2019年5月31日金曜日

瀧憲志神父さんはお元気です。88歳、米寿。いつまでもお達者で

きょうで、5月は終わりです。この5月に、大切な司祭を載せなかった。きょうの、月の終わりに、取り上げます。ホームの瀧憲志神父さんの誕生日が、5月の26日でした。88歳、米寿の年を迎えました。瀧神父さんは、写真の通りに、お元気で、ホームの生活を過ごしておられます。
★修道者の名は「ペトロ」。鹿児島県大島郡喜界島の出身です。1931年生まれ。司祭叙階は1965年。
★ホームに入居は2017年4月6日。2年2か月になる。「トマから、早く来い、早く、来いと、勧められて入ったよ」と、トマに親しみのほほ笑みをかける。
★「ホームの生活は、どうですか」「ここは恵まれた生活だね。ゆっくり出来る、時間もある。感謝だね」「何か、思うこと、ありますか」「司祭生活に、反省すること、沢山できた。自分では頑張ったつもり。ただ動き廻っていた。司祭の務め、病人見舞い、信者訪問、しましたよ。しかし訪ねて来た人を断ったことは無かったか。反省だね」
★瀧神父さんは、教皇さまの講話集を愛読している。霊的にも豊かな司祭を感じさせる。「ホームに入る前、聖母の騎士に居た時よりも、ホームに来てから元気になったね」。狭い部屋にも喜びはある。「外の扉の向こうの木が茂って、雲仙岳や島原半島が見えなくなったよ」。年期が経てば樹木も成長する。
★いまは、エレベーター拡張工事のため、階段の登り下りしか使えない。足が弱いので、上下が出来ない。1階に部屋がある瀧神父さんには会えない。トマは3階。食事も祈りも別です。1階には車椅子のカトリック入居者が何人も居る。
★毎日、午前中に、瀧神父さんは、その信徒たちと共に、ミサを祈っている。「祈る幸せ、恵まれた幸せ」。生きる希望が、ここには有る。
★瀧神父さんのおかげで、トマも元気をもらっている。6月の終わり頃になったら、また一緒に食事やミサ、祈りが出来るでしょう。仲の良い司祭が傍に居るのは、頼もしい。

2019年5月30日木曜日

ホームのトマに会う為に、さざわざ東京から来た姉と弟たち

夜、東京の木島和子さんから電話があった。「いま、長崎市のホテルに着いた。あした、11時頃にホームに来ます」「ホームに近づいたら、携帯で知らせてください」
★和子さん達が来たら、どうせ写真を撮るだろう。ならば、修道服を着て、待って居よう。時間の30分前には、玄関に待っていた。携帯が鳴った。「もう間もなく、です」「いよいよ会えるぞ」。期待は高まる。
★レンタカーで、3人が降りた。6年ぶりの和子さんと弟さん。もう1人の女性は、信徒の友人だった。先ずは、応接室で喜びを分かち合った。トマは、6年前の日記のコピーと、木島武次さんの「信仰実話(聖母の騎士誌に掲載)」の12ページの記事をコピーして渡した。記事から、思い出が鮮明によみがえってくる。
★信徒の友人は、母親や、母の妹(叔母)が、東京の赤羽教会で、「ドナト神父さん」にお世話になった、と告げた。ポーランド人ドナト神父は、トマの小神学校時代の校長だった。最近、出版した「写真集・昭和の修道者たち」にも、ドナト神父さんの写真も大きく載せている。信徒の友人にも親しみが湧いた。
★談話の後で、教会へ行き、写真を撮った。記念になる。次いで、自室に招いて、ビデオを2本見せた。1つは、NBC長崎放送の「91歳の日記」、もう1つは、NHK・テレビの「日本26聖人・無声映画」の成り立ちと、弁士だった。
★昼食は、トマも車に乗せてもらい、小長井町の、例の食事処「おおはし」へ行き、一番無難な料理、「ひらすの刺身定食と、あさりの味噌汁、天ぷらの盛り合わせ」を頼んだ。3人とも、喜んで食べた。田舎の定食屋です。トマは、ひらすの刺身、アジの活け造りを食べます。「ひらす」は、白身の魚で、抵抗なく食べられます。「あさり」は、この辺の砂浜で採れた、大きな貝です。どんぶりに入ってくる。
★食事の後、話題の為にと、車は、諫早湾と、有明海を仕切っている「堤防道路(真っ直ぐな国道、7Km)」の中間の休憩所までドライブした。
★この後、外海辺りまで行くのかと思いきや、和子さんは言った。「今夜の飛行機で、東京に帰ります」。きのう夕方、長崎へ来て、1泊して、きょう帰る、これは、わざわざトマに会うためだけに来られた旅行だった。その熱意に、心が熱くなった。木島のお父さん、お母さんの優しさは忘れない。きのう、その内容は日記に書いた。何年経ってもご縁をつないでくださる愛情に感謝した。いつまでも健康で居てください。ホームの玄関で別れの握手をかわした。

2019年5月29日水曜日

東京の恩人、6年前の写真。多彩なご主人。娘さんが面会に来た

古い日記を開いてみた。2013年7月に、こんな日記を書いる。「夏休みで東京へ。5泊6日の旅行です。東京へ着いたら、真っ先に隅田川近くの木島さんご夫妻のお宅を訪ねた」。これが、その時の写真です。
★両脇が、木島さんご夫妻。武次さん95歳、美恵子さん93歳。奥さんの隣が娘の和子さん。子供は他に男の子が何人か居る。この家族の信仰の歴史を語れば、お父さんの武次さんを除いて、妻と子供さん達は、皆、カトリックの洗礼を受けて、教会で祈っていた。
★隅田川といえば、夏の豪華な花火が有名です。木島さんのお宅の屋上からは、見事な花火が毎年、見物できる。ある年の夏、息子が、神父さんや神学生たちを連れてきて、木島さんの屋上で花火見物を行なった。夜空をいろどる花火に満足した神父さんが言った。「今年のザビエル祭は受洗礼者が居ませんから、お父さん、どうですか」。するとお父さん、即座に答えた。「じゃあ、なりましょう」。妻の美恵子さんも子供たちも大いに喜んだ。実は、武次さんも還暦を過ぎた頃から、そろそろ受けようか、と考えていた。
★その年の聖ザビエルの祝日に、武次さんは、四谷の聖イグナチオ教会で、30数人の司祭が捧げるミサ中に洗礼の恵みを得た。もちろん洗礼名は、聖フランシスコ・ザビエル。61歳だった。新しい人生の出発が始まる。
★ザビエルの名前を受けたからには、ザビエルの足跡を辿ろうと、「オラショの旅」で長崎へ。そこで出会ったのが小崎修道士だった。以来、トマは木島さんのご家族と親交を重ねてきた。東京での「日本26聖人」の映画・上映会ではお世話になった。
★木島さんは精鋼スプリング会社の経営者です。特に木島社長に心を惹かれるのは、多芸多才、人を喜ばせるいくつもの特技を持っていたことです。手品に、江戸独楽(コマ)の曲芸、花火の打ち上げ、ミニ機関車の製作と運転、レールの上を、実際に人を乗せて、機関車を走らせる。アマチュア無線も行なった。台湾の高砂族とも交流をつづけた。その活躍に魅せられた。イグナチオ教会でも、信頼される存在感のある信徒になった。
★トマは、木島さんのご家族と知り合って、上京の度に、お宅に宿泊したり、食事処でご馳走になったり、親ぼくを重ねた。武次さんの洗礼が61歳からだからご縁は35年近くつづく。このご恩は、トマ修道士は決して忘れない。
★この写真を写した時から、はや6年が経過している。武次さんに、「長生きの秘訣は何ですか」と問うと、「クチよりも、カラダを動かすこと、不言実行だよ」と答えた。夫妻ともにお元気であられたのに、この年に、奥さんの美恵子さんが亡くなる。2年後、武次さんも亡くなった。
★突然、写真に写っている娘さんの「和子さん」から、今年になって連絡があり、「長崎へ、ホームへ面会に行きます」と電話があった。「え、いらっしゃるの。会いたいね。待っていますよ」
★そして、懐かしい和子さんと、弟さんと、他に知人の3人で、ホームに姿を現わした。

