2016年4月30日土曜日

ピオ中島神父さまの修道名の日。聖ピオ五世教皇

午後、散歩の途中で出会った「ピオ・中島神父さま」です。
朝、ミサのとき、「きょうは、聖ピオ五世教皇(1504-1572)の任意の日です」と司祭の説明があって、祭壇の前に、車椅子のピオ中島神父さまの姿があった。いっしょに祈りました。ミサの後で、修道名の「おめでとう」を申しました。
★そして午後、ホームの庭で、お会いしたのです。多分、前にも書いたことがありますが、本当の生まれは、昭和3年4月22日で、23日に洗礼を受けた。教会の洗礼名簿が最も正しいのです。当時は、お父さんは、漁船に乗っていたこともあって、役所に届けたのは、昭和4年1月2日になっている。昔は、こういう手続きが、度々行なわれていた。
★ピオ中島神父さまは、ホームに入って、7年になる。五島出身で、司祭になって、いろんな役職を勤められ、司祭叙階60年・ダイヤモンド祝いも過ぎた。歳をとると、休みの時です。ホームに入所当時は、まだ歩けたが、最近は足が弱って、歩行器を使って歩きます。付き添いは、増山さん(56歳)です。ピオ中島神父さまに要理を習い、洗礼に導かれた。いまは毎日、午後に来て、面倒を見ている。そのお陰で、神父さまは健康です。ありがたい。塀の上のイヌに注意。よく吠えるワンちゃん、友達です。
★きょう、ピオ中島神父さまが言った。「ロザリオを信徒間に奨励したのは、教皇ピオ五世だったのだよ」。えー、そう、なんだ。ロザリオの祈りは、1500年代から愛唱されていた。歴史ある祈りです。
★いま、教会で、そのロザリオを共同で唱えて、祈って、自室に来たところです。ピオ中島神父さまも、いつまでもお元気であってほしいと願います。

2016年4月29日金曜日

食べて、入浴して、きょうも平凡に夕方になりました

ホームの湯は、広くて、銭湯気分で、いいですね。風邪ぎみのため、風呂は控えていましたが、午前中に、一週間ぶりに、ゆっくり入浴しました。92歳の入江さんと一緒でした。体調に合わせて、入浴するのも気をつけます。
★午前中に、長崎から、白浜さんが「登明日記」をファイルにして来ました。聖コルベ館のようすなど聞きました。地震の関係か、韓国からの巡礼者が減少しているそうです。
★きょうの、お昼のメニューです。ご飯、めだま焼き、大根の油揚げの煮物、つけもの、南瓜そうめん汁、リンゴ、でした。
★食事の後で、入江さんと2人で、大曾神父さまの部屋を訪ねることにしています。お元気で、おられる。サカナ釣りの話など、語り合いました。
★日記を書くのが遅くなった。きょうは、これにて、休みます。

2016年4月28日木曜日

きょうも一日、無事に過ごしました。生かされ、感謝

湯江カトリック教会の祭壇・生け花です。いま、ロザリオを祈ってきました。大正生まれの女性も、押し車を頼りながら、祈りに来ていました。自分は朝のミサも、ロザリオも欠かしたことが、ないと言います。五島出身の、根からの信者です。これらの人を見ていると、感心するというか、降参します。信心が身についているのです。信仰している中で、喜びを感じ、悲しみも体験し、ここまで生かされてきたのでしょう。子どもも、おります。孫も、おります。信仰を守ってくれれば、それが幸せです。60数人、ホームの入居者がいるなかで、半分の30数人がカトリックです。信仰に恵まれたホームです、といえるでしょう。異なる宗教の人も、もちろん大切にされています。部屋からお経も聞こえます。他人のことは、いいけれど、お前はどうなのか。いつも反省して暮らしています。朝、ミサで祈り、午後からはロザリオを祈れば、何となく心が安らぐのです。5時15分から、夕食です。食事が終わると、「おやすみなさい」と挨拶をかわして、自室へ戻っていきます。歯をみがいて、部屋に座って、「教会の祈り・晩の祈り・寝る前の祈り」を唱えます。そのときが、修道会への「つながり」を自室で、一人でも、意識するときです。その後は、メモ程度の日記を書きます。手が振るって書けなくなると困ります。録画したテレビを見て、8時過ぎには、寝る準備にかかります。起床は、5時です。なんのために生きるのか。生きる意味はなにか。熱心に介護してくれるホームの若い職員さんたちを見ると、そういう疑問は湧きません。人は、生きていることが、尊いのです。お恵みです。それで、いいのです。

2016年4月27日水曜日

フランスの若者から、ルルドのお水が届けられた

ホームで生活して、何も事件が起こらない一日ですが、慰めをふくむ声や、励ましの文字が届くことがあります。
★聖コルベ館での出会いが多いですね。フランスの男性ですが、一昨年の夏休みに、聖コルベ館で、小崎サンから、「イッパイの飲み物」をくださった。それが忘れられない。今度、長崎まで来たが、ホームまでは行けない、それで「フランスのルルドのお水」を、聖母の騎士に託けます。手紙と、8cmほどの小瓶が回送されてきた。ありがたいことですね。
★小崎サンが書いた「長崎のコルベ神父」を買いましたが、一年間をかけて、ついに読み終わりました。わたしはフランスの西南にある一番大きな町のトゥールーズに住んでおります。ルルドまで車で2時間ぐらいかかります。毎月、騎士誌を購読して、小崎サンの記事を読んでいました。今はブログを見ながら、お祈りしています。最近、日本人の友人と一緒にルルドへ行きましたから、ルルドのお水を持って行きます。
★実際に会えたら、嬉しかったであろう。ホームは長崎から遠いので、会えないのは残念です。でも、こういう人が地球のどこかに居るのが分かると、きょうの「活力」になりました。
★けがれなきマリアの愛と平和でお大事にして下さい、と最後に書いてあった。ジャム・ブリュノさん、ありがとう。君の日本文、すばらしかったよ。

