2018年7月31日火曜日

歯は大切に。自分の歯。これで90年、噛み締めたよ

「生かされる」ことは、ありがたい、そう思います。歳を取れば、それだけ苦労も多い。それでも生かされているのは、ありがたい。
★午後から、ホームの職員さんの運転で、20分の所にある「歯医者さん」へ出かけた。歯の痛みを感じたのが、初診だったが、丁寧に掃除をしてもらううちに、痛みはなくなり、1ヶ月半ぐらい於きに通っている。歯石を取ったり、磨き方の指導や、1時間はかかる。治療の途中で、1回、トイレに行かせてください、と言うのが、自分でも困惑している。
★歯科衛生士さんの説明によると、中学生から高校生の頃に、28本から32本の歯が揃うそうです。自分には、32本の歯がある。総て手を加えているそうです。ちょっと、詰めたり、被せたり、差し歯にしたり、それでも32本揃っている。「歯を大切にして、よく磨いてください」と言う。治療は、「1本は親知らずで、抜きましょう」「あと1本は、グラグラしています」と言われるが、それでも、「そのままに、していてください」と頼んでいる。
★歯を見れば、人生、いろいろ、あったな、と言えそうです。前歯の上2本は、椿原の学校時代、児童が、棒を振り回していたのが、前歯に当たって、欠けてしまった。差し歯の値段は高くついた。棒が他の場所に当たらなくて、よかったと、いいように解釈する。歯は大事にしようと思います。生きることは、不思議だな、と歳を重ねるごとに、そう思います。

2018年7月30日月曜日

好物の食べ物は、牛肉の天ぷら。母の思い出、味あり

ああ、牛肉の天ぷら、が食べたいなァ。牛肉の天ぷらを出す食事処はないですね。トン(豚)ぷら、というのは、あった。両親は出稼ぎに北朝鮮へ行った。商売をしたのは、精肉店です。牛肉店だからね。おいしい、いい肉が沢山あった。ステーキなど、あまり食べない。やわらかい牛肉を薄く切って、野菜と混ぜて炒めたり、天ぷらにしたり、中でも天ぷらが大好物でした。
★四角い、大きなハムも売っていたが、ロシア人家族が買い求めていた。正月は、鶏も販売した。子供の頃の食生活が、大人になっても、この歳になっても、引きずるんですね。ハムや、ソーセイジは、箸が進まない。
★牛肉の天ぷらは、揚げるのが結構、難しい。肉と、ころもが、外れるんですね。旨く、揚げるには、コツがいる。母親の天ぷらが最高だった。牛肉の天ぷらを食べると、母親を思い出す。従姉が、思い出しながらメモをした、牛肉の天ぷらの作り方を書いたのがあったが、探しても見つからなかった。
★ホームに入園する前、月に1度は、療養に2泊3日で温泉宿に行っていた。宿の女将さんにお願いしていたのが、牛肉の天ぷらで、これを食べるのが楽しみでした。今は、それも、ない。ああ、さびしいなァ。やわらかい、アブラ身がない所を、上手に揚げて、醤油をかけて、食べてみたい、今日は、そんな思いを書きました。

2018年7月29日日曜日

テレビに、太宰治が出た。思い出のメモ。求む希望

喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ、というが、ニンゲンの心情は、そう簡単ではない。友人の健康が快調だ、と耳にすると、時には秘かに心が引くこともある。調子が良くないと聞くと、(さあ、どうなるか)と、内心、妙な興味が走る。妬みの心か、他人に抜きん出たいのか、ホンネは複雑なのが、人間です。
★テレビで、ある特番があり、作家・太宰治を知る人の話が出た。そのテレビを見た瞬時に思ったのです。太宰治の「人間失格」や、他の本は読む機会がなかったが、ずーっと以前、10年程前に、ラジオの深夜便で、ある夜、太宰治の話が耳に飛び込んできた。語る切り口に心が揺れた。話の最後の部分の、5分間ぐらいしか聞けなかったのが残念だったが、それでも飛び起きて、電気をつけて、すぐにメモした。あの頃は元気があった。それが次の内容だった。
★「太宰は聖書を熱心に読んだ。汝の敵を愛せよ。だが愛せない。太宰は「ことば」から入った「天才」だ。最高の、言葉、天才は、イエス・キリスト。太宰はイエスに惹かれたが、自分は出来ない。罰せられる者である。その後で『人間失格』を書いたが、そこには聖書の言葉は全く出てこない。だから現代のフアンが惹きつけられるのだ。完全には他人を愛せないから、せめて周りの人を大事にしていこう」。これが内容だった。誰の話だったか、わからない。太宰といえば、絶望感のイメージだったが、「聖書を熱心に読んだ」部分に、心が惹かれた。
★ニンゲンって、心の振幅は、誰でも同じじゃないか。自己には欲望があり、尽くしても、果たしても、満たされぬ渇きある。絶望と、希望。取り巻く人間にも、悩み、苦しむ。その中で救われたい。本当の幸福を求めたい。ニンゲンの叫びが聞こえてくる。「せめて周りの人を大事にしていこう」。周りの人が冷たく引く原因は、自分の根幹にあるのでないか。自分を正せば、事は丸く収まることもある。
★テレビで、太宰治を知る人は、「彼は、低い声で、ゆっくり話し、やさしい人だった」と語っていた。

