2013年6月30日日曜日

2013年の半分は、これで終わった。時代の流れは早い

院内に、「無縁者の慰霊の碑」がある。毎日、ここを通って、聖コルベ館に出入りする。修道院を建てるときに、沢山の人骨が掘り出された。供養をして、この碑を建てた。毎週、水曜日に、すべての祈りが終わった後、ここに集まり、安息を祈っている。もう30年来、つづいている。その傍らに、アジサイが咲いた。ルルドにも咲いている。雨の多い季節となった。6月も終わりである。振り返ると、早いもので、平成25年は、もう半分は終わる。この半年の間に何があったか。何といっても、特記すべきは、韓国への旅でしょう。思い出を沢山、つくりました。出会いは、お恵みですね。幸い、この半年間は、大きな体調の崩れもなく、無事に過ごしました。皆さんに見守られて、おかげさまで、頑張るゲンキが出ます。「あと、後半も、気合を、抜かないーぞ」


2013年6月29日土曜日

ネコのライモンド、健在なり。時々、キズを負うが、ゲンキ

ライモンド、来たか。朝、お勤めが終わって、朝食になると、どこからか、「ニヤー、ニャオ」と、声をあげて、食堂の外の扉へあらわれる。中には、入れない。「おお、ライモンド、いいカオ、しているじゃないか。よかったなあ」。1週間ほど前は、ほかのネコから、カオの目の上あたりを、ひっ切られて、黒く、キズになっていた。ケンカするなよ。ライモンドは弱いから、負けて、食べ物を横取りにされるもんな。「それで、いいんだ」。ニャンの声は「ただ、今」の挨拶だよね。帰る場所があるのが、いちばんの幸せなんだ。皆さん、気にかけて、くれているよ。ライモンドと呼んで、かわいがっているからね。幸せモンだよ。ライモンドが、スリムになったのは、メスの友だちが、出来たため。グレーの毛の、小さめのメス。ライモンドが、ねだるのは、サカナだけ。ゼイタクだよ。市販のネコのエサなんか、食べないんだから。ライモンドは部屋の中には、入れてもらえない。広い、院内を、ゆうゆう、周っております。

2013年6月28日金曜日

50年ぶりのAクン、メールをくれた。ヒトは独りじゃ、ないよ

今朝の祈り。「今日の、1日の出来事ななかに、神の導きを知り、カンシャすることが、できますように」。単純な祈りを捧げた。すると、1通のメールが入った。Aさんからです。「フェース・ブックで見ました。むかし、トマさんに、お世話になった」。住所と電話が記してあった。ああ、このAさん、覚えている。電話をかける。あの頃の思い出が、よみがえってきた。50年前になるよ。チャンバラ、やったね。算数や理科も教えた。Aさんは覚えていた。「理科の教材を見つけて、山をよく周りました」。なつかしいね。「ゲンキ、している?」。山の学校を卒業しても、単身、苦労をされたらしい。いまは、介護ヘルパーさんの世話になっているとか。もう、そんな歳か。覚えていて、連絡してくれる心が、うれしい。むかしのことは過去のこと、というが、イヤ、やっぱり、つながりがある。「Aさん、孤独じゃ、ないよ。ジンセイ、いつまでも、つながりがある。今度、東京へ行くので、会いたいね。うれしいだろうね。お互いに、笑った」。当時のアルバムを開くと、Aさんの集合写真を見つけた。「ああ、このカオ、忘れないよ」。山にいるとき、洗礼を受けた。ヨゼフ、という。ジンセイ、苦しみにも、苦労にも、すべて意味は、ある。それは神さまの導きだと知るから、意味があるのです。当時の、トマ手づくり新聞を開いて、Aクンの名前がないかな、と調べてみたら、あった。昭和38年、春。中3に、いろいろな係りが発足した。学習や衛生、事件係など。ほかの係に、クツしらべ係がある。それが「Aクン」の役だった。クツを失う下級生が多かったからね。覚えているかい

2013年6月27日木曜日

朝、黙想のときに、メモした。老いても、迷いは、ある

修道士は、どのような生き方をしなければ、ならないか、時折、考えてみる。まず大事なのは、ブレないこと。私は、この道に召された、この道を、行く。この道に、幸せがある、と信じること。この道にあって、自分の勤め、能力を伸ばすには、どうすれば、よいか。与えられた勤めがある。修道士は、神学や、聖書の勉強はしていない、専門家でないから、人に教える権威はない。しかし人間の生き方として、何が大事か、人の幸せは、どこにあるのか。考える課題は、近くにある。人の生き方や、哲学を考えるのは、楽しい。歳も85歳になると、1日、1日を大切に過ごしたい。有意義な1日にしたいと、こだわりが、ある。若い頃は、ムダに1日を過ごしても、何も感じなかった。今は過ぎ行く1日が惜しい。★今朝は、近所の中学生が、30人ほど、平和学習に来るという。彼ら、中学生に、何を語るべきか。人の生き方に、最も大切なのは、〇〇だよ、と何を基本に教えるべきか。老人になっても、まだ確信が持てない。★最近は、周りの人で、親しい人たちが、次々に亡くなっていった。やがて自分にも、その日は来るだろう。幕ひく時は、素直に、受け入れたい。人生の間に、多くの教えを受け、また勉強もした。沢山のことが、あるかも知れないが、次の2つだけは、言える。①神から、出て、神に、帰る。②神さまは、愛です。どれほど、優しい御方であろうか。★昨日は、日中、突然に、耳が聞こえなくなり、心配したが、夜には正常に戻った。原因はわからない。どうしようと悩んだ。老人になっても、さまざまに、あるんだな。

