2019年3月31日日曜日

白浜さんが来る。聖母の騎士のルルドの係り。恵みの泉

長崎市から、白浜忠美さんが来た。月が終わった最後の日曜日に、日記をA4の紙に起こして持ってきて呉れる。聖母の騎士に勤めて7年になる。ルルドの清掃や木の剪定の仕事をしている。25日は、聖コルベ記念館でも「コルベ神父パネル展」が終わった。その日は、兵庫県の女子高校生たちが、修学旅行で長崎へ来て、パネル展を見て、ルルドへ上ってきた。白浜さんは、ルルドに居て、説明もしている。フランスのルルドのことや、永井隆博士の原爆後の奇跡など、正しい説明が必要だ。
★白浜さんは毎日、ルルドの清掃をしながら、巡礼者との会話も努めている。県外から、難病で、余命2年と言われた女性が、鼻に管をつけ、サンソの車を引いてルルド詣りに来た。一心に祈っていた。次は、もうルルドまで登るチカラがなく、下で待っていた。お母さんと兄がルルドへ来て祈った。それから毎月、お母さんと兄が祈りに来て、ルルドの水を汲んで帰った。女性は、13年生きて、昨年の8月15日、聖母被昇天の祭日に亡くなった。9月に、お母さんと兄が、お礼詣りに来た。「マリアまさの所へ帰って行きました」。お母さんは、もう高齢になっていた。五島の玉之浦出身で、そこには日本で一番古いルルドがある。ルルドの聖母の信心は、そこから始まった家族だった。
★聖母の騎士のルルドには、登る坂道には、ロザリオ玄義のレリーフが5基ある。アンネのバラも咲いている。原爆かよこ桜が2本、そめよしの桜が3本、八重桜が2本、ピンクの桜が3本、今が花の見どころだそうです。
★トマにとっても、聖母の騎士のルルドは懐かしい。原爆前に、母に連れられて、ここで祈った。ちょうど学生服の小神学生(中学生)たちが一団となって、ラテン語で「聖母マリアの連祷」を歌っていた。その姿に憧れたのが、この道に入るきっかけとなった。

2019年3月30日土曜日

パソコンの装備は良く出来た。安心して、書けるぞ。キバレよ

ホームのサクラが咲いた。入口の「アシジの聖フランシスコ」のご像が立つ所のサクラです。いいねぇ。もう、すっかり春だよ。今年も、このサクラが見れて、よかったよ。
★この足で、職員の西田さんの運転で、諫早の「ドコモ」ショップに行った。パソコンの横に立てて置く「Wi-Fi」(手のひらに乗る程の電波を飛ばす黒い器具)と、携帯を買いに行った。スマホは持っていません。昔ながらの携帯です。電話だけが使える細長い形の携帯です。これだけあれば十分です。
★「ドコモ」の店では、手続きに長い時間がかかるんですね。本人確認と、保証人の声と、サインを何度したか分からぬほど書いた。午前10時に出て、午後2時半に帰りました。最近、新しいパソコンを入れたが、なぜか、画面の出方が遅かったり、投稿できなかったり、白い画面になったり、不具合がつづいていた。イラ、イラして、考えもまとまらない。今日からは、安心して日記が書けるでしょう。
★新聞にも出たり、他からも注目されているので、「日記を書いて10年」になる4月の最後までは「ガンバランば、ね」。気力だよ。キリョク。負けちゃ、いかん。ウラのない人生を送りたい。いつもホンネで語りたい。わずかな人生じゃ、ないですか。思うのは、同じことばかり。
★沢山のことを知らなくても、ひとつの小さな生き甲斐があれば、ニンゲンは立派に生きていけるのです。汗にまみれた、ドロにまみれた、一言が、ほしい。ヒト言あれば、人はイキイキと、生き返る。ゲンキが出るよ。そう、願いたい。
★空にはサクラが咲き、地面には、赤い花も、小さいけれど競って咲いている。

2019年3月29日金曜日

傾聴ボランチア女性が来る。語れば、スッキリ、気持ちは、ラク

今年になって2度目の傾聴ボランチアの女性が来た。ホットして迎えた。いつも思うのだが、このセチ辛い世の中で、時間と、自費を使って来てくださる。悩み、思い、わずらいを聞いてくださる。意見は全く言わない。こんな人が、キリスト信者が、居るだろうか。「感心しますよ」と言えば「聞いて、わかった。面白い。それだけです。深刻じゃない」と応じられる。1時間、我が思いを語った。
★誰だって、自分が持っている一番ツライことは、人には絶対言いません。誰もが、身を守る。警戒する。聞く人だって、この人、ホントのこと、ホンネを言っているのかな、と思うでしょう。自分が語る。女性が、最後の言葉を繰り返して、告げる。すると語った自分は、自分のうちに解決の糸口を見つけていく。
★きょうは、私は何を語ったか。老人になって、ヒトが変わる。暴言を吐いたり、暴力を振るったり、怒りっぽくなったり、そんな事実を聞くじゃないですか。そのようには、なりたくない。人が、変わるのを、恐れる。
★このホームに70人からの住居者がいる。90歳以上が、15人は居るだろう。その中で、奇声を発したり、嚙みつき、暴力など全く聞かない。ふしぎに思いますよ。
★我が人生に残っているものは、老いて、病んで、死を待つ。ただ、それだけですね。先は短い。この残された人生を、いかに生きるか。ぼやッとは、暮らせない。振り返れば、夢も、希望も、行動も、昔の遠い、過去に去ってしまった。ああ、なつかしい日は、もう、ないよね。
★それでも、今の生活に、喜びは持ちたい。91歳で、パソコン日記、毎日、書くのは珍しい、と地方の新聞にも取り上げてくれた。やはり、生活に、ハリがある。まだゲンキでいたい。老いボレンぞ。気持ちも、湧いてくる。
★きょうは、日記を書くのが遅くなった。私のパソコンは電話線につながっていないので、電波が弱い。新しいパソコンを入れたので、その操作で、電波の超過になって、画面が立ち上がらない。電気屋さんに来てもらった。応急処置で、何とか立ち上げた次第です。

2019年3月28日木曜日

菜の花が咲く希望の春だよ。トマさんにホンネの質問あり

トマ修道士への質問があった。
★「91歳で、毎日、ブログ、書いていますね。ご苦労さまです。よく続けますね。どんな気持ちで書いていますか。書き始めた動機は、何ですか」
★自分は毎日、書いているから、『ブログ』の呼び方は余り好かない。『日記』です。日々の生活に、人生を発見したい、気づくヒラメキを見つけたい、そんな気持ちです。喜んで読んでくれる人も居るしね。ボケないためにも。書き始めたのは10年前からです。新しい発見ですか?ありますよ。日記のおかげで、ホームに居ても沢山の出会いがあった。
★「トマ修道士の多くの出会いと体験から、振り返ってみて、短く表現する言葉があれば何ですか」
★それは、『生きるとは、孤独と出会い、愛といのち、これが人生』ですね。幼少の頃、両親に死に別れ、孤独になった。若い頃、結核を病み、孤独になった。修道士になって沢山の出会いがあった。コルベ神父を知って、お礼を求めない愛を体感した。いのちを貰った男性に3度会って、戴いた『いのち』の喜びと、『ジンクーエン=ありがとう』を言えなかった悲しみの『涙の重さ』が身に染みた。人生って、これですよ。
★「現在の目標と言うか、日頃、心がけていること、好きな言葉ってありますか」
★人と、争わないことですね。平穏心で生きたい。好きな言葉ね。『楽天知命』かな。天命を喜んで、受け入れる。その心境だね。
★「忘れられない出来事、信仰体験って、ありますか?」
★そしゃ、真っ先に、長崎の原爆だね。家に帰った5時間の体験。助けない。困難が来れば逃げる。仇なる人間は許さない。その後、病気を病んだ時にも、同じ心境が、グ、グッと、きた。コルベ神父の餓死牢に10度訪ねて、祈って、コルベ神父の助ける心。困難に遇っても逃げない心、憎きナチをも許す心、これを、あの場所で、体感して肌に染みこんで救われた。ナチの兵士は言ったよ。『チューリップのように枯れてしまえ』。だが、コルベ神父の『愛の花びらは、いつまでも枯れない』。愛が憎しみに勝った。
★「これから先、トマ修道士さんは、どのように過ごしたいですか?」
★腎臓からボウコウまで、管(ステント)が入っている。3、4か月ごとに交換する。これなくして生きていけない。トマにとって十字架だよ。そのため4月3日にまた入院する。痛みと、希望。自信とパワーを吐き出したいよ、日記で。我が老いは、どのように枯れるのか、日記に続けて、いつまでも記したいね。

