2013年7月31日水曜日

東京、6日目。女の子に熱い視線を送る。夕方、長崎へ

毎朝、赤羽カトリック教会のミサと聖務日課にあずかった。10数人の信徒が、いつも祈っていた。朝から、こうして教会で祈る。幸せを感じた。ミサと聖務が終わっても、最後まで教会の中にいる母親と、幼稚園の女の子がいた。女の子は、熱心に手を合わせて、祭壇の方へ目を注いでいる。普通の少女は、教会などに興味はないのに、この女の子は、神さまを見詰めている。それが、好きなんだ。自然に、そのように心が傾いているのだ。その女の子を見ていると、「ああ、この子は、神さまから、見詰められている」と思った。こういう女の子が、シスターになり、神さまの道に自然に進んで行くに違いない。自分の少年の頃を思った。自分も、そうだった。自然に、なんの抵抗も無く、心が傾いていた。神さまから、目を留められても、沢山の苦しみ、困難があった。試練もあった。それを乗り越えて、受け入れて、人は完全に成っていくのだろう。★日曜日、ミサの後で、また、あの女の子を見つけた。「色紙を、あげるよ」と、1枚を渡した。色紙を抱いて、写真を撮った。「この女の子が、神さまの恵みのなかに育ちますように」祈りを添えた。写真に写っている司祭は、ルーマニア人のペトロ・イシトク神父さん。仲良しの神父さんだ。日本語を学んでいる。★きょう、夕方、東京を出発して、長崎へ帰る。今年の夏の休みは、これで終わりだ。赤羽を去るに当たって、なぜか、毎朝、教会で出会った女の子の祈る姿が、印象に残った。「オレも、長生き、せんとなあ」。そんな気持ちも湧いていた。また会おうね。女の子のことは、忘れない。

2013年7月30日火曜日

東京で、5日目。昭和館で、少年倶楽部や戦争画集を懐かしむ

「東京へ行ったら、何が見たい?」。そう聞かれると、「靖国神社の近くにある《昭和館》だね。昭和1けた生まれだから、昭和という時代の展示を、ゆっくり味わってみたい」。その願いで、昭和館を見学した。以前も、行ったことがある。2度目です。見ての感想は、ザンネンながら満足した展示ではなかった。資料が少ない。昭和10年頃の「出征兵士」から始まっていた。小学1、2年の頃だ。戦中、戦後の「紙芝居」が懐かしい。ここを訪ねたとき、2つの思いがあった。1つは、小学生の頃に読んだ「少年倶楽部」を手にして、見ること。これは、ごらんの写真のように、昭和10年の1月、新年号があった。なんと、380ページに及ぶ豪華な雑誌だった。内容は、少年の心を燃やすような読み物、道徳、物語が詰まっていた。もう1つは、戦争画家たちが描いた戦争の名場面の「戦争・画集」だった。この本も見つけた。1枚、1枚の絵が、いまでも胸を躍らせる。コピーも出来るので、1枚、50円。10枚ほどコピーした。★戦争は2度とあってはならないが、少年の思い出は懐かしい。 東京見物。昭和館はどうだろう?ゆっくり、昭和の年代につかり、少年の頃を懐かしみたいです。

2013年7月29日月曜日

東京で、4日目。グラフの思い出。40年ぶりに記者に会う

時々、「東京に住んだこと、ある?」と聞かれる。「4年間、赤羽に住みました」。1970年代の前半だった。赤羽修道院で生活し、教会の庭にあった「カトリック・グラフ」の編集部で働いた。3人の記者がいた。もう40年前になる。今度の夏休みの旅で、赤羽に、こだわったのは、2人の記者に久しぶりに会いたい、望みがあった。連絡をとって、夕方、教会の門で待ち合わせる。山内さんが現れた。写真の男性。「やあ、余り変わっていないね」と修道士。「米田さんは、奥さんが不具合で、来れないそうです」「2人だけで、語り合おう」。スズラン通りを歩く。毎月、締め切りになると、徹夜になる。作業を終えた朝、この辺の「めし屋」で、お茶漬けを食った。「いま、どうなっているかな」。2人は、懐かしくさまよい、1軒の和食店に入った。それが、この写真です。編集者の仕事は大変だった。長崎から都会へ出て来て、何も知らない修道士を、導き、助け、育ててくれたのが、ベテランの彼、山内さんだった。「あの頃は、激動の時代だったね」。成田闘争、ベトナム戦争、沖縄復帰、コルベ神父が福者になる、など。波に乗って、国内、海外にも取材へ出かけた。おかげで、人間的にも、成長したように思う。「このグラフは、時代を切るユニークな大型雑誌」と言われつつも、資金が不足で、4年、39号で、降りた。★長崎・聖母の騎士は、周辺にお店もなく、1つの「城」のようにも思う。赤羽は、門を出ると、ネオンや居酒屋が軒をつらねる。城を降りてきた修道士が、誘惑されないことが、あったか。大変な時期であったのは、確かだ。傷つき、悩み、方向を見失ったこともあった。それでも「神のふところ」に戻ってきた。いま、あらためて、修道士の身分で「よかったなあ」とカンシャした次第だった。