2013年6月26日水曜日

小さな事でも、1つの楽しみは、その日を明るく、できる

ジンセイって、なんだ。営々とした、小さな、いとなみ。これが人生。迷いも、ある。悲しみも、ある。その中でも、助け合って、ヒカリを見つけたら、それが幸せ。ジンセイじゃ、ないでしょうか。出逢いが、大きな恵みに、なります。★日々、平凡に、暮らしていて、楽しいこと、ありますか。毎月、騎士誌の原稿を書き上げた日、文章が刷り上って、校正するとき、その時が、イチバン、胸が、ワクワクします。活字になるのが、うれしいです。そういう気持ちで、何年も毎月、重ねてきました。先月の、5月号は韓国旅行の記事を載せましたが、今月も、つづきの韓国旅行の記事にしました。いい思い出があるからです。もったいないので、使いました。6年前に、お世話になった、李文煕・大司教さまの写真を載せた。大司教さまは、トマ修道士を、こう呼んだ。「小さなお年寄りの修道士。何度も、この修道士を見た。なぜなら、何度も聖コルベ館を訪ねたから。ちょっと無愛想な表情の奉公人の感じ。でも少しずつ心が通じ、1度招待したいと思っていた。お会いできて、うれしい」。この言葉が、うれしい。親愛の情すら、感じます。歳は、ほぼ、同じですよ。今年の5月、あれから、又、2度目、訪問をしました。★修道士にも、夏休みがある。東京へ行きたいです。7月の終わりの週に、出かけたい。東京で、会いましょう。
 

2013年6月25日火曜日

親切への有り難さ。見守る愛に、励ます愛、神の愛がわかる

歳のセイか、ナミダが、もろくなる。いつも、日記を読んで、励ましのメールを送ってくれる人がいる。「トマさん、退院して、おめでとう」「お疲れさま」「お帰りなさい」「家に居ても、トマさんと、いっしょ。カンシャ」「毎日の日記、楽しみにしています」「励まされています」「沢山の人が喜んでくれているでしょう」などなど。まめに、コツコツと送ってくれます。ろくに返事のメールも出さず、ごめんなさい。うれしいですよ。★「このサイトに参加する」、メンバーも、100人になりました。メンバーの皆さん、見守ってくれて、ありがとう。★日記を書き始めたのは、2009年4月24日でした。いろいろ苦労がありました。歳を取ったら、縁側で、陽に当たりながら、お茶でも、ススる。とんでも、ない。痛みの連続だった。それでも優しく見守ってくれる人たちが居た。時々、思うことが、あります。「ニンゲンって、こんなに優しいんだから、神さまって、どれほど、やさしんだろう、って」。人の親切さから、神さまの愛が、少しでも、分かる気がするんです。宣教師からは、厳しく教えられた。若かったから、それは、それで、いいんです。この歳になって、その思いから、やっと、解き放たれる。「大きく、息を、しよう」


2013年6月24日月曜日

93歳、シスター来る。「カッ」入れの、生活・先輩者の弁

原稿書きに専念していると、いつからか資料室に、1人のシスターが来ていた。帰る頃になって、気が付く。「あれ、ごめんね」と、押しとどめ、イスに座らせ、話を聞いた。93歳だよ。ゲンキじゃね。シスターの話を聞くと、タマシイに「カッ」を入れられたよ。生活の先輩だからね。説得力がある。浦上のニンゲンだしね。戦争が始まる前だよ。昭和16年8月5日、雪の聖母の日に、長崎で、初誓願を立てた。19歳だった。「なぜ、シスターになったか、って」。母は、厳格だったけど、慈愛。無私の愛。母が、もらした言葉。「世の中で、イチバン、よかところは、修道院よ」。その言葉が、どこかに残った。あれから74年が経過している。シスターがチカラ強くいう。「1度も、後悔したことが、なかったよ。ワタシのような者を召してくださった。神さまの、みせつり。愛、ですね。何事も、愛。病弱であったのも、母の思い出も、やっぱり、はからい。神さまが、愛して、おられるから、その道、その道で、そのときは、ツラかったが、いま、このゲンキをもらっている。みはからいの御心を、日々、カンシャしています。信頼しきって、川に落ちないよう、ミゾに落ちないよう」。シスターの言葉は、ますます熱が加わった。押されぎみ、だよ。です。もう閉館、ロザリオの時間になったので、別れた。シスター、がんばれ。ワタシも、がんばる。気持ちの、すっきりした、夕どき、だった。シスター、カオは、見えん、けんね。

