2019年12月31日火曜日

令和元年、今日で終わる。日々日記を書いて、感謝と希望で生きる

2019年、令和元年、最後の日になった。平成から、令和へ。時代は変わった。災害が多い年だったが、ホームは平穏・無事に過ごした。改築された新しい広い自室に移る。
★教皇フランシスコさまが長崎を訪問された年でもある。教皇ミサには参列できなかったが、テレビで、教皇さまが、長崎・原爆落下中心地で、黙祷(1分40秒)の長い祈りを捧げているのを、被爆者として、心を同じくして祈った。「核抑止力に、平和はない」。被爆者の証言を、教皇さまも強調された。パパさまのご訪問は、記憶すべき出来事となった。
★今年を振り返れば、「生かされた」ことへの感謝あるのみです。年々、「生かされる」深みを感じます。生きるのではない。生かされて、平穏・無事で、日々、日記が書ける。ホームに居て、特別な事は起こらないが、それでも、何かを見つけて、喜んで、希望を持ちながら過ごしていく。日記を通して、出会いもあった。恵みもあった。ホームに居ても、出番があった。日々読んで下さる人に感謝です。
★3大よろこび、といえば、➀「91歳の男性が、毎日、日記を書いて10年」と、民放のテレビに、夕方、ニュースの番組に、特番として10分ほどだが紹介された。
➁「写真集」を出したお陰で、長崎市内で「写真展」も開催された。長崎だけでなく、東京の「ポ-ランド・フェスティバル」でも展示された。これも喜びです。
★③また、語りべも努める機会があった。若者に語るのは喜びです。
★助けられ、支えられて、これらが可能になる。協力して下さった皆さんに感謝です。人生は、「つみかさね」で、その人の年輪となる。そして横へと「ひろがり」を示していく。だから、おもしろい。人は、1人では、生きられない。
★人生には、楽しい事もあるが、苦しみの波も押し寄せてくる。それらの波を受け止めて、波に乗って、サーフィンのように、うまく返して、進むしかない。小さな存在だが、大きなチカラが見守ってくださる。目には見えないチカラと愛を信じて、生きよう。
★日記を日々読んで下さる人たちに、「ありがとう」と感謝のお礼を申します。新しい年をお迎えください。

2019年12月30日月曜日

博多の昌子さんにお礼の電話。大きなカニ、おいしかった、感謝

モシ、モシ、昌子さんですか。カニ、いま、着きました。「あけて、ビックリ、たまて箱」。大きなカニが、ビッシリ、入っていました。ありがとう。タレも付いている。さっそく、食べました。ウマい。おいしかったよ。
★こんなデカイ、カニは、食べたこと、ないよ。ホームに来て、初めてだよ。1度、昌子さんと、女性数人で、博多の川添の、カニ専門の食事処に行きましたね。思い出すよ。いま戴いたカニは、皆さんと食べます。長崎には、カニ専門の店は、ないンです。
★わたしは、北朝鮮で生まれ育った。そこには大きなカニが沢山とれた。こんな大きなカニを、よく食べていました。
★昌子さん、今年は、いい年だったよ。「写真集」も出したしね。それが、きっかけで、ピース・ミュージアムで、写真展も開いた。昌子さんも、博多から、見に来て下さったね。ありがとう。そのとき、ホームも訪ねた。その時の写真です。
★カニの箱に、昌子さんからの一筆も入っていた。「昨年11月に巡礼に行ったアシジを思い出しながら、カードを作りました」と、グレチョの洞窟、サンタ・マリア・デリアンジェリ大聖堂の回廊の奥に飾られていた馬小屋の写真などが入っていました。お心遣い、ありがとう。来年も、よい年でありますように願います。新年をお迎えください。ありがとう、ね。じゃ、これで。また会いましょう。さよなら。(携帯を切った)

