2016年2月29日月曜日

善意に支えられ、生きてきた、88年。感謝しか、ない

白浜さんから戴いた「祝・米寿」のケーキです。大きなローソク、8本。少し小柄なローソクも、8本。フルーツが盛りだくさん。火をつけて、写真に撮ればよかったな。感謝して、喜んで、食べました。
★「米寿を迎えて、何を感じますか」
★人は、一人では、生きられない。生まれて、この方、沢山の人に助けられて、ここまで生きてきたのを先ず感じます。
★先日、訪ねてきたオーストラリア人が、質問の箇条を用意していて、最初に聞いたのが、「あなたは、日本人に生まれて、よかったと思いますか」「あなたは、カトリック信者として生まれて、よかったと思いますか」だった。いい国に生まれたと思っている。それは戦争、原爆という悲惨な状況もあった。日本人として、カトリック信者として、人生を貫いて、この世を生きてきたことを幸いだと思っている。
★次に感じるのは、ホームで生活している寂しさです。修道者は、修道院で共同生活をして、共に祈り、笑い、働きを共有するのが普通です。一人で、ホームの皆さんの中で生活するのは、やはり寂しさを感じます。でも、これも神さまの定めになった道だろうと、感謝して受け止めています。3月1日の米寿の祝いには、長崎から、10人ほどの修道者が祝ってくれるそうです。

2016年2月28日日曜日

もう八十八の米寿のお祝いのケーキが贈られた

日曜日。朝食のあと、しばらくして入浴する。いつもの通り、背中を流してくれる男性といっしょだった。湯船は、かなり広いので、身も心も、ゆっくりの気持ちになる。90歳とおもっていたら、92だという。きょうも、黙っていても、背中を流してくれる。
★自室に戻って、一息入れると、長崎から白浜さんがやって来た。「トマさん、おめでとう」。誕生日をお祝いするケーキだった。白浜さんは、長崎市内で、おいしいケーキ屋さんを知っている。これまで何年も、そのケーキ屋さんの誕生ケーキをわたしのために贈りつづけてきた。
★聖コルベ館の近況を教えてくれた。フェースブックに載せているそうだ。ファイルに収めた記事を広げて見せる。また「登明日記」もファイルに入れて、持ってきた。テレビの上に並べて納めているが、15冊になった。
★「写真を撮らせて・・・」。写したが、「白浜さん、目は眠っているよ」。ところで、抱えているのは、どんなケーキか、あけて、見るまでが、お楽しみ。

2016年2月27日土曜日

オーストラリア人の男性が、長崎・研究にやって来た

「わたしは、オーストラリア人です。歳は、43歳。大学の博士研究員をしています。お話をお伺いするため,来ました。よろしくお願いします」。1週間ほど前に、電話があった、その人が、ホームへやって来た。長崎は、冬といえども寒いのに、上着を脱げば、シャツ1枚。日本語は、上手で、会話にさしつかえは、ない。
★訪ねられた当方は、まず知りたいのは、なんで、どこから、小崎の名前を知っているのか。それが興味の始まりです。紹介してくれた女性の名前を言ったが、わたしの知らない人だった。
★16歳のとき、日本へ来て、それから何度も来ている。四国の公立の中学校で、英語の教師をした経験もある。オーストラリアの大学では、地歴のほか、日本語も教えている。
★博士論文のために、もう、3回、日本へ来た。テーマは、長崎です。興味のきっかけは、自分もキリスト信者で、長崎に、キリシタンの歴史があって、殉教、迫害に耐えて、更に戦争で原爆の受難をうけた。「原爆前と、あとのカトリックの記憶です」。彼が言った3つの言葉。「十字架」「マリア」「浦上天主堂」。それに就いて聞きたい。大きなテーマだよ。せっかく来た研究者だから、知っている限り、応対した。彼は、満足して、帰ったよ。

2016年2月26日金曜日

35年前になるか。パパさまが長崎へ平和巡礼された日

2月26日は、忘れもしない、パパさま(ヨハネ・パウロ2世)が、長崎を平和巡礼された日です。(この写真は、そのときの場面ではないのですが、パパさまの写真が手元にないので載せました)
★1981年ですから、もう、35年前になります。ということは、40歳ぐらいの人は覚えていないことになる。それだけ時間が経ったんですね。
★昔のキリシタンたちは、7代経ったら、ローマからパパさまの舟がやって来る、そして信仰が自由になる、と希望をもって、信仰を子孫に伝えて守ってきました。それが、本物のパパさまが、実際に来られたので、信者たちの喜びは、大きかった。誰もが、胸を躍らせて、パパさまを歓迎し、喜びでお迎えしました。折りしも、その日は、思わぬ大雪にみまわれ、寒風吹きすさむ厳しい日でしたが、寒さも忘れて、賛美歌を歌い、ミサで祈りました。
★長崎の聖母の騎士に来られたときは、特に、ポーランド人の修道者たちは大きな喜びでした。10人ほど、コルベ神父の弟子たちが居ましたが、1人の修道士セルギウスさんは、「ポーランド人も、こんなに偉いヒトが居るんだなア」と、涙を流して喜びました。
★聖母の騎士の教会で、パパさまは、急に、大きなお声で、「パーテル、ノステル・・・(天に、まします)」をラテン語で歌われました。そして、福者コルベ神父の祭壇前に、ひざまずいて、祈られた。そのとき、教会は深い沈黙にひたされた。翌年、1982年、コルベ神父は聖人にあげられました。現在も、パパさまがお座りになった椅子と、ひざまずかれた祈祷台、2基が大切に保存されている。
★聖ヨハネ・パウロ2世の言葉です。「戦争は、人間の仕業です」。こころの底から平和をお望みになるパパさまでした。その思い出は、いつまでも消えない。

