2014年1月31日金曜日

積極的に良いこと、すれば、勝手なことは、なくなる。

ブリ神父さんを訪ねた(写真・左)。今日は、聖ドン・ボスコの記念日です。この教会は、聖ドン・ボスコに捧げられた聖堂です。大きな写真と、右側の壁にも、絵がありました。ブリ神父さんは、こんな話をしてくれた。「ワタシね。幼稚園のお母さんたちに、こんな話をします。A+B-C=予防教育、というのです」。なんだか、オモシロそうですね。説明してください。「Aは、Allegroアレグロ(ゆっくり)、Bは、Buonoヴォノ(よい・善)、Cは、Cattivo勝手なこと)、イタリア語です、つまり、あかるく、積極的に、良いことをすれば、自然に、よくないこと、勝手なことは、なくなります。これが予防の教育です。これが聖ドン・ボスコの教えでした」。すばらしい教えですね。あれ、してはダメ。これ、しては、イケナイ。ダメ、ダメ、ばかりでない。いいこと、これする、あれする、そしたら良くないこと、なくなります。ヒントになる教えです。「ワタシたちの生活も、そのようにしましょう」。ブリ神父さんから教えられて、気持ちがいい1日でした。ブリ神父さん、ありがとう。また来ますから、いい話を聞かせてください。★早くも、1月は終わりました。ソチ・オリンピックが近づき、テレビに、スケートの場面が映っている。「母と子だけの生活でした。母は、大事に育てたんですね。スケートは危ない。買ってくれなかった。それでも息子は、氷の上で、けっこう楽しく遊んでいた。滑って、転んで、腰を怪我した。そこから人生が、大きく傾いた。 

2014年1月30日木曜日

温泉、3日目。具雑煮を食べて、長崎へ帰る。よかった。

午前中に、長崎へ帰ります。この度は、島原へ行って、具雑煮(ぐ・ぞう・に)を食べました。写真のナベ料理です。サムライ戦争のときや、庶民の生活が貧しかったとき、何でも入っている、栄養のあるもの、そのようなつもりで、この具雑煮を食べたそうです。島原のお城のまえに、食事処があった。お昼どき、満席で、繁盛していた。みなさん、観光客ですね。誰もが、具雑煮を食べている。「島原へ来たら、具雑煮でしょう」。合言葉です。具雑煮に入っているものは、少しずつですが、次の通りです。鶏肉、大根、にんじん、サトイモ、白菜、ごぼう、しいたけ、油揚げ、高野豆腐、丸い餅、タマゴ、カマボコ、切りこぶ、など沢山入っている。量は、少しずつ入っているから、食べやすい。想い出になる味でした。★おかげさまで、今月も温泉に浸かって、ゲンキが出て、さあ、また、がんばりましょう。午前中に、聖コルベ館へ帰って来た。「おお、あかるいカオ、しているな」。そう言われれば、うれしいよ。普通は、「あれ、食べた」「これ、食べた」と言いません。しかし、この度は、「かき、おいしかった」と言いました。具雑煮は言わなかった。普通の生活が始まる。午後、ゆっくり眠った。やっぱり疲れているのか。夕方、スッキリした気持ちで、夕べのお勤めを祈りました。「生かされて、今日も祈り、幸せを感じています」


2014年1月29日水曜日

温泉、2日目。島原へ出かける。オヒナさん。キリシタン。

島原へ出かける。天気は良好なのに、山や、海の景色が、薄くモヤがかかっている。車に乗っていても、目がショボ、ショボ。はっきりしない。あとで分かった。大気が汚染されている。どこからか汚染が流れて、島原までも影響する。ザンネンなことですよ。この日は、旧の正月の1日まえ。島原では、おひなさんの展示・準備が行なわれていた。写真は展示の、ほんの1部です。なごみますね。島原は悲しい歴史がある町です。島原城内には、キリシタンの遺品展示も常設されている。金の十字架もあります。400年前の、十字架ですよ。よくぞ残ったものです。キリシタンの悲しみがあるかと思えば、優しい、いとおしい、オヒナさんなどの「和」もあるんですね。島原の救いですよ。こんな細かいオヒナさんを並べるのも、タイヘンやな、思いました。★島原半島を、行きは海沿いの道から、お城へ迎い、帰りは、山沿いの道をオバマへ戻る。島原半島の中央にそびえるのが、普賢岳(ふげん・だけ)です。平成になってから、大バクハツしました。多くの市民が犠牲になった。ここにも悲しい歴史がある。大自然の成り行きには、ニンゲンの力は弱く、なすすべを知りません。ニンゲンは小さな存在です。「主よ、ニンゲンの弱さのなかに、あなたの救いのチカラが示されますように、祈りました。★オバマ温泉へ帰って、ゆっくり休みました。日ちゅう、風呂に入りました。気持ちが、ゆったり、なります。ありがたいですね。喧騒から離れて、ひとりで過ごせるのも、大きなお恵みです。反省のこころも湧けば、カンシャのきもちにも、なる。こういう日も、必要と思います。活力の原動力にも、なる。★車での協力・運転手は、藤下先生。山の学校の時代、教頭先生を勤めた。いまは退職し、愛野・地域で、バトミントンや、将棋で、活動している。奥さんを亡くして、1年になる。イヌの散歩が楽しみです、と言った。「ツー、カー」の仲です。ありがとう。

2014年1月28日火曜日

島原・オバマ温泉へ。1日目。有明海のかき、食べる。

温かい温泉へ行きます。写真の男性、藤下先生が迎えに来てくれた。白い車に乗って、出かけた。「行き先は、島原のオバマ温泉です。午後2時過ぎに着けばいいから、寄り道しましょう」「どこへ行きますか?」「有明海ぞいの、かき小屋へ行きましょう。いま、かき(海のかき)のシーズンです」(本当は、海のかきは、好きではないんです)。それでも、温かい日よりに誘われて、行くことにしました。有明海の町、海岸添いに車を走らせると、町の漁業組合を経営している、かき小屋があった。ちょうと、お昼まえでした。事務所で、かき、干しサカナ、を購入する。小さいかき、15個、1.000円。大きなかき、13個、1.000円。品々を持って、写真・前方の小屋に入る。イロリに、竹の炭(これが、めずらしい。竹で作った炭です・地元産で、火力は強い)が赤く染まっていた。かきを並べると、「ポン」「ポン」と、かきが、はじける。もう食べられる。外地で生まれ、外地で育った者は、かきを食べる習慣がなかった。ほとんど食べなかった。みなさんは、「おいしいのに」というが、おいしいとは思わない。しかし、この日ばかりは、食べました。幾つ食べただろう、数えては、いない。大きいのは、かきが、10cmは、あったね。食べた仲間は、ほかに、もう2人いた。いまが旬です。有明海のかきは、そりゃ大きくて、リッパでした。★2時半ごろ、温泉に着いた。富士屋さんにお世話になる。泊まる部屋は決まっている。時間の過ごし方も決まっている。入浴して、しばらく休んで、祈りをして、夕食となる。夜は早めに就寝する。平和な、1日を終わります。