2019年12月29日日曜日

福井の女性が「祖父の巡礼の旅」を辿りたいと、ホームを訪問

福井から、敦子さんが、ホームの自室に訪ねてきた。福井といえば、日本海に面した遠い感覚。「よく、まあ、訪ねて来ましたね」「大分でレンタカーを借りて、寄りました」
★昭和50年代、トマ修道士が実施していた「長崎オラショの旅」に、何度も参加していた福井の「山本吉見さん」が居た。巡礼に熱心な老人だった。
★最後に参加した時、「小崎さん、もう疲れたよ」といって、形見に「イエスの聖心のネクタイ・ピン」をくださった。トマは、それを大事に使って、今も大切に持っている。
★敦子さんは、吉見さんの「孫」。敦子さんが小学校に上がる前に亡くなったという。「じいちゃん」のことが知りたい。「じいちゃん」の巡礼した道を辿りたい、そう願って、この旅に出た。
★トマは残念ながら、吉見さんの顔写真を持たない。敦子さんが、右の写真をスマホで見せてくれた。「そう、そう、この、じいちゃん、だよ。顔は、わすれない」
★吉見さんとの巡礼は、自著「長崎オラショの旅」の「神の島」編に詳しく記している。棚から本を出して、敦子さんと共に、読み返した。敦子さんに「ネクタイ・ピン」を見せた。吉見さんは最後の「オラショ巡礼」の3年後に、79歳で亡くなった。
★トマは、敦子さんに「吉見さんは文章が得意で、本も出しているはずだ」というと、バッグから、その本を見せた。
★この本から分かったことは、吉見さんの故郷は「平戸」です。平戸に吉見さんの墓がある。敦子さんは、「今から平戸へ車で向かいます。明朝、ミサで祈って、お墓参りをします。じいちゃんのお父さんが、五島から平戸へ移住しているようです」と、旅の意気込みを語った。大みそかには、長崎市・カトリック・センターに泊まり、浦上天主堂で新年を迎える、と喜んでいた。
★巡礼の旅で、神の島へ行ったとき、地元の人たちから熱烈な歓迎を受けた。その熱意に、山本吉見さんが「お遍路さんを大切にする、あの心に似てますな」と言った言葉を、今もはっきりと覚えている。敦子さんに勧めた。「ぜひ、神の島の教会、ドンク岩の聖母像を巡礼しなさい」

2019年12月28日土曜日

ホームで餅つき。クル、クル、まわして、ポン。変わる時代

クリスマス気分も終わり、年の瀬が近づいた。
ホームでも、餅つきが行なわれる。
むかしは、ペッタンコ、ペッタンコと、キネで叩いて、仕上げたものだった。
いまは、機械だよ。ふかしたお米をクル、クルまわす。結構、時間がかかります。この機械、年代物だよ。「30年は使っているね」。何度も、これを繰り返す。
★仕上がった、大きな餅は、台にあげられて、入居者の女性群にゆだねられる。アンコ餅に、しろ餅。じょうずに、きれいに、まるめるよ。70人の入居者がいるが、餅は、老人にはキケンもある。ノドにひっかける災難もあるからです。
★若い頃は、そりゃ、4つも、5つも食べましたよ。楽しみでした。ホームでは、そういう訳には、いきません。嚥下の心配がある。気を付けないと、ね。
★さっそく、昼食には、つきたての餅が出た。貴重な1個のアンコ餅だよ。餅から、笑顔で食べた。
★「餅は、すべて食堂で食べる。自室には持ち帰らないで下さい」と願いがあった。自室で、もしも、ノドに引っ掛ける事が起これば大変だからね。老人には、その可能性がある。実際、食べながら、その意味が分かります。そういう歳になったのだよ。
★むかしは火鉢に、炭で、アミを置いて、餅を焼いて食べたなァ、と思う。餅も沢山食べてきたが、人も変われば、時代も変わったね。
★昨日は、午後から来客があった。今日も、午後から来客がある。年末に、あわただしい日々がつづいている。ありがたいことです。

2019年12月27日金曜日

降誕祭の日に、みさかえの園・新しい障害児入所施設を見学する

降誕祭の祭日に、野々村哲さん、塩沢美樹さんの案内で、大村市(長崎県)にある「みさかえの園あゆみの家」を訪ねました。施設長のお医者さんはご不在でしたが、奥さん(写真・左側)が丁寧・親切に案内してくださいました。野々村さんが、施設長のお医者さんご夫妻と、ご縁があるそうです。
★ここは、新しく建てられた「医療型障害児入所施設」です。聖母の騎士修道女会のシスターも4人が生活しています。写真で奥さんの隣に写っているのがポーランド人のシスターです。
★トマは、障碍者の施設「みさかえの園」は、創立の当時からよく知っているので、特に親しみを感じています。小長井町に、幾つかの大きな施設がありますが、最近になって、大村に大きなリッパな施設が出来ましたと、聞いていました。ぜひ訪ねてみたい。その念願を果たしました。
★ポーランド人のシスターも笑顔で施設のために働いています。トマに「クリスマスの手作りクッキーです」と、いただいた。「ジンクーエン」を答えたら、フ、フ、フ、と笑っていました。優しさが、障害のある人にとって、喜びと、チカラになります。
★施設長の奥さんには、大変お世話になりました。車が玄関に着くと、お立ちになって待っておられた。約1時間以上、各階を案内して説明してくださった。施設には、シンボルの塔があり、癒される青い色のガラスがはめこまれている。壁には、職員や障害児たちの絵の作品が飾られている。帰りには、車を見送ってくださった。
★写真は、施設の全景や、室内、設備、眺めなど、撮るのを遠慮しました。施設には、外来もある。幾つもの事業も手掛けている。ここで医療を受ける障害のある人たちは、落ち着いた雰囲気になかで、安らぎと、癒しを感じるでしょう。
★降誕祭は、「神の御子のご誕生」をお祝いする日です。この日に、新しい建物、障害児の施設を見学できたのは、記憶に残る出来事となりました。

