2012年5月31日木曜日

5月、聖母月も終わる。母親が懐かしい。祈る姿が残る

母親、遠い人ですよ。生きていたら、112歳。昔の人なのに、忘れない。母の思いはタマシイの中に、刷り込まれて生きている。おかしいですね。母親からお乳といっしょに信仰を与えられた。電子板書で、北朝鮮の生まれ育った町の地図を見た。なつかしい山、川、昭和通り、学校、駅など、地図に残っている。北朝鮮の北部は貧困、貧しいとテレビで報道されているが、私の住んだ町は、家々の並びから普通に思えた。この町で、浦上出身の母親は、独り黙々とカトリックの朝夕の祈り、大斎、小斎の務めを忠実、熱心に果たしていた。その真心のある姿を忘れない。人生に大切なものは何か。この歳になってタマシイに残るのは、母から受けたカトリックの教えではないか、それだけを今は見詰めている。人生は決して平坦ではない。修道士とて、迷いもあれば、闇もある。良心に反した行動も行なった。しかし今はすべてを受け入れる。つながりですよ。母につながり、神につながる。つながりが、大事と思います。今朝、聖務日課で祈りました。「あなたがイキを吹き込むと、人は生きるものとなる」。母につながるイノチ。原爆の朝、別れた母親に、今でも会えるか、本当に、つながる母親に会いたいと思います。

2012年5月30日水曜日

長崎を愛した作家・遠藤周作さん。文学館で2年間、展示

外海の「遠藤周作文学館」の展示が、今年の5月19日から、2年間、遠藤さんと長崎になります。もともと文学館は、遠藤さんの「切支丹の里」「沈黙」「女の一生・一部、二部」をテーマに建てられた。しかし年月を経て、同じ展示でなく、遠藤さんの様々なジャンルで取り上げられ、毎回、多くの入館者を得てきた。この度は、「長崎」ということで、また元に戻った感がある。期待して訪問してよいだろう。私も近々見に行きたい。「女の一生・第二部」で、遠藤さんとは関係があるので、興味がある。遠藤さんは長崎を愛した。文学館から、展示説明の冊子(40ページ)が送られてきたが、コルベ神父の写真や、私の短い原稿も載っている。遠藤先生は私に言った。「小崎サン、あなたはボクに、修道士になる前、原爆で、助けを求める人の手を振り払って逃げた話をしてくれたでしょう。アウシュビッツとよく似た世界の中におられたわけだ。ああいう時、パンを誰も与えることができない。有名なフランクの『夜と霧』に、ごく少数であるが、寝ている病人の枕元に、今日の分のパンを置いていく人たちがあった、とわずか2,3行に書いてある。そういう、ごく少数の任が人間の尊厳を救ってくれた。人間はまだ信じるに足りると思わせてくれた。その頂点に、その結集したものの中に、コルベ神父が居られる感じがしたわけです」

2012年5月29日火曜日

岡山から見学の金婚夫妻。騎士誌の愛読者です。お幸せに

見学者が来たとき、声かけられる。喜ばしい声は次の5つです。①「小崎サンじゃないですか。会いたかった」と喜ぶ。②「騎士誌、読んでいます。小崎サンの本も読みました」と愛読者。③「ゲンキそうですね。顔色がいい」と誉める。④「え?そんな歳?10歳若く見える」とビックリ。⑤「ゆっくり居らせてください。お弁当、食べていいですか」と、結局2時間以上居た。そんな5つの声をかけてくれたのが岡山から来た写真の夫妻です。2年前に金婚式を祝った。結婚後に洗礼を受ける。子ども、孫、家族は教会へ通っている。夫婦に、本当にカトリック信者だなあ、というオーラを感じた。奥さんの話が思い出に残った。「この度は夫婦だけの旅。目的は浦上天主堂と聖母の騎士。カトリック・サンターに泊まって、浦上天主堂の朝ミサへ。(と言いつつ、バッグから、2002年8月号の古びた騎士誌を取り出した)。ロンドン在住の田谷諒子さんの記事に、「一時帰国して長崎へ、浦上天主堂で、昔も今も変わらず、女性全員、白いベールを被っている。秘蹟を授かる信徒の心構えの大切さを思い知らされた」と書いてある。今朝、浦上天主堂へ行くと、やっぱり皆さん、ベール姿なので感動しました。奥さんが見せた古い騎士誌を確かめながら、感心やなあ、と奥さんの熱意に思わずホロリとした次第です。最初は無口だったダンナさんも「高齢になって、先が近くなって、行くべき所はどこかな、教会です。子ども達も教会であってほしい」と言い残して、岡山へ帰った。

2012年5月28日月曜日

新聞記者が「マリアの信仰」。6月3日の記事、お楽しみに

東京から、経済新聞の女性記者が取材に来る。「5月13日から6月3日まで、毎日曜日、『マドンナの系譜』の連載記事を載せている。6月3日に、聖母の騎士のルルド祭の写真と、キリシタンの雪のサンタ・マリアの写真を載せて、記事を書きたいです」という。6月3日の日経新聞を楽しみにしている。ついでに記者さんは、私と2時間ほど話して、キリシタン、原爆、コルベ神父など聞いてくれた。これは記事には関係ないが、記者さんが何を聞くのか、私の方が益(タメ)になった。「修道士になられたが、幼い頃から、宗教の傾きがあったのか」「長崎という町にとって、聖母マリアはどんな存在ですか」「かくれキリシタンの人々のマリア信仰について教えてください」「コルベ神父と聖母マリアのつながりは、どうですか」。コルベ神父は『けがれなき聖母マリアの信仰』を大切にした。フランシスコ会の中世期からの伝統でもあった。けがれなきマリア・ニエポカラナ。けがれなき聖母の町・ニエポカラヌフ。コルベ神父がこの言葉を作った。不思議のメダイのマリア、ルルドの聖母のけがれなき宿りに通じる。コルベ神父が長崎上陸後、真っ先に導かれたのは、大浦天主堂のマリアさまの祭壇であった。聖人の行ないには、ムダがない。