2016年4月26日火曜日

今年も、アンネのバラが咲いた。平和を願う花だ

「アンネのバラ」が咲きました。一輪のバラは、いろいろな思いを連想させてくれます。2日前の新聞の「読書」欄に、「アウシュヴィッツの囚人写真家」(ポーランドの写真家『2012年死去』のアウシュヴィッツ体験を、2人のイタリア人ライターがノンフィクッション・ノベルとしてまとめた本があった)。紹介の評を見た瞬時に、「ああ、読みたい」と思った。
★なぜ、アウシュヴィッツに心が捕らわれるのか。人は生きて、70年か、80年か、人生の中で、思わぬことを体験する。そして行なわれた現実を見たり聞いたりして直面する。その一つがアウシュヴィッツだった。なぜ人は、沢山の同じ人間の、自由を奪い、孤独のどん底に突き落とし、ガス室で、平気で殺すのか。人間は変わる、平穏さが、豹変する。それが恐ろしい。「もし、あのとき、自分がその場に居たら、どうなったか」。考えるのだ。
★原爆も、戦争も、そうだったが、もっと人間は、同じ人間として、仲良く暮らしたい。それが出来ないのは、なぜ、なんだろう。「一輪のバラの花」は教えてくれないか。
★風邪は良くなりました。ただ声が本調子でない。

2016年4月25日月曜日

皆さん幸せですか。幸せって、なに?考える    

年寄りは、コマめに手を動かしたり、カラダを動かすのが大事です。ホームでは、職員さんの指導で、手で、「グー」や「パー」を作って、アタマ、胸、ヒザへ動かしながら、それも茶摘の歌や、海は広いなを歌いながら、リズムに合わせて動かします。
★次いで、タオルを使って、両脇からタオルを巻いたり、広げて「クルクル」回したり、これも歌に合わせて動かします。これが結構、運動になるので、いつも参加しています。ホームでは、これを「コールス」といいます。まあ、笑いの多い、20人から30人が集ります。
★いつも最後は、「みなさん、幸せですか?」の問いかけで、「幸せなら、手をたたこう」。あれですね。手を、肩を、足を、「みんなで手をつなごう」。これを、やります。平穏で、幸せですよ。
★幸いに、風邪の症状も治まりました。熱っぽいカラダも正常になった。ただ声がまだハナ声です。
★でも、ちょっと考えるな。「幸せって、何だろう?」。幸せって、変わらない体調ですね。体力が衰えず、どこにも痛みが無く、おいしく食べて、ゆっくり休めば、それが幸せ。それに、お祈りも出来るしね。人生の軸は揺るがない。
★明子さんは、わたしを見ると、いつも手を、クルクル回すんです。エンジンかけろ、という意味かな。「キリョクーだ」「気力だ」。これが今、自分には、一番、必要に思う。
★昨日の日記のコメントに、「ゼノ修道士の命日」とあった。ほんとう、忘れていました。ゼノさん、死にヒマない、と言った。天国で、まだ忙しいでしょう。

2016年4月24日日曜日

この日、コルベ神父、ゼノ修道士、ニッポン上陸す

きょう、4月24日は、コルベ神父とゼノ修道士が、汽船で、長崎港に入港して、出島岸壁で、下船。愛するニッポンへ上陸した日で、この日を我々は忘れることが出来ません。昭和5年、1930年のことでした。
★日本を去ったのが、昭和11年5月ですから、6年間、宣教・生活をつづけたことになります。5年後、昭和16年8月、コルベ神父はポーランド・アウシュヴィッツで、殉教死をとげます。
★コルベ神父のことを教えてくれたのは、コルベ神父の時代に、ポーランドから日本・長崎に宣教に来たミロハナ神父や、ゼノさん初め、ポーランド人の修道士たちでした。
★コルベ神父の目標は、「マリアを通して、イエスへ」。これでした。イエスのことを一番愛している御方、いつも近くにおられる御方は、けがれなき聖母マリアさまです。だからマリアさまの御手に、全てを委ねて、自分はマリアさまの道具となって、動き、働けば、最も早く神さまのところへ到達できる。「マリア」「マリア」を、呼吸して、生きておられた。書くときや、言葉では、いつも「けがれなき」マリア、を使っておられた。これが特徴です。
★先日、北海道の親友から、ハガキが届いて、久しぶりに電話で話したとき、彼はミロハナ神父から薫陶(くんとう)を受けている。その彼が、言った。「M、I 」(エム・イ)。忘れていないよ。ミリチア(騎士)、インマクラータ(けがれなき聖母)。彼の言葉から、それを聞いて、本当に久しぶりに、エム・イを思い出した。
★朝から、ミサへ。午後からロザリオへ。教会へ行きました。