2019年12月26日木曜日

クリスマス。サンタさん、天使がくばる。職員総出の「出し物」

ホームに、サンタクローズが来ました。降誕祭の昼食です。
みな、よろこんでハクシュで迎えました。「待っていたよ」
「今年のサンタさんは、だれだろう?」。興味が湧くね。
「ああ、あの人だよ。似合っているね」
「うしろは、優しそうなトナカイさん」
毎年のクリスマス。トマも、サンタさんの役目をつとめたこともある。たのしみ、だよ。
ボール箱に囲まれたサンタさん、中は車椅子になっている。
老人ホームらしいよ。
★サンタさんには、もちろん、うるわしの天使も付いてくる。プレゼントを1人1人に配ります。「ああ、この職員さん、ね。顔を見れば、すぐ分かります」
★日頃、お世話になっているのに、こんな務めも果たして、ごくろうさん。これも皆さんを、喜ばせるためだよ。天使は、もう1人居った。もう1人は水色の衣装を着ていた。
★老人になっても、プレゼントは、うれしいよ。夢がある。
★クリスマスのお祝いと、忘年会も、いっしょです。だから職員さん、総出演、12人による「出し物」も出た。お題は「フランシスコ峠のあまのじゃく」。あまのじゃくとは、ひねくれ者。ヘンな人。わざと他の人の反対の行動をする人です。めんどくさい。素直になれない。3人の「あまのじゃく」が待ち構えていたんだね。そこへ、林業の作業人、お金持ちの夫婦、師匠と弟子の3組がやってくる。この峠で、転んだら3年しか生きられない。あまのじゃくの仕業だよ。だが最後にお医者さんが出てきて、転んでも3年生きるのを伸ばしてくれる。つまり「お年寄りは、転ばないように注意しなさい、心がけなさい」の教訓だった。12人を、まとめて写真を撮るのが難しかった。こうして降誕祭クリスマスの祭日は、楽しく終わったのでした。
★今日は、今から、高原修道士さんの運転で、諫早総合病院・泌尿器科へ診察に行きます。気持ちが、重いです。

2019年12月25日水曜日

主の降誕祭。聖なる幼子のご誕生。平和と愛、幸せを、祈った

昨夜は、クリスマス・イブ。ホームで、どのように過ごしましたか。夕食に、食卓には、ケーキと赤飯があった。真っ先に、ケーキを食べた。午後7時から、降誕祭のミサがあります。ホームの降誕祭は、湯江教会と一緒です。教会には、沢山の人が参加した。
★先ず、教会の中を暗くして、侍者と、司祭が入口から入場します。司祭の手には、「御子さま」を大切に抱えていました。その時、皆さんは拍手をしました。
★司祭は、教会の祭壇・左側に作られた「馬小屋」の中心に、御子さまを、そっと置きました。神の御子、ご誕生の瞬間です。聖母マリアさま、聖ヨゼフのご像も見守っています。香炉で、清められて、教会内を明るく点灯しました。
★夜半の「ミサ」には、教皇フランシスコさまが長崎へ来られた時、アタマを、ナデ、ナデしてもらった女の子も祈りました。司式・司祭は、濱田院長神父さん。ホームの山内園長神父さん、瀧神父さん、大野神父さんの共同ミサです。聖歌も荘厳に歌いました。
★降誕祭、いいですね。みんなの喜びですね。闇の中の「ヒカリ」が輝きます。救い主、神の御子が生まれた。神さまが、赤ちゃんとして、人間の中に生まれた。これこそ、神さまの「愛」です。ミサの祈りの中で、心に強く感じました。
★降誕祭のミサの後で、湯江教会の、小学生、中学生、大人、シスターたちの共演で、ご誕生の場面の「聖劇」が行なわれました。各人の紹介、一言もあり、飲み物、お茶菓子も出て、ますます賑わい、喜びの雰囲気を盛り上げました。こうしてホームで、今年も降誕祭を迎えることが出来たお恵みを、ただ、ただ感謝しました。
★今日は、昼食のときに、ホームの食堂で、クリスマス会が行なわれます。何か、職員さんによる出し物も出るようです。サンタクローズも来るでしょう。楽しみだな。それは、また次にお知らせしましょう。

★今朝は、瀧神父さんが司式の共同ミサでした。瀧神父さんがお説教をしました。また、10時から、ホームの「礼拝の日」で、クリスマスのミサが山内園長神父さまの司式で行なわれました。