2014年1月27日月曜日

診察へ。入院の日を決める。お前の人生、耐えるしかない。

気持ちは、重いです。泌尿器科の予約の診察へ。お医者さんは言った。「そろ、そろ、ステントの入れ替えをしましょう」。暦を見ながら、「2月5日は?」「いいえ、それは外してください」(日本26聖人の祝日で、修道名のお祝いです。何が、何でも、その日は、ねえ)「6日は、どうですか?」「じゃ、その日に決めますか」。決定。2月6日、午後、手術室へ。その夜は入院する。「血液検査と、胸と腹部のレントゲンを撮ってください」。レントゲン室へ。胸の撮影は慣れている。ところが腹部。台に仰向けに寝て、白衣の男性が、おなかを押さえて、「吸うてェー、吐いてェー」と言って、操作機械へ走って去った。「吐いた、はイイけれど、息が続かない。噴出したよ。ハイ、もう1度頼みます。今度は、機械の傍で、声をかけてください」。初めての経験だった。★老いても、病んでいても、表むきは、ニッコリ笑って、ハイ、イラッシャイ。その掛け声で行きたいね。自分は、自分という「者」を、いちばん、よく知っている。今の自分も。過去の自分も。★知識を語るよりも、体験を語る方が、人の心にひびく。体験ですよ、強烈なのは・・・そう思います。

2014年1月26日日曜日

ライモンド、居ない。心配の声、多々あり。早く出て来い。

食事のとき、神父さんが突然、言った。「ライモンドが、帰って来たよ。トマさんに、知らせなければ、と思った」「エッ、ほんとう?」「ユメ、見たんだよ」(なーんだ)。ライモンドが居なくなったと、日記に知らせたら、6人からコメントが入っていた。びっくりですよ。ライモンドにファンが居るのは、知っています。それにしても、この反響には、おどろきですね。ライモンド、みんな心配しているよ。①「どこに居るの?元気な姿を見せてほしいよ。(匿名さん)」。②「どこに居るの?帰っておいで。(コルベさん)」。③「何年も留守をして、元気に帰ったネコもいる。希望を失わないで。(てれじあさん)」。④「たぶん、縄張りを追い出されたのでしょう。帰ってきたら、院内で飼ってください。(みどりさん)」。⑤「ルルドに居ないでしょうか? erikoさん)」。⑥「心配です。どこかで温かく過ごせているといいんだけど。(まゆみさん)」。ライモンド、ほれ見ろ。こんなに、みんな心配しているぞ。「出て来い、出て来ーい。待ってるぞ。神父さんも、ユメにまで見て、心配しているぞ」。迷えるヒツジじゃ、ない。ネコ君よ。

2014年1月25日土曜日

緊急報告・ライモンド、行方不明。事故か、事件か、捕獲か。

ライモンド、どこへ行った?最近、全く姿を見せないのです。ライモンドは、屋内に上げないので、野外を自由に移動し、散歩し回っている。男のくせに優しいから、ほかのネコに負けるんですね。エサも取られる。そのライモンドも、ハラはヘルと、食堂の扉へやってくる。みんなが、食堂へ集まる時間は、知っている。以前は、朝食のときに、「ニャ、ニャ」と泣いて、食事を願っていた。最近は、寒いのか、朝は来ない。昼か、夕食に姿を見せていた。それが、ここのところ、全くライモンドの声を聞かない。姿を見せないのです。これは、ただ事では、ない。この写真が最後となった。日付は、1月5日だよ。あれから、もう何日、経っているのか。どこを、さまよっているのか、心配になる。食堂での話題は、毎回、ライモンドのことです。「事故か、事件に巻き込まれたか、いやな予感を言えば、市役所の人に捕獲されたか」。オイ、ライモンドよ。姿を見せてくれよ。来たら、おかしら付きのサカナをあげるからさ。オマエには、けっこう、ファンが多いのだよ。まだ、老いて死ぬ歳ではないよね。心配している。ライモンド、帰って来いよ。

2014年1月24日金曜日

県の振興課から取材に来る。カメラ・マンが撮影した。

聖コルベ館長サンの話を聞かせてください、と県の振興課から、カメラ・マンを同行して、取材に来る。長崎の宣伝で、リッパな印刷物も発行している。長崎には、キリシタンや南蛮文化、中華交流など、歴史があるんですね。久しぶり、話を語りながら、カメラ・マンは写真を、パチリ、パチリと写していた。「まるで、機関銃のタマを打ち込まれているみたいだ、ね」。当然、原爆体験や、原爆症状の話も出てくる。コルベ神父も、永井博士も、遠藤周作も。カメラ・マンは、活字に興味を示して、写していた。どのような小冊子に載るのか、楽しみだ。★来週は恒例の、島原・オバマの温泉へ行く予定にしている。温泉地は地面自体が暖かいので、保温が効く。それを見越して、町のクリニックに定期の診察、クスリの補充に行った。心電図をとり、血液をとり、尿の検査をする。紙コップを渡される。採尿して、看護師さんへ。しばらくすると、看護師さんが心配そうに、「血が、少々出ている。蛋白も出ている」「わかって、います。大丈夫です。ありがとう」。処方箋をもらって、帰った。今のカラダは、完全では、ない。ステントも入れているし、血も出るでしょう。完全ではないが、生きている。今のところ、それで、いいと思って暮らしているわけです。★「原爆の影響はありましたか?」と、県の取材女性。ありましたよ。原爆の症状が出ました。皮膚にもブツ、ブツが吹き出て、周りの人から嫌われた。結核にも罹ったしね。腎臓、片方、取って、60年ですよ。よく、生かされて、ありがたい。

2014年1月23日木曜日

大阪のオバアサン。また又、母親愛の荷物が届く。

夕方、すべての祈りが終わって、夕食前に、全員が庭の聖ヨゼフのご像の許に出て、「戦争中の保護と、無縁者のために」祈りを捧げている。今どき、辺りは真っ暗、昨日、祈っていると、郵便屋さんのバイクが登ってきた。祈りが終わるまで待っていた。「小崎サンに、小包です」。誰からだろう、と思いきや、あの大阪のオバアサンだった。16日の日記に書いたのに、また、あの大阪のバアサンからですよ。「もう、送らなくて、いい、と伝えているのに、母親の心だよ」と感じ入る。★荷物を開いてみると、肌着の上下、靴下、手編みの敷物、それに紀州・竜神・特産の「梅干」が入っていた。小川農園の梅で、「深山(みやま)の梅」の名が付けられている。梅の看板を、オバアサンが書いて、喜ばれたそうだ。97歳のオバアサンだよ。多才だよ。じっとしているオバアサンじゃ、ない。アタマがさがるよ。細かい字の手紙と写真が入っている。「書いた物、編んだ物、その内に、形見になるでしょう。『美人薄命』に非ず、まだ生きています。美人でないから・・・(笑い)」と達筆の字で書いている。負けるよ。オバアサンは美人だよ。いつまでもおゲンキでいて、ほしいよ。★孝子さんは、1917年4月24日の生まれです。生きることを楽しんでいる愛するオバアサンだよ。

