2016年1月31日日曜日

日曜日。ミサで、亡きご主人のために祈った

毎朝、6時からミサがあり、祈りを捧げる。
★日曜日には、一般信徒のために、9時からミサが行なわれる。普通は、6時のミサで祈り、9時のミサには参加しないが、今日は特に、9時のミサで、お世話になっている明子さんの亡くなったご主人のための意向で捧げられるミサだったので、ぜひとも、お祈りを捧げたいと、修道服を着て、ご主人のために祈った。
★明子さんには、もう長い期間、週2度は、自室に来てくださり、話し相手になってくれる。慰めのチカラになっている。亡くなったご主人とは、椿原の学校でいっしょに働いた。お世話になった。忘れることが出来ない先生である。60代半ばで亡くなられたのは惜しまれる。
★午後、長崎の女性から電話があった。「聖コルベ館へ寄ったら、2人の見学者がいた。トマさんの本を買っていたよ」と、懐かしい聖コルベ館の話を聞かせてくれた。「ありがたいね」。電話で、「100歳になる男性が、お元気で、教会の坂を登ってミサに来られています」と言う。そういわれると、自分を省みて、「お手本として立派だが、誰でも、そう成れと、比べるわけにはいかないと思うよ」。若いときは全く考えもしないが、歳をとってみて初めて気づく現実が多々ある。長崎の話しが聞けて、慰めになった。

2016年1月30日土曜日

小フナはやられた。でも静かな一日。コンタツの話

昨日は、雨が降っていた。昼食のとき、また庭に、サギが見えた。1月、2月のこの時期に、ここ何年もやってくるそうだ。食べ物がないのだろう。サギは小フナを狙っている。食卓で、小フナが見つからない。居なくなっている、と話が出た。それなのに、また、ジーッと立っている。職員が出て、雨にぬれても、庭に出て、追っ払った。サギは屋根の上に飛び跳ねた。
★今日は、久しぶりに青空と真っ白い雲が見えた。昼食の後、庭へ出てみた。小さなフナは泳いでいない。わりと大きなフナは安泰であった。小さなフナは可愛そうに犠牲になったのか。
★土曜日の午前中は、整骨院へ行く。1人、腰足の痛む女性の希望者が出て、出迎えの車に、5人が乗った。
★午後、ロザリオの後、パソコンを開いた。コメントに、ロザリオのことを、「コンタツ」と言ったとある。長崎では、戦前、戦後の間もなくは、コンタツとよく使っていた。なつかしい言葉です。「喜びのコンタツ」「悲しみのコンタツ」。あるいは「日本26聖人のコンタツ」というのもある。また浦上には、「サバト寄り」といって、サバトは土曜日のことで、毎週、この日の夜に、隣り近所の信者たちが、巡回で、家に集まって、死者のため、家族のため、「どりゃ、コンタツでも、しようか」「スラ事、繰るより、ロザリオ、繰れ」と、祈る習慣があった。最近は、浦上では、毎週は集まらないが、月に1度、9の日(原爆が落ちた日)に、1軒の家に皆さんが集まって祈っている地区があった。参加したこともあったが、いまは、どうなっているのか、気になっている。

2016年1月29日金曜日

ロザリオの後で、シスターを入れて写真に撮った

午後3時過ぎからの祈り、ロザリオの後で写しました。
★足の痛みのため退職したシスターが今日は来て、いっしょにロザリオを唱えた。先唱をしてくれる。
★左側の男性が、入浴のときに、いつも背中を流してくれる親友です。常に黒い帽子を頭に乗せて、ロシア製の温かいジャンパーを着ている。90歳だからね。
★右側の男性は、週に2回、整骨院へ行っています。ジャンパー90歳も一緒に行っている。「肩の痛み、横腹のしこりがなくなった」と効果があると喜んでいる。
★車椅子の女性は、何歳かわからないが、熱心にも毎日、ロザリオに参加して、ご高齢のためか、祈りながら、安らかに心地よく眠むっている。幸せの見本みたような姿です。いつも見ていて、心がなごむので、このように安らかに歳をとりたいと手本になります。
★シスターが自室に「トマさん」とやって来て、「この間、写真に撮った記事を見せてください」と頼んだ。ちょうどパソコンを開いていたので、探すと、1月13日の日記に載せていた。「誕生日が1月14日」ということで、「よかったね」と喜んだ。

2016年1月28日木曜日

書くことがない毎日です。それでも自分に価値はある

昼食のとき、ガラス戸越に、ふと、庭に目を移すと、足が、細く、長いサギが、1羽、ジーッと立っている。しばらく見つめていると、池に近づいていく。池には、小フナがいる。この寒さで、動かず、どこかに隠れているだろう。それでもサギは、広い空の上から舞いながら、ここに小フナがいることを知っている。どうしてだろう?ふしぎにさえ思う。雪や寒さで、エサもないから、サギも必死だろう。いつもエサを与えている女性が、黙ってガラス戸をあけて、庭を小走りして、サギへ近づいた。サギは大きな羽を広げて、屋根へと逃れた。しばらく様子をみて、また降りてきた。
★最近は思う。毎日、同じような生活なので、刺激もなく、変わった出来事も起こらない。自分では懸命に生きているつもりだが、平凡な生活の連続では、日記を書くことを、ためらうこともある。その時は、書くのは、人のためではなく、自分の老いを超えるためだとも思い直している。「いのちが、あるだけ、かんしゃ、です」。その気持ちが根底にあるのを感じます。
★あと1ヶ月あまり、3月1日は誕生日で、88になる。この日までは書き続けよう、書き続けたい、そう思う今日でした。