2013年6月23日日曜日

明るい朝を迎えた。生活のワクは決まっている。前にススメ

「ジンセイを、なめたら、いけません。あなたのジンセイ、とても、すばらしい、ものです。それは、苦しみ、痛みが、あるから、すばらしいのです」。そう、言われてもね。痛いとき、苦しいときは、ツライし、キツイよ。「先生、時々、血のカタマリが、尿から出るんです」。ボウコウの中へ、カメラを入れて、診てもらった。これが「痛ターィ」。そりゃ、痛いですよ。「ガマンだ、がまん、や」と、ぶつぶつ。先生、いわく、「ボウコウは、すっかり、よくなっている」そうです。ステント、クダを抜くとき、入れるとき、又また、痛い。「ステントが、入っているから、ある部分で、こすって、血が出るらしい。どこから出るか、わからない。「やっと、終わって、生きかえる」。今度も、イノチを、つないだ、感じです。もう、何回目かな。この度は、ちょっと、きつかった。大丈夫かな。落ち込んだら、いけない。「ゲンキ、出せ。カラ元気でも、よい。声を大きく出すんだよ」。よし、これで、行こうと、今朝は、決めました。ナマケるなよ。原稿のつづきを書かなければ、ね。

2013年6月22日土曜日

4月入院のときと、全く同じベッドだった。カオ、むくみ

1夜あけて、この通り、ゲンキ、しています。今朝は、例の如く、「チリン、チリン」。鈴を鳴らして、カンテラ点けて、ご聖体が病室まで運ばれた。拝領して、祈る。お恵みがある、と信じました。お医者さんが様子を見に来た。「退院しても、いいでしょう」「ありがとう、ございます」。これが朝の表情です。少し、カオが、はれて、むくんで、いるかな。やっぱり、疲れていますよ。お医者さんに聞いた。「腎臓、1つで、機能は大丈夫か、それが心配」と。「ああ、大丈夫ですよ。この歳で、1つの腎臓で、この数値なら、リッパと思いますよ」。ボウコウの方も快癒しているらしい。問題は、腎臓です。60年前に病んだ結核の後が、石灰化している。バクダンを抱えている。「痛みが終わった後は、思うんだな。ニンゲン、少々、痛みが、ないと、イカン」と。10時半に、聖コルベ館に戻ってきた。「やっぱり、ここが、いいな。昨夜は、隣のイビキで安眠できなかった。ゆっくり、休むよ」

2013年6月21日金曜日

苦難でも、笑顔は欲しい。人生は、浮かぶ日も、沈む日もあり

夕方から夜にかけて、長崎地区、4箇所で働く修道者たちの集まりがあった。20人が揃って、近況を交換し、祈り、会食し、楽しい時を過ごした。「ああ、明日は、ステント入れ替えか」と思うと、「なぜ、自分だけが、こんなに苦しむのか」と、ちょっぴり、悩みも起こった。ヒト、それぞれに、与えられた十字架がある。今日は、いよいよ予約の病院へ。2人部屋の病室に入院する。午後から、点滴が始まり、手術室へ。もう、この部屋に、10何回来ただろう。挨拶しながら、大の字に、両手を広げる。まさに、十字架にかかったカッコウになった。今度の処置は早かった。30分ほどで終わった。熱が出なければ、明日、帰れるだろう。忍耐と、辛抱しかない。安静にしておこう。「自分でも、思うんです。60年、1つの腎臓で、平常に耐えてきた。頑張ってきた。そう簡単には、ダウンしないぞ。強さがある。だから少々の嵐でも、大丈夫。自信があった」★苦しいときは、楽しいことを、考えよう。「7月の最後の週に、東京へ、夏休みに、行くとしよう。会いたい人も居る。何年ぶりの、東京か、楽しみだなあ」★幸い、熱は上がらない。ああ、よかった。

2013年6月20日木曜日

水浦久之さん、神に召される。81歳。文章書きの仲間

普通、長崎では、「信徒発見」という。水浦さんは、信徒が発見されたのでなく、信徒が「神父を発見した」のだと、「神父発見」という本を書いた。信者にとってみれば、それが確かだと思う。共感を覚える。200年間も、神父が居なかった。信者たちは、「神父は、ローマから来る」「独身である」「サンタ・マリアのご像を持ってくる」。この3つの印を、口づてに、子から孫へと伝えて、神父が来るのを待っていた。やっと来ました。喜びました。神父発見です。水浦久之さんは、仲のよい親友だった。物書きの仲間と言うかな。創作活動に熱心で、沢山の本を読み、作品を書き、文学グループに属して学んでいた。晩年はカラダを病んで、苦しい生活を耐えていた。小崎修道士に「色紙を描いてくれ」と頼んだ。「なんと、書くんだ?」「我に、成れ、かし」。どうぞワタシの身に成りますように、神のみ旨のままに。その心境だったのでしょう。水浦さんは、「新・神父発見」に、小崎修道士の病気の思い出を書いている。「彼の背中から出る膿(うみ)を、毎日、ぬぐってやった」と。その彼が、まだ生きている。ふしぎやな、と。

