2016年11月30日水曜日

楽しみの「日帰り旅行」。笑った、唄った、愛がある

小型のバスは、朝食の後、ホームを出発しました。20人が乗っていました。動き出してから、胸中に、ムラ、ムラと、かつて「長崎オラショの旅」の一行を連れて、案内して廻っていた頃のことが、思い浮かびました。
★案内する者、ガイドですよ。ホームから、雲仙の山に登って、宿に着くまで、1時間30分はかかる。その間、車内を如何に賑やかにするか。女性職員の宝崎さんが見事なガイドを努めました。説明あり、歌あり、クイズあり、ホームの職員さんも大変ですよ。感心しました。
★雲仙の山は、ごらんの通り、紅葉は見られません。右側、上の写真は、右から、入江さん、私、岩田事務長・運転さん、キリエさんです。
★雲仙温泉は、小地獄の方です。食事処は、国民宿舎の青雲荘です。案内された部屋が「さざんか」の間でした。先ずは、温泉に入りました。白く濁った、流れぱなしの湯です。「熱ッーい」。43度あるそうです。でも、温泉は気持ちが良かったなァ。生き返りました。
★お湯の後は、食事です。豪華な和食を楽しみ頂いた。
★その後が、カラオケです。男性職員の青木さん、園長神父さまも歌って、盛り上げました。杖をついて、腰がまがった女性も、好きな歌を思う存分、唄いました。手拍子に、笑いに、「これが、ホームのニンゲンかよ。普通の人ジャン」。あたりまえさ。普通の、おじさん、おばさん、たい。
★帰りの車中でも、宝崎さんのガイドで、青木さんと「ジャンケン、ポン」あり、勝った者には賞品もあった。
★最後は、入江さんの提案で、「11月、死者の月も終わるので、亡くなった人のため、ロザリオを祈りましょう」と呼びかけると、皆さんは賛成して、女性の1人がマイクで先唱して、お祈りで、今日の楽しみに感謝しながら、すばらしい「日帰り旅行」を終えたのでした。本当に、ヨカ・旅でした。

2016年11月29日火曜日

明日の楽しみ。雲仙へ、日帰り旅行へ出かけます

いきなり、春の「つつじ」の写真を出して、すみません。
★ここは島原半島の雲仙温泉の山です。去年の春の写真で、仲良しの入江さんと楽しく写しました。シャッターを押してくれたのが、高原修道士さん。3人で、登ったときで、1年半まえになります。
★さて、明日は、ホームの行事で、雲仙温泉へ「日帰り旅行」に出かける予定です。
★普通、「ドライブ」というのは、午後から出かけるのですが、「旅行」が付くと、同じバスに乗って行っても、午前の出発で、お昼には、宿でくつろぎ、豪華な食事がいただけるのです。そこが楽しみも違うわけです。
★もちろん、いまどき、雲仙に「つつじ」はないでしょう。紅葉の残りが少し見れるかも、と思っています。以前は、小中学生たちを引率して、旅行をした身分だったが、今は連れられて行く境遇になった。それでも、抵抗は感じないで、子どものような気持ちになって、楽しみにしております。ゲンキがあれば、老いても、どこへでも行ける。いいですね。
★今朝は、朝の祈りのとき、「今日は、全フランシスカン家族の諸聖人の祝日です」といわれて、祈りました。アシジの聖フランシスコの名前をいただいている修道会は幾つもあります。全フランシスカン家族といいます。それらの諸聖人のお祝いです。
★ミサのなかで、司祭4人、修道士3人は、祭壇の前に並んで、「誓願を更新する誓い文」を読み上げ、誓いを新たにしました。老人になろうとも、現場を離れても、任務がなくても、最後まで修道士であるのを忘れてはならぬ。厳粛に、誓いました。
★「魂の平和や、澄みわたる良心のほかに、何も必要ではない。そこに聖性のしるしがある」と、ポーランドから来られた司祭の言葉を、かみ締めております。

2016年11月28日月曜日

映画「大いなる沈黙の修道院」のDVDが手元に届く

新聞の広告(左)で、一冊の本が目についたのが、7月31日でした。
★「この本は、読みたい」と、日記に載せると、「元日のエリザベット」さんが、早速、8月8日に、本を送ってくれた。
★ゆっくりと、日にちをかけて、読み終わったのが、10月20日でした。この本に出ている厳しい沈黙の修道院が映画になって上映されている。もちろん私は見ていない。「ぜひ、見たい」と日記に書いたら、エリザベットさんから、「11月末に、日本でも発売になるそうです」とコメントがあった。
★エリザベットさんに頼んでおいたら、そのDVDが、昨日、届いたのです。映画「大いなる沈黙」の修道院のDVDです。私は喜んで、感謝の携帯をエリザベットさんに掛けました。30分は話したでしょう。
★DVDは、2本あり、本編は、2時間48分39秒と長編です。最初から、最後まで、通して見たいと観念しました。
★今日は、午前中、覚悟して、DVDを観賞しました。ふしぎな映画です。音楽なし、ナレーションなし、ただ、鐘の音と、足音と、祈りの歌があるのみです。修道士の耳が、よく出ているのに気付きました。神の声を聞くというのでしょうか。やっと見終わって、この現実にある、厳しい修道院の生活に何を感じたか、といえば複雑な気持ちです。
★最後に、目が不自由な修道士の言葉があった。「前略・・・基本は常に神は限りなく善だということ。すべては我々の幸せのためだ。だからキリスト者は悲しむ必要なんかない。起こることは、すべて神が望まれることで、魂をよくするために起こることだ。それが我々にとって最も大事なことだ。神は限りなく善で、我々を助けてくださる」
★午後からは、最も気が重くなる、諫早総合病院・泌尿器科へ予約の診察に行った。高原修道士さんが付き添ってくれた。

2016年11月27日日曜日

言行一致の人、これは中々、難しい。聖人の印し

修道会の集いのとき、写しました。うどん屋の今井君と、真ん中は、中一の小神学生です。
★今井君は、長崎での修練も終盤に差し掛かり、ますます修得に励んでいます。応援してあげて下さい。
★今井君の英語力には感心しました。修道者一同がホールに集り、ポーランドから来られた神父さまのお話を聞いたとき、英語でした。「質問がある人は・・・?」と求められると、今井君が立って、英語で、ぺラ、ぺラと、質問していました。「彼は、やる、な」。そう、思った。問いは、「数か、質か、の問題」です。今は更に、修練長神父さまから、イタリア語を学んでいる。若いうちに、勉強するのを勧めた次第です。うどん屋だったが、彼には新たな未来が、開けるなァ。
★集まりのときに、「コルベ神父は、どんな人だったか」の話しが出た。一人の司祭が、こんな話をした。「コルベ神父さまと生活を共にしたゼノ修道士さんに、『コルベ神父さまは聖人でしたか?』と聞いたことがあった。ゼノさんは、しばらく黙って、首を少し傾けて、言った。『コルベ神父さまは、言うこと、行なうこと、いっしょ、でした』」。言行一致でしょう。これは中々、出来ないことです。平凡でない印しです。心に残りました。

