。私がポーランド旅行中に会いに行ったとき、院内の恵まれた病院で、元気にしておられた。再会を非常に喜んだ。しかし間もなく帰天された。100歳でした。
★私が長崎の聖コルベ館に居た時の話です。音もなく1人の男性が入ってきた。「カトリック?」「結婚して、10年して、受けました」「へえ、長崎の男性にしては、珍しかね。霊名は?」「グレゴリオ」という。「なんだ、霊名も珍しいね」。共感を得た。「うちの修道士さんにも、グレゴリオさんって、居たよ。100歳で亡くなった」
★男性の話を聞けば、結婚しても、子供に恵まれない。車で、ヨメさんを教会へ連れて行く。ミサが終わるまで、車で待っている。すると神父さんから声がかかった。「中へ入りなさい」。教会の一番後ろの席で見守っていた。するとお恵みであろうか、一番欲しかった子供に恵まれた。「そりゃ、良かったね。大喜びだった、でしょう」。修道士だって気持ちは十分に分かる。時々、ルルドにお水を汲みに来るようになった、という。
★「なんで、グレゴリオって、付けたの?」「映画、白い鯨の俳優の名前で、好きだったから」「なーんだ、そんなことか」。それでも彼、グレゴリオは帰りしなに、こう言った。「神さまの、存在って、言うか、神さまの導きだよね。働き、それは確信しています」。今日は、そんな事を思い出した次第です。

2018年5月24日木曜日

アシジ聖フランシスコ大聖堂・献堂の祝日でした


日記を書き始めた年、2009年8月に、次の文がある。「イタリア・アシジの聖フランシスコ修道院で8年間暮らした瀧神父さんが、私たち(聖母の騎士修道院)共同体の一員となり、一緒に祈り、食事している。時折、アシジの話が食卓に出る。懐かしいアシジ。お城のような修道院にも何度も宿泊し、修道者一緒の昼食、夕食では、毎度ワインも飲んだ。日本で飲むワインとは全然違う。飲み易く、家庭的な、おいしいワインだった。滝神父さん『日本人の観光客が沢山来るが、ツアーの添乗員は、15分で説明して下さい、と言われることもあって、困るね。歩くだけで15分はかかる』。大聖堂には、ジョットーの有名な壁画が多く残る」。大聖堂は3層になっており、地下に、聖フランシスコのご遺体が安置されている。ここで沈黙して祈ると、心の底に沈んで行く気持ちがする。
★その瀧神父さんは、いまホームで一緒に生活し、食事は隣合わせで食べている。今日は、湯江教会では、アシジの聖フランシスコ大聖堂・献堂の祝日をお祝いした。我らの父であるアシジの聖フランシスコ。「誰に対しても兄弟姉妹であり、その広がりは、空よ、星よ、小川よ、魚よ、オオカミよ、と呼びかけ、貧しい人への愛、病者、重い皮膚病者に対して手厚い看護を尽くし、教会の修復、十字架のキリストへの熱情から我が身に尊い聖痕を受けた。争いを好まず、平和を求めた聖フランシスコ、聖人への思い出は消えない。本会、コンベンツアル聖フランシスコ修道会員のタマシイの故郷、憧れの場所でもある。
★昼食はサンドイッチだった。当然、パンを食べながら、瀧神父さんと語り合った。「献堂は13世紀ですよね」「1253年だよ」と、はっきり覚えておられる。「神父さんが居られた時、修道院に何人位、居ました?」「60人位かな、16ヶ国から来ていた」「8年間、居た中で、一番心に残る出来事は何ですか?」「地震だね。丁度、行って直ぐ起こった。修道院の者が2人亡くなり、外部の隊員も2人犠牲になった」
★中世で、キリストを生きた人は、聖フランシスコ。現代で、キリストを生きた人は、聖コルベ。これらの人の生き方に、現実にキリストに生きる人間を私たちは見ている。そのように自分も生きたいと願い、ロザリオを唱えた。(トマに送られて来た、大阪市・許書寧さんの絵)