2020年7月31日金曜日

トンボ、乱舞。「過去はアーメン、未来はアレルヤ」の神父さん

昼食の後、ベッドに横になる。
日記を書く。
教会の祈りを唱えて、椅子を屋外の方に向けて、ロザリオを祈る。広がる青空に、トンボが、多数、乱舞する。1羽のトンボが、「こんにちわ」と挨拶するように、パソコン横のベランダに止まった。「いのち、ふしぎ、いとしい」
★今朝はミサの始めに、司祭が「イエズス会の創立者、聖イグナチオの記念日です」と告げた。直ぐトマは思った。(イエズス会といえば、長崎・浦上の『永井学生センター』に、メキシコ人の神父さんが居たな。あの神父さんの名前、なんだったかな?)
★ずい分とお世話になった神父さんなのに、名前を思い出せない。ミサ後、老年の修道士に聞いても、首をふるだけ。朝食のとき、瀧神父さんに聞いてみた。「あの神父、知ってはいるが、名前、出て来ない」。こちらも同じ。
★ところが昼前に、瀧神父さんから電話があった。「アギラール神父だよ」。ビビッと来た「ああ、そうだった」
★もう、十年程前に、アギラール神父さんから、個人的に5日間の黙想を受けた事がある。1日目にアギラール神父さんが言った言葉。「小崎さん、あなたは、これまで沢山の人のレポートを書いてきた。今度は、神さまが小崎さんをレポートします。どう考えますか」。これには参った。難しい問いだったな。2日目に、神父さんがポロリと言った。「カンシャだね」。つまり、感謝しないことは愛に応えない。神の愛のもとで、総ての事が行なわれている。これが神さまのミステリー。
★3日目、神父さんが言ったのは、「愛は、幼児の頃のスキンシップ、これが大切です。肌で感じて、愛が伝わり、愛がわかる」
★4日目が恵みの日だった。朝、信徒も祈って、別のお年寄り司祭のミサがある。この日の福音が、ヨハネ21章の復活したイエスが湖畔で弟子たちに現われた場面であった。それについて司祭が短いコメントをしたが、それを聞いて、トマは、ひらめいた。
★「我に、従いなさい。でも、色々あった。否みもしたが、復活後のイエスからペトロは『愛するか?』と問われる。ペトロは『愛します』とは断言しない。『あなたが、御存じです』。この言葉に重みがある。ペトロは、三度も問われて『悲しく』なる。この悲しみは、過去に否んだ、これではない。愛を貫けるか、謙遜の心なんです。
★早速、アギラール神父さんに、「宿題の『神さまがレポートする』の答えが見つかった」と答えた。『あなたが、何もかも、御存じです』
★最後の5日目に、アギラール神父さんは、いい言葉を残してくれた。「過去は、アーメン。未来は、アレルヤ」「え?何のこと?」。アーメンは「その通りです。そう成りますように」。アレルヤは「神をほめたたえよ」の意味。神父さんは言う。「過去は、み旨によって起こったことです。今から、何も、修正は出来ない。それは神の御前にある。神の憐みにかけよう。これからはアレルヤだよ」。アレルヤ。アレルヤ。これ人生。
★ホセ・アギラール神父さんは、トマと同じ歳だと言った。

2020年7月30日木曜日

きのう、退院した病院へ、きょうも行く。色々有るのが、人生です

今朝、車を掃除する高原修道士さんです。
今日も、また、総合病院へ出かけます。昨日、退院したばかりなのに、また同じ病院へ行くのです。
入浴の時、湯の中で、左手を右脇から背中へ向けると、何やら出来物がある。「ヘンや、なァ」
顔の右目の下に、黒い出来物がある。「これも、ヘンや、なァ」。ホームの園医師に見せると、「紹介状を書きます」
その予約の日が、今日でした。
女性の診察医師。「いつからですか?」「今年になって、気になりました」「顔は、若い時、陽に当たる人は、よく成ります。お仕事は何ですか?」「カトリックの修道士です」「陽に当たりますか?」(修道院の仕事?陽にあたるかな)。ウーㇺ、首をかしげて「わかりません」
「出来物の組織を、2か所、採ります」
ベッドに横になって、麻酔をかけて、顔と、右の胸部の裏側の組織を切り、糸で、縫った。
★長生きしておれば、いろんな事を体験するよ、テレビを撮った後で、良かったな。顔も、胸部の裏側も、なにか、おかしい。
★「1週間後に、来て下さい。糸を抜きます。組織の結果が出るのは、2週間後ですね」「アタマも、かゆいんですけど」「1週間分、クスリを出しますから、飲んで下さい」。(あまりクスリは飲みたくないんですけど)と、ノドまで声が出そうになったが、黙って、うなずいた。
★ホームに帰ったのは、昼食の前でした。昼食の時、マスクを外すと、白い小さなガーゼが止めてある。「どうした?」と、瀧神父さんが聞いたが、これも黙って、うなずいた。
★広い病院内を、押し車に頼って、急ぎ足で歩いた。「生きるって、大変やな」と、つぶやいた。困難が来ても、1つ、1つ、解決して行くしかない。「それが、人間の生活です」