2019年3月27日水曜日

修道士になった日。まだ、まだ、最後まで、走れ。そォーれ

ボクが、一番、ナマイキな頃の写真です。後ろの2人は既に故人となった。おだやかで、まじめな同級生だった。
★今朝のミサは、瀧神父さんが司式をされた。ミサ前に瀧神父さんは皆さんに告げた。「きょうは、私が司祭になった日。54年前です。またトマ修道士は誓願を立てた日。54年前になります。私たちのためにお祈りください」
★ああ、そうだった、誓願か、と思い出した。
★聖母の騎士に入ったのは、17歳。誓願を立てて、1人前の修道士になったのは、20年が経過した37歳のときだった。病気で、自分に与えられた道は、厳しかった。ナマイキな格好の自分は、吹き飛んだ。
★人には、弱さがある。それを認めて、ひざまずく。助けてください。導いてください。そこに神は居られる。強さに憧れました。立派さに憧れました。それでも出来ない。病んでも、嘆いても、そこには助ける人がいた。何も言うまい。助けられたからこそ、今が、ある。
★22歳で修練院に入ったが、そのとき重大な病気、腎臓結核を病み、大手術を行なった。本当ならば、修道院から放り出されるところだが、ミロハナ神父さんが助けてくれる。身体の弱ったまま、修道服の着衣を受けさせた。しかし健康はつづかない。修道服を着たままのトマを、ミロハナ神父さんは、山の修道院で療養させてくれた。
★人生には、長い辛抱が必要だ。元気を取り戻して、2回目の修練院を希望して、誓願をたてて、やっと修道士となった。同級生たちは既に司祭に叙させられていた。これからは、心して修道士の道を進もう。これしか、ない。「弱さを語れば、人と、人の間は、ちぢまるだろう」
★人生、ひと言で表現するならば「孤独」です。限りない孤独。その孤独を救うのは、出会いによる愛です。それでも人は、死という最大の孤独に向かって、ひとりで歩いていく。今は、気力。あとで安心です。これでクイは、ありません。
★濱田神父さんが、瀧神父さんとトマ修道士をさそって、昼食をごちそうしてくれた。「さかな、たべよう」。濱田神父さんが運転して、小長井町の「おおはし」(いけすが、ある店)に連れて行った。滝神父さんも嬉しそう。「ああ、やっぱり、修道会に仲間が居るんだな」。ヒラスの刺身、大きい、コリ、コリ、9枚あった。
★人生を、最後まで、走れ。人生にあるのは、日々の成長だ。どれだけ成長で変われるか、まだ、まだ課題は残されている。いつも、今から始まるジンセイ。

2019年3月26日火曜日

手前から走って、勢いをつける。飛びます、跳びます、よし

「コーラス」といって、童謡を歌いながら、手を動かす訓練がある。両手を、アタマ、ガッショウ、ヒザと、動かす。今度は、反対に。「ハイ」と声かけしたら、、また反対行動にする。これが老人には機敏に出来ないんだな。間違えたり、慌てたり、スムーズに行かない。「童謡」とバカにするけど、結構、自分には役にたつ。14,5人が集まる。時々、自分も参加している。タメになるんだな。
★老人になるとは、機敏性、瞬発力がおとろえる。直ぐに切り返しが出来なくなる。それを運動によって、バックさせるのだ。係りの女性職員さんが、また威勢がいい。気合が入っている。必ず、問いかけがある。「皆さーん、シアワセ、ですか?」。即これに必ず答える女性がいる。「ハーイ、シアワセ、です」「幸せだよね。3度のご飯もあるし、お風呂にも入れるし、暖房もあるし」。最後は「幸せなら、手を叩こう、肩、足、そして手をつなごう」の繰り返しで終わる。中ほどで、ヤクルトが出るのも嬉しい。
★テレビで見る「独居ろーじん」。かわいそうだね。同情するね。遺品整理のビジネスが繁盛しているそうな。出来るだけ、自室には持ち物を増やさないようにしている。残された物はゴミだからね。今の興味は「大のトイレがあること」「尿が出ること」「夜、眠れること」。きょう、1日を、呼吸し、歩けるのが幸いです。
★生きるには、勢い(いきおい)ですよ。これがないと飛べない。3段飛びや、ヤリ投げでも、手前から走って、勢いをつける。生活にも、イキオイが必要です。老いることは、残念ながら勢いが無くなるんだな。それを撥(は)ね退(の)ける。アタマを、プル、プルっと、横に振るって、ハネのける。そこで、「飛びます、跳びます」
★午後から、車で20分の歯医者さんへ治療へ行きます。歯磨きの調べ、洗浄、歯石とり、1時間ほどかかります。入れ歯はありません。

2019年3月25日月曜日

「はな」ちゃんへ、エプロンの贈物。喜びはゲンキのモトになる

「はな」ちゃんを、時どき、日記に載せるので、愛読者からプレゼントが届いて、お母さんや「はな」ちゃんを喜ばせている。今度は、茨城県の節子さんから「はなちゃん、かわいい」と、小さなエプロンが2枚届いた。お母さんは、ホームで働いている。「え?エプロン?送ってくれたの、これ、いいね。はなが、喜びますよ」と受け取ってくれた。
★はなちゃんのお母さんは、介護で頑張っているね。はなちゃんの贈物、小さなエプロンを2枚も呉れたのも誉めるが、はなちゃんのお母さんの働く努力も誉めてあげたい。ここで「1つ、気がついたことがある。それは人を「ほめる」ことです。「ほめる」ことは、タダです。それで人は喜ぶのです。笑顔になるのです。ほめられました。気持ちが、スッキリする」。はなちゃんのお母さんは、今日も、あしたも、介護の仕事に熱心になるでしょう。はなちゃん、幸せだよ。
★はなちゃんのお母さんは北海道で生まれて、高校卒業すると、遠い長崎へ来た。18歳でホームに就職して、介護しながら本人も成長して、ホームの湯江教会で結婚式を挙げて、みんなから見守られてきた。はなちゃんは、ひな祭りの前日に生まれる。半年が経った頃、初めてホームの皆さんに、はなちゃんをお披露目した。
★1歳、2歳、3歳と、お誕生日に連れてくる。子供の成長は早いね。ホームの皆さんから温かい眼差しを注がれて育ってきた。ホームの人ばかりでない。日記に載せると、誰かの心に入り込むのだろう。「はな」ちゃんへ、と愛情あふれる贈物・お菓子が届く。
★「えーぇ、また、来たの」と、いただくお母さんも、まんざらではない。
★30年、50年経ったら、この世はどうなるか。スマホはどんな変化をとげているだろう。将来がある「はな」ちゃんがウラヤマしい。愛だけが、人をつないでいく。