2013年6月19日水曜日

2つ、重なったトマト。おいしい。めずらしい。いただきます

5月、恒例のルルド祭に、山のシスターさんたちも参加した。心優しいシスターたちは、オミヤゲを持ってきた。それが、沢山のトマトだった。清らかな山の空気、空のヒカリ、愛情で育てたトマトだから、ツブは揃っていないが、どれも、おいしかった。「ひさしぶりに、こんなオイシイ、トマト、食べたよ。子どもの頃の味だね」。みんなは喜んで食べつくした。「モシ、モシ、シスターさん」。電話をかけて、お礼を述べた。「トマト、ありがとうよ、ね」。ほめられると、ニンゲン、誰だって嬉しくなるし、また、差し上げようかと、ファイトも湧いてくる。数日後、また沢山のトマトが届いた。それが、写真のトマトです。「ええ、こんなに沢山」。余りにも多いので、ほかの皆さんにも、おすそ分けした。残りが、これです。その中で、ふしぎなトマトを見つけた。2つ、つながったトマトです。「ありゃ、これは、なんじゃ?」。ごらんなさい。手のひらのトマト、めずらしいでしょう。フタゴのトマトです。「トマトよ、トマト。オレは、なぜ、こんな姿だろうと、悩んでは、いけないよ」。こんなに仕上がったのも、自然の恵み。みんなを喜ばせてくれた。「ヒトは、ヒトで、オレは、オレ」。その、なりわいで、胸はって、お役目を果たそうじゃ、ないか。

2013年6月18日火曜日

広島の旅でわかった、ふしぎなご縁。皆、つながっている

広島から、帰ってきました。広島で、お世話になった女性の2人です。ご縁って、ふしぎですね。この2人の女性についてお話しします。右側の女性のお母さんが、広島から聖母の騎士のルルドへ来ていた。すると、そこへ、長崎市内の教会の女性たちが、5,6人、お参りに来た。女性たちに混じって、お母さんも、いっしょに聖母マリアさまにお祈りを捧げた。「お互いに家族の幸せを祈ったのでしょうね」。祈りが終わると、お昼だったので、女性たちは持参のお弁当を、ルルドの芝生で食べることになった。弁当が1つ余っている。実はその弁当は、左側の女性のために準備していたお弁当だった。何かの理由で、女性は来ていなかった。お母さんは、そのお弁当をいただいた。「うちの教会にも、いらっしゃい」と勧めがあって、お母さんは教会を訪問した。左の女性に会って、「この人のお弁当だったのよ」「あら、そうなの。ありがとう」。話しているうちに、女性は広島弁が飛び出した。「あら、広島ベンね」「ハイ、広島生まれです」。お母さんと、女性は、家族ぐるみで、親密な交際をする恵みになった。この度、お母さんが病に伏せた。左の女性は、長崎から、お母さんを自宅で介護するために、小崎修道士といっしょの日に、広島入りをしたのだった。ねえ、ご縁って、ふしぎでしょう。病気に苦しむお母さんは、ナミダながして喜んだ。

2013年6月17日月曜日

広島から、4日目。「桃の里」を見学した。その後で、長崎へ

これらの木は、桃の木です。ちょうど、今の時期は、小さなボール大になった桃を、間引きして、収穫する桃に、袋をかける作業をしているところでした。ここは、標高420mの山中で、広島市内から1時間ほどクルマで走った、広島空港の近くにあたる山中でした。この桃の木は、植えてから20年ほどになるそうです。木のマタの、並びが、みんな揃っていて、すばらしいじゃないですか。感心しました。幼い頃に、揃えるそうです。木も、ニンゲンも、同じなんですね。この「桃の里」は、知り合いの若者が、生産に励んでいました。見学させてもらった。空気は、さわやかで、ウグイスが鳴いている。平和だなあ、と感じた。でも、流されるアセは尊い。生産は、何事でも、苦労が多いですよ。桃の木は、1面の場に、250本。もう1面に、200本ぐらい植えているそうです。1本の木から、300個の実がなります。何割かは、オーナー制にしており、育って、収穫されるのを楽しみにしています。収穫は、7月の終わり頃から始まり、8月には終わる。勝負が早いんですね。「1本の桃の木の、オーナーになれば、よかった」と思いました。広島の、桃の里を楽しんだ後、新幹線、特急列車を乗り継いで、長崎へ向かいました。

2013年6月16日日曜日

広島へ。3日目。教会での祈り。分からない事が一杯ある

日曜日。広島の教会で、祈った。祈りの中で、目をつぶって、心にひびく、1つの声を、かみ締めていました。信心は、してきたけれど、信仰の真髄は、まだ「よく、分かって、いない」。それは、誰にとっても、同じでしょう。何が、分からんのか、分かっていないのかも、しれない。信仰は、信ずるというダケに、不安定な心です。ある時は、近くなるが、ある時は、神から離れていく。ニンゲンとは、そういう不安定な存在でしょう。求道をしても、そう簡単なものでは、ない。神さまが居ることが、分からない。神さまの傍に行けるか、自分は、それに、ふさわしい者であるか、分からない。聖書の中に書いてある出来事も、本当か、わからずに、悩む。洗礼を受けて、お祈りも、して、リッパなお話しも聞いてきた。聖書の勉強も、してきた。黙想会にも参加したし、巡礼にも、行った。感動は、するが、自分との距離が、ある。スキ間がある。ニンゲンは過去はよく分かっているが、将来も、分かりたい。その望みは、あるように思います。そう思いながら、祈りました。「分からない」と思うことは、マジメじゃないでしょうか。所詮、神さまの事は、真には、誰にも、分からない。「分かっている」と自信げに言うの方が、怪しい。それについては、教えを、素直に、信じるしかないのです。それが信仰です。それでもニンゲンは迷うのです。厳しいですね、ジンセイは。ホントに。いつまでも満足はしないでしょう。