2016年11月26日土曜日

聖コルベの身代わりの日は、7月29日です

今回の、修道会管区の集いに、ポーランドからアンデレ・スイカ神父さま(写真・右)が来日されて、長崎で講話を行なった。そのなかに、こういうお話があった。
★今年、ポーランドで開催された「ワールド・ユース・デー」で、7月29日に、ニエポカラヌフで、16か国の若い人のために、48人の司祭が共同ミサを捧げました。朗読は、コロンビアの少女が読み、詩篇を台湾の18歳の男性が歌いました。
★同じ、7月29日、この日は、聖コルベが、アウシュヴィッツ強制収容所に於いて、見知らぬ男性のために、自分の命を捧げる決意をして、餓死牢に入った日です。教皇フランシスコさまは、餓死牢の前の木の下に座って、祈りに満ちた静かなひと時を過ごされました。
★私は、感じることがあった。それは日にちです。身代わりの愛を申し出た日は、7月29日と申された。実は、私も、その日は、いつだったのか調べたことがあったのです。
★コルベ神父さまが身代わりを申し出た日は、定かではなく、「7月の終わり頃か、8月の初め頃」と伝えられていた。はっきり、しなかったのです。
★1993年7月、5度目にポーランドを訪れたとき、アウシュヴィッツ強制収容所の事務所で、記録書を調べた。907ページに及ぶ大書物「KALENDARZ・WYDARZEN・W・KL・AUSCHWITZ」で、次のように記されていた。所長フリッチは、ヘス(司令官)が居ない日だったので、逃亡者のかわりに10人を死刑に選んだ。そのとき、ポーランドの神父、フランシスコ会のコルベ(No・16670)は、フリッチに「私を死のグループに入れて下さい」と頼んだ。家族の将来を心配する人=フランチシェク・ガヨヴィ二チック(No・5659)=のために代わります。

2016年11月25日金曜日

沖縄の司教さま。おひさしぶり。忘れないよ

今度の修道会の集会に、沖縄の押川司教さまが出席され、お祝いのミサを司式されました。チカラ強いお説教も、心に伝わりました。「クワを手にして、後を振り返っては、いけない」
★ミサ後の会食のとき、司教さまに近づき、「トマ、です」と挨拶した。もちろん覚えてくださっており、ポーズもとっての・・・写真が、これです。
★聖コルベ館に居た頃は、毎年、正月休みは沖縄で過ごしていた。2年前の正月も、そうだった。沖縄に着いて、連絡すると、「司祭たちの新年会があるから、来なさい」と誘いがあった。
★押川司教さまの居られる教会は立派で、屋根や造りも沖縄らしく、すぐに分かる。1つ、小さな思い出がある。坂を登ると、マリア像があり、像の前で、ファスナーの付いた小袋を見つけたのです。「あれ、なんやろーう、な?」と開けると、生まれたばかりの子犬だった。「教会の人が助けてくれる、と思って置いたのだろう」
★昼食会が始まった。沖縄で宣教する司祭と、助祭が4人、合わせて20人ほどが居て、司教さまとの会食は楽しかった。捨て子の小イヌが話題になり、小イヌを見て、ベトナム人の神父さまが、「かわいい、飼います」と、引き取って解決した。
★犬といえば、もう1ピキ、教会へ入ろうとすると、小さな犬が、チョロ、チョロ、出てきて、足元に親しく寄って来る。毛が、ムジャ、ムジャした、なんという犬種か分からない。じーっと、こちらを見ては、聖堂へと誘うのだった。犬は、聖堂内部を、巡回していて、司教さまから可愛がられている。司教さまに甘えている犬だった。「名前は、なんですか?」と聞くと、「ピカ・・・」「ピカって、それ、アシジの聖フランシスコのお母さんのお名前でしょう?」。リッパな名前をもらって、光栄だよ・・・と、思った。
★司教さまに、「あの、ピカちゃん、ゲンキですか?」と聞くのを忘れた。

2016年11月24日木曜日

「オー、会えたぞ」。背丈も一緒、心も一緒だよ

修道会のなかで、一番の親友が、ペトロ・イシトーク神父さんです。昨日、長崎の聖コルベ館に着いたとき、玄関で、待っていたかのように、真っ先に出会ったのが、この背の低いペトロ神父さんでした。「やーァ、ペトロ・・・なつかしい」「おゲンキ、トマさん」。2人は抱き合って、喜び合った。
★背丈が、いっしょ、というのが、いいね。歳は違うけど、心もいっしょ、だよ。7年前の秋に、突然、ルーマニアからやってきた。あのときは、本当に、ビックリしたな。「オレと、同んなじだ。かわいい神父や、な」
★ニッポンはどういう国か、見に来たのだった。そのときから、仲良くなった。次の年の秋にも、また、やってきた。デジカメをプレゼントして、和食をごちそうした。心の優しい、えんりょがちな神父さんだった。
★1年置いて、3度目に来日。本人は日本で働きたいと、修道会の管区本部にお世話になった。先ずは、日本語の勉強から始まる。これが、なかなか進まず、まだ、まだ、ボチ、ボチ、らしい。
★日本語をしゃべらなくても、ボクたち、2人一緒に居るだけで、心がなごみます。私が聖コルベ館に居た2年前まで、私は手描きの色紙を描いて、そこから得たお金を郵便局からユーロに変えて、ルーマニアのペトロ神父さまの弟や妹の家族に何度か送金して、喜ばれたご縁もある。ますます神父さんとの仲が良くなっている。
★私の唯一の望みは、ペトロ神父さんと2人で、ルーマニアの教会を巡礼することだった。ボクと2人で並んで歩く姿を、ルーマニア人に見せたかったのです。望みが叶わず、残念です。
★ペトロよ。コマカク(小さく)ても、がんばろうよ。「人は、目で、見る。神は、心で、見る」。カラダは、小さくても、生きる価値の問題だ。規格外でも、愛のある、優しい表現で、すばらしい活躍をするならば、リッパじゃ、ないか。
★「他人と比べるな。自分らしく、生きよ。それで足れ」