2019年3月24日日曜日

「楽天知命」。天命を喜んで、受け入れる、その心境で生きる

めずらしいいお客さんが自室に来た。東京・亀有教会の主任司祭、松田神父さん。ちょうど昼寝の時間だった。「そのまま、そのまま」と言うので、ベッドの中で応対した。トマがホームに入った5年前は、ホームの隣の湯江教会の主任だった。修道院の夕食に招かれた時は、よく話していたし、教会でのお説教も聞いた。健康には気をつけて、毎日、ホーム周辺の屋外を散歩していた。学者だよ。分厚い本もシリーズで出している。聖書を読む会の主催者でもある。
★トマがホームに入った時、忘れもしない、状況は深刻だった。松田神父さんを訪ねて言った言葉を、当時の日記に書いたハズだ。ノートを探してみた。あった。次の言葉だった。「老人ホームも、さびしい。この世に生まれて、ポキッと折れた。折れた人生も、神さまがご存知くださる。人間は小さな存在だ。少しばかり、わかった。父、母、兄弟いない。原爆という底辺で、何かのキズが襲ったのかも知れない。病院でクチ果てるとも、ここへ来られたのも、神の導きにゆだねたい」
★フトンの中のトマを見て、「顔色、よさそうだね」と松田神父さんは言った。目を壁に貼った「楽天知命」に移して、「『らく・てん・ち・めい』いい言葉だね。自分も4文字熟語を沢山記している」と興味を示した。
★トマはフトンの中で応じた。「天を楽しみ、命を知る。天命を喜んで、受け入れる、今が、その心境です。その心で生きている」「いいね、いいね」。老いてきて、いろいろ不自由はあるが、あわてない。1つ1つの出来事を、天から望まれ、摂理として与えられる苦しみを、喜んで受け入れ、自分の痕跡として残していく、そんな心境になっている。「いい、心境だね」と松田神父さんも同調してくれた。「額縁に入れたら、いいよ」
★ここで、パッと、フトンをめくって起き上がり、「写真を、1枚」と、撮ったのが、松田神父さんの写真です。ホームで会議があり、そのために来た。ホームの西山神父さんの部屋を訪ねて、次に瀧神父さんの部屋へ行き、最後にトマの部屋に来たことが分かった。この後、東京へ帰るという。
★先輩方を大切に、その心が松田神父さんに「あるな」と感じた。

2019年3月23日土曜日

アンズの花よ、実が成らなくても咲け、見て感心する人あり

「ごらん、きれいな、アンズの木ですよ。写真、撮らんね」。車を運転する高原修道士さんが、国道から急な坂道を、ホームへ登るとき、後部席のトマに、声をかけた。「ホントだな。よし、止めてよ」。車の窓ガラスを下ろして、一発、撮ったが、どうも肝心の木が小さい。「もう、ちょっと、車をバックさせて」。デジカメを少し望遠にして、もう1枚撮った。それが下の写真です。
★きれいなアンズだな。花は、薄い黄い色。湯江修道院のヨゼフ橋口修道士さんの解説によると、40年ぐらい前に植えたという。その時、彼はホームの事務長。園長は初田神父さん(今は故人)の時だった。「アンズは、真っ赤な、親指ぐらいの実がなるんだがね。あの木は、なる実が少ない。実が多くあれば、焼酎につけて、アンズ酒を造ればいいのだが、出来ないね」。花は咲けども、実はならず。悲しそうなアンズの木だった。
★だがホームの歴史を知っているアンズの木。ホームは50年ほど前に建てられている。園長も、初田神父さん、江口神父さん、松尾神父さん、川渕神父さん、坂谷神父さん、柳本神父さん、そして今の山内神父さんと代わった。生存者は、後者の2人だけとなった。人は変わるが、花は変わらない。それが強みだね。花はエライよ。
★ホームに入って、「こころ」も「からだ」も何やら取り残される気分になった。寂しい気持ちも味わった。だが人生には、第二の人生も、あるさ。ダラ、ダラと生きるのではなく、何かを喜び、何かに熱中できること、自分がそれに向かって進めるなら、それで、よし。そう思うよ。
★ごらん、アンズの花は、実がならなくても、静かに、ひっそりと、リッパに、美しく、咲いているでは、ないか。それで、よし。それで、よし。高原修道士さんも「ごらん」と誘ってくれたではないか。今の自分に、未来を持たせよう。めっきり春らしくなった今日は、希望を持とうと、自らを励ましております。
★「写真集」の申し込みも、終わったようです。感謝のお手紙や、お菓子や、励ましの電話を頂いて嬉しく思います。支払った代価は、お恵みとなって、また戻ってきますよ。必ず。そういうモンです、世の中って。

2019年3月22日金曜日

聖ヨセフの祭日の午後、小聖堂でミサ。シスターの祈りと聖歌

歌う喜び。祈る希望。人は、何らかの夢がなければ、生きていけない。ポーランド人の3人のシスターが、ポーランド語で歌う。チンプン、カンプン、何が、何だか、わかりません。題を聞くと、「ロズモーバゼ・シュエンテム・ユゼフェン」(まちがって、いるやも知れぬ)。訳して「聖ヨセフの語り」です。
★聖家族の守護者・聖ヨセフの生涯は知られていない。そこで歌う。「聖ヨセフさまよ、あなたは、ミリアム(ヘブライ語=マリアさまのこと)と一緒に生活して、日々何を感じていましたか?食卓で、何を話していましたか。神の御子であるイエスは、人の噂(うわさ)では「大工の子」と呼ばれた。何を思いましたか」。それが内容だそうです。
★ポーランドでは、よく歌っている。3人のシスターは心を合わせて、遠くポーランドを思いながら歌っていました。めずらしい歌声に、皆さんは聞き入りました。
★余分ですが、シスターを紹介しますと、立って歌うシスターは来崎20年になります。日本語は上手です。ポーランド、韓国でも活躍した。後の2人は、まだ新米。3年と、1年半の滞崎で、学校に通って日本語の勉強中です。3人は小長井町の修道女院に奉献生活を務めています。山の中ですよ。寂しい場所です。でも大きな施設がある。
★修道女院・施設の広い敷地内に、聖ヨセフに捧げられた小聖堂がある。先日の聖ヨセフの祭日に、ここでお祝いのミサが行なわれました。ミサの司祭は、長崎・聖母の騎士の山口神父さんでした。そのミサで、聖体拝領の後で、3人は歌ったのです。
★このお祝いのミサには、ホームから瀧神父さんと高原修道士さん、トマの3人も参加して祈りました。豪華な壁画がある聖堂です。「ヨセフのところへ行け」と聖書の言葉が書かれている。聖ヨセフにお願いすると、必ず聞き入れられると信じて祈ります。沢山のお恵みも、これまでにあった。小さな聖堂ですが、巡礼地になっています。
★聖ヨセフ小聖堂が建立したのは「1972年」と外壁に刻印されていました。コルベ神父が福者になった翌年です。コルベ神父への喜びと希望があったかも知れません。かなり古い聖堂になります。
★聖ヨセフは神の御子イエスさまと御母マリアさまに看取られて天の御父のもとに帰天しました。これほど良い最期はありません。聖ヨせフは「臨終を迎える者」の保護者といわれます。私たちも聖ヨセフに祈りましょう。生きるチカラが湧いてくるでしょう。
★小長井町の修道院で炊事の担当だったカシアノ修道士(ポーランド人)は、聖ヨセフの熱烈な信心者でした。夕食を作り、仕事を終えて、自室に戻り、ベッドに横になって聖ヨセフに迎えられて神に召されました。