2014年1月22日水曜日

韓国の大司教さまと、若い司祭の皆さん、巡礼に、お恵みあれ。

韓国から、いらっしゃい。大司教さまと、司祭たち、10数人。圧倒されますよ。大司教さまは、大邱(テー・グ)の曹大司教さまです。司祭は、昨年末に、叙階を受けた、新・司祭です。若い神父さんは、29歳といった。「長崎巡礼に来ました」。ちょうど午後のことで、修道士は自室で休んでいた。「韓国から大司教さまが来られて、会いたいと言われている」と呼び出しがあった。さっそく、聖コルベ館へ行くと、「ああ、お世話になった大司教さまです」。昨年の5月、韓国・永井隆博士の「平和・作文コンクール入賞式」で、ご一緒しました。覚えてくださった。ありがたいことです。お礼を言いました。大司教さまの方から質問。「コルベ神父に出会ったことありますか?」。コルベ神父が殉教された後、入学したから、会っていない。「永井博士に出会ったこと、あるか?」。それは、あります。永井先生から、理科を教えられた。運動会の競技に、墨絵で、ふすま大の「アシジの聖フランシスコ」を2枚描かれた。如己堂で、療養された。韓国・皆さんの一行は、3泊4日の巡礼で、平戸・長崎・雲仙・島原を回ります。長崎では、カトリック・センターに泊まる。予告ナシに、大司教さまや、これだけの司祭団に囲まれると、ビビルね。圧倒される。写真を撮りましょう、と、ごらんの記念写真に納まった。若い司祭が、こんなに大勢で、聖コルベ館に来ること、全く、ないね。天国のコルベ神父さまも喜びます。

2014年1月21日火曜日

心を癒し、ゲンキを与える色紙です。お金はルーマニアへ。

聖コルベ館・資料室の入口に、目につくもの、修道士の自筆の色紙です。見学者が気に入ると、買い求めてくれる。振り返れば、2012年12月31日の日記に次のように書いている。「12月8日から色紙を描き始め、12月は去ろうとしているが、この月に、25枚は売れた。販売したお金は、ルーマニアの家族に送ります」。それ以来、淡々と描きつづけてきた。送る先は、東京で日本語を勉強しているルーマニアのペトロ・イシトク神父さんから住所を聞いた。あれから、もうマル1年が経過した。何枚ほど、売れたかな。色紙が50枚づつ入っていた空き箱が、5、6個残っているから、250枚ぐらいは売れたであろう。★今年になって、正月に来た見学者が、3枚買った。それから久しく空き棚になっていたが、この度、がんばって描いて並べました。絵も、字も、お世辞にも、じょうず、とは言えません。でも、ね。お年寄りの修道士が描いた色紙です、となれば、値打ちもあるというものです。慰め、励ましの言葉が書いてある。この1言が、心を癒し、ゲンキを与えるのです。効果は有りますよ。言葉は、いい文言ばかりを記している。★販売したお金は、ルーマニアの6つの家族に、ユーロを送って喜ばれた。また近々送る予定です。楽しみにしていて、ください。

2014年1月20日月曜日

正月に、2度来たコルベさん。教会行きの念願を果たした。

今年になって、同じ青年が、2度やって来た。30歳の、コルベさん。正月3日と、13日の成人の日、休日を利用して、聖コルベ館に来た。彼、いわく、「自分の人生を変えたいです。洗礼は受けているが、まだ教会へ行ったことが、ない」。彼を慰め、励ましましたよ。ブログにも載せました。★さっそく、手を打った。黙っていては、事が運ばない。知り合いの女性に電話をかける。「13日の、日記に載せているので、その青年について、よろしく導きを頼みます」。一方、コルベさんには手紙で知らせた。女性と、コルベさんが連絡をし合って、19日、日曜日、コルベさんは始めての教会で、ミサに祈った。女性に会って、教会の神父さんや、男性信徒を紹介してもらった、と今朝、女性から電話があった。「よかったね」。★詳しく言えば、ちょうど、その日は、教会の堅信の日で、司教さまも来られて、多くの信徒で賑わった。パーティもあって、コルベさんもご馳走を頂いた。女性に出会って、神父さんに引き合わされる。「週に1度、要理のお勉強にいらっしゃい」。1から、やり直すのです。更に、同じ年頃の青年を紹介されて、仲間になるよう、頼んだ。「いまから、新しく、人生を変えるよう、努力しますよ」と、彼は祈ったでしょう。青年に期待するよ。後は、辛抱して、つづけることだね。必ず、お恵みが与えられる。「今年は、いい年になりますよ」

2014年1月19日日曜日

ポーランドの赤ちゃん、かわいいよ。家族の幸せ、祈る。

かわいい赤ちゃんだよ。キューピーさんのようだよ。めずらしく、赤ちゃんがきた。お父さん、外国のヒト?「ポーランドです」「ジン・ドブリ(こんにちわ)」。ポーランドといえば、こちらのカオも、ほころびる。コルベ神父さまも喜ぶよ、瞬間、そんな気がした。奥さんは日本人。「写真、撮ろう。コルベ神父さまの前で。コルベ神父さま、知っているでしょう」「ええ、まあ、知っている」。女の子です。名前は、カタカナで、2文字。「ちょっと、それ、ポーランドの名前?」。1度、聞いたけど、忘れた。思い出せない。「ポーランドは、どこですか?」。その町は、コルベ神父さまが少年時代に過ごした町の近くだった。「ポーランドに、10回行きました」。ダンナさん、ジッ、カイ(10回)、何ですか、と通じなかった。奥さんが、通訳した。子どもの幸せ、祈ります。コルベ神父さまは、特別、家族を大切に、愛しておられたからね。「妻が、いる。子どもが、いる」と叫んだ父親の身代わりになって、イノチを捧げた。聖コルベのご保護を祈りなさい。マリアさま、コルベさまの絵の前で、いい写真が撮れたよ。あんまり、くわしい話は交わさなかった。ゆっくりと、家族は、ルルドへ登って行った。「坂道、気をつけて、ね」


2014年1月18日土曜日

出会いも、花が咲けば、うれしい。青年に良き導きあれ。

毎年、元日に、誰が一番最初に来るか、興味がある。今年は、三重県の青年でした。そのことは1月4日の日記に載せました。青年は「長崎のコルベ神父」を愛読したそうで、内容を詳しく話して聞かせるのです。若いのに、感心しました。更に、霊的な思いも語るのです。その意味で、印象に残る若者でした。その彼から手紙がきました。「あれからボクは、黒島天主堂や、田平天主堂、平戸の紐差教会、ザビエル教会、山田、宝亀、中野などの教会を巡った」。そして「1.000枚を超える写真を撮りました。長崎の教会で感じた感動は、この写真を見れば、いつでも呼び起こせる訳です。すべては宝となりました」。いい旅をしたね、と喜びたい。★その彼が自問自答で書いていた。「日常、社会生活の中で、いかに信仰生活を生きれるか。キリスト者としては課題だが、実は答えは簡単です。それは自分を忘れて、結果は、けがれなき聖母マリアさまに、お委ねできれば良いのです。長崎の巡礼の各教会で、ボクが願ったのは、その信心を強く持てるようにでした」。★「けがれなきマリアに、お委ねする」なんて、こんな言葉が、すらすら出てくるのは、霊的・確信を突いているようで、エライ、と思いますよ。「トマさんとの出会いも良かった」。出会いで、どんな印象を与えるか。気になるところです。次回も来たいと書いている。「また、いらっしゃい」。最後に「ボクも、聖母の騎士の修道士として、コルベ神父さまのマリアさまへの信心を伝えていく生き方が出来るか。マリアさまのお望みは何でしょうか」。いい芽生えじゃないか。青年がどのように導かれるか、祈りました。


