2014年2月28日金曜日

韓国からの便りです。文章に、こころ惹かれた。リッパ。

たった1枚の手紙です。でも、読んで、すごく感動しました。「ここは、花あらしが、吹いて、寒いです」。字が、いいじゃありませんか。キチンとした文字です。韓国には、漢字は無いというのに、揃う漢字を書いています。「しかし、恋人の、心は、もう春です」。天候は寒いけど、こころは温かい。春は、もう、直ぐですね。「本と、おいしい菓子を、送りします」。大きなダンボール箱、2個、なかには、また、韓国版の『長崎のコルベ神父』64冊と、丸い筒に収まったクッキーが2個、入っていた。思わず、ホホがゆるんだ。「では、小崎登明さんの、健康と、幸福を、ために、聖母マリアへ祈ります」。この手紙を書いたのは、韓国人の神父さんでした。昨年、5月に韓国へ行ったとき、10人あまりで昼食をとったが、隣に座ったのが、この神父さんだった。歳は30代。日本のマンガで、日本語を学んだという。神父さんが、恋人の心なんて、優しいね。「また、韓国に、お寄りください。絵文字のエガオが記してあった。サインは、忍短い手紙だけれども、簡潔、明快、すばらしいですよ。この手紙を受け取って、1週間は過ぎたが、モノ書きにとっては、なぜか忘れられないので、日記に載せました。神父さん、ごめんなさい。

2014年2月27日木曜日

島原・オバマ温泉3日目。長崎へ。泌尿器科の予約診察。

昨夜、食べた食事です。温泉宿のすぐ前は、海。新鮮なサカナがある。カワハギのサシミ、小エビの刺身、ウチワ・エビ、のど。毎回、テンプラもある。まあ、これだけ食べれば、十分です。独りで、黙々として、食べます。テレビは見ません。お酒も、飲みません。時間は40分ぐらいですか。孤独に耐える生活には、慣れています。その覚悟は出来ている。★我と、我が身に、言い聞かせる。「元気で居ります。修道士を守っています。聖コルベ館に勤めております。(それだけで、リッパ)。そのまま、進んでください」。今朝は、午前中に、泌尿器科の予約の診察日になっている。早めに朝食を済ませて、8時に、長崎から、お迎えのクルマ・白浜さんが来た。小降りの雨のなか、長崎へ急いだ。1時間20分かかって、泌尿器科へ着いた。★ステントを入れているせいか、腹中が、チクチクと痛みます。それでも、何ごともなく、生きています。今年は、なんとか頑張ろうと覚悟を決めています。大きな目標もあります。いまは、まだ騒ぎたくない。

2014年2月26日水曜日

島原・オバマ温泉2日目。早朝、1番風呂での爺さん。

温泉宿で、早朝、1番風呂に入る。先客が居た。頭の白い、お爺さん。背中に向かって、勢いよく、アイサツした。返事は、返る。いっしょに、湯につかった。肩と、肩の間隔は、1mぐらい。自分の性格から、語らずには、おれない。が、少々、迷っていた。考えているうちに、爺さんは上がって、カラダを洗い、また入ってきた。それまで、じっとお湯のなか。沈黙が、しばらくつづいたが、声をかけた。今朝の天気、雨だった。度々、この宿に来るのか?埼玉の人だった。息子が、山口に居る。息子の車で回っている。話は、山口の温泉に進展した。そこで、「生まれは、昭和何年ですか?」「20年の1月です」「69歳ですな」「ええ、まあ」。こちらの歳は「長崎といえば、原爆で、17歳だった」「昨日、資料館、見ました」。会話は和やかに進んだ。お爺さんは上がっていった。露天風呂に入る。雨が降っていた。脱衣所にあがると、お爺さんは、まだ肌着をつけていた。ここで、もう1問、聞いた。「九州の人の、イメージって、ありますか」。おおらか、と言うか、開放的と言うか、そんな表現を使った。ここで別れたが、朝食は、共同の座敷だった。1人で食べていると、お爺さんの家族は、幼児の女の子を含めて、賑やかだった。爺さんが、そばへ、わざわざ寄ってきて、声をかけてくれた。「お車は?」「ええ、迎えに来ます」。そで、すりあうも、何かの、縁。そんな気持ちの朝であった。

2014年2月25日火曜日

島原・オバマ温泉・富士屋さんへ。なぜ、いつも行くのか。

温泉宿・富士屋さんは、家族の家のような気持ちです。なぜ、そんなに毎月、温泉へ行くかって、理由はあります。1つには、被爆者の治療の気分がありますね。被爆者の温泉宿もあるんです。もう1つは、環境を変えるのは、精神的に、いいですね。違った視点から、もの事を考えてみる。ためになります。富士屋さんでの、部屋はいつも決まっています。同じ部屋に泊まっている。着いたら、風呂に入って、休むんです。夜は早めに寝ます。寝ている間に、毒も疲れも、抜けて行く感じですね。たしかに健康にいいですよ。もう1つ、体力を落とさないために、温泉へ行く、そんな気持ちもありますね。カラダを動かして、別の空気を吸う。ゲンキが出ますよ。牛肉のテンプラも食べます。ほかに、もう1つ。なんと言っても、オバマは温かいです。温泉の温度は、105度。地面、そのものが暖かい。地熱も吹き出している。カラダが温まります。老人はカラダは冷えるんです。おかげで助かります。温泉へ来る途中で、本屋で、本を1冊買った。池上彰の「宗教・対談」。仏教、キリスト教、イスラム教の概略、読みました。平常心で、過ごしております。