2019年3月21日木曜日

ヨゼフ・クリニックの高木先生。20年来、心身お任せの診察

長生きの秘訣は、信頼ができるお医者さんに出会うことです。ヨゼフ・クリニックの院長・高木正剛先生。毎月、1度、定期の診察に通っている。もう20年近くになる。
★ホームから高原修道士さんの運転で、長崎市坂本のヨゼフ・クリニックまで約1時間かかる。いつも9時頃に到着。もう診療が始まって、待合室には、5、6人がいる。「ブラザー」と先生がマイクで呼ぶ。今日の診察は、問診のみだった。
★高木先生の写真を撮った。後方に、薄く、「聖ヨゼフと幼子イエス」の額縁が掛かっている。これはトマが高木先生に贈った、コルベ神父が持参の聖絵・額縁だった。高木先生はカトリック信者。霊名はヨゼフ。それで開業に当たって「ヨゼフ」の名を付けた。「患者さん1人1人を、家族のように大切にして、快復に最善を尽くし、祈りの中に、苦しみと喜びを共にする」。それが先生の信念だ。神父さんや、シスターも診察に見える。
★「生かされているからには、人、使命が与えられている。ブラザー、大丈夫だ。100まで生きる」と励まされている。一緒に写真を撮ろうと、うながされた。まんざらでも、ないね。不整脈も治まるよ。
★先日は聖ヨセフの祭日だった。ヨゼフ・クリニックも忘れてはイカンね。「患者も家族も、病気と戦っている。ヨゼフさまなら見守ってくださるだろう。イエスを、傍らで、やさしい眼差しで見守った。ヨゼフの心なら、病気と戦う勇気、気持ちを少しでも持たせることができる。浦上の地に開業したのも、何かの縁だったに違いない」と高木先生。趣味は登山、祈り、読書。待合室には沢山の本が並べられている。
★トマが、ポーランド勲章を貰った新聞記事を、待合室に長い間、貼ってあった。リハビリの機械類が完備。聖ヨせフは、クリニックで働く医師、看護師、病者を、静かに見守っている。

2019年3月20日水曜日

中国人の女性、熱い思いでトマの日記よむ。コウさんに、降参

中国人の女性、黄雲霞(コウ・ウン・カ)さんがホームに訪ねて来た。「トマさんの日記の愛読者よ。誰でもトマさんを訪ねているね。台湾人の許さん、来たでしょう。私も東京からトマさんに会いに来ました」
★黄さんは言う。「瀧神父さん、入江さん、傾聴ボランチアの女性、高原修道士さんは良く車を運転して助けるね」。話を聞いて、もう、びっくりだよ。たまたま女性・職員が入ってきた。「あの人、事務長さんの奥さんね。娘さん、2人いる。シスターね」。え?そこまで、顔まで知っているの?「かわいい『はな』ちゃんも居るね」
★更に、「アメリカから永井隆の名前をもらった青年、来ましたね。流しソーメンを食べた」。確かに居た、あれ何年前だったかな。家族が来て、近くの「轟の滝」で冷やしソーメンを御馳走した。そんな事まで知っているの。降参だな。マイッタよ。愛読者というより、日記に燃える人だよ。お菓子のおみやげも沢山いただいた。
★今度は、黄さんの話を聞いた。中国は、上海(しゃん・はい)出身。お母さんが昭和13年生まれで、上海のイグナチオ教会(立派な、大きな教会だそうです)でカトリックの洗礼を受けた。お父さんは早く亡くなる。
★10年前に日本へ来て、日本人と結婚した。2年前に、お母さん(霊名テレサ)が上海で亡くなった。それを切っ掛けに、カトリック教会へ行きたくなった。ネットで調べると、住所に近い教会は、赤羽教会だった。水浦神父さん(写真・左2人目)から要理を教えられ、指導を受ける。去年の復活祭に洗礼を受けた。霊名はマリア。水浦神父さんは長崎へ転任となった。信徒の金子さん(写真・左)に運転を頼んで、ホームに面会に来たのです。
★洗礼を受けてから、トマさんの日記を見つけた。毎日、午後3時、4時頃に読んでいる。2年前、3年前、以前の日記も検索して読んでいる。読んだ内容は、しっかり覚えている。「こんな熱心な愛読者も居るもんだ」。トマは唯ただ感心するばかり。
★「洗礼を受けて、何か変わったこと、ありますか」「お母さんは教えましたね。人間は、小さい子供、老人に優しくする。チカラない。タヨリない。子供、何も出来ない。祈るとき、母の言葉を思い出します」。赤羽教会の福祉会長さんと、ルーマニア人助任司祭のペトロ神父さん(同じ年だから、とても仲がよい)と、「弱い人、助けたい。病人やホームの訪問をします」
★中国人の黄さんは、ゆっくりホームで過ごして、瀧神父さんとも会話して喜んでいた。こんな熱烈に燃える人が、隠れた場所で、日記を楽しみに読んでくれているのだな、と思うと、本当に慰めと励ましになりました。黄(こう)雲(うん)霞(か)さん、ありがとう。また来てください。

2019年3月19日火曜日

聖ヨセフの祭日。修道士ヨゼフさんのお祝いの日。85歳頑張る

ホームに隣接する湯江教会・修道院には、4人の修道者がいます。コンラード濱田院長神父さん、パチフィコ山内(ホーム)園長神父さん、ヨゼフ橋口修道士さん、洗礼者ヨハネ高原修道士さんです。
★きょうは聖家族の守護者、聖ヨセフの祭日です。ヨゼフ橋口修道士さんの修道名のお祝い日です。橋口修道士さんのため、ミサが捧げられました。ミサ後に撮った「ヨゼフさん」です。彼は「ヨゼフさん」と呼ばれて親しまれています。明日が誕生日で、昭和8年生まれ、85歳になります。19日が修道名のお祝いで、20日が誕生日とは、毎年、恵まれていますよね。
★ヨゼフさんは、外海・黒崎出身で、3歳から長崎市に住んでいます。兄弟姉妹は9人です。中学卒業後、造船所で働いていましたが、17歳で聖母の騎士修道院へ入りました。翌日から農業の仕事に励みました。炊事場でも働きました。炊事の主任、ポーランド人カシアノ修道士さんは、聖ヨゼフに対して特別な信心を持っていました。修道名に「ヨゼフを付けなさい」と勧めたのは、かシアノ修道士さんでした。
★一生涯を修道士で貫くのは、大変な苦労があります。何度も逃げ出そうと思った誘惑もあります。その時、ミロハナ神父さんが、大きな十字架を置いて、「これを乗り越えて行きなさい」と言われて、さすがに弱音を吐くのをやめて、祈りながら努力を尽くしました。ホーム聖フランシスコ園でも、2度にわたって15年ほど事務長を務めました。ホームの歴史も内情もよく知っています。
★ヨゼフ橋口修道士さんの修道名のお祝いは、先日、濱田神父さんの「ダイヤモンドのお祝い」と一緒に、8人で行なわれました。17歳から、85歳まで、よく頑張りました。「ヨゼフさん」「ヨゼフさん」と、皆さんから信頼されています。「好きな言葉は、何ですか?」の問いに、「わたしが、あなたを、えらんだ。あなたが、わたしを、えらんだのでは、ない」、これです。
★「大切なのは、神さまとの対話。お祈り。責任は神さまが取る。神さまは人間を大事に創られた。人間には弱さもあるが、神の愛がある。神さまに、祈ること、語ること、相談することです。必ず聞き入れられる。親たちには言うんですよ。子どもには、きびしく、やさしく、あたたかく、この3つの言葉を混ぜ合わせて、与えなさい」。ヨゼフ橋口修道士の教えです。
★きょうは、午後から、小長井町のシスターの修道女会・聖ヨゼフ小聖堂で、記念のミサが行なわれる予定です。参加のため出かけます。「平和と、神さまの導き」を祈ります。