2019年12月24日火曜日

クリスマス・イブ。トマにも、北海道からプレゼントが届いたよ

どうです、このブルー色のジャケット。羽毛の感じ、温かいよ。今日は、クリスマス・イブです。この素敵なジャケットが、プレゼントです。いい、気分だな。
★プレゼントしてくれたのは、日記にも、時々コメントをくださるマリア・フランチェスカ・裕子さん。北海道からです。
★裕子さんに、初めて出会ったのは、9年前。聖コルベ館に居たときです。「どこから?」と聞くと「北海道の〇〇」と誰でも知っている地名。名前は聞かない。ルルドにも登り、ゆっくりと過ごす。夕方になった。「今から神の島の教会へ行きなさい」と勧めた。天候は良いし、海に落ちる太陽が、教会からも見える。長崎らしい素晴らしい風景が見えるはず。
★その後、あの女性、どうだったのかな?。心に残った。日曜日、〇〇教会へ電話してみた。「信徒の中で、最近、誰か長崎へ旅行した女性は居りませんか?」「ええ、居りますよ」の返事。裕子さんと電話がつながった。「神の島、どうでした?」「カンゲキしました。ドンク岩のマリア像(4m)の所に30分は居りました」。当方も安心した。
★2年後、2012年、裕子さんは、また聖コルベ館へやってきた。裕子さんについて言えば、ある年、お母さんと一緒に「九州旅行ツワー」に参加した。そのとき、大浦天主堂内で、信徒発見のマリア像を仰いだとき、「母の胎内に戻ったように癒され、安らぎを覚えた」という。天主堂の出口で、1冊の「聖母の騎士」誌を取った。それが恵みで、カトリック教会に入った。裕子さんが来たその日は、12月8日の無原罪の聖母の祭日。この度は北海道から巡礼に来て、聖母の騎士教会で、念願の騎士会に入会しました、と喜んでいた。
★翌年の2月、北海道の裕子さんから、トマ修道士が描いた色紙を送ってほしいと、便りが届いた。絵の指定、字の指定もあった。それが右の色紙です。
★裕子さんは、長年、野鳥の観察や、公園のボランティア、自然保護に携わっている。アシジの聖フランシスコに憧れて、霊名は「マリア・フランチェスカ」を戴いた。在世フランシスコ会にも入っている。「裕子、カトリックになって、優しくなったね」とお父さんから言われたそうです。そのお父さんも神さまに召された。
★人生、色々の道を歩みます。道って好きなんだよね。今は苦しくても、辛くても、道の向こうには幸せがある。希望しようではないか。今日は、イブ。本当の幸福を下さる御子がお生まれになる。希望の日だよ。
★マリア・フランチェスカ・裕子さんと出会って、9年になるか。今は、トマは、老いて、ホームでお世話になる。これもトマの人生だよ。裕子さんは、遠い、北海道から、トマを思い、毎年、プレゼントの衣類を送ってくれる。支えてくれて、ありがとう。

2019年12月23日月曜日

「カツベン」を日記に書いたことで、大きな心の進展があった

写真は「トマさんのことば」から。聖コルベ館に居た頃のトマです。
★この令和の年末になって、トマの心に、大きな収穫と言うか、進展と言うか、気持ちの変化がありました。
★それは最近、テレビで見た「カツベン」です。トマも「日本二十六聖人」で「カツベン」をやってきたので、それを日記に書いた。映画でも上映中なので、映画も見ました。
★この事が、きっかけで、日記に「匿名」さんから、YouTubeで、「日本の26聖人」が出ていますと、教えられたのです。早速、検索して、我ながらの「小崎登明の弁士と音楽」が流れる、1時間20分の活動写真を、最後まで、ゆっくりと、味わいながら見ることが出来ました。心に、しみじみと、声も音楽も伝わった。画面に、古い字体で説明文が出てきます。その文字も、我ながら、上手に取り入れて、弁士の言葉で説明していた。
★今度は、もう1つ、動画をお知らせします。YouTubeで「聖コルベ記念館の小崎登明館長と」を検索すると、動画・8分7秒、が出て来ます。聖コルベ館に居た頃のでトマ小崎修道士の話が出てきますので、これも久しぶりに見た次第です。この動画には、あらためて感じた言葉が幾つかあった。
★(原爆を体験して)「残ったものは、何か。やぶれたシャツと、汚れたズボン、そして、イノチだよね」。この語りの「イノチ」の重さを深く感じます。
★(原爆で行方不明になった母親が言った)「人の痛みは、3年でも、こらえる」。世の中は、ツライ。くじけるな、それを教えたのだと思う。
★動画では、コルベ神父の「生き方・死に方」を語り、イノチを助けられた男性(もう老人になっていた)に会った時の結論であろう、次の3つの言葉で結んでいた。
★➀「生かされている、イノチ。カンシャ。ジンクーエン」
★➁「お礼を求めない愛」
★③「悪に負けない勇気」
★この際、YouTubeで、8分7秒の「聖コルベ記念館の小崎登明館長と」を、ぜひ見て下さい。日常の思いで、ましな事を語っています。