2016年4月23日土曜日

雨、風の日もあれば、風邪の日もある。甘えるな、人生

写真ですが、昨日も、花。今日もその隣の花壇の花。申し訳ありません。それだけ今は、生活の範囲が狭いということです。でも、こうして見ると、キレイですよね。
★気候の変わり目か、なんで風邪ぎみになったのか、わかりません。からだは大切だが、自分に甘える気持ちは持ちたくない。
★いつも夜の7時頃になると、夜勤の職員さんが、各部屋を回って、各お部屋の名前を呼びながら、「だいじょうぶ、ですか」と確認の声をかけます。
★昨夜は、すでにベッドに横になっていて、女性職員さんはベッドの傍らで、検温や、指先で酸素測り、血圧を測ってくれた。「わー、7度8分、高いですね」。ちょっと、びっくり。早々と、電気を消して、眠りについた。昼間、一日中、ベッドに横になっていたから、中々寝付けない。気がつくと、からだ全体が熱くなり、フトンを思わず、ひっくり返した。「少し、アセをかいているのかな」
★9時半頃、また職員さんが来た。寝汗をかいたので、「6度7分」に落ちていた。
★今朝は、6度4分でしたが、ミサは欠席しました。朝食は自室で食べる。看護師さんが来て、「レントゲン、撮りに行きます」と言われる。ホームにお医者さんが、週に2度、来られて診察をされる。昨日、診てもらったが、近所に医院を開業。医院へ行くことにした。結果は、ホームに入居した頃に撮った胸の写真と比べて、「かわりは、ありませんね」。クスリをもらった。
★このように風邪ぎみがつづくのは、最近はなかった。気持ちが少々落ち込んだ。昼食は、皆さんと同じように食堂で、いただく。5食、来ていなかった。「あれ?しばらく見えんやったね」「よー、なったン」。何人かとアクシュしたら、相手の手の冷たさを感じた。午後からのロザリオは、行こうか、行くまいか、迷ったが、思い切って、参加し、祈った。

2016年4月22日金曜日

一日、自室で休んでいたが、熱がさがらない。心配

屋外には、さわやかな風が流れ、ハナがイッパイに咲いているのに、きょう一日、自室で休んでおりました。
★ハナ水と、クシャミと、時折、大きなセキと、熱が、7度4分から下がらない。食事を運んでもらって、これは三食、みんな食べました。園のお医者さんの診察日だったので、診てもらった。
★少し、心配になります。92歳の入江さんが、心配して、3度見舞いに来てくれた。こんな症状は初めてのことです。「肺炎に、ならなければ、いいがね」
★なぜ、熱が下がらないのか、わからない。

2016年4月21日木曜日

クシャミに、ハナ水。最近では初めてのことです

食堂のボタンです。この間のボタンとは違います。
★昨夜、寝るときの温度は、26度で、体温は6度8分でした。今朝は、25度になり、6度6分。ミサへ出て祈りました。
★午後から、体温が7度1分になり、更に7度4分になったので、ベッドで休みました。症状は、ハナ水です。こんなにも出るかと思うくらい、昨日から絶えずハナ水攻めに合っています。看護師さんが心配して、自室に来てくれる。それに、クシャミです。日に、何回もクシャミをするのです。最近にない、初めてのことでした。
★夕食は、職員さんが自室に運んでくれた。全部、食べました。7度3分あります。早く休みます。

2016年4月20日水曜日

一日のうちにも、いろいろ、あります。地震の揺れも・・・

熊本の地震は、まだ強い余震がつづいている。テレビでは、毎日、被災者の不自由な生活が写し出されている。
★最初の地震で、小祭壇のご像が倒れて、被害が起きた。早速、食堂の入口に、「支援金・募金箱」が置かれた。行方不明者の捜索や、避難所の苦しい状況を見て、大変だなと思います。
★昨日は午後から、久しぶりに「ショッピング(買い物)」に出かけた。朝食のとき、職員さんが、「行きますか」と聞いて回る。沢山の入居者が居るが、出かけられる人は、10人ぐらいになる。
★「田川さんも・・・」と声をかけられ、買い物は大して無いが、この歳になると、用事だけでなく、「リハビリ」の意味も含まれる。冬の間、インフルエンザの影響で、外出は「えんりょ」を告げられていた。ホントに久々の外出だった。買い物の場所は、2箇所と決まっている。何を買ったか、それは言わない。
★昨夜、部屋の温度は、24度だった。朝方、寒さを感じた。21度になっていた。大きなクシャミを、3回した。熱を測ると、平熱だった。ミサの間、鼻水が絶えず流れて、ひじょうに困った。
★水曜日。入江さんと入浴している。少し、迷いはあったが、いっしょに湯につかった。大曾神父さんの所に、毎日、入江さんと訪ねることにしている。もう入所して、10日ほどになる。環境にも慣れて、平穏な生活をしておられる。歩行器を使って、歩く練習をしている。何をするにも、歳をとったら、リハビリです。

