2018年8月21日火曜日

「長崎新聞」の記者が訪ねてきた。ゼノさんの映画で

地方誌「長崎新聞」諫早支局の記者が訪ねてきた。
★同じ新聞の佐世保支局長が(トマも知っている)私の日記を読んで、「25日、土曜日に、ポーランドから『ゼノ修道士の映画』を持ってくる。記事になりそうなので、知らせてきた。その日記のコピーを持って、記者は訪ねてきた。「よく、まあ、わたしの日記を読んでくれているんだね」。支局長の連絡行為が嬉しくなった。記者は、その日、映画の後で、「小崎さんのコメントがほしい」と打ち合わせに来たのだった。
★長崎本社に20数年、勤めていたが、諫早支局に転任になった。「諫早は本当に良い所で、例えば、小・中・高校生まで、信号の無い横断歩道を渡るとき、車が止まってくれる。渡り終えると、振り返って、車に向かって1礼する習慣がある。交通少年団のような訓練があって、やっぱり温かいというか、心を打たれる行為です」と誉めていた。
★ポーランド在住の写真映像作家の山平茂美さんから電話があって、25日に来ますと告げられた。ポーランドからカメラ取材班も来た。どんな映画が出来ているのか、30分というから、短編にまとめている。私にとって、ゼノさんは忘れない修道士だ。ポーランドへ行った際、ゼノさんの生まれた村、教会、親戚などを何度か訪ねた。教会の傍に、小さなゼノ資料館もあった。ポーランド語の単行本も出版されて、ポーランド人には知られている。ゼノさんの映画を見るのを心待ちにしている。もう直ぐだ。今週の土曜日になる。その時、会いましょう、と約束して2時間ほどの会話の後、記者は帰った。
★ニンゲンは、信念となるハシラを、生涯をかけて、1本持ちたい。ヒトは誰でも、1本のドラマなら、他の人には無いものが書ける。

2018年8月20日月曜日

潜伏キリシタンが伝えた雪のサンタ・マリアの聖絵

潜伏キリシタンが世界遺産になった。夏の話題として、1枚の貴重な聖絵を紹介しよう。歳を老いた者は歴史をかかえている。過去の証言を知っている。平成元年に神に召された出津の信者に、田中用次郎さんがいた。外海のキリシタン研究家で、私も懇意にしている篤信の男性だった。平成元年に亡くなっているから、30年以上前に聞いた話になる。
★田中用次郎さんは、この写真の聖絵を昭和50年頃に外海の農家で発見したと言った。「私が子供の頃、キリシタンの血をひく母が、しばしば『雪のサンタ・マリア』のことを話して聞かせた。母から聞いていた『雪のサンタ・マリア』はどんな聖絵かと、長い間、脳裏から離れなかった。それが縁あって、うららかな春の昼下がり、農家のこんもりと繁った古い椿の木の下で、その聖絵を現実に見たとき、非常に感動を覚えた。描かれた人物は頭を軽くたれ、両手を優しく合わせて祈る乙女マリアで、純潔をあらわす赤い布を身にまとい、自然の髪を長く垂れ、バラの花の冠を戴いていた。額や左頬と耳に斑点が染み付くほど絵は痛んでいたが、表情はやさしく、神の御母としての尊厳が溢れていた。350年、命をかけて、この聖絵を守りぬいた。同行の結城神父が言った。『無原罪の聖母マリアです』」
★田中用次郎さんは、母から口伝えに覚えた潜伏キリシタンの「アヴェ・マリア」の祈りを、最初の「アベマリア、ガラシャベーナ、ドメレコ、べラットツーヨ」から「アメン」の最後まで一気に唱えて、私を驚かせた。
★「どうして雪のサンタ・マリアというのですか」と聞くと、用次郎さんは答えた。西暦365年、聖リベリウス教皇の代に、ローマにヨハネという熱心な貴族がいた。夫妻に子供が居なかったので、遺産の相続人を聖母マリアに定め、財産をどのように使ったらようでしょうかと聖母マリアに熱心な祈りを捧げていた。
★ところが8月4日の夜に、聖母マリアが夫妻に別々に現われて、「エスクリヌムの丘に雪を降らせるから、その地点に聖堂を建てるように」とのお告げがあった。教皇にその旨を報告すると、教皇も同じお告げを受けたという。ローマの聖職者や信徒たちが行列して丘に登ってみると、本当に丘の一部に白雪がつもっていた。お告げの通り、教会が建てられた。これが雪の聖母マリアの大聖堂である。
★用次郎さんによると「このような言い伝えを聞いた外海の潜伏キリシタンが、当時、描かれていた無原罪の聖母マリアの聖絵をみて、『雪のサンタ・マリア』或いは『サンタ・マリアの雪殿』と呼んだのでしょう。キリシタンたちは、苦しいときも、悲しいときもサンタ・マリアを仰ぎ、そのご保護を求めながら強く信仰を守り続け、宣教師たちの到来を待ち続けたのです」と言った。田中用次郎さんが今も生きておられたら世界遺産を喜ぶとこだろう。惜しい人を早く亡くした。
★潜伏キリシタンの口伝えの教えは、『ローマ』や『雪の』や『雪殿』など確かに伝わっていた。その信仰に驚くばかりです。ちなみに、この聖絵は、長崎市の日本26聖人記念館に大切に展示されている。

2018年8月19日日曜日

ナマの演奏は、心を揺さぶる。楽しく合わせる、一時


日曜日の午後、時津町から、若い女性4人と男性1人のアンサンブルがやってきた。車で1時間以上はかかるでしょう。遠方からです。「社会人ですが、練習に励んでいます」と挨拶。ホームの老人たちに聞かせる選曲も大変でしょう。4つの音色を持った楽器が紹介され、ナマの演奏に、沈みがちな老人の心は揺さぶられました。楽しいひと時でした。
★「西郷どん」から始まり、「アメリカ民謡」。次に、ホームの「コーラス」で歌っている親しみのある「ふるさと」「海」「幸せなら手をたたこう」が奏で、2曲の後で、「水戸黄門」「浪花節だよ人生」で締めくくった。もちろん、アンコールの拍手はありました。アンコールに何が演奏されたか。「長崎は今日も雨だった」
★ホームでは、吹奏楽アンサンブルは初めてでした。やっぱり、ナマの演奏は、心が揺さぶられますね。音楽は、子供の時から親しめば、生涯、心が楽しく豊かになる。私は音楽はニガテだな。軍歌で育っているからね。残念だな。