2016年2月25日木曜日

米寿のお祝いに、バックが届く。蔵彩布です。嬉しい

「生まれは、どこですか?」。そう聞かれるのが、ちょっと胸が苦しい。「東京です」「大阪です」「東北です」「九州です」。どれも、ひびきは、いいじゃありませんか。ふるさとに、誇りがもてる。
★わたしは、「北朝鮮です」。そう語るには、説明がいる。説明が長いーンだな。わたしの父親は、男、4人、兄弟です。長男、次男、三男、四男。父は、三男。生まれた長崎の田舎は貧しいから、長男だけが畑をもらって家を継いだ。あと、残りの男三人は、出稼ぎに出た。普通なら、名古屋や、関西あたりに行くのだが、三人は、ロシアへ渡った。余りにも寒いので、下ってきて、北朝鮮の海辺の町で、三人は商売を始めた。現地で、生まれたのが、わたしです。
★母から聞いた話によると、誕生日は、2月25日。本当なら、きょうが誕生日にあたる。誕生の知らせは、長崎の長男の田舎の役場に届けられた。なぜか、3月1日になった。
★本当の誕生日にふさわしく、浜松のひろみさんから、プレゼントが届いた。それが、このバックです。「蔵彩布」とある。説明に、「お酒を醸造するときに使われる酒フクロをイメージして染められた染布です」。ひろみさんのコメントも入っていた。「通院、買い物のときにお使いください。デジカメ、携帯が、外ポケットに入るようです」。ひろみさん、贈り物、ありがとう。きょう、もらったのが嬉しかった。喜んで使います。

2016年2月24日水曜日

新聞に、「自分の寿命を知りたい?」。賛否は、半々

あと、1週間で、誕生日がくる。
★去年の誕生日には、ホームで職員さんから色紙を戴いた。それが、この色紙です。大きく『心』と、見事な字で書いてある。自室の壁に、大切に下げて飾っている。
★書いてくれた職員さんは、ほぼ、誰か、検討はついている。それで、この間、出会いがしらに、頼んでおいた。「誕生日には、ね。また、色紙ば、くれんね」。「ウ、ハ、ハ、ハ・・・・」と、明るく笑いながら反応したから、やっぱり、この女性だ。職員さんは、問うた。「なんという字が、いいの?」「そうね、88、かな」。こんな会話をしておいたから、楽しみだな。期待しています。
★ところで、新聞の記事に、「自分の寿命を、知りたい?」と、こんなタイトルで囲み記事があり、賛否の統計が出ていた。それによると、「はい」が、48%で、「いいえ」が、52%だった。ハイの理由は、知るほうが人生を有意義にできる。いいえの理由も、同じく、知らないほうが有意義にできる。それと、物事には、知らない方がよい場合もある、でした。
★わたしは知りたいと思ったね。これから「何年、生きるか」。ホームの老人たちは、そんなに長く生きたくないと、おっしゃる。でもお迎えが来ないのだよ、と笑っている。長く生きると、それだけ病気への不安がつづくし、経験もするだろう。今まで、沢山、やり尽した。これから何年、痛み、苦しむのか、それを考えると、残された寿命を知りたいです。
★まだ、つぐないも、残っているし、ね。

2016年2月23日火曜日

黒いカゲから、オーラは出るか。いや、いや、ふつう

聖コルベ館に居たとき、これに似た写真を撮ったことがあったが、また偶然にも撮れたので、載せました。
★修道士といっても、ホームに入れば、普通の入居者です。普通の男性です。入居して、長い間、修道服は着けていなかった。黒色のシャツを着て、ミサにも祈っていた。クリスマス・イブから、毎朝のミサには、修道服を着て、祈ることにしています。
★まわりの人は、「田川さん」と呼ぶが、「おニイちゃん」とか、「オンちゃん」とか、声をかけられることもある。「修道士さん」もあった。「トマさん」もある。黒いカゲが伸びるごとく、何が、何やら、まよいます。「ああ、あのヒトは、ちょっと、違うな」。そういうオーラが有りや、いなや。人間は見た感じは変わりません。人生は、まさか、まさかの、連続です。
★大阪の孝子さんから、「さびしかろう」と、宅急便が届いた。お菓子ばかりの小包です。フクロ入りや、箱入りの食べ物ばかり、15個あまり入っていた。「こんなに食べませんよ」。電話をかけた。低い、それでもゲンキな声が聞こえる。100歳になる。まだ、まだ歩けます。教会にも、毎日曜日、出かけています。手編みをしたり、手仕事をしたり、孝子さんのことは知っている。もう10何年になるか。ポーランド巡礼で、いっしょに同行した。それからの、つながりです。長生きのヒケツも、そんなマメな行動にあるのだろう。はずかしくて、自分の歳は言えないよ。