2016年4月19日火曜日

人は、神から出て、神に帰る。清くなって、帰ろう

北海道の病める親友から、速達便で、次の日には、顔写真が届いた。久しぶりに見る彼の顔は、ふけている。
★その夜、当方から電話をかけた。日中は寝ているが、夕方は、ソファーに腰掛け、少しは歩けるという。早速、ブログの許可をもらう。「日記(ブログ)に載せても、いいだろうか}。彼は気持ちよく了解してくれた。「大いに書いてくれ。子どもたちにも読ませたいよ」
★届いた写真に、「ご利用下されば幸甚です」とあったが、さすがに写真を載せるのは、私に抵抗がある。それで彼が望んでいた、ラテン語の『ベニクレアトル・スピリツス』を載せました。
★電話で、私は問うた。「いま、考えることは、何ですか」。彼は「ンー」と、しばらく考えて、答えた。「神のために生きるんだ・・・こと、人は、これしか、ない。自分のためでない。神のために生きる。これが目標、目的だね。長崎へ来て知ったこと、神さまの『みさかえ』のため生きる。だから神さまのモトへ帰る。自分のなかで、自然に受け入れた」
★昭和3年生まれの私と彼。私が3月で、彼は7月。昭和20年6月、彼は軍国少年で、陸軍士官学校の合格通知をもらった。9月1日が入隊日。ところが、その前に終戦となる。そのとき、ゼロ心境になる。目標を失ってしまった。
★彼に言わせると、財産、名誉、知識を極める、など全く興味がない。それを飛び越えて、「人は何んのために生きているのか。わからない。世の中で生きること、生きて、何をしなければ、ならないのか。オレに、一番大事」と、鈍行列車に乗った。
★実は、行き先は、鹿児島港だった。「地元に居れば恵まれている。中国に渡って、暴(あば)れて、生死の境をさまようなら、見つかるかも知れない」。軍国という無謀な時代を生きた少年は、無謀なことしか考えない。「それが、どういうわけか、長崎へ着いた」。最初に出会った中島神父の言葉に、「生きる意味、ありますよ。神さまのために生きるんです」
★彼の人生は、ドラマだよ。ヘアハウスに入って、8年。子どもも5人いる。いまも神を見失わない。病者の塗油の秘蹟も受けたという。「ハラもヘラない・・・そう、そう、長崎で学んだことは、マリアさまだね」

2016年4月18日月曜日

神さまのために生きるんだ。人は、これしか、ない

北海道から、一枚の絵ハガキが届いた。長年の親友・男性からだった。人生のなかで、特に若い頃、出会った人が、生涯忘れられぬ人になる。昨年、腹部に病気がみつかり、手術も、クスリも受けない。自然のまま生きる、と伝えてきた。あれから、どうなったのか。心配していた。夫妻で、ケアハウスで生活している。
★そこへ届いたハガキ。文面に、人生の覚悟が記されていた。「永らくご無沙汰した。愚生、昨夏より、身の自由も無くなった。今迄、永年の数々のご交誼を感謝申し上げます。何より、日本二十六聖人の映画巡回が、一番印象に残っている。どうも有難う。いづれ天国で会いしましょう」。心の痛む便りだった。彼とは、同年代で、経歴もよく知っている。
★ハガキの裏を返すと、濃い青色の深い森に、白いススキが「サー」「サーッ」と揺れている。手前には、金色のススキ。ジーッと絵を見ていると、彼の心境を表現しているように思えた。おそらく私にとって、この絵ハガキの風景は、生涯忘れぬものになるだろう。
★彼は、戦後、混乱のなかに生きた。これまでの価値観はくずれ、「何のために自分は生きているのか、わからなくなった」。悩み抜いた彼は、配給米をリュックにつめ、北海道を出て、日本列島をタテに混乱の鈍行列車の旅をつづけた。4、5日かけて、着いた所が、長崎だった。
★仰げば、大浦天主堂の十字架が目に飛び込んでくる。司祭館を訪ね、司祭に問うた。中島神父は親切に応対し、言った。「あります。神さまのために生きるんですよ」と励ました。この中島神父の一言が、彼の人生の土台となる。中島神父から、当時、ゼノ修道士たちが立ち上げた戦災孤児の施設を紹介される。ここで暮らし、要理を学び、洗礼を受け、3年間の期間を施設で働いた。その後、すんなりと聖母の騎士修道院へ入った。
★私と知り合ったのは、その頃だった。私は結核の病気で苦しんでいた。彼と共に、生活したこともある。彼は志願期、修練期、3年間の誓願期を過ごす中で、養護施設での過労の仕事で、すっかり体調を壊してしまっていた。
★有期誓願を更新する区切りがきたとき、意を決して、故郷の北海道へ帰ろう。戻ったとき、8年の歳月が流れていた。故郷へ帰っても、長崎で得た信仰を忘れなかった。会社員をしながら、教会のためにも熱心に尽力した。
★その後、私も北海道の彼の自宅も度々訪ね、日本二十六聖人の巡回映画会では、各地を案内してくれたのは、親友の彼だった。その彼が、いま苦境に立たされている。
★ハガキが届いた夜、早速、彼に電話をかけた。なつかしい声に違いはなかった。「この2週間、何にも食べていないんだよ。空気を吸って、冷蔵庫の四角い氷をなめて、生きている。栄養剤も一切使わない。痛みが全く無いのが幸いだ」と言った。どのように慰めていいのか、励ましていいのか。ただ、長々と話し込んだ。最後に、「写真を、送ってくれよ」と頼んだ。
★彼は言った。「長崎で覚えた『ベニクレアトル・スピリツス(聖霊、来たり給え)』、忘れないんだよ。歌ってくれよ」

2016年4月17日日曜日

我が意のままならず、思し召しの如くになりますように

イエスの祈りを度々思い出しています。
★「我が父よ、もし能(あた)ふべくば、この杯、我より去れかし。然(しか)れど、我が意の儘(まま)にとには非ず。思召(おぼしめし)の如くになれ」(マテオ26・39)
★ニンゲンは弱い存在です。痛みや、苦しみや、不安が来ると、呑まれてしまいそうになります。「なんで、自分だけが、苦しむのか」。悩みもあります。出来れば、取り去ってください。
★しかし、イエスはお祈りされた。「我が意のままでは、ありません。思し召しならば、我に、成れかし」。そのように今日は祈りました。イエスと共に、意識して祈りました。
★庭を散歩していて、今年も見つけた。小さな黄色い花と、白いタンポポ。どこかへ飛んで行くのでしょう。若い人たちが、いろいろ記事を書いている。80代、90代の信仰者が、ホンネを書いた記事はないものでしょうか。それを読みたい、見たい、と心のどこかで思っています。