2013年7月28日日曜日

東京、3日目。日曜日、ミサの後で、ブログの読者と出会う

毎日、ブログ(日記)を見てくれて、応援してくださる、ありがとう。「今度、休みで、東京へ出ます。赤羽教会で、出会いましょう」と、出発前に、ブログに書いてお知らせしたところ、「23人」が来て下さった。皆さんにお会いして、本当に嬉しかったよ。皆さんも喜んでくださった。出逢った順々に、聞いたお名前を記すと、渋谷の佐藤さん、川崎の山野さん、千住の清水さん、調布の後藤さん、世田谷の花澤さん、東十条の烏田先生、世田谷の北山さん夫妻、茨城の久保木さん家族3人、世田谷の阿部さん夫妻、ご夫妻でお医者さんです、さいたまの田辺さん、狛江の小栗さん、埼玉の「のび太」くず野さん、板橋の斉藤さん、埼玉の伊藤さん、松戸の駒沢さん、東久留米の竹田さん、ペトロ・イシトク神父さん、これらの方々でした。修道服の姿で、ニコニコして、挨拶して、お迎えしました。「1枚づつ、手描きの色紙を、選んで取ってください」。皆さん、喜んで取ってくれました。もちろん初めての人も居ます。顔見知りの人も居ます。懐かしい人も居ます。応援してくれて、ありがとう。来て下さって、ありがとう。「記念の写真を撮りましょう」。これが念願でもあった。ミサが始まる前と、終わってからも、撮りました。皆さんも嬉しそうでしょう。いい思い出になりました。皆さんとの出会いは、東京へ出た理由の1つでもあります。「あれ、もう、色紙は、ないの?」「ザンネン」。色紙は好評でした。色紙は、聖コルベ館で販売して、そのお金をルーマニアの、ペトロ・イシトク神父さんの国に送っています。★モニカさんからのコメント。「昨日はありがとう。たくさんの人が来ていた。わたしも、その1人です」と書いてあった。「あれ、モニカさん、名前を聞いたかな?」。挨拶をしないで、ごめんなさい。色紙を貰らいましたか。心残りがしています。

2013年7月27日土曜日

東京で、2日目。クチよりも、カラダを動かせ、と老人訓

午前中、下村コルベ修道士さんのクルマ・運転で、墨田川の近くの木島さんご夫妻を訪ねる。「やあ、久しぶりですね」と再会を喜び合った。ダンナさん、95歳。奥さん、93歳。仲のよいご夫婦。苦労しながら、町工場を盛り上げてきた。ケイキのよい、いい時代もあった。1つのジンセイにも、楽もあれば、苦労もある。「長生きのヒケツは、何ですか」「クチよりも、カラダを動かす、不言実行だよ」と言いつつ、木島さんの趣味は、手品に、コマ回し、花火の打ち上げ、機関車造り、本当にレールの上を人を乗せて機関車が走る。工場だから、製作の道具が揃っている。今は、紙で、建物や船や列車や、スカイ・ツリーを作っている。お昼は、江戸前寿司をご馳走になる。「隅田川の花火は、見ないの?」「いや、もう、えんりょ、しときます」★下村コルベ修道士の運転で、家を出た。昼過ぎというのに、もう浴衣を着て、女の子が道路を歩いている。「下村さん、気をつけてね」「大丈夫、カーナビがあるから、迷うこと、ないよ」。クルマのカーナビが、「右、行け」「左、50m曲がる」と親切に教えてくれる。「これに従えば、行き着くよ」。ある場所で、カーナビが「右に、曲がれ」と教えた。「よし」とハンドルを大きく切って、右折すると、「ピィ、ピィ」と笛の音。「何ごと?」。停まると、警官が、「交通違反です」「ええ?なんで?」「花火大会で、今日の、1時から、右折禁止になった」。時計は、1時50分だった。「そんな」と叫んだが、違反キップを切られて、7千円の罰金です。★その夜、大雨が降って、花火大会は、中止になりました。「初めての中止」とテレビは伝えていた。

2013年7月26日金曜日

東京へ、1日目。10年ぶりの赤羽。スゲェ、賑やかだなあ

夏休みで、東京へ。5泊6日の旅行です。出発に当たって、1つのことを決めた。東京では、電車に乗らない。だから駅の階段を上り下りしない。その代わり、ゼイタクだが、下村コルベ修道士さんに、羽田からクルマで、ホテルへ。次の日からは、クルマを利用して、ホテルを出発し、目的地へ、用件を済ませると、またホテルへ送ってもらう。こうすれば疲れがこない。下村コルベ修道士さん(写真)は、快諾してくれた。羽田空港へ着くと、屋外へ出た所に、修道士さんのクルマは待っていた。「好都合だなあ」。ところが高速道路が何度も渋滞しに、赤羽のホテルへ着くと、1時間30分を要していた。「それでも無事に着いたよ」★JTBのパック旅行で、飛行機代、ホテル代3泊で、6万4千円だった。ホテルは赤羽カトリック教会から、徒歩30m、道路を隔てた、すぐ前にあった。毎朝、ミサと、聖務日課を祈れるだろう。いい場所だった。★東京へ着いたら、真っ先に、隅田川近くの木島さんご夫妻を訪ねたい。ダンナさん95歳。奥さん93歳。ダンナさんの洗礼は遅く、61歳のとき、いただいた霊名が、フランシスコ・ザビエル。ザビエルの足跡を辿ろうと、九州へ、長崎へ。出逢ったのが小崎修道士だった。木島さん夫妻に会うのも、久しぶり。東京、最初の夜、木島さんに電話をかける。「モシモシ、アシタ、行きますからね。下村コルベ修道士が運転します」「明日は、隅田川の花火大会ですよ」「見れるか、なあ」

2013年7月25日木曜日

準備は、万端。あすは、出立か。楽しみながら期待もする

旅行を控えて、朝から理髪店へ。いい気持ちでサンパツする。この間、散髪したばかりだが、「東京へ行くけんね」。店主は、「東京へ行ったことが、ない」と言う。びっくりだよ。やっぱり、長崎から東京は遠いのか。「でもね、旅行はジンセイの楽しみだからね」「いいですね。おいしい物、食べて、めずらしい物、見て、お酒も飲んで、美人のおかみが居れば、なおさら、いいね」と店主。いつしか眠っていた。もう、この理髪店に、「20年は通うでしょう」と店主が言う。「そんなに、なるのか。髪も薄くなったね」。ニンゲンは、アセ流して、苦労して働いたお金でなければ、価値が無い、その意見で店主と一致した。★アシタから、東京へ出発する。10年ぶりのトウキョウ。どんな出会い、どんな新しい発見があるか。期待する。無理は、すまい。理髪店を出るとき、店主は言った。「よか、みやげ話を期待して、いますからね」