2020年7月29日水曜日

生きている事、ふしぎな、導きです。日記を読まれる皆さんに感謝

元気を取り戻し、退院しました。
腎ゾーさんは、つぶやく。「もう、やめて、くれよ」。トマは、おなかをナゼ、ナゼしながら、慰めるように言う。「よーう、がんばったな。感謝するばい。これ、せんと、生きて、いかれんケンな」
濱田院長神父さんと、高原修道士さんが迎えに来た。コロナの関係で、外部の人は、病棟に入れない。面会禁止です。
高原修道士さんの運転の車に揺られながら、屋外の風景が新たに映る。つづいた雨も上がって、青空の夏の日になって、心地よい。「生きているって、いいなァ」。思わず出る言葉。真っ直ぐに、ホームへ帰った。11時頃だったかな。
「おかえりなさい」。何人からも、言葉をかけられる。ほほ笑みで迎えられる。「やっぱり、ホームが、よかバイ」
昼食前に、瀧神父さんに会った。「きのうの、ブログ、読んで、安心したよ」。昼食は「かつ・カレー」だった。「缶詰のみかん」も出ていた。「カリウムも正常値になっていた。くだものも食べられるぞ」。腎ゾーさんは言う。「ムリ、するなよ」
あとは、テレビの「こころの時代」が楽しみだな。何か、喜びがないと、生きていけんさ。「生きている、ふしぎな、ふしぎな、神さまのお恵みです」。日記の皆さんには、支えて下さって、ありがとう。

2020年7月28日火曜日

入院2日目。手術は無事終わる。感謝の心で静養

手術台の上では、リキまない、平常心で、肩の力を抜く、「あッ、痛いな」とは思わない。そんな気持ちで手術に臨む。
いつもより、楽に、短い時間で、無事終わりました。
術後も平熱、血圧120台、60台、快調です。
きょうは、病室で、ゆっくりしております。
皆さんの心配と、お祈りは、充分に伝わりました。ありがとう。

2020年7月27日月曜日

入院します。腹部のステント(管)の入れ替え手術。お祈り下さい

入院します。
4か月毎の腹部のステント(管)入れ替え手術です。
朝、9時20分に、高原修道士さんの運転・介護で、ホームを出発します。10時前に、病院へ着きます。
昼食なし。午後から点滴が始まり、4時頃から手術が行なわれます。腎ゾーに、管を差し込むのですから、ダメージもあるでしょう。もう何十回も行なっているからと言っても、慣れはありません。毎度、苦しみます。憂いもあります。
台車に乗せられて、病室のベッドへ。手術後は、2時間は安静です。夕食は、6時半頃になるでしょう。食欲は余り出ない。点滴が終わるのは、夜の10時頃でしょう。それで長い一日が終わります。今日は、そのように、ウマク行くか、な?
きょうが勝負だ、の気持ちです。苦難の道を思い出しましょう。今こそ、主と共に、十字架の道行を歩きましょう。手術が無事に終わりますように、お祈りください。
明日は、報告が出来るでしょう。
★「生涯、修道士であるのを、忘れるな。人生に、一定の評価はあった、と思え。死んだ者は、もう終わった。生きていることに、感謝せよ」

2020年7月26日日曜日

深夜に1晩だけ咲く白い花。月下美人。隠れた所を見る人もいる

ホームの鉢植え「月下美人」が、1週間ほど前、葉の先に、6,7本の芽を出していた。
植物も、生き物。自然淘汰するんですね。何本かの、花の芽が、振り落とされる。
残ったのが、3つ。「つぼみ」は、ふくらみ、いよいよ今夜は、花を開くぞ、と予想された。人が寝静まった深夜、ごらん、じょじょに、月下美人が花を開き始めた。
誰も見ていない深夜に、こんなに美しく、たったの1晩だけ、ひらく。ふしぎな花だと思いませんか。
★自分の人生、スタートは、どこか?
着地点は、どこか?
連れられて来た「ルルド」で、母は祈る。「この子は病気がちで、からだも弱い。マリアさまにお任せします」
15歳の少年は、何も知らず、ただ清らかで、純すいだった。
2年後、母との別れ。「行ってくるケンね」が最後。
この度、「ルルド」で、マリアさまのご像を仰いだとき、「もどって参りました」の心になった。あれから長い修道士の道を歩きました。老いた今、92歳。
振り返れば、倒れたこともあった、迷う事もあった。人も裏切った。傷つけた。しかし起き上がって、「ごめんなさい」「赦してください」。前へ進む。「帰ってきたよ」。これがトマの人生、と感じた。ここが着地点だったと思いました。
真っ白に咲いた美しい大きな花も、1夜が明ければ、この姿です。精も、根も、尽きました、の風情。何とも、言葉が出てこない。
★いよいよ明日から、入院します。
ステントの入れ替えです。
これが、トマの今の定めです。
まだ、こんな姿に成りたくない。
せいイッパイ生きるのです。人生、1回切り、苦難も受け入れて、咲きたい。
お祈り下さい。交換手術も、困難になっているようです。
来週は、トマにとって、苦難の週になります。