2019年5月28日火曜日

尼さんと修道士がしっかり手を取り合って、安らぐ心あり

先日の「ルルド祭」で出会った、通称「尼さん」です。顔見知りで、いつも会ったら、この格好。ホトケさんも、修道士も仲良しです。
★遠くに、尼さんを見つけて、「こっち、こっちへ」と祭壇の近くに招きました。「大きな病気をした」「誰が?」「あなたが、よ」「ああ、年末年始のときね。死にかけましたよ」「心配、したのよ」「呼吸困難の、肺炎ですよ」「長生き、してくださいね」「ありがとう」
★こころの優しい「尼さん」。神戸に住んでおられる。聖母の騎士で、何かの行事があると出席される。最初は珍しかったが、もう慣れっこになった。尼さん自らも病気を病んだが、乗り越え、乗り越え、ゲンキがある。他者への慰め、励ましになっている。
★「尼さん」と、聖母の騎士の神父さんと、長い付き合いです。神父さんが団長を務めたカトリック巡礼団と共に、イタリア・ルルドの聖地巡礼にも出かけた。病気で苦しむ修道士の介護も手伝った経歴もある。「尼さん」には、癒しのチカラがあるんですね。優しい、ホトケさんのこころが、苦しむ人を癒します。歳は分からんが、エライと思いますよ。
★人生、長く生きるには「奇跡」も必要だが、平凡に生きて、お互いが理解し、慰めあい、希望を与えて暮らしていく、これが大事でしょう。ホトケさまの「無」の境地、それでいて、大きく包み込む「安らぎ」の気持ち、魅せられますね。これが頼もしい、必要でしょう。
★「尼さん」の手は、温かいね。しっかり、にぎりしめた。「尼さん」と修道士の手が、しっかりと結び合うと、うれしいよ。老いが進むと、奇抜な出来事でなく、自然に、有りのままに、呼吸して日々暮らしたいと思うようになっている。

2019年5月27日月曜日

声をかけて貰った嬉しさ。今が、6歳の少女につながる、不思議さ

きのうの「ルルド祭」での出会い。ミサの前に、教会で、声をかけられた。名前を言われて、びっくりした。「え?」。真っ白の髪、白い服。女性の旧姓「長谷川です」と聞いて納得した。「81歳になります」。私と、ちょうど、10歳違う女性、2人で写真に納まった。東京・関西の巡礼団の一員として参加した、という。
★戦争、真っただ中の出来事です。16歳の私は、カリエスの病気上がりで、身体を慣らすため、大学病院の耳鼻科の「博士論文研究室」のお手伝いをしていた。耳鼻科の教授が「長谷川先生」だった。長谷川教授は愛妻家で、よく自宅に、お使いに行くよう頼まれた。自宅では、奥さんから丁重なお茶とお菓子の接待を受ける。帰りには、お駄賃まで頂いた。そのとき、自宅に居たのが、この娘さんだった。10歳違うから、6歳だったのであろう。あの頃のご縁が、今につながる。このように長いご縁が他にあるだろうか。忘れずに声をかけてくれたのが嬉しい。私の元気な姿を見て、喜んでくれた。
★長谷川先生は、大学病院で被爆する。女性は言った。「その日の夕方、からだ一杯にガラスの破片を受けて、自宅へ帰りました」。長谷川先生の記事で、その後、天草で療養して、原爆病症状で苦しまれたが、確か、被爆8年目、フランス・ルルドのお水で癒された、と記憶がある。長谷川先生の家族は、カトリックの洗礼を受けた。
★長谷川先生は長崎から関西へ居を移される。大阪大学医学部教授になられた。何度か、先生の自宅でお会いした。長谷川先生は洗礼を受けられてから、熱心な信仰者になられた。自宅に、医師たちを集めて、司祭にお願いして、要理講座を開かれた。
★確か、私のアルバムに、先生ご夫妻と、修道服姿の私と、一緒に撮った写真があるはずだが、見つけることが出来なかった。長崎へパパさまが来られたとき、長崎・聖母の騎士に、長谷川先生をお招きした記憶がある。奥さんを亡くされた後、先生とご一緒に、お墓参りをした。娘さんも近所から出てこられた。長谷川先生の思い出は貴重な記憶で、忘れられない。
★ホームに帰って、年賀状の束を探したら、女性のハガキはあった。つながりは大事にしたいと思う。
★きょうは、東京から3人の来客があって、食事に出かけた。午後からは、「91歳の10年日記」の放送のNBC長崎テレビの女性ディレクターがDVDを持って来た。日記を書くのが遅くなった。

2019年5月26日日曜日

聖母の騎士「ルルド祭」。マリアさまへの賛美。出会いもあった

恒例の「ルルド祭」。長崎・聖母の騎士。参加のため、朝は9時にホームを出て、高原修道士と2人で長崎へ向かった。帰ったのは午後3時でした。ホームからも別の車が出た。
★ルルド祭には、大勢の信徒が祈ります。ミサでは、ラテン語の「キリエ」「グロリア」を歌いました。聖母マリアを賛美する喜びで、胸はワク、ワクと、高まりを覚えます。何よりも今年も参加できたことを感謝しました。司式とお説教は山口院長神父さんでした。聖母の騎士の「ルルド祭」は戦前からの、コルベ神父からの歴史があります。ミサの後、ロザリオを唱えて、ルルドへ登る。足が弱い私たちは、教会でロザリオを唱える。私も、ルルドへ登れなくなって、もう何年にもなります。1度は、ルルドの聖母マリアを仰ぎたい、その心はあるが、叶わないのが残念です。
★長崎・外海・平戸を巡礼する東京・関西のグループも参加した。
★ミサ後に、知人や、めずらしい人や、見知らぬ人から声をかけられるのが楽しみです。今度も、ありましたよ。何人からも声をかけられた。「時々、ブログ、読んでいます」と見知らぬ女性。久しぶりに変わった姿で、びっくりした女性。やっぱり、嬉しいです。
★出会いの写真は、また、別の日に載せましょう。きょうは、少々疲れました。カンベンしてください。マリアさまから沢山のお恵みを戴いた日です。感謝。「ジンクーエン」。忍耐、気力が、推進力となる。