2014年1月17日金曜日

お祝い事の夕食。明るいカオの皆さん、長生きしてね。

お祝い事の夕食です。町の小さな居酒屋は、繁盛していました。仲間は、9人でした。飲み放題、食べ放題のお店ですから、安価です。料理は、自由に取ってください。最後に、水餃子(すい・ぎょうざ)のナベが出ました。母が、よく水餃子を食べさせたのを思い出しました。「余は、マンゾクじゃ」なんて表情、と言う勿れ。我らは、日々、晩酌は、しません。★老人になると、あまり物事には、動じなくなります。感動が少なくなる。行動範囲が狭くもなる。招待される恵みもない。それで、小さな喜びにも感動したいです。喜びたいです。感謝したいのです。そんな、ささやかな願いがあります。★この日、介護ヘルパーさんの入浴があって、ヘルパー男性との会話を楽しんだ。ヘルパーさんが、「ブログ、読みました。沖縄に行って、寝られない夜があったと書いていた。心配しましたよ。お風呂はどうしました?」などなど、よくぞ、声をかけてくれた。「気にしてくれて、ありがとう」と嬉しくなった。外部の人も助けてくれる。それ以上に、内部の皆さんも、助けてくれる。守られて、今日も笑える。★一方で、入浴すると、アセが出すぎるのか、腎臓1つでは、体調に少々異変を感じた。夕食時になると、多尿になるのです。楽しい会食と言うのに、3回も行きました。気になるよ。トイレの扉のすぐ脇に、白シャツの、会社員ら、5、6人が、盛り上がっている。トイレに行くたびに、ニラム、彼らの目が気になった。「それでも、行くしか、ない」


2014年1月16日木曜日

大阪オバアーサンの紙袋。真心こもった贈り物。コウサンです。

今朝、黙想のときに考えました。「ひとり住んでいても、豊かに生きる方法」というのです。昨日、宅急便が届いた。紙袋は、ポロ、ポロ。デコボコ。「また、あのオバアーサンか」と、直ぐわかる。正直いって、まだ健康で居られるのか、疑いを持ったよ。もう100歳近いだろう。(後で正確にメモを見たら、97歳だった)。いつも、ひとり居て、おゲンキ。大阪の市営住宅に、訪ねて行ったこともある。現実に、部屋と、生き方を知っているから、よく分かる。昔は、膠原病かに罹って、苦しんだ。自分の治療法で乗り越えて、ゲンキになられた。宅急便の紙袋を開ける。年に1度は必ず届く。もう10年はつづいているだろう。例のごとく、必ず手編みの、帽子、マフラ(首巻)が入っている。お菓子類。アメに、せんべい。ありがとう。正直いって、食べないよ。使わないよ。いや、いや、いただいても、ありがたいやら、困るやら。ただ、「あのオバアーサン、タイクツはしていない」。それだけは言える。★ひとり、部屋に居て、コツ、コツと、手を動かして、何かを作る。ひとり、住んでいても、豊かな生活をしている。97歳だよ。参るよ。老人になると、独りになって、孤独になって、何も語らず、誰にも出会わず、そんな話をよく聞くじゃないですか。このオバアーサン、じっと、していない。「受けるより、与える方が幸せ」。してあげること、してもらうこと、どっちが多いですか。このオバアーサンの紙袋を前にして、反省しました。してもらうこと、待っていてはダメだよ。紙袋が、そう告げる。オバアーサンは誰からも愛されている。豊かな人生だよね。長生きのヒケツかも。★手紙が入っていた。達筆の筆字だった。「パスポートの書き方から導かれて、次々と、友からも読まれて、15年間、心が広がり、いい想い出になりました」(1998年、騎士誌に記事を載せた。2004年、チェコ・ポーランド旅行実施)


2014年1月15日水曜日

人生、日々、過ぎるのが、早やし。アッと言う間の1週間。

1週間が経つのが、早いですね。『月曜日』は、介護ヘルパーさんによる入浴の日でしょう。2人の男性が、交代できてくれる。昨日の写真の男性と、今日の写真の男性です。お世話になっています。ていねいに、よくがんばってくれます。おかげで助かります。楽しみでもある。『火曜日』は、夜、夕食が終わって、共同の休憩がある。休憩室に皆が集まる。テレビは消して、会話を楽しむ。飲み物も出ます。皆が、心が通じ合うのは、喜びです。『水曜日』は、聖ヨゼフの日であるのを、意識する。聖ヨゼフの連祷を祈ります。夕べの祈りが終わって、食事へ行く前に、聖ヨゼフのご像の前に皆が集まって、祈ります。無縁者のためにも、祈ります。『木曜日』は、また入浴の日です。楽しみです。『金曜日』は、十字架の道行の祈りがあります。聖堂内の「道行の額」を黙想しながら、祈りを唱えて、移動して回ります。寒い冬は、祈りも、こたえます。『土曜日』は、フランシスコ会の「聖母マリアの7つの喜び」のコンタツの祈りを唱えます。修道服に下げているコンタツです。『日曜日』は、主日のミサに祈り、仕事はお休みですが、聖コルベ館は、年中無休です。見学者との出会いを楽しみます。こうして、早や、月曜日が来るのです。★生かされています。だから感謝します。祈ります。賛美します。「日々の行ないに於いて、み旨を果たします」。★今朝、考えました。ジンセイは、才能で、綴る。小さな才能、優れた才能、みんな、もっている。才能とは、湧き出るもの。次から、次へ、湧き出るもの。ああ、おもしろいな。そんな才能、おまえサン(自分のこと)、あるか、な。


2014年1月14日火曜日

希望をもって、ニンゲン、生きる。介護、お世話になる。

成人の日。若者は、喜びに湧いているが、年寄りは、老いてくれば、介護ヘルパーさんのお世話にもなる。2、3年前は、体調が弱くなっていた。風呂にも入っていない。風呂や、温泉は大好きなのに、カラダが動かず、ナマケの日々がつづいていた。幸い、修道士さんに、介護の免許を持った高原さんが居た。「介護を頼むよ」。お願いして、週に、1、2度、入ることが出来た。「高原さんが、別の町の老人ホーム付きに転任する、困ったな」。高原さんの延長で、介護を頼むことになった。★1年ほど前から、要・支援1の認定を受けて、ヘルパーさん(男性)を頼むことになった。時間は、1時間。入浴の介護と、部屋の掃除をしてくれる。ありがたい。おかげで清潔になった。健康になった。会話も楽しんでいる。今村さんは、長崎の山手の、石段が長く空へのびる上の方に、家があり、階段を上り下りして育ったという。「ナガサキって、そんな所ですよ」。明るい若者だ。風呂の中を掃除してもらうのが、ありがたい。老人は、すべって危ない。足のカカトも、軽石でこすって、きれいになった。要・支援2となる。「まだ、死ねんよ。今年イッパイは、何としても、生きたい」★目標が、ある。その目標は、簡単には、教えられません。希望をもって、ニンゲンは生きる。