2018年8月18日土曜日

急に歯が、グラグラ。こりゃ大変だ。抜いて安心した

絵手紙で、描いた。「メロン?」「いや、スイカ」と言って「いや、いや、カボチャだった」。ホームの食事にも、汁物や、天ぷら、煮物によく出る。「生きる喜び」の字は、ここに何を書こうか、思いあぐねていると、下に広げていた新聞紙に、この活字が眼に止まった。「これだ、これや」
★一昨日、夕食を食べ始めると、下の歯がグラグラ。「これは、オオゴト、だ」。歯が取れて、食事と共に飲み込むかも知れない。食べるのを止めた。幸いに、昨日が歯科医院の予約の診察日になったいた。うまく調子が合っているのを喜んだ。予約の時間は午後4時だった。ホームの男子職員に、運転して送迎してもらう。歯科医院まで15分を要する。「グラグラの歯、取れないでしょうか」。レントゲンを撮り、グラグラの歯を麻酔をかけて抜いてくれた。歯が割れていた。根元の歯が未だ残っている。「そのままに、して、おいてください」。医院の滞在時間は1時間半かかった。夕食はホームで1人で食べた。カボチャの天ぷらもあった。
★ここまで書いたら、アナウンスがあった。「かき氷を食堂でやっています。おいでください」。もう夏も終わりでしょう。老人にはひと夏、ひと夏が有り難い。生きて、喜び。「かき氷でも食べに行くか」。童心になって、イチゴと、メロンを食べた。瀧神父さんも姿を見せた。喜んで食べる。若い職員が、老人の面倒を見てくれます。
★以前に、老・修道士がつぶやいた。「死ぬのは、怖い。自分が無くなるからだ。怖いというのは人間の本能だ」。コゲたものを食べると、ガンになる。そう信じて、パンがコゲると、こすって落とした。その彼が亡くなって、もう何年になるか。いま誰も彼のことは考えない。「痕跡を残したい」。誰もが、そう思うだろう。コルベ神父は「自分が死んだら、自分のこと考えないでください。マリアさまのことだけ考えてください」と、セルギウス修道士に繰り返し言った。その結果、コルベ神父ほど痕跡を残した人はいない。それが不思議なんだな、ニンゲンの世界って。そこに、ニンゲンに、不可解な、不思議さ、希望を持たせる、意味を持たせる、生きさせる力がある。あるよね、それが・・・。

2018年8月17日金曜日

安らぎの心、いたわりの心、ありや。これ、ヘイワ

湯江教会の鐘楼の下に、聖コルベの白いご像が立っている。誰かが、赤い冠と白い冠の花束を捧げた。
★聖コルベよ、助け給え。思わず祈りが出てくる。17歳でコルベ神父が創立の修道院に入った。終戦の直後でもあり、未だコルベ神父がナチの強制収容所で殉教した事は全く知られていなかった。私の成長に合わせて、コルベ神父の愛の殉教、敵に対する許し、その生き方、死に方が、じょじょに明らかにされると共に、福者になり、聖人にも挙げられた。その喜びは大きかった。
★コルベ神父から命を助けられた男性にも出会い、私も原爆の被爆者として「平和の語りべ」になりたいと努力した。推進力を戴いたと思う。歳をとっても、以前のようには動けなくなっても、最後まで「語りべ」でありたい、それが願いである。聖コルベを語る。安心する。こんなに幸せな境遇があろうか。
★喜んでいなさい。語りは「愛」だけでなく、「赦し」もある。赦しがなければ、平和は来ない。その語りが自分の特徴でもあった。聖コルベの二つの冠、花束には手が届かない。だが最後まで、この道に生きれば幸いである。聖コルベよ、助け給え。手を伸ばして引き上げ給え。あなたが創立した修道院に入った者ですから。
★「毎日、安らぎの心、ありや。いたわりの心、ありや。これ、ヘイワ、なり」

2018年8月16日木曜日

バイクの男性から、山梨の大きなブドウが届いた

山梨の男性から、大きなツブのブドウが送られて来た。昨年の5月の連休に、バイクでホームに訪ねて来た男性です。「小崎さんに会うのは、5回目です」。1回から4回は聖コルベ館で会った。歴史を語れば、長い。それでもご縁をつないでくれる。有り難い。ブドウに手紙が入っていて、今年も9月末に長崎を訪れると書いてあった。6度目の出会いが楽しみです。
★実は、長崎に来るのは22回目と言った。バイクの旅は12回目。聖コルベ館で会ったのは、①1992年が最初。「洗礼を受けて来なさい」と言われた。②2000年も訪ねる。③2007年、「洗礼は、まだ?」と言われた。④2013年、「2010年に洗礼を受けました。霊名はバルトロメオ」。私は喜んで、「登明・日記」に載せた。
★⑤5回目はホームにバイクで訪ねてきた。自室で語った。「毎日、日記は読んでいます」「なぜ、そんなに長崎にこだわるのか?」。高校生の時にバイクに乗り始めて、キリスト教やキリシタンに心を惹かれた。「長崎オラショの旅」や「十七歳の夏」の本を見せた。別れには、修道服を着て、彼のバイクを入れて、玄関のツツジの前で記念写真を撮った。その年の8月に、大きなツブのブドウを送ってきた。
★今年も、またブドウが届いた。この辺には無い、大きなツブのブドウです。「山梨はブドウの収穫の季節となりました。今年も職場の同僚が作っているブドウをお送りします」。心のこもった手紙だった。
★⑥9月はバイクでなく、飛行機で長崎を訪ねる予定だと書いてある。「潜伏キリシタン世界遺産」で、充実した旅が出来るでしょう。出会ったら、ゆっくり話をしましょう。希望があれば、ホームの日々の生活も張り合いがあります。ブドウは有り難う。