2019年3月18日月曜日

濱田院長神父さん、司祭叙階60年・ダイヤモンド祝の日です

ホームに隣接する湯江教会・修道院の院長、コンラード濱田盛雄神父さん。いつもお世話になっています。今日が、ちょうど司祭になって60年になります。「ダイヤモンド祝」の日です。濱田神父さん、おめでとう。26歳で司祭になったから、86歳になられる。お元気で、教会のお仕事に励んでおられます。
★濱田神父さんの言葉。「金剛石(ダイヤモンド)も研かなければ、ただの石だよ。今、思うことは、毎朝、祭壇上で主の尊い御体と御血を信仰体験し、生かされていることです」
★昭和7年生まれだから、戦争中は軍国少年だった。夢は少年航空兵を目指していた。ところが終戦で、目標が消え失せる。迷う少年に、神学校入りを勧めたのは、教会信徒の「教え方」さんと、主任神父さんだった。兄のヨアキム増治さんが既に聖母の騎士修道院の神学生だった(後、司祭となる)。
★兄の後につづき、聖母の騎士に入る。司祭叙階は東京・神田カトリック教会で行なわれた。以後、東京に15年勤めて、長崎で45年勤めた。1981年2月、教皇ヨハネ・パウロニ世が来崎した時には、聖母の騎士修道院・院長を務めており、お迎えする準備に万全を期した。教皇座の椅子や、祈祷台を特注したり、教会の外壁を塗り替えた。兄のヨアキム増治神父さんが逝かれて、もう15年になる。
★司祭として、60年も勤めるのは大変なご苦労があります。それを乗り越えて来られたのは、努力と、祈りと、多くの人の助けがあったからでしょう。
★昨夜は、修道者たち8人が集まって、司祭叙階ダイヤモンドのお祝いを行なった。司祭が5人、修道士が3人。トマも参加した。濱田神父さんに付いて思うのは、「挨拶上手」に感心します。聞いていて、完ぺきで、安心ができる。ユーモア、優しさもあり、ちょっと、辛子の効いた言葉もある。
★濱田神父さんが説くのは、まず「礼儀作法」「己を正すこと」「思いやり」を持つこと、人間としての生き方を先ず身に付けるように勧めます。
★きょう、島原から、4人のシスターがホームの訪問に来た。「4人のうち2人が転任するので、お別れのドライブに来ました」という。このシスターたちの修道院に、1泊お泊りして、トマと高原修道士さん、谷村神父さんがお世話になった。夕食、朝食もいただいた。その節は、ありがとう。また、いじゃましますよ、と言いつつ、ああ、ちょうど、よかったね。濱田神父さんの「ダイヤモンド、だよ」。シスターの中には、濱田神父さんと同郷のシスターもいた。皆さんで喜びと、話が盛り上がった次第でした。シスターも、いいお顔しているね。神さまのお恵みあるよ。

2019年3月17日日曜日

10人あまりの皆さんが教会とホームの見学にきた。トマも語った

早くから湯江教会・修道院にFAXが届いていた。長崎市カトリック中町教会の有志の皆さんから。「教会とホームの見学を希望している。可能ならば小崎登明修道士のお話をお願いしたい。滞在時間は9時から10時15分まで」。小崎と聞いて、「え?なんで?」と思った。10人余りの信徒の皆さんだったが、このように集団で当教会・ホームの見学は珍しい。1度、台湾人の巡礼団が来たことがあった。
★その日がやってきた。トマは修道服を着て待っていた。「これが便利です。すぐ分かるから」。いつも待機して待っている。これがトマの習慣だ。時間どうり、庭に車が3台止まった。降りてきた皆さん、ああ、やっぱり修道服がすぐ目にとまるわね。「あら、トウメイさん」「登明さん」の声が聞こえて、つい、こちらも笑顔で迎えた。知り合いの男性の顔もあり、「桃カステラ」を渡された。「ここが湯江教会です。こちらがホームの建物です」。湯江修道院の濱田神父さんも出迎えられた。「まず教会で祈りましょう」
★濱田神父さんが一応の説明をされる。教会に属する信徒の数や、ホームの人数、その中での信徒の数、入居者の半数がカトリック信徒になっている。
★皆さんの教会、中町教会は歴史も古く、原爆の被害に遇って、壁を残して壊滅した。トマはその姿を見て知っている。その後、立派な大きな教会が建てられた。湯江教会は素朴な雰囲気だが、毎日、ホームの信徒によって共同でロザリオや夕べの祈りを唱えている。皆さんも祈りを捧げた。「世界が平和であるように」「家族の愛で幸せになりますように」。皆さんの瞳は輝いていた。
★その後、ホームの見学に案内した。事務室、食堂など、ちょうど西山神父さんが車椅子を押す姿で、廊下で出会った。「パパさま、ヨハネ・パウロニ世を、ローマから日本へ連れて来られた神父さんです」。もう40年ほど前になる。皆さんは滝神父さんにもお会いして喜んでいた。滝神父さんは中町教会信徒とは縁があり、嬉しそうに声をかけた。
★教会に戻って、会議室で、トマは先ず「絵入り・言葉入りのカード」を渡した。皆さんは喜んで受け取ってくれる。それから話に入ったが、いまさら、「これです」と言える話は出てこない。これまで毎回、話してきた、自分では話易いことを語った。「生きるとは、孤独と出会い、愛といのち、これが人生」。それを頭では考えていた。ちょうど10時15分には終わった。
★皆さんは、これから小長井町のシスターの修道女院へ向かうという。空は晴れて、明るい日差しが春をつげていた。

2019年3月16日土曜日

新しいパソコンを購入した。新たな気持ちで発信する喜びあり

新しいパソコンをネットで購入した。これまでのパソコンは、古くなったせいか、時々電源が入らない。イライラしたり、自分のキゲンもあやふやになった。新しいパソコンは、古い使い慣れた同じ大きさの器具を求めた。
★91歳で毎日、日記を書く。めずらしいと言う人もいる。しかし楽しみでもある。生きるとは日々の「生活」であり、「人生」を築いていく。生活は、朝、何をして、夕方は、なにをした。つまり日頃の出来事である。人生は、その中で、「なぜ人は苦しむのか」「生きる意味は、あるのか」「自分に存在の価値はあるのか」「出会いとは何か」「人は死ねばどうなるのか」など、日課の中に含む疑いに問いかけ、生き方を見つけるのが「人生」である。さらに「信仰」も入ってくる。
★日記を書くのは、日頃の出来事を書くのもあるが、それだけでは足りない。満足しない。人生の疑問をチラ、ホラと考えるのが願いでもある。普通に考えるのではなく「信仰」が入ってくる。
★知人のお坊さんは教えてくれた。「宗教者としての信仰」と「生活者としての人間」、そこに一致があるか。隙間はないか、と。その問題も真面目に入ってくる。
★実際、「こう、あるべきだ」の信条と、「そうには、ならない弱い人間」の狭間(はざま)を感じる日々だ。そういうことが、我々には、あるじゃないですか。
★新しいパソコンを設定したり、思うように字が書けなかったり、昨日、今日は、職員さんの手を借りて、苦労した。新たな気持ちで、パソコンに取り組み、何らかの糧を発信できれば嬉しい。生き甲斐も、ある。これからも応援してください。