2016年1月27日水曜日

庶民のなかに信心は支えられている。信仰のチカラ

写真は、今時の「長崎・ミカン」です。おいしい味に慰められる。
★水曜日は、朝、9時半に、整骨院の車が迎えにくる。いつも一緒に風呂に入り、背中を流してくれる90歳が、「自分も連れて行ってほしい。痛むところがある」という。4人が車に乗った。整骨院へ着くと、待合室で、しばらく待たされる。先に、90歳が名前を呼ばれて、ジャンバーを脱いだとき、ポケットから出した右手に、「ロザリオ」が見えた。ちらっと見たが、「あ、あ」と、心に深く残った。
★午後のロザリオのとき、もちろん90歳も来て祈っている。終わってから、聞いた。すると彼はロザリオを出して見せて、「いつもポケットに入れて、唱えているよ。忘れたことは、なか(ない)」「いつから?」「ホームに来てから、その前も・・・」。ホームでは、常にこの気持ちで生活している。出身は、長崎の五島。県外で働いていたが、奥さんを昨年、亡くしてから、余生は信心の日々で暮らしている。部屋には、奥さんの写真。根っからの信者の雰囲気がする。さすがに長崎・五島の信者だ。目立たないところで、信徒は熱心に神に祈っている。信仰なしでは生きられない。こういう庶民のなかに、信仰は支えられているのを感じる。

2016年1月26日火曜日

遠い宣教師の思いは、いまも忘れない。今を生きる恵み

今週の湯江教会・祭壇の生け花です。
★朝ミサで祈りました。聖福音は、主が、弟子たち、72人を選び、宣教に派遣するところが、読まれました。「この家に平安あれ」と言いなさい。「愛と平和をもたらす宣教者」です。
★遠い北朝鮮の、子どもの頃を思い出した。この町には最初は、教会も司祭も居なくて、カトリックはわたしの家が一軒だけ。それでも宣教師は見捨てなかった。年に1、2回、南の方の修道院から列車に乗って、ドイツ人の神父さんが泊り込みで来られて、カトリックの教えをつないでくれた。神父さんのご苦労が、いま、わかる。宣教師はどの地方にも入っていく。あれから80年近く経っても忘れない。生まれた時もカトリック。いまも、カトリック。人生をつないできた信仰は、自分の背中になっている。しかし人生を振り返れば、破壊された原爆。結核の苦しみ。自由を奪われた強制収容所。愛を貫いたコルベ神父。いろいろあった。
★人間とは、何だろう?。神さまから出て、神さまに帰っていく存在である。いのちの存在を与えられた自分は、弱点があり、汚れもあり、罪もある。神の恵みで聖化されなければ、神へは戻れない。「きょう、あるのは、神の恵みに、よる」(コリント一・15)

2016年1月25日月曜日

きのうの積雪は、過去110年で最高。17cmでした

一夜、明けて、降る雪もおさまった。長崎版の新聞には、デカデカと、「長崎市・積雪17cm・過去110年で最高」と載っていた。北海道や、秋田の皆さんからは、考えられぬ積雪だと思う。
★きょう、午後からの風景です。きのうの写真と比べてみてください。長崎では、生活を揺るがす出来事です。
★夜、7時少し前に、いつも職員が各部屋に声をかけて回ります。昨夜は、職員が言いました。「あしたは、教会へ行かないでください。道が凍って、すべると危険です」。何よりも老人はすべって、転んで、骨折や打ちキズになるのが、怖いです。それでも「行こうか」と心では思いましたが、万一のことを考え、職員さんに従って、休みました。
★雪が、こんなに降ると、寒さを思い、生まれ、育った北朝鮮の、あの厳しい冬の寒さを思い出します。冬になると、手が凍傷(しもやけ)にかかって、ただれるのです。並みの寒さじゃなかった。零下20度ぐらいまで下がった。今の寒さは、北極圏から、シベリアの寒さが、日本列島へ下がってきているとテレビでは解説している。北朝鮮の庶民たちが、どんな寒さの生活を強いられているのか、思うだけでも、心が痛みます。北朝鮮には、カトリック教会も、信者たちも居た。かわいそうで、ならない。