2019年12月22日日曜日

赤い帽子をかぶった一団が、歌って歌って、盛り上げた、うれしか

雨の日曜日の午後。
車で、1時間ほども離れている「東長崎教会」の聖歌隊の皆さんが、クリスマスの歌の慰問にやってきた。
気持ちが、ウキ、ウキ、ああ、もう降誕祭だな、こころが湧いてきた。クリスマスの歌ばかりです。目をつぶっていると、いろいろな思い出の場面が浮かび上がってくる。楽しいね。車椅子の女性も居るよ。エライなァ。
★やっぱり、一団をまとめて、盛り上げるのは、マイクを持った女性だね。小学生から、紹介した。中・高生もいる。小学生から聞いた。「サンタさんから、何をプレゼント、もらいたいの?」。突然、聞かれるから、首をひねっちゃうよね。それでも答えは出た。「ゲーム」「一輪車」「え?自転車じゃ、ないの?」「一輪車に、のれる」「文房具」「エライは、ね」「読書のカード」。そして歳があがっていくと「彼氏」。爆笑もの、だよ。紹介を聞きながら、一番の年配は誰だろう?そう思ったよ。
★そとを見ると、雨にぬれたバスが見えた。ホームの食堂では、ハクシュがなりやまない。中ほどで、教皇さまが来られたとき、大勢の聖歌隊と歌いました、という歌も数曲、聞かせてくれた。「皆さんは、テレビで見たでしょう」
★ラテン語の「グロォーリア」の歌は、いいね。思わず、口が動いた。最後は、「まだ、いまは待降節です」と、シメは、その歌だった。
★ホームの女性の1人が「また、来てねェ」と声をかけた。ドッと、笑いがおこった。ああ、いよいよ、クリスマス。降誕祭。気持ちが盛り上がってきた午後だった。

2019年12月21日土曜日

はなちゃん、おお、ひさしぶり。大きく育ったね。いい子だよ

昼食後、歯を磨いていると、「はな」ちゃんが、お母さんと、いっしょに入って来た。
「おお、はなちゃん、ひさしぶり」
お母さん「きょうは、保育園で、餅つきだったのよ」
「ええ、よかったね」
「はなも、ついたモンね」
「もう、いくつかな?」「3歳と10ケ月」「ハヤか、ね」
★「おい、おい、ボクのベッドに、ねんね、するなよ」
ふわ、ふわして、気持ち、いいんだろう。
「保育園には、何人ぐらい、おると?」
「そうね、70人ぐらい」と、お母さん。
「ちょうど、いいぐらいの、人数だね」
はなちゃんに、サンタさんの付いたチョコレートのお菓子をあげた。「はな、チョコレート、大好きなのよ」
こども、って、かわいいな。
はなちゃんは、リンゴが好きだったね。リンゴは、なかモン。
★「はな」が、おじちゃんのボタン、はめているよ。
チョッキのボタン、はめてくれる。
どこの、じいちゃんも、孫が、目に入れても、痛くないという心境がわかるよ。
しぐさが、かわいいんだね。小さなおててで。
もらったチョコは、ヒジの下だよ。
無心になって、ボタンを、みんな、はめる。
★あれ、あれ、ソウジば、すると?よか、よめさんに、なるバイ。やっぱり、オンナの子や、ね。
「はな」ちゃんが生まれて、育って、大きくなってきた。時折、たずねる「はな」ちゃんを写してきた。見守ってきた。
イノチって、ふしぎやな、思います。
イノチって、つないでいくものと、思います。
イノチって、知らない、大きなチカラに温かく支えられていると、思います。そとは、アメだが、きょうは、いい日、だったよ。

2019年12月20日金曜日

定期の診察を終わって、映画「カツベン」をみる。理解充分なり

毎月、1回の、定期の診察。長崎市坂本の「ヨゼフ・クリニック」へ。ホームを出たのは、午前8時でした。心電図の検査。高木先生は「とにかく歩きなさい。筋肉トレーニングをしなさい」と教えてくれる。歩かないと、ダメだよ。歩けないんです。でも、トレーニングをやってみよう、という気持ちになった。診察が終わったのが、10時でした。聖母の騎士に用事がある。高原さん、行ってみよう。
★聖コルベ館で用事をすませて、蛍茶屋の電停にある「レストラン」で昼食を食べた。終わったのが正午を過ぎていた。「高原さん、映画の『カツベン』、やっているよ。ちょうど時間は、午後1時55分開演だよ。行きたいね」。ごめんなさい。
★先日から、日記にも「カツベン」を書いてきた。現在、上映中。「行くという、選択しは、あるでしょう」。久しぶりに映画をみて、全くホームの事を忘れていました。笑いました。幸せを感じました。弁士は左手に居るのは知っている。果たして楽団はどこに居るのか。どんな楽器を使っているのか。少年の頃の思い出しか持たないので、興味深々だった。三味線に、クラリオネット、太鼓など、3人でやっていた。「カツベン」の映画をみて、ますます「日本二十六聖人・活動写真」が如何に素晴らしい映画であるか、本当に良く分かりました。満足して、急いで帰った。
★ホームに着いたのが、夕食の30分前でした。今の時間は、6時過ぎです。今日の日記は遅くなった。
★クリニックの高木先生から、年末と言って、白い封筒を渡された。昼食代と、映画代で消えた次第です。高木先生、今年もお世話になりました。カンシャ。