2016年2月22日月曜日

昼食は、ナベの日。ラーメンは、こころを温める

老人にとって、食べるのは楽しみです。食べる人は、ゲンキがある。昼食は『ナベの日』でした。
★1つの食卓に、6人が座っている。男性が、2人に、女性が、4人。ここの食卓は皆さんがカトリック。食前、食後には、お祈りをする。「十字架の仕方が、よくない」と注意されるときもあります。「父と、子と・・・」。右手をヒタイから、胸へ。「もっと、下まで、手をおろしなさい」。五島の、子どもの頃からの信心が全く身についている女性に言われると、「なにも、文句は言いません。きちんと、正しく十字架の印しをしましょう」
★ところで、ナベは、ラーメンでした。ご飯が少々。野菜に、温泉タマゴ。ドンブリに、ラーメンを盛ります。どこのラーメンって?博多ラーメンとか、北海道のラーメンとか。いろいろ、あるでしょう。長崎は、チャンポンか、な。なにやら、よく分からないが、テレビのコマーシャルに出てくるラーメンとか。そんなの、あるの?でも、味は、よかった。大勢で食事をするのは楽しいですよ。『ナベの日』、時には、いいね。

2016年2月21日日曜日

映画上映時間の訂正。午前10時30分から行なわれる

今朝、長崎から、電話があった。「26聖人の映画」は、ブログには、午後1時30分から、と書いてあったが、間違いです。映画の上映時間は、午前10時30分からです」
★間違いました。それで訂正を致します。長崎市の日本26聖人記念館で行なわれる「日本26聖人」の映画は、3月6日・日曜日の午前10時30分から上映します。上映時間は、1時間20分です」
★この映画は、1931年・昭和6年に、浦上の平山政十さんが、自費を投じて製作した。製作費が、20万円。当時の一流スターを動員した。宣伝費が、10万円。30万円といえば、当時のお米の値段から計算すると、6億円になるという。
★政十氏は作っただけでなく、彼はこの映画を持参して、自分の足で欧米を回り、日本の素晴らしい信仰を世界に宣伝した。フィルムを海外へ持ち出すためには、政府や軍部の検閲許可が必要だった。当時の軍務局長は、小磯国昭(後の大将)は、「外国人を張り付けにしたり、殺したりしている。国辱ものだ、許されん」と、どなった。
★政十は言う。「何をおっしゃいますか。殉教者たちは、真理のために命を惜しまなかった。これこそ皆さんの説くヤマト・ダマシイの現われじゃないですか。日本人の恥じゃなくて、むしろ誇りです。これこそ海外へ向けて、正々堂々、紹介すべき立派な作品です」。昭和7年2月、政十氏は、神戸から大洋丸で出航した。(小崎登明・十七歳の夏・聖母文庫)

2016年2月20日土曜日

平凡な一日。外の空気を吸いましょう、と腰上げる

春は、まだ、ですね。ホームの庭の入口に立っているアシジの聖フランシスコの御像。足元に、水仙の花がみだれる。庭に出ることも、ほとんどありません。明子さんから、「たまには、外の空気を吸いましょう」と言われて、少し、歩きました。
★長崎から、電話があった。去る2月5日の日本26聖人の祝日に、長崎の26聖人記念館で、「26聖人の映画」を、午前、午後の2回行なったが、好評で、更に又、上映を望む声が多々あって、3月6日の午後1時30分から行なうことになったという知らせだった。嬉しい限りです。「小崎サンのこと、忘れておりませんよ」。ありがたい話です。
★また、長崎から、電話があった。オーストラリア人の40代の男性からで、次の土曜日に面会に来るというのです。「内容は、何ですか」「なぜ、わたしのことを知っているのですか」。思いがけない電話に戸惑います。どういうツテで、行き当たるのでしょうか。わざわざホームまで来るのは難儀なことです。「前日に、もう1度、電話をください」と答えた。
★食卓で、子どもの頃に食べていた「さくら・ぼし」「あれ、おいしかったな」と語っていた。小さな、開きのサカナで、色は黒茶で、ゴマが散らばった居た。2列になって、連なっていて、焼いて、食べる。本当においしかった。イワシも昔のイワシは、アブラがのって、もっと、おいしかったように思う。外泊に出かけた同じ食卓の人が、あじ・せんべいを、おみやげにくださった。味は、いいが、固くて、噛み切るのに苦労しております。

2016年2月19日金曜日

「やあ、元気か」「ひさしぶり」。お互い親睦確かめる

長崎地区の4つの修道院から、17人が集った。心が、瞬時に、打ち解ける。「やあ、ひさしぶり」「ゲンキで、いた?」。カオも、なごむ。特に、わたしは、そうだ。皆さん、1人、1人が懐かしい。まず所定の「教会の祈り」から始まった。各修道院の報告もあった。課題は多々あるが、それぞれに頑張っている。
★わたしは、皆さんに、言った。「ホームに入って、1年4ヶ月になる。仕事から離れて、1人、生活するのは、寂しさもある。いま、いちばん願っていることは、皆さんとの「つながり」です。何事か、あるごとに、支えてください。後、10日ほどすると、3月1日、誕生日がくる。八十八歳になる」と、PRも述べた。皆さんに、理解してもらえたようだった。「米寿のお祝いをしよう」と慰めの言葉も受けた。
★聖コルベ館の資料について、いつか館へ行って、指示して欲しい、との声があった。自分も整理を望んでいるが、出かける車が必要になる。困難があるのを伝えた。
★夕食の後、ホームへ戻ったのは、7時だった。早めの帰宅になった。