2016年11月23日水曜日

聖コルベ殉教75周年と、1人の司祭金祝に参加

今日は、長崎の聖母の騎士で、2つのお祝いがあった。
★1つは、コルベ神父が創立したポーランドから、司祭を招いて、昨日と、今日の午前と、お話が行なわれた。
★私は、昨日は不参加で、今日の部に参加した。その後で写した全員の写真です。課題は、「コルベ神父は、どういう人だったのか?」。今の時代に、コルベ神父を思い出すのは本当に意義のあることです。次に興味があるのは、コルベ神父創立の「ポーランド・ニエポカラヌフ修道院の現状は、どうか?」です。119人の修道者が居るそうです。
★集合写真の後、聖堂で、1人の司祭の叙階金祝のミサが行なわれた。沖縄から押川司教さまが参加されて、荘厳な聖歌とお祈りが捧げられた。「金祝の神父さま、おめでとう」。司祭になって50年、大変なお勤めでした。神さまから呼ばれたから、召されたから、この道に入った。ご苦労があっても、やりとげました。
★聖堂でも、記念写真の撮影が行なわれて、1階のホールでお祝いの会食があった。久しぶりの修道者や、知人に出会えて嬉しいでした。
★修道会員の集会に参加が出来て、「ああ、わたしも、この修道会の一員だ」と、ホームに居るものの、信念を強く感じた次第です。

2016年11月22日火曜日

ロザリオを唱えつつ、故人の修道士さんを想う

クペさん。3ヶ月前に、私の部屋を訪ねてくれた修道士さんです。85歳。修道名が、「クペルチノ」だったので、普通に、「クペさん」とお呼びして、親しんでいた。「トマさん、ゲンキ、か」「一枚、写真、撮るからね」と、写したのが、これです。
★いま、ホームの祈り、教会でロザリオを、十数人が集って、このところ毎日、クペ修道士さんのためお祈りしています。
★日記に、先週の木曜日に、同じ町内の医院に入院中のクペさんを見舞いに行って、次の日、金曜日、朝に神に召されたことを書いた。急激な出来事で、今もなお、近くに居られる感じです。
★土曜日がお通夜で、日曜日が葬儀でした。月、火、と日にちは過ぎた。配られた追悼カードによれば、入会して、長崎の聖母の騎士で誓願を立てて、10年ほど、そこに居たが、施設がある山の修道院に転任になった。それから50年近く働きつづけた。
★きょう、私がロザリオを唱えながら、思い出したのは、クペさんは、五島の海辺で生まれ、育った人だった。それが、山で働くようになる。そして思い出すのが、クペさんのお母さんです。30数年前、海辺のお宅へお母さんを訪ねて行った。働き盛りのご主人を亡くされ、10人の子どもが残された。クペさんは聖母の騎士に入って、修道士となる。兄弟姉妹も、3人が司祭に、2人がシスターに、それぞれ召し出しを感じて、家を離れた。働くお母さんが、すごかった。
★「母さんだって、キバルぞ。子どもを捧げたからにゃ、自分も捧げる人に、ならんと、いかん。捧げた甲斐の、なか。いつもお前たちのため、祈っとるぞ」
★クペさん、いま、天国で、ご両親と、2人の司祭に、神さまの喜びの中で、出会っているでしょう。

2016年11月21日月曜日

ルルドに「聖コルベの家」。巡礼の話。土産は列車に

日々、変わり目がない生活なので、訪ねてくださる人が居ると、うれしい。気持ちに、活気が出る。
★福岡から、列車を乗り継いで、昌子さんが面会に来た。長年、イタリア、フランスなどの教会巡りの添乗員をされていたが、引退したという。それでも今年は、巡礼のグループに混じって、ローマから、バス利用で、アシジ、マルセイユ、ルルドを巡ってきたと、楽しそうに語ってくれた。
★特に、ルルドの話しが出て、「聖コルベの家」が出来ていたと、写真を見せてくれた。左の写真が、そうです。町の中心にあり、近くには、出現を受けた聖女ベルナデッタのゆかりの場所の通りにある。とても、いい場所で、案内の司祭も常駐していて、説明してくれるそうです。日本の聖母の騎士誌も置かれていた。ルルドを巡礼した人が訪ねてくれるとうれしいですね。下の写真のパネルを見ると、ヨハネ・パウロ2世教皇さまに謁見しているポーランド人ガヨビニチェック氏のようです。
★私は、昌子さんに言った。コルベ神父さまは「家族」を大切にした。ガヨビニチェックさんが、「妻がいる、子どもがいる」と言ったので、それを聞いたコルベ神父さまが身代わりを申し出た。「家族の愛」が大切です。
★昌子さんは、私に言った。「トマさんの好きな福岡の銘菓『筑紫もち』をお土産に持って出たのですが、列車の中に置き忘れました」。それは残念、みやげは、長崎方面へ行ったでしょう。

2016年11月20日日曜日

シスターの誓願お祝い。参加して、神の恵みに感動

ホームの近くの山に、シスターの修道女会がある。知り合いのシスターたちが、初・誓願を立てて、60年を迎えた。「ダイヤモンド祝」というそうだ。3人の司祭と、修道士の私も参加した。
★先ず、お祝いのミサが行なわれ、その後に、会食があった。
★シスターを志したのは、10代、20代の若い頃であった。神の声を聞いて、生涯を、神に奉献したいと願って、60年、50年の金祝を迎えたというか、ひたすら貫いてきた。その生き方に、深い神への信仰と愛を感じた。隠れた所で、捧げる祈りは、尊い。
★教会には、沢山の同じ会のシスターたちが祈っていた。教会に入った瞬間、私には、ふしぎと、ポーランドのニエポカラヌフ修道院の修道士たちの聖堂に入った時と同じ「風」を感じた。本当に、ふしぎな感触だった。
★ミサの後で、食堂で、お祝いの会食があった。今度は、全然、違った雰囲気で、若さが、ハジケたような、リズムカルな踊りや、歌や、仮装の出番などもあって、皆さんを楽しませた。聞けば、「70人は居るでしょう」。シスターの中には、数人、ホーム聖フランシスコ園でも働いた人もいた。騎士誌の私の記事を楽しみに読んでいた、という人もいた。ホームにも、シスターの修道院があった。ポーランドの歌も、韓国語の歌も出る。
★最後は、みんなで手をつないで、円になり、唄いながら、丸く移動した。ラテン語の聖母賛美の歌で終わった。夢のような、本当に楽しい、ひと時だった。

