2016年5月31日火曜日

うどん屋の今井君は、修練者として頑張っています

長崎の聖コルベ館を訪ねたら、写真を撮る場所が幾つか有ります。その1つが、玄関を入ったところにある「聖コルベの大きな額」と、聖コルベの木彫像です。「今井君、どう?」「ハイ、ゲンキでやっとります」。頼もしい若者です。皆さんも彼の将来のために祈ってください。
★今井君の隣にいる青色の洋服を着た人は、ホームの入江さんです。2人の写真を、わたしが撮りました。このように、ここで、この場所で、沢山の訪問者を撮ったものでした。なつかしいです。
★聖コルベ館を訪れたことがある人は、思い出すでしょう。コルベ神父は皆さんを待っている。「けがれなき聖母・愛と平和」「愛の花びらは、いつまでも枯れない」

2016年5月30日月曜日

聖コルベが呼んでいる。祈りなさい。心が安らぎます

ルルド祭りに参加したついでに、聖コルベ館を訪ねた。全然、変わっていない。自分がそこに今も勤めている感じがした。24年間も居た思いは、簡単に断ち切れない。展示物も、そのままでした。巡礼者、来館者が来ると、「いらっしゃい」と呼びかけたくなる。
★どうして自分は、ここに居れないのだろう、と考える。アタマと、クチだけは達者だが、身体的に色々と理由があった。それを説明する気には、今はなれない。
★中に入った。聖コルベの居室がある。内部の展示物も懐かしい。1つ、1つの展示物に、いわれがある。ここに置いている理由もある。女性が、1人、声をかけてきた。「まさか・・・小崎サンですか?」「ハイ、そうです」「え、えッ、お会いできてうれしい」と喜んでくれる。2年前の気持ちが、つながった。
★足腰が痛くなってもいいから、車椅子でもいいから、「やっぱり、ここに居りたい」。強い気持ちが湧いてくるのだった。
★ある若者が言った。「コルベ神父が呼んでいる・・・」。わたしが聞いた。「呼んでいるとは、どういうこと?」。すると若者は言った。「コルベ神父に祈りたい。コルベ館に入って、コルベの居室で祈った。こころが、安らぐんですよ」

2016年5月29日日曜日

長崎・聖母の騎士のルルド祭りに参加し、祈った日

長崎・聖母の騎士の恒例の、5月はルルド祭り。10月はロザリオ祭り。名前は違うが、信心の内容はいっしょ。雨のなか、ホームからも10数人が祈りに参加した。
★最初に、教会のなかでミサが行なわれた。(以前は、ルルドでミサがあった)。その後、祭壇に向かって左側に、聖母マリアのご像が安置されて、ロザリオの祈りが捧げられた。
★きょうのルルド祭りは、参加者が多かった。特に、市内の教会の子ども会や、シスターを目指す若い女学生たち、司祭をめざす神学生たちの集まりの姿が見られた。希望があふれる喜びです。
★きょうは聖体の祭日で、ご聖体を特にお祝いする日なのに、参加者が多くて、予定をしていたご聖体(ホスチア)が足りず、イエスはパンを増やす奇跡を行なったが、拝領の行列では中ほどから司祭はホスチアを小さく、小さく割って、皆さんに拝領させたのだった。
★お説教の中で、マリアさまへの信心、特にロザリオを唱えるようにお勧めがあった。長崎の信徒向けの話にピッタリの内容に大きな満足感を覚えた。
★お祈りしても、信心しても、困難や苦しみは生活のなかで起こる。マリアさまの生涯を見なさい。どれほど大きな苦難に満ちた生活だったか。しかも愛する一人子が十字架の磔になった。これ以上の苦難、悲しみがあっただろうか。信仰とは、そのなかにあっても、「みむねのままに」「成れかし」と、神の愛に信頼して全く委ねることです。心に幸せを感じる一日だった。
★なつかしい聖コルベ館で、昼食の弁当を食べた。特別に、修道院から、参加者に、「五島うどん」の差し入れがあった。五島から、信徒が来て、作ってくれた味のよい「うどん」だった。
★修道服を着て、教会や、坂道や、聖コルベ館に入ると、「ああ、このまま、ここで生活したい」と強く望みが起こった。胸が燃えるような想いだった。やっぱり、心は、残っている。