2016年2月18日木曜日

巡礼の思い出も遠くなったが、実りを喜ぶコメント

庭のツバキが咲き始めた。椿には、椿原の学校や、思い出が多い花ですが、五島列島には、ツバキが沢山、咲いていた。花のふちが、白い、めずらしいツバキの花もあった。
★今から、30年ほど前から、40年ほど前にかけての10年間あまりの間に、「オラショの旅」と称して、全国から、個人の巡礼者を募集して、長崎・外海・五島・平戸など、皆さんを案内して回った時期があった。40組ぐらいは案内したように思う。その案内の内容を記した聖母文庫が、「長崎オラショの旅」と、「西九州キリシタンの旅」です。
★2日前の日記に、嬉しい「コメント」をいただいた。遠山千代子さんからで、「35年ほど前に、五島を案内してもらいました。その後、洗礼に導かれました」と書かれていた。大きな喜びでした。オラショの旅も、知らないところで、お恵みの花が咲いていたのですね。あの頃のゲンキさを懐かしく思うと共に、感謝の祈りを捧げました。
★きょうは、いま、午後3時前ですが、修道会の長崎地区の集まりがあるということで、車で、20分の町へ出かけます。皆さんに出会うのが、また楽しみです。何らかの、パワーをもらうでしょう。

2016年2月17日水曜日

毎月おこなわれる・こんだん・かい。お互い交わり

写真は、ホームで行なわれた、2月初めの節分の日の「豆拾い・競技」のようすです。豆を、左から、赤い右の方へ、移していく。歳をとってくると、手はふるえて、なかなか豆をつかめない。この男性は、左手で、移していた。
★ホームでは、毎月、「懇談会(こんだん・かい」といって、午後から皆さんが食堂に集まり、係りの職員さんから次の月の予定が告げられる。来月は、3月ですね。ひな祭りがある。去年は、おだいりさまの役を仰せつかったが、今年も何やらの役に、出て欲しいといわれた。否定は、しないよ。毎月、おこなわれる定番は、カラオケ、コーラス、生け花、ビデオ、眼科診察日、手芸、絵てがみ、ショッピング、ドライブ、軽体操など、いろいろあります。週、2回、内科のお医者さんの診察がある。3月は、復活祭があります。
★なかでも楽しみにしているのが、なんといっても誕生会です。3月は、9人がお祝いされる。その中の1人ですから、嬉しいですよ。出し物がオモシロイしね。
★「懇談会」には、皆さんからの意見も聞く。栄養師さん、看護師さんからの、お知らせもあります。栄養師さんは、「誕生会には、毎月、お赤飯を出していますが、なにか、意見はありますか」と言われた。「やっぱり、お祝いだから、お赤飯」。看護師さんから、「インフルエンザがはやっています。注意をしてください」。その他、転倒しないように、履物に気をつけるように、細かい注意も受ける。
★入居者を、介護するのは大変でしょう。お世話になります。お互いが、心が通い合って、家族的になって、よい住みやすいホームになるのでしょう。
★復活祭を前に、ソテツのはっぱを準備するが、今年は、出方が少ないです、と報告があった。

2016年2月16日火曜日

福。フク。フキノトウの絵。背筋はシャンとしたいよ

絵てがみ教室で、「春を告げる・ふきのとう」を描いた。先生が、「こういう字もあるんですよ」と、古風な、中国風の、めずらしい字がイッパイならんだ手本を見せた。その中から選んだのが「福」です。やっぱり「福」が好きだ。「ふきのとう」のことは、よくは知らない。天ぷらにして食べるとおいしい、と職員に教えてもらった。
★従姉の女性が、ホームに居る知り合いの面会へのついでに、突然、自室にも、入ってきた。久しぶりの面会だった。おみやげのお菓子と、靴下を持ってくる。戦争前から知っている。90歳になるという。それでも、自分でしっかりと歩いている。リッパだと思う。うらやましくも思う。
★「見ての通りの生活」。なにを言ったら、いいのか。ごらんの通り、ゲンキには、している。ホームの生活にも、なれた。母親の方の従姉だが、「もう1人、上の従姉は、ホームに入っている」という。近い親戚も、従姉たちも、ほとんど居なくなった、と2人はため息をついた。「自分も両親を早く失い、兄弟はいないし、孤独は覚悟している。しかし唯一の慰めは、修道会につながっていることです」と告げた。「そう、ね」が返事。
★ホームで、一般の人と一緒の共同の生活です。「修道士は、なにか、変わるところがあるのか」。言動を見ている。見られている。人はヒト、自分は自分。自分らしく生きる。そうは、いかない。ホンネが試されている。背筋が、シャンとしているだろうか、時々、思う課題です。