2018年7月28日土曜日

子供の心に、戦争キライ。平和で、仲良く、希望を

小学生たちは、もう夏休みに入ったでしょう。6月に、小学校で、70人ほどの児童に、原爆の語り部を努めました。そのお礼と、感想文集が届きました。2年生、「れいな」さんの作文です。「わたしは、げんしばくだんのこわさが、わかりました。日本が、へいわになるように、みんなとなかよくしたほうがいいと、思いました。どのくにも、しあわせになってほしいです。だから、もう、けんかにならないように、どのくにも、なかよくしてほしいです。これからわたしは、みんなが、へいわに、くらせるように、なかよくしていきたいです」
★幼い子供たちだが、アタマの片隅に、「平和で行きたい」希望が、残るでしょう。写真をよく見てください。パネルに、3人の女の子がいます。仲良し姉妹です。隣の女の子です。私は、兄弟姉妹が居ない、一人っ子だから、隣の女の子3人と、とても仲良しでした。小学6年生と、4年生と、幼稚園の少女でした。原爆に会って、3人は、どこにも傷を受けていなかった。それが、日が経つうちに、放射能の影響で、高熱が出て、苦しんで、幼い子から次々に死んでいった。こんな悲しいことがあるか。
★3人の少女の事を、みんなに語り、話の後で、小学6年と、小学4年の児童と一緒に写真に撮ったのです。供養になるからと思いました。
★小学6年と、小学4年の児童と別れるとき、「ハイ、アクシュ」と、子供たちと握手を交わしました。1人の小学6年の男の子が、言った言葉が忘れません。「ショックだった」

2018年7月27日金曜日

大正・昭和一ケタ生まれの子供時代は、軍国一色だ

昼食です。アジの開き焼き、カルピス・ゼリー、アボカド・海藻サラダ、手前、右が、冷たいスープ。栄養師さんがトマの食卓に来て、自慢そうに言った。「このスープ、食べてごらん、おいしいよ」。一口、すすると、冷たくて、おいしい。詳しく聞けば、「トウフと牛乳、タマネギの油いため等をミキサーにかけて、冷やしたもの」。「確かに、おいしいよ」と反応を示すと栄養師さんはニコッとわらった。
★我らが食卓には、5人がいる。女性が2人で、男性が3人。男性はトマ(90歳)と瀧神父さん(87歳)と入江さん(8月1日で、94歳)。女性は93歳と、81歳。トマと瀧神父さんが、よく会話する。昼食時は、なぜか戦争中の「日の丸・弁当」が話題になった。トマの小学生の頃に「日支事変」が始まる。北朝鮮の小学校で、戦地で戦っている兵隊さんの事を思って、(週に1度だったか、定かでないが)簡素な弁当を学校に持って行った。白いご飯に、真ん中に梅干1個。これで日の丸だ。飛行機を作る材料にと、銀紙を集めた事もあった。
★その頃、学校で先生から聞いた話に、こんなのを覚えている。目を負傷した兵隊がいた。足を負傷した兵隊がいた。もう、この場所は危ない。本隊に知らせよう。だが兵隊が少ない。目の負傷者が、足を負傷した者を背負って、死にもの狂いで、本隊に知らせた。2人は、そこでバッタリ倒れる。本隊が応援に駆けつけて、勝利をおさめた。バンザイ、万歳、まさに美談だった。その美談に少年たちの心は燃えて戦場へとあこがれた。「日の丸・弁当」を兵隊さん、ありがとうと、噛み締めたわけだ。あの頃、軍国少年だったのが、惜しい気がする。ホームに居る者は、みな、そんな体験で育っている。
★大正生まれよ、昭和一ケタ生まれよ、バンザイだ、長生きして、いい人生をおくれよ。

2018年7月26日木曜日

美味・最高の冷やしソーメンは瀧の観音手前の食事処


あの味は忘れない。近くに瀧があって、清流が流れる。大きな岩石のテーブルがある。真ん中から清流が噴出している。石に細いミゾを彫って、丸ァるいツボに清流が流れてくる。手打ちのソーメン、30人分しか作らない。1人前が600円です。竹のウツワに盛ってくる。清流で冷やした手打ちのソーメンを最初に一口すすり込む。「いや、たまらんね。さすがは手打ちです。そらァ、ウマイ。忘れんアジです。
★今日、行って来ました。3人で、ね。高原修道士が運転。瀧神父さん。トマ修道士。ホームから1時間かかる。ソーメン食べるのに1時間。すりみ揚げ、これが、またウマイ。長崎産だからね。他に鶏のから揚げ、オニギリに、イナリも注文した。ホームと全然違う雰囲気です。やっぱり、いいね。仲間同士で、気持ちも安らぐ。最後に、カキ氷も頂いた。最近のカキ氷といっても、チャチな物が多い。これは子供の頃に食べたホンモノだよ。ハラのズイまで冷えた。今年の夏は、酷暑だからね。昨夜は室内で31度あった。「ゲンキなうちに、アチ、コチ、廻ります。カンベンしてください」

2018年7月25日水曜日

焼き物の里。作品・お皿が届いた。ええじゃ、ないか

1ヶ月前、ホームのドライブで、大村の焼き物の里へ行った。1ヶ月が経って、作品のお皿が焼き上がって、届いた。自画像です。気力で行こう。90歳。バラも描いた。リッパな、満足な作品です。嬉しいです。修道服を着ている。やっぱり、この服はトマの姿です。離れない。
★三度の食事のとき、15分ぐらい前から、食堂の入口のソファーに座って、10人あまりが待っている。食べるのが楽しみですからね。女性も、男性も、一緒に肩を並べて座っている。自分も、他人も、入園者としては、みんな同格です。肩の高さは一緒です。つい、つい、自分は何者か、を忘れてしまう。恐ろしい心境だ、と反省する。波に飲み込まれては、いけない。心の中で、強く思う。自分は修道士だ、の意識です。それは忘れない。忘れては、いけない。修道服は忘れない。この絵を見ながら、つい、つい、思いました。(お皿の裏は、写真)
★以前にテレビで見た、終末医療を看取っているお医者さんの証言。「死ぬときに後悔する25のこと」。それを踏まえて、やがて来る死のために、後悔しないには、どういう生き方をすればいいか。お医者さんは言う。結局、自分のやりたいことを、やっておけ、と勧める。自分の人生は、たった1度の、自分だけのもの。美味しいものを食べ、旅行をし、好きなことをし、恋をし、周りの人には優しさを、思い残すことの無い人生を生きろ、とアドバイスする。(人生、本当は、そう簡単には出来ないから、苦労する)。「しなければ、いいのは」犯罪、タバコ、イライラ人生、ガンコ、不養生。安らかに死ねるのは、神仏や来世を信じ、生きた証を残すことだ、そうだ。それは本当だろう。ホームでも見てきた。最後に言う者が、幸い。「ありがとう」