2016年4月16日土曜日

ホームに入って、新たな出会いがあった。寂しくないよ

毎回、入居された大曾神父さまの記事を書いていますが、もう一つ書かせてください。
★神父さまにとって、思いもせず、出会ったのが、入江さんでした。入江さんは、これまで私と入浴のとき、背中を流してくれる91歳です。大曾神父さまは、「おお、入江さんじゃないか。入江さんは神学校で、2年上でした」と、ホームで、それこそ70年ぶりの再会を喜び合いました。お2人は、いっぺんに、心が和みました。
★当時の神学生の名前を思い出しながら、互いに語り合い、「彼は、どうしている?」「満州で戦死しました」など、私には、分かりません。入江さんは、工場や、兵隊にも行った。大曾神父さまは、徴兵検査までで、終戦になった。むかしの人が出会うなんて、とても、いいですね。感動的でもある。
★入江さんは、6年ほど神学校を勤めましたが、社会に出て、熊本に住んで、自営業で、働き、信仰を守りつづけました。奥さんを亡くされて、昨年の8月に、ホームへ入った。私に出会って、今度は大曾神父さまに出会ったというわけです。
★昨夜、一昨夜と、大きな地震が熊本を襲った。長崎には地震がないのに、初めて、2夜連続で、大きな揺れを感じ、おどろきました。「入江さんの家は、どうなっているの?」。入江さんは残してきた自分の家も心配になるが、知人や教会の人にも電話をかけた。大きな被害を受けているらしい。大曾神父さまと、入江さんと、私の、3人で今日は心配しながら語り合っています。
★『付記』大曾昭神父さまの入居を日記に書いたところ、昨日の読み人が「214」になっていて、びっくりしました。

2016年4月15日金曜日

少年の頃の姿を知っている、大曾神父さまの話聞く

今度、ホームに入居された大曾神父さま。修道会の先輩だから、60年以上、お互いに知っている。ホームに来られたときも、「トマさん」「トマさん、元気だね」と、親しく声をかけてくれた。毎日、神父さまの部屋に、おじゃましている。
★大曾神父さまが、こんな話をしてくれた。「むかしの聖母の騎士の教会で、いつも、一人で祈っている者がいた。いつ教会へ行っても、祈っている。衣服を着て、祈る姿に、感心やな、と思ったよ。それがトマさんだった」
★この短い話を聞いたとき、嬉しくなると共に、あの以前の教会、畳の敷かれた教会を思い出し、一人の少年が祈っている、それが自分だったと、先ず自分の存在を発見した気持ちになった。そして、少年の頃の自分を、覚えていてくれる人がいる、その事に嬉しくなったのです。
★私の少年の事を覚えてくれる人は、浦上に住んでいる従姉の女性しか居ない。それは昭和16年頃のことだった。更に、大曾神父さまも「知っているよ」といわれて、そのときは確か、昭和18年頃だと思う。戦争中の、少年だった頃の自分を、今の自分が眺めている感じがしたのです。あの頃、着ていた衣服は、兵隊色のボタン付きだったのか、それとも職工さん風の姿だったのか。
★あの教会で、祈っていた一人の少年は、その後、どのような長い人生を歩んだのか。結局、昭和20年、終戦と共に聖母の騎士に入って、大曾神父さまを知ることになるのだが、あのタタミの上で祈る少年に、「神さまのお恵みは待っているよ」と告げたい気持ちに今、ふしぎになったのです。

2016年4月14日木曜日

大曾神父さまが入居なされた。頼もしくなります

一人の入居者がありました。愛知県春日井から来られた、大曾昭神父さまです。昭和2年8月生まれの、89歳になります。車椅子で来られました。
★私たちの修道会、コンベンツアル聖フランシスコ会の神父さまです。昭和15年、長崎の聖母の騎士小神学校に入りました。2年生のとき、太平洋戦争が始まったそうです。戦争中も、戦後・直後もご苦労されながら、司祭になって、東京・赤羽教会や、愛知県の春日井の教会や、長崎・聖母の騎士学園長などの要職を勤められました。
★写真は、左から聖フランシスコ園の事務長・岩田さん、大曾神父さま、それに私。隣の修道院の浜田神父さまです。
★大曾神父さまが入所したので、ホームには修道者も、中島神父さま、大曾神父さま、村山修道士、それに私の、四人になりました。
★大曾神父さまが入所されると、五島出身の入居者が何人も、神父さまの所へ寄ってきて、なつかしく声をかける場面もありました。親戚や、地元の人たちです。神父さまは、語るのが、とても好きなようです。
★こうして皆さんに見守られて、ホームでの生活が始まりました。最初の食事は、私と同じ食卓で食べました。完食なされて、お元気です。今は、ゆっくりと過ごしておられます。

2016年4月13日水曜日

今日は書くことがありません。そんな日もありますよね

ホームの入口、アシジの聖フランシスコのご像の横にある立派なサクラの木も、もう緑色をした普通の木になった。
★さて、今日は何を書いたらいいのか。アタマに、何も浮かばない。そんな日もありますよね。
★体調は、どうですか?
★歩くのに、右足、ヒザのところが痛みます。歩くのが、おっクーになります。いけませんね。何よりも、自分のからだです。これといった作業も予定もないのに、時が経つのが早いのです。
★サクラは散ったというのに、まだ肌は、寒さを感じます。歳のせいですかね。