2016年2月15日月曜日

フランシスコ中村安五郎修道士の命日で、祈った

愛称、修道士名の「フランシスコさん」で親しまれていた。中村安五郎修道士さんが亡くなって、きょうが、1年目の命日です。朝、ミサのとき、司祭が、「彼のため祈りましょう」と呼びかけた。このホームで亡くなった。93歳でした。
★フランシスコさんは、コルベ神父が長崎で生活した最後の時期に、14歳で入会した。コルベ神父から、ヒゲで頬をこすられ、かわいがられた思い出を持っている。コルベ神父の匂いを知っているわけだ。
★出身は、五島の久賀島(ひさが・じま)。若い頃は、東京・赤羽や、王子、亀有、東村山などで宣教して働いた。終わりの40年あまりは、長崎の聖母の騎士の受付係りとして、温和な性格で、多くの人びとに、無原罪の聖母や、聖コルベの思い出と精神を伝えた。ホームに入っても皆さんから慕われ、愛された。ホームでは、6年間、お世話になった。
★フランシスコ中村安五郎修道士から聞いた話に、こんなのがある。「わたしの家には、大黒柱があった。抱えるほどのリッパなもので、ふしぎなことに、この大黒柱には刀の傷があった。父に聞くと、『キリシタン迫害のとき、信者は捕らえられ、家財は役人や村人から奪われてしまった。当時は電気はなく、ランプもなく、タイマツを燃やしていた。それで役人が、脂が出ないかと、切り込んだ傷なんだよ』。久賀島の迫害は、『牢屋のさこ』といって、過酷な責め苦の場所が残っている。

2016年2月14日日曜日

チョコレートの写真を撮ることができました。これも感謝

肩の力を抜きましょう。何事もなく、一日、一日を、無事に過ごすのが、幸せです。チョコレートの日だそうですね。なぜ、この日がそうなのか。よく、わかりません。でも、もらいました。ありがたいとです。
★思ってくれる人がいるんですね。その人の幸せを祈ります。ひとりでは、ない。つながりに感謝します。
★願うことは、まわりの人たちと仲良く、争わず、安らかに、自分は、からだの痛みもなく、過ごせることでしょう。
★いま気にかけていることは、インフルエンザに罹らないことです。チョコを食べると、ダイジョウブでしょう。

2016年2月13日土曜日

自分の持ち場で、嬉々として「ここに、います」と光を放つ

去る2月5日の日本26聖人の霊名の祝日に、女性から、お祝いの手紙をいただいた。それには、「与えられた命を精一杯生きて、まだ、まだ、みんなのためにお捧げくだい」と、励ましの言葉が書かれていた。
★便箋は、小型の市販の便箋のもので、手紙の文は、2枚あり、1枚は、左側下に、薄くバラの花が描かれており、小さな字で、言葉が添えられていた。2枚目の文が、この写真の絵だった。スズランの絵で、小さく言葉が添えられていた。
★スズランといえば、懐かしい少年の頃の思い出の花です。海を渡った大陸で生まれ、育った自分には、子どもの頃、大陸の野山にイッパイに咲広がるスズランの畑に、「大」の字になって寝転び、のびのびと青空を仰ぎ、スズランの香りに、酔いしげるのが、喜びであり、楽しみだった。
★そういう思い出のある絵の便箋に、脇に、小さな文字が書かれているその言葉に、目が釘付けになった。『星は、自分を造りだした、神をたたえ、ほほえんで、光を放つ。(バルク・3)』。確か、聖書の言葉であろう。
★さっそく、聖書を開くと、バルク書の、3章34、35に、次の文章をみつけた。「星は、おのおのの持ち場で、喜びにあふれて輝き、その方が命ずると、『ここに、います』と答え、嬉々として、自分の造り主のために、光を放つ」。なんと、胸を打つ素晴らしい言葉であろう。
★誰もが、自分の各々の持ち場で、喜びに溢れて輝く。そして神から言葉をかけられると、「ハイ、ここに、居ります」と答える。星は嬉々として、主のために、光を放つ。そういう生き方が正解ではないだろうか。この手紙を大切に、身近な場所になおしている。
★手紙の差出人は、・・・さんだった。

2016年2月12日金曜日

ホームの生活者が眠る墓地。永遠の安息を与え給え

最近、亡くなったお2人の、納骨式が行なわれた。1人、1人の十字架。ホームの墓地です。いくつあるのだろう。十字架の数は、ホームの歴史の長さを表わしている。手前、左側に埋葬された女性は、修道院の料理の係を長年つとめられた人だった。昨年の12月の半ばの日記にも載せている。永遠の安息を祈った。