2020年7月25日土曜日

「こころの時代」のお陰で、ルルドで祈る。感無量。最後の登り

長崎・聖母の騎士。コルベ神父が、昭和7年5月に開いた「ルルド」。92歳のトマ修道士が、いま、ルルドへの階段を懸命に登る。前へ、行しかない。ルルド清掃係の白浜さんに聞くと、階段は「107」あるという。1段、1段、「行くぞ」「行くぞ」と自らを励ましながら、足を進めた。この日にちなんで、先ず聖母の騎士の山口院長神父さんに、「よろしくお願いします」とお頼みしていた。
6月23日(火)、朝、9時、高原修道士さんの運転で、ホームを出発。聖母の騎士に着くと、山口院長神父さんが待っておられた。テレビの取材班も既に待機していた。ルルドへの道は、平らな道、急な坂道、いろいろ有る。ディレクターは「車椅子」を準備していた。だが、階段は自分で登る。ふしぎとチカラが湧いた。ルルドに到着した時には、8年ぶりの年月に、新鮮さを感じて、目に涙がにじんだ。
ルルドのけがれなき聖母マリア像を仰ぎ、ヒシャクに、水をためて、飲む。感謝しながら飲む。この場所に、どれだけ沢山の思い出があるだろう。原爆死した母親から連れられて、初めてのお参りは15歳だった。母親のためにも祈る。「こころの時代」に取材されたお陰で、最後の「ルルド詣り」が出来た。令和2年の前半は、コロナで憂いたが、トマ修道士にとっては、最高の恵みの半年になった。
★テレビの取材を受けながら、長椅子に座って、静かに、ルルドの自然や、全体の樹木を眺める。葉の茂みの隙間から、キラ、キラと太陽の光がもれる。「これが、いいんだな」。癒される空気が、カラダを包んでくれる。安らぎがある。歩いて、広場の隅へ寄ってみた。長崎の街や、山の全景が、望遠できる。「いつも、こうやって、見ていたな」。巡礼者たちを、この場所まで案内するのが常だった。
★帰りは、トマを車椅子に乗せたまま、山口院長神父さんと高原修道士さんが抱えて(体重51キロ)、駐車所まで降ろしてくれた。「大変、お世話になりました」
★「ここには、けがれなき聖母マリアのお恵みと、聖コルベの身代わりの愛を求めて、多くの人が来た。それらの人たちと沢山、沢山の出会いがあった。それがトマの幸せになった」
★6月26日(金曜日)に、「こころの時代」の全部の取材が終わった。後は編集の作業に入ったらしい。ディレクターから、番組は全部終了しました、と報告の電話があったのは、7月17日(金曜日)だった。
★7月21日(火曜日)、昼、12時44分、NHKの長崎地方の番組で、予告編が放送された。去年の12月、自室にかかった1本の電話から始まって、長い月日が流れたが、熱心に尽くしてくれたディレクターと、その関係者に感謝した。後は放送を待っております。

2020年7月24日金曜日

「こころの時代」。取材は快調。自分を見直すチャンスになった

毎朝、4時半に起きる。身を整えて、自室を、5時15分に押し車で出る。誰も居ない暗い廊下をしばらく歩く。ホームの戸を開けるのは、数分経っている。教会には、濱田院長神父さんと高原修道士さんが居る。テレビのディレクターが「祈りとミサの儀式を下見に来たい」という。「5時15分過ぎには、戸口から教会へ行くからね」。その時間に、ディレクターは車で姿を現わした。その熱心さに感心する。
★肝心のインタビユーは、ホームの隔離された「面会室」で行なわれた。3度も行なった。「もう、いいだろう」と言えば「また」と頼まれる。結局7時間の長丁場になった。「なにを、聞くのかね」。撮影の前日には、毎度、FAXで、質問事項が送られてきた。だが実際は、事項から離れる語りが多かった。この長丁場のテレビを、どのように、つなぐのだろうか、組み立てるのか、トマには大きな興味になる。
★長崎・聖母の騎士でも収録が行なわれた。度々長崎へ行った理由は、ここにある。聖コルベ館や聖コルベ小聖堂は外せない。原爆体験を語る中で、こだわったのが「赦しなさい」だった。今の世、「赦せない」出来事ばかりじゃないか。殺傷事件、違反の交通事故、おれおれサギ、イジメなど、赦せない。本当に、コルベ神父は、ナチの兵隊を赦したのだろうか。疑いが起こる。
★赦しとは、悪を認める事ではない。悪を行なう人間に対しても、回心への優しい眼差しを向ける、それがコルベ神父の赦しだった。並みの人には出来ない。コルベ神父に、なぜ、それが出来たのか。コルベ神父は「身代わりの愛」「お礼を求めない愛」、それらを貫いたからこそ、ナチの兵隊に優しい目を向けることが出来た。恨んで当然、憎んで当然、仕返ししようと思って当然、なのに、コルベ神父のような人がいる、という事なんです。そこに人間への希望がある。だから「赦しとは、和解と平和の、愛の心」なのです。このコルベ神父の祭壇に、我が人生の流れの中での「答え」が有る。
★また、「信仰は、母親から貰った、財産です」。その信念は変わらない。何か、大きな「いのち」の流れというか、源から、生まれて、存在し始めた。人と、人との「関わり合い」のなかで自分を見つけて来た。自分が生きて、実際に自分が見たもの、触れたもの、肌で感じたことが、真実です。それは納得するし、受け入れやすい。わかった自分は、生きて行く価値があり、意味もある。自分は決して、強者ではない。「弱さに、希望を」。まさに、それです。
★「こころの時代」の取材は、6月中に、➀ホームの祈りとミサの場面も、➁聖コルベ館も、➂聖コルベ小聖堂の撮影も、順調に行なわれました。残るは④聖母の騎士のルルドです。そこに登るのは(経験者には分かるが)難儀だと、充分、予想はされました。しかし何とかして、がんばりたい。もう、これが最後だろうから、何としても果たしたい、こころは燃えておりました。
★「あなたに出会えて、あの時は、幸せだった。本当だよ。私の人生のなかで、1つの愛の大切な思い出」。そんな心が、いま私に湧いてくる。