2018年7月24日火曜日

永井隆博士の「タカシ」を名付けたアメリカ青年来る


数日前の日記に書いた。18年前、アメリカから1つの家族が聖コルベ館を訪ねた。夫はアメリカ人。妻は日本人。1月3日に息子が生まれた。夫も、またその父、祖父も永井隆博士の熱愛者で、息子に「タカシ」と名を付けた。トマも永井隆先生は良く知っているので、家族を、永井夫妻の墓地や、永井記念館に連れて行った。2000年7月のことで、タカシ息子は、生後、半年あまりの赤ん坊だった。
★18年が経って、息子は大学生になり、この夏、日本へ来たので、長崎を訪問したいと、母親のお母さん・祖母から便りがあった。「会えないだろうから、写真だけでも送って下さい」と返事を出していた。
★ソレが幸運にも会える事になった。家族は、夕方、長崎に着いて、翌日、朝から聖コルベ館を訪ねた。例の2000年のアルバムも見たという。水浦神父さんから、川渕修道士の運転で、昼前にはホームに着くと電話があった。
★ホームの玄関で待っていた。出会ったのが、上の写真です。(左は応接室で、右は湯江教会で写す)。残念ながら、大学生「タカシ」君は日本語を話せない。あの赤ん坊が、見事な青年に成長した姿に何やら感動すら覚えた。正式の名前は「Wach Horie Takashi」(18歳)。「有名な博士・隆に名を貰って、どう思うか」聞いた。まだお墓にも、永井記念館にも行っていないという。本を読んでいるだけです。これから行きます、との家族の応対だった。
★昼時になったので、湯江修道院の浜田神父さんの案内で、家族4人と、トマ、水浦神父さん、川渕修道士の運転で、ホームから山へ6Km程入った「轟の瀧」の食事処で、ソーメン流しを楽しみ、語らいました。
★有名人で信仰者「永井隆博士」の名前を得て、誇りに思い、自分の道を切り開いて欲しい。ニッポンの「ナガイ」を心に納めてほしい、と願いながら、若者の前途のため祈った次第でした。家族は、みな、カトリック信徒です。18年を経過して、こういう出会いも、あるもんですね。

2018年7月23日月曜日

ポーランドから電話。ゼノ修道士の映画が出来た喜び


3年前の5月だった。ポーランドから山平さんの家族がホームを訪ねた。奥さんは、イヴォナさん、娘は、百合香といった。写真家をしている。「ポーランドで、ゼノ修道士の映画を作りたい」と希望を明かした。私がポーランドの「赤カブのスープ」が好きだ、というと、イヴォナさんから、スープの元が送られてきた。
★2年前の9月、ポーランドから映画班がホームにやってきた。「ゼノさん」を取材・撮影して廻っている。ゼノ修道士さんを知っている人にインタヴィユーしている。ゼノ修道士は、私が17歳で原爆に会った後、聖母の騎士の門を叩いたとき、最初に受付に出てきたのが、ゼノ修道士だった。また修練中に病気になって療養していたとき、私の個室の隣はゼノさんの部屋で、日々交流があった。手紙や、願い事も聞いた。ゼノ修道士と、大浦の思い出の地を一緒に廻った。写真に収めた。
★昨日、夕食をすませて、自室で憩い、夕べのアンぜラスの鐘もなり、テレビを見てくつろいでいると、「電話です」と知らせがあった。電話の主は、ポーランドの山平さんからだった。「え?ポーランドから、ですか?」「そうです」「ポーランドは今、何時ですか?」「昼前、11時半です」。山平さんの事は忘れない。百合香ちゃんも覚えている。山平さんは言った。「ゼノ修道士の映画が完成しました。8月25日(土曜日)に、ホームへ参ります。映画をお見せします」。映画は、30分。ポーランド国外務省が資金を出した。(写真は、コルベ記念館・資料室に保存しているゼノ修道士のカバン、クツ。展示はしていない)
★ゼノ修道士は、ポーランドでは一般に知られている。ゼノさんの故郷、スロべ村には、ゼノさんが祈った教会があり、その傍に、ゼノ修道士の小さな記念館もあった。今は、どうなっているか。ゼノさんの映画が出来たことで、8月は、また楽しみが増えた。

2018年7月22日日曜日

教会で祈り、ウナギも食べて、大災害義援金にも募金


朝明けです。自室の前の廊下から見た美しい風景です。心が魅せられる。感動する。朝から良い気持ちになる。生きている事実への感謝となる。エレベーターで階下へ降りる。静かなホームを歩く。戸を開けば、そこは湯江教会。右は、ホームから10歩、歩けば同じ敷地内にある湯江教会です。ステンド・グラスが魅力ある。
★小さな可愛い祈りの場です。沢山の祈りが詰まっています。ホームの入園者が亡くなれば、ここでお通夜も葬儀ミサも行ないます。仏教の人も希望があれば、一緒のミサで祈り、送ります。入園者の幸せも、困難に有る人のためにも祈ります。苦しい時、打つ勝つチカラも祈ります。親しみのある教会。心のよりどころです。老いれば、一日一日、変わらぬ生活がつづいて行けば幸いです。
★西日本に、大災害が起きました。テレビで毎日、報道されている。痛ましい災害の恐ろしさ、沢山の人が亡くなった。行方不明の人もいる。ホームでも何か援助が出来ないだろうか。食堂へ行く途中に、「義援金・募金」のポストが置かれました。少しでも助けになれば、幸いです。「助けたり、助けられたり」。お互いが助け合えば、この世は明るくなるでしょう。ホームに居れば、苦労は少ないです。
★先週の金曜日は、土用の丑の日でした。当然、ウナギが話題になりました。ホームでも出るかな?献立表を見たら、ウナギの蒲焼と載っていた。出ても、2キレ、3キレだろう。70人の入園者がいるからね、と思いきや、7キレのウナギが出て、老人たちもビックリしました。
★私「愛の反対は、憎しみでは、ない。孤独ですよね」。相手の女性は言った。「ひとりで居ても、孤独ではない。神の愛が(その人が感じるか、感じなくても)、そこに在る。それを分かる者が、幸せです」。更に私「人と居ても、心が通っていなければ、孤独なんだよね」。その後は、何故か、ハッ、ハッ、ハッと笑いこける、2人だった。