2012年5月27日日曜日

ルルド祭。聖母マリアは多くの人を恵みに包み込んだ

今朝は、快晴です。10時30分から、ロザリオが始まり、ルルドへの坂を、祈りながら登りました。コルベ神父がルルドを開いたのは、1932年(昭和7年)5月1日、80年前になります。いろいろな歴史があります。戦前はルルドのマリア像が度々壊された。戦争中は憲兵隊から監視され、ポーランド修道士たちは苦難でした。原爆後、被爆医師・永井隆博士は、負傷した傷をルルドのお水で癒された。永井博士は「ルルドの奇跡」の原稿を書いた。戦後の繁栄の陰には、心に苦しむ人も多かった。ルルドの聖母への祈りで力づけられた。ルルドは時代を超えて、変わりません。多くの信徒が集い、聖母マリアへの賛美歌と祈りが捧げられた。聖コルベ館にもお客さんが多かった。アメリカ軍の陸軍大佐夫妻、ポーランド出身の大学教授、大阪・境から30年間、年に2回、必ず参加している80歳の男性、心臓に器械を入れているので、5、6回休まないと登れないと嘆いていた。マリアさまは優しくこれらの人を皆、包み込まれていた。約200人の信徒が祈った。

2012年5月26日土曜日

話の裏に隠された基本的な項目に、興味がある。沢山知りたい

オバマの温泉へ行ったとき、左側の女性(先生)が色々な話をしました。その話のなかで、2つのことが心に残りました。①信仰が、有るか、無いかで、違うこと。②いま苦しくても、その苦しみには、意味があること。①の話。純心の会長さん、江角先生。亡くなる2週間ほど前、病気のため苦しかった。見舞いに来た人が「先生、苦しいときは、苦しいと言った方が、楽になりますよ」。江角先生は、「ありがとう」と感謝されて、「どうしても天国へ行きたいので、がまんします」と。私はこの話を聞いて、これこそ信仰者の言葉です、と思いました。なぜなら、以前、私が病で苦しんだ経験から、病人に対して、10の苦しみがあれば、7ぐらい忍耐して、あと3は文句を言ってもいいのだよ、と言っていたからです。やっぱり全部忍耐するのが信仰者です。②の話。この女性先生は、県立女専を出たあと、女専に残って助手を勤めた。あるとき校長と意見の対立があって、解雇になった。傷心の先生は、学校の坂を下っていると、下から初めて見るシスターが来られて、ぐう然出合ったのが、きっかけで、純心の英語の先生を30何年勤め、信仰にも入った。神さまのお恵みではないですか。本当によかったですね。あの校長さんが解雇にしなければ、また人生は変わっていたかも。私は話を聞きながら思うんです。★信仰が有るか、無いかの違い。★苦しみにも意味がある。その基本が私には、いま興味がある。話しは、あとで、付いてくる。

2012年5月25日金曜日

リフレッシュ、深呼吸をしよう。さあ、また始めよう

海風に吹かれて、さわやかな気分になった。天草灘を渡ったときの写真だ。リフレッシュだよ。ニンゲンって、現実を離れて、自然の恵みに接すると、身も心も清らかになる。気持ちも落ち着く。5月16日、泌尿器科の主治医は書いた。「平成21年(2009年)以後、膀胱ガン再発は認めない。再発確認の定期検査は必要と考える」。お医者さんも「治った」と書いてくれた。あてから3年が経っている。新しい診断書を、市役所の原爆対策課に出した。ボウコウばかり気にしていたら、今年は腎臓で3回入院し、苦慮した。だが、その後は、安定し、今は、尿もきれいになった。この分だと、今年はゲンキになるぞ。そんな気持ちが湧いてくる。聖コルベ館での出会いを楽しもう。妻子さんが来て言った。「深呼吸をしなさい」「ああ、それは賛成だな。少年の頃、肋膜炎で水が溜まったから、肺活量が低下している。やってみよう」「小崎さんは、小崎さんで、いいんです」とも言う。それも賛成だ。私は、私だけのジンセイだ。今朝の祈りました。「病気に苦しむ人、からだの不自由な人を慰め、力づけてください。ニンゲンの弱さの中に示された、あなたの力を知り、希望をもって試練に耐えることができますように」

2012年5月24日木曜日

男はつらいよ、寅さん大好き、人情あふれる生き方がしたい

3日間、クルマの運転担当だった李神父さんを紹介します。15年前に、23歳のときに東京へ来て、2年間日本語を学び、4年かけて大学を卒業した。日本へ来て、好きになった映画は、『男はつらいよ』。自分を犠牲にして、お節介をやく寅さんの人情味あふれる生き方に心を引かれたそうだ。お金やモノの追求ではなく、人間と係わり合いが持てる仕事をしたい。司祭になりたいと、気持ちが高まった。お母さん(オモニ)は、いつもロザリオで明け暮れる熱心な信徒で、応援した。お父さんは、やや不満。結婚して、家庭を築いてほしい。それでも東京のコンベンツアル会に入会した。29歳だった。再び勉強が始まる。入会後に、3回、ソウルへ帰った。その度に、父に変化が起こっている。「息子が司祭の道を歩む以上、今の信者生活では申し訳ない」。父は教会のミサにも一緒に行くようになった。いまは李さんは、司祭になって、活躍している。この度は、多忙なのに、無理いってお願いし、快く応じて、私たちを処々方々へ連れて行ってくれた。やさしい心のお若い神父さんだった。お母さんは、あるとき言ったそうだ。「普通の神父でなく、聖人の神父になれ」

2012年5月23日水曜日

天草の教会は、静かな丘にあった。キリシタンの信仰を今に

オバマ温泉・富士屋さんから、天草へ向かった。日帰りの巡礼だった。天草には、3つの教会がある。本渡、大江、崎津。写真は大江教会です。ガルニエ神父(フランス人宣教師)が造った。私が初めて天草へ行ったのは、昭和32年(1957年)秋だった。ガルニエ神父の賄い男性は、茂助です。茂助の養子が、森口等さん。等さんから、ガルニエ神父の思い出を聞いた。「お前たちが、山へ行って、危険に会うたとき、カカ来てくれ、とオラブように、罪に落ちそうになったとき、天のカカ、来てくれと、頼むのじゃよ」「儲けても、いいが、チキリの目はゴマカスナ」「ヒトのものは、盗むなよ」。神父は分かりやすい言葉で説いた。ドイツとフランスが戦争をしたとき、「新聞はどうなっているか。フランスは大丈夫か」。フランスが無条件降伏する。等さんが「神父さま、お気の毒なことになりました」「ああ、負けたか」「いいえ、負けたことじゃありません。パリの有名な建物を破壊しないために、手をあげました」。その傍で、学校の生徒が「フランス、負けた」と、はしゃいで通った。神父は「この歳になって、恥かいた」と、オイオイ泣いたと、等さんは言った。昭和16年、太平洋戦争前に、ガルニエ神父、82歳で神に召された。あの森口等さんはどうなったであろうか。消息を聞くのを忘れた。