2014年2月24日月曜日

名指しで、見学に来た青年。日々精進、努力と彼は言った。

「小崎サン。こんにちは。東京・赤羽教会に通っています。夏に、赤羽に来られたでしょう。会いたいでした。ミサの奉仕をしていました。終わって、親戚を羽田まで送ったので、会えなかった。残念です。今日、訪ねてきました」。横浜のお菓子を差し出した。職場が横浜だという。「ヒト見知りなんです」と言いながら、愉快に、快活に、語る青年でした。こういう青年とは、気が合うようです。「会えて嬉しい」と、しきりに喜んでいる。母方の祖父が長崎出身で、幼児洗礼だという。「親戚の結婚式のため、来ました」。最初に寄ったのが、ここ。次いで、永井記念館へ行きます。みやげを、もう1つ持っていた。「君にとって大切な言葉は、何ですか」「日々、精進、です」「努力ですか」「ハイ」「まじめに、がんばるんだね」「母から、誠実に生きよ。ごまかすな、言われています」。修道士に会って、安心したようであった。冬の寒さなのに、アセをぬぐっている。「お名前は?」と聞くと、似顔いりの、しゃれた名詞を差し出した。似顔が、写真の顔に、そっくりだった。気持ちが、軽くなった1日だった。ありがとうね。

2014年2月23日日曜日

沢山の若者たちに話を聞かせたが、1つの花が咲いた。

若い人の成長って、早いですね。10年前、よその県から、小学生たちが、長崎市へ修学旅行にきた。平和学習で、原爆資料館を訪ねて、見学し、被爆者の体験講話を聞いた。そのとき、お話しをしたのが、小崎サンだった。その中の1人の少女が、話を聞いて感動して、自分は平和のために、被爆者を助けるために、将来は働きたいと、小さな決意をした。長崎の町が好きになり、将来は、長崎で勉強したいと、願った。中学生になったとき、小崎サンに初めて手紙を書いて、心を打ち明け、それから文通が始まった。「応援するよ」。少女の成長が楽しみだな。見守りつづけた。やがて高校生になる。ますます平和と、被爆者医療と、長崎に住みたい気持ちは、高鳴っていった。10年の歳月が流れる。小学生は、いまや大学生になり、「春休みになったので、訪ねてきました」と、聖コルベ館へやってきた。うれしかったね。よく来たね。語り合った。明るい大学生だった。将来が、頼もしい。10年前、小学生・中学生に、何百人、何千人と原爆の話を聞かせたが、このように稔ったのは、1つの花だけだった。これも、ご縁と言うのだろうか。教会とは何も関係はないが、「長崎には、イッパイ、歴史もある。おいしい食べ物もある。少しづつ、生活の範囲を広げて、勉強しなさい」と勧めておいた。明るい未来と、さわやかな笑いを残して、女子学生は去った。「いい出会いの日だった」

2014年2月22日土曜日

コルベ神父のカードを配る。恵みの取次ぎをお願いしよう。

愛の聖人であるコルベ神父のカードが出来ました。聖コルベ館に見学に来た皆さんに、このコルベ神父のカードを配ります。裏には、取次ぎのお祈りがある。コルベ神父は、家族がある男性の身代わりとなった。聖人として、カトリック教会から祭壇に上げられています。家族の保護者でもある。★家族の中に病人が出た時や、家族が困難な事態に遭遇した時など、コルベ神父の取次ぎをお願いしよう。「聞き入れられる」と希望をもって祈りましょう。祈りを称えて、利用してください。★コルベ神父が長崎へ上陸して、今年は、84年になります。長崎の聖母の騎士といえば、当然、コルベ神父でしょう。神父抜きには語れない。時代は代わり、人間も発展するとはいえ、コルベ神父の初心の信念は、いまも変わらない。大切に思います。遺産は受け継いで、残して行く使命もあります。コルベ神父の愛は不滅です。

2014年2月21日金曜日

ライモンド、戻って来ない、何処へ行った?寂しいぞ。

これは、いつ頃の写真か?去年の6月じゃないか。いい顔、しているぞ。ライモンド、オマエが居なくなって、もう2ヶ月になる。寂しいぞ。朝から、必ず、「ニヤ、ニャオ」と、甘えて泣いていた。というより、アイサツをしていた。それが、全く声が聞こえなくなった。そりゃ、ふっと、寂しいなァと思うときがある。早く、戻って、来いよ。待って、いるぞ。★今朝は、午前中、聖コルベ館には居なかった。町のクリニックへ、診察と、薬をもらいに行く。帰りに、中央郵便局へ寄った。韓国・騎士会へ、韓国語版『長崎のコルベ神父』の代金を、700ドル、送る。送料を入れて、75.000円ほどになった。帰りに、もう1軒、立ち寄った。耳のお医者さん、左の耳の治療をする。昼ごはん前に帰った。おかずは、イワシの煮付けだった。栄養があって、おいしいサカナです。午後は、自室で、休んだ。寝床が、ぬくい。自らに言い聞かせた。「怠けるな。起き上がれ。寝ているダンじゃ、ないぞ」。そう言いながら、聖コルベ館へ。それで、パソコン日記の記入が遅くなりました。いま、宅急便が、ルルドの水の発送・荷物を受け取りにきた。「ある地方は、豪雪で、遅れます」という。入館者は誰も来ない。5時には閉めます。金曜日ですから、夕べのお勤めに、『十字架の道行』があります。★この世に「生」を受けて、ウン十年。いろいろ有りましたが、なんとか生きてきました。見たり、聞いたり、考えたりしてきた中で、本当に真実なものは何だったのか。何を体験したのか。この老いの歳になって、反省しております。