2018年7月21日土曜日

アメリカの赤ん坊「タカシ」は、大学生になっていた

長崎・聖コルベ館には、トマが毎年、作った「写真アルバム」が残っている。2000年のアルバムに、数枚の写真と説明がある。
★アメリカから来た家族。夫はアメリカ人。妻た日本人。夫は大の「永井隆博士」のファンで、本を読んで感動した。息子に「タカシ」の名前をつけた。母は、東京住い。永井記念館で、永井誠一(まこと)館長に抱かれ(左の写真)、永井博士の墓に参り、外海をめぐった。2000年7月のことだった。
★あれから18年の歳月が流れる。東京のんからホームのトマに手紙とお菓子の贈り物が届いた。本当にびっくお母さりした次第です。
★「その後、いかがお過ごしでいらっしゃいますか。同封した写真は、2000年の6月に、長崎に伺った時のものですが、1月3日に誕生し、永井隆様のお名前を頂いて命名した私の次女の長男、隆君を連れて、伺った時のものです。(コルベ記念館のアルバムに入れてくださいました)
★小崎修道士様が、私共をご案内くださり、外海までドライブしてくださり、永井博士のお墓にもお連れくださった(右の写真)時の感謝がいつも心にあります。ありがとうございました。
★9月から隆君は大学生ですので、この度、次女と2人で、東京に参りましたので、隆を、永井隆記念館に連れて行くことにいたしました。夫のお父様が、昔から、ずっと永井博士を尊敬しておられ、隆君が誕生の時に、お祖父ちゃまが、孫に「隆」と名付けました。今回、隆を連れて行くのを、私は本当に喜んでおります」
★手紙は、これで終わりだった。トマは直ぐ、お菓子のお礼の手紙を書いた。「隆君に会いたいけれど、せめて長崎へ来られた時の写真、永井記念館などの写真の「タカシ」君を見たいので、送って下さい」と記した。永井隆博士の墓に立つ赤ん坊が、大学生になっている。どんな子になっているのだろう。それにしてもコルベ記念館のアルバムに残していたのには価値があったと喜んでいる。どこで、いつ、花が開くか、恵みが開花するか、人知には分からない。(下の写真は、永井隆博士とみどり夫人のお墓にて)

2018年7月20日金曜日

定期診察で長崎へ。天主堂の坂に、立て看板。絶句す

長崎の定期・診察のクリニック玄関です。行く日は、どうも気が重い。朝食は修道院でお世話になる。焼いたパン1枚、上にチーズ。牛乳。決まっているが、今朝は大きな桃1個、それに「トコロテン」があった。おなかが満腹になる。90歳の腹には、こたえるよ。8時5分に出発する。高原修道士は車を走らせる。
★1時間と少々でクリニックに着いた。待つ患者は、2、3人。少ない。「しめた」と思う。早々と名前を呼ばれた。高原修道士も呼ばれた。10時には終わる。ホッと、する。このクリニックには毎月、もう十何年も通っている。酷暑だし、最近は早くホームに帰りたい。
★車が、浦上天主堂を通る時、天主堂の登り坂に、立て看板が見えた。(あ?誰かの葬儀かな?)。素早く見ると、「佐藤神父」の字が瞬時に読めた。(え?あの佐藤神父さま?)。ホームに帰ったのは、昼食にまだ十分な時間があった。新聞の「おくやみ欄」を見ると、「佐藤哲夫さん、92」とあった。佐藤神父さまが亡くなった。私は、よく知っている。原爆のとき、同じトンネル工場で働いていた。
★佐藤神父さまの家は、私の家より、爆心地に近い場所にあった。佐藤神父さまも、私も、被爆直後、燃えさかる家に帰っている。戦後、姉か、妹が、北海道のトラピスチン修道女院に入ると言う事で、同行した佐藤神父さまも北海道のトラピスト修道院へ入会した。その後、司祭になったが、原爆症になり、聖書を読みながら、鼻から血が流れ落ちていた。苦労されたそうだ。長崎教区の司祭になられた、話を聞いていた。
★話が、とても面白い神父さまだった。度々お会いして、原爆の話をお互いに語り合った。佐藤神父さまは原爆症で苦労されたが、私は大した症状もなく、この歳まで生きた。佐藤神父さまが、2つ年上だった。被爆のときは19歳。私は17歳。同じ工場の仲間として、神に召された佐藤哲夫神父さまの安息を祈ります。