2016年11月19日土曜日

オーストラリアから電話。ホームに掛ける人もいるモンだ

自室のピーカーで、「電話です」と呼ばれた。幸い、電話は、廊下に出たところ、わりと近くにある。誰からの電話だろう、わからない。「モシ、モシ・・・」。うまく話しが、かみ合わない。返事が遠い。「どこから・・・」「オーストラリア、からです」
★なんで?地球の南下側の国から?音声が届くまで、数秒かかる。「2月頃に、そちらに、行った者です」「ああ、そうか」と、すぐに思い出した。写真の男性だった。大学の研究員をしている。博士論文のため、原爆の証言を聞きに来た男性だった。43歳。大学では、日本語も教えている。
★熱心に、なぜ、わざわざ電話を掛けてくるのか。日本語は出来るというが、やはり外国人との話は、スムーズに行かない。結局、内容は、「博士論文を書き上げたので、あなたの証言・掲載の許可を求めたい。メールで送っていいですか」「イヤ、パソコンは持ってはいるが、メールは使っていない。文書で送ってください。サインして返信します」と答えた。
★2月に来たというから、日記を見ると、27日に、この写真と共に載せていた。16歳のとき、日本に来て、度々、来日して、四国の公立中学で、英語の教師も勤めたこともある。論文の土台は、「長崎・原爆の前と、原爆後の、カトリックの記憶です」と彼は言っていた。
★いま、私が、なぜカトリックを信仰しているか、と自問すれば、カトリックの家庭に生まれ、育てられたからであろう。苦難が来たとき、救ってくれたのはポーランド人の宣教師たちだった。
★そして、もう一つ、背骨のように感じるのは、自分の、この信仰が、先祖のキリシタンの苦しみ、迫害、殉教、隠れを、くぐりぬけて、父は、外海、母は、浦上・・・と、つながっていることです。一連の流れを心の臓に感じるわけです。信仰したからといって、苦難がなくなるわけではない。平坦な人生が期待されるわけでもない。だが、カトリック、それが、わたしの行く道です。
★写真のオーストラリアの大学研究員は言い残した。「十字架」「マリア」「浦上天主堂」。どこに、ご縁があるのか、全く分からない。

2016年11月18日金曜日

「山だよ」。昨日の修道士さん、急に逝去。ショック

私の部屋の、廊下から見た山の風景です。あえて山の写真を載せました。
★昨日、高原修道士さんと、同じ町内の医院に、入院中の修道士さんをお見舞いに行ったが、今朝、亡くなったと聞かされて、おどろいています。
★病室へ入るなり、「おお、トマさんか」と、名前を呼んでくれた彼。病室の窓を見て、「家の向こうは、山だ、な」と言ったのが、いま何となく心に残っているからです。
★修道士さんは、長年、山の修道院で暮らしており、何十ヘクタールも及ぶ施設の森林を、立派に管理されていた。表彰されたこともある。また多良岳の巨大な石を積み上げて、壮大な「ルルド」を作り上げた。いま思えば、あのとき彼は、最後に、山が懐かしく、脳裏に浮かび上がったのかも知れない、と思う。
★苦しそうではあったが、お元気に見えたのに、急な訃報に呆然とした次第です。私もホームに入っているので、詳しいことは、まだ知らされておりません。ただ、昨日、お会いしたばかりなのに、ショックを受けております。
★午後のロザリオでは、神に召された修道士さんの安息のため祈りました。

2016年11月17日木曜日

病んだとき、母が傍に居てくれた。それが救いになる

ホームの玄関前の、庭の細い花壇に、最近、植えられた小さな花々です。冬に入ったせいか、陽のヒカリは弱いです。花々は大丈夫、育つでしょうか。
★今朝、ミサのとき、次の祈りがありました。「・・・いつも同じ愛をもって、悩み、苦しむ人々に、仕える心をお与えください」。ふと、考えたことがありました。
★それは自分の人生で、振り返えるとき、一番苦しかったことは何か。
★これまで少年の頃から、度々、病気になり、入院をしてきた。入院したとき、一番望んだことは、何か。それは遠い出来事だが、母がいつも傍に居てくれたことだった。決して、それは忘れない。唯一の慰めが、母の愛であった。
★病むベッドのそばに、家族が居ない、縁者がいない、誰も居ない状態があるとすれば、それが一番寂しい、苦しいこと、悩みだと思う。誰かに、傍に居てほしい。これほど切なる願いは、今はないと思う。
★同じ町内の、別の小さなホームに住む修道士さんが、町内の医院に入院して、不具合だと聞いた。今日は、高原修道士さんを誘って、お見舞いに行った。病室には誰も居なくて、彼は苦しんでいた。慰め、励ましの言葉をかけたが長居は出来なかった。本人も苦しそうであった。
★病人は、病いと闘っているから、苦しい身体状況にある。話をすれば疲れるでしょう。しゃべりたくない、気持ちもあるかも知れない。しかし、何も話さなくても、そばに誰かが居くれたら、何と心強いことだろう。それは分かっている。病む人の一番の願いは、居てほしい、これでしょう。だが、現実には長居は出来ない。「・・・いつも同じ愛をもって」「仕える心を与えてください」。それは、ただ、祈りに終わっていいのだろうか。

2016年11月16日水曜日

台湾から届いたウーロン茶。これも何かのご縁です

10月の終わり頃だった。ロザリオの後で、教会で、一人の男性に出会った。私の本を読み、ブログも見ている。西山神父さまが、ホームに居られることを知った。「会いに来ました。小崎さんにも会えて嬉しいです。台湾で、商売をやっている。台湾から、ウーロン茶を送りますから」と約束していた。
★そのウーロン茶が届きました。袋をあけると、黒目のカタマリが入っている。湯のみ茶わんに入れて、熱湯を注ぐと、黒目のカタマリが、ふくらんで、濃い目の茶・黄色のお茶になった。パソコンを打ちながら飲んでいます。「これが、ホンモノの、ウーロン茶か」。ゆっくり味わいました。
★手紙も添えられていた。台湾では、コルベ神父さまのことを知る人は、ほとんど居ない。8月14日(聖コルベの祭日)には、台湾語で説明したコルベ神父さまのご絵を印刷して、各教会へ配っている。私の願いは、けがれなき聖母の騎士会の台湾支部を創ることです、と熱意が記されていた。彼の洗礼名は、マキシミリアノ・マリア・コルベ。がんばってください。期待しています。ウーロン茶は、ありがとう。これを飲めば、健康になります。
★今日は、インフルエンザの予防注射が、職員さん、皆さん、全員が受けた。ホームは団体生活ですから、インフルエンザの流行を防いでいます。