2013年6月15日土曜日

広島へ。2日目。変わらぬご縁、変わらぬ愛情がイチバン

広島で、訪ねした家族の、床の間に、「登明修道士」と書いた掛け軸が掛けられていた。「え?ほんとうか」と覗き込む。「修道士さんが、来られるというので、以前に、描いてもらった、ブドウの絵を掛けました」と奥さん。「うれしいなあ」。毎度、季節によって架け替えているが、今日は、ブドウを選んだ。もう1度、「うれしい」。じーっと、墨絵を眺めました。「おお、リッパに描いているよ」と、満足しました。とにかく若い頃に描いた作品なので、ブドウの葉っぱに、力がこもっているのです。はっきり、わかります。筆の伸びが、違いますね。ここで、例の小さなカステラのミヤゲを差し上げました。この家族には、大変お世話になっています。もう40年も前になるか、家族が「長崎オらショの旅」に参加したのが始まりです。「まだ信仰の話を書いていますか」と奥さんの問い。「神さまの導きが、そこに有る」と、各々家族を訪ねて記事を書いてきたが、何十年を経過して、いま、また同じ家族に連絡を取ってみると、壊れている悲しい家族も中には居るにですね。ニンゲンの世の中だから、仕方がない。その時は、よかったが、年月と共にニンゲンは変わっていく。変わるのが、悲しいです。結局、書いていて、いちばん、安心するのは、我が事ですよ。自分の事を書くのが、いちばん、安心します。掛け軸の前で、「ハ、ハ、ハ」と笑った。

2013年6月14日金曜日

広島へ。1日目。特急列車と新幹線を乗り継いで、出かける

5月は、韓国へ出かけましたが、6月は、広島へ行きたくなる。この調子で、出来れば、7月か、8月の、夏休みに、久しぶりに「東京へ」行きたいのです。その前哨戦です。年々、足腰は弱っていく。悲しいけれど、現実です。もちろん、お腹には、バクダンを抱えておりますよ。韓国の旅を終えたときも、血尿が、あった。ビックリしました。動かない方が、いいのかも知れない。しかし動ける間は、いい思い出を作りたい、そう思うのも、ホンネです。「今から、出かけますよ」。長崎駅から、黒い特急列車に乗った。約2時間で、博多に着く。新幹線に乗り換えて、約1時間と少々、広島の方が早めに着きます。荷物は、バッグ、1個。ミヤゲのカステラ、小さいのを1個、それだけ持参しての旅でした。明るいカオしていますよ。広島では、教会の、すぐ近くの「ホテル」に泊まりました。安くて、清潔で、洗濯機、乾燥機も、1階に装備してあり、便利なホテルでした。「旅すれば、むかしの、思い出に戻りますよ。ファイトも湧いてきます。いい収穫があると、いいね」


2013年6月13日木曜日

今朝も健康で、生かされて、朝を迎えた恵みを、感謝します

最後の、活力を、燃やしましょう。大げさに、考えるなよ。「ガンバレ、ガンバレ」じゃなくて、自然体が、いいね。そう、思うでしょう。物は持たないけれど、幸せです。気楽に生きている。「病気も、カラダの不自由さも、神の恵みです」と言われることに、最初は、抵抗もあります、疑問もあります。ニンゲンは、そう単純では、ない。苦難を乗り越えて、体験するものでしょう。それでも、やっぱり「がんばるぞ」だね。個人の生き方だから、見過ごしてください。聖コルベ館に見学に来る人に、「あなたにとって、いちばん、大切なことは何ですか」と聞いている。そう、この間の女性は、「ドリョク、です」と言ったね。「コツ、コツ、と励む、積み重ね」。確かに、そうです。リッパな話を聞く。共感はするが、あんまり心に残らない。本当に、感動させるのは、1滴の、ナミダ。1滴の、アセ。真実だけが、心を、揺さぶるようです。


2013年6月12日水曜日

長崎市内の古い地図。思い出は、ふくらむ。当時、要塞地帯

古本屋で、長崎市内の古い地図を見つけた。横、55cm。縦、40cm。昭和15年7月29日とある。1940年で、太平洋戦争が始まる前の地図だった。値段は、1万円だった。少々、高価だが、参考になるので、購入した。当時、長崎は陸軍の要塞地帯だったので、この後、地図や写真は厳しくなる。この地図の頃に、長崎へ来ているので、懐かしく、場所を、いろいろと見つけた。思い出す楽しみも、ある。現在、港は埋め立てられているが、長崎湾の原型はこの通りだった。浦上より北部が、町は伸びていない。右側に、囲みで、僅かに載っている。市内に白い部分があるが、これは墓地で、長崎の人は墓地を大事にしていた風習がわかる。現在のような大きな通りが、ない。原爆は、どの辺まで、燃やし尽くしたのか、終戦後の長崎地図は、大きく変貌する。★右側の「このサイトに参加する」「メンバー」が「99」になった。これだけの人が見守ってくれて、ありがたい。感謝の気持ちが湧いてくる。あと、1人で、「100」になる。