2013年7月24日水曜日

アメリカからの見学客から、2週間後、喜びのメールが届く

アメリカ・テキサスから、メールが届いた。「先日、お世話になりました」。思い出した。アメリカに30年住んでいる女性、日本人ばなれの顔をしておられた。70何歳の人。修道士の顔を見て、「お肌がツヤツヤですね」と言った、あの女性。ブログにも載せた。7月3日だった。2週間ほど経って、メールがきた。「ブログの写真を見て、おどろいた。人との出会い、大切に。日記を、1月から全部読んで、①神さまのご計画の中で、精いっぱい生きたい」と書いてあった。ダンナさんはアメリカ人。女性は長崎出身。時々、長崎へ里帰りする。夫妻はキリスト信者。「②神さまにとって、1人、1人の存在の意味を感謝し、考える」とも書いてあった。この①と、②の言葉に深い共感を覚えた。遠藤周作氏の本を読んでいる。『侍』の中に、「修道士のような日本人が、メキシコ・インデアンと共に生活し、彼らの中に、イエスを見る、という箇所を思い出した。自分の家にも、メキシコからの出稼ぎのカトリック信者がきて、祈りと聖書の勉強をつづけている。主人が、平和の道具になれますようにと、聖フランシスコの祈りを歌います」とあった。うれしいねえ。こうしてアメリカと聖コルベ館と心が通じ合うのは、すばらしいと思う。最後に書いてあった。「③信仰は、愛のジンセイに生きることですね。修道士に、愛を感じます」


2013年7月23日火曜日

介護のヘルパーさん、暖かい家族の愛を、裸の付き合い

入浴介護のヘルパーさんが、風呂に入れながら言った。「ブログを見ましたら、東京行きが近づいて、楽しみがよくわかります」「東京見物よりも、東京へ行って、昔の知り合いに会いたい、それが楽しみ」。すると、ヘルパーさんが言った。「ボクなんか、いつも、こうして会っている。裸の付き合いが出来るけど、東京の人には中々会えない。今度、会う人とは楽しみですよね」。その彼の言葉に、何か、家族的な暖かい愛情を感じた次第でした。「夏休みの一覧表があります。それぞれ赤線で、日にちに印をつけている。自分も付けたい。それで東京へ出かけることにした。介護の人が居るといいけれど、居ないのはザンネン。でも、東京の下村修道士さんが、介護の役目を果たしてくれます。ゲンキで行って来ますからね」。出発が近づいた。衣類を宅急便で、先に送った。帰りに、おみやげ。でも、介護のヘルパーさんたちは、プレゼントや贈り物など貰ってはいけない、規則になっているとか。みやげは、ないよ。でも、この笑い、だよ。

2013年7月22日月曜日

環境が、変わらないのが、イチバンの、幸せと思います

日本人の神父さんが、話しかけてきた。「書いた記事を読んでいるよ。沢山、書いてきたね。素晴らしいことだ」「いいえ、駄文ですよ」と応対したが、興味を持ってくれたのは、うれしい。これは、いい話だね、と感じたことを、主に書いてきた。しかし、それでも育てる人がいた。もう60年前になるね。1人の神父さんが、書くように勧めた。騎士誌に載せてくれた。アシジの聖フランシスコの記事だった。なつかしく思いますよ。その後も、育ててくれる神父さんに出会った。これらは、タメになる出逢いだった。人は、育てること、これが大切と思います。だから続けられた。自分の文体で、コツコツと書くだけです。活字になって、校正するときが、いちばん嬉しいですね。楽しみでも、ある。気持ちが、ワクワクします。他人のことを書いても、年月が経てば、家族も変わる。人も変わる。変わらないのが、一番の幸せと思います。若い頃の愛と喜びを、いつまでも持ち続けたいものです。

2013年7月21日日曜日

少年の頃の夢は純粋だった。甦らせて、清く残したい

東京・昭和館(靖国神社の近くにある)に行って、何を見たいのか。マンガの「のらくろ」と、「冒険ダン吉」です。両親の出稼ぎによって、北朝鮮で生まれ育った少年は、内地から送られてくる「少年倶楽部」が最高の読み物だった。当時の小学校の先生は、日本の国の状態を、次のように説明した。「日本の国には資源がない。有るのは米と魚だけ。石油がない。ゴムがない。鉄も石炭もない。これでは日本は豊かになれない。繁栄の方法はどこにある?無いままに、貧しく耐えるか。海外へ進出するか、いま瀬戸際に立っている。アジアは既に、欧米の植民地化になった。日本も危ない。海外へ出て行くこと、日本人は誰しも望んでいる」と。その反映が、マンガの「のらくろ」と「冒険ダン吉」だった。のらイヌの黒が、軍隊の一平卒から、さまざまな経験を経て、上官に進級していく。進歩に憧れる。一方、ダン吉は魚釣りに出かけたが、遭難して、南の国に流れ着く。現地の人たちと「仲よくしながら、協力して、王国を築く」。この仲よくが、ミソ。そこには清い夢があった。暴力や、虐待や、殺傷は全くなかった。平成の世、いま昭和館で何が見たいのか。争いや、盗みでなく、少年の頃、抱いていた、憧れていた、その夢を、もう1度、よみがえらせたい。少年の思い出を美しく飾り直して、残したい、それが望みなんです。さて、どんな印象を受けるか。