2016年5月28日土曜日

被爆の日記を読みながら、核兵器廃絶を叫びます

「オバマ米大統領・広島訪問」。今朝の新聞の一面に、大きな字が躍っている。それと並んで、「被爆者と対話」という字もあった。「被爆者」が一面に、デカッと、取り上げられる日だった。
★被爆者も老いて、姿を見るのも少なくなった。わたしは、17歳。当時から、メモするのが好きだったのか、原爆の日から日記を書いている。4日目に、隣の家族の、6歳の女の子が死に、次に、3歳の女の子が死に、13歳の男の子が死に、58歳で、祖父が死んでいる。日記を見て、当時を思い、「あまりにも悲惨だった、な」の感慨しかない。
★長崎の原爆資料館で、小・中・高の若者たちに、「原爆の体験」を、10年ほど続けたことがあったが、本当に、「原爆の怖さ、恐ろしさ、酷さ」が伝わっただろうか、と今、思う。
★被爆者も老いて、ますます居なくなる。「爆風、高熱、放射能」。原爆中心地から、2・3Kmのトンネル工場で被爆したが、すぐ爆心地から、500mの家まで帰った。歩いて、30分。そのときは、5時間かかった。17歳の年齢だから、現実をよく覚えている。トンネルから出た瞬間が最もおどろいた。入る前は、緑の山、田畑、家々があったのに、出て見ると、全く風景が変わっていた。燃える山に、家々。死傷者たち。破壊と、火と、煙のなかを恐怖で、歩いた。
★「二度と、こういう風景を作ってはならぬ。核の廃絶は人類の叫びだ」

2016年5月27日金曜日

住みやすいお家になるよう願います。協力して・・・

「絵てがみ」を描く日。きょうは何を描きますか?いつも課題に悩みます。先生が持参された、これ、なんですか?
★ホタル・ブクロといいます。ホタルって、夜、光る虫のことですね。ホタル・ブクロは、ホタルのお家って、イメージが湧きません。
★そういえば、ボクのお家は、ここ、ホームですね。住みやすいお家になるよう願っています。
★きょうは、昼食のとき、ちょっとしたトラブルがありました。食事を告げるアナウンスがあって、食堂の扉が開きます。車椅子の人が、6、7人並んでいる。その人がまず優先です。それから押し車の人、普通に歩ける人が入る。車椅子を押してあげるのは、慣れないと、押し加減が、むずかしいですね。
★列の最後頃になったので、ボクが車椅子の人を好意的に押してあげた。用心して、前をよく見て押します。上手に押さないと、前の人に当たるんですね。でも、やっちゃった。前の人の足に、車椅子が接触した。「ああ、痛ータ」といいますよ。「ごめんなさい」
★人を傷つけることは、大変な落ち度です。特にお年寄りの足や腕、肩は弱くなっている。少しの接触でも気にかかることです。「痛みますか。大丈夫ですか」。一応、職員さんと、看護師さんに伝えました。好意的に、車椅子を押してあげるときは、細心の注意が必要です。キモに銘じたきょうでした。

2016年5月26日木曜日

アンネのバラは今年も咲いた。戦争を無くす花です

食堂の、三度の食事をする、すぐ足元近くの、ガラス戸の屋外に、今年も、「アンネのバラ」が咲きました。やっぱり、きれいだな、と思いますよ。デジカメを自室まで取りに行きました。写して、おきたいと、心が惹かれます。色が、魅力的ですね。
★アタマの髪が伸びてきたので、理髪屋さんへ出かけた。2ヶ月に、1度はホームに来てくれるのだが、何やら、髪を切りたく思う。ホームの坂道をくだった、近場にあるのだが、歩いては行けない。タクシーを呼びました。この辺のタクシー料金は、510円です。もちろん、ワン・メーターで行きます。
★理髪屋さんは、すでに顔見知りです。1時間以上、かけて、ていねいに散髪してくれた。カットされながら、オバマ大統領の広島行きの話が出た。アメリカ人たちは、「戦争を早く終わらせるため」と「本土決戦になれば多くの死者が双方に出るから」と、原爆を正当化している。被爆者から言わせれば、「原爆の恐怖を体験すれば、人道的に、絶対に使うべきではない。無差別殺人だ」「しかし、一方では、それが戦争だ、とも言える。戦争したからには、勝たねば成らぬ。敵なら、殺しても、いい。それが恐ろしい」「原爆を作ったからには、どれほどの威力があるのか、試してみたい。そう思うのが人間だ」。とにかく、戦争、原爆は無くするべきだ。アタマを刈ってもらいながら、アタマで考えた。
★「アンネのバラは、何を語るだろうか」