2012年5月22日火曜日

島原半島へ。雲仙のツツジが見事。オバマ定宿、2泊3日

今朝は、幸いに快晴。最近は外出するとき、軽は運転しない。李神父さん(東長崎・教会の助任)の運転で、出かけた。2ヶ月ぶりの温泉・富士屋さんへ。途中、雲仙に登る。いま、ツツジ(ミヤマキリシマ・赤色)が見ごろです。風にも吹かれて気持ちが、いいね。連れの女性2人は、浦上教会の信徒です。女性たちに急(せ)き立てられ、後ろに見えますロープウエイ乗り場まで、ゆっくり歩いて行った。もう、足が前に進まんよ。私が初めて雲仙へ来たのは、1949年(昭和24年)秋、小神学生の卒業の修学旅行で来た。交通の便利は良くないし、乗合バスで長時間かかった。宿からこの丘まで歩いて登った。途中で、大雨に会う。雲仙の雨は、とにかく大粒だった。ほうほうの体(てい)で旅館に戻った。一緒に来た舎監のポーランド修道士は修道服の着替えがなく、浴衣を着せられ、ダルマが浴衣を着たように、奇妙に見えた。物資がない時代で、枕には紙を巻いていた。その紙に「みこころ安らかにお眠りください」と書いてあったが、韓国人のノウ神学生が、みんなの紙を集めて、鼻紙にした。彼は蓄膿症だった。神学校の炊事、カシアノ修道士さんが持たせたポーランドのお菓子『フルスチイ』が残ったので、宿の仲居さんに上げようとなった。上げる係りが韓国人のノウ神学生に当たった。彼は「恥かしい」という。フスマの所で予行練習をした。「こう、仲居さんが入ってくると、このように上げるぞ」。突然、仲居さんが入ってきた。ノウさん、ひっくり返った。ノウさんと私は特に仲良しだった。あの頃は、何をしても笑った。こんなこと書いても怒らないだろう。その頃は幸せだった、苦労はなかった、と思うよ。ノウ神学生はローマに留学して、司祭になり、韓国で宣教した。朝、独りで運転して、畑に突っ込んで、亡くなった。老人は、いろんな事を思い出すよ。

2012年5月21日月曜日

病気、苦しみに、意味がある。実例をもって教えるのが信仰

「あなたは、ガンです。半年のいのちです」とお医者さんから言われたら、これはショックです。あと半年経てば、もう自分という存在は無くなってしまう。人生は終わってしまう。誰もが死にたくない。恐怖が全身を襲うだろう。人間は所詮、死ぬ存在だが、年期を告げられると耐え切れない。このガン患者の救いはどこにあるのか。伊藤武子さんが、お医者さんからガンを告げられたとき、教会の親友の武田佳代子さんに直ぐ電話をかけてきたという。「やっぱり、ガンだったのよ」。電話の奥で、なき声が聞こえた。2年前の桜が咲く頃、伊藤武子さんは武田さんと聖コルベ館へ巡礼に来た。そのとき伊藤さんは私に、「日本26聖人のDVDを下さい」と願った。私は「個人には差し上げていません」と言いつつも、その熱意に負けて、お渡しした。伊藤さんは長崎巡礼を楽しみにしていたが、昨年は、3・11の大震災のため中止。あと1年、待とう。それが今年だったが、伊藤武子さんは神に召された。伊藤さんは日本26聖人の映画を観たであろうか。それにしても本当に悲しい。もしも私たち自身が病み、ガンで、あと半年のいのちですと言われたら、安らぎ、救いはどこに有るのか。信仰が、有るか、無いかで、希望が大きく別れるだろう。伊藤武子さんは「わたし、必ず、復活するから」「死ぬのは、いっとき。だから大丈夫」と言って亡くなった。神さまの元へ帰ります。今まで神に祈り、あこがれ、罪を悔やみ、つながってきた。いま神の愛と永遠のいのちに戻ります。希望がある。現実を受け入れるというよりも、未来を見詰める。だから私たちの信仰は、苦しみや病気の悲しみにも意味がある。それを実例をもって教えてくれる所が長崎だった。

2012年5月20日日曜日

苦しみ、病気は、神のみ旨と受諾するなら、意味がある

東京から来た2人の女性に聞いた。「なぜ、そんなに長崎巡礼にこだわるのか」。2人が言うには、自分たちはテーマが決まっている。それは「聖母の騎士、浦上、大浦、外海、日本26聖人」。観光地などは行かない。はっきりしている。そして毎月、学習会を開いてきた。「なぜ、そこまで?」。2人が言う真意は、こうだ。自分の教会は、信徒も少なく、さびしい。周りの人も、その日、暮らし、楽しければ、それでいい。普通に、生活に追われている。私たちの考えは、不幸であっても、病気であっても、それは与えられたもので、意味がある。み旨を感じる。そう受け止めると、人生がガラリと変わる。そういう意味の答えが、長崎には有るんです。浦上に、四番崩れ、原爆、永井博士、お告げのマリア修道会、岩永マキ、聖母の騎士にはコルベ神父、外海へ行くと、バスチアンさま、ド・ロ神父、それらの人たちの中に、意味有る人生がある。信仰者の苦しみは、主イエスと共に苦しみ、祈ることで、永遠のいのちに導かれる。神において希望がある。私は、松下修道士さんの運転で、2人を枯松神社や、バスチアンさまの隠れ屋敷(写真はバスチアンさまの隠れ屋敷のイメージ・外海にある)に案内した。伊藤武子さんは、苦しみの中にも、希望のうちに耐え、病気に負けず、最後まで長崎巡礼を望みながら、神に召されたと、事実を語って聞かせた。