2014年1月13日月曜日

人生の好転を、青年は語った。受ける恵みに、与える愛。

正月の3日だった。純平(じゅん・ぺい)という名の青年(30歳)が1人で見学にきた。新しい年は、若者に、新たな決意をうながす。「コルベの霊名を持っているが、まだ教会へ行ったことが、ない。新年になって、生き方を変えたい、と決心して来た」。コルベのタカラを発見したのだ。「おお、歓迎するよ」。洗礼は、生まれた時に、(ちょうど、コルベ神父が聖人になった頃であった)。家にあった、「身代わりの愛(コルベ神父)」の本を読んできた。「いい、名前を貰っているよ」と、コルベ神父のビデオを見せて、他者のために、愛といのちに輝く生き方を示した。この出会いが、いっそう、ふくらんだのか。★10日経って、今朝、再び、青年が現れた。「あれ、また来たの」。先日の帰りに「十七歳の夏」を買って、読んだ。「修道士さんの人生、壮絶ですね」「いや、まあ、ね」。県外から、列車で来ている。ゆっくり話を聞いた。すじ道は、こうだ。昨年の暮れ頃、NHKテレビで「フランクルの夜と霧」を見て感動、本屋で、その本を買って読んだ。アウシュヴィッツから、コルベの霊名に気が付く。自分も「人生を変えたい」と考える。「人のために、尽くせる人になりたい。十七歳にも書いてあった。恩は、もう、その人には返せない。別の所で、別の人に返していく」。まじめそうな青年の語らいに共感した。新しい年に、自分の人生を変えてみる。すばらしいことだよ、と励ました。「ルルドへ登りなさい。聖堂のコルベ神父の祭壇で、祈りなさい」と勧めた。コルベの名が好転をもたらすか。純平青年のジンセイは、どのように開けるか。導きと、恵みを祈った。「コルベの霊名を付けたのは、亡くなった、おばあちゃんです」。アドバイス。①自分の信仰のルーツを調べ、②教会へ通って、自分の信仰を確認し、③要理の勉強をするよう、励みなさい。純平さんのため、祈ろう。


2014年1月12日日曜日

沖縄の旅。思い出。これぞ司祭なり。歩くのがタイヘン。

沖縄の神父さん。有馬マテオ神父さんです。白いスータンを着て、司祭の意識をちゃんと守っておられる有馬神父さんです。だいたい同じ年令の神父さんです。42年前、グラフの編集者として、沖縄が復帰したとき、開南カトリック教会で、初めて会った有馬神父さんです。そのときからお互いに覚えるよう、知り合いになりました。この度も訪ねていった。司祭は、こうでなければ、と敬服しています。司祭の服を着て、ちゃんとして、おられる。いいですね。トマも修道服はいつも着けようと思います。★さて、沖縄の旅は、少々、自分のチカラに自信をつけた。聖コルベ館に、ジーッとして、居座っていても、いい。あるときは飛び出して、さまざまな事を経験すれば、また新しい出会いもあれば、体験もある。1年1年、がんばろうと思う。★要・支援・2のトマさんです。入浴の介助ヘルパーには来てもらっている。入浴時は、危ない。沖縄旅行中、3度、危険なことがあった。①空港バスの段が高い。お年寄りには、上り下りが、きつかった。転びそうになる。転んだら、タイヘン、みじめだよ。②海中の塔で、30段、下りは、いいが、上るのに苦労した。「倒れたら、どうしよう。救急車は、来ないぞ」。心臓、パク、パク、危険だった。ホント。③海軍の塚。ここは50段。すごい階段が有るのを知って、おりるのは、ためらった。「ここまで来たからにゃ」と、覚悟を決めて降りて行った。★海中・塔へ行くのに、かなりの距離を歩く。幸い、そこには小さく、赤いバスが居って、それで運んでもらって、楽しんだ。もう歩くのがタイヘンなんです。★一応、これで、沖縄の旅は完結にしよう。旅は終わった。さあ、普通の生活を始めるぞ。「トマ、疲れたかと思ったら、ゲンキなカオして帰って来た」と食卓で言われた。食卓の仲間には、こちらから、挨拶だけは、忘れない。「おかげさまで、いい旅、ありがとう」。今朝は、考えた。宗教の役割は何んだろう。①永遠のいのちに導かれる。もちろん、それも、ある。②自分が持っている弱さや、罪を清め、悪習を正して、聖人になる。聖性です。ほかに、何が有るか。③弱い人、貧しい人、困っている人、孤独の人、それらを助ける。それも、あるのでしょう。こうして再確認するのも、いいと、思った。

2014年1月11日土曜日

沖縄の旅。思い出。皆さんと、霊能者の話で盛り上がる。

沖縄の皆さんと、楽しく昼めしを共にした。以前から知っているので、再会を喜び、話もはずんだ。笑い、語り、また笑い、盛り上がっているなかで、誰かが、宜保・愛子(ぎぼ・あいこ)の名前を出した。沖縄出身の、霊能者です。沖縄では、有名なんですね。もう亡くなりました。なぜ宜保さんの名前が出たか、分かりません。トマ修道士も、そう言われてみれば、思い出したことが、あったので、次の話をして、更に盛り上がったのです。★宜保さんは、10年ほど前になるか、有名でした。テレビにも出ていた。霊を感じる女性です。霊が見えるらしい。また透視術も持っている。部屋に入ると、右側に、額縁がある・・・なんて、当てるのです。★ある日、聖コルベ館に女性が、20人ばかりの女性群を連れて、入ってきた。「あれ、どこかで見たことのある女性だよ」。思い出した。テレビで親しい宜保さん、霊能者だった。連れの女性群は、親衛隊らしい。「どうぞ、どうぞ」と聖コルベの部屋へ案内した。粗末な机があり、これまた粗末なイスがある。イスを引いて、「どうぞ、お座りください。コルベ神父のイスです」。普通の見学者は、「ええ?座って、いいんですか?」と誰もが、喜んで直ぐ座る。ところが宜保愛子さんは、ジーッと、イスを見つめていたかと思うと、ひざまずいて、イスを抱きしめた。すると、ギョッ、部屋の電灯が消えたのだ。真っ暗くなった。「さすが、霊能か?」。びっくりしたよ。しばらくして、立ち上がると、電灯がついた。「ホレ、ホレ、点いたぞ」。宜保さんは言った。「コルベ神父さまのように、身代わりの愛は出来ませんね」。・・・・さて、昼食のとき、食卓で、この出来事を言うと、「あのね、機械の故障で、電気のスイッチを切ったよ」と印刷担当の修道士が言うじゃないですか。・・・・と、ここまで、あの沖縄の皆さんに言うと、「バクショウ、爆笑」で大笑いしたのでした。宜保さんの霊能を信じかけていたのに、ああ、思いは砕けた。沖縄のヒトには、話題が多いね。そのとき撮った宜保愛子さんの写真です。冥福を祈ります。