2016年2月11日木曜日

聖母の騎士のルルドの創設者は、コルベ神父です

きょうは、フランスのルルドにおける聖母マリアさまの御出現の日。ルルドのお水は、奇跡の泉として信心を集めている。写真は、長崎・聖母の騎士のルルドです。コルベ神父が、フランスのルルドに模して、1932年に創設しました。コルベ神父は毎日、ここで祈っていた。この泉は、数々の奇跡をもたらした。有名な奇跡が、永井隆博士が原爆を受けた後、昏睡状態から救われた。
★聖母の騎士のルルドでお祈りした巡礼者は多いでしょう。中央が、マリア像。左が聖女ベルナデッタ像。下に、竹の筒からお水が絶えず流れている。どんなに乾燥の時期でも、枯れたことがない。長崎水害の山津波にも無事だった。
★聖母の騎士のルルドとは、ご縁が深い。いちばん最初に、ここに連れて来たのは、原爆死した母親だった。ある日の夕方、小神学生たちが、ルルドで、ラテン語の「聖母マリアの連祷」を唄っているのを見て、その道に心を引かれた。修道士の出発点は、ここから始まる。
★従姉に、シスターが居た。田舎の修道院で生活し、農作業や教会の奉仕で生涯、祈り、働いた。聖歌を唄うのが好きだった。特に、平易な「ルルドの聖母」の「アヴぇ・アヴぇ・マリア」を好んで歌った。ルルドのマリアさまが好きだった。わたしの名を呼んで、愛を注いでくれた。シスターは、ルルドの日に亡くなった。きょうが命日になる。亡くなって、ああ、もう何10年になるだろうか。

2016年2月10日水曜日

四旬節が始まる。アタマに灰を。汝は、チリなれば・・・

朝の太陽です。きれいな陽が登る。自室から見た太陽ですが、季節によって、真ん中の電柱から、右に登ったり、左に上ったりします。いい場所に住んでいますよ。
★いつものように、朝、6時のミサで祈った。灰の水曜日ということで、アタマに灰をかけてもらった。四旬節が始まるのです。復活祭までつづきます。司祭は唱えます。「あなたは、チリであり、チリに帰って行くのです。悔い改めて、福音を信じなさい」。自分自身の善くない傾きや、罪からの悔い改めを自覚する季節です。
★10時。こんどは、ホームの行事として、月に1度、礼拝の日があります。きょうが、その日に当たっていた。園長神父さんが捧げるミサに、ホームの人が祈ります。車椅子の人も、信者でない人も、自由に参加ができる。強制はされない。自由に祈る。修道服を着ました。車椅子の人が、10人ほど、あとは、20数人が祈りました。「人間とは何ですか」。考えますよ。「汝は、チリなれば、チリに帰るべし」。ほんとうに、実感として、その気持ちを味わいました。
★車椅子の年配の女性が、ご聖体を受ける。女性の職員が、水を少し含ませる。もう何十年も拝領してきたご聖体を、敬虔な顔で、受ける。ジーッと見ていると、胸が熱くなるんですね。「ジンセイは、すべてチリに帰る。神さまに戻って行く。ふさわしい人にならなければ、帰れない。「悔い改めなさい」とは、そういうことでしょう。「自分が変わらなければ、神さまには戻れない」。

2016年2月9日火曜日

ひな祭りを唄いましょう。話は変わって、信心で胸キュン

先日、島原城へ行ったとき、城の広場の一角に、お雛さまの常設館があた。館内に入ると、四隅の壁にも、中央の場所にも、目を見張るような、さまざまなお雛さまが輝くばかりに置かれている。1つ、1つに、いろんな秘話があるのでしょう。見とれて、写真に収めました。
★ホームでは、毎月、『コーラス』の日があります。2、3日前が、その日でした。皆さんが集り、先ず、タオルを使っての軽い体操がある。からだを動かします。それから季節にちなんだ歌をみんなで唄います。女性職員さんが、軽快にオルガンを弾く。先日のコーラスが『ひな祭り』の懐かしい歌でした。「白酒飲んで、赤ら顔の、右大臣」
★入浴しながら聞いた話です。「孫が、いい、ところの公立高校の試験をうけて、合格したよ」「それは、よかったですね」「試験のため、寝る前の、小さなコップに、イッパイ飲むのを、やめていた」。しばらく沈黙がつづいた。(ほんとうは、ホームでは飲んでは、いけない。でも、寝酒にイッパイは、あっても、いいよね。楽しみが身に染み付いているから)。それで沈黙。つまり、その楽しみのイッパイを、孫のため、犠牲に捧げていたわけです。相手は、口元を湯で拭きながら、にっこり笑って、嬉しそう。若者の将来が楽しみでも、ある。こうして風呂のなかで、全く気取らない何気ない会話のなかで、犠牲を捧げていたと聞いて、ビビッと、きたね。ああ、昔ながらの信心が、ここに、あった。「そういう目に見えない、老人の信者の信心が、信仰を守って、ちゃんと、ここに居る」。そう思うと、信仰とは、祈り、善業、犠牲という、こうした日頃の何気ない信心の連鎖の励みにあるのだと、しみじみ再確認し、風呂の中で、うれしくなって、忘れない言葉になった。湯から上がると、背中を流してくれた。