2016年1月24日日曜日

長崎に、珍しく、雪がつもった。ころばないように、注意

全国的に、寒波が襲う。長崎では珍しい雪。朝から降り出した雪は、またたくまに、真っ白にした。昼食のとき、ガラス戸越しに撮った景色です。雪が、ふぶいていました。
★老人にとって一番危ないのは、「転倒」。ころばないように、用心してください、と言われる。実際、その例が、度々起こる。骨折などあると、大変です。
★ホームは坂道の高台にあるので、職員さんたちの出勤の妨げになった。「歩いて来ました」。そんな声を聞いた。「ご苦労さま」
★一週間が経つのが早い。日曜日。キリスト教一致の週間だが、お説教は「一致」についての内容だった。

2016年1月23日土曜日

励ましてくれる人の存在が、この日記を支えている

きのう、喜びのシスターのことを書いたら、1つのコメントが入っていた。「感激と感謝に涙した」。書いた女性は、KoKoさん。アメリカ・テキサス在住の洽子さんからです。
★洽子さん、聖コルベ館でお会いしたときの写真を載せました。エスペランサさんも同行していた。いろんな思い出が湧いてきます。お元気で居て下さい。2年後、修道士が、ホームに居るなんて、思いもしませんでした。過激な環境の変化です。人生には、なにが起こるかわからない。これも神さまがお望みになった御旨だったのでしょう。受け止めています。洽子さんは、ホームにも見舞いに来てくださった。励ましてくださる人の支えが、この日記を書かせている。元気にしていますから、安心してください。
★午前中は、整骨院へ行った。車が出迎え、ホームから、4人がいっしょだった。マッサージ師が違っていたので、受ける手の感触が異様にことなっていた。

2016年1月22日金曜日

おめでとうのシスター。ニコニコ顔が輝いているよ

ホームの隣の湯江カトリック教会に、朝ミサに、このところ数日、1人のシスターがお祈りに来ている。この1月に、無期誓願を立てた。お祝いの後で、しばらくの休暇をもらって、湯江の実家に帰っている。写真のお隣は、お父さん。ホームの事務長さんを、35年勤めている。
★嬉しそうなニコニコ・シスターが、数日前、教会に姿を現したとき、挨拶で、「幼い頃から、ホームに遊びに来ていて、皆さんの信仰のお陰を受けながら、育ちました」という意味を語った。きょうは、修道院へ戻る日と聞いたので、写真に撮った。
★神さまは、ひそかな声で呼んでいる。中学校へ上がるときに、シスターになると、家を出た。シスターの志願者となって、勉学やお祈り、実習など、約10年はかかる。修練を経て、有期の誓願を立てる。シスターとしての奉献生活が始まるのだ。無期誓願まで漕ぎ着けたから、よかったですね。それで聞きました。
★「いま、こころに浮かぶ、なにか、目標のような言葉がありますか」
★シスターは答えた。「お母さんからの教えで、『煉獄の霊魂のために祈りなさい』」。それを聞いたとき、まさか煉獄が出てくるとは・・・長崎の地元に根付いた信仰を感じて嬉しかった。
★「それと、わたし、(霊名)コルベなんです。コルベ神父さまの『白いカンムリ』、『赤いカンムリ』。憧れますよ。『赤い(殉教)』は、どうかと思いますが、修道生活にも日々、殉教はある気はします」
★ニコニコ残して、シスターは去った。この家族、シスターのお姉さんも、シスター。神さまの計らいは、限りなく働かれる。
★湯江教会は、小さな世帯の小教区ですが、シスターが2人も居るのは、誇りでもあり、お祈りをもって心身と霊性を助けてあげなければと、思う。

2016年1月21日木曜日

1つの歴史が終わった、と言えるほどのお別れだった

100歳奥さんの葬儀の写真を10数枚撮った。しかし、どれでも載せるわけには、いかないでしょう。でも、この2人の写真はいいでしょう。親戚で、わたしの誓願金祝のときは参加してくださった女性です。修道服姿で、葬儀に来たのを、喜びで受けてくださった。葬儀ミサ・告別式に参列が出来て、お祈りが出来て、本当に良かったと、今は思っている。
★修道服を着ていたお陰で、教会の顔見知りの女性数人にも、声をかけられた。神父さんと一緒に、100歳奥さんの所を長年、度々、訪問し慰めてくれた人たちです。「もう、記事は書かないの?」と聞かれる。「いくつ?」と問えば「昭和3年」「あら、いっしょ」「いつまでもお元気で・・・お世話になりました」
★葬儀の思いは、いまも、つづいている。葬儀の場所は遠かったが、おそばで、神の国への見送りができて、ほんとうに良かった。1つの歴史がわたしの中で終わったと言えるほど、奥さんとのお別れとなった。100歳だから、ね。背がスラーっとした人で、着物が似合う女性だった。優しい人だった。
★親戚も少ない自分だが、年月が経つと共に、更なる身辺の寂しさを感じている。つながりが、1つ、1つ、消えていく。