2013年7月20日土曜日

夢は、トウキョウへ、ふくらんでいる。楽しみだ、なあ

東京へ出かける、1週間を切りました。いよいよか、と思うと、胸がワクワクします。写真は東京・赤羽のカトリック教会です。昔の写真です。懐かしい場所でもある。1970年から、4年間、ここで暮らしていた。思い出も沢山あります。グラフの編集を行なっていた。40年ぶりに、記者の仲間と電話で話をして、会うように約束しました。どんな話が展開するか、大きな楽しみです。また、本所には、95歳の知り合いのダンナさんがいる。オラッショの旅で親しくなり、ご夫妻には大変、お世話になってきた。久しぶりに会うので、これも楽しみです。マンションの屋上から、隅田川の花火が見えるんですね。その他にも、ひそかに期待する楽しみがある。九段坂にある、昭和館です。ここは、昭和の思い出がイッパイ詰まった建物です。以前、1度、訪れたが、もう1度、ゆっくり見学し、昭和の思い出に浸りたい、そういう望みがあるんです。★東京・羽田に着いて、車でお世話してくれるのは、下村修道士さんです。頼みました。快く引き受けてくれました。赤羽教会の日曜日、ミサの後で、ブログ(日記)を見てくれている人との出会いも楽しみです。「来てくれるかな」。おみあげに、手描きの色紙を差し上げます。


2013年7月19日金曜日

回れよ、まわれ。古き時代のセンプウ機よ。素晴らしい

「ブルーン、ブルーン」と、強烈な音をたてて、まわる。「やったぞ、おお、まわるぞ」。思わず、歓声。昭和初期のセンプウ機です。黒ずんで、なにやら、威厳がある。もともと有ったものを、この度、修理したら、回転するようになった。修理費が、44.100円。少々、割高だと思ったが、コルベ神父の時代の面影を残す、ということで展示した。もっともコルベ神父は、扇風機など使わなかった。犠牲する人でした。「回り方が激しいので、もう少し、やわらく回りませんか」と修理屋へ願うと、スイッチの箇所が特殊な装置になっていて、出来ないということだった。羽に、手を入れると、大変だ。指は切られてしまう。進入禁止の、離れた場所に、置くとしよう。★いま、イギリス王室では、赤ちゃんが生まれる。秒読み段階ということで、話題になっているが、先日、聖コルベ館に見学者が来て、イギリスのウエンストミンスター寺院の正面、聖像のなかに、一番、左の聖人は、マキシミリアン・コルベ聖人ですよ、と教えてくれた。携帯から、写真も見せてくれた。ああ、やっぱり名前も記してあった。20世紀の殉教者だ、そうです。★病気や、苦しみが有っても、修業して、仏像のように安泰なカオをしているのが、リッパか。あるいは苦しみ、痛みがあるとき、「痛いぞ」「孤独だぞ」と叫んでも、なおかつ、それを乗り越えていく、それが好いのか。難しい判断だが、後者かな。★ニンゲンの弱さのなかにも、神の偉大なチカラが示される、それが信仰と思います。

2013年7月18日木曜日

昨夜のウニ釜めしは、おいしかった。修道士さんのお祝いに

写真は、ウニめし・丼です。昨夜の夕食は、これでした。おいしいですよ。ワサビが乗っていて、ウニ醤油を少したらして、ご飯とまぜて、食べます。釜めしですよ。皆さん、満足して、食べました。なぜ、これを食べるようになったか。昨日は、聖アレクシオの日でした。この聖人の名前をもらっているのが、会計長の松下修道士さんです。5人の司祭と、松下さんの他に、1人の修道士がおりますが、日ごろ、お世話になっているわけです。お祝いしようと、飲み物を飲み、サシミや、ウニめし、伊勢エビの味噌汁をいただいた。「松下修道士さん、これからもゲンキで、頑張ってください」。楽しい食事会でした。「ところで、アレクシオという聖人は、どんな聖人ですか?」。伝記に、こう書いてある。430年頃、イタリア・ローマに貴族がいて、裕福に育てられた息子でした。結婚式の日、「神に生涯を捧げたい」と、家出して、放浪の旅をつづけた。17年後、家にもどる。両親は知らない。奉公人として、忠実に働いた。亡くなったとき、衣服に下から証拠のメモを発見、愛する息子とわかった。盛大な葬儀がおこなわれ、彼は「神の人」と呼ばれて、現代に至っている。「松下修道士さん、なぜ、こんな名前を付けたのですか」「言いにくい名前なので、みなが、わかりにくいように付けた」。ウニ飯を食ったものたちは、「ウハッ、ハ、ハ」と笑った。
 


2013年7月17日水曜日

個人的な状況説明よりも、万人に通じる生き方の考えを望む

今日は、書くことがなくて、悩んでおります。1枚の絵を描いてみました。子ブタの兄と妹がいる。仲のよい2人だった。いつもヘイワに暮らしていた。そこへ、突然、猪突猛進、イノシシが、突っかかってきた。「あっ、アブナイぞ」と、兄は妹をかばって、横にずらして、ひょっと避けて、無事に助かった。イノシシを追い払ってしまった。負けなかったわけだ。偉い、な、と誰もが思う。誰でも思って、兄妹に、個人的に感心する。それは、そこで留まるならば、状況の説明だけで、終わるんですね。「兄、妹の子ブタは、お互い、チカラを合わせれば、誰をも恐れない」。その奥にあるものを論じれば、もう少し、万人に「生き方」を考えることになる。記事を書くとき、その事を、しばしば思うんです。兄の強さ、妹の優しさ、それだけに目を向けて、終わるのでなく、その奥の、普遍の生き方にまで触れる、いつも、そう思って、至らなさを、悩んでおります。