2016年2月8日月曜日

嬉しい事、2つ。映画を観てくださった人が多かった

湯江カトリック教会の祭壇の生け花です。日本26聖人の祝日は過ぎ去りました。2月5日には、嬉しいことが2つあった。
★1つは、隣の修道院から、当日の夕食のとき、いっしょにお祝いをしようと、招かれたことです。共同体には、司祭が3人、修道士が3人、計、6人が生活している。特別、ケーキも買ってきている。すき焼きを食べながら、皆さんの談笑を聞きながら、やはり自分は、1人ではない。これらの修道者たちにも『つながり』があるのを
感じた。ありがたいことです。そういう安堵の気持ちを持ち直して、この日は大きな喜びとなった。忘れられていないのが、うれしいです。
★もう、1つは、長崎からの電話でお知らせがあった。お祝いの当日、長崎の日本26聖人の教会では、ミサ、告白が絶えず行なわれ、また同記念館では、午前と、午後の、2回、26聖人の映画が上映されたことです。もともと無声映画に、小崎が、弁士と音楽をつけた映画で、多くの人が集り、2回とも、椅子が足りないほどの盛況ぶりで、椅子を補充したほどだった、という。どの人も、誰もが、感動してくださったそうです。こちらも『つながっている』のを知って、慰めになる嬉しい知らせでした。思います。あの映画は、貴重な信仰の遺産です。そう信じて作品DVDは大切にして欲しいのが望みです。

2016年2月7日日曜日

車で、ドライブ。島原城へ。何度も来たお城だった

ドカーンと、バックに、大きなお城。長崎県の島原城です。キリシタンの歴史を秘めているが、梅林の見所もあります。春は、まだ遠いが、梅の花は開いているだろうか。島原へ見に行ってみようと、声がかかった。島原城には、これまで何度も見学し、案内もした思い出もあるが、ひさしぶりに、ドライブに参加した。気晴らしにもなり、楽しい思いをした。梅は、2,3分咲きだった。お城には、サムライ姿の若者が何人か、アイキョウを振りまいていた。胸に、ロザリオまがいの玉くさりと十字架を下げて、手がこんでいる。休憩所で、思い思いに買い物をしたり、また帰路の途中で、カマボコ工場へ寄って、おみやげや、自分のための買い物をした。午後2時に出発して、帰ったのは、4時過ぎだった。

2016年2月6日土曜日

誕生会。いつも出し物で盛り上る。長生きバンザイ

月の初めの土曜日の昼食は、皆さんが集って『誕生会』が行なわれる。1人、1人、お名前が呼ばれて、「ハッピーバスデイ」を唄いながらハクシュをして、生きる喜びわお祝いする。なぜか歳は言わない。それが終わったらカンパイに、会食ですが、期待されるのは出し物でしょう。
★職員さんたちが、いそがしい仕事の合間を抜けて、何を出そうか?アタマを悩まされる。日記に載せるので、読者も楽しみにしている人もいる。もちろん、わたしも、皆さんも楽しみにしている。2月の出し物は、数年前に、長崎・国体で、『がんばらんば体操』という踊りがあった。『さだまさし』の歌に合わせて、からだを動かす。チャイナ服を着て、おサルの面をして、「傘は、適当に、お飾りです。傘も振りまわりた。気分が出るよ。1人、犬の着ぐるみを持っていると、犬も出てきて踊っていた。適当に、楽しめば、それで、いいんです。
★メニューは、赤飯、ヒラスのお刺身、豚肉の味噌照り焼き、お煮しめ、数の子なます、ジュース、酒まんじゅう、イチゴとなにやらも、あった。お年寄りは、食べるのも楽しみにしています。いつも栄養師さんが、食卓をまわって、話しかけ、お好みの料理を出したいとアタマをひねっているところです。30年の経歴がある。食べ物で、皆さんは長生きしています。

2016年2月5日金曜日

『つながり』を体感した楽しい楽しい会食だった

昨日の日記には、これから「霊名日のお祝いで、会食に出かけます」と書きました。その通り、長崎から、8人。ホームから高原修道士と、2人。計、10人が『やぶから坊』という、串刺しの、揚げ物の店に集った。楽しい夜を過ごした。
★「ゲンキそうじゃないか」「カオ色も前より、いいぞ」。食べながら、飲みながら、話は、コルベ神父の初めの頃の宣教や、生活の思い出や、わたしが聖コルベ館で収集した資料などに及んで、特に資料について、「よかった」「よかった」と評価してくれた。その雰囲気を感じて、「ああ、やっぱりムダではなかったんだ」と喜びと自信を持ちました。
★いま一番、望んでいることは、『つながり』です。この修道者たちに、自分も実際に『つながっている』のだと実感して、楽しい集いになった。中央、わたしの左は、最も若い青年で、霊名は『ゼノ』を選んだ。ゼノさんを目標にしている。3月に、終生誓願を立てるそうです。例の『うどん屋』の青年も、春から、修練に入ると、希望の話題も聞いた。
★皆さんが心配してくれている。励ましてくれている。88の米寿のお祝いも、「トマさん、お祝いを、やろうじゃないか」と言ってくれる。充分に『つながり』を体感した会食となった。
★代行運転で、ホームに帰った次第です。
★今日は、日本26聖人の祝日。今朝は、感謝のミサをお願いした。祈っていただいた。
★今夜は、隣の修道院で、お祝いの会食をすると招かれている。