2019年5月25日土曜日

献立の料理を完食すれば、栄養満点。三度の食事作る、苦労も多い

老人ホームの生活は、早々変化がある訳ではありません。毎日が同じような日々がつづくのです。ヘンカが、ないのが幸せです。
★きょうは朝から、ひとりで広い風呂に入浴しました。自室にもどって、少しカラダを冷やしてから、3階から階段を一歩、一歩づつ足を交わして降りて、2階へ、次に1階へ、瀧神父さんの部屋を訪ねた。「きょう、神父さんの誕生日でしょう?」。瀧神父さんを日記に載せたかった。「いや、あしただよ」「ええ、そうなの」。88歳、米寿になられるから、写真を撮ろうと、デジカメを持って行ったのに、電池切れで、撮れない。ザンネンです。日記に瀧神父さんの写真は載せられなかった。あしたは、長崎・聖母の騎士で、「ルルド祭」が行なわれる。午前中の行事です。トマは参加する予定です。
★きょうの昼食の食事を載せました。エレベーター拡張工事は未だ続いている。食事は、1階、2階、3階、別々です。3階の私たちの食卓は、10人です。時々、料理の本元、栄養師さんが姿を見せる。食べ具合を見るのです。気になりますよね。「もう、料理、献立、作って何年ね?」と聞いた。
栄養師さんは、「フ、フ」と笑いながら、片手を挙げて、3本指と、5本とも広げた。年期が入っていますよ。
★70人の入居者の料理を食べさせるのは、そりゃ大変ですよ。1人、1人の、これまでの食事の好みが異なる。その人の好みに合わせるよう、苦労している。炊事場は10人近い職員で対応している。35年前は、入居者も60代が居た。畑で働いた。今は長生きして、料理自体が変化して、食べやすく、おいしい食事に工夫している。栄養師さん、ご苦労さまです。
★ちなみに、昼食のメニューは、ご飯、豚肉の醤油炒め、スパゲティ・サラダ、コーン・ポタージュ、リンゴ寒、でした。(いろいろな寒天が出てくる。これがホームの楽しみでもあり、特徴です)

2019年5月24日金曜日

アシジの聖フランシスコ。みんな兄弟よ、姉妹よ、平和を望む

ホームにも来た、台湾人の許書寧さんが描いた「アシジの聖フランシスコ」の絵です。すてきな絵ですね。好きだよ。
★鳥も喜んでいる。オオカミらしきものも、足元に隠れている。子供たちは楽しそう。木々も、お互いに合わさって喜んでいる。聖フランシスコの「こころ」を表した絵ですね。見ていて、ホットします。心が穏やかになります。聖フランシスコにあこがれる。惹かれるね、フランシスコに。「平和と善」が聖フランシスコのモットーです。
★きょうは、アシジの聖フランシスコ大聖堂の献堂の祝日です。イタリア・アシジに巡礼した人は、巨大な、華麗な、中世壁画が一杯に描かれた大聖堂を思い出すでしょう。その大聖堂が出来た記念日です。聖フランシスコが神に召されて、2年後には、教皇さまの指示で建設が始まり、約10年後には完成に至ったそうです。すばらしい壁画、聖フランシスコの生涯を語る壁画は、13世紀の貴重な遺産です。著名な画家が描いた大きな壁画に、圧倒されます。
★原爆の後、フランシスコの修道士になった。フランシスコに憧れた。フランシスコの面影を知ったのは、ポーランド修道士たちからです。お互いに、「フラテル(兄弟)」と呼び合う修道会。実際に、ポーランド・ニエポカラヌフ修道院へ行ったときは、200人からの修道士たちを見て、感動しましたよ。
★それ以上の感動が、本場、イタリア・アシジの聖フランシスコ大修道院へ行ったときです。何度も行きましたが、ちょうど従弟のユスチノさん(田川幸雄修道士)が滞在していた時には、最も肌でフランシスコを体験しました。何日も修道院の上等の部屋に宿泊しました。広い食堂で、修道者たちと食事を共にしました。ユスチノさんは、院長の近くに席があった。彼と共に、アシジの狭い道を歩きました。彼は、道端の「おばさん」に気楽に声をかけるのです。
★ちょうど聖フランシスコの祭日にアシジの修道院に滞在した時には、大聖堂で行なわれた国を挙げての祭典に、全く興奮して参加しました。アシジの聖フランシスコは本当に「優しさ」「喜び」「平和」で親しまれています。
★聖人の墓が印象的です。大聖堂の地下聖堂に安置され、守られています。ここに入ると、何とも言えない静寂さ、素朴さ、貧しさの中に深い「オーラ」を感じます。「ここが聖フランシスコのお墓なのか」。感動の場所ですよ。
★原爆前に、工場に通うとき、立派なお屋敷があった。こんな家に住みたいと憧れていた。原爆後、屋敷は無惨にも焼け落ち、主人は裸になって死体になり、肌にはウジが湧いていた。それを現実に見た少年は思ったね。「この世のモノは、壊れる、破壊される。何も残らない。何も持たず、真実を求めよう」
★聖フランシスコは、モノを持たず、争わない、貧しく生きる、鳥や、オオカミや、小川の流れや、天体の星々や、貧者も、病者も、身内になって、愛し、受け入れ、兄弟姉妹とみなした。フランシスコに従いたい、そんな気持ちが、フツ、フツと湧きおこったのです。
★ホームに居ても、フランシスコの修道士であるのは、初心の通り、忘れたくない。

2019年5月23日木曜日

「居場所」は有るか、「出番」は有るか。老人でも、やる気は有る

昨日の日記の顔と同じだが、修道服を着せたよ。こういう姿で、長崎・聖コルベ館では、巡礼者、観光客、見学者などを迎えたのだった。喜びがあったよ。出番も、あったよ。今は孤独だね。あの頃が懐かしい。華ある、いい時代だった。
★ホームでは、月に1度の「礼拝の日」がある。これは、日ごろ教会に来れない信徒や、宗教の異なる人でも、自由に教会に来れる日です。時間は午前10時から。園長神父さんのミサとお話があります。
★今朝、私は6時のミサに行きました。また10時のミサに行くのですか、ちょっと考えるようになった。普通に歩くのにも「決意」がいるのです。迷いが起こります。以前は、そうではなかったが、最近は動きたくないです。
★自室で考える。「Aの行為=ミサに行くこと」が、いいのか。「Bの行為=行かない方」が、いいのか。「そりゃ、やっぱり行く方が、いい」。朝も行ったが、皆さんと祈るのも、足並み揃えて、いい。まわりの人の励ましにもなる。
★修道服を着て、廊下に出たところに、男子の職員が「礼拝の日ですよ」と振れ回っていた。「チョッと、チョット」と止めて、デジカメで写してもらったのが、これです。
★最近、流行る(はやる)言葉に、老人の「おひとりさま」がある。隣近所や、周りの人や、社会からの「孤立」だね。よくテレビで告げている。それを考えると、修道服には固い「つながり」がある。イタリア・アシジの修道院に滞在しているベトナム人の神父さんが、休暇で帰省中で、ホームに面会に来た。この「つながり」が有るから、頼もしい。
★定年退職後の男性や、老いたる人には「居場所」がないそうだ。かわいそうだね。それに、老人になると、人のために尽くす行為がなくなる。それは確か。「出番」がない。テレビも「それが、いけない、ことですね」と言っていた。
★待てよ。オレには「出番」が有るかな。ある、ある、まだ、あるよ。出番は、あるよ。足りないのは、やる気だね。2番目のミサに出て祈るのも、「出番」の1つだよ。そう思えば、足取りも軽くなる。