2013年7月16日火曜日

東京行きを思うと、楽しいです。会いたいです、皆さんと

東京行き、楽しみにしています。28日の日曜日です。赤羽カトリック教会で、午前9時のミサで祈ります。東京で、日本語の勉強をしている「ペトロ・イシトク神父さん」。写真のように、背丈が同じなので、親友になった。「パーテル・ペトロ、アカバネ、ね」。会うようになっています。楽しみだね。ペトロ神父さんに会うと、背丈がいっしょなので、気持ちが重くならない。親しみが湧きます。それと同じです。ブログを読んでくださる皆さん、赤羽、来てください。会えたら、うれしいです。出会いは、神さまの恵みですよ。修道士は、学者じゃ、ない。癒すヒトでも、ない。肩苦しくないですよ。何もないけど、なにかを見つけることが、出来るでしょう。最近は訪れていないが、赤羽は、町の雰囲気が、すっかり変わっていると思います。近くに、気楽な昼の定食屋も、あるでしょう。なんだか、考えただけで、うれしくなります。ペトロ神父さんと、修道士を見るだけで、いいのじゃない。ペトロさんを励ましてください。ルーマニアから、日本へ来て、いま頑張っています。日本語の学校に通っています。よろしくね。

2013年7月15日月曜日

毎日、ブログを読む若者が来た。嬉しいよ。励まされるよ

名古屋の男性が、「毎日、ブログを見ている。連休を利用して、聖母の騎士へ行ってみよう」と、初めての長崎へ着いた。長崎駅に出迎えたのが、大学の同級生で、地元の女性だった。早速、2人で、聖コルベ館へやってきた。昼下がりの午後で、修道士の姿はなかった。「がっかり、しました」。メモを残して、ルルドへ登った。しばらくして、もう1度、聖コルベ館に寄ってみた。すると、修道士が居た。「あれ?」。修道士のカオを見て、「あんなに、若いの?」。修道士は、昭和3年の生まれ、と知っている。自分のおじいちゃん(祖父)も、昭和3年の生まれ。若者は、修道士に出会えて、「よかった」と、ひじょうに喜んでいた。修道士は、メモを見ながら、話を聞いた。彼は、今年の春、カトリックへ改宗した。霊名は「マキシミリアノ」。コルベ神父さまのお名前をいただいた。「ブログ、毎日、読んでくれて、ありがとう。何を感じているの?」と肝心なことを聞くと、答えは、こう、だった。①修道士とは、どんなヒトだろう?興味がある。②ブログを見ると、近い人に思える。聖コルベ館には行けないが、いつか会えるだろう、と希望が湧く。③病気と戦っているんですね。でも元気そう。④来る人に、コルベ神父さまの愛を伝えている。リッパだな。⑤尊敬していた、とも言う。⑥若いカオに、ビックリした。などなど。⑦最後は、いっしょに写真を撮ってください。握手を交わした後、若者たちは、喜びを残して、去っていった。


2013年7月14日日曜日

日々、日記を書いて、気になること。カッコよく、つけるなよ

今朝、思った言葉が、これです。「健康、信仰、生き甲斐」。この3つが、いま、浮かびました。やっぱり、これが基本、大切です。ところで、毎日、ブログ(日記)を書いて、思い悩むことがある。カッコよく、書こうと思う、イヤな心です。自分でも、ダメと思います。この日記は、自分の足跡のために書こうと始めました。やっぱり欲が出てくるんですね。ニンゲンって、欲深い存在と思います。もっと肩のチカラを抜こう。疲れないように、シンドクならないように、思いつくまま書くのが、イチバンいいでしょう。★さて、修道士にも、夏休みがあります。もう、ここ何年も、休みに出かけていない。今年は、韓国へ行きましたが、今、体力があるうちに、東京へ出かけてみようと思う。5泊6日の旅です。10年ぶりの東京です。会いたい人もいる。見たいところも、ある。旅行は、お医者さんにも伝えた。そこで、次の、次の日曜日、28日には、東京の赤羽カトリック教会で、午前9時のミサで祈ります。東京の皆さん、一緒に祈りませんか。ミサの後で、声をかけてくれませんか。名前は知らなくても、顔も知らなくても、少しでもお話が出来れば嬉しいです。実りある旅になれば、嬉しいです。思い出として残ります。赤羽カトリック教会は、赤羽駅・東口を出て、すぐ近くにあります。★まゆみさんのコメントへ。お会いできると嬉しいです。

2013年7月13日土曜日

気持ちの進展。説明に、写真に、おまけのスイカ。カムサンミダ

最初は平凡な気持ちでも、事の次第では、じょじょに燃え上がる。夕方、閉館前に、韓国人の巡礼者が16人やってきた。韓国語が出来ないから、ガイドはしない。平凡な気持ちだった。同行のガイドに任せているが、もちろん十分ではない。こちらは、巡礼者たちに、ホホエミを投げかけるダケ。しばらくして、ガイドに声をかけた。「ビデオ、見ますか」「ハイ」「日本語で言うから、訳してください」。これが調子よく行ったので、好転する。ビデオが終わると、パネルの写真と絵を見せて、一連の説明をした。この辺から、反応があり、気持ちは、じょじょに燃えていく。「85歳、頑張っているよ」に、皆は「パチ、パチ」拍手喝采。ますます当方の熱は燃える。「写真を撮りましょう」。2、3枚、撮った。ここで、「スイカ、食べますか」。自分でも、考えていない、サービスだった。「ハイ」の返事。冷蔵庫から、大きな冷えたスイカをテーブルに置いた。切るのは、皆さんに任せた。皆は、喜んで、笑って、おいしく、盛り上がって食べた。和やかさが広がった。「もう1枚、写真に撮ってくれ」と、願われて、撮った写真が、これです。みんな満足そうにしている。この中の女性は、アタマを突き出して、祝福してくれという。韓国のおばちゃんの志気には、参るよ。「ダメだよ。ボクは、しないよ」と強引に、断った。帰るとき、「これは寄付です」と封筒を渡された。「長崎のコルベ神父・韓国語版」を持って行きなさい、と渡して、見送った。さて、さて、今年になって沢山の韓国人が来たが、スイカに有り付いたのは、このグループが1組であった。気持ちの高揚は、このように予想されないところで、順々に高ぶっていくのです。