2020年7月23日木曜日

「こころの時代」の収録。多くのテレビ関係者の心の集約があった

梅雨の晴れ間。暑い日差し。高原修道士さんが、マリア像が立つ広い庭の芝刈りをしている。
「こんな暑か日に、きつかろ」。思えば、最初の「こころの時代」のカメラ収録は、4月22日、水曜日。修道服を着て、押し車をおしながら、マリア像へ向かい、祈る場面から始まった。「何を祈りましたか?」とディレクター。「ホームでの生活の平安と、早めのコロナの収束だね」
ディレクターの興味は、コルベ神父は勿論だが、ポーランド人の神父さんや、修道士の資料に目を輝かせる姿には、トマも感心した。トマが修道士として務めることが出来たのも、これらの方々のお陰であった。みな、コルベ神父の時代に長崎へ来て、生活と苦労を共にした修道者たちです。その恩義、導き、助けは忘れない。「こころの時代」に、彼らの写真が、ポン、ポンと出れば、供養が出来ると思います。
NHKテレビ「こころの時代」は、全国放送です。再放送もある。トマには構成・関係者の詳細は分からないが、長崎の1人のディレクターが、「良かれ」と思って取材を始めても、放送のモトは東京の「こころの時代」の主要メンバーでしょう。彼らも「良かれ」と納得しなければ、見送りとなる。素人でも分かる事です。長崎のディレクターは熱心に掛け合ったのが分かる。1ケ月間、音信がない時期もあった。
★その間、ディレクターは、準備を整えていたと思うが、本格的に、カメラが始動したのは、6月に入ってからでした。隔離された「面会室」で、カメラを据えて、インタビユーしたのが、3度あった。2時間、2時間、最後は3時間、計7時間の長さです。
★インタビユーの他に、トマが、撮影を希望した場所がある。それは、➀ホームの早朝のミサ風景、➁長崎・聖コルベ館、➂教会内の「聖コルベ小聖堂」、④聖母の騎士のルルドでの撮影です。ルルドは、足が弱って、もう8年ぐらい登っていない。ぜひ、この足で、登ることを求めた。その場所で、色々思い出す事もある。自分でも「ルルドへ登りたい」と覚悟を決めました。
★さて、これらの場所の撮影は、ウマク行ったのでしょうか?

2020年7月22日水曜日

男性の面会は隔離の部屋。テレビもコロナの感染に気を使い心配

諫早の阿野さんが、見舞いに来た。いつも「多良見の果物ゼリー」を2箱持ってくる。アタマは、真っ白。美しか、ね。長崎・聖コルベ館の隣、幼稚園・送迎バスの運転手だった。その頃の、なじみ。もう1つ、ある。故・中島万利神父さんと親睦があった。トマも万利神父さんの尊敬派。「99歳で亡くなったモンね」。万利神父語録を思い出す。「祈りと、愛と、清さ、だね。清さが難しい。だから痛悔がある」
★NHKのディレクターが2度目の取材に来たのは、今年の1月22日(水)だった。トマの話は決まっている。「助ける人になりなさい。困難が来ても逃げない人になりなさい。赦す人になりなさい。平和は、人の心に、愛の花を沢山咲かせた時にくる」。これがトマの原爆体験。カトリックの学生には「コルベ神父の愛と赦し」を強調する。昨日の予告編に、以前、NHKが取材し撮った語り部の場面もあった。
★トマがテレビに出る。それも「こころの時代」に出る。あの番組は高名な高僧や学者が出演している。心して見ている番組だ。それに出るなんて信じられない。
★ディレクターと相対する中で、テレビ局が1時間の番組を制作するのは、並々ならぬ努力が要るのを知った。立ち話ではない。心の中まで何度も入ってくる。当然でしょう。これまで組み立ててきた自分なりの積み木だったが、もう1度、見分けて、組み立て直す作業が必要なのです。テレビは、トマの何に注目するのか。
★トマは、ディレクターの所作に応じながら、自分でも、もう1度、人生を振り返るよう徐々に考えていた。スタートは、どこか。着地点は、どこか。これを見つけなければ、1本のドラマの型には収まらないでしょう。その難かしさを感じた。
★2月、3月になると、新型コロナウイルスがまん延して、マスクを使うようになる。事態は深刻だ。取材は、ディレクターから頼まれて、トマが、ポーランドで録音したテープとCDを資料として渡した。まだカメラの取材は受けていない。後で知ったのだが、ディレクターは、トマの書き物を、騎士社やカトリック新聞社から収集していた。その緻密さ、熱心さに、おどろいた。
★4月になると、新型コロナウイルスは、更に拡大がますます顕著になる。特に、共同生活の老人ホームでは、感染を恐れて、外出や、面会に、禁止がかかった。果たして取材は順調に行なわれるのだろうか。ホームでは、必要とされた場合のため、隔離された「面会室」が設けられた。
★4月22日(水)、午後から、「面会室」で、カメラによる初めての取材が行なわれた。いよいよ本格的に「こころの時代」へ向けて、動き始めた。