2018年7月19日木曜日

朝日新聞の記者の思い出。今、海外で活躍。アーメン

もう10年前になる。聖コルベ館に、朝日新聞の記者が来て、「小崎さんの原爆体験やコルベ神父のことを記事、『ナガサキ・ノート』に書きたい」と言った。その記者の名前が「岡田玄・30歳」だった。記事は年末に始まり、正月も通して16回で終了した。岡田玄・記者は度々訪れて、満足する記事を書いてくれた。書くのが商売だけあって、記事もよくまとまっていた。岡田玄さんの名前は忘れなかった。
★朝日新聞の長崎局は、地方なので、岡田さんにとっては駆け出しの局だったらしい。その後、彼は九州の別の局に転勤となった。長年が経って、1度、朝日新聞の2、3頁の箇所に、かなり広い範囲の記事を書いたのを覚えている。なぜか「岡田玄(おかだ・げん)」は言いやすく、忘れない。彼の世話にもなっている。
★私は朝日新聞を取っているが、昨日の記事に「特派員メモ」があり、「岡田玄」の名前を見つけた。グアテマラに居るらしい。今は海外で活躍しているのかと思うと、「やるナァ、玄よ」と言いたくなる。その記事が又、面白かった。同僚のグアテマラ人のカメラマンが居て、彼は熱心なキリスト信者で、食事や取材に出るときは必ずお祈りをして、最後に「アーメン」と言う。火山の噴火の被災地に取材に行った。カメラマンは被災者たちの手をとって、祈り始める。「みなの魂が安らかでありますように」。この時は、ついつい岡田玄も、素直に「アーメン」と言ったそうだ。岡田玄は恐らく長崎の原爆のこと、カトリックの地・長崎を取材したことなど思い出したのであろう、と私は思った。新聞記者の岡田玄、今は40歳。カラダに気をつけて、がんばれよ。健筆を祈る。
★なお、岡田玄が書いた「ナガサキ・ノート」は、「小崎登明の部屋」を検索して、左側、上に「朝日新聞」の項がある。そこを検索すると出てきます。ごらんください。

2018年7月18日水曜日

夏、ソーメン流しだ。酷暑に負けずに、本物をつかめ


「ああ、夏が来た感じだな」「予はマンゾクじゃ」「どんどん流してくれよ」。昼食は「ソーメン流し」でした。夏の風物詩だよ。職員の努力も大変だね。先ず天井のビニール屋根を伸ばして、脚立を組んで、新しい大きな竹を貰いに行って、それを交互にかわして、水を引く。水道の水じゃない。ホームは地下水だよ。冷たい清い水を庭からホースで流し込む。これだけ準備しても、屋外で「流しソーメン」を楽しむ入園者は男性が僅かでした。ソーメンを食べた後は、食堂に入り、食卓に、ご飯もあり、枝豆と、焼き鳥もあり、白いヨーグルトのような一品もあった。ホームにも今年は異常な酷暑が襲い掛かる。でも室内に居ると、冷房がきって涼しく過ごしています。
★今朝、老・司祭の言葉「祈り、愛、清さ」を思い出した。真に祈る人から、オーラが出る。清さには、ウラのない本物がある。信用できる。では、愛から出るものは、何だろう。むかし、カブトに「愛」の文字を記した武将がいた。私のアタマの中にも、愛の文字は書かれているが、「神は愛なり」と、真実の愛を体験するには、また、祈りと、清さに、戻るのでしょうか。教えてください。

2018年7月17日火曜日

NHK長崎テレビに又、出ました。うまく、まとめた

長崎・天草の潜伏キリシタンが世界遺産になった。テレビでも次々に報道された。長崎には民放が4社ある。そのいずれも、この件について取り上げていた。先週の金曜日、NHK長崎は、夜の特別番組で、「ロザリオの記憶」を放送した。「小崎さん、出ますからね」。NHKの担当者から電話があった。以前に放送した「岳踊り(たけ・おどり)」が挿入されていた。ホームの全景も、小崎の語りも出ていた。
★潜伏キリシタンといえば、隠れての信仰、秘かに唱えるオラッショ。一般的に、暗い感じがする。その中でNHKが取り上げたのは、「岳踊り」。喜びの踊り、五島の三井楽・岳の36人衆は迫害に遭い、踏み絵を強いられたが、1人も踏まなかった。迫害が終わって、苦難も跳ね除け、喜びに湧く信仰者たちは、歓喜の踊りに託した。
★今、岳踊りを踊る信者たちは、その由来を分からなかった。幸い、小崎修道士が1971年頃に現地を取材して、古老から岳踊りの由来を聞いていた。それがNHKのお役に立ったのです。
★こう1つ、この放送で感銘を受けたのが、五島の奈留島に教会がある。51年前に司祭を目指す少年が出たので、教会周辺の信徒たちが、夕方、教会に集って祈りの習慣ができた。「めでたし組」という。その少年が成長して、後、2,3年で司祭に挙げられる時がきた。彼は迷い、この道を外れようと思い悩む。すると、夫と3人の子供を失った女性がきて、「きつかでしょうが、どうか司祭になって、私どもの相手をしてください。頼るものは、どこにもありません」と言って、500円札をポケットへ入れた。彼は心を元に戻して司祭の勉強をつづけ、立派な司祭になって、大きな活躍をしている。
★NHKで、この話題の現実を見たとき、思った。五島の信徒と司祭の出会い。浦上信徒とプチジャン神父の出会い、日本にキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエル神父と信徒たちとの出会い、そこにキリシタンの思い、心があるのでないか。潜伏キリシタンたちは「7代経ったら、ローマからパパの船が来て、宣教師がくる」と、その思いを子から孫へと伝えて250年間期待し、希望し、オラッショを唱えつづけてきた。素晴らしい250年であったし、現在に至ったと思う次第です。