2019年5月22日水曜日

2つの顔がある。1つはサッソウと走る顔。他は車庫入りの顔

昨日、自室に来た男性です。帰りがけに一緒に撮った。昨日、載せようと思ったが、写真をアップして、2つの顔を比べて見ると、おどろいた。
★1つは、まあるく、あかるい、仏様のような顔。
★一方は、黒ずんで、しなびて、あわれな顔。一緒には比べられないと思って、やめました。
★きょうは、思い直して、載せました。
★本当に、昨日の男性は、いい顔していたな。デカくて円形の、ふっくらっとした顔。まるで大仏さまの面影があるよ。歳を聞けば、昭和41年11月生まれ、と言った。52歳だね。いまが働き盛りだよ。バリ、バリ、ガンバル、稼ぐ年代だね。サッソウと、快走する顔だ。
★一方の顔、ごらんなさい。見られたツラじゃない。黒ずんで、シワがよって、顔には、シミが所々にあって、これが老人か。大仏さまとは比べ物にならん。車庫に入った顔だね。でもね。言い訳を言わせて貰うなら、これだけ人生を乗り越えて来た顔だ。昭和41年といえば、1966年。そのときボクは、38歳だよ。そりゃ、いい顔をしていた頃もあった。
★人は、顔付や、表情には、その人の人生や苦労が刻まれているという。社会で暮らす人には、日ごとの糧を求めて汗流す努力や、他人との摩擦で辛苦することがあるだろう。一方、修道士は、自我との戦いで苦悩し、ひとり悩む。どっちが、いいか、ラクか、比べられない。現在の顔の表情を素直に見ると、余りにも貧相なので、本人たるボクは気が引けるよ。大仏さまの顔になりたいよ。

2019年5月21日火曜日

台湾の高級ウーロン茶を日本へ送っていますと、男性が来る

顔が大きくて、丸あるい男性が自室に現われた。「台湾から来ました。台湾のウーロン茶を日本へ送っています」。2年ほど前に、1度来たことがある。2度目だった。
★第1の目的は、西山達也神父さん。大学生のとき、イタリアへ旅行へ行った。当時、ローマに在住の西山神父さんに会う。神父さんのお陰で、教皇ヨハネ・パウロニ世に特別謁見が出来た。それから度々お世話になって、パパさまに何度お会いできたか。大型の写真の束を持っている。そのお陰で、信仰が強められた。西山神父さまには感謝しかない。それで、こうしてホームへ訪ねてくる。
★2番目の目的、トマの部屋に来るのは、トマの日記を楽しみに読んでいるからだ。それでも有り難い。温かく迎えたよ。
★彼の話を聞けば、中々おもしろい。高校は兵庫県の「仁川学院」。本修道会の経営。ここに、ポーランド人の修道士ロムアルドさんが居た。ロムアルド修道士は、コルベ神父の時代に長崎へ来た。トマも、小神のとき、ロムアルドさんにはお世話になる。その後、長崎から、仁川へ転任した。高校生の彼が、学院に隣接する教会へ入ると、そこには必ず祈っているロムアルド修道士さんが居た。修道士さんから「コーヒーを飲みましょう」と声をかけられる。それが、きっかけでロムアルドさんと親しくなる。
★後日、彼は洗礼を受けた。もちろん洗礼名は「マキシミリアン・コルベ」。コルベ神父に惹かれ、更に教皇さまからも沢山のお恵みを受ける。西山神父さんの恩も忘れない。
★おおらかな顔をしている彼。トマの日記も誉める。おみやげは、台湾・本場の「高級烏龍茶」だった。午前10時半頃来て、昼食時は席を外したが、午後、また自室に来て、帰ったのは2時半だった。高原修道士さんが諫早駅まで送った。
★人生、歳を重ねると、苦しいことも、複雑な絡み合いも、ガックリくることも、楽しいことも、ありますよ。それも皆、自分の人生。みんなが幸せになるように、努力だけはして行こうじゃありませんか。

2019年5月20日月曜日

明子さんのお宅で、お昼ご飯を頂いた。シスターの話も聞いた

明子さんのお宅。子供さん達は県外へ、明子さんがお一人で暮らしている。明子さんは忙しい。白い車を運転して、教会の勉強会の出席や、奉仕の活動にも精出している。時にはホームの日帰り旅行にもお手伝いとして参加する。トマが入院の時は毎日、見舞いに来る。積極的に善業を行なっている。毎朝、5時過ぎにはホームに来て、西山神父さまを車椅子で、教会のお祈り、ミサに連れていく。
★明子さんから、誘いがあった。一緒に、お昼ご飯を食べましょう。湯江修道院の橋口修道士さんと、2人で、おじゃました。するとお宅に、先に、山の修道女院のシスターが楽しそうに待っていた。結局、きょうはお昼ご飯は明子さんの手料理を頂きました。きょうは、シスターの修道名の記念日(聖ベルナルジーノ)だそうです。
★シスターの話がおもしろい。ホーム聖フランシスコ園でも、7年間、介護職員として働いていた。だからホームの内情もよく知っている。話が通じやすい。貫ろくがあるシスターです。「悩みがあるなら、さあ、イラッシャイ。聞いてあげますよ」。そんな感じです。修道女院には、60人ぐらいのシスターが祈りと宣教、奉仕の生活をしているそうだ。お歳よりのシスターも多いので、介護に勤めている。
★五島の出身だから、祈り、信仰に熱心です。「シスターは、なぜシスターの道を選んだの?」。興味があるじゃないですか。聞きたいですよ。話は秘めて置きたいでしょうが、やっぱり語った。五島の教会に、中学3年の頃、シスターが募集にやってきた。「そのシスターが、マリアさまのように、きれいに見えたの。ああ、自分もシスターになりたいなあ」。それで、惹かれて、この道に入った。
★シスターへの道といっても、そう簡単じゃない。困難も苦労も多々ある。生涯、神への奉献を貫き進むには「祈り」しかない。祈りで、霊的なものが見えるようになり、前へ奉仕・奉献の道を行くことが可能となる。それは私たち修道士も、よく分かっている手段です。神さまに、マリアさまに、委ねて、成功する。
★そんな事を思いながらの、お昼のご飯会でした。明子さんに感謝。神にもカンシャ。