2013年7月12日金曜日

動画を見て下さい。資料室、聖コルベの居室、閉じ機へ進む

「新しい発見ですよ」。動画を入れました。クリックしてください。見れますよ。7月6日(土)の日記に、資料室に展示してある「雑誌の閉じ機」を、松下修道士さんが、磨いて、油をさして、手を入れたところ、ゴットン、ゴットンと、動いた。その快挙を載せました。この閉じ機の専属・作業人は、ポーランド人修道士のゲラールドさんでした。イチバン多い時の部数は、6万部でしたから、毎月、6万回、この機械を操作したことになる。それは大変な苦労だった。修道士たちは、アセをながした。コルベ神父が、そっと、そばに寄ってきて、言った。「マリアさまのため、働きましょうね」「ハイ」。それで、すべてを了承し、騎士誌は発行された。昔の苦労を忘れては、ならぬ。動画は、資料室へ入り、聖コルベの居室を見て、奥の方へ、機械の展示へと進みます。ぜひ、見てください。聖コルベ館を訪ねた人は、懐かしいでしょう。まだ訪問していない人は、興味が湧くでしょう。1度は、訪ねてください。待っていまーすよ。電灯も、点けました。分かりますか。

2013年7月11日木曜日

介護で入浴が楽しい。ゲンキが出るよ。清潔にも、なる

写真は、介護のヘルパーさんです。優しくて、熱心な男性です。週に2回、午後から来てくれる。楽しみになりました。入浴の介護と、部屋の掃除を、お世話になっています。ほんとうに助かります。ひとりでは風呂の掃除が難しい。腰を曲げて、洗剤で洗っていると、すべって、危険が伴います。お風呂で、亡くなる老人も多いですからね。以前は、介護の資格を持った修道士さんのお世話になっていた。その彼が転勤しました。その延長線で、お願いしている。入浴している間に、部屋の掃除。入浴中の浴室を、ちょっと覗いて、「大丈夫ですか」と声をかけて、安全を確認してくれる。「その心がけが、安心を与えますよ」と、ほめてあげた。時間はちょうど1時間です。普通は、何がしの自費がかかりますが、原爆の被爆者は行政が支払ってくれます。ありがたいです。恵まれていることに、カンシャの毎日です。

2013年7月10日水曜日

予約の診察日。調子は、どうですか。まあ、なんとかです

早めに、出かける。泌尿器科へ。紙コップに採尿。数値が分かるまで、20分。待合室で過ごす。呼ばれて、診察室へ。「調子は、どうですか」「ええ、まあ」。先日、ステントの入れ替えを行なった。「尿の細胞診は、いくらでした?」「えーと。《1》です」。陰性の数値がつづいている、まずは安心する。「7月の最後の週に、夏休みで、東京へ行くつもりです」「いいですね。次の診察日は、いつ、しましょう?」「帰ってから、お願いします」。3分で、終わった。5年前、BCG結核菌で治療するという。結核で苦しんだ自分が、結核菌で癒される。奇跡や、と思った。それが実現した。ところが今度、60年前に、結核で苦しんで、癒されて、石灰化した所が、剥げて、流れて、つまって苦しんだ。「ああ、なぜ、自分だけが、こんなに苦しむんだ」。悩みは、ありました。アウト、近かぢかを意識した。それでも、イノチをつないでいる。分かりません。「かなしみは、わたし、ばかりでない。みな、もっている。自分で、たえて、いくしか、ないのです」。病院へ行くたびに、生かされているのを、実感します。★理髪店へ寄って、サンパツし、サッパリ、なりました。

2013年7月9日火曜日

聖コルベ館。20年前の特製のロザリオ。信仰は神からの恵み

1本のカリンの角材を、繰り抜いて、掘りぬいて、作り上げた珍しいロザリオが、聖コルベ館の資料室に、展示してある。これを作ったのが、群馬県高崎にお住まいの宮大工、浦野さんです。1992年の作だから、もう20年前になる。1本の角材を切り抜くのだから、大変だ。玉をつないでいるクサリの部分も、みな、つながっている。浦野さんが作ったときは、40歳だった。「体調も良くなった。信仰のお恵みにも浴した。息子たちも跡を継いでくれる。感謝をこめての恩返し、ロザリオを彫ろうと思ったのです」。浦野工房を訪ねて行ったこともある。今朝、縁あって、久しぶりに奥さんと電話で話した。「ロザリオは大切に、ちゃんと飾ってありますよ」。かつて浦野さんは、こう言った。「教会にお参りしても、神さまには出会えない。人間には出会う。そのニンゲンに迷うんです。信仰は、これで、いいのか、思うときもある。しかし信仰は、自分で選んだのでは、ない。日本のたくさんの夫妻の中から、神さまが私たちを選んでくださった。ほんとうの信仰を求めて生きたい」。当時の記事に、そう書いてある。


2013年7月8日月曜日

出会いは、勉強。大切なのは信じること、と女性は言った

昼下がり、突然、激しい雨が降った。あがるや、1人の女性が聖コルベ館へ。「雨、ぬれなかった?」「教会に居ました」「ああ、それは、好かった」。しばらくして話しかける。「きょう、出会う人に喜びを」と、胸の内。長崎の生まれ。高校卒業後、東京で暮らしている。母が、長崎に。3泊4日で、5年ぶり帰ってきた。カトリックでないが、教会に入ると、気持ちが落ち着くという。カトリックの幼稚園で育った。シスターの服の袖をつかんだ思い出が懐かしい。仏教だが、幼児の体験は大きく残っている。遠藤さんの本を読んでいる。「女の一生」の長崎ベンが、心なごむという。コルベ神父さんの本も読んだ。修道士のカオを、見詰めて、「とう、」と、言葉を詰まらせたから、ピンと、きた。「そうです」と返事すると、「ああ、お会いできて、よかった」。うれしそう。「ブログ、見ました。病気でしたね」「そう、昨年は、大変だった。ゲンキになったよ」。ネットで、メダイを知って、求めて、大切にしている。「長崎オラッショの旅」「十七歳の夏」も読んだらしい。そうなると、心が通じやすい。「いま、社会生活をして、イチバンたいせつなこと、何んですか」。女性は考えていたが、「信じること」と答えた。自分を信じる。自分には、悪いところ、善いところ、あるが、悪いところが目について、善いところは分からない。周りの人が、あなたにも、善いところが、ありますよと教えてくれる。素直に信じたい。自分も、周りの人の善いところを、見つけて、信じて生きたいです。「教会へ行って、新たなジンセイを開けば、また豊かな人脈を得るかも」と勧めた。きょう、出会う人に、喜びを伝えます。