2018年7月16日月曜日

傾聴ボランチア女性が来る。待っていた自分の語り

電話があって、予定の日が告げられていた。その日を待っている。炎熱の夏に、傾聴さんが来た。とにかく感心です。長崎市から電車に乗って、自腹でキップを買って、駅を降りてバスに乗って、歩いてホームへ。費用も、時間も、他人の悩み事の傾聴に費やして、我慢して忍耐して、全くの無報酬で帰って行く。相手が「ああ、話を聞いてくれたんだな」と思えば、それでいい、と言われる。世の中には、こういう女性も居るのだな、感心しながらも待っている心情が私には、ある。
★歳老いてくれば、将来に対する不安はある。ホームでも、歩いていた人が、何かの原因で、急に車椅子になる。急激な変化を見ている。終末医療というか、どんな病気になって苦しむのか。その苦難を、どのように消化していくか、課題だろう。
★心かけているのは、生活のリズムを崩さないこと。教会や自室で祈り、三食完食し、毎日、大のトイレがあり、よく眠る。そのために朝食は「おかゆ・大目」。昼食は「常食」。夕食は「おかゆ・軽く」。いまの所、これが調子が良い。外出した時に乱れるので困る。
★歩くチカラ、足が弱っているのは確かだ。それでも求められれば応じている。小学校での語り部や、両親の墓参り。やっぱりカラだに堪える。
★ホームの生活は本当に単調だが、もう慣れてきた。毎日、日記を書くのは楽しみでもあり、ボケ防止でもある。読んでくださる人も居るので、有り難い。支えてくださる人が居るのが、生きる推進力にもなる。勿論、内容に乏しいので苦労はしているが、何とか書いている。
★書く内容は、ホームの生活、出来事もそうだが、「人間が生きること」「生きる価値」など考えたいと思う。未熟な考えであっても、自分の言葉として印し、心に刻みたい。
★「お前には、生きつづける、義務がある」
★傾聴ボランチアさん、また来て下さい。待っています。面会人は、白浜さんと、東京の松尾修道士さんが来た。

2018年7月15日日曜日

遠藤先生の思い出。1981年頃。マジメなお人柄

昨日、日記に遠藤先生の事を書いたが、どうしても、この写真を載せたくなった。遠藤先生が長崎へ取材に来たとき、トマが案内した記念の写真です。朝日新聞に、「女の一生・第2部」を連載される少し前で、この時、トマが作成した「長崎のコルベ神父・資料集」を差し上げた。この資料集が、女の一生・第2部の執筆に役立ったそうで、お丁寧なお手紙まで戴いた。
★その後、東京で、コルベ神父の列聖にちなんで、遠藤先生と対談した。遠藤さんは快く引き受けてくださった。対談で、遠藤さんが言われた言葉を忘れない。
★「小崎さん、あなたは僕に、修道士になる前の話をタクシーの中でしてくれたでしょう。長崎で。戦争中、あなたが原爆で、助けを求める人の手を振り切って逃げた話を。アウシュヴィッツとよく似た世界におられたわけだ。ああいう時、パンを誰も与えることはできない。僕が隣の奴のパンを盗んで食べてしまったとしても、あなたは僕に、極限状態だから仕方がないと言ってくれると思うんですよ。病人がおってもですよ。コレ食わなかったら、フラフラになってガス室行きでしょう。
★そういう世界の中で、自分のパンを枕元に置いて行った人がいた。そういう、ごく小数の人が、人間の威厳を救ってくれた。人間はまだ信ずるに足ると思わせてくれるいる人だという気がしますね。その象徴としてコルベ神父様がいる感じで」
★遠藤先生は「狐狸庵先生」のイメージとは程遠く、まじめで暖かいお人柄を感じた。2時間半の対談で、お別れに色紙に一筆お願いすると、細い字で、次のように書いてくださった。「多く愛するものは、多く許さるるなり」

2018年7月14日土曜日

遠藤周作氏と外海。波紋の「沈黙」。出津でパスタを


名作・遠藤周作の「沈黙」より。2人の宣教師は、船で陸地に近づく。「真夜中、船はふたたびできるだけ静かに動きだしました。が幸い月がないため空は真暗で誰にも発見されません。半レグワほどの高さの陸地が少しずつ迫ってきます。両側が急な山の迫っている入江にはいりこんだことに気がつきました。浜のむこうに押しつぶされたような家々の塊が見えたのもこの時です」
★外海・黒崎の海岸。城(じょう)と呼ばれる山が2つ。遠藤先生が想像したのは、あの山の迫った入江に上陸したのだろう。右は、黒崎・集落の家々です。「沈黙」が出版された頃、新聞1頁に、黒崎教会の内部写真が載っていて、説明文が書かれていた。「沈黙」の舞台は、どうやら黒崎だったようだが、好意をもって受けていない。
★以前、瀧神父さんがトマに、こう言った。「むかし、アメリカ人の司祭が居て、沈黙の遠藤さんの作品を、最初は、一切、受け付けなかった。否定に近い。ところが、若者と遠藤さんのインタビューをテレビでみたとき、若者が聞いた。なぜ、あなたはカトリックなのか。遠藤、答えて、私には、それしか、ない。このひと言で、その司祭の遠藤観は一転したんです。それから遠藤、さま、さま、となった。遠藤は、偉いと言い続けた」
★この言葉を瀧神父さんから聞いたとき、私、トマは思ったよ。「そうだよ。知った以上は、捨てられない」。これさ。だれ、それが、例え、神は居ない、魂はない、と叫んでも、信じて、受け継いだ者にとって、知ったからのは、捨てられない。その根性が、ニンゲンには、ある。
★遠藤文学館から望んだ出津の集落。この日は霞んで、建物がよく見えなかった。昼食は、ド・ロ神父記念館の、坂道をへだてた民家のレストランで、ド・ロさま・パスタをおいしくいただいた。主人の女性が長年、黒崎役場に勤めていた。同行のシスターの兄も、松下修道士さんの兄も、同じ頃、黒崎役場に勤めていた。「よく知っています」などで、パスタ料はタダで、更にパスタのみやげものを戴いた。黒崎の墓参りは、本当に松下修道士さんにお世話になった。写真は松下昭征修道士さんです。