2014年2月20日木曜日

長崎・原爆の語り部、平和をつげる。戦争は、ダメだよ。

朝の気温は、4度だった。長崎でも、冷える。東京から、修学旅行の小学生たちが、120人、ヒザ上の短いズボンをはいて、やってきた。「寒かろう、ゲンキだね」。毎年、今の時期にくる暁星小学校の児童たちだ。長崎市内を回って、海星学園へきた。被爆者の修道士が、1時間ほど、語り部を勤めた。皆さん、熱心に聞いていたよ。老いた身の修道士は、長時間、立って話すのは、難儀だった。それでもガマンしたよ。子供たちに話を聞かせると、こっちの方が反対に、パワーをもらう。ありがたいと思うよ。「質問は、ないですか?」と聞くと、4つの質問があった。①「お母さんは、どう、なった?」。②「トンネルの中で、被爆の瞬間は?」。③「原爆症は、だいじょうぶ?」。④「トマ小崎の名前は、誰が付けたの?」。お母さんは、原爆の朝、別れたきり、行方不明となった。遺体も拾っていない。トンネルの中では、閃光は見ていない。強い爆風を感じた。原爆症に、なったよ。皮膚に吹き出物が出来る、からだの疲労感と、長い間、下痢で苦しんだ。トマ小崎は日本26聖人の中の1人の少年で、名前を付けたのは、院長さんでした。戦争や、原爆は、2度とあっては、ならないね。平和の世の中であるよう、努力しよう。

2014年2月19日水曜日

むずかしいけど、やってみな。きっと、こころの幸福は、ある。

平戸の田舎に咲いていた「もも」の花です。きれいですね。この花を見ながら、思いました。「ヒトが、善く生きる」こと、どういうことか、と。昭和ひとケタのニンゲンですからね。「善く生きる」とは、「ヒト前に、出たときに、恥じないように、生きる」。やっぱり、古い人間は、外見を気にするんですね。そのために、知識を学んできたし、家庭で、礼儀・作法を身につける。困難に会えば、くじけないように、耐えていく。幸せを発見したいのが、望みです。★平戸・紐差の知人から、手紙が届いた。「平戸へ来て、泊まるのを、楽しみにしていた」というのです。そのため、部屋も片づけ、食器もキレイに洗って待っていた。心が細やかですね。さっそく、ごめんなさいと、返事を出した。期待していたのを、裏切って、悪かった。田舎の人の神経は、優しく細やかです。もう1度、平戸へ行こうとさえ、思いました。★自分を低い存在として捕らえることが出来れば、幸せですね。低いところから、上を見る。すると、空も、地も、草花も、花咲く木々も、恵みに輝いて見える。ありがたい心境であり、これこそが幸福でしょう。そう思います。★ウドン屋のパウロさんについて、励ましのコメントを頂いて、本当にありがとう。祈りで応援し、彼の進学に期待しましょう。

2014年2月18日火曜日

ウドン屋のパウロ青年、晴れて神学生・合格。ガンバレよ。

春は、近い。いま、「大学に、合格した」の喜びの声が聞かれる時期になったところで、朗報です。喜んでください。ウドン屋のパウロ青年が、上智大学・神学部に合格した。昨日、発表があった。「よかったね。パウロ君、がんばれよ。リッパな神父さんに、なれよ」。今朝、電話で、励ましのエールを送りました。★歴史を語れば、こうです。2011年12月31日、大晦日の閉館まえに、聖コルベ館に、5人の若者がやってきた。神戸と岡山の青年会の者です。その中に、岡山のウドン屋に勤めるパウロ君がいた。「小崎サンの説明を聞いて、聖母の騎士の修道者になりたい」と言う。「ほんとう」。それが最初だった。★次に、2012年5月5日の連休に、「小崎サン、ひさしぶり」と、パウロ君が、ほかに2人の仲間とやってきた。「『十七歳の夏』を本屋で買って、読みました」と、本を見せる。サインをしてあげた。高校生のとき、なんとなく教会へ行きたくなり、入った教会が、岡山カトリック教会だった。2008年のクリスマス・イブに洗礼を受ける。パウロ。2009年3月、高校を卒業する。進路相談のとき、担任の笠見先生(理科)が、「進路、どうする?」(ジョウダンに)「神父に、なれ」と言われて、「その気になった」。上智の神学部を受験したが、不合格。神父に、なる、のユメは捨てない。高校の奨学金、108万円を借りていたので、先ずは返済を、と古本屋に就職した。「給料は、家に入金するので、精いっぱい。これでは、ダメ」と、ウドン屋へ転職する。1年間で、奨学金・全部を返還した。「エライ」。それを聞いたとき、小崎修道士は、これは脈があるな、と診断した。★2011年、岡山の教会へ通ううち、豊田神父さまから、「修道服を着ながら、ソフト・ボールをやっている修道会を知っているか?」と聞かれる。「わからない」「聖母の騎士だ」。それで、その年の大晦日に聖コルベ館にやってきて、小崎修道士に出逢ったわけです。「よかったな」。2012年5月の連休に来て、次に、2013年4月29日に、神戸のコルベ下山隆章(たかゆき)さんと2人でやってきた。それが、この写真です。「いまから、東京・関町の修学院へ入ります」「待て、待て。まだ手続きが、ある。早まるな」。せっかく帽子に、スーツに、身を固めて来たのに、1泊して、また岡山に帰って、待機していた。★2013年10月7日。許可が出て、コンベンツアル会・関町修学院へ入会した。それから大学受験の特訓が始まった。英語をがんばる。2014年2月17日、ドキドキ。ネットで合格を知る。「ゴウカクだ。よかったな。これが神さまの導きです。カンシャ。信頼して、よかった」。喜んでいるパウロ今井裕次郎です。(石原裕次郎と同じ、ユウジロウです)。今朝、電話をかける。「日記に載せるからな。祈ってもらおうよ」「ハイ」。★この日記を読んでくださる皆さん、ウドン屋のパウロじゃない、裕次郎のパウロを応援してください。いまから1青年の神への挑戦が始まります。

2014年2月17日月曜日

今度の平戸行きで、訪ねた教会。ザビエル。紐差。佐世保。

上の写真は、平戸のザビエル教会。左は、その堂内。聖ザビエルの像があった。この教会も、外観は、左と、右では違う。右には、塔がない。下の写真は、左が、紐差教会。右が、佐世保の三浦町教会。佐世保の駅前にある。日曜日は、ここの教会で、ミサの祈りを捧げました。戦争中は、海軍さんから迫害されて、窓にイシを投げ込まれた苦難の歴史をかかえた教会です。高台にあるから、よく目につくんですね。★日本にキリスト教を最初に伝えた聖ザビエルは、鹿児島に上陸して、船で、平戸へ来るんですね。平戸の港が、ある。普通、その港へ着いたと思っていたら、紐差のアイさんが、この度、つぶやいた。「聖ザビエルさまは、ウチの、横の道を通って、平戸の方へ行かれたんですよ。昔から、そう聞かされてきた」。そう言えば、島の南の方の港へ着いて、陸路、ここを通ったかも知れない。可能性は、ある。平戸から、都(みやこ)へ上った。