2016年11月15日火曜日

歳を取っても、淡々と、生きる。長生きには、ヒケツあり

一日、ヒマなので、車椅子の女性は、廊下を、あっちへ、こっちへと、上手に移動して、適当に時間を過ごしている。
★「わたしは、98、です、ばい」が口ぐせ。「あと、二つで、100になる」。降参します。
★毎朝、早朝、5時過ぎに、暗い廊下を通って教会へ行くのだが、角の部屋は、この女性。既に起きていて、顔を洗っている。「はやーい」と、これにも、参ります。
★たまたま今日のお昼どき、話を交わす機会があった。目はパッチリ、アタマは、スッキリ。お顔は小さく、お若い頃は美人だったかも。ただ残念なのは、お耳が遠い。耳元で叫ばないと、通じない。
★女性は言う。子どもの頃は、心の臓が弱かった。結婚して、四国八十八箇所巡りをして、他にも、あっち、こっちのお寺をお参りをして、元気になった。兄弟姉妹は、みな、死んだよ。孫が、小遣いを送ってくれる。感心な子です。98を宣伝しながら、声は低いが、昔の歌を、はっきりと、スラスラ唄い、こちらが手を合わせると、御経を途切れることなく、唱えきる。敬服しました。それは本当に生きるリッパな信仰です。
★写真は、湯江教会で祈るホームのカトリック信徒の車椅子の女性たちです。月の礼拝の日に撮りました。思います。ホームでは、仏教の人たちも、カトリックの人たちも、何かに、おすがりしたい心情は一緒です。生かしてもらっているだけで、お恵みです。ありがたい。98歳の車椅子の女性の顔には、苦しみの影がない。淡々と、生きている。そういう人に憧れます。「えらい」というしか、ない。
★コメントくださった「ぼんすけ」さん。十七歳の夏を読んで下さり、ありがとう。ぜひ聖コルベ館へ。資料を見てください。
★昨日は、関東の男性から電話があった。「以前に、文通したことがある。騎士誌の小崎さんの記事を楽しみに読んでいた。最近は、出ていないので、寂しいです」
★朝日新聞社から、2008年12月から、1月にかけて、16回にわたって連載してもらった記者の記事「ナガサキ・ノート。小崎登明さん」についてのアンケートが届いた。その記事は、「小崎登明の部屋」(検索)に掲載している。

2016年11月14日月曜日

書くことが無くて、困っております。平穏・無事で、いい

他人の美談を書いても、満足はないでしょう。やはり自分が何を思っているか、感じているか、それを書きたいです。と、思っても、変わらぬ日々では、何も浮かばず、困っております。何とか、抜け出せないか。
★ホームで暮らす人びとは、みな孤独です。一人で生きています。家族や、家があっても、ここで一人で暮らしています。それでも時々、面会に来る息子さんがいる。娘さんがいる。そういう姿を見ると、「いい、ねぇ、あんな、来る人は・・・」と、うらやましく小さな声も聞かれる。心中、「本当に、そうだよ、ね」と、同調する。「孤独であっても、苦しみ、あっても、生きねば成らぬ」。人は誰しも、ほしいのは、「つながり」です。孤独じゃ、ない。誰かに、つながっていたい「つながり」です。人は、独りでは、生きられない。
★まだ、月の半ばだが、早くも、定例の懇談会があって、12月の予定が伝えられた。「はやい、ねぇ。もう、年の終わりだよ」。誕生会や忘年会、クリスマスも来れば、大掃除に、餅つきもある。
★平穏・無事に過ごせるのが、何よりです。

2016年11月13日日曜日

恩人で、父親の存在、木島さんが神に召される。97歳

3年まえ(2013年)7月の日記です。東京・赤羽へ行きました。上の写真は、赤羽修道院の下村コルベ修道士さんです。お世話になって、赤羽教会では、日曜日のミサの後で、日記を見てくださっている方々と面会した。懐かしい思い出です。
★下村コルベ修道士さんの運転で、ぜひとも連れて行ってもらいたかった所が、下の写真の木島さんご夫妻のお宅でした。忘れもしない、恒例の「隅田川の花火大会」の日だった。お宅は、隅田川の近くにあった。ダンナさん、95歳。奥さん、93歳とある。仲のよいご夫妻で、私は、何十年とご縁をつづけていただいた。苦労しながら、町工場を築き上げてきた。写真の右側に写っているのがダンナさんです。左側が、奥さん。
★信仰熱心で、私の「長崎オラショの旅」に何度も参加して、東京・本所で、会場を借りて、これまでオラショの旅に参加人たちを集めて、親睦会を開き、「日本26聖人」の映画を上映した思い出もある。
★木島さんは、多彩の趣味で、手品に、手作りの機関車に人を乗せてレールを走らせる、台湾の教会の援助、イグナチオ教会にも通った。上京ごとに豪華な食事をいただいた。お宅のビルの屋上で、花火を見たこともある。
★この記事の後、奥さんが亡くなられた。そして昨日、お宅からハガキが届いて、木島さんがなくなった知らせを受けた。すぐ携帯で、娘さんと話しができた。
★今年の正月、元気で迎えて、2日には、子ども、孫たち、30数人が集って、おじいちゃんを囲んでお祝いをした。その時、おじいちゃんが皆に言った。「集るのは、今年までに、しよう。来年からは、各自のお宅でお祝いしなさい」。3日、夕方になって急に不具合になり、入院し、静かに横たわったまま、3週間後、1月23日に、97歳で神に召された。忘れることの出来ない、恩人であり、父親のような存在だった、木島さん。
★フランシスコ・ザビエル木島武次さん、本当にお世話になりました。ご冥福をお祈りします。