2016年2月4日木曜日

修道名のトマス小崎。おめでとうと言われる夕べ

5年ほど前に撮った写真が見つかりました。バックの壁画は、日本26聖人の殉教の図で、故・長谷川路可先生が描いた有名なフレスコ画です。長崎の日本26聖人記念館の2階にあります。ごらんになった人も多いでしょう。写真のあの頃は、ゆ快な表情をしておりました。
★ところが長い人生には、いろいろな出来事が起こりますね。歳を重ねて、一番、変化したのは、長崎の聖コルベ館から、40Kmほど離れたホームに住所が変わったことです。修道者は、修道者たちと一緒に、祈り、食べて、談話して、共同体の生活をつづけるのが、最高の幸せで、それが当たり前です。ホームで、一人で生活すると、孤独も感じるし、寂しさもある。つながりが、ほしいのを望んでおります。つながっているから、安堵であり、幸せです。
★きょうは長崎から連絡があって、ホーム寄りの、ある場所を設定して、長崎の修道者たちが、霊名をお祝いしてくれることになっています。夕食を共にするのです。これから出かけます。何人かの修道者(司祭、修道士)の仲間に出会って、語り合うのを楽しみにしています。こうして、つながっているのを意識できるのが、もっとも幸いない喜びです。

2016年2月3日水曜日

オニは、そと。フクは、うち。しあわせ、いっぱい。喜び

オニは、キライだよ。それなのに、きょうのオニは、アイキョウがあって、皆を湧かせた。節分だからね。毎年、余興をやっている。
★午後から、皆さんが食堂に集まった。車座になって、まず節分の歌を唄ったよ。次いで、豆の日だからね。中央にテーブルがあって、豆を、長いおハシで、決められた数だけ、こちらへ移す。リレーの競技があった。歳をとると、手がふるえて、なかなか、うまく、つまめない。そこが笑いを誘うんだな。老いに負けてはいけない。いつまでも長生きしてください。それが願いです。生きていることだけでも、意味はある。
★新聞紙を渡されて、「これで紙をまるめて、タマをつくってください」。そして登場したのが、このオニだった。もう1人、オニが居たが、写せなかった。動いて回るから、写真を撮るのが、むずかしい。おフクさんは、どこに居るんだよ?。ああ、居た。これがフクだった。着物すがたの男性職員だよ。お福さんから手を握られると、そりゃ、カオもほころびるよ。
★おフクが、いい。オニも、いい。自分の心には、フクもあれば、オニ(邪・じゃ)もある。フクをふやして、オニのこころ、邪を減らそうじゃないか。こころの戦いだよ。それにしても最近は余りにも悲惨な事件が多すぎる。悲しいことです。
★きょうは午前中、朝食もとらないで、早朝、高原修道士の運転で、長崎へ向かった。クリニックで定期の診察をうけた。胸のレントゲンと心電図をとった。体調は良好です。

2016年2月2日火曜日

ご縁がつながるのが、うれしい。幸せを祈ります

昨年の3月、浜松のひろみさんから、誕生日に送ってもらった木作りの軽いコップがある。いまも、タンスの上のマリア像の前に、置いてある。記念になる贈り物です。ひろみさんの便り。「お寿司屋さんの茶のみコップのように、分厚い品でも、立派ではあるが、だんだんと老いがすすみと、重たくなる。それで軽いコップを送ります」と、心やさしい気持ちが込められた品だった。
★あれから、ひろみさんから時々は便りもあり、励ましを頂いているが、きょうは、こんなハガキが届いた。「日々のブログ、楽しく読ませていただいております。今年のうれしいニュース。トマさんから、いただいた年賀状が、当たりで干支の申の切手を、郵便局でいただきました。トマさんからのだったから、とてもうれしかったです」
★生活のなかの小さな出来事だが、わたしも嬉しい。
★午前中、入浴し、午後から、車で30分の耳鼻科へ、耳の治療に行きました。耳のなかの異物を吸引で吸い取った。帰ったときは、ロザリオは終わっていた。

2016年2月1日月曜日

2月に入る。待っていた。5日は日本26聖人祝日がくる

いま、こころは、ウキウキです。2月に入って、間もなく、5日の金曜日が、日本26聖人の殉教の日、祝日です。わたしのお祝い日でもある。
★京都を出発した殉教者たちは、山陽道を歩いて、もう九州に入ったでしょう。疲れは、ピークに達していたに違いない。長崎の地に到着したら、直ちに殉教が行なわれた。12歳、13歳、15歳の少年もいた。15歳の少年は、聖トマス小崎です。
★わたしが修道士になったとき、保護の聖人をいただいた。聖トマス小崎・少年だった。キリシタンたちは、トマスというカタカナの名前を、「とうめい(登明)」と漢字で書いた。それを知って、小崎登明を名乗ったわけです。本名よりも、この名前を使っていました。
★最近は、本名で呼ぶ機会が多くて、本名を使っているが、小崎登明の名前は、いま、また、よみがえらせたい、そんな気持ちです。いい名前をもらったと思い、感謝しています。
★聖トマス小崎は、お母さんに、信仰あふれる手紙を書いた。その書く場面が、日本26聖人の映画には、すさまじい行動、自分自身を鞭打つ行動で、表現されているのです。弁士をしながら、いつも、この場面では、泣いていました。
★2月5日まで、日々、26聖人のことを思いながら、祈りの生活したと小さな決心をしました。