2018年8月15日水曜日

聖母被昇天の祭日。お赤飯に、マンジュウを食べた

聖母被昇天の祭日です。聖母マリアが霊肉ともに天国へ昇天されたお祝い日です。朝、5時40分から湯江教会で、祭日の「教会の祈り」があり、ミサで祈りました。
★ホームの礼拝の日に当たり、午前10時からも湯江教会で、ホームの皆さんと、湯江教会の信徒の祈りと賛美歌でお祝いしました。祭壇の前には、故人の写真が並んでいました。お盆でもあるので、故人のため、戦争犠牲者のため祈りました。参加者が多くて、教会内は「いつも、こんなに、あったら、いいな」の思いがよぎりました。瀧神父さんも祭壇で祈りました。久しぶりに見る瀧神父さんの教会でのお姿です。昼食は、お赤飯と、「ふくれ・まんじゅう」がありました。マンジュウを食べながら、「ああ、やっぱり、被昇天祭だな」と感じました。
★日記に載せる為に、聖母マリアさまの被昇天の聖絵は無いかなァ、と考えていました。すると、去る7月に、ホームの事務長さん夫妻が、「ローマ・ヴァチカン・アシジ・ルルド」を旅した写真の数々を見せてくれました。その中にあったのが、見事な「聖母被昇天」の聖絵です。マリアさまが天上に登って行かれて、御父、御子イエス、鳩の形をした聖霊が描かれ、下には御墓と弟子たちの姿があります。本当に今日の日をお祝いする適宜な聖絵です。これはフランス・ルルドの大聖堂の下の、ロザリオ壁画の一部分です。
★事務長さん夫妻は、この度の旅行で、ルルドではフランス人のジャムさんにお世話になったそうです。ジャムさんは、ホームにも来て、トマにも会い、「トマさんのことば」を貰い、それをフランス語に訳してくれた男性です。日記でも紹介しました。写真は、左からジャムさん、事務長さんの奥さん、事務長さん、事務長さん夫妻の娘で、いまローマ留学しているシスター架耶乃(かやの)さん、一番右が納富さん(以前、聖コルベ館に勤務。一緒に旅行に同行しました)です。写真には一番左、顔と体が半分しか写っていませんが、この女性のお宅で、長崎・聖母の騎士に来たフランス人です。ジャムさんは親切に、車で、案内してくれたそうです。12月に、ホームに来ます、と言った。ジャムさん、楽しみに待っているよ。

2018年8月14日火曜日

瀧神父、退院。聖コルベの祭日。マリア様に奉献を


先ずは、入院していた瀧憲志神父さんは、昨日の夕方、退院されてホームに帰りました。お祈りくださったことに感謝します。
★今日は聖マキシミリアン・マリア・コルベ神父の祭日です。長崎・聖母の騎士修道院で、お祝いがあるので出かけました。山内園長神父さんが運転で、同乗者は浜田神父さん、橋口修道士さん、トマの4人でした。ロザリオと、ミサ。その後、修道者たちでお祝いの会食が食堂でありました。食卓の準備係りは、松下修道士さんでした。皆さんと聖コルベのお祝いが出来るのは喜びであり、楽しみです。聖母の騎士修道院の創立者は聖コルベです。聖コルベに倣うのが私たちの務めです。
★コルベ神父は神を愛し、人を愛した手本です。人の幸せは愛を感じるときです。イエスに似た者になりたい。強く望みました。その最も近道は、けがれなき聖母マリアを愛し、完全に奉献し、道具となり、マリアさまが自分の中で働かれる者となることです。コルベ神父はそれを完全に果たしました。だから命までも捧げることが出来たのです。彼は生涯、沢山の苦しみを経験しましたが、総ては、長上への従順の中に、けがれなき聖母マリアの導きとみ旨を見出し、最後は、悪に負けない愛の勝利者として、けがれなき聖母マリアの被昇天の前日という最適の日に殉教しました。聖母マリアの御元に召されました。今年は亡くなって、77年になります。
★世の中、いろいろ複雑です。赦せない。忘れられない。たくさん有る。「恨んで、当然。憎んで、当然。仕返ししようと思って、当然、なのに、コルベ神父のような人もいる」

2018年8月13日月曜日

飾られた故人の写真。空には白い夏雲。何を想う


お盆が近づきました。食堂の片隅に、1年間に故人となった入園者の写真が飾られました。8人になります。谷村達郎神父さん、村山安治修道士さんのお姿もあります。食堂のガラス戸から屋外を見れば、白いマリア像と、白い夏雲が浮かんでいました。
★93歳まで生きた村山修道士さんは、人生の半ばで眼の病にかかり、視力を失いました。あの白い雲も、風景も全く見えなかったが、温かい声で人びとと関わり、穏やかながら洞察力深い言葉と祈りで人びとを支えました。「賛美と感謝」が口ぐせでした。そして彼は言いました。「すべては、み摂理です」
★私は想う。最後の一線は、理屈じゃない。踏み込め。飛び越えろ。世の煩雑に惑わされるな。見えるものに、あくせく働く。見えないものに、静かに祈る。どちらが心やすらぐか。振り返って言えることは、これまでの「すべて、すべて、全部、全部、みせつり、だった」。その心は、前向きに人生を受け止める。ツライことも、楽しいことも、良いように、み摂理と考えて生きる。生かされていることが、カンシャ。それで充分です。神さま、おつきあい、させてください。ワタシを、変えさせて、ください。

2018年8月12日日曜日

8月は、母の写真を載せて、祈り、供養します

長崎・原爆の日から数日が経ちました。73年になります。やはり母親の写真は載せないといけないでしょう。母親の原爆死を偲ぶためにも。「浦上天主堂に於いて平和の祈りを捧げていた母」。左側は原爆以前の浦上天主堂です。東郷元帥の切手が貼ってある。中央は天主堂の内部。信徒の祈り。左の黒いのは男子の席。右は女性たちのベール。右側は母と小学生の私です。母は、着物を愛用していた。自分でも着物を縫っていた。私の左手の指に、白い包帯をしている。北朝鮮の冬は極寒で、「しもやけ」が毎年できて、指がただれていた。
★原爆の日、朝、一緒に起きて、朝食を一緒に食べて、出かけた。母が笑って送ってくれた。それが最後です。原爆の爆風で、家も母も吹き倒され、高熱で燃えてしまった。
★原爆の日は、木曜日だった。トンネル工場での勤務は、夜勤1週間、昼勤1週間の交代制だった。その週が、昼間の勤めだったので、トンネル内に居り、助かった。もし夜勤だったら、昼間は家で寝ていたので、死ぬはずだった。生死の別れ目だった。
★夕方、家に帰ると、家の中まで入れない。燃えた材木で一面に火が残っており、足を踏み入れる状態でなかった。翌朝、家に戻り、母を捜したが、遺体は皆、違っていた。隣の家の、助かった人の話では、原爆直前まで一緒に居て、家に戻った時、閃光が走ったと言った。隣の家族は11人だったが、結局、生存者は1人になった。放射能の恐ろしさである。
★73年が経過しても、若い母親は、老いた私の心の中に居る。8月は祈りの月です。犠牲者の冥福を祈ると共に、唯ただ、戦争がない平和を望むばかりです。