2019年5月19日日曜日

声が出ない。そんなハズはないのに。これも老いか、無念千万

これだよ、いま、書きたいのは。「声を、出せ」。それが出ないんだな。声には自信があった。日本26聖人の無声映画の「弁士」も務めたからね。そりゃ、自信があった。それが最近は出ない。ガッカリだよ。ロザリオの先唱をやっているが、声が出ない。苦労するよ。気にもなるよ。ノドに、がんが出来ているんじゃないか。疑いも起こるよ。
★2、3日前、長崎のヨゼフ・クリニックに診察に行った。その後、行き付けの「耳鼻咽喉科」へ診てもらいに行った。これで3度目だ。もともと耳が炎症を起こして、異物が溜まる。長崎に居た頃は毎週通っていた。異物を取ってもらう。「ノドも診てください」
★鼻の穴から、細いクダのカメラを入れる。先生は、その状態をテレビの画面に刻々と見せてくれる。「声帯に問題ありますか」。テレビに、はっきり映り、わかる。声帯は、普通、両方に、広げた形をしている。右も、左も、同じ形をしているが、テレビの画面は、左は、ふくらみ、右は、薄い形をしている。「過老だね」。それしかない。もう、どうしようにも、ない。治らない。修繕は効かない。ガマンするしかない。そんな状態です。
★ああ、どうしようも、ないか。老いれば、こうなるのか。情けないよ。それでも、出せ、出せ、ゲンキを。ワォー、ワォッ、なまけちゃ、いかんぞ。

2019年5月18日土曜日

少年は、教会のフンイキの中で、清く、チカラ強く育っていく

ホームの隣、湯江教会・祭壇の生け花を時々載せています。誰が手掛けているのか、わかりません。しかし目はやはり、この生け花に注がれます。祭壇に捧げるお花だから、清らかですよ。寒気の時は、お花も長持ちするが、夏場になると、しおれ易いので、活ける人の気持ちも大変でしょう。祈りながら、生け花を見るのも、気分が一段落して、フッと、なります。存在の有り難い生け花です。
★生け花を撮っていると、1人の少年が、「ハイ、ポーズ」と入ってきました。湯江教会の「可愛い」子、壱樹(いつき)くんです。小学4年生になる。日曜日に、ミサの奉仕を務めています。ミサでは鈴を鳴らす時が何度かある。それも上手に鳴らしています。
★壱樹(いつき)君は、心の優しい少年です。復活祭の前に聖週間があり、聖金曜日は、主の受難の日です。壱樹くんは、儀式の奉仕をしながら、ポロ、ポロ、涙を流すんですね。「どうしたの?」と聞くと、「神さまが、死ぬなんて、悲しいよ」というのです。直球の発言ですよ。悲しい儀式の現実が、少年の純な心情にひびくんですね。「エライなあ、ビンカンだな、いつき」と、こちらの方が癒される。「カッコウ、いいなあ、いつき」
★ひそかに、こころで、おもうんだよね。「こんな少年が育って、神父さんに成ってくれたら、な」って、ね。

2019年5月17日金曜日

中島優神父さまの命日だった。写真を出して思い出にふけった

ホームで亡くなったピオ中島優神父さまの命日です。3年前、車椅子の中島神父さまと一緒に、ホームの庭で撮ったスナップです。4月30日となっている。この後、17日後に、急に逝去された。その悲しみ、衝撃は大きかったですよ。お元気で、庭で、ポカ、ポカと温かくなった陽の光を浴びて、楽しかったのに、17日ですよ。亡くなるなんて、人間の寿命は、神さまのことです。中島優神父さまの安らぎを祈りました。
★中島神父さまは、五島・福江島の「水の浦」の出身です。海沿いの家に、お父さん、お母さんが生活していた。神父さまは1人息子でした。両親は、その息子を神さまに捧げました。家は、優が居なくなって、寂しかった。そこで小神学生だった私たちは、両親の家に夏休みに行って、泊まって、暮らしました。そんな思い出がある。
★当時は食料難の時代だった。両親の家では、着いた日と、帰る日だけが、お米ご飯で、あとは麦飯か、カンコロだった。お父さんから毎日のように舟で魚釣りに連れて行ってもらった。
★そのお父さんも、お母さんも、最後は、このホームに入って、ここで亡くなった。
★歳を取るというのは、過去の、色々な積み重ね、記憶、体験を持っていることです。それは自分にとっては、捨てがたいタカラもの、です。
★きょうは、長崎へ。ヨゼフ・クリニックで定期の診察を受けた。帰ったのは1時頃でした。午後、五島出身の女性2人と、私の3人で、ロザリオを唱えた。「祈り」によって、みんなが「つながって」いる。ムカシも、イマも、それを感じました。

2019年5月16日木曜日

予告なしに突然の訪問者。細い糸をたぐり寄せる生活の幅広い

きのう、「雲仙の間」で、午後からのロザリオが終わって廊下に出ると、奥の角のソファーに、3人が待っていた。
★2人の女性。真ん中は瀧神父さん。左側の女性が私の知人で、以前、時どき聖コルベ館へ見えて、よく会話をしていた。右の女性は、運転して来たそうです。
★私が3人に近づくと、知人の女性が先ず最初に言った。「トマさんが、ロザリオの先唱をしているのを(のぞいて)見て、安心しました」「ええ、そうか。まあ、お祈りだけは、がんばっているよ」。前触れもなく、こうして訪問に来てくれる人が居るのは、本当に嬉しい。自室は狭いので、ソファーで、1時間ほど、近況を語り合い、笑いあった。
★傾聴ボランチアの話題が出たので、私の自室に、18回も通って来る女性の例を話した。「カトリックにも、こんな傾聴の人が、また誰かが居たら、いいのになァ」。この知人の女性は、大役の仕事を引き受けて頑張っていると、明るい表情を示していた。
★自室は狭いが、「91歳で、日記」のテレビの録画を見て欲しかった。ムリに3人を呼び入れる。これを見れば生活の一端が分かる。
★出会いがあって、ご縁があって、つながりが出来て、喜びになる。そういう細い糸をたぐり寄せる思いだが、これも生活の幅になる。老いても、シンは変わらない。以前の思いも、よみがえる。
★何をするにしても、人への助けや、生き甲斐や、隠れた行為にも「華」はある。老人は助けるチカラはないが、カンシャのこころは、ある。若い者は、いいな。そんな感じで、胸は一杯になった。