2013年6月11日火曜日

1日に来た大阪の女性。載せるのが遅くなって、ゴメンなさい

先日、聖コルベ館へ来た、大阪の女性です。胸に、白く、小さく光る「ふしぎのメダイ」に注目してください。このメダイが話題の主です。女性は言った。「昨年の8月22日、水曜日、昼ごろに、聖母の騎士のルルドにお参りに来た。洗礼を受けようかなあ、考えていた。白いベンチのところで、修道士さんが居られて、ふしぎのメダイをいただきました。ありがたく、受け取りました。そのとき、決めたのです。これはお恵みです。洗礼を受けよう。決心が出来た。今年の復活徹夜祭に、洗礼を受けました。このメダイは、わたしにとっては、1つの奇跡です。方向が決まりました。洗礼を受けてよかったと思っている。メダイは大切にしています。写真を撮ってください。メダイが見えるように」。女性は喜んで写真に納まった。これから新しい出発をしてください。「洗礼を受けたから、今日は報告に来ました」。それから数日後、メールが届いた。「父方の墓碑にお参りして、洗礼の報告をしました。大浦や、浦上の教会で祈りました。信仰を深めていきます。ロザリオの祈りを唱えます。小崎サンから暖かいお言葉をいただき、うれしいでした」


2013年6月10日月曜日

隠れた場所に、愛読者が居る。ありがたい。励ましになります

「小崎サン、読んでいますよ。毎月、楽しみにしていますよ」。若者たちを励ます『召命の集い』が行なわれ、大勢が集まった。宴もたけなわ、1人の女性が寄ってきて、声をかけられる。そばに寄って、話しかけるのは、勇気のいる行為だ。ありがたい。「何年、生まれ?」と聞いた。「13年」「戦争が終わった時は、7歳だね」「イヤーネ、大正ですよ」「大正13年、ごめん」「89歳ですよ」「ゲンキだね」と、降参した次第です。佐世保から来ました。もう20年、30年、騎士誌を愛読しており、特に「小崎サンの記事を楽しみにしている」という。ああ、こんな女性も居るんだな、と活力が湧いてくる。慰められますよ。「いい記事、書いてくださいよ」。1人の、老人女性が喜んでくれれば、それで、いい。「いいカオ、しているね」。このおばさん、覚えておこう。住所を聞いて、写真を撮った。それが、この写真です。20分ほど、語り合いました。1つ、1つの出逢いが、慰めになる。「いつまでも、ゲンキで、長生き、してね」


2013年6月9日日曜日

希望を持って、今を生きよう。必要としている人が居るよ

今朝、思いました。「80になって、やっと、言い慣(な)れた、言葉が出て来る」と。聖コルベ館の玄関では、見学者に、コルベ少年の赤いカンムリ、白いカンムリの話から、けがれなき聖母マリアの話まで、スムーズに語れる。教会では、原爆と、母親との別れの話が語れる。また自分の病気の遍歴についても、語りは出来る。ルルドへ登れば、聖コルベのルルドと、永井博士の奇跡など、一連の話が出来るようになった。聖母の騎士の中だから、それで、いいんです。★それでも、思うんですよ。「オレは、汚れて、身は破れ、かぶれ、だけれども、必要としている人が、どこかに、居る」。一方では、「ああ、オレは誰からも、愛されていない。生きて、価値が、あるのかな」と思う時もあるのです。ゼイタクな悩みです。ニンゲンは常に、迷い、悩む者と思います。でも、こんな励ましも、あった。時々、ある人からメールが来て、「読んでいますよ」「励まされていますよ」と。分からないけど、「どこかで、必要としている人がいる」。確かに、リッパじゃ、ない。よか、ヒトとも思えないが、それでも必要として、くれている人がいる。ありがたいことだと、思います。人は、1人では、生きられない。★今度は、自分から、声かけてみては、どうだろう。「あなたは、必要な人ですよ」。きっと、その人は、喜ぶに違いない。うれしいに違いない。希望が開けるに違いない。孤独死のニュースを見ると、悲しくなる。★友よ、「オレは、ダメだ。居ても、居なくても、おんなじだ。むしろ、じゃまもの、かも知れない。死にたい」など、思わないように、しよう。ニンゲンは弱いから、落ち込んで、暗い気持ちに、なることは、ある。だが、希望を持てば、イノチをつなぐだろう。


2013年6月8日土曜日

赤ちゃんのヒタイに十字架の祝福をする。愛と平和を

原稿を1つ、書き上げた。5月に、韓国の大邱(テグ)へ行った時の記事です。いまだに印象に強く残っています。教会イッパイの信者さんたちが、大きな声で、祈る。歌う。すばらしいですね。昔は浦上にも、その風景があった。なつかしいですよ。★韓国で、忘れない思い出がある。日曜日の夜、ルルドの聖母堂に多くの信者さんが集まって、ロザリオ、ミサ、説教があった。説教の途中から、退場しようとした時に、ちょうど話の内容が「小崎修道士」「永井隆博士」「コルベ神父」の事に及んでいた。すると赤ちゃんを抱いた若い母親が、クルマの所へ来て、「この子を祝福してください」とアタマを差し出すでは、ないか。「ええ、オレが、祝福?」。瞬間、ちゅうちょしたが、父の心を持って、赤ちゃんのヒタイに、十字架の印をしてあげた。「この子がキリスト信者として、愛と平和の生涯を送れますように」。母親は非常に喜んで、ほほえんでいた。「ああ、ほんとうに、いい事をしたな」と感謝した。この思い出は忘れない。