2012年5月19日土曜日

信仰の友の遺影を抱いて、聖コルベ館へ。「来ましたよ」

東京から、2人の女性が来た。手に遺影を持っている。遺影の写真は、故・伊藤武子さん。左の武田佳代子さんと2人で、2年前の春、桜の咲く頃にいっしょに来た。亡くなった伊藤さんは、聖母の騎士のルルドへ登る坂道に、大きな、見事な桜が満開の姿を見て感動した。コルベ神父のルルドの聖母も美しかった。「毎年、桜の時期に、長崎巡礼に行こうね」。旅の仲間に、同じ教会の友人、橋本晴子(写真・右)も誘った。3人は毎月集まって、長崎の旅の学習会を開いて、準備していた。夢があった。希望もあった。3人は心待ちに、1年を過ごした。長崎の桜の開花は、3月下旬である。あと2週間で、巡礼旅行実施か、と思われたとき、あの3・11の大震災が起こった。3人の住む町も、大揺れに、揺れた。あまりにも災害の深刻さに、この年の巡礼は中止した。あと1年、学習しながら待とう。ところが、4月になって、写真の伊藤さんにガンが発症する。6月、武田さんは、聖コルベ館に、「ルルドの水を送ってください」と願った。私は早速、お送りした。8月、伊藤さんは大手術を行なった。みんなは心配する。快復を祈った。秋になると、伊藤さんはゲンキを取り戻した。「これなら長崎へ行ける。聖母の騎士のルルドへ行ける」。夢も、期待も失わなかった。2012年正月、伊藤さんから私に年賀が届いた。2月まで、3人は学習会を開いた。しかし伊藤武子さんの体力は弱っていた。それでも伊藤さんは長崎行きをあきらめなかった。3日後、入院した。灰の水曜日と、復活祭の翌日、武田さん、橋本さんの2人は伊藤さんを見舞った。「長崎へ行きたい」。それが伊藤武子さんの遺言だった。闘病のすえ、今年の4月21日に神に召された。残された2人は遺影を大切に抱えて、聖母の騎士へ姿をあらわした。「武子さん、コルベ神父さまのルルドですよ」


2012年5月18日金曜日

ワインは、もう飲めないか?肝臓か、腎臓か、お酒の行方は

昼食は、外食した。「カンパーイ」と、ワインを挙げ、少々飲んだ。顔が真っ赤になる。はずかしい。楽しい食事会だった。自室に戻ったのは、2時ごろ。しばらく眠った。目がさめて、尿を出したら、濃い尿がわずかに出た。なにやら綿のような異物が浮いている。「おかしいなあ、ワインのせいか」。これまでもワインの後は、尿が出ない感じもある。影響が本当にあるのか。先日、お医者さんがバイパスの管を抜いたとき言った。「尿が出なくなったら、朝から診察に来てください」。いやな予感が、アタマをよぎる。なぜ、こんなに尿のことで一喜一憂するのか。昨夜は大量に尿が出ていたではないか。「もう疲れたよ」と、内心、ぐちった。夕方、聖母月のお勤めがある。尿は僅かにしか出ない。不安な気持ちのまま、ロザリオ、聖務日課の祈りを果たした。アタマがクラクラする。それでも辛抱して、ゲンキな声で祈った。「もう、ワインを飲むのは、止めるか」と秘かに考える。いつまで続くか分からないが、とにかく刺激物は腎臓のため良くないだろう。だが、お酒をやめるのは、寂しいなあ。祈りは約1時間。普通は途中でトイレに行く。行ってはみたが、調子は出ない。祈りの後は夕食だ。やっと「出ータ」。夕食の途中で、「おお、ダイジョウブだぞ、これは」。あんまり考え過ぎじゃないか。もう少し、おおらかに任せよう。やっぱりワインは飲むことにするか。

2012年5月17日木曜日

今朝、静かな時間に、考えたこと。

①5月も早や、半ばになった。今年になって、3度、入院した。腎臓の結石に振り回された。一応、落ち着いたので、これからゲンキになるだろう。期待している。②ブログ(日記)を書き始めて、4年目に入った。2009年4月だった。ガンと病院で言われて、人間、どのように落ち込んで行くのか。書き留めておきたい。そのような短絡的な気持ちで、毎日、書きつづけた。考え方の変遷が、記録されてきたと自分では思う。オバマ温泉宿にも通ってきた。③今年になって、入院がつづいたので、軽は今のところ運転はしない。「もう運転は歳を考えて、やめた方が、いい」と周りの者にも言われる。だが便利性はある。④「祈りを忘れるな」「自分を捨てて、人のために尽くせ」「キリストの使命に生きよ」「その場にあって誠実に生きよ」など、いろいろ言葉では挨拶のように聞かれる。だが実際は難しい。言葉よりも、行ないが欲しい。「言葉は、もう、いいです。見せて、ください」。⑤いま、チカラを入れているのは、(1)グログ(日記)を毎日、書く。(2)騎士誌に毎月、書く。(3)聖コルベ館での出会いを大切にする。昨日は、韓国から大司教さま(89歳)が来られた。杖なしで、ゆっくり歩かれる。「祝福をお願いします」。アタマを下げた。⑥尿がじょじょに綺麗になっていく。喜びが湧いてくる。ゲンキも出る。⑦若い頃、生活や修徳面でお世話になったポーランド人司祭、ミロハナ神父。彼の「語録」を書き留めておけばよかったと今、後悔する。信仰面で役に立ったであろう。⑧お年寄りが語る、昔の信仰の実話を、聞いて、書き留めたいと思う。シスター経営の老人ホームへ行くと、聞かれそう。こんなことを考えている。

2012年5月16日水曜日

高校生たちに、もまれて、ゲンキだぞ、の叫び。よかったな

管を抜いたら、ゲンキが出たぞ。なんだかカラダの調子が良くなった。気分的かな。イヤ、尿も、じょじょに綺麗になっているようだ。うれしい。幸いだよ。ファイトも湧いてくる。横浜から修学旅行の高校生たち、3部に分かれて、キリスト教コースが、総勢、69人がやってきた。燃える心で話したよ。だがイマイチ、30分の話に、時々、口元が思うように開かない。それでも気持ちだけは、爽快だった。高校生たちは、熱心に聞いてくれた。眠る者は目につかない。彼らの熱気にもまれると、更に気持ちが高揚してくる。「見返りを求めず、自分を、相手に与えてあげる。これがニンゲンとして最も素晴らしい行為です」「生きていることの、喜び。自分のチカラじゃ、ない。カンシャしよう。受けた恩は、返せない。別の場所で、別の人に、返していく」。高校生たちには、そう、語りたい。「いまから、外海へ、遠藤文学館、ハウステンボスに泊まる。それから平戸へ行きます」。いいなあ、いいコースだよ。彼らを温かく見送った。