2016年1月20日水曜日

葬儀ミサに祈り、100歳女性の安息を願った

早朝、雪はやんでいた。ミサの後、高原修道士に、「行けるね?」と聞いた。「行けます」。朝食をすませての出発となる。ところが車を出してみると、パンクしていた。時間は経っていく。車を乗りかえて、何とか出た。しばらく、2人の間に、沈黙がつづいた。
★そこで、わたしは、亡くなった100歳女性とのご縁を、高校生のときからの話を語り始めた。「その後も度々お世話になったんです。それでも葬儀に行くか、迷っていた」と、ふがいない心のうちを打ち明けた。車は、高速道路を順調に走った。
★充分、余裕のある時間に、佐世保の教会に到着し、安心した。お棺はお通夜の会場から、まだ教会に来られていなかった。
★まずは主任司祭へご挨拶をしよう。これが、わたしの手法です。2人は修道服を着けて、司祭館のベルを押した。神父さんが出てこられて、スリッパを差し出され、司祭館で、神父さんの手厚い接待をうける。神父さんは、信徒と共に、ホームの100歳女性を度々訪問し、ご聖体を授けてくださった。お礼をのべる。感謝の意味もこめて、「よかったら使ってください」と、日本26聖人のDVDをお渡しした。神父さんは喜ばれた。
★お棺と、遺族がこられて、教会へ入り、お悔やみを申した。係の女性から、「書簡を読むように」頼まれる。追悼ミサが始まり、パイプ・オルガンで追悼の聖歌が唄われる。高原修道士が書簡の読み役を果たした。悲しい「あの人」とのお別れだった。長年の歴史が消えたように感じた。
★帰りの車の中で、ほんとうに来て、「よかった」と、心が安堵し、気持ちが抜けた感じがした。

2016年1月19日火曜日

初雪に、悲しい知らせ。親戚の女性が、100歳で死去

テレビでは、北日本や、東京に、大雪が降ったと報じているが、今朝は、長崎でも初雪が降った。自室のガラス戸をあけた風景です。長崎で雪の景色は珍しい。以前は、山間部でも、37cmの雪が降ったのを覚えているが、最近は、あまり積もらない。温暖化の影響か。
★昨夜、携帯に、悲しい知らせが入った。従兄の奥さんが、亡くなった。100歳を祝ったばかりだったのに、と親戚の女性の声だった。場所は、佐世保。介護施設ホームで長年暮らしていた。
★戦争が終わって、2、3年の頃、高校生のわたしは、佐世保の従兄の店で、お世話になって、休暇を過ごしていた。従兄は早く亡くなったが、優しい奥さんを頼って、その後も度々お世話になった。佐世保の町と言えば、先ず奥さんの存在につながる。「神父さんにも度々来ていただいていた」と女性の声。信徒の訪問も受けていた。
★今朝は、女性からまた電話があって、葬儀は明日と教えてくれた。ガラス戸をあけると初雪だった。おそらく、この日は忘れないだろう。佐世保の町まで、車で2時間はかかる。「行きたい」気持ちはあるが、乗り物の関係で、行けるだろうか。
★100歳奥さんの、神の国での安息を祈った。

2016年1月18日月曜日

イッポン橋を渡っております。ゆ快さの気持ち残したい

いつの日だったのだろうかなァ。こんな絵を描いた日があったのを思い出した。おそらく、3、4年前だろうか。
★いま見て、おもしろく、よく描けていると思います。あの時は何を考え、描いた「一本橋」は、何だったのか。描いたときの心境は、わからないが、いまになって思えば、確かに、「どうしようもない」一本橋がひかえていたのは、ホントのようです。
★ぶれずに、橋を渡りきる。「生きている」と、「生かされている」のは違うさ、と言う者もいるが、わたしは、まだ生かされている、その気持ちです。そして感謝です。感謝をすれば、一日、生きられる。
★「それでも、ゆ快さ」。その気持ちを忘れたくありません。いま、ジーッと、絵を見ています。

2016年1月17日日曜日

日曜日。教会・祭壇の生け花。マリアを通してイエスへ

今週の湯江カトリック教会の祭壇・生け花です。毎週、親切にも生けてくださる女性が居ります。祈りながら、見るのも楽しみです。
★日曜日。ミサで、祈る。聖福音は、「カナの婚礼・イエスの最初の奇跡・水をぶどう酒に変える」場面であった。イスラエル巡礼旅行のとき、カナへ行ったことを思い出した。確か、ぶどう酒を買って喜んだ。遠い思い出です。
★母・マリアさまが、御子イエスに、ぶどう酒がありません、と告げる。イエスの答えは、「まだ、そのときでは、ありません」。しかし母マリアは、召使たちに、「イエスの言われる通りにしなさい」
★母マリアさまを通して、イエスへのお願いが叶った。お説教の司祭は、ここで、コルベ神父の話を出して、「マリアを通して、イエスへ」と語った。その話を聞いて、嬉しくなった。マリアを通して、神イエスへ至るのがもっとも近道であると、コルベ神父は教え、最も信頼できる近道である、と聖母の騎士信心会を創立した。今朝は、祈りながら、そのような理想を考えた。
★「マリアさま。よわい、わたしを、たすけてください。あなたの、やさしさのなかで、いこわせてください。マリアさまも、おんこ、イエスさまも、たくさん、たくさん、くるしまれたことを、本心から、わかる、めぐみを、あたえてください」