2016年11月12日土曜日

旧友が来る。夫妻は金婚式を超えた。幸せな家族

熊野さんご夫妻が、娘さんと一緒に訪ねて来られた。「旧友、来たる。嬉しいですね」。私を見て、「元気そうで安心しました」
★もう、むかし、です。高校生の頃、彼は中学生だった。聖母の騎士の小神学校で学んだ。修練を2年努めたが、目上から「帰りなさい」と言われて、この道を断念した。だが、私の事は覚えてくれていた。
★福岡県に、新田原(しん・でん・ばる)といって、教会や、シスターが経営する病院がある。病院で、事務の仕事で働いた。周囲には、カトリック信者が多く住んでいる。五島列島から移住した信徒たちです。熊野さんに呼ばれて、信徒の皆さんにお話をしに行った思い出もある。
★その時、一緒に撮った写真を持って来てくれた。懐かしい写真です。「こんなに、元気な時代も、あったんだな」。平成17年5月とある。11年まえですよ。上の方の写真には、「新田原教会での講演会を終えて、熊野宅にて」とあり、下の写真は、「湯布院(大分県)にて由布岳を背に」とある。一緒に、1泊旅行をした思い出の写真だった。
★今日の出会いの帰りぎわに、住所を書いてください、と頼むと、熊野さんは書きながら、こう言った。「中学1年の時、家にハガキを書いたが、上級生だった小崎さんから、『ヘタな字だな。上手に、なれよ、と3ヶ月ほど字の練習をさせられた』」「へえ、そんなことが、あったんだ」

2016年11月11日金曜日

紅葉の秋。こんな日もあった。幸せだった。今は・・・・

6年まえの、ボクです。
★カオが、やっぱり、変わったか、な。メガネが変わった。でも、服は今でも、これを着ている。帽子も使っている。バックは、すばらしい紅葉です。多分、これは毎月、島原半島のオバマ温泉に保養に行っていた頃に、近くの山で自撮りしたスナップです。「ああ、あの頃は、幸せだった、な」。思います。
★6年経って、人生、変わりますね。何が変わったか、と言うと、ホームのお世話になる身分になったからです。これが自分の現実だった。そこに至る経緯は、いろいろ有ったが、まだ書けません。
★6年まえは、「受ける恵み」よりも、「与える愛」が多い感じがしていた。今は、「受ける恵み」ばかりです。与えるものは、ない。寂しいですね。
★今朝は、朝食後、例の3人で、お湯に入りました。このところ、寒さが増しているので、お湯は楽しみです。でも、あの頃の温泉のお湯は、やっぱり、よかったね。違うね。

2016年11月10日木曜日

屋外は雨。高校生は、どこを。昨日の質問、気になる

昼食は、「長崎ちゃんぽん鍋」でした。屋外は、音を立てて、雨が降っている。気温が下がった日だから、皆さんは満足でした。
★「ナベも、いいね」。喜びながら、メンを、すすり食べた。おいしかったですね。雨が気になり、ふと、昨日の女子高校生たちのことを考えた。「この雨のなか、大丈夫かな。女子高校生たちは、どこを廻っているだろう?」。ぼんやり思いつつ、チャンポンを食べました。
★昨日のつづきですが、教会で、皆さんへのお話が終わった後、いつも聖コルベ館へ戻って、「聖コルベの部屋」の前に小さなイスを置いて、そこへ腰掛けて、入ってくる女子高校生たちに、声をかけるのを習慣にしている。昨日も、そう行なった。「写真を、一緒に、撮ろう」。よいスナップ写真も撮れました。
★一人の女子高校生が、私に近づいてきて、問うた。「あの・・・殉教って、なんですか?」。いきなり「ジュン・キョウ」と言われて、ギクッと、一瞬、引いたよ。殉教、キリスト教を知らない高校生に、どう答えるべきか。これは、むずかしい。
★キリストを信じる者が、どんな迫害に遭っても、信仰を捨てないで、イノチを捧げることだよ。(なぜか、日本26聖人がアタマに浮かばなかった)。キリスト信者の生き方は、キリストに倣い、そのように生きるのを目標にしている。コルベ神父さまも、そうだった。キリストのように生涯を生きたい。近づきたい。そのためには、キリストさまに一番近いマリアさまに近づき、導いていただければ、早くキリストさまに近づける、そう考えたのです。マリアを通して、イエスへ。これがコルベ神父さまの生き方で、そのおかげで、キリストさまのように、殉教死する恵みがいただけたのです。これで、よかったのかな。
★なぜか知らん、女子高校生の目から涙がこぼれていた。

2016年11月9日水曜日

女子高校生たちとの出会い。喜び、ゲンキも、もらった

「なんでだろう?」「なんでだろう」。5日まえに、修学旅行生たちに、語り部を努めたい、という気持ちが、ムラ、ムラと湧いてきた。
★それが今日、実現した。関東からの女子高校生たち。4クラス、177人、これだけの人数は多い方です。
★教会で迎えて、語り部には、火がついた。立ったまま、30分あまり、言葉は、スラ、スラと出てきた。語るのは、2年ぶりです。聖コルベの「悪に負けない勇気」「お礼を求めない愛」「身代わりの愛」。命を助けられた男性の、ポーランド語の「ジンクーエン(ありがとう)などです。
★先生の話によると、見送る校長先生が、「今度の旅では、小崎修道士に会えるかも」と期待されていたそうです。
★高校生たちも、旅行に準備を重ねて、自著の「十七歳の夏」も読んだし、私のテレビ放送のビデオ、「生かされて」(50分)も見て、ある程度、理解していたそうです。
★本物の小崎修道士に会えたので、皆さんは熱心に話を聞いてくださった。「なんでだろう?」。ムラ、ムラと急に語り部の気持ちが湧いたのが、わからない。そこには不思議なつながりがある。
★今度の先生の中には、10年まえに女子高校生として、聖母の騎士に来て、小崎さんの話を聞いた。その女性が、大学を出て、母校の教師になって、1年。こうして、また小崎さんとお会いすることが出来ました、と喜んでいた。こっちも、嬉しくなて、感動ものでした。
★今日の一日は、本当に嬉しい日となった。これで私もゲンキが出る。行きは、高原修道士さんが長崎まで送ってくれた。帰りは、松下修道士さんが連れてきてくれた。ああ、聖コルベ館に居て、語り部や出会いを楽しみたいよ。