2016年5月25日水曜日

朝の日の出。きょうも、1日、恵みのなかで、はじまる

同じ、自室に居ても、朝の感覚と、昼からの感じと、また夕食後、「教会の祈り」を唱えて、寝るまで、ホットする時間の気持ちは、各々違うのを感じます。
★朝、5時に起きて、身なりを整えて、5時25分には自室を出る。歩いて、100歩強、湯江教会です。5時40分から、修道者、信徒、共同で、「教会の祈り」の朝の祈りを唱える。幸せを感じるときです。6時に、集落全体に、チャイムがなりひびく。それと同時に、ミサが始まります。30人弱が参加する。
★6時40分、自室に戻る。ガラス戸をあけると、この光景です。「ああ、生きているな。ありがたいな」。そんな気持ちで、空に魅せられます。きょうも、始まる。ホームでも、いろいろ有ります。午前中、入浴しました。体力が変わらないのが、幸いです。
★三度の食事をいただいて、完食しています。食事に出る「たまご焼き」。これが、ウマイ。たしかに、ウマイ。栄養師さんに、「ウマイ、ね」と言ったら、「ダシを、カツオから、とっている」
★テレビで、「人生の終わり方」というのがあった。それを見ながら、メモしました。「いまは、『気力』。あとで、『安心』。これでクイは、ありません」

2016年5月24日火曜日

天草から来た旧友との出会い、語らい。幸せに

ホームに居ても、ひとり、ポツンとしているわけではありません。周りの人、職員さんと会話したり、入居者と話したり、結構、語り合っていますが、外部の人と話すのは、めったにないことです。そう、そう、訪問者は、あまり居ないのです。
★めずらしく、天草から、幸男さん夫妻が訪ねてきた。戦争が終わった頃に、長崎・聖母の騎士神学校で出会った彼だった。彼から、ラテン語の聖歌を習った思い出がある。音楽に長けていた。去年も、来たことがある。これで、2度目。ただ今度の訪問は少し違っていた。
★ホームの入江さんと同級生。大曾神父さまとも同級生。お互いに懐かしく、入江さんとは、「80年ぶり、だからね」と、笑い合った。ダレ、ソレ、知っているか。思い出そうとする。彼は、神学校から、海軍の予科練に志願して、終戦を迎えて、また神学校に戻ってきた。入江さんは陸軍・関東軍で、満州に行ったという。2人は数年後、同じように、社会で働くようになった。思わぬ出会いに、天草の幸男さんは喜んでいた。「アンタたちも、ホームに入れよ」
★入江さんは、天草の沖までサカナ釣りに行っているよ、と言いながら、懐かしく、旧友を眺めていた。ただ、2人とも、耳が遠くなった。大きな声を出さねば、当時は語れない。80年の歳月は、やっぱり長いな。
★幸男さんが、スタ、スタ・・・歩いているのに、達者やなあ、と思った。人間は、歩けるのが一番だ。おみやげに、長崎のカステラを幾つも抱えて持ってきた。カステラは、やっぱり、うまい。

2016年5月23日月曜日

ホームの庭のマリア像の前で、聖母マリア賛美の日

5月は、聖母マリアの賛美の月です。三位一体の主日。日曜日に、ホームの庭で、ミサが行なわれた。後ろの木の真ん中に、白いマリア像があります。足元から、泉も流れている。
★ミサを司式した司祭の話を聞いたとき、次のように思った。「私たちは、日に、何回となく、十字架の印し、『父と子と聖霊の御名によりて、アーメン』と、唱えて、行なっている。簡単な祈りだが、これはキリスト教の信仰の核心を成している。習慣的に、行なうのでなく、もっと、心して、大切に、その印しをしよう」。十字架の印しに始まって、この印しで終わる。
★長崎の家族では、母親が、赤ん坊に、お乳を与えるときには、必ず、母親は赤ん坊の手をとって、「父と子と・・・・アーメン」と言いながら、十字架の印しをしてから、飲ませるのだった。こういう行いから、信仰が子どもに継承されていた。
★マリアと言えば、お母さん。神の御母。コルベ神父は自分の全存在、働き、身も心も、すべて、けがれなき聖母マリアに奉献して、「マリアを通して、イエスへ」の信念を貫き通したのであった。