2018年8月11日土曜日

瀧神父さん、入院。予定は1週間。回復を祈る

瀧憲志神父さんが、いま入院しています。ホームの食堂で、一緒の席で食事をしている瀧神父さんです。居られなくなって、食事も寂しいです。
★右足のツメを切っていて、切り口から菌が入ったらしいのです。右足が足首のあたりから、少しハレが出てきました。看護師さんが心配して、すぐ諫早の一番大きな病院に連絡しました。医師の紹介状がないと診察が出来ない病院です。看護師さんが、以前、この病院に勤めておられたので、電話でお願いして、診察を受けて、入院となりました。今週の月曜日でした。入院4日目、原爆の日に、長崎の帰りに見舞いに行ったとき写した神父さんの姿です。お元気でした。
★治療のおかげで、右足のハレもすっかり良くなり、もう大丈夫でした。今日は6日目ですが、あと2、3日で、退院できるでしょう。
★病棟は改造されて、清潔で、快適な病室でした。窓辺のベッドで、窓から諫早カトリック教会が見えました。懐かしい風景でした。時々、あの教会でお祈りしました。隣にシスターの幼稚園があります。
★瀧神父さんが居られないと、やはり寂しいです。もう一時の辛抱で、すぐ戻って来られるでしょう。ミサを捧げる姿もなく、午後の共同のロザリオにも姿がないので、早めの回復を祈っております。

2018年8月10日金曜日

永井隆博士の如己堂と、母が生まれた場所へ行く


昨日は、永井隆博士の「如己堂」にも寄った。久しぶりに永井先生の小さな家の、細い縁にさわる。ガラス戸から2畳ほどの中をのぞく。左側に白い聖母マリアのご像。聖母の騎士のポーランド修道士が納めたご像であろう。右手に、白いバラがあった。永井先生は、白いバラをこよなく愛(め)でていた。辞世の句も、「白バラの香りが立つように、昇りゆく」意味の歌だった。永井先生に、中学(小神学校)で、理科を習った思い出を誇らしく大切にしている。「如己愛人」。己の如く、人を愛する。真理を追究された永井先生。この小さな家で長年病み、最後の日に大学病院へカトリック青年たちから運ばれて、逝去された。昭和25年の5月1日。マリアさまの月の第1日目だった。「永井先生は、どんな人?」「おおらかで、やさしく、おもしろい人」。授業では原爆の話は一切しなかった。
★如己堂から坂をくだって、旧・街道を右に、母が生まれた場所に行った。その場所から50mほどの所に、「浦上の殉教者ベアトスさまの碑」がある。ここも懐かしい場所です。巡礼者たちを案内して、よく来ました。ここは、元々、聖地と呼ばれた場所であり、母も子供の頃はここで祈り、遊んだかも知れない。原爆の爆風で、塔の石が、右側へ何cmか、ずれたと聞いた。
★原爆の当日、午後4時頃、17歳の私は、この街道を歩いて自宅の方へ向かった。家々は倒壊しただけで、まだ燃えていなかった。家の残骸を乗り越えて歩いた。丁度、母が生まれた場所辺りの家で、少女が泣いていた。「お母さんが、家の下敷きになった」という。かがんで見ると、瓦や材木の下に、髪の毛が見えた。私1人の力では、どうすることも出来なかった。私はその場を離れた。自宅があった所を眺めると、周辺一面は燃え尽きて何もなかった。廃墟であった。「ああ、母は、どこだ」。私は唯、泣き叫ぶばかりだった。

2018年8月9日木曜日

原爆投下の時間、計らずも母と別れた場所で祈った

8月9日。長崎・原爆の日。毎月1度、長崎市のヨゼフ・クリニックへ定期の診察へ出かけている。ホームの看護師さんが予定を設定してくれた日が、丁度、原爆の日になった。高原修道士さんの運転で出かける。
★患者が少なく、診察が早めに終わった。高原さんが、「トマさん、原爆の日に住んでいた家へ行ってみよう。11時2分、投下の時間にサイレンが鳴るので、ロザリオをお祈りしよう」と勧めてくれた。道も、家々も、全く変わっていて、73年前の風景は見出せない。「このヘンに家があった」。木造の家が、そこにあった。「当時の家は木造です」。サイレンが鳴った。原爆死した母親、親戚、犠牲者のために、ロザリオ1連唱えた。看護師さんの設定、高原さんの好意、原爆当時の家の付近で、祈れるなんて思いもしなかった。安倍首相が原爆の祭典に出席されるので、警察官による道路の封鎖が10分間つづいた。
★原爆の日、魚雷制作のトンネル工場を出て、浦上川まで来た。橋が壊れていて、渡れない。川の中へ降りて行った。死体が幾つか川にあった。川を渡ろうとすると、「助けてください」とズボンのスソを引っ張られた。「え?君は、ダレ?」「ボクは小学6年生です。夏休みで、オジサンの家に居たらバクダンが落ちて、オジサン、死んで、ボクも足をケガして、ノドが渇くので川の水を飲みました。ボクは、もう動けません。助けてください」「助けるって?どこに助けるの?」「浦上全体がメチャメチャに崩壊され、ここに居ても、場所を移しても同じことナンです。だから、ここに、ジッとして、ここに居りなさい。後で、警察のオジサンと警防団のオジサンが助けに来る」「イヤだ、イヤだ。ボクは、ここに居たら死んじゃうよ」。それでも少年の手を振り払って、その場を逃げた。すると少年の声が私の背中に届いた。「オニイチャン」。今日は、その浦上川へ行ってみた。「ああ、ここなんだ。あの少年を助けなかった場所は」。唯々、当時を思い、悲しみが胸に湧き起こった。あの少年は、どうなったであろうか。私は言う。「ゲンバクとは、助ける事が出来ないバクダンだよ」

2018年8月8日水曜日

原爆死の母の命日に、今年も北九州からお花が届く

原爆忌。原爆死した母親のために、今年も、北九州のお母さん「直美さん」と娘さん「衣里さん」から立派なお花が届いた。聖コルベ館に居たときも、ホームに来てからも、毎年、原爆前日に贈られてくる。もう10何年になるだろう。
★事の起こりは、衣里さんが小学6年生のとき、北九州から修学旅行に来て、私が原爆の語り部を努めたことだった。旅行の後で、感想の文集がきて、それに私が返事を出した。すると又、折り返し手紙が1通だけきた。それが衣里さんだった。
★衣里さんが中学生になったとき、2001年の正月、今年は毎月、100羽の折り鶴を折ります。10月18日が誕生日ですから、それまで千羽鶴を織って送ります、との手紙がきた。毎月、100羽づつ送られてくる。それを恵が丘原爆老人ホームの1人に差し上げて喜ばれた。毎月、1人づつ。そして10月、千羽目は、本人の衣里さんと、お母さん直美さんが長崎へ来て、原爆老人ホームで10人目の老人に完了の千羽鶴を差し上げたのだった。見事に成し遂げたわけです。これが、そのときの写真です。新聞に掲載された。
★出会いから18年の歳月が流れる。衣里さんは高校生になり、成長して結婚し、2人のお子さんの母親になった。聖コルベ館時代に、修道院の数人と、北九州の衣里さんのお宅まで訪ねたこともある。お母さん直美さんとも出会った。
★いつの頃からか、私の母親の命日に、毎年、立派なお花が届くようになった。3、4年なら、いざ知らず、10何年も続くとは、本当に真心のこもったお花の贈呈です。感謝して戴き、飾って、母の命日を祈っております。
★今朝は、教会のミサで、司祭にお願いして、「トマ・松吉、クララ・ワサ」の両親のため祈りました。
★直美さん、衣里さん、出会いから今まで本当に有り難う。ご縁をつづけてくださること、本当に嬉しいです。原爆死した母は45歳でした。このお花を喜んでいることでしょう。