2014年1月10日金曜日

沖縄の旅。 思い出。捨て犬と、ピカの名をもつワンちゃん。

正月休みを利用しての沖縄の旅。無事に終わった。いろいろな思い出が沢山できた。いい旅だったよ。固いことばかり書いたので、旅の後の忘れない思い出として、イヌの話を書いておこう。★押川司教さまが居られる安里カトリック教会へ行ったときのことです。さすがに教会はリッパで、屋根や造りも沖縄らしく目立って、すぐに分かる。教会訪問と、司教さまに挨拶を、と坂を登って行った。★マリアさまのご像の前で、捨て犬を見つけたのです。マリアさまは、白く、大きな、1mより少し高い、ご像です。「ああ、きれいや、な」と見つめ、目をじょじょに下の方へ向けると、「あれ、何だ?」。ファスナーのついた小さな袋がある。「ニャ、ニャ」「クス、クス」。なにやら音がする。少しファスナーを開けると、子犬がいた。子犬というより、赤子だよ。写真のイヌだからね。「捨てイヌか。教会へ置けば、助けてくれるどろう」。まだ目も開いていない。びっくりして、袋を閉じて、事務所の男性にお知らせした。抱えて来たのが、この子犬です。かわいいよ。犬種は、わからない。盲導犬になるやも、知れないよ。ベトナム人の神父さんが「かわいい。飼います」と大切に抱えていた。★教会へ入ろうとすると、今度は、小さな犬が、チョロ、チョロと出て来て、足元に寄ってくる。毛が、ムジャ、ムジャした、なんという種類か分からない。じーっと、こちらを見ては、聖堂へ誘う。教会のベンチに座って、静かに祈っていると、犬は、内部を、あちこち回っている。えんりょ、しないイヌだよ。吠えないし、誰にでも懐くから、番犬には、ならない。★司教さまに挨拶申し上げると、あのイヌも近か寄ってくる。あいきょうがあって、いいな。「名前は、なんですか?」「ピカ・・・」「ピカって、それ、アシジの聖フランシスコのお母さんのオ名前でしょう?」。リッパな名前を貰って、光栄だよ。そのとき、とっさに思い出した。「ライモンドのこと」だった。ピカ夫人に、ライモンドか。あの子イヌは、どうなったかな。幸せに、なれよ。

2014年1月9日木曜日

沖縄4日目。沖縄観光に尽力したお父さん。夜に長崎へ。

渡名喜守定さん、お会いしたときは、70歳。おゲンキなおじいちゃんであった。沖縄観光開発事業団の理事長さんを務めていた。もともと沖縄の生まれ。少年の頃は、海の男にあこがれて、海軍兵学校へ。さらに頭脳抜群で、海軍大学校へ。オランダの駐在武官をつとめ、オランダ国から勲章をもらっている。この勲章を自慢しておられた。海軍の大佐。終戦は、広島の福山で迎える。戦後は、軍人・武官は苦労した。10年間は沖縄へ帰らず、鎌倉で過ごした。そのとき、カトリックの洗礼をうける。息子の守明さんが、カトリックの栄光学園に通い、その影響だった。その後、沖縄へ帰って、さまざまな要職につく。トマ修道士がお会いしたのは、復帰の年であった。沖縄振興にチカラを入れておられた。★息子の守明さん(75歳)に、開南カトリック教会でお会いできた。トマ修道士のことは知らない。騎士誌の記事を読んで、分かりました、と心を開いて、よく話してくださった。お父さんは、平成5年2月1日に、90歳で亡くなった。霊名は、ミカエルです。お父さんの好きな言葉は、聖パウロの「主において、喜べ。常に喜べ」。最後は、トナキは、オジイになりましたと語った。★この度の沖縄旅行で、渡名喜さんのことを心に留めていたが、息子さんにお話しができて、念願を果たした思いがあいた。1つの記事が書けるだろう。★沖縄カトリック小学校を訪ねる。毎年、修学旅行で、聖コルベ館に来ている。子どもたちに、コルベ神父と平和の話をしている。小6、3組。彼らは昨年、出会った。今年は小5が、小6になって、1組、2組、3組の子供たちが来る。彼らのクラスに入って、挨拶した。ちょうど、給食の時間だった。「修学旅行へ行きたいか」「オー」「長崎へ、行きたいか」「オー」「聖コルベ館へ行きたいか」「オー」。終わった後で、「ああ、でしゃばり過ぎたか」と反省すること、しきりだった。★稲国神父さんから電話があった。「空港まで、送るからね」。空港まで、稲国神父さん、稲国助祭さん、政子さん夫妻が、見送ってくれた。「いい旅だったよ」。長崎空港には、松下修道士さんが出迎えた。「おお、寒むーィ。やっぱし、オキナワが、よかバイ」

2014年1月8日水曜日

沖縄3日目。喜びの出会い。悲しみの壕の見学。執念だった。

地元の人たちが、歓迎で集まった。10人です。どういう人たちですか?長崎巡礼に来て、トマ修道士から、長崎市内や、外海、五島列島を案内された思い出のある任たちです。★五島へ行ったとき、泊まるはずのホテルを断られた。仕方なく、隣のビジネス・ホテルに泊まった。翌朝、食事のとき、「火事だ」。外へ出てみると、泊まるはずだったホテルが燃えている。宿泊客は、寝巻きのまま、屋外に避難しているのだった。「ええ、これは、タイヘン」。良かったと言っていいのか、可哀想と言っていいのか。「そんな事が、あったね」。話題は、盛り上がった。「皆さん、長生きしてね。また、おいで」。おみやげも、くれました。トマ修道士は、けっこう、人気があるんだよな。ありがたいと思いました。ガイド、うまければ、恩は返って来る。「トマさん、おゲンキなので、安心しました」。喜んでくれた。★渡名喜さんの「海軍・壕」を見学する。沖縄戦の前に、地下、450mの長さの穴が掘られた。ここで指揮をとり、電波を発信した。水も、トイレもなかった。海軍の兵隊たちは苦労して、戦い、最後は、4.000人の海軍兵士が自爆した。戦争は2度とあっては、ならない。平和学習の場として、子どもたちや、学生が見学に訪れている。穴に入っていく。50段の階段があった。帰りは、登るのがタイヘンだ、と思ったが、渡名喜さんの供養で、覚悟して下って見学した。幸い帰りは抜け道があり、ここには階段はなかった。渡名喜さんは、「壕」の復元に力を尽くした。3.000人の遺骨を収容した。「玉砕の地を、観光客の目にさらすのか」の批判もあった。「わたしは、何とかして、この戦跡を残したい」という念願だった。渡名喜さんは、ローマ迫害時代の、カタコンブ聖堂ですよ、トマ修道士にと語っていた。再度、見学の念願を果たして感無量であった。★その夜は、なぜか、寝つきがよくなかった。