2020年7月21日火曜日

土用・丑の日。ウナギを食べた。喜びの知らせ。NHKテレビに出る

「土用・丑の日」です。
昼食の前、食堂入口で待っていると、どこからか「それ食べて、元気にならんば、ね」と声がした。
「うなぎ」のかば焼きです。
老人ホームでも、ちゃんと出ます。
「うなぎ」大好き、楽しみだな、きょうの昼ご飯。
ナン・キレの、ウナギが出るかな。
食卓に着いたら、すぐ「うなぎ」を見た。
「おお、けっこう、あるじゃ、ないか」。これだけあれば、満足です。
「冬瓜の炒め煮」。これも珍しい。
くだものは、予定では、メロンだったが、マンゴーに代わっていた。高級・果物だよ。以前、園長を務めた神父さんが、沖縄に転任して、この時期、贈ってくれる。ありがたい。
昼食を終わって、自室に戻ると、テレビに予告編が出た。
NHK・Eテレ、2チャンネル、全国放送。1時間の番組です。「こころの時代・宗教・人生」。被爆者・92歳のカトリック修道士・小崎登明さん。「弱さを希望に」。「生涯にわったって人間の弱さを見詰めてきました」「苦しみに意味を見い出さなければ、乗り越えられない」。6場面が、短く映像に紹介されていた。8月9日、早朝の放送です。再放送もあります。再放送は、8月15日、土曜日。これは昼過ぎに、全国放送されます。
★NHKのディレクターが、初めてトマの自室に取材に来たのは、去年の12月27日、金曜日でした。その日から、今年の6月19日、金曜日まで、半年に及ぶ収録が進められました。新型コロナウイルスまん延の大変な時期に差し掛かりましたが、無事に終わりました。「今年も、いい事があるでしょう」と予告していたのは、NHKの全国放送のことでした。日記を読まれる皆さん、放送を楽しみにして下さい。

2020年7月20日月曜日

カマキリか?こんな所に、生きている。昆虫の命も大切だよ

あれ? カマキリじゃないか。
どこから来たのか?ヘンな、カマキリだな。
ホームの中を、さまよっている。
昆虫を見つけるのも、めずらしい。
日々、同じ生活をしているので、ちょっと、こんな昆虫を見るのも楽しい。
去年は、写真集を出して、おかげで長崎市で「写真展」も開いた。「写真展」に置いていたノートに、感想の記事が書かれている。ノートのコピーが、私の手の届く所にあります。読めば、ほほ笑み顔になる。それが縁になって、東京でも、ポーランドの集いに、「写真展」をひらく喜びがあった。見に来てくれた人ともご縁が出来た。長生きしていれば、いいことも有ります。
今年は、年の始めから、コロナが始まって、あれよ、あれよ、と言う間に、もう半年が過ぎた。でも、私にとっては、喜びのなかに生きた期間になった。今年も、これから、また、何かが、始まります。なんだろう?見守って下さい。喜びが、あらわになる。
カマキリよ、おまえを見て、ホットしたよ。生きよ、と声をかけたくなる。そんな場所に居て、食料はあるのか?相棒は居るのか?寂しくないのか?なぜ、迷いこんだのか?心配になる。数時間後、あのカマキリは居なかった。

2020年7月19日日曜日

同じ場所で、写真を撮る。看板は変わらず、ヒトは変わるよ

「おいしいですよ」の古い看板。当時、昭和30年代から、大衆に人気だった大村崑(こん)さんの宣伝。これも、かなり年期が入った小さい看板だね。写真の日付をよーく見ると、2011年8月15日、聖母被昇天の祭日、終戦の日になっている。お盆の日にも当たる。一杯、飲んだのかな。いい顔してる。指で、ピースなんかして、9年前だからね、まだ足腰もしっかりしていた。活躍していた頃だよ。
同じ場所で、また撮った。看板の崑さんは変わらないが、寄り添う男は、老人の顔になった。これだけ歳を重ねていくわけさ。物は残るが、生き物は変化する。自然の理だね。「有るのは、いま、だ。いま、このときを、真剣に、生きていこう。過去も、未来も、今には、ない。ゲンキで、生かされているだけで、ありがたい」
負けないぞ。くじけないぞ。来年も、ここで撮りたかな。
かき氷を食べたよ。「おいしいですよ」の看板が誘っている。子供の頃を思い出す。夢があるんだな。
ひとクチ食べたが「ああ、ツメタかばい」。結局、三分のニは残した。もったいないと思う、昭和のヒトケタ生まれ。子供の頃に食べたアイスは、試験管の形に棒を突っ込んで氷うらせたキャンディだった。店の内部は、うすらっと覚えているが、町の通りが思い出さない。
★ホームに居れば、ヒトツ、ヒトツの体験が、貴重な出来事になる。感謝になる。今日も恵まれた日を、ありがとう。日記を読んでくれて、ありがとう。何事も起こらなくても、日記を書くのは楽しみです。そのうち、良いお報せもあるでしょう。

2020年7月18日土曜日

大きな石のツボで食べる、手製の冷やしソーメン。今年も、又

国道から、クネ、クネと、まがった道を、山へと車は走る。
しばらく行くと、「あった」。食事処「てっぺい」
毎年のように、夏には、来ていた店。ここの定評が、手製の冷やしソーメンです。
清流が音をたて、川を登れば、瀧の観音さまがある。静寂な、世間を忘れさせる場所でもある。
「ああ、今年も、来れたな。うれしいよ」
特徴は、店内の、中に置かれた、大きな石の面。
真ん中から、清流が、十数センチ、立ち上る。
そこから9スジの石の道が伸びて、水が、丸いツボに注がれる。風情があるじゃないですか。座る場所は決まっている。今年も同じ場所に陣取った。
冷たい水が、豊富に流れ、満ち満ちて、来る。
この石ツボに、ソーメンを入れるのです。
「待って、いました、今年も、ここへ。幸せだね」
6年前、ここで「そーめん」を食べた後、倒れた。
思い出は、去年に、また一昨年に、又それ以上の年に、つながる。ここの「すりみ」が、また、ウマイ。長崎のサカナのすりみだよ。「ソーメン」の味は、トロッとしているのに、コシがある。「ああ、やっぱり、違うな」。この一言しか、出ない。
2人いるのに、3人前を注文した。
高原さんに、世話になっとるケンね。
「食べてや、おいしかろ」。押しつけがましかね。
ヒトは、食べる時に、より仲良しになる。生きている喜びを感じるからかな。
今日は、ホームで懇談会があって、8月の予定が担当職員さんから発表された。コロナが又、流行っている。
「ホームから出ては、いけません。ガマンしましょう」
★ああ、よかったよ。ソーメンの食事は、昨日でした。ウマクくぐり抜けるのが、トマの流儀かな。老いても、ボヤッと、致しません。