2019年5月15日水曜日

日々平凡に過ごしながら、歳を考慮しながら可能性を考える

狭い部屋で生活しております。ホーム外の人には余り見せたくありません。押入れがあるので、荷物はそちらへ。ベッドと、衣類かけ。部屋にはムダなモノはない。水曜日は、朝食後に、職員さんによる部屋の掃除があります。
★外側のガラス戸を開けて、風を入れ、椅子と、机代わりのスタンドは廊下に出します。男性の職員さんは丁寧に掃除をしてくれる。ありがたい。身近な人に、感謝を。床に掃除機をかけ、モップで床を拭いて、ゴザを敷いて、そのゴザを小さい雑巾で、丹念に拭きます。
★掃除1つにしても、掃除人の性格や真面目さ、生活のにじみが分かる。人間には相性もあるんですね。この人は男性なのに、細かく隅々まで、部屋を清掃してくれる。きっと自分の居室も、そうしているのでしょう。わかります。
★受け身とはいえ、ホームの生活は恵まれており、満足しています。ベッドの敷布は、土曜日に洗濯に出します。
★毎朝、着替えている肌着3枚は、洗濯の職員さんがその日の昼過ぎには、届けてくれます。
★三食、食べさせて頂いて、心配はなく、暮らしております。争いもなく、大きな声もなく、笑いもなく、静かで、平静で、安心して歳を重ねております。これを幸せというのでしょう。
★毎日を平坦に過ごしながら、自分の歳をも考えて、何が大切か、何が出来るのか、時どき思います。目はメガネなしで遠くも近くも見えるし、耳も聞こえるし、日記も書ける。恵まれているんですね。「生きている」「尿が出る」ことが恵みです。親友・知人も、故人になれば、その人生はない。この世の移り変わりも、見られない訳です。
★2日後、毎月の予定の診察へ。来週は、東京から「会いに来たい」と電話があった。「過去」が、また戻ってきます。

2019年5月14日火曜日

聖マチア使徒の祝日。騎士誌を配布していたマチア修道士さん。

教会では、聖マチア使徒の祝日をお祝いし、祈ります。
★「聖マチア」といえば、どうしても一緒に生活したポーランド人修道士・マチアさんを思い出します。昭和8年に長崎・聖母の騎士に来て、生涯、この地、この場所に留まって、94歳で神に召されました。だから終戦直後、ここに入ったトマとも、長い知り合いの状態がつづきます。トマが覚えているのは、マチアさんは、最初、院内で、牛を飼い、牛乳をしぼり、またパンを焼く仕事をしていた。マチアさんの「パン」は、大きなパンで、脇に抱えるほどあった。パン焼き小屋から、時どき、パンを炊事場のかシアノ修道士さんへ運ぶ手伝いをした。食べたら、本当に、おいしかったね。食料不足の時代でもあったしね。
★時代が変わって、パンも、牛乳も普及してくると、廃業して、今度は騎士誌を配る仕事についた。マチアさんの楽しみにもなった。教会でお祈りをして、騎士誌をカバンに詰めて、徒歩で国道をくだり、「蛍茶屋」から電車にゆられて、大浦へ。大浦天主堂の門前で、観光客に声をかけて、騎士誌を配った。「コルベ神父さま、クバリました。ゼノさん、クバリました。いまワタシ、クバリます。あなた、ホシイですか」。中には献金する人も居りました。時には、浦上へ。平和公園でもクバリました。
★大きな体格のマチアさん。聖母の騎士の食堂では、トマの隣の席にマチアさんが居た。いっしょに長年、食事を共にした。トマがポーランドへ旅行したとき、マチアさんの家族を訪ねた。家族の言葉も録音した。どうやら家族には内緒で、コルベ神父さまの修道院に入ったらしいのです。マチアさんは、家族の声を聞くのをイヤがった。もうポーランドの思い出は忘れているようにも感じ、好まない態度をはっきりと示した。
★今年の2月、ポーランド人修道者たちの「写真集」を出した時、次のような手紙が届いた。「今から40年前、修学旅行で、長崎へ行った時のことです。マチア修道士さまから騎士誌を頂きました。現在に至るまで、ずっと励まされ、支えられてきました。家庭の事情で教会へは行けなかったのですが、いつも祈っていました。最近、要理を学び、昨年、洗礼に与かることができました。写真集から、マチア修道士さまのあふれる笑顔を拝見し、懐かしさで胸が一杯になりました。遠い国ポーランドから宣教にいらしたコルベ神父さまと修道士さまたち、本当に、日本の私たちは、どれほど助けられたでしょう」(写真は、大浦天主堂の庭で、騎士誌を配っているマチアさん=手紙の人と関係はありません)

2019年5月13日月曜日

母の日は、入居者女性皆さん1人1人に「お花」の愛のプレゼント

昨日は、母の日でした。ホームでは、入居者の3分の2が女性です。「おめでとう、おかあさん、だからね」。2人の職員さんが、ごらんの扮装をして、1人、1人の女性に、お祝いのカーネションを配りました。女性は、お花をもらうのが一番喜ぶそうですね。でも、今年の母の日は大変でした。
★普通ならば、昼食時に、全員が食堂に集まって、お祝いが行なわれます。しかし今月は、エレベータの拡張工事のため、食事は、1階、2階、3階と、別れて頂いています。カーネションを配る職員さんは、フンパツして、各階をまわって、女性の皆さんに運びました。女性の皆さんから喜ばれた。想像がつくでしょう。
★実は、この母の日の昼食時に、トマにはお客さんが3人も見えて、外食に出かけました。例の食事処「おおはし」へお客さんの車で行き、例の食事、「ひらす定食、あさりの味噌汁」を食べていました。だから見ていないのです。
★夕食時に、カーネションは、仮装した職員さんが2人で行なった、と聞いた。「ああ、惜しかったな。見たかったな。写真に撮りたかったな」と、つぶやきました。すると、夕食が終わって、しばらくして、トマは自室でくつろいでいると、「トン、トン」と、ノックする者がいる。「ハーイ、開けて」と、現れたのが、この2人でした。「この格好で、回りました。フ、フ、フ」と愛嬌の顔。右は、ネコの「バナナ」「イチゴ」など飼っている松村さんじゃないか。左は、お多福かぶっているから、ワカランけど、知っているよ。女性の職員さんだった。わざわざ、恰好を仕切りなおして、トマに見せてくれるなんて、オドロキだよ。感動モノだよ。「ああ、わかりました」と、写真に納めた次第でした。
★「生きるって、こんなに、楽しいことの重ね、じゃないのかな」

2019年5月12日日曜日

聖母月の集い。聖母マリアさまを賛美する。従姉との出会いもある

5月は聖母月です。ホームの隣にある湯江教会でも、聖母マリア賛美の集いが行なわれた。共同で、ロザリオを唱えて、各留ごとに、飾られた聖母像に、信徒2人が、お花と小さな灯を置いて、マリアさまを讃(たた)えた。
★ロザリオの後で、主任司祭の山下神父さんが、教皇さまの「聖母月に祈る」メッセージを解読された。気候も段々と温かさを増して、気持ちも快いです。
★お祈りの後で、従姉に出会った。私の母の、姉の従姉です。母親の方の、最も近い親戚です。私より、1つか、2つ歳上です。長崎市に住んでいる。私の母は「ワサ」という名です。母の姉は「ワカ」おばさんです。私が少年の頃、カリエスを病んだ時、「ワカ」おばさんには、お世話になった。「コウーちゃん」「コウーちゃん」と可愛がられた。4人、女の子が居たが、もう3人は亡くなられて、この従姉が元気にしております。会うのを予想していたのか、数々のお菓子が入った紙袋をくれた。兄弟姉妹が居ない私は、近い親戚が頼りです。「ワカ」おばさんの温かい愛は忘れない。素朴で、信心深い、浦上の根っからの信仰者でした。