2019年12月19日木曜日

突然、神戸の尼さんが息子さんと自室にくる。語るはトマだけ

通称、「神戸の尼さん」が、息子さんと、自室を訪ねた。この笑い、この笑顔の、すてきな尼さんだよ。奉仕の身なりをしているね。尼さんに会うと、明るくなる。
★右側は、濱田盛雄神父さん。ホームの隣の湯江修道院の院長さん。尼さんが、用件で長崎へきた。高来町に線路はあるが、特急列車は停まらない。諫早駅で降りる。濱田神父さんが諫早駅まで迎えに行った。
★尼さんは、濱田神父さんとご縁がふかい。トマは、おこぼれをちょうだいしている。濱田神父さんの後で、2人がホームに来た。
★息子さんは覚えていないよ。「初めてか、な?」「いえ、7,8年前に、聖コルベ館で出会いました」「そうだった、かな」。2人との会話。なぜか、尼さんの話は聞けず、トマばかり語っていた。
★「やっぱり、人に、大切なのは、やさしさとか、おもいやりとか、そういう心だね。90代に入って、人間も老いてくると、からだも、こころも枯れてくる。自然の成り行きだよ。ホトケさまの、あの優しいお顔、惹かれるじゃないですか」
★「修道士の修練で、聖徳や、欲望や、創立者アシジの聖フランシスコの生涯など教えられた。その後は、祈りと、労働です。院内の仕事で働く。仏教の修行僧は、厳しい座禅や、徹底した掃除や、托鉢に修養を重ねますね。エライと思います。修道士は、修行が足りない。つくずく感じますね」
★ごめんなさい。尼さん、あなたの事を聞きたかった。濱田神父さんが、車で諫早駅まで送ると自室へ来られた。「次は、尼さんの事、聞きましょう。また、話しましょう」。笑顔を残して、さよならした。

2019年12月18日水曜日

「日本26聖人(われ世に勝てり)」の映画は、パソコンで見れる

昨日、「カツベン」の話から、「日本二十六聖人」の活動写真と弁士の思い出を記しました。すると「匿名」さんから、2件のコメントが寄せられていた。「YouTubeの中に、日本の26聖人と題して、2016年3月に、アップされた動画を発見しました。すでに、1万人以上の人が見ているようです。動画は、1時間20分の作品です。ひょっとして、この動画ではないでしょうか」(17:49)。「このYouTubeの動画は、まさしく小崎さんが弁士を務めた映画で、大変すばらしい作品です。もっと多くの人に、この作品を見ていただきたいです」(21:42)。
★先ずは、教えてくれた「匿名」さん、ありがとう。早速、➀「YouTube」を「検索」。②「日本の26聖人」を「検索」すると、載っていました。小崎のカツベンで、音楽も場面に合わせて、スムーズに物語は流れて行きました。見ることが出来ました。最初はコマーシャルが出てきます。しばらく動くと、映画が流れてきます。
★自分でも、初めて、パソコンで見ました。最後まで辛抱して見ますと、日本二十六聖人たちが、なぜ、長崎で殉教したのか、理解が出来ると思います。ネットで配信されているとは、知りませんでした。カツベンもそうですが、音楽が良く合致していると、素人ながら分かります。