2016年1月16日土曜日

冬のきびしさ身にしみる。平和と自由をお願いします

買い物に出かけたときの、植木鉢です。暖冬がつづいていたが、急に朝夕は寒さが厳しくなった。もう1月も半ばになったが、これから、2月5日の日本26聖人の祝日ころまで、寒さは身にしみるでしょう。植木鉢に、何か、赤く、小さなツボミがついているので、写真に撮った。
★午前中は、整骨院へ行った。マッサージ師から、「グワイは、どうですか?」と聞かれるのに、なんと答えたらいいか、少々、ためらいがある。
★新聞に、知り合いの被爆者が亡くなったと、知らせを読んだ。彼の功績が大きく報道されている。何度か、語り合った思い出の人でもあった。寂しさを感じると共に、被爆者が次々と亡くなっていくのが、こころ痛む。安息を祈った。
★お願いします。すべての人に、平和と自由の恵みが与えられますように。

2016年1月15日金曜日

ハイ、信じます。信じたいです。弱い、わたしですけれど

山の女子修道院で、祈った。
★庭に、1つのレリーフ。コルベ神父が、戦争中、刑務所に抑留されて、ナチの将校から、「お前は、神を信じるのか。神は何をしてくれるのか。助けてくれるか」と、ののしりながら、神父の顔を連打している場面だった。
★神父の答えは、「ハイ、わたしは神を信じます。神の愛を信じます」と、勇敢にも言い放った。
★レリーフの周辺の景色をゆっくり眺めるとき、「今と言う、この時」は、この周辺で生活した、30代、50代の過去につながっているのを感じた。コルベ神父を仰ぐとき、「ハイ、わたしも神を信じます。いや、愛を信じて、今を生きたいです」と、こころに何かが湧いてくるのを感じた、きょうでした。

2016年1月14日木曜日

感謝して、きょうの日の夕暮れを迎えたいです

「チカラづよく、生きぬいた、と、言われるジンセイ」。そして、祈りのこもったステンド・グラス。写真を写した時を見ると、2011年4月と読めた。5年ほど前になる。
★「カッコウ、いいことを、書いていたな」と、今は思います。
★数年後に、今のホーム生活になろうとは・・・夢にも考えが及ばなかった。長いジンセイで、なにが起こるやは、わかりません。その壁をチカラ強く乗り越えよ、というのが、この言葉でしょう。今を、恨むな。
★この歳になっても、ホームに居ても、「自分らしく、生き切りたい」、その思いは、底辺では、変えたくありません。この道を生きます。この信仰に生き抜くチカラを求めます。
★ホームに居て、身体の不自由な人たちの現実の姿を見れば、まだまだ自分は幸せと思います。感謝して、きょうの日の夕暮れを迎えたい。

2016年1月13日水曜日

明るさ、ふるまう、シスター。イヤね、もう還暦だよ

長年、ホームに勤務していたシスターが、足の関節を痛めて、手術した。それを、きっかけに、ホームを退職して、修道会へ戻っていた。元気を取り戻して、週に、2、3回、ホームに姿を見せては、入居者や、職員に励ましの言葉をかけている。
★シスターの姿を見るだけで、こころが安らぐ。きょうは、ロザリオの先唱をしてくれた。「シスター、シャシンば、1枚とらせて・・・」「なんば、すっとね」「ブログに載せたかとよ」「マリアさまのところで写して・・・」「ここが、いい」。マリア像の足元には、かっての園長神父さん、初田神父さんと坂谷神父さんの写真もあった。
★「シスター、好きな言葉は、何んやったか、な」「そうね。『主と共に』」「ああ、そうやった、ね」。上五島出身、26歳で、この道に入る。主に呼ばれたのだ。「1月14日が誕生日。60歳、還暦だよ」「もう、すぐじゃないか。おめでとう」。まだ、まだ頑張れる。健康に気をつけて、愛と信頼で、働いてください。

2016年1月12日火曜日

1日、1日、平穏・無事に過ごすのが、幸せです

湯江カトリック教会の、今週の祭壇の生け花です。
★新聞で、「おひとりさま」の活字を見ました。「病気になっても、ガンになっても、おひとりさまで入院し、病気に耐えている。そういう孤独の生き方が、めずらすくなくなった」と書いてあった。「そうなんだ。かわいそうに・・・」と、つい思った。その記事の最後に、「こうなったのは、自分のせいでもない。誰のせいでもない。『これは自分が歩んできた道なんだ』と受け止める。そして今は、こう思う。「最後まで、自分らしく生き切るんだ」
★午前中に、入浴した。いつも90歳の男性と一緒に入ることに決めている。1人では、風呂に入らない。やっぱり90歳が背中を流してくれる。背中に温かいものを感じる。
★午後から、ショッピングといって、小型バスで、10人ほどが買い物に出かけた。仲間の1人になって、数点の品々をカゴに入れた。ホームに帰ると、すぐ教会へ向かった。ロザリオは園長神父さんが先唱をして、すでに始まっていた。いっしょになって、祈った。
★「おひとりさま」には、なりたくないが、「自分らしく、生き抜く」のは共感する。1日、1日、平穏、無事に過ごせるのが、幸せだ。
★もう、お正月も終わりか。きのうは、ホームでも、ちゃんと、「餅入りの、ぜんざい」が出た。