2016年11月8日火曜日

五島のミカンだよ。食べてください。励ましの心は通う

ホームの女性が、自室を訪ねてきた。いつも、ミサや、ロザリオに来ている熱心な、というより、信仰が身に染み込んだ女性です。「みかん、ば、食べて、くれんね」
★「イヤ、イヤ、いいよ。みかん、沢山持っているけん、よか、ばい」「そう、いわんと、食べて、くれんね」と大事そうに、みかん、二つをもってきた。
★「これは、五島から送ってきた、みかん、たい。わたしが、ホームに入る前に、植えたとよ。その木に、なった、みかんだから」
★「ホームに入って、何年に、なると?」「6年になる」「みかんは、何年で、なったとね?」「3年で、なった。毎年、送ってくるとよ。子どもも、孫も、いる。ああ、五島に、帰り、たか」
★「写真ば、撮るけんね」。いい顔の写真が撮れた。プリンターで出して渡すと、喜んだ。「これば、五島に、送って、やろうかね」。満足してくれた女性でした。
★午後から、ホームの行事で、ショッピングがあり、小型バスで買い物に出かけた。ベッドに横になっていたら、出発直前に、気がついた。急いで、準備して、バスに乗ったら、また、やった。「シマッタ。サイフを忘れた。これで三度目かな」。運転の高原修道士さんから、お金を借りた。「まさか、ボケて、いないだろうな」
★数日まえ、修学旅行生に話しがしたいと、気持ちが盛り上って、長崎の担当の松下修道士さんに頼んでいたが、それが明日となった。177人の女子高校生が来る。二年間、話したことがなかった。
★「なんとか、気力を支えよう。声に自信はないが、老人は、老人なりに、優しい顔で語れる内は語りたい」。あしたは、がんばってみます。

2016年11月7日月曜日

空は晴れ、気持ちも晴れ、午前から2時まで、ドライブ

「なに、食べているんだ?」「うなぎ、です」「いい、なあ」
★椿原(施設の中の私立・小中)の学校時代の教師、藤下先生に、携帯で頼んだ。「どこか、連れて行って下さい」「いい、ですよ。トマさんの行きたいところ、たまには外に出ましょう」
★藤下先生は、学校を定年退職して、6年ほどになる。奥さんを病で亡くして、今は犬の散歩を楽しんでいる。
★「まず、シスターの墓参りに行きましょう」と呼びかけたのは、先生だった。「そうだ、ね。そう言えば、命日は、10月19日だった。もう、過ぎてしまったよ」。忘れていて、ごめんね。先ず、いつも買っている100円ショップで、造花を買い揃えた。何度、こうして造花を買ったことか。他にも、ラジオや、時計、懐中電灯などの電池を買い求めた。
★山のシスターの修道院へ向かう。先生の同級生がシスターになっている。「ちょっと、寄りたい」。シスターと玄関で、お互い、笑い合う。それから墓地へ下った。お世話になったシスターだが、もう遠い人になってしまった感がする。調べて見ると、48年が経っている。
★墓地から一気に、町の諫早へ走りました。先生自慢の車だが、最近、運転を間違って、バスに衝突したそうだ。書店へ寄った。ずらりと並んだ本を見るのも久しぶりだった。2冊の本を即座に求めた。
★昼食に行ったのが、うなぎ屋・専門の「福田屋」です。文久三年の創業、と箸の紙にかいてあった。「文久三年って、何年ですか」。支払いのときに聞いた。「1863年」と聞こえたようだった。確かに、福田屋のウナギは、おいしい。ここは、ウナギ料理だけしか、ない。タレをかけるサジまで付いている。
★帰りに、写真屋へ寄って、デジカメの写真を皆、紙焼きに申し込んだ。300枚ほどあったから、1時間20分はかかるという。「では、2日後、ここを通るので、そのとき貰います」
★こうして今日を終わったが、ロザリオには間に合った。「気力」「気力を出そう」の一日でした。

2016年11月6日日曜日

章はもらったが、小さな記念品もほしかった。ザンネン

高来町には、住民・約一万人が住んでいるそうです。明治か、大正か、むかし、著名な書道家が出たそうで、小・中学生から書道が盛んな土地柄です。
★ホームでも、毎月、先生が来られて、書道を習わしてくださる。「文化祭があるから、出しましょうね」「ハイ、ハイ」。軽い気持ちで書きました。もともと書道は修めたことがないから自信はない。だが字を書くのは好きです。「聖フランシスコ園・出展」の壁のコーナーに、ホームの何人かが書いた字が飾られていた。
★「先客万来」が特別奨励賞になったから、表彰式にお出くださいと、ハガキが来た。「そんな、わたしなんか・・・人に見せるような字は書いていないのに」と思いつつも、ハガキを持って、式には参加しました。男性職員さんに、特別に、私一人だけを会場の町の会館に連れて行ってもらった。
★文化祭だから、書道、絵画、写真、工作、生け花など、小・中学生から、施設、クラブ、他方面からの作品が展示されている。各部門の章もあり、皆で、14,5人は居たであろう。
★確かに、土地柄の歴史があって、すばらしい書道作品への表彰があり、最後に金賞を受けた若い女性が感謝の言葉を述べたが、「何年も、指導を受けて、書きました」と書に打ち込む意気込みを披露していた。それを聞いて、まこと恥ずかしくなった次第です。
★金賞、文化賞など、トロフィー、記念品が幾つも用意されていたが、特別奨励章は、紙一枚の賞状だけでした。高来町の、この辺は、湯江という地名ですが、水がきれいで、江戸時代から紙すき工房が多数あったところです。いまでも工房は残っている。その自慢の紙すきの紙をありがたく頂いたわけです。折角ならば、小さくても、いいから、記念品がほしかった。
★まあ、普通に、ホームで書道をつづけようと思います。

2016年11月5日土曜日

誕生会。楽しみしている踊り。今月は何だろう?

毎月、初・土曜日の昼食に、皆さんが集って、その月に生まれた人たちの「誕生会」を祝います。11月は、5人が居られた。
★やっぱり、誕生日がきて、「おめでとう」と声をかけられると、うれしいですよ。園長さんの挨拶、1人、1人に、「ハッピーバスデイ」をみんなで拍手しながら歌い、園長さんがお祝いを持って行く。
★食事が始まったところで、出番が、職員さん、3人組の出し物、踊りです。舞台で踊るのは、いい写真が撮れないので、出番前に撮るわけです。海賊スタイルの3人さん。「ひょっこり・ひょうたん・じま」を踊りました。
★介護や調理のお仕事が多忙なのに、ご苦労な奉仕です。これも皆さんを喜ばせようと務めている次第です。1年間、3人組みは予定が決まっているそうです。1年では、3カケ12の、36人も居るんですよ。これは大変ですよ。出し物の内容にもアタマをひねりますしね。海賊が似合いそうな、粋なお兄さん、優しいお姉さんもおります。
★介護のお仕事は、やっぱり若いチカラでないと、足腰を痛めますね。お疲れさまです。介護のお仕事は本当に大変だと思います。お仕事のご苦労に似合った報酬が与えられますように、願います。
★私たちは、月ごとに、年ごとに、ますます老いを感じて、体力も弱ってきます。理論じゃないんです、現実ですね。
★それでも希望を持って生きよう、と皆で励ましあい、助け合っています。