2019年5月11日土曜日

変わらぬ日々が幸せ。先祖のため、家族のため、平和を祈ります

湯江教会の祭壇下の生け花です。今日も、祈りが出来るのが幸せです。日々、変わらないのが幸せです。歳を重ねて行けるのが幸せです。
★近くの部屋の女性のところへ、子供や孫が6、7人来て、にぎやかな声や笑いが聞こえていました。「幸せな、笑い、声や、な」思いました。「ばあちゃん、げんきで、な」。顔を見て、安心する。私はベッドで午睡の時間でした。
★午後の3時少し前から、「雲仙の間=食事する場所」に、5人が集まって、私が先唱して、ロザリオを唱えました。子や孫の訪問で喜んだ「ばあちゃん」も一緒に唱えました。五島の出身の信徒は、そりゃ熱心です。子や孫に「つながって」、信仰ばして、これ以上の安心はありません。私は、いつもロザリオが終わると言います。「先祖のため、家族のため、自分のため、煉獄の霊魂のため、神さま、マリアさまに祈りました。良いように、導いて、守ってくださいます」

2019年5月10日金曜日

段ボール箱に写真と資料がイッパイ。ドイツから送られてきた

ドイツから、段ボール箱が届いた。差し出し人は見知らない女性。32✕30✕15cmの大きさ。2019.4.20に出している。2.8Kg。47ユーロ(5.730円)かかっている。宛名は聖コルベ記念館だが、ホームのトマへ回送してきた。開いてみると、故人フランチシェーク・ガヨビニチェックさんの写真や資料だった。コルベ神父から命を助けられた男性である。なに語か、ポーランド語か、分からないので、内容は不明。しかし多数の写真の中に、2枚のトマの写真を見つけて、びっくりした。トマが送ったのか、覚えていない。
★その1枚は、最初に出会ったときの写真。1983年8月。真ん中が当の本人。81歳だった。左隣は、ローマン修道士。通訳として同行した。このとき、アウシュヴィッツの事情や、コルベ神父から命を助けられた当時の出来事を詳しく聞いて、録音した。
★彼は日本に興味を示して「日本は、教会に来る人が少ないと聞きました。本当ですか」と問うた。「ええ、まあ」と、トマは答えた。すると彼は言った。「人間には弱さもあるし、迷いもある。私たちに天国は必要だが、パンも必要です。ポーランドでも教会に行かない人も居るが、大多数の人は努力している」
★2回目は1990年(平成2年)8月、88歳になっていた。
★3回目が1993年7月、91歳で、お元気だった。左隣は、再婚した奥さん。前の奥さんの親友だった。サインを求めると、しっかりした筆跡で次のように書いてくれた。「尊敬するブラザー・トーマス、聖マキシミリアン・コルベ、聖母マリアが、あなたと日本にある長崎のフランシスコ会の総ての家族を祝福して下さいますように」
★40歳のとき、コルベ神父から命をもらったガヨビニチェックさんは、93歳で、1995年3月13日にポーランド・ブジェグの自宅で神に召された。
★誰が送ってくれたか知らないが、資料箱の中に、自分とガヨビニチェックさんの写真を見つけて、彼との「つながり」を感じた。彼のために祈った。

2019年5月9日木曜日

アンネのバラは告げる。現状は悲惨でも、人間は善なのよ

長崎市の白浜さんが来た。「アンネのバラだよ」「どこに咲いているの?」「聖ヨゼフのご像(聖母の騎士)の庭に」「きれいや、ね」「色が変わって行くんですよ」。黄色からピンク、赤に変わる。「ふしぎな花だね」。聖母の騎士の院内で、数か所で育てている。
★花は美しいが、「アンネ」と聞けば悲しい。テレビで少女の苦悩の人生を見た。アンネのことは忘れない。戦争中、ユダヤ人は、ナチ・ドイツ兵から連行され、殺された。アンネの家族は、屋根の裏側に秘かに隠れていた。少女アンネは日々の思い、出来事を日記を書いた。遂に恐怖の日がきた。家族は捕らえられ、アンネは強制収容所に送られ、死んだ。悲しいアンネの一生だった。戦争と、悪魔のような大人たちに脅(おび)え、苦悶の日々をおくり、少女でイノチを絶たれた。それでもアンネの心は純粋だった。
★人は、真、善、美を求めるが、反する行為がイッパイある。良心に従わない。暗い影があり、恐怖がある。自由がうばわれる。信用できない出来事が起こる。現実は厳しい。それでもアンネは「人は、善である」と信じた。現状は悲惨だけれども、人間は善であると信じた。痛ましいじゃないですか。少女が隠れ家に潜んで、呼吸は秘かに、食事も細く、自由も、おしゃれも奪われていたのに、「信じるわ」と言うアンネ。最後は悲惨な死をとげる。誰も救いに来ないのだろうか。善は悪に勝たないのだろうか。誰を信じれば、いいのだろうか。ナチのような行為が、世の中には起きる。その中で生きる我々は、どのように武装するのか。「それでも人は、善よ」
★少女アンネの言葉は、人間に希望を与える。恨んで、当然。憎んで、当然。それなのに赦す人も居る。人間、誰しも自分を守る。手向かう相手は許さない。それが当然なのに、中には、それを超えて、与える人、赦す人がいる。
★ニンゲン、なぜ、それが出来るのか。人間の心の奥に、何があるのか。次元を超えた、何かが、そこに有る気がする。アンネが記すように、「人間は、本来は、善よ」。人間関係が、もつれに、もつれても、それを信じたい。

2019年5月8日水曜日

いい、朝だ。なにか、よいこと、あるぞ。5年目に届いた迷子書留

今朝、教会へ行こうと、廊下へ出たら、こんな空。「なんじゃ、こりゃ」。自室へ入り、デジカメを取って、写した。スーッと、1本、空に横線。今から太陽が上がる。「いい、ねぇ」。でも、待てないよ。この場を去って、教会へ。「なんか、いいこと、ありそうだな」。いつも、えぇ日さ。自然はきれいだな。心も、スゥーッと、1本、行きたいよ。老いても、こころは、キレイさ。で、なければ、生きられぬ。
★びっくりしたことが、あった。なんと、5年前に出した「現金書留」が、いま、手元に届いたのだ。「ええ、なんじゃ、これは?」。タマガったよ。中には、三千円が入っていた。ハガキ大のメモがあり「突然で申し訳ありませんが、小崎修道士様の色紙を2枚お願い申し上げます。いつもブログを拝見して、信仰について考えています」と達筆で書かれていた。消印は、2014.08.05になっている。まさに5年前だった。
★当時、聖コルベ館に居て、手描きの色紙を希望者に買ってもらい、そのお金を、親友であるルーマニア人のペトロ・イシトク神父さんの家族に贈っていた。結構、売れて、何度か、ユーロで、ペトロ神父さんの姉家族や弟家族に贈っている。「その色紙を欲しいのです」という願いの「現金書留」だった。宛先の住所が、南山手町になっている。「現金書留」には「本河内に配達してください」と張り紙が付いてあった。本河内に回送されたらしいが、ちょうど、トマ修道士は体調を崩して入院していた。いつしか「本河内」で迷子になって、放置されていたらしい。それでも、よくぞ、届いた書留だ。「とにかく、いま届いて、よかった、おどろいた」
★記されていた電話番号に、携帯でかける。当の本人さんが出た。「やっと、つきました」と事の次第を説明した。「残念ながら、ホームでは、もう、色紙は描いておりません。三千円は戴きます」。お礼の手紙を出した。