2013年7月7日日曜日

平和とは、秩序の静けさ。愛されている人に、平和がある

子供たちの、心の反応。興味がありますね。近隣の中学生たち、30人が、先月、聖コルベ館に平和学習に来た。その感想文が送られてきた。これを読むと、若い、現代の少年・少女たちが、何に感動したのか、が分かる。せっかく、子どもたちから来たから、お返しに、1人1人に、自作のカードに相手の名前を書いて、送った。「きっと、喜ぶだろう」。自分でも、満足。さて、話の筋書き、「ニンゲンの本性は、助けない、許さない、困難が来れば、逃げる、にある。これらが無くならなければ、平和は来ない」。よく理解してもらえた。「だが、これを実行すると、なると難しい」。コルベ神父は、それに打ち勝った人だった。「身代わりの愛」「お礼を求めない心」。誰もが、感動する。最初、彼らを庭で迎えたとき、聖母の騎士の全体の説明をしたのは、よかった。これは必要です。「1坪、1円で、7.000坪買った」「幼稚園、学校だけでなく、教会も、聖コルベ館もあるんですね」★今日は、日曜日。ミサのとき、聖書で、「この家に平和が、あるように」の項目を読んだ。平和は、誰しも願っている。しかし、平和は、そんなに簡単には、やってこない。世界には、紛争が絶えない。★ヘイワと言えば、アタマの隅っこに、どこから入ったか知らないが、「平和とは、秩序の静けさ」と言葉が、なぜか、すんなりと出てくる。ホウチョウ(包丁)は危険だが、料理人が正しい用途に従って使えば、トン、トン、トンと、何事なく、そこには、秩序ある、静けさ、平和が、ある。そのように理解した。少年の1人が記していた。「ボクが、コルベ神父について知ったことは、長崎に6年間住んでいたこと、みんなに愛されていたこと、です」。愛されていた、というのが、いいね。

2013年7月6日土曜日

資料室の印刷物を、少し小奇麗にした。愛着がある展示物

資料室の機械、閉じ機が、動くようになった。松下修道士さんが頑張って、機械を磨いて、油を差してみた。すると、40年ぶりに機械が動いたのです。「おお、やったぞ」。長年、ゲラールド修道士が、ここに座って、騎士誌(雑誌)の背中に、閉じ、の針金を入れて、働いた。「今度は、昭和時代の電灯を吊り下げよう」「扇風機も、修理してみよう」。夢は、ふくらむ。昔のものを、大切に。思い出がイッパイ詰まっている。★2000年前に、生きて教えたイエスが、時空を越えて、我が心に生きなければ、真にキリストを信じ、愛したとは言えない。ああ、あのとき、本当に救われた、導かれた、その体験がなければ、前へは進めない。★①少年時代、なぜか、信仰に惹かれる気持ちが、あった。②原爆の日、いつもは憧れて、裕福な屋敷の前を通っていたのに、崩壊し、燃え尽き、負傷したご主人の姿を見たとき、この世の儚(はかな)さを、痛烈に感じた。③聖母の騎士に入ったとき、なぜか、印刷の機械やシステムに強く引かれて、好んで印刷所に出入りしていた。④沢山の病で苦しんだが、何とか、くぐり抜けて、この歳まで生かされた。⑤お恵みがあって、この道に入ったが、振り返ってみると、決して立派とは、いえない。恨みもあり、打算的で、感情の起伏も激しい。欲もあります。常に、戦いです。素直に、胸を打って、黙するしか、ないのです。

2013年7月5日金曜日

初金曜日は、祈りの日です。沈黙を守って、自己反省をする

初金曜日は、心を締める日です。起床から沈黙を守ります。食事のときも、話を交わしません。黙って、黙々として、食べる。時には、黙るのも、いいですよ。人は、よく、「聞いて、聞いて」と、しゃべり過ぎる。時には、「聞きます、聞きます」。黙っていると、いろんな声が聞こえます。鳥の声、風の声、心の声、あるいは神さまの声も、聞けるかも。午前11時過ぎたら、聖堂へ行きます。正午まで、黙想や、祈りや、聖体礼拝などがある。時には、告白も、します。心の清算です。4つの、反省を、します。①神への思い、祈り。②自分の身勝手さ。③隣人へ愛の不足。④日陰のお金、など。過ちを認めて、立ち直る気持ちがあれば、心は、サッパリとなる。★韓国の聖母の騎士会から、単行本「韓国語版・長崎のコルベ神父」が、52冊、届きました。2006年10月に発行された古い本ですが、発行元から送られてきた。聖コルベ館へ置いていると、ぼちぼち、売れるのです。韓国人の見学者も増えているので、買っていきます。聖コルベのマリアへの愛や、苦しみへの忍耐など、聖人は身近にあって、勇気と希望を与えてくれます。