2016年4月12日火曜日

6年前の古い手紙を見せられた。ご縁になった手紙

これまで、日記に度々、入浴のとき、背中を流してくれる男性がいる、と書いてきたが、その男性とは、写真の入江さんです。91歳になります。とてもお元気で、ホームに入ってからも、隣の修道院の神父さんと鯛つりに出かけています。今月の下旬にも、漁船を頼んで、天草灘に、40cmの鯛をつりに行く予定と、ハリキッテいる入江さんです。
★その入江さんから、今日、「ほら、これ・・・みてごらん」と、一通の手紙を渡された。
★それは当時、聖コルベ館に居た私が、2010年4月12日の日付で、熊本に住んでいた入江さんに書き送った手紙だった。6年前になる。自分が書いた字、手紙をみて、何となく、なつかしい思いがした。
★当時、私は82歳。入江さんによると、私はボロの軽自動車を運転して、熊本の入江さんの自宅を訪ねたという。それがご縁で、入江さんは、修道会に寄付をしたい気持ちになった。手続きは、どうすれば、いいのか、という問い合わせがあった。その返事が、この手紙だったのです。
★古い手紙の日付、4月12日が、目にとまった。そういえば、「え? 今日は4月12日だよ」。むかしの手紙と、偶然の一致の日付に、何か、ふしぎなことを感じた。日にちが、ピッタリ合うではないか。それで今日の日記に載せることにしたのです。
★こうしたご縁もあって、入江さんは、昨年の8月に、ここのホームに入居する恵みとなった。
★6年経てば、ずいぶん変わるな。今では我が身は、ホームで、入江さんに、かえってお世話になっている。

2016年4月11日月曜日

幸せに今日も暮れる。何事もないのが、一番のサチ

今週の、湯江教会・祭壇の生け花です。教会で、目に行くのが、先ず、この生け花です。
★ホームの生活は静かです。皆さんは、静かに暮らしています。平穏、無事というのでしょうか。
★午前中は、「コーラス」といって、一室に皆さんが、タオルを持って集ります。タオルを使った、からだを動かす運動をします。タオルを巻いたり、両袖を持って、クルクル廻したり、その時、歌をうたいます。大体、40分ぐらいで、ヤクルトが一本、おやつに出ます。
★「コーラス」が終わって、入浴しました。四人連れでした。浴場が広いので、銭湯気分です。正常に、元気が出ました。体調に、何も無いのが幸いです。
★午後から、教会で、共同の祈り、各種の祈り、聖体を訪問するときの祈り、晩の祈り、ロザリオ、司祭のための祈り、病者のための祈り、などなど、「カトリック祈祷書」から祈ります。
★その後、パソコンに向かいました。
★きのう、日曜日は、ビデオ映画・時代劇「武士の家計簿」があった。
★きょうも、静かな一日でした。感謝あるのみ、です。むずかしい事は考えません。皆さん、からだの痛み、老いに耐えながら、懸命に生きています。そう、そう、「コーラス」で、最後に唄った歌は、「幸せなら、手をならそう・・・肩たたこう、足ならそう、お互いの手をつなごう」でした。

2016年4月10日日曜日

自室で、見た。アウシュヴィッツの話。胸が痛む

昨日、長崎まで出かける。疲れたのか、夕方、からだが、ホテって、いた。微熱がある。夕食後、教会の「晩の祈り」と「寝る前の祈り」を唱えて、当日・読書の聖書の箇所を読んで、7時には、早めにベッドに寝た。
★今朝、熱を計ると、平熱だった。安心する。ホームの人から「大丈夫ですか?」と声をかけられるのは、あまり好きではない。教会へ行き、6時の主日のミサで祈った。「復活節は、アレルヤ。喜びの時です。喜びを他の人にも、分かち合いましょう」。そのような気持ちが、心にひびいた。
★午前中は、自室で静かにしており、テレビ(録画)で、アウシュヴィッツを生きのびた、当時、15歳、今は86歳の女性の体験談を見聞きした。父と兄が殺され、母と自分は生き残った。アウシュヴィッツがどれ程、悲惨な場所であったか。私も10回訪問しているので、知っている。テレビの発言で、心にひびいたのは、次の言葉だった。
★兄は、「死ぬこと」を怖がっていた。兄が12歳のときに、父に聞いた。「死んだ後は、どうなるの?」。父は、答えた。「子どもを授かれば、子どもの中に生きつづけるよ」。兄は、こう聞き返した。「もし、子どもが出来る前に、死んじゃったら?」。父は、少し考えてから、「たとえ『短い命』であっても、何かの足跡を残せば、誰かが覚えてくれるさ」と、答えたという。
★私は、女性の話を痛む心で聞いた。老いて初めて語り部を始めたという。ある時、若者から、「信仰は、アウシュヴィッツにいる間、支えになったか」と聞かれた。女性は、「神はいませんでした。私は無神論者になった。神を信じるどころか、全ての人間さえ信じられなかった。多くの人が、「神があなたを助けた」と言うけど、「なぜ、私を?」。兄は私より、ずっと価値ある人間でした。なぜ神は、私を救い、兄を救わなかったのか?わたしが生き延びたのは、「単なる偶然だった」と思います。「神がわたしを守った」とは思はない。フェアでないからです。
★被爆者の私には、反発する気持ちには、ならなかった。何やら、複雑な、心情に重いものを感じた。それでも、アウシュヴィッツでも、神を信じる人がいた。考えられぬ敵に、温かい眼差しを向ける人も現実にいた。それでも、女性の苦難、悲しみ、不信が痛いほど、わかる。
★女性は最後に、こう言った。「父は私の両手を握って、神さまがお前を守ってくれる、と。信仰深くない父親が、そんな言葉を口にしたのは、おどろきでした。神さまに、すがるしか、なかったのよ。