2020年7月17日金曜日

絵手紙を描き、その後、聖コルベ館へ。元気な内に資料の整理を

めずらしく忙しい日でした。
絵手紙教室があった。
カボチャと、ポプリカですか。赤と、黄色の色使い。
久しぶりの、絵でした。
8人の仲間と一緒でした。
先生の声を聞く。励ましてくれる。ヘタも、ジョウズも、ありません。それぞれに絵には個性がある。それで、よし。
絵手紙を終わると、高原修道士さんの運転で、長崎へ。聖コルベ記念館へ行きました。事務室の片岡さんと、ルルドで作業をしている白浜さん。
コロナの関係で、お客さんは来ない。
修学旅行生たちも来ない。「さびしいです」と片岡さん。
資料室で、調べものをしました。
ミロハナ神父さんの声が入ったテープと、遠藤周作先生との対談のテープを見つけて持参しました。大切な資料です。ゆっくり聞きたいと思っての行動でした。ホームに帰ったのは、今、です。
もう間もなく夕食です。日記が遅くなりました。

2020年7月16日木曜日

日々、気にしながら生きる。眠れるか。食べただけ、出るか、悩む

いま、一番、うれしいこと。
夜、よく眠れて、大のトイレがあること。まだ、押し車でも、歩ける事こと。食事は、毎食、完食しています。
食べただけは、出したい。気をつかいます。これまで1日も、大のトイレがない日は、ない。毎日、あります。だが、老人になると、腸の運動も弱るのかね。自然に出るものなのに、出ないと、落ち着かない。そんな歳になりました。
老人って、ヘンな事に気を使うんですね。今日は、朝から正午まで、2回ありました。だから楽な気持ちで、日記も書けます。入浴も出きます。
「小崎さんですか?ああ、会えて良かった」と、訪ねて来て、声をかけてくれるのが、一番うれしいです。「小崎さんだったら、この事は、知っているでしょう?」。顔を知らない人から、聞かれる。老い人も、ニコ、ニコして、応対しますよ。
「本を読みました。マンガも読みました」なんて言ってくれる人には、もっと嬉しい。この歳になって、わたしの記憶が役に立つのは、ありがたいです。まだ、まだ、生きている価値は、ありますと思います。
自分の育った環境から、人間は、もともと「孤独」の存在だと思うとります。いつも「孤独」を感じていました。ホームに入って、なお更です。だが幸いに、沢山の人に出会って、豊かな日々が過ごすことが出来た。良い隣人に「出会う」のが、一番ですね。出会いがあれば、明るく生きていける。その「出会い」がホンモノか、どうか。見分けるのが「愛」でしょう。親の愛か、孫の愛か、全然、知らない。隣人の愛でも。善良な「愛」に出会えば幸せですね。愛の思い出だけでも、人は充分に生きていける。
私だけの人生だった。神さま、ありがとう。なんと表現したら、いいか。今夜の眠りと、明日の大のトイレは、次の日に又、気にかけよう。

2020年7月15日水曜日

車椅子を乗せる新しい車を購入。園長神父さんが「清め」の式

ホームでは、車1台、購入しました。
トヨタ・シエンタです。1.500cc。
5人乗りで、車椅子が1台、積めるようになっています。
ホームでは、入居者もじょじょに老いてきて、車椅子の人も増えています。
それに応じた車です。
病院への送り迎えに使います。
車の後方は、こんな具合になっています。
車椅子を、このように収納します。
70人の入居者を抱えて、職員さん達の介護、看護、洗濯、事務など、大変なお仕事です。
今日は、「礼拝の日」で、午前10時から、教会で、ホームの入居者のために、園長神父さんのミサ・お説教がありました。ミサ後に、車の「清め・祝福」の行事が行なわれた。
事故がないように、祈りました。
運転者を代表して、1人の男子職員が、安全運転を誓いました。車は、一瞬のうちに、凶器になります。
これからは、この新しい車がホームのため活躍することでしょう。期待して、ホームの入居者も、「清め」を見守り、祈りました。「あおり運転」気をつけましょう。車椅子を積んでいますからね。
ホームには、いろんな車が揃っています。
ホームで生活しても、各人が健康状態も違い、いろんな苦労があるんですね。その1人、1人の幸せを願って、車も活躍します。喜びも、悲しみも、苦労も、共にしよう、みんな、家族だから。ここが、私たちの暮らしの場です。
みんなが感謝し、微笑んで、「ありがとう」を言い交わし、お互いに大切に生きて行けば、幸せなホームになります。
長生き出来るのも、ホームのおかげです。
車の「清め」は、ホームと湯江教会の間の庭で行なわれました。