2018年7月13日金曜日

子供の頃の思い出。恵み。赤レンガ黒崎教会で祈る


両親、家族の墓は、黒崎教会墓地にある。昔は段々畑だった狭い場所を、信徒の墓地に造り変えた。家の墓地は石段の途中にあり、行くのが高齢者には危険です。助けてくれたのが松下修道士さんでした。松下さんの細やかな配慮が本当に嬉しい。支えられて外海行きをは果たした。
★墓地の次に行くのは、黒崎教会でしょう。赤レンガの堂々たる天主堂です。戦争中はアメリカ軍の空襲を避けるため、黒色に塗りつぶした。戦後、洗い流して、元の色を甦らせた。誇れる教会です。15歳の頃、しばらく黒崎の伯父の家で暮らした。毎朝、ミサに通った。女部屋の「あねさん」から要理を教えられた。信仰が深い、優しいあねさんでした。木に登って、要理を丸暗記した。戦時中、黒崎教会で堅信を受けた。教会下に、小さな川がある。「あそこで、よく泳いだよ」と松下さん。
★教会の中は、ごらんの通りです。こうもり傘天井、柱など、昔のままです。ただ、床は板張りだった。祈祷台はなかった。寒い冬など、床の冷たさは子供にも堪えた。
★教会の右側に、聖母の小祭壇がある。その聖母マリアと御子イエスのお姿に惚れた。子供の頃、眺めて、見とれた。お気に入りのご像です。17歳、原爆の後で、伯父の家で1ヶ月ほど療養した。被爆の症状があらわれ、皮膚に吹き出物がでて、周囲の人に気が引けた。17歳の少年は決心して、ある雨の日、黒崎の浜からポンポン船に乗って、長崎港へ。上陸すると真っ直ぐに聖母の騎士へ向かった。コルベ神父の小神学校へ入った。新しい人生が始まった。
★黒崎教会から出津に向かう。松下修道士さんが「『トマの日記』を見た。よく古い写真があったね。昭和30年代だろう」と言った。トマ「そう、30年代。あの場所は、どこだろう。橋が写っているから、教会の下の場所と思うが、階段が見えるのが、わからない」。松下修道士「あの場所は、ここら辺だよ」と撮ったのが、右の場所です。階段は、教会へ登る石段だった。この場所は「女部屋」があった。門の柱が2つ残っている。

2018年7月12日木曜日

念願の墓参。松下修道士さんのおかげで立派に果たす


すべて松下昭征(あきゆき)修道士さんのおかげです。私たち2人の墓参のために、パラソルと折りたたみ椅子を2脚、準備、備えてくださっている。今日で3度目です。母の命日は、8月9日、真夏です。それで1ヶ月前に、今日、墓参りに出かけた。
★7月でも暑い。熱中症が心配です。ロザリオを唱えながら、倒れるのでないか、もし倒れたら救急車は来ない。そういう場所です。ホームで、朝食が終わると、もう松下修道士さんが新車の軽で迎えに来ていた。トマを乗せて、1時間、恵みが丘で、従姉のシスターを乗せて、外海・黒崎へ。
★真っ先に、墓地へ着いた。ごらんの通り、トマと、従姉のシスターは、パラソルの影で、家族の死者のため、両親のため、ロザリオを祈りました。熱中症に気を使って、ポカリを2本備えて、少しづつ飲んだ。おかげで倒れることもなく、望みは果たしました。出津の風景を見ながら満足でした。潜伏キリシタン関連遺産にもなっている。あらためた気持ちで眺めました。シスターを送り、ホームへ帰ったのは、夕食の前です。詳しいことは、また明日、書きましょう。

2018年7月11日水曜日

黒崎教会の思い出。出身の司祭たち。両親の墓もある


外海・黒崎教会。昭和30年代の写真です。この頃、まだ食料難で、聖母の騎士から、黒崎の信者の家々に、芋や、野菜を貰いに行っていた。下が、その写真で、黒く写っている姿が、トマです。黒崎の信者たちは、快く、食料を寄付してくれた。写真の道路をみると、まだ舗装されていない。土や、ジャリの道です。貧しい農家の村でしたが、信者たちは、聖母の騎士には好意を持っていた。お礼に、ポーランド人修道士ロムアルドさんが、映写機を黒崎へ運んで、アメリカの映画、キリストの生涯や、パドアの聖アントニオ、聖母マリアのご出現など、上映して見せていた。テレビが普及しない時代で、歓迎と、感動をもって受け入れられた。
★トマは、北朝鮮の雄基(ゆぅき)で生まれた。ロシア、中国の国境に接した町です。しかし戸籍では、黒崎で生まれになっている。トマの記憶では、黒崎に初めて訪れたのは、昭和18年頃、15歳のときだった。自分では「黒崎出身」とは言えなかった。それを「お前も、黒崎出身だ」と仲間に入れてくれたのが教区の司祭、黒崎出身の「川原義和神父さま」だった。
★黒崎出身の高野利雄神父さまが、司祭叙階の金祝を黒崎教会で行なった。川原神父さまの招きで、初めて黒崎出身としてトマも仲間に入った。祝賀会があったが、参列の黒崎出身の教区司祭は5人。シスターは20人以上がいた。川原神父さまは、トマに「乾杯の音頭をとれ」と命じた。「いや、トマは修道士だから」と辞退したが、「どうしても、やれ」と言われて、司祭やシスターの身近で、「カンパイ」とやったのは、今でも恐縮に思う。懐かしい思い出にもなった。その高野神父さまも、今年、神に召された。93歳であった。
★ホームに入って、トマも松下修道士と共に、誓願金祝をお祝いした。黒崎教会では、司祭叙階金祝と同じように、祝賀ミサ、その後、司祭・修道者だけの祝賀会もあった。高野神父さまは出席されたが、川原神父さまは故人となっていた。
★明日は、黒崎へ両親、田川家の墓参りに行く予定です。久しぶりに黒崎教会も参詣できるでしょう。松下修道士が連れて行ってくれます。