2019年12月17日火曜日

「カツベン」が注目。カツベンやったよ、日本26聖人映画を

いま、テレビや映画で、「カツベン」が注目をあびている。「カツベン」とは「『活』動写真の『弁』士」のことです。私も、日本二十六聖人の活動写真の弁士を務めたから、興味がある。
★動く人物「画面」が始まったのは明治の末頃からです。大正時代に「物語」が取り入れられ、人気を博するようになった。テレビで、時代劇や忍術物の断片を見た。
★最初の頃の画面は、まだ、チョコ、チョコと動く幼稚さがあった。大正時代は15年だから、そんなに長くない。日本二十六聖人「われ世に勝てり」は、昭和6年の製作だから、年月は、そんなに長くは経っていない。
★カツベン時代の映画を見ながら、日本二十六聖人の「活動写真」が如何に素晴らしいか、技術的にも群を抜いているのが分かった。チャンバラの場面はもちろん、泥道を行く神父の足元をアップさせたり、地震の場面では、逃げ惑う群衆のソバで、実際に家屋を倒壊させている。ドラマの流れも、正確であり、興味ふかい。
★日本二十六聖人の映画は、音楽もなし、セリフもない。画面に合わせて、音楽をテープに収録するのに、苦労した。舟の難破、地震の凄さ、チャンバラの音、擬音や聖歌、色々な音を使って、場面を盛り上げた。よくやったと思う。
★セリフが無いから、自分でシナリオを作って、自分で「弁士」を務めた。素人ながら、がんばったよ。原点は、小学生の頃に見た、聞いた、弁士の映画だった。無声映画が上演されて、弁士が流れるような調子で解説した。楽器を奏でる数人も居た。
★中国との戦争が始まると、映画が途中で止まり、実際に兵隊が舞台に上がって、ドン、パチ、戦争を再現した。当時の民衆の戦意を鼓舞した。少年の頃の印象は消えない。
★「カツベン」が見直されるとは、懐かしいね。カツベンやって、ウン十年だよ。日本二十六聖人をよみがえらせた。いま、その「カツベン」が注目されている。現代は、急ぎすぎだよ。トツ、トツと、ゆっくり、流れて、心に染み入る時代の作品もあった。日本二十六聖人の映画は、映画史に刻む名作だと信じている。あの作品に熱情を注いだ十数年は、貴重な時だった、と思っている。「映画」と「音楽」と「弁士」は、DVDに入れて、500部を無料で配布した。どこかに、そのDVDの弁士の声は残りつづけるだろう。

2019年12月16日月曜日

女子高校生からのお礼の手紙。美しい文字と知的な文脈に感心する

人に、話を語るには、自分に、話すパワーがいる。気力というか、話力というか、出す内容がないと、話せないよ。それが有れば、心配は、いらん。大丈夫さ。
★11月の中ごろ、女子高校生たち180人に語りべを務めた。ああ、皆さん、よく聞いてくれたよ。自分も満足した。そのお礼の手紙が、代表者の1人の女子高校生によって届いた。もう、2学期も終わるね。
★3枚に綴った文面を見て、おどろいた。字がキレイ。「え?こんな上手な、字を書くの?」。まるで、ペン習字の手本のような字を書いている。何という美しい字の流れだ。しかも知的な文脈に感心した。今どきの女子高校生に、こんな整然としたフミを書く人が居るんだね。
★「特に印象的であったのは、何度か涙ぐまれるほどに思いを込めてお話しされたことです」。確かに、あの時、ナミダも出たわね。母も死に、友も死に、天主堂は瓦礫と化し、コルベ神父は餓死室で死んだ。悲しい出来事を語れば、老いの目には、涙腺もゆるみ、目もかすんでくるわね。
★「生きるとは、孤独と出会い。人の痛みを分かる心を持つことは、赦すことであり、平和の一歩である」。私の体験の何が、この現代の女子高校生たちに伝わるのか。伝え得るのか。自分のヨロイを外して、自分の言葉で話すしかない。
★「なお、素敵な絵葉書をありがとうございました。『どんな逆境でも、希望と、勇気で、今を生きる』。手帳に挟みました」。いろいろな言葉がある中で、この一句に出会った。これらのカードは、大分県の恵理子さんが奉仕して、女子高校生さん達のために、200枚ほど作ってくださった。喜んでもらって、嬉しい。
★手紙の最後には「ジンクーエン」(ポーランド語で、ありがとう)の文字もあった。覚えてくれて、ありがとう。長崎で、聞いた一語だよ。「ご恩を直接お返しできませんが、教えていただいたように、別の人に別の形で返せるように努力します」
★早速、私は、永井博士「如己堂」のスケッチ絵葉書に、返事を書いた。手紙を受け取ったことを感謝し、自分の思いも一筆した。★「旅とは、➀ホンモノを見ること。(教科書や本、聞いた話、それらを現場に行って確実に見る)②地元の人との出会い。(これも大切。長崎で修道士に出会ったのも、記憶に残してほしい)③旅によって、自分も何かの好転をする。(これも必要でしょう)。私の持論を、ハガキに記した。
★若者には、未来がある。未来を、愛と誠実に生きる義務もある。そんな気持ちで、手紙を読んだし、女子高校生たちに話してよかったな、と今の私は、思う。