2013年6月7日金曜日

尿から血が出ると、尋常でない。やはり心配しますよ

尿から血が出る。これは尋常では、ない。カラダのどこかに、原因になる症状が、潜んでいるわけだ。不安な気持ちになる。これまで、血尿で散々に苦しんでいるから、なお更だ。「また、入院に、なるのか?」。暗い気持ちに、落ち込んだ。不安を抱きつつ、朝から泌尿器科へ。先ず、「尿を採ってください」「体温を測ってください」。しばらく待って、診察室へ呼ばれた。「どうしました?」「昨日、血のカタマリが、2つ、3つ、出ました。ビックリした。血尿も、ある。ガンの再発かと、不安になります」。不具合を抱えて、真剣だし、深刻ですよ。「修道士だから、すべては、お任せしている」とは、言いつつも、人情的に、事は簡単では、ありません。お医者さんの診断は、こうだった。「ステントが入っているので、ボウコウをこすって、炎症を起こして、時々、血が出ることが、ある。近々、ステントを入れ替えるので、ボウコウはその時に診ましょう。1週間後に、また診察に来てください」。その時、ステント交換の日にちを決める。★そう言われて、ひとまず、ホットした気持ちになる。病院の帰りに「めがね橋」へ寄った。今が旬の、アジサイの花々が美しく咲いていた。写真の奥の方に見えるのが、眼鏡橋です。自然の風景は、痛む心を癒してくれる。


2013年6月6日木曜日

オバマ温泉、3日目。長崎へ帰る。突然、血尿あり。ショック

オバマ温泉の通りです。左側が、海です。3mから、5mの街路樹は、ジャカランダの木。いま、オバマ温泉を彩っています。6月が花咲く頃合いです。朝、オバマ温泉を出発しました。ゆっくり休みました。ありがとう。昼前に、長崎へ戻った。その足で、散髪へ行く。終わって、耳鼻科へ。★ところが、ショック。トイレで、尿が、血尿した。血のカタマリが、2個、出ている。「こりゃ、なんじゃ?」。血が、尿から出る症状は、もう、こりこりです。22歳から、60年間、尿の血尿で苦しんできた。「ああ、また、ガンの再発か?」。疑いの心が走った。「いつになったら、安らぐのか」。他人には、何も告げないが、気持ちは、確かに落ち込んでいた。オバマ温泉で、くつろいだかと思ったら、この有様。久しく血尿は無かったので、安心は、していた。イヤな予感になる。★昼食時にも、食欲が出ない。ゲンキも出ない。揺れ動く、差が激しい。午後、介護のヘルパー君が来たが、入浴の気持ちにならなかった。★聖コルベ館にも、カオを出さなかった。ベッドで静かに休んでいた。どうやら血尿は、1回きり。即座に、治まった。怠けていては、申し訳がない。夕方の祈りには参加した。夕食もいただいた。明日は、病院へ行こう。

2013年6月5日水曜日

オバマ温泉。2日目。宿の部屋から見る夕日。幸せに暮れる

人は、この世に生まれてくるが、生まれる自分は、か弱い存在です。1人では、到底、生きては、いけない。それは分かっている。1つのグループというか、囲いというか、その中で生きていく。守られるし、安らぎも、ある。自分にとって、囲いとは、母親から受け継いだ「カトリックの信仰」だったような気がする。カトリックの枠内で育ったし、生きる価値観も見つけた。その中で、教えを受けて、希望を持って生きてきた。司祭も、修道士も、カトリックの中で認められている立場です。外に出ると、その効力は発揮できるでしょうか。尊敬されているのは、服装ではないか。本当に、人物が尊敬されているか。人が光るのは、有徳、技術、芸術などがあって、こそ、であろう。★修道士のイメージは何ですか。祈る人。神を信じる人。彼に、祈りを頼めば、願いは叶えられる人。愛の豊かな人。貧しく暮らす人。病気にも耐える人。本当に、そうなのか。★「この世で、いちばん大切なのは、愛とイノチです」。愛とは何ですか。基本的には、仲良くする。助け合う。許しあう。お礼は求めない心でしょう。