2016年1月11日月曜日

聖コルベ館にお勤め、お手伝いの2人が面会にきた

長崎の白浜さんが、2人のお客を連れて来た。聖コルベ記念館に勤める、お2人です。左の女性は、中村さん。右は、韓国人の青年、金さん。聖コルベ館には、聖コルベを慕って、多くの巡礼者が訪問している。「お仕事は、大変、意義のあるお勤めです」と、懐かしんだ。
★金さんは、韓国の大学で、日本語学科を学んで、長崎の大学でも学び、さらに大学院で、勉強をしている。研究の内容は、韓国人の日本に於ける殉教者、キリシタンです。
★韓国にも殉教者は居り、その研究者は多く居るが、日本で殉教した韓国人の殉教者は、まだ未研究だという。その意味で、キリシタン関係の本には特に興味がある。
★金さんの訪問で嬉しかったことは、聖コルベ館に収集したキリシタンの本の数々を、興味をもって高く評価してくれたことだった。ガラスの戸棚に集めておいたが、「それらは貴重な資料になる」と、韓国人の青年から誉められ、注目を惹かれるとは、思いもしなかった。「わかる者には、わかるんだ」と慰めを得た。金さんには、エールを送りたい。そして中村さん、聖コルベ館のお世話をお願いします。白浜さん、ありがとう。

2016年1月10日日曜日

映画館で「母と暮せば」。吉永小百合主演映画を見る

ひさしぶりに、長崎市の映画館へ、『母と暮せば』を見に行く。ホームから、8人が同行した。主演は、吉永小百合。山田洋次監督の作品だった。
★二宮和也が演じる医学生が、原爆で、被爆死する。原爆が落ちて、3年目あたりの設定で、医学生が、あの世から姿を現しては、物語が展開する。最後は、演じる小百合も亡くなる。その葬儀が行なわれたのが、黒崎カトリック教会の中であった。亡くなった2人が出会うのだから、教会の内部も、一般の撮影でなく、違った雰囲気の教会内になっていた。
★わたしも原爆を直接に被爆したが、3年目の頃は何をしていたのだろうか。家に住むことなく、神学校で学んでいた。生き残った者にとって、特に被爆死した家族は忘れ切れない。ほんとうに、被爆の廃墟のなかに、戻ってくるような感じで生きていたのは確かです。映画で、息子が死んで、母が残ったが、わたしの場合、息子が生き残って、母親が亡くなった。しかも全くの行方不明で、遺体も捜し当てなかった。
★『母と暮せば』、母も生き残って、母と暮らすことが出来れば、わたしの人生も変わっていたに違いない。カトリックの家庭祭壇や、祈り、ミサの賛美歌などが映像に出てくるカトリック的な作品に思えた。一たび、イノチが与えられれば、魂は消えることはない。違和感を感じることなく、すんなりと見れる作品であった。

2016年1月9日土曜日

出たーッ。新年会と誕生会。賑やかに盛り上がる

1月生まれの誕生会と、新年会がいっしょに昼食のときに行なわれた。楽しければ、それで、いいのさ。何のオドリ?か、わかりません。2枚のサラを手でつかんで、両手で、「チャカ、チャカ」鳴らしながら踊ります。この辺の「のん、のこ、踊りか」な。園長神父さんも、挨拶で、「みんなと、いっしょ。ホームに来て、10年になる」と言っていたが、リズムに乗って、踊りだした。「福よ、来い」「お恵みよ、来てください」。そんな気持ちです。
★誕生会をお祝いしたのは、9人でした。98歳の女子も、お花と、プレゼントを貰ったかな。新年会だもの、獅子舞も、例年通り、やってきて、みんなを湧かせた。大きなお口を開いて、アタマを噛んでくれる。「ボケないように、ね」。もっと、カメ。もっと、カメ。
★料理は、自分の望みで、3種類に分かれた。長崎和牛のすき焼き。豚のすき焼き。サカナの鍋料理。「どれがお望みか、決めてください」。牛肉のすき焼き組に入った。食べた後は、のど自慢で、古い歌で、盛り上った。恒例だよ。「平和で、長生きできるのが、願いです」