2014年2月16日日曜日

親戚の夫妻を訪ねて、喜び合う。教会の守りが楽しみです。

母方の親戚は少ないのです。浦上出身だから、原爆でも、亡くなっているしね。少ない親戚だから、大事にしています。真ん中の早苗さんは、母の、お姉さんの、長男の、子供に当たる。「イトコの子ども」と言うのかね。佐世保の田舎に住んでいる。平戸から、ここを訪ねましたよ。「元気、しとった?」。声をかけてね、それだけでも、心は温まる。ダンナの久一さん、もう定年だから、今は教会の面倒を、ブツブツ言いながらも、見ている。★町を見下ろす高台に、この教会があるんです。早苗さんのお父さんが、お世話をして、最初の教会を建てた。今の教会は、3代目だそうです。久一さんが教会を案内してくれた。真ん中の、天にそびえて伸びる「ツノ」。左と、右では、高さが違うと、久一さんは言った。「これね、教会で祈る人は、みな同じです。外へ出て行くと、それぞれ違う、その中で生きていく、それを表わしているんです。右側の、上の壁に付いている、5つの、まるいモノ。あれは、5つのパンだそうです。★平戸の帰りに、早苗さん、久一さん夫妻を訪ねて、よかったと思います。やっぱり出て回れば、いいことも、ありますよ。聖コルベ館で、待つだけでは、十分に、花は咲かない。経験するば、やはり、いろんなこと、考えますね。学びますね。

2014年2月15日土曜日

思い切って、平戸へ。いい旅になったよ。皆さん、喜ぶ。

飛び出せ、飛び出せ。日中、暖かくなるのを予測して、朝食のとき、出かけるのを、決めた。運転者と、2人で、2時間。早い。平戸の大橋に着いた。長崎から、平戸間のイメージは、遠い、遠ォーい、の感じだったが、案外、近いね、が感想だった。平戸島に入ってから、紐差(ひも・さし)の集落までが遠かった。農村が広がり、訪ねる目的の「川村アイ」さん宅が分からない。「どう、しよう」。教会の下に、駐在さんが居た。「教えてください。番地は分かります」。大きな地図帳を広げて、「ああ、分かりました」。地図を書いてくれた。田んぼが広がる道上に、3軒の家がある。「どれか?地図には、ない」。幸い、道行く女性に出会った。「真ん中の、おうちです」。庭に着くと、記憶がよみがえった。「ああ、ここだ、アイさん、来たよ」★1970年代、全国からの巡礼者を引率・ガイドを勤めて、この平戸を何十回となく、くまなく回った。お世話になった。度々訪ねるうちに、「小崎サン、来るばかりでなく、今度は、うちらを、長崎巡礼に連れて行ったください」。その願いから、紐差の教会婦人会の皆さんを、32人ほど長崎・外海へ案内した。記録から、1977年11月、名前も分かる。その中の1人が、アイさんだった。★以来、37年だよ。アイさんとは今なお、交流がつづいている。アイさん、90歳。そのお礼に伺ったわけです。息子さんのお嫁さん、孫さんたち、お会いして、喜びだった。「ああ、出て来て、よかったよ」。いつまでも、おゲンキでね。お米と、野菜をくださった。★この婦人会を長崎へ連れて行った想い出は、いつまでも忘れない。想い出と、アイさんのつながりと、合わせて何か記事を書けないか、そんな目論見(もくろみ)があったのです。写真、右端の中学生は、剣道を納めていると言った。「教会にも通うし、剣道もがんばる」

2014年2月14日金曜日

ルルドへの坂道に、梅が満開。寒さ、きびしい。春は未だ遠い。

2月のなかば、このところ、寒さが厳しい。今朝は屋外で、4度あった。関東の方は雪が降っているらしい。ルルドへ登る坂道、ロザリオの玄義のところに、数本の梅が満開になっている。祈る巡礼者の心をなごませる。★明日から、土曜、日曜にかけて、平戸・紐差(ひも・さし)への1泊旅行を計画し、現地の人にも連絡していたが、この寒さで、先送りにした。電話で断ったが、電話の奥の声は、残念そうであった。「すみません、ごめんなさい」。1度、行きます、と言って、実現しないと、相手に「がっかり」させますね。★例えば、「正月のコルベ青年」、洗礼は受けているが、教会へ行った事がない。今年はフンパツして、新しい気持ちで出発したい、と聖コルベ館を訪ねてきた。「教会へ、思い切って、行きなさい」と勧めて、一応、教会の知り合いの女性に連絡し、お世話をお願いした。順調に行くようになったそうです。彼から手紙がきた。「2月11日、ルルドの日に、参詣に来ます」。待っていたが、前日になって、電話があって、「仕事の都合で、行けなくなった」。やはり、1度受けて、連絡があって中止に、落胆しました。平戸の人にも、連絡だけして、申し訳ないです。もう少し温かくなって、参ります。