2018年8月7日火曜日

崩壊した浦上天主堂。何故ここに原爆が落ちたか?

原爆前の浦上天主堂。丘の上に聳える巨大な教会。浦上信徒の誇りでもあった。15歳、16歳、17歳の8月まで、浦上天主堂に通って、祈った。忘れない。
★この歳まで生かされて、ナゾに思う出来事は幾つか、ある。「なぜ、浦上天主堂の上に、原爆が破裂したのか」。疑問であり、ナゾは解けない。人智の及ぶ事ではない。原爆機は最初、長崎の中央辺りに投下を狙っていた。雲に被われていたため、視野で確認できる所に落とした。計らずも、カトリックの信徒が多い浦上天主堂の真上に炸裂した。「沢山、祈っていたのに、賛美していたのに、なぜ、ここに落とされたのか。多くの信徒が犠牲になったのか」。未だに分からない。
★隣の家は親戚だった。その家の祖父と一緒に、天主堂へと歩いた。26聖人が通った坂道をあがると、わき道に入り下る。小さな川に出る。川添えの細い道を行くと、通りに出て、天主堂が眼の前に現われた。堂内は皆、床板張り。男子は左側、女性は右側と決まっていた。祭壇近くに子供の席があり、大勢の子供たちがいた。子供の一団の後方に、「しくろう・さん(漢字でどう書くか分からない)」と呼ばれるオジサンが座っていて、態度が乱れた子供がいると叱られた。「バシッ」と時折、音もした。教会での態度の悪さは赦されない。
★大勢の信徒の祈り、賛美歌、圧倒される声だった。堂内には巨大な柱がある。豪華な祭壇には、聖人たちのご像が並び、高い所に美しい聖母マリアのご像があった。戦争が激化すると、天主堂内は軍の命令で、米や、缶詰などの備蓄場となった。原爆で、この米や缶詰が何日も燃えつづけた。毎晩、その火を眺めて泣いた。隣の祖父も原爆症で2週間後に死んだ。
★浦上出身の母親から、イノチと、信仰をもらった。カトリック信徒となった。この教えは、先祖が潜伏キリシタンとして、7代に亘って、受け継いできた信仰です。この教えを生涯守り続けて来ただけです。浦上信徒は、聖母被昇天の祭日前に、必ず告白をした。その習慣は今も私に残る。今朝、ミサ後に、司祭に告白して、祭日に備えました。

2018年8月6日月曜日

アタマも、サッパリ。迎える祭日。後は心の清さだけ

理髪屋さんの夫妻が来る。普通は3人だが、お父さんは高齢と酷暑でお休み。当たった番号は1番だった。1番というのは気持ちがいいよ。このカオになる。これでサッパリして、聖母被昇天祭日も、聖コルベの祭日も、長崎・原爆の日も迎えられる。後は心の掃除、告白でしょう。昨日から聖コルベの祭日前の9日間の祈りも始まった。聖コルベに取次ぎの祈りを唱えましょう。
★沖縄の女性から、マンゴーが1箱送られて来た。毎年、この季節になると、高価で立派なマンゴーが届く。ありがたい、珍しい贈り物です。
★沖縄の押川司教さまがホームに来られた。司教さまが食堂の私の食卓の席まで来て言った。三教区(沖縄・鹿児島・大分)の司祭合同黙想会があった。指導司祭の神父が、トマさんの本から紹介した。電車に乗って、降りる話だった。「この人、まだ生きているよ」「えーェ?そうなんですか。もう亡くなったと思った」と神父。「電車」「乗り降り」それだけで、ああ、あの話かと直ぐに分かった。自室に戻り、自著「ドキュメント・キリスト信者」に、「旅の終点」が載っていた。これで、あろう。最初から最後まで読み返した。文章としては、よく書けている。こういう、しっかりした文章を書く年代もあったのかなと思った。昔、書いた私の話を、どこで、誰が使ってくれているか、感動して受け入れてくれているか、一片の出来事を知って、非常に嬉しく、その一日が明るくなった。

2018年8月5日日曜日

祈りや愛はムダにならない。マリアさまの助けある

今年は特に酷暑の日々が続いている。太陽に向かって、大きく花開くヒマワリのように、ゲンキを貰いたい。
★昨日は、教会では「聖ヴィアンネー」の記念日を祈った。フランス・アルスの聖司祭といわれ、19世紀の半ば、亡くなった。私は若い頃、聖人伝をよく読んだ。その中に、聖ヴィアンネーもいた。聖人の特徴は、徹夜の祈りと、断食と、厳しい苦行と、絶えず告白を聴く聖人といわれた。大勢の信徒たちが、聖人の元へ告白に押し寄せた。霊魂の状態を見通す聖人で有名だった。悪魔が嫌って、大きな音をたてて脅かした話もある。
★話は変わって、長崎県には大村湾の入口に、西海橋(アーチ式で、長さ316m、海面からの高さ45m)がある。昭和30年11月に完成したが、橋の下は、潮の流れが激しく、船も流される。飛び込むと、渦巻きで死体は上がらない。一躍、自殺の名所となった。橋の完成後の2,3年間に30人が自殺し、150人が保護された。私は「オラショの旅」で、平戸へ案内するとき、西海橋を通った。そのとき説明していたのが、この聖ヴィアンネーの話だった。
★ある1人の女性が、悲しみに沈んで聖ヴィアンネーに相談に来た。主人が橋から投身自殺をした。主人の霊魂は何処へ行ったのか。祈ってもムダですか。私は一体どうしたら、いいのでしょう、と嘆いた。聖人の司祭は見通して言った。ご主人は5月にマリアさまへ美しいお花を捧げていたのを覚えていますか。そのささやかな行為をマリアさまはお見捨てになられません。ご主人は、足が橋から離れて、海面につく瞬間に、聖母のお恵みで改心したのです。大きなツグナイをしているから、多くのロザリオで助けてあげなさい。
★そこで西海橋へ来たとき、言うんです。本当に、瞬間に改心できるのでしょうか。疑問だね。その証拠があった。昭和33年2月に、1人の高校生が飛び込んだ。幸い、近くに漁船が居て、意識不明の彼を助けた、記事が新聞に載った。高校生曰く、死にたい。親不幸をお許しください。遺書に書いた。飛び込んで落ちて行くとき、自分をはっきり意識した。深く沈んだが、浮き上がって、再三もぐった。死にきれず、泳いでいる間に意識を失った。やっぱり瞬間に改心の時間はあったのです。
★聖ヴィアンネーの記念日が来ると、なぜか、この話を思い出すのです。西海橋には続きの話がある。ある若い母親が赤ちゃんを抱えて橋の下を覗き込んでいた。突然、赤ちゃんを放してしまった。赤ちゃんは45m落下した。幸い、船が赤ちゃんを助けた。私が西海橋を訪れたとき、ちょうどお母さんが、入院していた赤ちゃんを抱いて、関係者にお礼に来ていたのだった。話によると、赤ちゃんの体はやわらかく弾力性があり、肉体はふんわりしており、マリのように跳ねて助かったらしい。そんな事を耳にした。世の中には、いろんな事が起こるモンですね。