2019年3月15日金曜日

コルベ神父の展示パネルの開会式。創造する力は愛である

聖コルベ記念館のホールに、20枚の展示パネルが並べられていた。トマは萩原神父さんの運転で、浜田神父さんと3人で早めに会場に着いた。次々に、市内から県外から、ポーランド人の神父さんがやってくる。お互いに、にこやかに挨拶。民放テレビの人にも久しぶりに会った。ポーランド人のシスターも来ていた。市内に住んでいるのか、幼児を乗せた乳母車を引いた夫妻もいた。やがてポーランドの大使も見えた。トマは昨年の1月、勲章をもらったので挨拶をした。
★夕方、5時からセレモニーは始まった。修道院の神父や修道士も参列した。先ずポーランドから来た展示パネルの製作者が長々と挨拶(写真)した。彼と共に、ニエポカラヌフ修道院の出版部長の神父さんも同席した。山口院長神父さんの展示パネルの清めの祈りがあり、ポーランド大使の挨拶、長崎市長代理の挨拶、そしてポーランド広報文化センター長(女性)の話では、ポーランドと日本の交流の中で、「トマ・ブラザー」と名前が出たのには、びっくりした。(写真)右からセンター長、大使、トマ、製作者。一緒に写真が撮れて光栄です。
★パネル展示の中で思いついたのは、「様々な記念の年」に記載されていることだった。日本とポーランドの国交樹立100周年、聖コルベ生誕125周年、ポーランド独立100周年、聖母の騎士会創立100周年、コルベ神父日本宣教90周年などである。
★長崎の外国人といえば、グラバーさんや、シーボルト先生などが良く知られている。彼らは市民、庶民と交流し、文化の面でも大きな役割を果たした。コルベ神父は日本人神学生に哲学を教えたが、一般の庶民と文化的交流が殆どなかった。それで知られていない。しかし神父が日本に植えた種は大きく成長して、福祉の面で大樹となっている。もっと長崎市民に知られてほしいと思う。
★展示パネルの中に、次の文言を見つけた。「憎しみは創造する力にならない。創造の力は"愛”である」

2019年3月14日木曜日

聖コルベ記念館で、コルベ神父のパネル展が挙行。喜びで参加

今日は、長崎・聖コルベ記念館に於けるお祝い事に参加します。それで早めに日記を書きました。
★「聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父のパネル展」がオープンします。その開幕セレモ二ーが行なわれるので出席します。
★東京のポーランド広報文化センターから招待状が届きました。今年は、日本・ポーランドの国交樹立100周年に当たります。また聖コルベ神父の生誕125周年にも当たっています。それらを記念して、コルベ神父の生涯と活動を写真と文章で表わしたパネル展示の日本語版が出来ました。聖コルベ記念館に展示されます。
★オープニングの式典には、駐日ポーランド共和国大使や、展示の製作者も参列されます。どのような展示パネルなのか、興味が湧いてきます。聖コルベ記念館には、巡礼者、観光客、修学旅行生たちが大勢来ます。
★だた、コルベ神父の遺品が少なく、展示されている遺品に限度があるのが残念です。一番大事なのは、コルベ神父のポーランド語で書かれた日記です。
★聖コルベ記念館は、コルベ神父が聖人に挙げられて、4年後の1986年8月に完成しました。その時は、聖コルベの部屋はなく、内部は広くオープンでした。上の写真のような形式でした。中央の展示ケースが取り除かれて、ここに部屋が出来ました。
★私は1991年4月から24年間、聖コルベ記念館の担当の修道士でした。様々な思い出がよぎります。24年といえば長いですよ。沢山の出会いがあり、いまでもご縁をいただき、感謝しています。
★どんな展示パネルなのか、楽しみです。喜んで出かけます。パネル展は15日(金)から25日(月)まで行なわれます。入場は無料です。

2019年3月13日水曜日

旧知の友次さん、自室に来る。いま盛んな、軍艦島の案内人

ホームの自室に人が訪ねて来ると、新しい風が吹いてくる。
★長崎市・神の島の友次さんが来た。しばらく傍に居て、近況を話してくれる。彼の姉妹2人がホームで暮らしている。だから時々ホームには来ている。しかし会う事はなかった。今度は「写真集」を送ったので、初めて、お礼も兼ねて寄ってくれた。
★元気そうな、お顔、表情、82歳。「風が吹いてくる」と感じたが、それは「海の風」だった。長崎の海に浮かぶ「軍艦島」。話題の島になっている。正式には「端島(はしま)」という炭鉱の島だった。コンクリートの建物が、トツ、トツと上に伸びて建ち、広い海に横長に浮かぶ。まさしく戦艦に形に見える。戦争中、アメリカの潜水艦が、この辺にも出没していた。軍艦と間違えて、魚雷を発射した、などの噂も流れた。いつしか軍艦島と呼ばれるようになった。
★毎日、長崎港から観光船が出る。友次さんは、その案内人を、かれこれ10年勤めている。港を出て、海上を約45分、島の周辺を巡り、上陸する。友次さんは若い頃、この炭鉱で実際に働いた経験の持ち主だ。その苦労話を聞かせてくれた。端島炭鉱は戦争中から重宝されていた。地下・千米に石炭堀の現場があるという。そこまで到達するのに、2時間はかかる。現場で働いた実績のある案内人、友次さんのガイドは好評だ。「ぼくのガイドが、模範のテキストになっている」と彼は笑った。
★彼が住む神の島の話も親しみを覚えた。前にも書いたが、以前は渡海船で神の島へ渡った。オラショの巡礼旅で、何十回となくお世話になった。1丁目は仏教の家々。2丁目は仏教が半分、カトリックが半分。3丁目は全部がカトリック、そんな島(島といえども陸つづき)だった。神の島教会は2丁目にある。友次さんの家も2丁目で、建てた頃は、道は狭く、周囲に家は無かった。今は家々が並び、道路も広くなり、バスも通い、便利になった。もう船は通わない。友次さんの話を聞くと、思い出と懐かしさが湧いてきた。
★「82歳にしては、元気だよな。頑張って、な」と励ましながら、彼を見送った。長崎の海風を感じるひと時だった。友次さん、ありがとう。神の島は忘れない。神の島は観光にも、お勧めの場所だよ。
★人生には、その人ならではの適任がある。それを見つけた者には、喜びの意義があるだろう。生きているからには、いい思い出を沢山、つくろう。それが幸せ。