2012年5月15日火曜日

からだの調子はどうですか?サッパリと、なる。希望が出る

泌尿器科の予約診察日。タクシーで病院へ。尿を検査にまわして、廊下でしばらく待っている。この時が、いちばん気持ちが重い。からだも、心も、小さくなっている。「誰の、言うことも、聞きます」という感じになる。呼ばれて、診察室へ。「バイパス(管)を抜きましょう」「ボウコウも診てください」。ふくらみのある奇妙な椅子に、下半身、裸になって、座る。椅子がくるっと、回って、そのままベッドになる。何十回、こんな姿になっただろう。子供の頃、いたずらしたカエル、そのカエルがヒックリ返って、天井を見ている姿を、いつも思い出す。「カメラを入れますからね」「ウムーン」「管を抜きますよ。少し痛みます」「ああ、イ、テ、イテテ」。あっと言う間に、終わった。取り出した黒いゴム管を見せてくれる。「ボウコウはどうですか」「いまのところ、変化ありません」。看護師さんに、騎士誌の6月号を2冊、渡した。「お医者さんにも、見せてください」。病院を出るとき、なんだか爽やかだった。これでゲンキになるぞ、そんな希望が湧いてきた。帰りに、行き着けの理髪店で、タクシーを降りた。アタマも、さっぱりとなる。

2012年5月14日月曜日

み旨のままに。問いかけに、まことを尽くすのが人生だ

テレビの画面で、哲学者が言った。「いま、自分は、この時点で、何を、成すべきか」。自分への問いかけである。そのことは、いつも私も考えている。自分は何を成すべきなのか。残り少ない人生に、後悔しない生き方とは何か。成すべき何かは有るのか。知りたい。哲学者は、「その問いに対する答えは、自分の内から出てこない」という。何を、すべきか。「問いかける者がある。その問いかけに、まことを尽くして、答えていく。それ以外にない」と。問いかける者とは、私たちの信仰でいえば、神であろう。その声に、「み旨のままに」と応える受諾であろう。進めるか、退くのか。「心を騒がせるな」と、その問いかけは、まず語りかけているように思う。「み旨のままに、まことを尽くして、応じていくのが、私の人生だ」。とは言うものの、現実は、そう甘くはない。騎士誌の6月号に「み旨のままに、春」という記事を書いた。いつも思う。「問いかける者」を、もっと強く感じたい。それなのに、自分は何を成すべきか。後悔しない生き方は、何か。いつも問いかけで終わっている。いまを、セイ一杯、生きること。現実は難しい。膝は、むくんで、まともに歩けない。耳も遠くなったので、食卓での会話も聞き取れない。不便さ、いっぱい。今を生きているのは、惰性でないのか。それでも、生かされているのは、ありがたい。目をさましたい。遅々と進まぬ、か弱い行動であっても、見ていてくださる御者がいる、と信じたい。問いかける御者は、私の名前をご存知だ。希望をもって呼吸しつづけたい。足腰、痛んでも、歩むしかない。きっと、輝くものが前方には、ある。今日も1日、喜びのなかで生きていけそうだ。

2012年5月13日日曜日

京都から来た家族。いつまでも絆を大切に。信仰が幸せ

一団が、入館した。急に、大人数が入ってくると、つながりや、区切りが分からない。それで、とまどってしまう。圧倒されることもある。「どこから来ました?」「京都から」。しばらく様子をうかがいながら、「皆さん、カトリック?」「ハイ、そうです」。その中の1人の男性が、「私の洗礼名は、コルベです」と言った。コルベが居るならと、説明にも一層の熱意が入る。コルベ神父の部屋では、特別に祈った。ビデオを見せた後、「どういう関係?」。私の右に居るのが、お父さんで、5人は姉、弟たちだという。「それはお揃いで、めずらしい」。こんなに5人揃うことはないのだそうだが、この度はみんなで長崎へ来た。お父さんが16歳のときに洗礼を受けて、お母さんもカトリックで、5人も皆、洗礼を受けた。こういう家族は、つながりがあり、温かさを感じる。私は原爆の日、母親と別れた思い出を聞かせ、コルベ神父は家族思いだったことも聞かせた。私みたいに、兄弟が全く居ない、一人っ子からすれば、兄弟が多いのは、うらやましい。仲良くしてほしいと願う。なんだか、さわやかな気持ちが残る入館者たちだった。

2012年5月12日土曜日

エリザベットさん、ご縁が深まる。日記にコメントを

元日のエリザベットさんは、3泊4日の長崎の旅を終えて、東京へ帰った。長崎空港へ着いて、最初に来たのが聖コルベ館です。そして帰る日も、最後に聖コルベ館に来て、静かに時を過ごしました。「ここが好きなんです。落ち着きます」。面白いですね。今年の元日に、最初に来たのが、このエリザベットさんと、娘さんだった。ところが今度は、5月の連休に、岡山から青年が来て、「実は私は、大晦日に、年の最後に来たパウロです」と言うじゃないですか。パウロで、年を終わり、エリザベットで年が明けたわけです。つながり、ですよ。そのことを日記に載せた。それを見て、エリザベットさんは、もともと「長崎へ行こう」の気持ちに決心がついた。私は、そういう「つながり」が面白いんです。正月から、コルベ神父さまの本や、遠藤周作の女の一生も、「ゼノ死ぬひまない」も読んだという。「今度の長崎の感想は?」「サイン帳に書きました」。サイン帳を見る。正月のサインも見た。娘さんのサインもあった。「幼稚園のときに絵本で読んだコルベ神父さまの部屋に来て、嬉しい」とあった。コルベ神父の素朴な部屋は、誰でも、温かく迎えてくれる。愛の花びらは、いつまでも、枯れることは、ない。正月の感想は「悟」と言ったが、今度は、私には「楽」の一字に思えた。