2018年8月4日土曜日

誕生会。大曾神父さん、入江さんのお祝い。恵み一杯

ホームの入園者で、8月に誕生日を迎えるのは、5人。8月1日、入江さん、93歳。8月10日、大曾神父さん、91歳。おめでとう。「ハッピバスデイ」の歌で祝ってもらった。いつまでも元気で、長生きしてください。誕生会といえば、職員さんの出し物です。「アシタが、あるさ」を踊ります。音楽に合わせて、笑いと喜びとお祝いのうちに踊ってくれた。「そう、さ。アシタが、あるさ。くよくよ、するな。希望も、あるさ。夢も、あるさ。生かされて、いるじゃないか。ゲンキを出そう」。踊りと、歌で楽しくなりますよ。お赤飯も出ました。
★誕生日を迎えた、大正14年生まれ、93歳の女性は、美声を張り上げて、2曲、それぞれ2番まで歌い披露した。見事なモンです。迫力に飲み込まれる。生きるチカラがある。エライ、モンですな。こうして今日は、楽しく誕生会を終わりました。
★「老人ホームに入る」というと、世間では一般に少し抵抗がある。しかしホームに入ると、栄養管理の食事をいただき、手厚い介護を受けて、健康も守られ、車椅子になっても長生きしている。ありがたい生活です。瀧神父さん、大曾神父さん、入江さん、みな、いいカオ、しているでしょう。ゆっくり、安らかに、暮らしております。トマも、ね。

2018年8月3日金曜日

部屋の窓から、教会の鐘と屋根。ここが生きる場所


左は、入園したとき、自室の部屋から見えた風景です。小学校やグランドがあって、児童たちの声も耳によく届いた。遠方には雲仙岳が棚引き、有明海も細長く見えて、景色がいい部屋でした。ここに1年と9ヶ月生活した。ホームの室内の改装工事があって、各個室は畳から、将来は車椅子でも入れる板床になった。「部屋を変わってください」
★今の部屋へ変わって、窓から見える風景は「教会の鐘と屋根」になった。右側の写真です。もう子供たちの声は聞こえない。鐘の音が大きく心を揺るがすだけです。この部屋に変わって、丁度、昨日で、丸2年になった。
★各部屋には、心境の変化がある。前の部屋には、見舞い客は入れなかった。窓の景色はいいが、廊下が暗い。天窓が有る。今の部屋は、廊下が広くて、明るくて、窓からは山や、家々や、風景がよくて、お客さんを受け入れても、心は楽しい。見舞い客は自室まで案内している。気持ちにも変化があった。
★最近は自室の風景は余り気にしていない。窓の外を眺める事もない。それよりも今年の夏は特に酷暑で、昨年までは夜は冷房を消して、窓を開けて寝ていたが、今年は窓を開けると、教会の屋根の熱が照り返して、熱い風が入ってくる。寝るときは、冷房は消しているが、夜中に、少しの時間、冷房を使っている。
★昼間は、冷房に頼って、快適な生活をしている。熱中症に罹ることもない。平和で、安らぐ、有り難い生活の毎日です。

2018年8月2日木曜日

フランシスコ会の大聖堂(アシジ)献堂の祝日です

イタリア・アシジのポルチウンクラ教会。(ある資料から抜書きしました)。伝承によると、4世紀に、エルサレムからの巡礼者が、マリアさまの御墓の遺品(かけら)を携えて到来し、隠遁生活を送ることを願ったとされています。聖フランシスコの頃には、ベネディクト会が小さな教会を所有していました。1210年には、ベネディクト会から聖フランシスコたちが使用する許可を受けました。
★16世紀頃には、屋根のようなもので教会を保護していましたが、1569年から1679年にかけて、教会をおう大聖堂が建設されました。1832年には地震で天蓋が崩落しています。1909年、聖ピオ十世教皇は、アシジの聖フランシスコ大聖堂と同じように、この天使の聖マリア大聖堂も教皇の大聖堂としました。(以上が、ある資料による)
★今日は、ポルチンクラの天使の聖マリア大聖堂(サンタ・マリア・デリ・アンジェリ大聖堂)献堂の祝日です。祝日に即したお祈り(ミサ・教会の祈り)を捧げました。「教会が愛のうちに一つの心、一つの体となり、聖母マリアと共に心を一つにして祈ることができますように」(共同祈願)
★この大聖堂にも何度か巡礼しました。大きな聖堂の中に、聖フランシスコの貧しい、美しい小さな教会があるのです。大聖堂の奥に進むと、聖フランシスコのご像があり、足元に鳩が静かに大人しく守っています。その雰囲気が不思議でした。トゲのないバラもある。その奥に売店がありました。
★今日は、イタリア・アシジや、ポルチンクラのこと、この大聖堂の近くのホテルに宿泊したことなどを懐かしく思いながら過ごしました。