2014年2月13日木曜日

外海へ、日帰りで、知人に会い、旧交を温める。元気でしたか。

久しぶりに、外海(そとめ)へ行った。戻ってきて、夕食のとき、「ドロ・ソーメン、食べてきたよ」と言うと、1人から、「ドロさま、と言いなさい」と言われて、ああ、ホントだと、反省した。こんな話しがある。泥塀(どろ・べい)を造るとき、左官が、「ドロば、上げろ」「ドロば、あげろ」と叫んでいた。そこへドロ神父が通りかかって、「ドロ、ドロと、言わないで、時には、土(つち)と言ってください」という逸話が残っている。「ドロ・ソーメン」言っては、ダメよ。写真が、現地で食べた「ドロさま、ソーメンです」。これが抜群においしい。外海へ行けば、必ず食べたくなります。さら、さらと入って、ノド越しが良い。だし汁は、アラカブのサカナを焼いて、つくる。この出し汁は、どうかな?でも、おいしかった。450円だった。★さて、外海へ行けば、何人かの、会いたい人を訪ねる。外海・黒崎は、父親の里ですからね。「やあ、ひさしぶり、どうしていた?元気にしていた?」と心配してくれる人が外海には、いる。会って、旧交を温め、よかったな、という気持ちになる。山崎政行さん、スマ子さん夫妻が、そうです。政行さんは、福者の殉教者、金鍔次兵衛(きんつば・じへいえ)神父の隠れ家、洞窟巡礼を手がけて、最大の尽力を果たしてきた。現地の様相を残し、不便な道や沢を歩いて、1時間、やっと洞窟につく。ご像を建て、保存に努力した。昭和4年11月生まれ、最近は体力が限界にきて、巡礼が出来なくなった。資料整理にがんばっておられる。★政行さんが、こんな嘆きを訴えていた。「マントと、太陽」の話の如く、迫害時代は、必死で信仰を守るように努めた。ところが今の世は太平になって、イノチを奪われる危険もない。するとマントを脱いで、信仰を守らなくなる。その変化が恐ろしい。マントを脱がせるためには、温かく太陽を照らせば、いい。その変化が危険である、と言うのです。同感です。★この日の外海は、天候がよく、海は青く、空気は澄んでいた。上五島列島も微かに見えていた。遠藤周作文学館からの眺めが素晴らしかった。外海には、天気がいい時に、行くのを勧めます。雨降りは、悲しいよ。見える景色は、外海・出津(し・つ)の施設や、教会、家々です。サザンカも咲いていた。★「自分は必要とされているか」と悩む人が居ると、聞く。必要とされるためには、自分で築き、努力するしかない。この世に生まれ、生きるからには、リッパに生きようではないか。誰にでも、1つや、2つ、いい所はある。

2014年2月12日水曜日

ルルドご出現の記念日。祈りの巡礼。東京からも、来る。

2月11日は、フランスのルルドに於ける聖母マリアさまご出現の記念日です。コルベ神父さまが開いたルルドがある聖母の騎士では、どのように過ごしましたか。午前10時から、聖堂で、記念日のミサが行なわれ、その後で、ロザリオを唱えつつ、ルルドへ登りました。平和を祈りました。★この祈りの中には、1人の男性が混じっていた。彼は群馬県のお役所勤めの人、朝、3時に空港バスに乗って、約3時間、羽田へ。早朝の飛行機に乗って、長崎へ。空港からバスで市内へ。駅からタクシーで、聖母の騎士へ。やっとロザリオに間に合った。お祈りしながら、念願のルルドへ。「よかったですね」。前々から、聖母の騎士にお参りしたい、希望があった。その望みを果たしたわけです。騎士誌の読者でもある。「これからも騎士誌を愛読してください」。この話を知って、「人生に、1度や2度、アッとオドロク行動、有っても、よし」と思いました。彼は翌朝、聖母の騎士の早朝ミサ、6時30分からのミサで祈りました。群馬から、聖母の騎士に巡礼は可能だという意味で、この話を載せた。★またルルドの記念日のミサとルルド参りに、東京の巡礼者の皆さんも参加しました。下の写真が、その方々です。この中には、大正生まれの女性も2人居られました。お元気に巡礼されています。これらの方々が参加してくださったお陰で、お恵みの記念日になりました。★聖母の騎士のルルドは、コルベ神父さまの天国からの助けもあって、数々のお恵みが、現れております。祈る人が絶えません。「お恵みを頂いたときには、感謝を忘れないようにしましょう」。恵みは、また次の恵みを生みます。神さまのお恵みは豊かに注がれる。希望をもって祈りましょう。


2014年2月11日火曜日

60数年をつなぐ愛とイノチの物語(その3)。絵を贈る。

戦争が終わった直後は、誰もが貧しかった。施設で暮らすか、家庭で暮らすか、みな同じ貧しさの中で生きていた。施設だった、あの木造の建物は、2年後に火災にあって消失した。施設は、山の、人里離れた山地に移転した。「ツバキ原」と言われる地で、ツバキが花咲く地だった。「かー坊」さんたちは、ツバキ原で暮らし、学び、育って、成長した。イジメや苦労は沢山あったけど、正直に生きて、愛とイノチのつながりの幸せを得た。いまは個人情報の時代で、知られたくないかも知れない。「かー坊」さんは語ってくれた。「ありがとう。よかったね」と、祝福する気持ちで、イッパイだった。聖コルベ館の修道士は、出逢った記念に、夫妻に、1枚の絵を描いて贈った。絵には、コメントを書き添えた。「ツバキ原で、育った、じいちゃんが、生き抜いた、おかげて、愛と、イノチが、つながった。幸せは、家族愛のキズナにある」。これが今の本心です。ヘタな絵、ヘタな字だけれども、86歳、修道士の心はこもっている。最近、「かー坊」さんの、この実話ほど、感動した逸話はないのです。「苦しみや、寂しさの話は、もう、いいんだよ。愛の話、イノチのつながり、それより尊いものはない。じいちゃんが、生き抜いたからこそ、いまの自分がある。カンシャすれこそ、ハジと思うな」というのが、修道士自身の気持ちです。それは自分自身にも言い聞かせたい、気持ちなんです。「カー坊」さん、奥さん、いつまでもおゲンキで、すばらしい人生を送ってください。神さまは、見ておられる。