2012年5月11日金曜日

神さまは常に、そばに、付いておられた。1歩、1歩に恵み

写真は、外海の海です。周りの世の中が便利になって変わろうとも、あの海だけは、昔も今も変わらない。人の心や、信仰は変わったであろうか。騎士誌の5月号に、1月、2月の入院のこと、『命をつなぐ』を書いたところ、外海のお年寄りの女性から、励ましの手紙が届いた。なんと、便箋に9枚も、改行もなく、いっぱいの字で書かれていた。「記事に驚きました。その後、体調はどんなでせうか」「小柄な身体で、あちこち痛む辛い体験を重ねながら、涙をかみしめての人生路に、慰める言葉も胸一杯になりました」「小崎さんのお力で、多くの人様との出逢いも頂いて、旅人にお茶一杯の、この世の仕事をあたえられ、生きる勇気と励みに、喜びと嬉しさをどれほど感じたことでせう」「くれぐれもお身体、大切に、体調が良くなられたら、おいでください」。ありがたい励ましの手紙でした。そして信仰の思いも書かれていた。「神さまは、常にいつでも、そばに、ついておられたと、今振りかえって、歩いてきた1歩1歩に恵みが満たされたことが、信じて祈ることの大切さを、老後の生活に幸せであったと感謝しています」「人は皆、キリストの身体の一部を背負って、手となり、足となって、教会の一員信徒としての務めを自分なりに背負って生きてきました」。この手紙をくれた女性こそ、山崎政行さんの妻、スマ子さんだった。その名文章に私はおどろいた。「ぜひ、来てください。待っている」と願っている。そこで、この度、「東京からのお客さんを連れて来ます」と電話で伝えると、スマ子さんは、まぜめし、伊勢えびの味噌汁などを、準備していたのだった。手紙には、昔の苦労話も記されていた。「昔は、芋カンコロめし、梅干しの塩漬け、大根の漬け物に、水をのんでの粗末な食卓にも、イエズスさまが一緒に座っておられるとぞ、父母の厳しい教えでした」「母は、ド・ロ神父さまの教えを受けて、祈りを、とても大切に教えた。神の存在を教えてくれた父母に、いま親の年に近づいて、しみじみ思い感謝している」「母の苦労、涙を大事にしたいと、兄と姉と3人、親孝行しようと、兄も姉もやさしい思いやりの中で育ったので、少々な苦労は、母にくらぶればと、がまん出来た」「近所は皆、仏教で、とても優しい思いやりのある人達で、仏様のめしを毎朝、下げるとき、兄が、おじさん、キリシタンはやめるケン、その仏様のめしば食わせてくれんのう、キリシタンはやめんで、よかケン、冷や飯をよばれたと、大笑いした。兄も60歳でなくなった。お世話になって大きくなったので、神父さまに話して、霊名はないけど、ごミサを奉げた。人間は心です。愛の行ないは心から、思いやりから始まると私は思います」

2012年5月10日木曜日

元日のエリザベットさん、千草さん、外海巡礼。山崎さん宅へ

登明日記の愛読者が、遠方から訪ねて来たのは初めてです。元日のエリザベットさん、名前は、美和子さん。空港からレンタカーを運転して聖コルベ館に来た。宿泊はカトリック・センター。私を介護をしてくれた千草さんの家も、センターに近い。2人は仲良く、到着の夜は、浦上天主堂の被爆マリア堂での聖母月ロザリオで祈った。次の日、美和子さんが、「外海へ行ったことがない」というので、千草さんも一緒に、レンタカーで出かけた。3人で聖コルベ館を出て、女神大橋をわたり、海の見える道を北上する。美和子さんは運転しながら、日記で読んだ、「手術前にウナギを食べたこと」「洗濯しながら千草さんがロザリオを唱えること」など、祈る姿に、「さすがは長崎ですね」と、笑いで、はずんだ。日記から「生かされている、喜び」を感じるそうだ。朝、読むと、1日中、その中の文面を思いつづけることもある。熱心に読んでくれて、嬉しいじゃないですか。「この世だけの勝負ではダメ。いま苦しくても、あとで神さまからの意味が分かる」「病気や、迫害されて、なんで、こんな目に会うのだろう、思うが、あとで意味がわかる」。黒崎の赤レンガ教会や、ド・ロ神父教会で祈った。幸い天候がよく、遠藤周作文学館からの海の眺めは、心を癒してくれた。ド・ロさまソーメンを食べる。そのあと、黒崎信徒の山崎政行さん、スマ子さん夫妻を訪ねた。さすが外海の信者さん、熱意あふれる信仰心に圧倒される。2時間、政行さんの説明は止むことなかった。最後に、奥さんの手料理、まぜめし、たけのこ、伊勢えびの味噌汁が、大きなお椀で出た。黒崎教会の石段でつまずいて倒れたよ。ああ、やっぱり歳だな。参りました。

2012年5月9日水曜日

元日のエリザベットさん、「来たーッ」の感じ。再度、面会

連休が明けた日、東京から電話があった。「元日のエリザベットです。長崎へ行きます。お会いできますか?」。今年の元日、聖コルベ館に、「最初に誰が来るか?」と興味深々だったが、見学者は待っても、待っても、誰も来ない。閉館少し前に、やっと来た母と娘(17歳)が居た。そのお母さんからの電話だった。最近は「登明日記」に、よくコメントを寄せている。私の方から働きかけなかったが、いつかは縁があるものと思っていた。それが、この電話だった。「いらっしゃい、待っていますよ」。長崎空港へ着くと、レンタカーで聖コルベ館へやってきた。元日は、夜だったので、顔もよく覚えていないが、ああ、この人か。娘さんは中卒で、就職したと聞いたので、お母さんに「いま思う漢字の1字は、何ですか?」と問うと、「悟」です、と答えた。何となくピンときたよ。「ワケありの、家族かな?」。応接室で、再会を喜んだ。「なんで悟りと、答えたの?」「ウチは、ワケありの家庭です」と。17歳の娘の上に、もう1人、姉がいるが、教育面でいろいろと悩んだ。結局、悟ったのが、親に原因がある。「お母さんが楽しむ姿を見れば、子供も自分のやりたいことが分かってくる」。2人とも道が開けた。中卒に期待すると、就職多難なときに、編集者の仕事についた。「病気は、不便かも知れないが、不幸じゃない」の教会での神父さんの教え。娘たちが、カトリック幼稚園に通ったおかげで、母と2人の娘は、洗礼を受けている。「信仰で、救われました。昨年の復活祭には、夫も、自分から洗礼を受けました」。正月から、ずーっと、小崎さんの日記を読みつづけてきたという。コメントもその都度、書き込んだ。4月は、18回におよぶ。「小崎さんが入院されたとき、本当に心配しました。洗濯物が洗えない。自分が行こうかとも思いましたよ。介護してくださった千草さんに会いたいですね」。話していたところに、千草さんが、聖コルベ館へ来た。「ああ、会いたかった」