2016年1月8日金曜日

テレビで、日本26聖人・映画の片鱗が紹介される

いつぞや、新聞のテレビ番組で、「滝川クリスタルがせまる長崎教会群・秘められた真実」と見つけたが、長崎辺りでは、教会群のことは度々出ているので、いつものことかと、見過ごしてしまった。
★すると、クリスマス頃の日記のコメントに、「テレビで、日本26聖人の映画が出て、弁士をなさった小崎さんが紹介されていました。小崎さんの弁士のお声が聞けて、嬉しい思いを致しました」と教えてくれたマリアさんがいた。それを知って、「ああ、残念・・・」と悔しがった。見損なったことを非常に残念に思った。
★ぜひ、見たい。思っていたところ、東京の裕子さんが録画していて、その番組のDVDを送ってくれた。興味をもって見ました。「滝川クリステルがせまる長崎教会群・秘められた真実」の、番組の最初のところに出てくる。
★次のようなナレーションが流れる。「昭和初期、・・・1本の映画が公開されていました。・・・26聖人は、秀吉の命令によって、長崎で磔(はりつけ)の刑に処せられた宣教師と、日本人カトリック信者の無声映画に、長崎県在住の修道士、小崎登明さんが自ら音声をつけた映像が残っていました」と、数カットの映画と、弁士の声が入っていた。「ああ、よかった」
★もちろん、ほんの僅かな、分秒の画像でしたが、はっきりと、名前まで紹介されて、光栄に思い、嬉しいでした。解説されて、製作者の平山政十さんも神の国で喜んでいるだろうと思った。
★きょう、テレビ会社から、正式に、お礼状と、DVDが届いた。そういえば会社の男性が訪ねてきたことがある。全く、気にしていない出来事だった。「しかし、よかったよ」。一見落着というところか。

2016年1月7日木曜日

「平和」は、誰にとっても、願い。身近な場所にも、ヘイワ

正月といえば、書初めでしょう。今年最初の書道教室があった。先生が、1字がいいでしょうと、「遊」を崩した字や、「寿」を手本に書いてくださった。何か、年始らしいものが、いい。そのうち、「平和」と書いた字があった。これが、いい。平和であることは、今の世の人の願いです。書いた「平和」を自室に飾りました。
★体重測定や、血圧検査があった。ホームでは、各人の健康に気を配っている。半日をかけて、長崎のクリニックまで定期の診察に出かけた。医院へ行くのは、やはり気が重い。
★七草粥(ななくさ・がゆ)の日、夕食に出るらしい。メニュー表に記されていた。こんな季節ものも、楽しみです。静かで、平和な日々がつづく。

2016年1月6日水曜日

笑った。目隠しをした。サイコロもふって、皆をわかせた

「皆さん、集まってね。新年のお遊び会だよ」。ニンゲン・スゴロクだよ。昔は、スゴロクの遊びを正月には、やったものだよ。お年寄りたちには、それぞれ思い出もある。若手・職員さんの2人、何じゃ、それは・・・。左の派手な衣装の女性は、賑やかに、踊ったり、はねたり。当然、笑いもおこる。左の男性職員さんは、アタマに正月のお供え餅、下は、どうなっているの?おサルさんかな。お尻をまくって、みんなを大笑いさせた。手前の方に、みんなは集まった。1人、1人、軽いサイコロをふって、その数だけ、2人が移動した。正面、左に見えるのは、手ぬぐいで目隠しをして、お福さんの輪郭に、目や、口や、眉毛を入れる。「ハイ、次は、あなたに・・・」と目隠しされた。幸いといっては何だが、手ぬぐいの下の方が、少しばかり、あいていた。それで、上手に、まゆげを付けた。「何も言わずに、ごまかしたままに、していたのは、ゴメン」。★人生は、じょうずに、スキマから、切り抜けるのが、たいせつだ。

2016年1月5日火曜日

まだ、こんな太陽はあがらない。正月は天候が霧状態

今年の正月は、朝から、霧がかかったような状態がつづいている。初日の出も見られなかった。この朝日は、元旦・前日の朝の日の出です。自室のガラス戸から見えた。何度も写した光景だが、やっぱり正月には気になる。
★長崎から、2人の女性が面会に見えた。「暮らしは、どうしているのか、心配している」。温かい気づかいが嬉しい。入所当時は、心が閉鎖的で、応接室で面会していたが、今頃は、心も開かれて、自室で、ありのままの生活ぶりを見ていただいている。
★「こんなに狭い部屋です」「ゆっくりとした生活です」「隣に教会があるので、行って祈れば、こころ安らぐ暮らしです」
★書いてきたことは、人と人との、ふしぎな縁(えにし)だった。それを意識している。めぐり合わせがあって、人は幸せになる。幸せを見つける。そこに、ふしぎな、おもしろさ、喜びがある。
★最近は、人に頼むことが多くなった。それでも気持ちは、朝日のように、晴れ晴れしたいです。きょう、この頃の願いです。