2014年2月10日月曜日

60数年をつなぐ愛とイノチの物語(その2)。再会の喜び。

「かー坊」さん夫妻が、訪ねてきた。彼は、71歳。奥さんは、61歳。あの幼い時代から、60数年が経過している。これまで沢山の苦労があったでしょう。「苦労は語らなくて、いいのです。愛を聞かせて下さい」。中学を出て、町のお店に就職した。奥さんとは、見合いだった。お話しがあったとき、奥さんのお兄さんが、彼が、まじめに、正直に、お店の配達をするのを知っていた。「あの人ならば、大丈夫よ」。彼、34歳。奥さんは、24歳。カトリック教会で、結婚式をあげる。奥さんは洗礼をうけた。「かー坊」さんの新しい出発だ。3年後に、女の子に恵まれる。「ああ、よかったね」。女の子は成人して、看護師になり、病院で働いていた。良縁あって、娘さんも結婚し、男の子、女の子、2人の可愛いお孫さんにも恵まれた。「ああ、よかったね。すばらしい」。彼が、奥さんを気遣いながら、こう言うのです。しみじみ修道士はそれを聞いた。「ツライことは、沢山あった。あったけれども、それでも、ワタシのチカラでなしに、神さまの御手に守られていたと感じます。この人を含めて、この人を通しても、いまは感謝している。カトリックの信仰を親が残してくれた。苦労は、したけど、がんばる程でもない。一歩、一歩、何事もなく、毎日を歩いてきました」。修道士は、彼の言葉に感動した。苦労は、イッパイしたけど、苦労の話は、もう、いいんです。それより、優しい奥さんに、めぐり合えて、娘さんに恵まれ、更に、お孫さんにも恵まれた。この愛とイノチのつながり、よかったですね、すばらしいジンセイだった。いま思います。3歳のとき、熱心に祈ったのが原点だった。施設での教えは、厳しかった。その教えがあったればこそ、生き抜いた、耐え抜いた、そして愛をつかみ取ることが出来たのです。そう思い、確信した。町のお店から、後では会社に転職した。会社を定年退職して、11年になる。夫妻は、手をつないで、毎日、散歩に出るのが楽しみだそうだ。「けんか、したこと、ある?」。お互いに、顔を合わせながら、「ないね」。そして笑った。結婚前の奥さんのお仕事は、美容師だった。結婚以来、彼のアタマのサンパツは、奥さんの仕事。「アタマは、大きいですか?」「大きいんですよ。帽子も大きい。髪は真っ黒で、沢山あった。白くなったし、髪も薄くなった。大きなアタマだけが、残った」「載せるからね」。了解だけは、取っておいた。「ジンセイに、大切なもの、コツコツと耐えること、正直に生きること、辛抱すること、その教訓があったればこそ、愛の花がリッパに咲いた。修道士も、ルンルン気持ちになる、うらやむ夫妻であった。

2014年2月9日日曜日

60数年をつなぐ愛とイノチの物語(その1)。古びた写真。

1枚の古びた写真を持っている。戦争が終わって、すぐの頃、1946年、後ろの建物は、戦争中は、造船工員たちの寮だった。それを養護施設がもらい受けた。男の子ばかり、100人ほどが集まり、貧しさといったら、最低の生活だった。木造建物の窓には、ワクも入っていない。祈る幼い子どもたち。何を祈るのか、何を願うのか。戦争・原爆で、家を失い、家族を失い、独りぼっちに、残された。それでも、生きていかなばならぬ。食べ物を、与え給え。着物を、与え給え。彼らの足を見てごらん。ハダシだよ。当時、この場所を、何度も訪ねて、よく知っている。子供たちも、職員の苦労も、よく知っている。この写真も、昔から手元にあって、大切に保存してきた。まんなかで、祈る男の子(右から、4人目)、名前は知らない。「かー坊」と親しく呼んでいた。アタマの大きな子だった。熱心に祈る、あの子、この子。60数年前の写真だよ。これを見ると、胸が痛む。これからの人生に、この子たちに、どのような苦難、困難が待ち受けていることか。イジメもあろう。寂しさもあろう。考えただけでも、切ない。だた、今は祈っている。「そうだ、祈りなさい。祈りしか、今は出来ない。それで、いいよ。必ず道は開けるでしょう」。ユメと希望だけは、持ちたい。なぜ、いま、この写真を載せたのか。「かー坊」、「かー坊」と親しんでいた、あの子が、60数年経って、再会できたからであった。出逢ったんです。昨年の暮れだった。2013年12月21日、「かー坊」さんが、優しい奥さんと共に、聖コルベ館へやってきた。感動的だった。「おお、あの、かー坊さんか、60数年ぶりに出逢った、ひさしぶり、よかった、よかった」と、お互いが、たいそう喜びあった。(あすに、つづく)

2014年2月8日土曜日

やっぱり考える。「主よ、居られましたか」。救いはあるか。

愛されて、親しまれる人生が、最高さ。そう、思いませんか」。こんなゼイタクは、ないでしょう。今朝、考えました。手術台にねて、両手を大きく広げて、まるで十字架に架かったように、苦しんできた。あのとき、「主よ、あなたは、ここに居られますか?と、考えましたか」。主は、苦しみのベッドの傍に居られるか。★病人がベッドに釘づけに、なっているのに、誰も来ない。見舞いに、来ない。慰めに、来ない。困っていたところ、ある宗教団体の女性たちがきて、助けてくれた、慰めてくれた、だから自然に、その宗教の教えを受け入れた、そんな話題を聞いたことがある。当然でしょう。病人は助け、慰め、励まし、独りで無いこと、求めている。★だが、ここで、きょうのトマさんは考えた。主よ、居られますか。目に見えない。いくら物理的に考えても、主の姿は見えないでしょう。「見えなくても、主が居られる、感じる、それが信仰なんです」。信仰とは、目に見えないものを「信じる」ことです。見えなくても、感じれば、いい。「もう、孤独を、嘆くまい。独りを、寂しがるまい。幸せは、ニンゲンからは、やって来ない。もの、からは、やって来ない。目に見えないものから、感じに満たされる。けさのトマさんは、何か、そう思いました。★ベッドの苦悩を広げれば、ニンゲンは、もっと、もっと、時には最低の苦悩に落とされる。「原爆の丘に、主は居られましたか」「アウシュヴィッツの餓死室に、主は居られましたか」。身震いする程の恐ろしさが、ある。