2014年1月7日火曜日

沖縄2日目。司祭の会食と、海中の塔へ。神秘の海よ。

「沖縄で働く司祭と、助祭(4人)、合わせて、20人程の集まりがある。その後で、昼食会があるので、いらっしゃい」と、お誘いがあった。バイキングのお昼時をいただいた、後のコンベンツアル会の皆さんです。左から、稲国神父さん、押川司教さま、トマ修道士、古川神父さん、もう1人、大野神父さんが居るが、宮古へ帰られた。楽しいひと時でした。集まった神父さんには、アメリカ人、ベトナム人、フィリピン人と、多彩だった。日本人の教区司祭は、2人。有馬神父さん、白のスータンを着ておられる。復帰のときから知っている神父さんで、再会を喜びあった。★渡名喜さんの「海中・塔」を司教さまに尋ねると、場所を教えてくれた。昼食後、「さあ、行ってみよう」。稲国助祭の車で、島の中央あたりの、美しい海岸を訪ねた。★海の前方、左側、海上に突き出た白い塔があるでしょう。あそこまで歩いて、あの塔の中へ入ると、30段の狭い階段がある。そこが海中で、多くのサカナが、スイ、スイと、泳いでいる。海中が見えるわけです。神秘な気持ちになります。これを、渡名喜守定・会長さんが、開発していたのです。沖縄開発の、はしりですね。どうしても、訪ねたい。こだわりました。しかし階段、30段を帰りに登るのは、大変な苦労があった。途中で、意識を失い、倒れるかと心配した。「ここには、救急車が来ないよ」。なんとか無事にのり越えた。★すばらしい海でした。清らかな砂浜。砂が、とても細かくて美しい。「おお、オキナワへ、来たぞ」の感じの海浜だった。満足しました。★動画も入れた。見て下さい。


2014年1月6日月曜日

沖縄へ。1日目。42年前の復帰を思いつつ。平和の旅。

年中無休の聖コルベ館には、年末・年始には、見学客がくる。他の人は休んでも、修道士は休まない。正月が明けて、皆さんが仕事を始めてから、修道士は休みをもらった。温かい沖縄へ行こう。3泊4日の旅を計画した。飛行機代と、ホテル(定宿がある)代こみで、パックで買うと、46.000円であった。さあ、どんな旅になるか。★1つ、考えていた企画もあった。カトリック・グラフの編集者のとき、沖縄が復帰を果たした。取材で、初めて沖縄へ行った。42年前になる。そのとき、(もと海軍大佐の)渡名喜(となき)守定さんに出会って、観光開発として計画している「海軍・戦跡の壕」と、「海中の塔(海の中が見られる)」に案内してもらった。記事にも書いた。もう1度、その場所を、守定さんを偲びながら、訪ねたい。その気持ちで、午前11時45分、長崎空港をフライトする。幸い、沖縄への直行便があった。★午後1時20分、那覇空港へ着くと、知り合いの稲国助祭と、政子さん夫妻が出迎えてくれた。何年か前にも、お世話になっている。「また又、頼みますよ」。気温は、温かいかと思きや、今年の沖縄は、寒いという。気温は15度ぐらい。泊まったホテルは、空港から、ものレールで、1つ駅、赤嶺駅の真下にあった。写真の右が駅で、左がホテルである。近くに、スーパー、薬局、本屋、長崎チャンポンまで有って、生活に便利で、沖縄へ来ると、利用している。★「トマさん、宿へ行くには時間がある。どこへ案内しようか」「そう、ね。近くの教会へ行こう」。小禄の教会だった。フランシスコ・カプチノ会の本部になっており、長年にわたって、この修道会の司祭たちが沖縄宣教を担当してきた。復帰から42年、多くの宣教師が神に召されて、寂しくなった。時代は流れている。ルイス神父さん(82歳)が迎えてくれる。1年間、聖母の騎士で生活した経験もあり、丁寧な案内があった。「ああ、オキナワへ、来たのだ」。オキナワの人の心は、温かい。その夜は、安らかに眠った。

2014年1月5日日曜日

ライモンド、お祝いだぞ。ごちそう、あげるから、ね。

ライモンド、正月、おめでとう。おまえ、いくつになるんだい?ノラネコだからな。歳がわからんよ。朝の食卓で、歳が話題となった。「いくつ、だろう?」「ルルド祭のとき、ルルドで拾った。高校生(神学生)の勇太郎が連れてきた。勇太郎は、今、東京・関町の神学院に進み、今年、大学も終わるから、もう4年には、なるね」「それに、1年ぐらい足すと、5歳かな」「男らしく、リッパになったよ」「普通、ネコは家のなかで飼うよね。ライモンドは、家に上げないから、いいよね」「それにしても、ライモンドという名、よく付けたね。神学生たちが付けた」「コルベ神父さまの名前だからね」「そういえば、1月7日は、聖ライモンドの祝日で、本名は(ライモンド・コルベ)神父さまの誕生日だよ。(マキシミリアンは修道名)」。コルベ神父さまは、1894年、ポーランド・ズドンスカ・ボラ町で生まれた。生誕の家は、記念館になっている。★「明日から、沖縄へ出かけるから、今日あたり、昼食後に、早々とお祝いしてあげるか」「おいしいサカナを、御かしら付きのサカナを」「イワシで、いいよ。御かしら付きを勝って来て、食べさせるか」「よろこぶぞ」★朝は、ライモンドはエサを貰いに、来なかった。「最近は、ライモンドは、下の国道の傍に、記念塔が立ってる場所があるでしょ。あそこまで行っていたよ」「へー、そんなに遠くに」「ライモンドは優しいオスだよ。ほかのネコがエサを奪いにきたら、あっさり、ゆずってしまう。最後まで、食べれよ」「ライモンドらしいな」「ネコは、別々のニンゲンを判別できるかね?」「どうだろう」★昼食後に、ライモンドが「ニャー、ニャー」。「ライモンド、御かしら付きのサカナだよ。ちょっと、小さいけれど、な」「いいカオ、しているぞ。幸せか。これ食べて、安心して、暮らせよ」