2016年1月4日月曜日

人は成長する。思い出は、心を温める。今を生きる

枚数は、わずかな年賀状であったが、手書きの励ましの言葉も幾つかあって、慰めを受けた。その中の一枚に、洸太くんの「お元気ですか」があった。
★写真が、洸太くんです。年賀状の字は、宛名も、一字、一字、しっかりとして書いてある。「あの洸太は、幾つになったのだろうか」と、出会いの思い出が、アタマをよぎる。聖コルベ館に訪ねてきた洸太くんと一緒に写した写真だ。幸いに、パソコンに残っていた。洸太くんは、何年生になったかな?愉快な、元気な男の子だった。ついつい、つられて、いい気になって、ピースの表情だよ。2012年8月15日とある。あれから3年数ヶ月になる。忘れないで、年賀状をくれたのが嬉しかった。
★人の喜びとは、こんな小さな出来事にも大きな感動を与えるものだ。字もしっかりと書いているので、大きく成長したことだろう。子どもの成長は楽しい。元気で頑張ってほしいと、手紙で返事を書いた。この写真と、元旦、ブログの写真を入れて送った。洸太くんは、喜んでくれるだろう。
★そのほか、年賀状に書かれていた言葉の幾つかを紹介しよう。
「一日だけで、いいので、コルベ館のトマさんが見たいです」
「老いの重荷は、神の賜物。トマさん、あと六十日で、米寿ですね。おめでとう。ブログ何時も拝見しています。お元気でいて下さい」
「聖コルベ館で、二十六聖人の映画を拝見し、トマさんとお話をした台湾出身の女性です」
修学旅行引率の先生から「ブラザー小崎のお話を、いつも思い出しております」
★見守ってくださる皆さん、ありがとう。また新しい年まで生かされて、感謝だけです。思い出は、心を温めております。

2016年1月3日日曜日

笑いがあれば、いい。ホームの良さは、人のつながり

園長神父さんにはお世話になっています。このホームは、代々、神父さんが園長を勤めてきた。最初の園長神父さんも、働いて、大工の作業にも精を出して、歳をとると、ホームのお世話になって、亡くなった。
★「わたしも、歳をとれば、ここにお世話になるとたい」と神父さんは微笑む。豪華な、設備の整った介護施設の有料ホームはあるかも知れないが、要は、介護してくださる職員と、介護される入居者の、人と、人との交わりだと思います。家族の心があればいい。
★車椅子の人でも、シャンとして、オーラのある入居者も居るんですね。ああゆう歳の取りかたをしたいと、憧れますよ。生きる手本になります。それぞれが過去の人生を背負って生きている。
★正月も、きょうで、3日になる。ホームでは平和で静かな正月でした。午前中は、入浴した。やっぱり、90歳の男性が、黙って背中を洗ってくれた。黙って、洗ってもらった。安らかに余生を暮らしている。あわてない。さわがない。

2016年1月2日土曜日

今年もお世話になります。若い人たちの介護が必要です


新しい年を迎えて、ホームの入居者と、お世話してくださる職員さんたちとが向かい合って、新年、最初の顔合わせがありました。お世話になっています。助けを頂いて、感謝しかありません。どんな人でも歳をとれば、からだが不自由になる。長生きすれば、するほど、苦労も多くなります。入居するときは、まだ元気で、自分で歩けるし、買い物にも行ける。散歩にも、一人でホームの周辺を楽しめた人が、年々、歳を重ねるうちに、体力も落ちてくる。歳には、とうてい勝てません。
★いつも思うのですが、修道者は、修道院で同じ仲間の皆さんと共同体で、一緒に祈り、食事をして、暮らすのが普通であり、幸せです。それが突然、急に、ホームの一人の生活を強いられて、最初はとまどいがあった。だから昨年の正月は、心が閉ざされた気持ちでした。二年目の正月を迎えて、気持ちにも変化が起こりました。
★年賀状のなかに、「今年は聖コルベが殉教して、75年目になる。聖コルベのことを、もっと知りたい」と殊勝な気持ちが書いてあった。1941年8月14日が殉教日です。

2016年1月1日金曜日

2016年・平成28年・元日・新年明けましておめでとう

★朝、ミサのときは、修道服を着ることにしました。今朝は、いつものように5時に起きる。修道服を着て、隣の教会へ。5時40分から修道者と共に、教会の祈りの「朝の祈り」。きょうは、神の母・聖マリアの祭日でもある。マリアさまの慈愛によって、新年を迎える。6時から、ミサ。お説教は、いつくしみ、慈悲についてであった。朝食に、黒豆、数の子、が出た。
★一息ついて、10時からホームの皆さんのために、ミサがあった。車椅子の入居者もいる。湯江教会の信徒たちも一緒だった。里帰りした若者が多く居て、賑やかだった。ミサの後で撮った写真が、これです。「謹賀新年」。良い年になりますように、願いをこめて未来を見つめている。あと、二ヶ月で、八十八歳。米寿だよ。
★昼食は、新年のお祝いとなった。正面、舞台には国旗、日の丸が掲げられ、「君が代」を歌い、昔からの「正月の歌」を皆で唄った。職員さんと、入居者の新年の挨拶があり、カンパイもあった。昼には、お雑煮と、見事なタイのサカナ一匹も出ました。「国によっては、食べ物に不自由をして、貧困にあえいでいる人も多く居るので、その人たちの幸せも考えて、いただきましょう」の声もあった。
★年賀状は、25枚、届いた。うち、登明の名が、13枚。田川が、12枚あった。もちろん、聖コルベ館に居たときより、枚数は減少した。「ジンセイは、オムツで始まり、オムツで終わる」。それまでは慈愛に満ちた心情で、生き抜こうではないか。君も、わたしも。幸せな人生でありますように。