2014年2月7日金曜日

入院、2日目。お医者さんが「トマさん」呼んで、びっくり。

きょうのトマさん。具合は、いいか?朝は、まだ、病院・ベッドの上。熱は出ないか。きょう、帰れますか?お祈りください。★朝が、きた。看護師さんが、検温にくる。暗い部屋に電灯をつける。となりの若者に聞いた。「昨日は、お通じ、何回?眠れました?」「いいえ、眠れません」。今度、当方へきて、「お通じ?眠れました?」「ハイ、すっかり、眠れました」★この朝、「チリン、チリン」で目をさます。神父さん、早いよ。6時30分だった。カンテラをさげていたのは、このシスターだった。エライんだよ、このシスター。看護部の部長さん。朝食の後で、また、やってきた。「ご苦労さまね」「いや、いや、元気だよ」「ブラザーの苦しみが、お恵みだよ」。苦しみが、他者にお恵みをもたらす、の意味です。長崎の信心です。意味、わかりますよ。「あのネ、シスター。先生(お医者さん)が、トマさんと呼びかけて、びっくりしたよ。トマさんって、知っているんだね」「そりゃ有名だもの」「ゆうめい、って」「騎士誌にも書いてあるでしょう。病院にも置いてあるし」「読んでいるのかなあ」「そりゃ、読むんでないの」。お医者さんから退院の許可が出た。午前中に、帰ります。院長さんが迎えにきた。★昼食。食卓で、皆さんに「無事に帰って来ました」。食卓には、イッパイに花を咲かせた梅の小枝が、さされていた。「ルルドの梅だよ」★午後から、介護のヘルパーさんがきて、介添え入浴した。「お尻のところ、こげ茶色の消毒液で、キツイ色に染まった。しっかり、洗うぞ。ハハハ」。この夜は、早く、ゆっくり休んだ。テレビは、ソチ・オリンピックの開会式だったらしい。

2014年2月6日木曜日

入院、1日目。苦悩の8分間。ステントの入れ替え。

きょうのトマさん。苦しみの日です。腹部に、ステントが入っている。これが無ければ、生きていけない。時々、入れ替えの時がある。きょうが、その日です。午前中に、入院します。午後から、手術室へ。ツライ時間が始まります。「イタイ、痛い」「がまんせろ」。手術台で、何を思うか。何を、祈るか。長く生きると、楽しみもあるが、苦しみも、沢山ある。それらを乗り越えてのジンセイです。★院長さんの車で、病院へ。昼飯ぬきで、点滴が始まる。午後1時30分、歩いて手術室へ入る。考えたこと。「4ヶ月に1度、手術台へ。いつまで体力が持つか?」。とにかく耐えるしかないと、かみ締める。恥ずかしい、は既に通り越して、痛み少なく、その思いのみ。1時45分、「マスイのゼリーを入れませね」の声。47分、「カメラを入れます」「痛て、て」。スーッと抜ける感触。次に、ジヮ、ジヮ、入れる感触。「終わりましたよ」。1時53分。「早ャー」。ラクだったな。クルマ椅子で、病室に帰る。1つの受難は、過ぎ去った。点滴が夕方までつづいた。夕食には、小さなタイの焼き魚が、1ピキ。★その夜は、ゆっくり寝たいんだよ。ところが、これが2人部屋。早めに眠りについたが、となりの若者が夜型で、電気を中々消さない。しびれを利かせて、アイ・マスクと耳栓で、やっと眠った。「イビキ、かいても、知らんぞ」

2014年2月5日水曜日

カニでお祝い。ルーマニアに送金。携帯・フン失。困った。

きょうのトマさんです。①「どうした?カニ、もって。のぼスンな(いい気になるな)」「ゴメン」。仲間、10人が、カニ料理で、祝ってくれました。「なに、食べたい」というから、「カニを食べたいなァ」。理由があるんです。「子どもの頃、よく、かに、食べました」。両親が北朝鮮へ出稼ぎに行って、現地で生まれたから、子どもの時は、大きなカニを好く食べたモンです。この歳になって、子どもの頃を思い、母親を思い、ゼイタクを言えば、「カニ、食べたい」。でも、長崎には、お店が、ないのです。(北海道、長崎をつなぐ飛行機の直行便が、ない)。それで、お店を院長さんが見つけてくれた。みんなで祝ってくれて、ご馳走になりました。その時の院長さんのカンパイの挨拶です。「好奇心、旺盛な、トマさん、元気で、長生きしてください」「ハイ、ありがとう」。カニを沢山、いただきました。お酒は、飲みません。★きょうのトマさんです。②郵便局へ行って、ルーマニアに送金しました。手描きの色紙・販売のお金が、一応、揃いました。いま円高を利用して、ルーマニアの6つの家族に、2回目、今度は、1.300ユーロ(日本のお金で、168.300円)を送りました。けっこう、色紙も売れるモンですね。ありがたいです。現地の家族に、よろこんで、もらえるでしょう。ルーマニアの家族からは、クリスマス・カードが届いていました。★きょうのトマさん。③スマホの携帯をフン失する。パソコンの横に、デジカメと携帯を置いていた。くまなく探したが、とうとう見つからない。急いで、スマホの携帯を破棄しました。数日して、ドコモ店へ相談に行く。「新しいのを、買いなさい」と、しきりに勧められる。2時間、ねばって、以前、使っていた機種、アイモードを取り出して、これに切り替え使います、と決めた。ほとんど電話と、メールだけの使用ですから、この方が安くて、便利です。これからは気をつけよう。事務所の扉には、必ずカギをかけよう。反省しました。