2016年11月4日金曜日

痛くても、生きれば、いいことも、あるさ。エーィ、入賞

「登明」の印鑑が押してあるから、2年前に、長崎の聖コルベ館に居た頃に書いたものです。あの頃から、痛(イターイッ)ところがあったんですね。ガンにも罹ったし、病院に入院したり、尿が出なくなったり、いろいろ有りました。
★「それでも、生きる」。やっぱり生きている。けど・・・、痛みは別の場所にあります。昔は、歳をとった老人は、ノンキで、いいなと思っていたが、88にもなると、いや、いや、カラダのあち、こちが、痛いです。「生きているから、それでも生きる」
★いま、聖コルベ館に、多くの修学旅行生たちが見学にきている。以前は、わたしが彼らを迎えて、教会で、お話をして、案内のお世話をしていた。気持ちが、ムラ、ムラと、湧いてきたよ。今年、一回だけ、修学旅行生への語り部を勤めたい。「まだ、やれるぞと、自信を持ちたい」。そんな気になって、担当の松下修道士さんへ携帯をかけてみました。
★月に一度、ホームに書道の先生が来て、書き方の練習をさせてもらっている。わたしは書道は、習った体験がない。自我流です。書くのは好きだから、のびのびと書かせてもらっている。先生が言った。「町の文化祭があるから、書道の作品を出しましょう」。いつ書いた字か知りませんけど、町の文化協会から、「優秀と認められ、入賞しました。下記により、日曜日に表彰式を行ないます」と、ハガキが届いた。あした、ホームから文化祭の見学に行くそうです。先生が、どの字を出されたのか、見に行ってきます。

2016年11月3日木曜日

聖母の騎士のルルドのお水。マリアさまのお恵みがある

長崎の聖母の騎士の「ルルドのお水」です。修道院の炊事場の所まで、お水を引いてきました。ロザリオ祭りに行ったときに写しました。
★聖母の騎士のルルドへ登るには、ロザリオの玄義がある坂道を登るでしょう。急な坂道です。最近は、お年寄りが増えて、坂道を登るのが大変になりました。コルベ神父さまが創ったルルドですから、大切にしています。お参りすると、お水を飲みます。でも、ポリタンクにお水を入れて、持ち帰るのは困難な作業です。それでも、お水を汲みに、長崎市内から、近郊から、他県からも、毎月のように来る人がいます。特に湯江修道院では、愛飲しています。
★お水は、これまで、どんな渇水期でも、枯れることなく、流れつづけています。水質検査をすると、純粋の水なので、汚れることもない。喜んで、汲みに来ています。ホームでも、ルルドのお水しか飲まないという人もいます。
★炊事場の所まで、お水を引いて来ましたから、車で乗り付けて、お水を沢山汲んで、運ぶことも出来るようになりました。
★長崎へ来て、聖母の騎士のルルドのお水を思い出したら、車で、汲みに着て下さい。ルルドの聖母マリアさまのお恵みがあります。コルベ神父さまの取次ぎを願いながら、いただきましょう。
★きょう、長崎から、白浜さんが来て、「あれ、きょうは?」「お休みです」。文化の日でした。ルルドのお水を、小さいペットポトルに、10本持ってきた。

2016年11月2日水曜日

死者の日。ホームの故人のため祈りました。安らかに

ホームの隣の修道院の庭から見下ろした、ホームで亡くなった人たちの、故人、故人のお墓です。左側にも、十字架はつながっています。
★きょうは、教会では、死者のために祈る日です。午前中、ホームの人たちは、教会に集って、この一年、ホームで亡くなった人たちのためにミサで祈りました。いつかは誰にでも死はやってくるのでしょう。ただ誰でも遠いことだと考えています。
★「死ぬこと」は、大仕事だと思います。
★死者のミサの前に、入浴しました。入江さんと、キリエさんと三人いっしょでした。湯から上がった入江さんと、キリエさんが、二人して背中に寄ってきて、「あれ、だれが・・・」と思ったら、キリエさんに先をこされて、入江さんは自分の洗い場へ歩を進めました。三人いっしょに着替えてから、「ありがとう。これからも、よろしく。いい湯でした」と大きな声で言って散りました。
★午後から、一人の男性が来て、トリの首が曲がったような楽器を吹いて、石原裕次郎や、「長崎は今日も雨だった」など、拍手と、歌で、皆さんは楽しみました。「ジンセイ、いろいろ」「男も、いろいろ」「オンナも、いろいろ」では、けっこう、みんなが歌っていた。生きている者には、ホームに居ても、いろいろ有るんだなと、実感します。

2016年11月1日火曜日

諸聖人の祭日。聖人たちに、つながって、倣い、祈る

湯江教会の祭壇の生け花です。
★教会では、きょうは、ミサ、教会の祈りで、「諸聖人の祭日」をお祝いしました。しかし残念、歌ミサでは、なかった。
★教会には、知られざる沢山の聖人が居られますが、それらの聖人たちを一緒に、きょう、お祝いします。
★ミサの本の解説には、4世紀から、殉教者を、また、7,8世紀から諸聖人のお祝がなされていた、とあった。諸聖人に対する信心は、中世期、日本でも広まっていました。
★長崎の聖母の騎士を下った近くに、春徳寺(しゅん・とく・じ)があります。もともと、ここは、「トードス・オス・サントス」と呼ばれていた著名な諸聖人の教会でした。1569年に創られ、1614年の迫害まで栄えていました。コレジオ、セミナリオがあった。高山右近は、ここに寄って、マニラへ渡った。
★長崎では、この祭日を特別な気持ちで迎えます。ホームの信徒たちも、昨日は、告白をして心の準備をしました。
★女性たちの中から、こんな声も聞こえていた。「歌も、うたわん、さびしかね。忘れられん、五島に居たときが・・・ざまな、こと、歌いよったよ」「まえは、ホームでも、ゲンキな人が多かったけん、歌いよったよ」。それは、根付いた信心の嘆きの声でした。
★お祝いの意味で、昼食は、五目散らし寿司、てんぷら、すまし汁、みかん、があった。お年寄りたちは、散らし寿司を喜んで食べていました。
★昼食の後、入江さんと、大曾神父さまのお部屋へ行った。ベッドに休んでおられた。お元気にしておられます。「どう、入江さん、サカナ、釣れた?」「こんげん、おおきな、タイの、釣れました」