2019年12月15日日曜日

日曜日。ホームで、コンサート。老いても自分も役に立ちたい

日曜日の午後。赤いジャケットを着た4人組が、コンサートにやってきた。クリスマスが近いので、慰問に来る。名前は「さくらんぼ・アンサンブル」。クラリオネット、フルート、トロンボーンが2基。演奏は当然、クリスマス音楽が多い。民謡や「津軽海峡冬景色」もあった。楽器の紹介もある。楽しいひと時を過ごした。「ああ、もう降誕祭も近いんだね」。そんな感じが湧いてくる。ありがたい。
★演奏が終わると、お礼の言葉を瀧神父さんが述べた。黒いスーツを着て、ローマン・カラーをした姿をしていた。瀧神父さんは、ウマイ言葉を話した。
★「皆さんが来るようになって、3年目と聞きましたが、私が入所して3年になります。毎年、聞いてきたわけです。音楽には国境がないといわれます。ここで生活している私たちは、いろいろ違いを背負って生きている。満たしてくれるのが、ホームの職員・皆さんの奉仕です。また、こうして皆さんが、音楽を聞かせて下さるのも、サバクの中のオアシスになります。これからも力を尽くして、ガンバってください」
★老いて、ホームに居て、慰めを待っている。そいう自分にチカラの無さを感じるね。若い頃は、率先して、向こう側に居たモンだった。それが手前の観衆の一員になる。これが老いなのか。いや、いや、自分も何かの役に立ちたい、そんな気持ちは、ある。
★昼食は、「ハヤシ・ライス」でした。私は、カレーよりも、ハヤシが、いいね。

2019年12月14日土曜日

フランス人女性記者の取材は、「週刊誌」に載った。原文です

戸口民也先生、ご夫妻が、ホームに来られた。長崎外国語大学の名誉教授の先生です。6月でした。フランスから新聞記者の女性が取材に来た。戸口先生が通訳をなさった。
★取材した記事が、11月24日に「週刊誌」に掲載されました、と記事を持って来られる。奥さんもご一緒された。「大変、お世話になりました。わざわざ来て頂いて、嬉しいです。どのような記事になったのかな、期待していました」
★6月に取材に来た女性記者さんとの写真もある。遠いフランスから来たのだからね。新聞の記事かと思っていたら、「週刊誌」に載せている。「週刊誌は、ジャムさんが、送ってくれます」と戸口先生。記事の内容は、先生が持参された。フランス語の訳文も頂いた。
★「わたしは長崎で生き残った」が題です。原爆の日の朝、母親との別れが始まりで、最後は、コルベ神父の餓死の牢獄で祈る、「コルベ神父がしたことを黙想しながら、内なるヒカリを感じた」で終わっていた。そこに心の解放があったのです。フランス語の原文を載せます。
★フランス人女性記者が、いつ撮ったか覚えないが、いい写真だな、よろこんだ。


2019年12月13日金曜日

ポーランドの本が届いた。なつかしい国。過去を思い、本を楽しむ

「ひろみ」さんから「ワルシャワ便り」(291頁)の本が送られてきた。ひろみさんは、ラジオの「深夜便」を長年、聞いている。その中で、ポーランドの話を集めた本があったので、「読んでみて下さい」と手紙が添えられていた。
★もちろんポーランドには興味がある。ワルシャワ大学の日本語学科の岡崎先生が、「深夜便」で語った109話が読みやすく、まとめられている。この本を読めば、ポーランドのことが、よく理解できる。大学の日本学科も何度も訪ねたことがあった。
★私が最初にポーランドを訪ねたのは、1971年。その時に写した町の風景です。当時は共産圏だった。タバコをくわえながら、手を箱の中へ入れて、何をしているのか。レンズがあるが、フタが閉まっている。レンズの先には、小さな板がある。当時のポーランドは素朴な感じがした。
★最後のポーランド訪問は、10回目の、2004年。自由社会になって国情も変わった。ポーランドの料理で、すぐ思うのが、ビートで作った赤いスープです。ピロシキという餃子もウマイ。旅行中、食堂で食べたのは、主に、トン・カツだった。招待されて、腸づめの肉に、血が滲んでいるモノを食べさせられた。これには困惑した。
★ポーランド旅行には、通訳と保護を兼ねて、コンラードさんを頼った。いつも2人だったが、何度か、襲われそうになった。自由社会になって、他国からの人も混じり込んでいた。個人の旅行は困難な時があった。列車の乗り場には誰でも入れる。コンラードさんから、少し離れて、列車の中で、ワル者から、挟み撃ちにされた。カメラや、バッグを奪われそうになる。こっちは、オドロイタよ。思わず、大声で叫んだ。「ナンバ(なにを)スット(するの)カッ」。ながさき弁を一喝し、ゲキタイした。公共のバスの中で、後部の席に居ると、男たちに囲まれた危険もある。
★なんや、かんや、言っても、ポーランドは友好の国です。楽しい思い出が殆どです。もうポーランドへは行けないが、送られた本をゆっくり読んで、知識を深め、思い出をよみがえらせよう。楽しみが1つふえた。細やかな心配りの「ひろみ」さん、ありがとう。