2020年7月14日火曜日

「ミロハナ神父の話を聞きたい」。神父さん、シスターの訪問

2人のお客さんが面会に来た。
★川口昭人神父さん。長崎県大村市水主(かこ)町、カトリック教会の主任司祭。
★シスターは、(大村市の医療型障害児入所施設・みさかえの園あゆみの家)にいるポーランド人。
★訪ねて来た理由は、故人のポーランド人司祭・ミロハナ神父さんの話を聞きたいとの願いだった。面会室で、2時間ほど、楽しくお話をさせて頂きました。
★教区の神父さんが、このように熱心に話を聞いて下さるなんて、めずらしい。川口神父さんは、「登明さん」「トウメイさん」と親しく呼びかけて、気安く応じて下さった。おかげで打ち解けた語りが出来ました。
★川口神父さんは、カトリック月刊誌「家庭の友」に、毎月、見開きで、イラストと文の絵物語も連載しておれられる。取材に熱心な神父さんです。幅広く知識を求め、それを整理して、自分の目線で分かりやすく描いておられるのに感心です。ミロハナ神父さんの事を知りたいと思われたのも、その線上にあるのでしょう。
★ポーランド人のシスターは、修道者の道をめざして20年になる。長崎へ来て3年と言った。日本語が上手です。「みさかえの園」のシスターの修道女会の創立者が、ミロハナ神父だから、シスターは当然、興味はある。優しいほほ笑みを浮かべながら聞いていた。
★コルベ神父が長崎へ上陸して、今年は90年になる。ミロハナ神学生はコルベ神父と一緒に長崎へ来て、コルベ神父から直々に、学問と、修徳と、けがれなき聖母マリアへの奉献を教えられた。そのミロハナ神父さんと、トマも少年の頃からご縁がある。聖母の騎士に入会して、病気になっても、ミロハナ神父さんから助けられた。
★ミロハナ神父さんの写真を見ながら、いま、思う。「自分は、ダメだ、ダメだと、思うな。他に道が、あったのでは、ないか、と。病んで、そう感じ、疑った時も、あった。当時の日記にも、その心境を書いている。ミロハナ神父が助けてくれた。闇の時だったが、くぐり抜けた。だから、今が、ある」
★コルベ神父が植えた小さなタネは、ミロハナ神父に受け継がれ、コルベ神父の精神は、大きな大きな樹木となった。その姿を少年の頃から見て来たトマは、信仰と、精神の『つながり』の中に、神の恵みと、けがれなき聖母マリアのご保護と導きを感じることが出来る。信じ、希望する者は、幸いなり。

2020年7月13日月曜日

赤羽に住んだ頃の写真。老いの事など考えない。今は懐かしい

ちょうど、50年前の写真です。
「誰か?、って。わかるでしょう」。こんな時代も有ったのか、思います。東京・北区の赤羽カトリック教会の前です。教会の隣に、「カトリック・グラフ社」があり、そこで編集の記事を書いていました。
★よく働きました。残業もあったし、徹夜もしました。やる気は有ったが、カラ振りばかりですね。打っても、1ルイ打ぐらいかな。それでも自分では満足して、4年間を勤めました。自分にとっては経験と、社会の1部も知ったし、楽しい時代でした。
★書いてきたことは、人と人との、ふしぎな縁(えにし)です。それを意識している。めぐり合わせがあって、人は幸せになる。幸せを見つける。そこに、ふしぎな、おもしろさ、喜びがある。そう考えて、何とか努力はしました。
★仕事が一段落ち着くと、自分で「焼きそば」を作って、食べた。おいしかったな。いまでも、あの味、忘れない。1ルイ打者でも、満足した。1つの小さな話でも、人を慰め、励ますことが出来れば、自分に幸せは戻ってくる。出会いも沢山ありました。東京で、原爆の検診に行ったのは、板橋の病院でした。
★あれから50年が経った。いまは、ホーム暮らしです。仕事から離れて6年になる。最近は、老いると共に、腰の骨が痛み出した。80年前に「背骨のカリエス」を病んでいる。背骨を支えている「腰骨」が耐えられなくなったのか。ちょっとした事で骨身にこたえる。いまでは、この写真の姿は、遠ーィ、夢のような出来事になった。赤羽教会や、修道院のことは忘れない。近くのボーリング場にも、よく行きました。
★ミサで、聖体拝領へ行くにも、杖をついています。真っ直ぐ、歩くのが危ない。ステントを入れた左・腎ゾーも、時折、チク、チク、痛む。7月末には、ステント入れ替えもあるので、ガマンしよう。そんな毎日です。
★バリ、バリ、働いていた赤羽が、思い出の地です。あの頃、祈りは忘れなかったか。老人たちの苦しみを感じたことがあったか。イヤ、イヤ、老人なんて、そんな老いの話は、遠ーィ、先の、他人の出来事としか考えなかった。人間には、壮年があって、老年があって、痛みがあって、アタマも老いて、そう成るのです。老いを見詰める日々に、生かされていることを感謝し、過去には満足し、安らかな気持ちで暮らしたいと思います。
★午後から、来客がある。早めに「日記」を書きました。