2013年6月4日火曜日

島原半島・オバマ温泉へ出かけます。1日目。反省の夜

よい天気に恵まれました。2泊3日で、出かけます。白浜さん運転。島原へ。5月は韓国旅行でオバマに来ない。独り、静かに、時を過ごす。★自分のジンセイを降り返ってみて、大きな影響をあたえたのは「原爆」と「一連の結核」だった。一連というのには意味がある。骨や、胸や、腹の結核を次々に病んだ。追い出されそうになる。「修道院を出ていけ」。助ける人が居た。ミロハナ神父。山の修道院へ連れて行って、養生させる。山の修道院で、腹の結核が再発する。ピンチになる。イノチの最後。助けてくれた人が居た。シスターだった。ああ、これで、好くなったか。6年経って、尿が出ない。腹の結核は快癒したが、石灰化している。どういう状態か知らないが、石灰が剥がれて、尿管につまる。尿が出ない。おかげで6回も入院した。それでも何とか助けられて、今に至る。★苦しい時、そこには助ける人が必ず居た。★助けられても、苦しみは残る。自分はこの道で好かったのか、疑いの心も起こる。いかに、その迷いを乗り越えるか。★ジンセイには、なぜ自分だけが、こんなに苦しむのか。周りの人は愉快に笑っている。痛みもない。それに比べて、自分だけが、なぜ苦しむのか。疑いも、ある。いかに、それを乗り越えるのか、課題も、ある。そう思いながら、オバマ温泉の宿で眠った。幸せあれ。

2013年6月3日月曜日

あんなに清純な時代もあった。ヒトは必ず、そう思うだろう

隣の幼稚園の子供たちのマリア祭りです。しっかり、マリアさまを担いで、かわいいじゃありませんか。このマリアさまの前に、白い服を着た園児たち、お母さん、お父さんたち、大人も混じって、お祈りをしながら、行列はつづいていた。聖コルベ館の前を通って行く。デジカメが少し遅れた。子供たちは、年に2、3回、聖コルベ館に学習に来ているから、なじみがある。素直に、心優しく育ってほしいと、思います。マリアさまに願います。★日記の書き込みが、遅くなった。朝から、町の医院に、診察・クスリ貰いに出かける。帰って来たら、午前中は、それで終わった。午後から、介護の入浴があった。当然、ホタルの話が出ました。「おかげで、ホタルが見れました」。聖コルベ館のパソコンに向かうと、もう4時過ぎです。★今日の手紙は、ハガキが1枚。先日、ルルド祭に、東京から参加した女性のハガキだった。「昨日は、レジオ・マリエ行ってまいりました。教会の会長さんが霊的読書で、騎士誌の小崎サンのページを使っていられると発表され、嬉しくなってお便り致しました。私も騎士誌を読んでみようと思いました。騎士誌購読の件も宣伝致しました。またお訪ね出来るのを楽しみにしつつ、感謝と祈りをもって」。★全く知らない所で、騎士誌を読んでくださり、利用しておられるのを知って、とても嬉しいです。


2013年6月2日日曜日

40年まえの北海道の風、紙芝居の神父さん、忘れない

40年まえ、1つの記事を書いた。草原を、1人の神父さんが、黄色い、大きなカバンをさげて行く。赤い屋根の家から、北海道と分かる。クルマでない。足で、回る。途中、牛さんにも挨拶する。幼稚園に着くと、神父さんの得意の紙芝居が始まる。特徴は、人物や、馬や、ヘビが飛び出して、動く。テーマは聖書。「聖書は、人間生活の根本」が信念。熱心に、絵を描く神父さん。あの北海道の風というか、神父さんの匂いというか、今でも忘れない。なつかしく思う。40年前だから、視聴覚に先駆けというか、昔・紙芝居の名残というか、めずらしかった。神父さんの、この絵を参考にして、原爆の語りべにも使った。絵で、かなりの印象を与えた。神父さんも手ごたえがあったのだろう。記事に書いておくと、忘れない。ただ名前は思い出せない。外国人の神父さんだから、名前が難しい。★今朝、カトリック新聞を開くと、1人の神父さんの訃報が載っていた。ロバート・ジュイニエ神父、フランス生まれ。老衰で亡くなった。92歳。北海道で、22年、手づくり人形や紙芝居など、視覚に訴える要理の授業や講話で評判、とある。ああ、あの神父さんだ。40年の思い出が、よみがえった。紙芝居・神父さんの冥福を祈ります。


2013年6月1日土曜日

聖コルベ館のお勤め、22年。過ぎ去った恵みの歴史を考える

6月が始まりました。もう、1年の半分に達したのですね。月日の流れるのは早いです。毎日、ブログを読んでくださり、ありがたい。感謝です。皆さんのご支援で、支えられて生きています。ブログを書き始めたのは、2009年4月からでした。5年目を迎える。日々の生活は何事もない感じですが、ブログを読めば、日々、さまざまな出来事や、思いが起こっている。苦楽の積み重ねが人生です。過去は過ぎ去ったと言いますが、やはり現在につながる。聖コルベ館の勤めに入ったのが、1991年4月でした。22年が過ぎ去った。22年は、我が人生の4分の1に当たります。当時のアルバムから写真を見つけました。これが若い頃の、トマさんです。ボケた写真ですが、今より、スリムです。60代だから、そりゃゲンキがありました。痛さ知らずでしたが、実は、これからが多くの苦労が待ち受けていたのです。今、考えると、もう、繰り返す気持ちには、なりません。覚悟は、しなければ、でしょう。「どんなに苦しくても、これは我が人生だ。自分で耐えていくしか、ない。甘えては、ならぬ」そう言い聞かせて、6月を始めよう。