2018年8月1日水曜日

入江さんの誕生日。93歳になった。焼酎が元気の源

ホームでの親友、入江さんの誕生日です。大正14年8月1日に生まれた。満93歳になる。入江さん、おめでとう。今朝のミサの後で写した。手にロザリオを持っている。「さすがは、長崎の信者だな」。入園したのが、2015年4月30日でした。丸3年になる。一緒に入浴して、入江さんは、背中を流してくれた。最近は、別々に入浴している。
★入園する1ヶ月ほど前に、入江さんから電話があった。以前に、熊本の入江さんの自宅に訪ねたことがある。トマを知っていた。奥さんを亡くして、入園したいという。その後、数日、実際に宿泊にきた。入江さんは、終戦の前後に、聖母の騎士に神学生として生活したことがある。ホームに来て見て、聞いて、亡くなった同級や同窓の司祭の名前が次々に親しく出てくるので、「我が家に帰った気持ち」になり、迷わず喜んで入園した。結局、トマの背中を流す交友となる。「いつまでも元気で長生きしてください」。それが願いです。
★昼食は、入江さん、浜田神父さん、高原修道士さん、トマの4人で、有明海の海沿いの食事処「大橋」へ行き、お祝いしました。お湯割りの焼酎を、ゆっくり飲んでいました。うなぎ定食を全部、食べました。入江さんを見守ってください。

2018年7月31日火曜日

歯は大切に。自分の歯。これで90年、噛み締めたよ

「生かされる」ことは、ありがたい、そう思います。歳を取れば、それだけ苦労も多い。それでも生かされているのは、ありがたい。
★午後から、ホームの職員さんの運転で、20分の所にある「歯医者さん」へ出かけた。歯の痛みを感じたのが、初診だったが、丁寧に掃除をしてもらううちに、痛みはなくなり、1ヶ月半ぐらい於きに通っている。歯石を取ったり、磨き方の指導や、1時間はかかる。治療の途中で、1回、トイレに行かせてください、と言うのが、自分でも困惑している。
★歯科衛生士さんの説明によると、中学生から高校生の頃に、28本から32本の歯が揃うそうです。自分には、32本の歯がある。総て手を加えているそうです。ちょっと、詰めたり、被せたり、差し歯にしたり、それでも32本揃っている。「歯を大切にして、よく磨いてください」と言う。治療は、「1本は親知らずで、抜きましょう」「あと1本は、グラグラしています」と言われるが、それでも、「そのままに、していてください」と頼んでいる。
★歯を見れば、人生、いろいろ、あったな、と言えそうです。前歯の上2本は、椿原の学校時代、児童が、棒を振り回していたのが、前歯に当たって、欠けてしまった。差し歯の値段は高くついた。棒が他の場所に当たらなくて、よかったと、いいように解釈する。歯は大事にしようと思います。生きることは、不思議だな、と歳を重ねるごとに、そう思います。

2018年7月30日月曜日

好物の食べ物は、牛肉の天ぷら。母の思い出、味あり

ああ、牛肉の天ぷら、が食べたいなァ。牛肉の天ぷらを出す食事処はないですね。トン(豚)ぷら、というのは、あった。両親は出稼ぎに北朝鮮へ行った。商売をしたのは、精肉店です。牛肉店だからね。おいしい、いい肉が沢山あった。ステーキなど、あまり食べない。やわらかい牛肉を薄く切って、野菜と混ぜて炒めたり、天ぷらにしたり、中でも天ぷらが大好物でした。
★四角い、大きなハムも売っていたが、ロシア人家族が買い求めていた。正月は、鶏も販売した。子供の頃の食生活が、大人になっても、この歳になっても、引きずるんですね。ハムや、ソーセイジは、箸が進まない。
★牛肉の天ぷらは、揚げるのが結構、難しい。肉と、ころもが、外れるんですね。旨く、揚げるには、コツがいる。母親の天ぷらが最高だった。牛肉の天ぷらを食べると、母親を思い出す。従姉が、思い出しながらメモをした、牛肉の天ぷらの作り方を書いたのがあったが、探しても見つからなかった。
★ホームに入園する前、月に1度は、療養に2泊3日で温泉宿に行っていた。宿の女将さんにお願いしていたのが、牛肉の天ぷらで、これを食べるのが楽しみでした。今は、それも、ない。ああ、さびしいなァ。やわらかい、アブラ身がない所を、上手に揚げて、醤油をかけて、食べてみたい、今日は、そんな思いを書きました。

2018年7月29日日曜日

テレビに、太宰治が出た。思い出のメモ。求む希望

喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ、というが、ニンゲンの心情は、そう簡単ではない。友人の健康が快調だ、と耳にすると、時には秘かに心が引くこともある。調子が良くないと聞くと、(さあ、どうなるか)と、内心、妙な興味が走る。妬みの心か、他人に抜きん出たいのか、ホンネは複雑なのが、人間です。
★テレビで、ある特番があり、作家・太宰治を知る人の話が出た。そのテレビを見た瞬時に思ったのです。太宰治の「人間失格」や、他の本は読む機会がなかったが、ずーっと以前、10年程前に、ラジオの深夜便で、ある夜、太宰治の話が耳に飛び込んできた。語る切り口に心が揺れた。話の最後の部分の、5分間ぐらいしか聞けなかったのが残念だったが、それでも飛び起きて、電気をつけて、すぐにメモした。あの頃は元気があった。それが次の内容だった。
★「太宰は聖書を熱心に読んだ。汝の敵を愛せよ。だが愛せない。太宰は「ことば」から入った「天才」だ。最高の、言葉、天才は、イエス・キリスト。太宰はイエスに惹かれたが、自分は出来ない。罰せられる者である。その後で『人間失格』を書いたが、そこには聖書の言葉は全く出てこない。だから現代のフアンが惹きつけられるのだ。完全には他人を愛せないから、せめて周りの人を大事にしていこう」。これが内容だった。誰の話だったか、わからない。太宰といえば、絶望感のイメージだったが、「聖書を熱心に読んだ」部分に、心が惹かれた。
★ニンゲンって、心の振幅は、誰でも同じじゃないか。自己には欲望があり、尽くしても、果たしても、満たされぬ渇きある。絶望と、希望。取り巻く人間にも、悩み、苦しむ。その中で救われたい。本当の幸福を求めたい。ニンゲンの叫びが聞こえてくる。「せめて周りの人を大事にしていこう」。周りの人が冷たく引く原因は、自分の根幹にあるのでないか。自分を正せば、事は丸く収まることもある。
★テレビで、太宰治を知る人は、「彼は、低い声で、ゆっくり話し、やさしい人だった」と語っていた。