2020年7月12日日曜日

被爆者は「目にチカラ」がある。それを写真に。完成の写真集

九州・福岡から写真家が来たのは、去年の5月だった。「被爆者の写真を撮らせて下さい」。普通、顔写真でも胸から上あたりを撮るじゃないですか。彼は言う。「顔だけを撮らせて下さい」と、2台の写真機を使用。1台は6✕6のフィルムで、巻いて写す以前の形式の写真機だった。懐かしい。私も以前、マミヤ・プレスで、カラー写真を撮っていた。
★もちろん写真家の訪問は「日記」に載せている。いま読むと、彼は、こんな内容を告げた。「ある時、自分は気がついた。被爆者には、目に『チカラ』がある。顔には苦しみ、悲しみ、痛みが浸み込んでいる。自分は、それを写したい。写真の意義は記録もあるが、表現もある。自分が理念を持って、ものを撮ると、思いが相手に伝わる。その人の歴史や、苦悩が、目の中に埋まっている。それが表現となって、自分に返ってくる。そういうものを撮りたい」
★あれから1年が経過した。彼の作品「写真集=被爆75年・閃光の記憶」(26cm✕22cm)(135ページ)が贈られてきた。長崎文献社発行。税別、3.300円。重みのある豪華な写真集で、長崎の被爆者53名の顔写真が載っている。私の写真もあった。
★「これが、わたし、か」。普通はデジカメで、毎度、写真を撮っているが、この本に収められた私の顔は違う。「これがホンモノだ」。自分と向き合ったよ。真に迫力のある顔だった。(その顔は、著作権もあるだろうから、ここには載せない)
★写真集は、1人分が見開きになっており、右側は写真、左に、生年と被爆時年齢、被爆地、爆心地からの距離、被爆の瞬間、その後の記憶が記されている。全文の英語訳もある。1人、1人の写真をめくると、誰もが真剣に、真一文字に口をしめ、表情は硬い。
★被爆当時の年令を見ると、53人のうち、20歳が最高で1人の女性、19歳が1人の女性、17歳が、1人の男性、1人の女性、そして私が入る。だから17歳以上は、合わせて5人となる。いかに被爆者が高齢化しているかが分かる。
★最初のページに、「写真集に寄せて」と題して、私も知っている高橋眞司先生(哲学者)が記事を書いておられる。その文の中に、「九死に一生を得て、よくぞ生き抜いて下さったという思いが強い」とあった。
★みんな仲間だ。苦労の人生だったろう。だが皆、生き抜いた。本の重さは苦労の重さ。遠い過去が、私の心に、そっと、置かれた気持ちがした。

2020年7月11日土曜日

暮らしの部屋。我が心身を見詰める日々。助けて下さいの祈り

週に、1度。水曜日に、職員さんが自室の清掃をしてくれる。ありがたい。掃除機をかけ、モップで拭いて、ベッド横のゴザを濡れた布巾でぬぐってくれる。お世話になって、日々を暮らしている。誰かの手にすがらないと、生きては行けぬ。そういう老いの身になった。自分に出来るのは、感謝の心を表現することだろう。ガマンも必要だ。もう「若さ」には、もどれない。老いに耐えるしかない。
★入口から、窓の方を見ると、こんな風景になっている。窓のソバに、椅子。その前にパソコンがある。この椅子に午後から座って、日記を書く。手前にも、黒い椅子があるが、これは客用の椅子だ。コロナになって、訪ねる人は居ない。禁止されている。ホームでは、外部の人との接触に気をつけている。老人ホームは、感染を恐れる。当然です。私たちは、守られて、日々暮らしている。
★昼食は、ナスとひき肉いため煮、長崎サラダ、エビとナメコのスープ、メロンだった。左上の、チャンポン麺が入っているのが、長崎サラダか。
★日々の「日記」の内容も、ムリはしたくない。浮かぶことを、感じることを、平凡に書く。もう、その歳になったよ。長い人生を歩んできて、立派な話も沢山ききました。自分の心身に、どれほど反応があったか。ただ、ただ人間の弱さを感じます。ホントに弱いよ。表面はリッパに見えても、内面では、汚れて、悩んで、迷いが渦巻いている。それがナマ身の人間やと思います。そこに「助けてください」「赦してください」の祈りが湧いてくる。

2020年7月10日金曜日

災害に遇って、残された遺品。肌身につけて偲び、希望で生きる

今年の梅雨は、連続、雨ばかり。自室・パソコンの横のガラス戸には、もう列な雨が、打ち付ける。トマの携帯にも、緊急の避難指示の音が、3回、4回と知らせて来る。九州の中部、南部では、多くの死者・行方不明者が出ている。
★ホームは高台にあるので、安泰です。災害に遇い、死者を出した家族の悲しみは、無念の涙があるでしょう。トマも、すぐに思う、原爆で、家を失い、母親が行方不明になったことを。共感がある。
★阪神の大震災で、家に押しつぶされて、10時間後に助かった女性が、被災の「語りべ」を努めている。15m離れた場所で、息子さんが亡くなった。女性の腕に、愛する息子さんの時計をはめていた。
★「語りべ」女性の言葉が、身にしみる。「いつも、息子が、背中に居るような気持ちで、生きてきた。あの世に行ったら、『母さん、よく、がんばったね』と言われるように、生きたいのです」。故人の遺品を身につけて、愛する息子さんを身近に感じる、気なげな、母親。微かな情で、救われる。事実、有るんですね。
★人は、すり合わせの中で、生きている。神さまと、わたしの、すり合わせ。個人の、あの人との、すり合わせ。その信仰で、人は生きていかれる。希望が持てる。
★被災「語りべ」母親には、息子さんは時計を残した。トマは、被爆した母親は、何を残したんだろうと思う。それは「ロザリオ」だった。古びたロザリオは、母の形見となった。ホームに来た時までは、そのロザリオは手元にあった。ホームで、3度、部屋を変わったが、つい、いつしか、ロザリオが無いことに気が付いた。探したが、無い。どこかに有るハズだ。未だに見つからない。
★失って初めて、それが「宝物」であるのが分かる。いつか、「ああ、ここに有ったのか」と、喜ぶ日が来るのを願っている。