2016年5月22日日曜日

トマトの贈り物が、シスターの命日を教えてくれた

昨日の、トマトの話のつづきです。ごらんのような、1枚の写真が見つかりました。2年前の4月に、山のシスター修道院へ出かけて行ったとき、庭で写した写真です。(ちなみに、後方のレリーフは、聖コルベがナチの所長から、迫害を受けている場面です)
★実を言えば、昨日のトマトは、写真の中央のシスターが大村出身で、実家で作ったトマトを戴いたのでした。この写真のときも、トマトを貰ったので、お礼に伺ったときに、写したと思います。
★左側に、手にサンソを持ったシスターが立っている。このシスターは、呼吸器の病気で苦しんでおられた。
★この2人のシスターとは、50年来の知り合いで、特に、若い頃、福祉のため、ご苦労なさった思い出など、記憶に深く残っています。
★ところで、2年も経てば、高齢者にとっては、大きな変化がありますね。わたしはホームに入ったし、トマトのシスターはお元気ですが、昨日、ホームに、トマトを持って来てくれたシスター(ホームに用件があって、言付かって持参した)によれば、「今日が、シスター(サンソを持っていた)の命日ですよ。2年になる」と教えられた。それを聞いて、「え?そうなの}と、改めて胸が痛んだ。
★2年前、トマトのお礼で訪ねた写真に、偶然、いっしょに写っていたサンソを持ったシスター。すばらしい文才、才能があり、わたしの書き物のよき理解者でもあった。応援もしてくれていた。昨日、ホームに来たシスターから命日を告げられて、この写真の場面を思い出し、今日、トマトを貰った日が、サンソのシスターの命日だったとは・・・・。あの写真の、1ヶ月後ぐらいに神に召された。
★この写真は、トマトを思い出すと共に、シスターの命日を知り、安息を祈る日にも、なった。

2016年5月21日土曜日

「トマさんに、トマトを」。この季節、おいしいトマト戴く

「トマさんに、トマトを」と、山のシスター修道院から、新鮮な、本当に、「これが、トマトだ」という味がするトマトが届いた。このトマトを見ると、うれしくなる。
★シスターも、「おいしいと、よろこんで、くれるから」と、この季節になると、気にしてくれるのです。
★これは、シスターの実家、長崎県の大村で作ったトマトで、とにかく、おいしいのです。このトマトには、子どもの頃に食べていた本物のトマトの味がして、食べると「ああ、うまい」と、うれしくなるのです。シスターにも感謝の言葉を告げました。
★年毎に、こうして届けてくれていたが、今年も、おいしいトマトにありつきました。トマトは、事務長さんを通して、調理室の栄養師さんのところへ渡しました。
★栄養師さんが、ロザリオの後、冷えたトマトを切って、小皿に盛って、自室に届けてくれたので、食べました。ありがとう。

2016年5月20日金曜日

「は、な、ちゃん。来ました」。育児休暇の職員さんの喜び

午後、ロザリオが終わった後、事務室の前で、喜びの声があがっていた。赤ちゃんを抱いた職員さん。昨年の5月に、湯江カトリック教会で結婚式をあげて、赤ちゃんが生まれた。いま、育児休暇に入っている。ひさしぶりに赤ちゃんをつれて、ホームに来た。
★「トマさんの日記を読んでいます。中島神父さまがお亡くなりになったのを知りました」。そういわれると、嬉しいです。
★赤ちゃん、かわいい。「男の子?女の子?」「女の子」「名前は?」「はな、です」「え?どんな字を書くの?」「ひらがなで、は、な、です」「なんで、そんな名前をつけたの?」「花のように・・・」。花のように、心も、外見も美しく、育ってほしい、その願いでしょう。
★「いつ、生まれたの?」「3月2日、ひな祭りの前日です」。1ヶ月半になる。聞いたわけではないのだが、お母さんの歳、37歳が、耳に聞こえた。ごめんね、歳を書いてしまって。「結婚式は、いつ、だったけ?」と思い出した。「去年の5月9日でした」。日記を見ると、去年の5月12日に、「ホームの職員さん、ご結婚おめでとう。皆で祝福」と載せていた。新婚・家庭の幸せと、はなちゃんの健やかな育ちを、みんなで願い、お祈りした。