2018年7月28日土曜日

子供の心に、戦争キライ。平和で、仲良く、希望を

小学生たちは、もう夏休みに入ったでしょう。6月に、小学校で、70人ほどの児童に、原爆の語り部を努めました。そのお礼と、感想文集が届きました。2年生、「れいな」さんの作文です。「わたしは、げんしばくだんのこわさが、わかりました。日本が、へいわになるように、みんなとなかよくしたほうがいいと、思いました。どのくにも、しあわせになってほしいです。だから、もう、けんかにならないように、どのくにも、なかよくしてほしいです。これからわたしは、みんなが、へいわに、くらせるように、なかよくしていきたいです」
★幼い子供たちだが、アタマの片隅に、「平和で行きたい」希望が、残るでしょう。写真をよく見てください。パネルに、3人の女の子がいます。仲良し姉妹です。隣の女の子です。私は、兄弟姉妹が居ない、一人っ子だから、隣の女の子3人と、とても仲良しでした。小学6年生と、4年生と、幼稚園の少女でした。原爆に会って、3人は、どこにも傷を受けていなかった。それが、日が経つうちに、放射能の影響で、高熱が出て、苦しんで、幼い子から次々に死んでいった。こんな悲しいことがあるか。
★3人の少女の事を、みんなに語り、話の後で、小学6年と、小学4年の児童と一緒に写真に撮ったのです。供養になるからと思いました。
★小学6年と、小学4年の児童と別れるとき、「ハイ、アクシュ」と、子供たちと握手を交わしました。1人の小学6年の男の子が、言った言葉が忘れません。「ショックだった」

2018年7月27日金曜日

大正・昭和一ケタ生まれの子供時代は、軍国一色だ

昼食です。アジの開き焼き、カルピス・ゼリー、アボカド・海藻サラダ、手前、右が、冷たいスープ。栄養師さんがトマの食卓に来て、自慢そうに言った。「このスープ、食べてごらん、おいしいよ」。一口、すすると、冷たくて、おいしい。詳しく聞けば、「トウフと牛乳、タマネギの油いため等をミキサーにかけて、冷やしたもの」。「確かに、おいしいよ」と反応を示すと栄養師さんはニコッとわらった。
★我らが食卓には、5人がいる。女性が2人で、男性が3人。男性はトマ(90歳)と瀧神父さん(87歳)と入江さん(8月1日で、94歳)。女性は93歳と、81歳。トマと瀧神父さんが、よく会話する。昼食時は、なぜか戦争中の「日の丸・弁当」が話題になった。トマの小学生の頃に「日支事変」が始まる。北朝鮮の小学校で、戦地で戦っている兵隊さんの事を思って、(週に1度だったか、定かでないが)簡素な弁当を学校に持って行った。白いご飯に、真ん中に梅干1個。これで日の丸だ。飛行機を作る材料にと、銀紙を集めた事もあった。
★その頃、学校で先生から聞いた話に、こんなのを覚えている。目を負傷した兵隊がいた。足を負傷した兵隊がいた。もう、この場所は危ない。本隊に知らせよう。だが兵隊が少ない。目の負傷者が、足を負傷した者を背負って、死にもの狂いで、本隊に知らせた。2人は、そこでバッタリ倒れる。本隊が応援に駆けつけて、勝利をおさめた。バンザイ、万歳、まさに美談だった。その美談に少年たちの心は燃えて戦場へとあこがれた。「日の丸・弁当」を兵隊さん、ありがとうと、噛み締めたわけだ。あの頃、軍国少年だったのが、惜しい気がする。ホームに居る者は、みな、そんな体験で育っている。
★大正生まれよ、昭和一ケタ生まれよ、バンザイだ、長生きして、いい人生をおくれよ。

2018年7月26日木曜日

美味・最高の冷やしソーメンは瀧の観音手前の食事処


あの味は忘れない。近くに瀧があって、清流が流れる。大きな岩石のテーブルがある。真ん中から清流が噴出している。石に細いミゾを彫って、丸ァるいツボに清流が流れてくる。手打ちのソーメン、30人分しか作らない。1人前が600円です。竹のウツワに盛ってくる。清流で冷やした手打ちのソーメンを最初に一口すすり込む。「いや、たまらんね。さすがは手打ちです。そらァ、ウマイ。忘れんアジです。
★今日、行って来ました。3人で、ね。高原修道士が運転。瀧神父さん。トマ修道士。ホームから1時間かかる。ソーメン食べるのに1時間。すりみ揚げ、これが、またウマイ。長崎産だからね。他に鶏のから揚げ、オニギリに、イナリも注文した。ホームと全然違う雰囲気です。やっぱり、いいね。仲間同士で、気持ちも安らぐ。最後に、カキ氷も頂いた。最近のカキ氷といっても、チャチな物が多い。これは子供の頃に食べたホンモノだよ。ハラのズイまで冷えた。今年の夏は、酷暑だからね。昨夜は室内で31度あった。「ゲンキなうちに、アチ、コチ、廻ります。カンベンしてください」

2018年7月25日水曜日

焼き物の里。作品・お皿が届いた。ええじゃ、ないか

1ヶ月前、ホームのドライブで、大村の焼き物の里へ行った。1ヶ月が経って、作品のお皿が焼き上がって、届いた。自画像です。気力で行こう。90歳。バラも描いた。リッパな、満足な作品です。嬉しいです。修道服を着ている。やっぱり、この服はトマの姿です。離れない。
★三度の食事のとき、15分ぐらい前から、食堂の入口のソファーに座って、10人あまりが待っている。食べるのが楽しみですからね。女性も、男性も、一緒に肩を並べて座っている。自分も、他人も、入園者としては、みんな同格です。肩の高さは一緒です。つい、つい、自分は何者か、を忘れてしまう。恐ろしい心境だ、と反省する。波に飲み込まれては、いけない。心の中で、強く思う。自分は修道士だ、の意識です。それは忘れない。忘れては、いけない。修道服は忘れない。この絵を見ながら、つい、つい、思いました。(お皿の裏は、写真)
★以前にテレビで見た、終末医療を看取っているお医者さんの証言。「死ぬときに後悔する25のこと」。それを踏まえて、やがて来る死のために、後悔しないには、どういう生き方をすればいいか。お医者さんは言う。結局、自分のやりたいことを、やっておけ、と勧める。自分の人生は、たった1度の、自分だけのもの。美味しいものを食べ、旅行をし、好きなことをし、恋をし、周りの人には優しさを、思い残すことの無い人生を生きろ、とアドバイスする。(人生、本当は、そう簡単には出来ないから、苦労する)。「しなければ、いいのは」犯罪、タバコ、イライラ人生、ガンコ、不養生。安らかに死ねるのは、神仏や来世を信じ、生きた証を残すことだ、そうだ。それは本当だろう。ホームでも見てきた。最後に言う者が、幸い。「ありがとう」