2016年4月9日土曜日

礼拝の日。終わって、長崎のクリニックへ。疲れた

教会では、ありません。長崎ちゃんぼん店です。
★あわただしい1日でした。ホームで、月に1度の「礼拝の日」というのが、あります。車椅子の人も、カトリック信者も、他の宗教の人でも、教会へ来て、幸せと感謝を祈ります。園長神父さんのミサ、お話もあります。
★礼拝に参加して、その後、すぐに高原修道士さんの運転で、長崎のヨゼフ・クリニックへ診察へ向かいました。土曜日だったので、待合室は患者さんでイッパイでした。2時間ほど待っていました。院長先生に、からだの調子を告げる。心電図を撮る。看護師さんが、太い注射を打ってくれる。処方箋をもらいました。
★終わると、まっすぐに帰りの途についた。途中で、寄ったのが、このチャンポン店でした。焼き餃子、ちゃんぽん、小なめのご飯を食べました。帰ったのが、午後の4時頃です。大いに疲れを感じました。
★夕飯を普通に食べて、いま、日記をかいているところです。一応、病院行きは、しばらくは、ないでしょう。

2016年4月8日金曜日

春の嵐が吹いて、あの赤い花々が倒され、ない

春の嵐が吹いた。ひどい大風と、雨が降った。早朝、教会へ行くとき、吹き飛ばされそうになった。「こんな、アメ、カゼ、初めてだ」
今日は、久しぶりに、空が明るくなった。
★食堂から、昼食の後、ガラス戸から見ると、3月の終わり頃には、庭のチュウリップも花盛りだった(写真)のに、春の嵐が去って、赤い花々は、飛ばされてしまった。サクラも散っている。
★午前中、書道があった。途中で、入浴になる。3人で入浴した。今週は、病院行きで、大変だったが、気持ちが、さっぱりした。
★人って、誰でも、夢があるじゃないですか。
ホームに、夢? あるのかなァ、さびしいよ。
生きるだけでなく、信じて、生きている。それが骨子です。希望です。
★金祝を祝ってもらって、はや、1年、が過ぎた。
★金祝って、卒業式じゃないですよね。ますます、はげめ。
ホームに居て、何が出来るか。
黙想、祈りが出来る。
それで十分です。

2016年4月7日木曜日

苦しみ、痛みに、喜びを見い出す。いまの心境です

「苦しみ、悲しみは、あちらから、やってくる。喜びは、自分で見つけるもの。苦しみ、痛みのなかに、喜びを見い出さないと、息切れする」。これは2年前に書いたメモの言葉です。本当に、痛み、苦しみは、突然にやってくる。その中で、自分で喜びを見つけないと、シンドイです。何んか、今の心境に、よく似ている、わかるなァ、という気持ちがします。この言葉は、終戦直後に、五島に居られた松下佐吉神父さま(故人)が、ある司祭におくられた手紙の一節です。
★2年前の4月というと、その頃、毎月、2泊3日で、島原半島のオバマ温泉へ保養に行っていました。原爆・被爆者の手当が出ていたからです。そう、10年近くは通いました。軽自動車を自分で運転して行く。4月のメモに書いている。「86歳になって、春、4月、なぜか気が進まぬようになった。こりゃ、ダメだ。運転して行けない。ワンストライク。オバマに行けない。ツウ・ストライク。あとは、アウトのみ。がんばって行こう。行って良かった。気持ちがはればれとなった。明るくなった。声を大きく出そう」
★あれから2年が経った。もちろんオバマ温泉に行けなくなった。声も大きく出なくなった。だが、「アウトだ」とは考えたくない。ファール・ボールが、3つも、4つもあったから、ホームまで「いのち」をつないだ、そう思いたいです。喜びは、どこから湧いてくるか。いま、教会で、共同のロザリオから帰ったところです。わたしに、「信仰しているからよ」といったシルバーカーの先輩女性は、うしろの方で祈っていた。

2016年4月6日水曜日

2日間、食堂と、ミサ、ロザリオを休みました。復活

食堂を飾る「ぼたん」の花。見事な花です。ジーッと見ていると、聖コルベ館時代に、よく「ボタン」の掛け軸や、色紙を描いたことを思い出す。
★今度のステントの入れ換えのため、2日間、食堂を休みました。2日間、朝のミサとロザリオも休みました。今朝から平熱になったので、朝食から皆さんといっしょに食事が出来るようになった。
★食堂の前で待っていると、シルバーカーを押しながら、同じ食卓の年配の女性から言われた。「信仰しているから、神さまから見守られているんですよ」。こんな言葉が、グッと、胸にくるんですね。
★突然、日常生活が変わる。月曜日の午前中までは、全く普通の気持ちで生活していた。周りの皆さんとも挨拶し合っていた。それが、その日の午後から、次の火曜日のマル1日、不具合になり、痛みや、発熱や、生活上の心配などが入り混じって、この2日は全く違った気持ちになった。助けられたのは、皆さんですね。
★今日の朝食から、もとに戻って、ホットしています。(昨日は、ブログ・日記も書けなかった)。尿も正常に出るし、「ボウコウも大丈夫」とお医者さんから言われた。こうしてニンゲンは生きるんですね。悩みや、心配を抱えながら・・・。