2013年7月4日木曜日

雨の長崎です。あわただしい1日。梅雨は未だ明けない

町のクリニックへ薬もらいに出かけます。帰って来たら、午前中は、つぶれました。午後から、入浴の介護のヘルパーさんが来る。お世話になっています。助かります。2年前ぐらいは、入浴に苦労しました。介護師の免許がある修道士さんの助けで、やっと入浴していた。修道士さんが、老人施設に転任。その流れで、介護のヘルパーさんを頼みました。入浴しながらの会話。ヘルパーさんが、「ブログを見ています。近所の中学生も、来る。アメリカからも、来るんですね。こうして介護が出来るのも、ご縁です」など、最近の出来事を会話しながらの入浴も、楽しいです。ヘルパーさんが言った。「自分は子どもの頃から、景色の、絶景を見るのが、イチバンの幸せを感じる。何も考えないで、ただ見るんです。今ですよ。自分の家は、山の上に、家が段々にあって、イチバン上でした。そこからの眺めが、よかった。山が連なっていて、海も少し見えた。どこの景色でも、じーっと、その場で、黙って見るのが好きですね」。それを聞きながら、感動しました。大きな喜びがなくても、いい。小さな喜び、いま、景色を見ている、すばらしいと満足する、その心が尊いじゃないですか。写真は晴れた日に写した介護ヘルパーさんですが、今日は、雨降りでした。★長崎は、雨です、と題に入れていたら、コメントに「前川清」とあった。「ナガサキは、きょうも、アメ、だった」。つい、つい、口ずさむ。

2013年7月3日水曜日

いいカオしているのね。何か、ヒケツがあるの?さあ、ね

聖コルベ館に、女性が入ってきた。「アメリカに、30年、住んでいます。アメリカ人の夫と、年に1,2回は、長崎に帰ります。アメリカでも、コルベ神父さまは有名ですよ。よく知られています」。アメリカ住まいが長いからか、女性のお顔が、どことなく日本人離れしている。「ご主人のお年は?」「70何歳。修道士さんは?」「85だよ」「え、えー、ほんとう?お若いのね。肌もツヤツヤで、いいお顔している。何か、ヒケツがあるんですか」「あるよ」「教えて」「そう簡単には、教えられないよ」。昨日、日記に書いた。ポーランド人司祭が作った動画を、皆さん、220人が見てくださった。あの動画も、いい顔していた。「主よ、出会う人の中に、あなたを見い出すことが出来ますように」。訪問した女性から、メールが届いた。「遠藤周作文学館へ行きました。実家に、小崎さんの本がありました。メキシコの貧しいインデオの集落へ3度行き、祈りの時を持ちました。教育がなくても、親から信仰を学び、貧しくても感謝の気持ちで、神さまを語る姿に、祈りの尊さを改めて学びました。アメリカの友人で、聖コルベの生き方を教えて下さる方もいらっしゃるのよ」

2013年7月2日火曜日

年老いた病人はベッドで語る。ビデオに収録したポーランド人

昨年(2012年)の9月、ちょうど入院中でした。ポーランドから、2人の司祭が訪ねてきて、話を聞きたいというのです。ベッドの上で、原爆のことから、聖母の騎士のこと、コルベ神父の身代わりの愛など語りました。ポーランドへ帰った彼らは、ポーランド語で、1本のビデオを作りました。ビデオが送られてきた。ポーランド語は分からないが、ポーランド人の感覚で、おもしろい動画が出来ています。見るだけで、いいんです。病人の顔が、いいんです。老人の顔だが、皮膚がすべすべしていて、我ながら、感じが、いいんです。歯が、入れ歯でなく、自分の歯なので、少々気になりますが、自分の歯があるのは、自慢です。勘弁してください。ビデオの長さは、15分です。最後に、こう語っている。「これまで、大きな体験が、2つ、ある。1つは、原爆の、あの悲惨な、残酷な廃墟の丘です、主よ、あなたは居られましたか。その問いかけ。もう1つは、アウシュヴィッツのガス室の手前、部屋に入る前の、10m、30m、50m手前で、まだ殺されるか、分かっていない、不安のなかにある、その場所です。もし自分も同行していたら、問うたでしょう。主よ、あなたは、ここに居られますか。そして今、ベッドの上で、主よ、ここに居られますか。問いかけを、いつも、しているのが、今の、自分です。そう言ってベッドの病人は、黙して、目をうるおさせた。それでビデオは終わっている。1つの思い出になるので、ここに載せました。病人の表情を見てください。 《ビデオは下のアドレスをクリックして下さい。》 http://vimeo.com/65073505


2013年7月1日月曜日

朝、出かけた家族が、夕方、無事に出会う。それが平和

昨日の日記のコメントに、次の文があった。「小学校の教員をしています。12年前、修学旅行の平和学習で、小崎さんのお話しをうかがいました。朝、出かけて行った家族みんなが、夕方、また当たり前に、帰ってきて顔をそろえること。それが平和。その言葉、今も胸にあります。長崎の町が好きで、幾度も訪れています」(匿名さん)。12年前といえば、73歳です。まだ原爆の語りべをしていました。話は、こう、です。原爆の朝、お母さんといっしょに起きました。いっしょに朝ごはんを食べました。出かけるとき、「かあちゃん、行ってくるケンね」。お母さんは言葉を返さず、寂しい目で見送った。夕方、家に帰ると、原爆で家は燃え尽き、母は行方不明、「かあちゃん、どこに居るんだ」。叫んでも。返事はなかった。皆さん、修学旅行で家を出てくつとき、「行ってきます」と言ったでしょう。今度、家に帰ってみたら、家がない。家族が居ない、といった、どう、しますか?「マジかよ」。言うでしょう。でも、ほんとうだった。なぜ?簡単だよ。「戦争だったから。戦争は、していけない、誰もが、わかっているのです。それでも、戦争、戦争。絶えることがない。争い、殺し合いを、なくするには、どうしたら、いいでしょうか。人間は、ほんとうに悲しい存在です。母親、クララ、ワサ。45歳で原爆死。68年前の出来事です。(2006年、78歳で、原爆資料館を引退する)