2019年5月7日火曜日

居た、居た、あのスズメだ。テレビにも出たんだぞ。がんばれ 

廊下の窓から、見つけた、あのスズメだ。待てよ、待てよ。いま、デジカメ、持ってくるからな。そのまま居るんだよ。
★自室に入り、カメラを急いで取る。少し望遠にして写した。何かを、くわえているぞ。青草のようだ。エサだろう。子供が居るんだな。よし、よし。はげめよ。子供を守れよ。1羽しか居ないな。目がこちらを見ている。
★教えてやろうか。日記に載せたら、テレビにも出たんだぞ。あの時は、2羽だった。もう1羽は居ないな。1羽のスズメでも、ホームに居れば、慰めにもなる。子供を作って、子孫を残す。本能とはいえ、リッパな生活だ。
★青草を、しっかり、くわえて、エライな。どこにネグラがあるのか、見たいよ。子スズメのピイ、ピイ、鳴くのを見たいよ。親スズメ、いいカッコウ、しているな。けな気なモンだ。オレの母親を思い出すよ。子供を沢山、育てるんだぞ。オレは、修道士で、子供は持たなかったが、こう言うのは、少し気がひけるな。だが、イノチは、神さまのことだからな。エライ。エライよ。ピイ、チク、パア、チク、しっかり青草をくわえて、動かない。さあ、早く、子供の口に運ぶんだぞ。待っているぞ。待っている者が居るのは、幸せだよ。

2019年5月6日月曜日

何事もなく、10連休は終わります。職員さんは休めない

10日間の連休も今日が終わりです。別に変わりがないホームの生活でした。食べさせる、介護する、職員さん達は、休めません。それでも頑張っておられます。
★昼食は「五島うどん」でした。普通の「うどん」の麺と違って、ほそ麺です。私は、この「五島うどん」のほそ麺が好きです。「ああ、なつかしいなァ。帰りたいなァ」。そんな声も聞かれます。10人の食卓ですが、4人は五島の出身です。小さなクリーム・パンと、天ぷら、ミカンがついていました。
★食事が終わると、自分の部屋に戻ります。広い廊下は明るい。スズメは居ないね。窓から見えない。皆さんは歩行器や杖を頼りに歩きます。歳、老いてくると、仕方がないね。自分の生活だから、自分で耐えるしかない。それでも明るく、呼吸しています。静かな、平和なホームです。人のために尽くしているだろうか。イヤ、イヤ、もう無いね。そう思えば寂しいよ。これまで誰もが働いてきたからね。
★朝、食事が終わって、自室で、牛乳と、ヨーグルト、イチゴ、クルス1枚、テレビを見ながら食べました。やがて朝の体操がある。カラダを動かす、体操はサボらない。その後、入浴した。午前中は、男性。入る男性が居ないんですね。1人で入りました。以前は、入江さんと一緒だったが、もう今は入れない。1人の入浴は危ないですよ。そう思いつつ、気をつけて、あせらずに、落ち着いて、入りました。
★3時から、「雲仙の間」で、3階に住む5人で、ロザリオを唱えます。それから自室で、「教会の祈り=晩と、寝る前の祈り」を独りで祈ります。神さま、マリアさま、忘れません。神さま、マリアさまも、老いたトマを見て、守って、導いてくださるだろうか。

2019年5月5日日曜日

写真家が言った。「被爆者の苦悩が目に表現」それを撮りたい

見知らぬ写真家から電話があった。「被爆者を撮りたい」「(午睡するので)2時に来て下さい」。約束の日、また電話があった。「1時にダメでしょうか」「いいでしょう。待っています」。午睡を犠牲にした。不安は、あった。写真を撮ると言っても、相手がどんな人物かも分からない。紹介状もない。勝手に写真を撮られて、使われても困る。今の世、用心するしかない。そう思うのが普通でしょう。
★1時前に、玄関で待っていた。その写真家が姿をあらわした。玄関のソファーで一応、話を聞いた。豪華版の「原爆遺構」の写真集を見せ、「差し上げます」。念を入れて、1枚、1枚をめくった。立派な写真集だが、それにも増して彼が言った言葉に、心を動かされた。
★ある時、自分は気がついた。被爆者の目に『チカラ』がある。苦しみ、悲しみ、痛みが浸み込んでいる。それを自分は写したい。被爆者の目の中に、悲しみや苦しみ、痛みが宿っている。そこに魅力を感じる。写真の意義は、記録もあるが、表現もある。自分が理念をもって、ものを撮ると、思いが相手に伝わる。その人の歴史や、苦悩が、目の中に埋まっている。それが表現となって、自分に返ってくる。そういうものを撮りたい、と私は受け取った。
★普通、被爆者を撮る場合、膝(ひざ)上か、腰あたりの上か、胸あたり上を撮る。それが普段の撮り方じゃないですか。この写真家は、目を中心に、顔を撮りたいというのです。彼の考え、視点に、共鳴しました。確かに目の奥には、原爆の廃墟、悲惨さが秘められているはずだ。ひそんでいるはずだ。それに焦点を当てる、初めての見方だった。
★彼を応接間へ招いて、撮影した。実は、写真を撮るならと、既に修道服をバッグに入れて用意していた。目を中心に、顔、首のあたりから撮るというので、修道服の「カプチュン」だけを着て、椅子に座った。
★2台のカメラで撮った。その中の1台は、6✕6のフイルムで、巻いて写す以前の形式のカメラで、ハンドルを回して撮った。懐かしい。私も以前、「まみや・プレス」を使っていた。大型の、横長のフイルムだった。
★撮影の後は、原爆のナマの体験を語った。録音機を置いていた。8月9日、何を見たのか。何を経験したのか。話は熱っぽくなってくる。盛り上がったところで、もう疲れた。この後、予定もあった。既に2時間が経っていた。「きょうは、これで止めましょう。また来てください」と早々に引き上げた。その後、数人で唱えるロザリオの先唱があった。後始末を見届けることなく別れた。あの写真家には申し訳なかったとの思いが残った。