2016年4月5日火曜日

大変でした。痛ターィよ。ああ、助けて、くーれ

ステントの入れ換えの日です。とうとう、やってきた受難の日です。覚悟はして、昼食抜きで、午後から出発した。高原修道士が運転・介護をして、明子さんも付き添ってくれた。
★病院へ着くと、先ずCTを撮り、血液・尿検査。次いで、泌尿器科で、処置が始まった。観念はしているが、なにしろ痛い。「あー、痛てーィ」と、思わず叫ぶ。麻酔はしているが、それでも尿管からカメラを入れる時は、「グぐっ」と痛たみが走る。次にステントを抜く。新しいステントを差し込む。「早く終わってくれ」と、もう耐えるしかない。ステントは腎臓と膀胱をつなぐ細いクダです。
★仰向けに寝せられて、両足を広げると、子どもの頃、カエルの解剖をしたことを思い出した。なされるがままに耐えて、ただ時間の過ぎるのを待つだけです。
★処置は終わったが、なぜか、尿もれがする。パンツも、下着も、ズボンも尿でぬれた。病院の下着を着せてもらう。「ぬれた下着、ズボンは奥さんに渡しましたからね」「クスリの処方箋は奥さんに渡しています」。明子さんを奥さん呼ばわりしているのに、黙って「ハイ」と受け止めた。尿もれは、ホームに帰ってからもつづいた。その夜、絶え間なくつづいた。
★次の朝、ホームから病院へ「尿もれ」の件を伝えると、「すぐに来てください」。高原修道士は「尿もれ男」と乗せて、病院へ急行した。レントゲンを撮ると、異常がみつかった。さっそく、またカエルのカッコウです。処置するのに、昨日以上に苦しんだ。「痛ターィよ」。ただ、それだけ。ホームへ帰ってのは、午後だった。昼食を食べる時は、元気はあったが、夕方になって、8度の熱が出た。
★ホームの看護師さん、職員さんたちが代わり代わりで、寝ている自分を見守ってくれた。それにしても、「ああ、なんと、苦しみと心配の多かったことか」

2016年4月4日月曜日

4月の誕生会。ドン・パン節で、盛り上った。皆に幸いを

お年寄りにとって、1つ、1つ、歳を重ねることは、喜びであり、お恵みでもあります。ホームには60数人が居られるので、誕生日も沢山あります。ホームでは、毎月の誕生日の人をまとめて「誕生会」として、お祝いしています。
★4月には、10人の誕生日があります。園長神父さんのお話の後、1人の名前が呼ばれると、みんなで拍手しながら、「ハッピバスデイ」を歌います。園長神父さんと職員さんによって、小さなローソクとお花とプレゼントが食卓の各人まで届けられます。それを、10人さん、繰り返すのです。それから職員さんたち総出で、食事が配られ、「カンパーイ」となります。
★食事中に、出てくるのが、職員さんたちが趣向をこらした出し物です。今月の役者は、3人でした。こんなに荘厳な衣装があるのか、先ずはオドロキました。(上の、この写真を撮るのは、タイミングがむずかしい。食事中を抜け出して、準備中を撮りました)
★音楽と、オドリは、「なんですか?」「ドンパンぶし、です」。音楽が始まった。「ドンドン、パンパン、ドン・パンパン」。食堂に入っていくと、笑いと、ハクシュと、喜びとで、皆さんは盛り上った。歳をとるのが、うれしい日です。
★誕生会のメニューは、お赤飯、お刺身、手羽先塩焼き、大根ステーキ、春野菜の煮物、すまし汁、カステラ、ジュース、でした。
★一応、食事が終わると、音楽ナシで、それぞれ歌の披露があります。なつかしい昭和の歌が聞けます。
★わたしが誕生会を迎えたのは、すでに、2度ありました。

2016年4月3日日曜日

ホームの隣の教会で、入居者の洗礼のよろこび

「おめでとう」「よかったですね」「神さまのお恵みが、イッパイ」
★ホームの隣の湯江カトリック教会で、ホームの入居者、お2人が、めでたく洗礼を受けました。ミサのなかで、主任神父さんが授けました。信仰による新しい人生の出発です。参加者の皆さんも、大きな拍手で、新しい授洗者たちの誕生を喜びました。
★ホームに入ったのも、神さまの導きでした。洗礼者の代母を務めたのは、お2人とも、ホームに長年、お勤めになる職員さんです。こうして教会とホームには喜びが満ち溢れました。
★きょうは、神のいつくしみの主日です。復活節の第2主日です。神のいつくしみの主日を決められたのは、聖ヨハネ・パウロ2世でした。ポーランドのクラクフ郊外に、神のいつくしみのご出現を受けたシスターの修道院があります。巡礼で、訪問・お祈りしたことを思い出しました。
★よろこんでください。パソコンの修理が出来ました。以前の感覚で、記事が書けるようになりました。

2016年4月2日土曜日

パソコンを修理に出しました。

ブログ(日記)が書けなくなったので、パソコンを調べてもらいましたが解決できませんでした。パソコンサービスへ修理に出しましたので、自室にはパソコンがありません。ブログが再開するまで、もうしばらくお待ち下さい。

2016年4月1日金曜日

ブログのトラブル。どうしよう?

ブログ(日記)が書けなくなった。パソコンの書き方が、これまでと違っている。写真を
入れて、字が書けない。改行ができない。昨日、日記を書いた後から、急に、勝手が違うようになった。ホームの若者職員さん、3人に見てもらったが、解決ができません。