2019年3月12日火曜日

明子さんの家で昼食会。シスターを交えて楽しい談笑ひと時

今、生きている。ふしぎなことだ。誰にでも、その不思議はある。神から呼ばれた。修道者は、その声を誰でも、もっている。
★明子さんのお宅に、お呼ばれした。右から、瀧神父さん、88歳。橋口修道士さん、85歳。明子さん、年齢不明。山の修道女院のシスター松下さん、これも年齢不明。手前に写真を写したトマがいる。
★3月は聖ヨゼフの月。19日は聖ヨゼフの祭日になっている。橋口修道士さんの修道名のお祝い日である。そのお祝いと、瀧神父さん、米寿のお年、次にトマの肺炎の病気回復の喜びも合わせて、この集会となった。
★明子さんが、ケーキも準備してくれた。数々のご馳走もある。刺身に、ほうれん草、竹の子・ジャガイモの煮物、赤飯、散らし寿司など、ホームと違った料理です。
★ケーキを見てごらん。「トマさん」「ヨゼフさん」の名前も見える。天気は晴れ晴れ。気温は春らしく、ポカ、ポカの暖かさで、しばらく談笑にふける。のんびり気持ちで、昼間のひと時を過ごした。
★シスターは、元・ホーム聖フランシスコ園で職員として働いた。話題も豊富だ。話も面白い。瀧神父さんの話は博学です。橋口修道士は85歳になったと自慢する。お互い、心が通じて賑わった。トマは聞くだけ、余り話さない。圧倒されるんだな。聞いている方が多かった。
★このように家に呼んでくれて、食べさせてくれる明子さんの存在も有り難い。入院中は、毎日、見舞いに来ていた。ホームに居ても、誰かが、こうして支えてくれている。
★明子さんの家を出ると、空き地がある。手前の黄色いのは菜の花か、水仙か。眺めが、いい。雲仙岳が見える。
★修道者は、人間であり、弱い存在でも有る。一生涯を全うするには自分のチカラだけでは進めない。祈りながら、反省しながら、助けを求めながら、我々は小さな歩みを重ねて、これまで歩んできた。自分のフトコロには何も無い。老いれば、老いるほど、自分の無力を知る。祈りながら、最後まで、この道を歩みたいと願っている。
★相手を攻めるのではなく、自分の足元を先ず見れ。相手を変えるのではなく、自分を変えることだ。それが求められる道。

2019年3月11日月曜日

衝撃・東日本大震災の日。8年前のその日、何をしていたか

8年前の「東北で巨大地震」。翌日と、翌々日の「長崎新聞」記事です。その時、私は何をしていたか。その日の日記を開いて見た。
★午後、ベッドで安静にしていた。2時過ぎにテレビを付けると、地震の知らせ。そのうち「津波が来るから、即刻、避難しなさい」と盛んに呼びかける。やがて大波が押し寄せて、家も畑も空港も海水で飲み込んだ。「恐ろしい」と絶句。刻々と増加する死者・行方不明の数。1夜あけて、被害の甚大さに、もう言葉は無い。逃げること。安否が分からない。水・食料がない。零下をさがる気温。どうしようもない。
★何年か前に、三陸を旅行したことを思い出した。あの美しい海岸が、1夜のうちに廃墟となるとは。粉々に砕け、平地になった状況を見ると、原爆の丘を思い出した。亡くなった人たちの冥福を祈る。今夜の夕食は、被災者を思い、オカズを減らそう。ポーランドのコンラードさんから「同情します。安全を祈ります」とメールが入った。世界の人が見守っている。
★翌々日は、日曜日だった。ミサで、死者のため、被災者のため、ただ祈った。言葉がない。とにかく逃げるしかない。それにしてもサイレンが鳴らなかったのが不思議で仕方がない。飛行機から押し寄せる大津波を撮影していたが、これを見ると、一目瞭然、その恐ろしさが分かる。原発が破裂した。被爆者が出た。66年目の被爆。恐ろしい。チェルノブイリの訪問を思い出した。津波は20mにも達した。45万人が被災した。テレビで見る、もどかしさ。東北地方の地図を出して、どの町、どこの場所、どこら辺まで被災したのか、全体的に教えて欲しい。それが知りたい。
★以上が、日記に書いた文章だった。遠く長崎に居て、一番もどかしく思ったのは、被災した範囲だった。全く分からない。あれから8年が経過して、新聞に、「復興は終わらない。多くの仮設住宅が残る」とある。長崎から三陸地方へ行けないが、被災者の早い復興を祈るばかりです。今日は、そことが書きたかった。

2019年3月10日日曜日

日曜日。ゆっくりと、自室で過ごしています。希望もある

日曜日。終日、雨が降っている。
★朝ミサは、四旬節第一主日でした。ホームの瀧神父さまが、ミサを司式して、お説教をした。声が大きく、マイクがよく通るので、はっきり聞こえる。高齢者は喜んで満足する。福音は、イエスが悪魔から三度、試みられた箇所が読まれた。悪魔の働き、ささやきは、確かにある。悪魔は「堕落した天使」だから、強力な力を持っている。人間は弱い存在だ。悪魔の誘いに、時々、負けそうになる。
★自室で、テレビも見ないで、じーっと、している。これと言った考えも浮かばない。「春、待つ、老い」は、絵手紙で描いた。これを載せた。もう、いやな冬も終わろうとしている。
★2月は野々村哲さん、塩沢美樹さんの協力で、「写真集」を出した。3月に入って、終息の兆しがみえた。反応は良好だった。「よかった」「安らいだ」「幸せを感じた」など、喜びの返事を沢山いただいた。ハガキが自室に届く。それを2人宛てに郵送する。2人がカードを使って「クリックポスト」で送る。私はカードを持たない。郵送代を2人に送る。200冊は、ほぼ発送した。到着が少々遅れただろう。受け取って貰って、ありがとう。1つの思い出、仕事が終わった。
★「写真集」を見て、8月には、長崎市・大浦のピース・ミュージアムで、「写真展」も開かれる話が進んでいる。こうして、1つが終われば、また1つの希望が湧いてくる。だから、この世の「成り行き」が面白い。遣り甲斐もある。誰かが、どこかで見てくれているのだ。いい方向に進んでいく。これも喜びである。
★日曜日の夜は、NHKのテレビで、韓国ドラマ「オクニョ」を見るのを楽しみにしている。夜11時からだが、もう寝ている。だから録画して見る。50回続くらしいが、いま45回になっている。1回も見落とす事なく、なぜか、このドラマは私の心を楽しく惹き付ける。朝鮮で生まれた性なのか。入院中も「オクニョ」は録画して欲しいと、ホームの担当職員に頼んだ。今夜は、その「オクニョ」がある。

2019年3月9日土曜日

昭和十四年に写した1枚。写真機の思い出は、貴重な記憶

写真のウラに、「昭和十四年四月、幸一、十二歳。ワサ、四十歳」とある。家の裏庭で写したスナップです。
★母が、幸一の胸に両手で囲んでいる。これが母の顔。飾り気の無い、素直な写真です。こういう雰囲気で母と子は生きていた。親子の愛情が深かった。北朝鮮という、本土から遠く離れた土地柄もあったからね。あの母の手の温もりを忘れない。思い出しますよ。昭和十四年、ですよ。小学校の六年生かな。この少年が、将来、苦労すると思えば、切ないよ。九十一年、生きたんだからね。
★実は、この写真を載せたのは、当時の生活の一こまを思い出したからです。母は、家で、精肉店を営業していた。朝鮮人の青年が、精肉店の店員で働いていた。彼の名前は忘れたが、彼は私に2つの印象を与えた。
★1つは、余暇があると机に向かって、朝鮮語で、何かを書いている。熱心に取り組んでいる。「何か?」と聞くと「小説だ」と答えた。「何を、書いているの?」「恋愛小説だ」。私が当時、愛読していたのは、「サトウ・ハチロウ」の文章だった。ユーモラスに書かれた文体が好きだった。「恋愛?」なんて分からない。ただ「書くこと、の興味」。それは彼から教えられたと思う。
★そして、もう1つが「写真機」だった。毎月、「少年倶楽部」が本土から送られてきて書店に並んでいた。当時の少年達は、誰もが楽しみに愛読した。「少年倶楽部」の後のページに、広告が載っていて、「写真機」があった。少々、値が張ったが、朝鮮人の店員が写真機を買って、簡単に、裏庭で写していた。それが、この上の写真です。じゃばら式で、押し込むと、箱の形になる。
★後方の箱に、上からフイルムを入れる。紙を引っ張って、外す。レンズの横にシャッターがあって、写した。現像も、焼付けも、自分で行なった。写した写真の周りの楕円の形は、そのように紙を切って、印画紙に当てて焼いた。この写真機を、なぜか、今、思い出すのです。80年経っても変色もせず、そのまま残っているのが不思議です。あの朝鮮人の店員はどうなったか、分からない。だが、父や兄、男気が無かった自分には、店員の存在から少なからず影響を受けたと思っている。
★アルバムから、この素朴な1枚の写真を今日は見ながら、懐かしいと、当時の家の部屋や、庭、店などを思い出した。この1枚の写真は、母を近くに感じる、今では自分のタカラになっている。