2012年5月8日火曜日

子供の日。いい写真でしょう。めったに撮れない1枚

かわいい女の子がいた。「こっち、おいでよ」。素直に、寄ってくる。子供の日のイベントは賑やかだった。こんなに近くに、女の子が来るなんて、めったに無いからね。そりゃ嬉しいし、元気に育って欲しいと思うよ。私は時々、目をつぶって考えるんです。なぜ、ニンゲンって、「良いこころ」と、「悪いこころ」が共存するのだろうか、と。やっぱり有るんですね。修道士だって、2つの「こころ」が有るんです。「悪に負けない人間に育っていく」のが人生でしょうね。私が子供の頃、習った公教要理には書いてあった。「天主の存在は、①推理と、②天啓(聖書)によって知ることができる」。推理には、5つ挙げられていたが、そのうちの1つに、「人には皆、良心があり、その命令は勝手に無視できないから、良心の立法者が存在する」とあった。子供の頃は、本当に皆、いい子だよ。でも小3の、クラス運営には苦労したな。8人ほどしか居ないのに、「静かにしなさい」「クラスに入りなさい」「勝手に飛び出すな」「先生には丁寧な言葉づかい」。ホンロウされたよ。担任の女性教師も悩んだ。ところが私は、ある日、見た。小3の、一番のボス少年が、女性教師の背中にオンブされて、静かにしているのだ。それを、この写真の後で思い出した。ニンゲンの根底は「甘え」ではないか。そして「つながり」。これだよ、この2つで、ジンセイは回っている。

2012年5月7日月曜日

1年ぶりの再会。津和野の清さん。教会・資料館の案内人

開館と同時に、津和野からのお客さん。「おお、大谷清さんじゃないか。1年ぶりだね」。同行者は熊本の高木さん。津和野(島根県)へ出かけて、乙女峠祭りに参加して、清さんを連れてきた。2泊3日の長崎の旅。清さんは、津和野教会の資料館の案内係りを勤めている。女性は津和野の地元の人。私は昨年の5月、津和野へ行って、清さんにお世話になった。身体が不自由なため、幼児の頃から苦労が絶えない。「自分のからだは、どうにもならない。悩んでも、仕方がない。生活はどうにかなるでしょう。それで1日、1日を、感謝して、精いっぱい生きる。人生、七転び、八起き、です」。大谷清さんのことは忘れない。「人間は弱い存在です。信仰があっても、忘れて、怒ったり、欲があったり、そっちの方になびいてしまう。また信仰すると、悪い心から開放される。小崎さん、教会に行って、祈っているよ」「おお、それは良かった。がんばってな」。私が去年、津和野へ行ったとき、資料館の案内はするが、ミサや祈りに姿がない。皆さん、寂しがっていた。それが、教会で祈りをする、と打ち明ける。辛いことや、傷ついたことも、人知れず有ったのだろう。「生きるのは恵みであるが、辛いことも沢山ある。お互いに、がんばろうね」

2012年5月6日日曜日

子供の日。山の養護施設で過ごす。顔なじみに出会った

久しぶりに山の施設へ出かけた。イベントがあり、賑わった。以前、私はこの施設で、子供たちと、2度にわたって過ごしている。1度目は終戦後まもなくで、私は療養しながら、11年間暮らした。この頃は食料不足で、食べ物は少なく、誰もが、お腹を減らしていた。食料を盗んだり、よく事件が起こった。中卒は「金のタマゴ」と呼ばれ、就職列車で、関西方面へ旅たって行った。2度目は、それから20年後で、校長になって6年間勤めた。この頃は学校崩壊といわれた80年代で、「キレル」とか、「ムカツク」などの言葉が流行った。山を去って、20年が流れた。時々、施設の行事には来ていたが、最近はご無沙汰している。シスターや先生、園長さんが、「おお、いい顔しているじゃないの」と喜んでくれた。昔、厳しく子供たちに当たったことが悔やまれる。今の施設の声は明るい。風も爽やかだ。半日、山の空気に癒された。いつの時代も、施設の子供たちは、家族の愛から遠い、寂しい境遇にある。この子供たちを、いかに幸せに育て、夢を持たせるか。職員や教師たちは希望を失うことなく、努力の日々がつづいているのを感じた。

2012年5月5日土曜日

岡山の青年は、大晦日、閉館まえに滑り込みのパウロだった

「小崎さん、ひさしぶり」と、岡山から連休に青年がやってきた。「きみ、だれ?」「去年の12月31日の聖コルベ館が閉館まえに来た者です。岡山のおみやげ持って来ました」「やあ、ありがとう。元日の閉館まえに、母と娘が来たが、2011年12月31日、大晦日に、閉館まえに君が来たんだね」「ハ、ハ、ハ」と若者は笑っていた。「若者たち、5人で来ました。ボクは小崎さんの説明を聞いて、聖母の騎士の修道者になりたいと思っています」「ほんとう」。元日の母は、エリザベト。大晦日の青年は、パウロ。洗礼を受けて、2年目。いまは、ウドン屋で働いている。「岡山なら、讃岐ウドン」「ハイ」。素直そうな19歳の青年だ。「十七歳の夏」を本屋で求めて読みました、と本を見せた。サインをしてあげた。喜んでいる。希望があるな、と若者の顔を見詰めた。神はどのように導かれるか分からない。彼は言う。「修道服を着て、バッターを打って、スポーツしている写真を見た」そうだ。教会の神父さんに、「これが、いい。心ひかれる」と言ったら、「聖母の騎士、フランシスコへ行きなさい」。それで「聖母の騎士に憧れています」と、今どきの若者じゃないような、ウドン青年は言うじゃないか。いっぺんに好きになったよ。「住所と、名前を書きなさい」。大晦日のパウロよ、ブログ(日記)に載せるからな、と言ったら、喜んでいた。ほかに仲間が2人。今日、午後、岡山へ車で帰る。★大晦日のパウロよ、コメント、ありがとう。信仰を期待しているぞ。