2014年1月4日土曜日

元日、第1号の入館者は、三重県の青年、熱意に、負けたよ。

聖コルベ館の担当を勤めて、24年。新年に当たって、1番の興味は、誰が、何処から、最初に入館者が来るか、です。★2年前は、東京のエリザベットさんと娘さんの2人。1年前は、同じエリザベットさんの娘さん1人だった。その娘さんは、いまタイで、現地の人と協力し、夢を実現させているとか。★さあ、今年は誰が、来るか。興味深々。待っていると、開館して直ぐに、ピン、ポン。「来たーぞ」。三重県から1人で車を運転してきた青年1人だった。出会って、すぐ「トマさんの本、みんな読みました」。これは別人だと、ゆっくりと話し合う。いい出会いが出来ました。おかげで、洗礼をうけて、霊名は「コルベ」を戴いた。実は高校のとき、教科書に載っていたコルベ神父に親しみと教訓を受けて、魅せられて人生が変わった。お父さんが山岳宗教を信仰していて、小・中学生の頃は、父に連れられ、山伏姿で、ほら貝を吹いて、断崖絶壁から身を乗り出して、ホトケの世界を体験したこともある。★「いまは、コルベ神父さまです、マリアさまです」と、明るく笑う。なかでも青年が言う、コルベ神父さまの清貧の生き方、ラクなイスを使わないでください、貧しく生きてくださいや、ポーランド人修道士たちが貧しい食卓を皆で囲み、ゼノ修道士が、ポケットから騎士誌の読者の名詞や、住所を出して、楽しく語らう話しなど、淡々と聞かせるんですね。マイッタよ。よく覚えているなと感心する。★また青年はこんなにも言った。「おカネ儲け、したい。ラク、したい。楽しみたい。快楽を求める。当然あります。求めて行っても、空しさを感じます」って、青年が言う。彼は26、ボクは86だよ。歳が離れている青年が、悟ったように「空しさ」を言う。実際、そうだから、モンクは言えないよ、ね。「コルベ神父さまは、この世では片手で働く。片手は自分が落ちないように支える。天国では両手で働く。天国から伸ばされた手を感じた」と、まで言って、青年は、資料室のサイン帳に名前を書いて、去った。
 


2014年1月3日金曜日

初・漁です。大きなタイだよ。松下修道士さんの快挙。ウマイ。

正月2日目。70歳近い松下修道士さんと、(別の町に住む)釣り仲間の80歳の神父さんが、いっしょに初・漁に出ました。見事、タイの大きなのを釣り上げて、ニコニコして帰ってきた。「トマさん、釣ったぞ」「待て、待て。写真に撮るから」「早く、撮ってよ。まだ生きている。弱ってしまうから」「何センチ、あるかな?」「50cm」★その夜は、聖堂で、聖時間のお祈りがあった。1時間、ご聖体の前で、賛美して、祝福を頂くのです。神さまも、寂しいよ。聖書を読んで、お説教も聞きます。神さまと共に居て、しばらくの間、一緒に過ごすのです。★終わって、夕食へ行くと、見事なサシミになっていた。松下修道士さんが、さばくのです。ビールでカンパイしましたよ。オセチも食べ尽くした頃だった。松下修道士さんの話に耳をかたむける。★いつものように長崎港(木鉢)からモーター舟で、出航。神の島を出て、波がひどい。伊王島の沖に、500mぐらい出る。正月初めで、他にも釣り船は出ていた。「イッチョン、釣れんタイ」。サカナが食わん。場を変わった。やっぱり、だめか。そう思ったか、どうか。釣り人の気持ちは、わからない。トマは釣りはダメだね。気が短いから。「もう、帰ろうか」と思ったとき、「食ったぞ、食ったぞ」。松下修道士は、タイを釣り上げ、つづいて、55cmの「ウスハハギ」(カワ・ハギの仲間)を釣り上げた。神父さんも、大きなサカナをゲットした。帰りの海は、ナギになっていた。「いい、正月だったな」。食べた者たちも、「いい、正月だったな」。みんな、その夜は、ゆっくり眠った。

2014年1月2日木曜日

年賀状は、これです。ゲンキ、大きな声、今年の目標です。

トマ修道士の年賀状です。これまでは、スイセンや、ウグイス、ツバキなどを賀状に書いてきましたが、今年は白黒・写真を載せました。高校生たちに、話をしているスナップです。もう、この歳になると、どのような1年にするか、考えます、これがホンネです。3年後、5年後の計画は立てない。今年をセイ・イッパイ生きる。それで、いいでしょう。「この道を行けば、長く生きる」。これホント。正月だけれども、5時に起きた。身なりを整えて、洗濯機を回して、昨夜、干していた洗濯物を乾燥機にかけて、3階の自室を出た。暗い、長い、廊下を歩きながら、「ココロ」を感じるんですね。皆さんも、心を感じること、ありますか。廊下の先に、エレベーターがある。「ゲンキを出そう」「声を大きく出そう」。周りが、年寄りが多いので、聞こえないんですね。「なに?」「ウン?」と必ず問い返される。「ヤグラシか」。長崎ベンで、うるさい。手間が、かかる。そんな意味です。だから、大きな声で、一呼吸、おいて、発言する。これ効果がある。★誰かが、言った。「トマさん、お母さんが、見守っているんだね」「いま生きていたら、100歳以上でしょう」「そう、です」。子どものとき、母から、厳しく言われたのは、寝る時は、ちゃんと自分の服をたたみなさい。折って、重ねて、枕元に置いて、眠った。海外と言う事情もあった。いつ、なんどき、何ごとが起こるか分からない。いまでも、そのことを思い出すよ。★53.7kgの体重が、年末だ、正月だ、で、55.9kgになった。こりゃ、たまらん。少し減量しよう。食欲に、負けるな。生きるって、いろいろ有るよ。★1月6日から、3泊4日で、ひとりで、沖縄へ正月休みに出かけます。沖縄の稲国・助祭さんに連絡しました。「おせわ、たのみます」

2014年1月1日水曜日

2014年、平成26年、ウマの年。元日。おめでとう。

新しい年を迎えて、お喜び申し上げます。おめでとうございます。夜中の12時から、ミサで祈りました。神さま、この1年、祝福を与えてください。神の御母マリアさまの祭日でもある。教皇フランシスコは、新年のメッセージを出されて、内容は特に、兄弟愛を強調しておられる。司祭が、そう言われるのを、聞きながら、考えていた。なぜ、兄弟を、隣人を、素直に助けられないのか。①意見が違うと、イヤだ。②計算が合わないことは、手を出さない。③労力を惜しむ。まあ、それらが壁になって、実践は難しくなる。「入院したとき、誰が助けに来たか。誰が痛みを共にしたか。考えてみただけで、わかる。結局、誰も来ないよ。だから人間は孤独です。孤独を自覚して、耐えていくしか、ない。隣人愛といっても、さえずるだけに、終わっていないか。そのようなことを、正月だが、考えていた。反省すべきと、思います。計画を、支点を変えてみる必要を感じます。★なには、ともあれ、新しい年です、喜びましょう。生きていることを、喜びましょう。いま、生きているのは、意義のあることです。生まれてきて、良かったと言える人生にしたいですね。よいジンセイを築きましょう。人は1人では、生きられない。★滝神父さん、お屠蘇、注いでくれんね。ハイ、飲んで。正月のお花も食卓に飾った。もう、3年、こんな写真を撮ったね。さあ、揃ったよ。カンパイだ。新しい年に幸せあれ。★夜中のミサが終わった。聖堂を見渡すと、いつも正月に必ず来る家族が見えた。笑顔で近づく。「ああ、いらっしゃい」。もう10年前になるか。正月、同じ席に、最初は、男性1人が来ていた。そのうち、女性を連れて来た。嫁さんになった。何年かして、娘の赤ん坊を抱いてきた。次々の年、男の赤ちゃん、抱いてきた。今年は、家族4人、娘はもう中2だよ。男の子は小4だった。こんな家族って、すばらしい。