2014年2月4日火曜日

トマさん、おめでとう。修道士の名前のお祝いです。うれしい。

修道士名のお祝い日。日本26聖人殉教者の祝日です。15歳で殉教した聖トマ小崎の名前を頂いた。「トマさん、おめでとう」と、大きなお花を持って来てくださったのは、長崎市・浦上の大津さん(社長)です。毎年、毎年、持って来てくださる。もう、何年になるだろうか。ありがたいです。お花は、聖コルベ館の玄関、無原罪の聖母マリアのご像の前に置いて、いつも飾っておきます。1ヶ月、2ヶ月と、持ちこたえるのです。★15歳の少年のように、きれいな心、聖人の心になってください。それが願いでしょう。聖人の心は、ほど遠い。自分は罪人です、と認めることから、キリスト教が始まる気がします。でも、希望を持ちましょう。お恵みの方が大きいです。★「きょうのトマさん」①ガイドの山口さん(女性)が、2人の見学者を案内してきた。2人は京都と、神戸の女性。何年も掛けて、京都から長崎まで、殉教者の道を歩いた、という。2月2日、日曜日には、午後2時から、殉教地の西坂で、お祝いのミサが行なわれた。2.200人が参加した。②鎌倉の渡辺さん(男性)が1年ぶりに訪ねて来た。親しく語り合う。色紙を3枚、購入した。亡くなった奥さんの額に飾り置くという。ルーマニアの家族に、ユーロを送ります。


2014年2月3日月曜日

恩師・永井博士・再び映画になるか。教え子は、うれしいよ。

永井隆博士が亡くなって64年。永井先生の「己の如く、人を愛せよ」の精神は消え去ることがない。誰の心にも通じる心情だ。それは海越え、山越え、外国の若者にも通じていく。うれしいじゃ、ないですか。永井先生から、小神学校で、中学生のとき、理科を教わった。「君は、絵が好きなの。これを見てください」。特別に、絵を見せられた。それは永井先生が描いた、被爆直後の、崩壊した浦上天主堂の墨絵スケッチだった。「先生、これ、模写して、いいですか」。同じように描きましたよ。悲しい浦上天主堂の面影です。永井先生は、絵がじょうずだった。原爆のあと、ちょうど永井先生の自宅あたりの廃墟に腰掛けて、毎夜、毎夜ですよ、暗闇のなかで、燃える浦上天主堂を眺めて、泣きましたよ。その悲しい想い出がある。忘れません。永井先生の明るいカオ、表情も、忘れません。★映画になる、って、うれしいです。ぜひ見たいですね。2月に完成とありますから、今年には見れるでしょう。楽しみにしています。2度と原爆、無いように。2度と戦争が、ないように、願うばかりです。★あなたは、永井先生をご存知ですか。長崎のお医者さん、原爆の被爆者です。真理と、信仰、平和の使徒です。本を読んで、勉強してください。


2014年2月2日日曜日

高い者は高く、低い者は低く生きる。抵抗なくて、いい。

おはよう。日曜日ですが、通常どおり、5時に起きました。テレビのスイッチを入れると、お坊さんの説話が行なわれていた。聞きながら、朝の身支度をすませる。お坊さんは、一糸乱れず、お話をなさる。リッパな態度です。お話しは、むずかしい内容で、理解に苦しみます。修業の、至らなさを感じました。素朴な修道士にも、良いものが有るでしょうか。写真が、迷いの多い修道士の表情です。★「導かれて、17歳のとき、この道に入りました。これまで、ままならぬことが度々起こったが、その都度、助ける人がいたのです。ここを創立した人は、かの有名なコルベ神父です。コルベ神父自身、この場所で6年間宣教した後、故国へ帰り、アウシュヴィッツで、身代わりの愛の殉教をとげた。思えば、すばらしい聖人につながっている。うれしいですよ。ほこりですよ。ここで生活し、最後を遂げたいと、願っています」★若い頃に、もっと勉強しておればよかった、と悔やまれる。病気や、苦難がイッパイあった。のり越えるのが、精一杯だった。自分に与えられたお恵みを受け止めて、自分らしく、生きよう。高い者は、高く生き、低い者は、低く生きる。それが抵抗がなくて、いいと思います。無学な者にも、生きる喜びは、ある。

2014年2月1日土曜日

島原の教会。殉教者に祈る。真理の道を教えてください。

島原の殉教者の聖堂です。島原の町に入ると、まず目につくのが、島原のお城です。お城の近く、白土湖(しら・ち・こ)という池がある。きれいな水が湧き出ているんですね。雲仙・普賢岳の湧き水です。大量の水・泉が吹き出しているから、それは見事です。その池の前にあるのが、島原のカトリック教会です。島原の殉教者に捧げられていて、教会はユニークな姿をしている。誰でも、自由に入れます。祈りが出来ます。殉教者に祈りましょう。多くの殉教者が、この地から出ています。★最初の頃は、平穏でした。ポルトガル人の商人や、宣教師が来て、賑わっていました。南蛮船が入る港もあった。帆かけ船だから、季節風が吹く頃に来航し、また季節風が吹き始めると、帰国するんですね。だから長期滞在となり、港は繁盛しました。でも、迫害になって、季節風が吹いても、船は来なくなった。殉教者も出る。悲しい時代ですよ。★教会の庭に、ご像が立っている。中浦ジュリアン神父像です。日本人のカッコウをしていますよ。ローマにも行った。日本人青年として、天文や、地理や、航海術や、ラテン語や、西洋音楽や、さまざまな先端・学問を習得した。エライ青年ですよ。ご像とアクシュしました。「パワーをください。信仰をください」と願いました。★宗教とは、何ですか。人は、なぜ存在し、生きているのか、問いつづけることにある。どのように、生きれば、いいのか。苦難も起こり、病気にもなり、裏切られる苦悶もある。いや、心の奥には、欲望もある。自覚している。いかにして救われるのか。安心がほしい。負けない力がほしい。そのような願いがあります。課題は昔も今も、変わらないでしょう。自分の人生を真剣に考えたい、そう思います。