2012年5月4日金曜日

日曜ミサ説教で、小崎修道士の話が出たと教えた訪問客

昨日はビックリした。今は連休だから、聖コルベ館にも見学者が来ている。東京から61歳の写真の男性がやってきた。彼は、結婚の後、子供がカトリック幼稚園に通うようになって、家族で洗礼を受けたという。私と、そこまで会話が進んだのは良かったが、彼が更にポツリと言った。「日曜日のミサの説教で、神父さんが、小崎(修道士)さんの尿が出なくなって、ご聖体を受けた瞬間、出始めた話をした」と。「え?」っと、それを聞いて、ビックリするやら、嬉しいやら。「小崎と言っても、信者さんは私のこと、知らんでしょう」「イヤ、騎士誌など読んでいるから、知っています」。私が「その神父さん、外国人?日本人?」と聞くと、「日本人の神父さんです。神父さんは言った。どこの病院か知らないが、朝から司祭が、チリン、チリンと鈴をならしてくる。さすが長崎です。東京じゃ考えられない」。その話に合わせて、「水害で、押し流された女性が、不思議のメダイで助かった話も合わせて説教した」と男性は教えてくれた。その神父さんは騎士誌を読んでいるんですね。「エライなあ」と思いました。「教えてもらって、よかったよ」。私は思うんです。沢山の人から拍手されるよりも、1つ、1人の出会いを大切にし、何かのご縁を見つけていきたい。この男性との出会いも、その実例のような気がした次第です。

2012年5月3日木曜日

憲法記念日。ポーランド国も憲法記念日だった。平和の教え

思い出した。今日は、ポーランド国も憲法記念日だった。ローマン修道士から、その話を聞いていた。写真の右は、長崎で聖母の騎士を作ったポーランド人の面々である。コルベ神父が日本を去るときに、記念に写した。ポーランド人にはお世話になったご恩がある。この写真で、後ろの左に目立たないように居るのがローマン修道士。ポーランドの旗は、日本と同じ、白、赤、ですよ。左側、ローマン修道士が手にしている国旗には思い出がある。太平洋戦争が始まる前、東京のポーランド大使館の一行は長崎へ来て、修道院でミサに祈り、大使館に飾られていた国旗を、修道院に残したのだった。「戦争のない、平和の時代に戻るまで、この国旗を守ってください」。コルベ神父が去るとき、大人数のポーランド人修道者が居たが、いま残るはローマン修道士のみとなった。戦争が終わって50年が経った頃の1999年4月11日。ポーランド大使館の事務官が修道院を訪ねたので、ローマン修道士は、預かっていた国旗を返却したのだった。私は思う。このようなエピソードは決して忘れてはならぬ。いま思って、こうした個々のエピソードを自分の筆でまとめておくことが必要だった。文字で残すことが大切だ。私は何かに書いたように思うが、見出せなかった。ただ、国旗を持ったローマン修道士の写真を聖コルベ館のアルバム(20巻)のなかから探したのは、勲章ものだった。ローマン修道士は97歳で、老人ホームに健在です。たった1人になって、寂しかろう。いつまでも元気で居てください。5月5日、子供の日に、騎士園(養護施設)へ行った帰りに寄りますからね。

2012年5月2日水曜日

ふしぎなこと、考える。なぜ、なんだ?ああ、生かされている

人生には、わからないことが、沢山ある。①例えば、少年の頃、一所懸命祈っていた浦上天主堂の真上に、なぜ原爆が落ちたのか。わかりません。②コルベ神父が、あの餓死の地下室で、最後まで生きていたのか。これも、わかりません。世の中には、わからないことが、一杯ある。その中を、泳ぐように、生きているわけです。「すごく、ふしぎなこと、あるか?」。そりゃ、誰の人生にも、ふしぎなこと、あります。③全体的に言って、いま自分が生きていること、これは、ふしぎです。歳をとれば、よく実感できることです。④特に、今年は、尿が急に出なくなって、ビックリしました。あの結石を見たとき、またビックリです。それが、1つ、1つ、解決していく、ふしぎでは、ないですか。退院してから、カラダの調子は、良好のようです。先のことは、わかりませんけどね。⑤「ふしぎ」と言えば、すぐ思い出すのが、ポンコツ軽での、トンネル故障です。5年ほど前の話ですが、忘れない。片道一車線、高速道路、3つも長いトンネルがつづく。そのトンネルの中で、軽が、すーっと、気合が抜けたように、馬力がなくなった。走らない。エンストしたら大変ですよ。ダリョクで、スルスルと行って、何とかトンネルを出て、幸い、そこに路肩があった。ここに車を止めた。高速の車を止めようと、手を振るが、車は一向に止まらない。携帯も持たない。すると1台が止まった。「携帯を貸してください」「持ちません。でも、エス・オー・エスの電話がそこに有るじゃないですか」。全く気が付かなかったが、すぐ傍に、緊急の電話があった。これも幸運だった。30分ほどで、ジャフの救援クルマが来て、運ばれて、修理工場へ。後部座席の下の線が切れていた。こうして何事もなく助かった。あのとき、トンネル中央で、エンストしていたら、どうなったか、考えると、冷や汗ものだった。ふしぎに助かる。ある宗教団体の信徒は「それは『妙の世界』です」と言った。まあ、これも導きですよね。

2012年5月1日火曜日

聖母月はじまる。マリアさまのご保護を願う

5月は、聖母マリアを特別に賛美する月です。聖母の騎士では、夕方のお勤めは、広い方の教会で、祭壇に灯明をともして、ロザリオを唱え、聖マリアの連祷、カトリック聖歌集から「むかしの賛美歌」を歌いながら、マリアさまを称えています。昔はアカデミアといって、みんなが集って、歌や、論文や、詩を奉げたものでした。今は人数が少なくなって、寂しくなった。マリアさまと、長崎信者、長崎教区は深いご縁がある。キリシタンたちは、マリアの絵を隠し、秘かに信仰を守って、7代にわたって伝えた。信仰の復活も、大浦天主堂で、「サンタ・マリアのご像は、どこ?」と、マリアさまによって導かれた。個人の信仰でも、マリアさまから守られ、助けられた実話は沢山ある。コルベ神父は「けがれなき聖母マリアに、全生涯を完全に奉献し、マリアさまの道具、騎士になって働きたいと願った。マリアさまに近づくのが、イエスに近づく最も近い道であると説いた。ふしぎのメダイを身につけるカトリック信者のための騎士会も創立した。あさ、私たちも、この月に、もっとマリアさまに祈り、ご保護を願い、イエスの如く生きるようお願いしよう。難しいことは考えなくて、よい。宗教は信心なり。これを忘れては、いけない。祈ること。理屈でなく、実行が大切です。「この世の苦しみは、そう簡単には無くならない。ただ、お互いに、助け合って、兄弟として、愛しなさい、と説く。『父の命令は、永遠のいのちである』(ヨハネ12-50)」