2019年3月8日金曜日

「はな」ちゃん、かわいい。贈り物が届いたよ。ウレシイ

「はな」ちゃんの誕生日。満3歳になった。お母さんの絵里さんが、「はな」ちゃんを食堂に連れて来た。その時に写したスナップです。はなちゃん、手作りのカンムリをのせている。「かわいい、ね」。皆さんからの声。アイドルだよ。「はな」ちゃんを日記に載せた。日記の最後に、「『はな』ちゃんへの贈り物、喜んで受け付けます」と一筆記したところ、早速、千葉県の理恵子さんから、贈り物の郵便物が届きました。理恵子さん、ありがとう。
★理恵子さんの手紙を紹介しよう。「『はなちゃんが、きたよ』をのせてくださって、ありがとう。とっても、かわいい。うれしいです。じーっと見ていたら、え?わたしも、はなちゃんに贈りたいな。Kittyのくつ下(ちっちゃい、かわいい)Set。my melodyのてさげ。りんごのふうせん(箱、りんご箱付き)。はなちゃんと、えりさんに包みました。また、はなちゃん、くるの楽しみです。みなさまに、すてきな、できごとが、たくさん、ありますように」。温かいおこころを、いただきました。
★はなちゃんは、老人ホームの人気者です。ここに居るのは、みな、老いビトばかり、忙しく働く職員さんだけじゃないですか。ピカ、ピカに、清らかに、光る『幼児』は居ないのです。強いて居るといえば、職員が時々連れて来る「子猫」だけです。はなちゃんは、かわいがられています。どんな未来が開けるのか、才能があるのか、楽しみだね。はなちゃんを長く見詰めるために、長生きしよう。

2019年3月7日木曜日

台湾人女性が描いた絵が、トマの自室を飾り、日々、語りかける

昨日、ホームに訪ねて来た台湾人の女性「カタリナ許書寧(キョ・シュ・ニン)」さんが、2年前にも訪ねて、描いてくれた絵です。絵の大きさは、26cm×18cm。額縁を入れると、33cm×25cmになる。自室の壁に掲げて、トマは日々眺めている。下の方の字が写っていないが、「重なる時間、凝縮された歴史の中で、しっかり生きる」と書かれている。この言葉を、今日は噛み締めた。
★生きるとは、「孤独」と「出会い」。「愛」と「いのち」。「これが人生」、トマはそう思っております。何度も日記に書きますが、人が生きるのに、一番悲しいことは幼少の頃に、両親に死に別れることです。1人っ子で、「孤独」になった現実。だが、ポーランド人の修道者の仲間に飛び込んで、修道士になった。コルベ神父を知った。お陰で、沢山の人に「出会い」があったのです。そして人間の原爆や、強制収容所の悪行の中にも、そこには絶望しかなのに、真の「愛」と「いのち」の尊さの光があるのを知った。これが「自分の人生」だったと思っております。
★そこに描いてくれた絵に書いあるのが、許さんの「重なる時間」です。満員電車に揉まれても、そこに「出会い」はない。出会いとは、相手に会って、その人に、のめり込んでいく。トマも、許さんも、修道者たちも、コルベ神父も、話の中で、呼吸の中で、一緒に重なって行く、そこに出会いがあるのです。出会いによって、孤独は消される。「愛と、いのち」の輝きが現われてくる。それが人生なんです。
★実は、許さんの絵の言葉の次には、パソコンの絵には見えないが「マリアさまの子、フランシスコの兄弟として」と書いてある。人が認める、欲しいものは「清らかさ」「貧しさ」「山や川や、星や花や、キツネやオオカミなど、大自然へ向かう優しさ」、それらからの支えが有るということでしょう。許書寧さん、あなたの、ほほえみ、ありがとう。
★ホームで生活しても、孤独じゃないんですよ。出会いもありますよ。愛も「いのち」もある。生かされている。「生かされて、今日も、祈れる」。凝縮された歴史とは、そういうことなんでしょう。ゲンキが出ます。大きく呼吸をします。生きているよ。愛よ、いのち、よ。心の中で、今日は叫んでいる。

2019年3月6日水曜日

台湾人の女性、会いに来る。聖ヨゼフ小聖堂へ喜びの巡礼

ホームに訪ねる人が来るのは嬉しいですね。大阪在住の台湾人女性、許書寧さんが訪ねて来た。以前にもホームに来た女性です。「台湾からの巡礼団を案内して、福岡から、山口、下関、島原・雲仙、長崎、外海と周り、6泊7日の旅を終えました。それで大阪に帰る前に、トマさんを訪ねました」。嬉しいね。
★今日は、教会では『灰の水曜日』で、ホームの礼拝の日にも当たっていた。一緒に湯江教会で、ミサに祈り、灰を受けた。その後に撮った写真がこれです。
★許さんの両親はカトリックで、祖母の葬儀のとき、許さんは教会での印象に深い感銘を受けた。自分も洗礼を受ける。霊名はカタリナです。
★1999年に日本に留学。日本語学校の後、専門学校で絵本を学ぶ。絵本作家として台湾では絵本、エッセイ集など出版している。日本人と結婚。「去年の9月には、夫と2人で、ポーランドを旅行しました。コルベ神父さまの修道院、ニエポカラヌフや、アウシュヴィッツを訪ねました」。いま、カトリックの子供向けの週刊誌『こじか』に、コルベ神父の物語を連載中です。
★ホームの自室でしばらく話した後、「3月は聖ヨゼフの月に当たっているので、小長井町の聖母の騎士修道女会の聖ヨゼフ小聖堂にお参りしましょう」と、高原修道士さんに運転を頼んで出かけた。右が、小聖堂の内部です。
★壁一面に描かれた見事な聖ヨゼフの聖絵。シスターたちは大きな障碍者施設を経営しているが、一番の問題は、水不足で困窮していた。聖ヨゼフに熱心に祈っていると、ある場所を示され、水が大量に湧き出て助かったという。また、この聖ヨゼフ小聖堂で捧げられる祈りのお陰で、沢山のお恵みを頂いた。聖ヨゼフさまに取り次ぎを願えば、必ず聞き入れられると、シスターたちの祈りは絶えない。こういう場所に案内されて、良かったと、許さんは喜んでいた。
★この日、雨がしきりに降っていた。高原修道士さんに、許書寧さんをJR諫早駅まで送って下さい、と頼んだ。ホームで許さんとはお別れした。