2018年7月10日火曜日

ご計画と、ご縁が、あったればこそ、生きてこれた

ホームらしい風景の一こまです。わかるでしょう、なんの器具だか。人は誰しも老いると、この「手押し車」にお世話になるのです。長く生きれば、それなりに苦労はあります。それでも皆さんは喜んで、耐えております。生きるのは有り難い。せいイッパイ生きよう。
★幸い、いま、カラだの調子は、いいようです。人生なんて、ウンと、エン、ですよ。(ウンと言ったらダメかな)。信仰的にいったら、主のご計画だよね。ウンは、いつ病気がみつかったか。エンは、いい医者にめぐり合ったか。病気はそれで、左右されるのは、確かです。
★今まで、生きたということは、ご計画と、ご縁が、あったれば、こそです。真夜中のヘッドライト。「いま、見えるところまでを、努力する。先のことは、わからない」。それで、行こうよ。我が友よ。
★手押し車は、チャンと買って、我が部屋に準備してあります。

2018年7月9日月曜日

七夕の飾りは未だある。願いはサマザマ。幸も辛いも

ホームの玄関に飾られた「七夕の願い事」。何と書かれているか覗いてみた。「大谷、二刀流で、気張れ、チェスト」「聖書は、人の涙に、あふれています」「これ以上、年を取りたくないです。病気をしたくない」「痛いの、痛いの、飛んで、いけ」「七夕や、遠くに去りし、人憶(おも)う」「一日一日を大切に、みんなが幸せになるように」「これからも、みんなに、可愛がってもらえますように」
★女性が言った。「未来をみる。過去を振り返る。それは幸せに導かない。今だけを100%生きること、それが幸せ。今を見つめる現実。苦しみや、辛さの中で、『ありがとう』と感謝の言葉をつぶやいて、ごらん。自分が楽になる。自分よりも、もっと苦しんでいる人がいる」
★今朝、朝食のとき、隣の席の瀧神父さんが言った。「ミサで、お父さん、お母さんのため、祈ったからね」「ああ、そうだ、『9』の日だね。ありがとう」。8月9日が母の被爆死の日。9は、月・命日。瀧神父さんは、この日には、トマの両親のための意向でミサを祈る、と言ってくださっている。身近に司祭が居られるのは有り難い。
★隣の席の入江さんが、「昨日、昼下がり、瀧神父さんの部屋を訪ねると、ベッドに横になっていて(午睡の時間)、手にはロザリオがあった。感心したよ。さすが司祭だね」と言いつつ、拍手した。瀧神父さんは答えた。「寝たきりになった時の練習だよ」
★朝食の後、体操が終わって、入浴した。入江さんも一緒だった。入江さんも歳をとった。8月1日が誕生日で、94歳になる。よく頑張っているよ。もう、トマの背中は流さない。
★廊下に出ると、自室の壁に「田川幸一」と名前が貼ってある。(簡単で、あっさりして、いい名前やなァ)と正直、思う。両親が、幸いあれ、と思って付けたのだろうが、[幸」から、1本、一を抜けば、「辛」(ツライ)となる。み旨のままに、幸もツライも受け止めて、生きていきたいと、七夕の飾りに思う。

2018年7月8日日曜日

突然アメリカ人たちがホーム訪問。原爆の話を聞く

男子の職員が自室に来て言った。「いまアメリカ人たちが10人ほどホームに来ていて、廻っているが、原爆の話を聞きたいと言っている。出来ますか?」。即答した。「ああ、出来るよ」「時間は余りないそうです。5分、10分」「それでも、いいよ。行きますから」
★修道服に着替えて、食堂へ行った。先ず目に付いたのが、写真の私の後ろに居るコンベンツアル修道服を着た神父さんだった。「ああ、うちの会じゃないか」。修道服を見ると、一緒なんだ、と嬉しいね。写真、右側に修道院の浜田神父さんも案内役で居る。その隣は、本修道会の二コラス神父さん(愛知県瀬戸教会の主任)。「なんーだ」「「車椅子で来るかと思った」。中央の、青いシマの入ったシャツを着た若者が「原爆の話を聞きたい」と言う。「90だ」というと、「おー、おー」の声が上がった。訪ねてくれるのは有り難い。
★10分位で話せ、そりゃムリだよ。お決まりの話を語った。通訳は日本人の女性。家は爆心地から500m。家も母も吹っ飛んで、母の遺体も捜せない。こんな話を聞くと誰でも悲しいよ。私は17歳。家から歩いて30分のトンネル工場で働いていた。質問「被爆の瞬間、トンネル内はどうなったか?」。18日間、原爆の丘で暮らした。
★浦上天主堂が一瞬に崩壊。何日も燃え続けた。毎晩、燃える火を見て泣いた。これだけは強調したかった。私は念を押したよ。「原爆は2度と使用してはならない。今の核兵器は何十倍、何百倍に威力を発揮する。大きな被害が生じる。平和であることを望む」。幾つかの質問もあった。「トンネル工場で何を造っていたのか」「真珠湾攻撃で使った爆弾(魚雷)を造っていた」「なぜ修道会へ入ったのか」。母に導かれて聖母の騎士のルルドへ。戦争が終わって、直ぐに入った。「あなたの健康は大丈夫か」「ガンにも、なったよ」「どこのガンか」「そんなこと、言えないよ」
★彼らは、他の国からアメリカへ帰る途中に、3泊だけ長崎へ寄った。聖母の騎士修道院を訪ねて、ここへ来た。次に小長井の施設を訪ねる予定と言う。青いシマのシャツ男に聞いた。「あなたの職業は何か」「政府の仕事をしていたがー」と答えた。
★突然の訪問者たちだが、ホームに居れば、どんな人でも好意をもって歓迎する。何事も、体験を伝えるのは老人の仕事と考えて、快く応じている。また、イラッシャイ。