2016年5月19日木曜日

ピオ中島優神父さまの葬儀に、祈る。寂しさを感じた

ピオ中島優神父さまの葬儀・告別式に参列し、神の国への安息を祈った。
★ホームから、10人乗りの車が出る。事務長さんが運転で、職員さんの代表や、看護師さん、信徒の皆さんが、長崎・聖母の騎士へ向かった。久しぶりの聖コルベ館の庭に、車を駐車した。
★崎浜管区長神父さまの司式で、追悼ミサが行なわれる。
★中島神父さまは、この教会の主任司祭や幼稚園長も勤めた事がある。配られた遺影のカードには、「物静かで、よく祈り、様ざまな人を優しく包み込むような司祭であった」と記されていた。
★同じホームに生活していた者として、神父さまの葬儀に祈ることが出来たのは、疲れはあったが、ほんとうに善かったと思った。やはり帰りの車では、胸イッパイに、寂しさを感じた。
★司祭が、生涯、この大切なお勤めを果たし終わるには、それこそ大変な仕業である。弱さに打ち勝つよう、神のおん助け、おん力が必要であろう。「神に約束を守ることが、一番大切」との声も聞かれた。

2016年5月18日水曜日

ピオ中島神父さまの手は切っても切れない、ご縁

去年の3月末、サクラの木の下で、ピオ中島優神父さまと撮った写真を見つけました。お元気だったのに、もうアクシュも出来ず、本当に寂しいです。昨日、中島神父さまの訃報を載せたところ、多くの追悼のコメントをいただき、お祈りくださって、胸が熱くなります。
★きょうは午前中は、長崎市のヨゼフ・クリニックへ定期の診察へ出かけました。長崎までは遠いです。疲れて帰りました。午後から、ホームの皆さんと、職員さんとの懇談会があって、6月の予定が知らされました。
★その後、3時に、ピオ中島優神父さまのご遺体とのお別れがありました。皆さんは玄関へ集って、霊柩車が来て、ご遺体を長崎・聖母の騎士修道院へお見送りしました。今夜は、修道院でお通夜が行なわれ、明日、11時から追悼のミサ・告別式があります。
★ピオ中島神父さまは、五島の水の浦の出身です。1人息子を神さまに捧げて、ご両親は、海の傍の家で、漁と、牛を使っての農業に励んでおられた。終戦直後の話です。原爆で、家と母を失った私は、小神(中学・高校)の頃、毎年、夏休みは、中島神父さまの両親のお家で過ごしていた。終戦直後だから、食料事情も貧しく、着いた日と、帰る日だけが、米のめしだった。父親から、よくサカナ釣りにつれて行ってもらった。
★その後、ご両親は牛をつれて、自分たちも神さまに捧げると言って、長崎の山の施設に入り、子どもたちのために農業をしておられた。最後は、ご両親は、このホームで暮らしました。わたしにとっては、長年のご縁、思い出がある神父さまと、ご両親「ジンジ、バンバ」でした。

2016年5月17日火曜日

突然、中島神父さまが、神に召される。呆然としている

ピオ中島優(まさる)神父さま。87歳。4月30日に写した写真です。お元気でした。5月14日、土曜日、礼拝の日のミサにも祈りました。3日前です。
★今朝、中島神父さまは、神に召されました。いま、午後3時から、小聖堂にご遺体が安置され、ホームの家族、みんなでお別れの集いをしました。中島神父さまは、ロザリオの祈りが好きで、毎日、午後の共同のロザリオに参加されていた。それで、山内園長神父さまの意向で、ロザリオを中心にお別れの会を行ないました。
★終わって、自室に戻って、だた、呆然としております。最近、中島神父さまのことも、時々、日記に載せていました。散歩のときに、ワンちゃんと話した写真も載せた。
★お棺のなかで眠るようなお姿の中島神父さま。修道服と、司祭の祭服でおおわれていました。司祭生活、60年が過ぎた。おつかれさまでした。
★湯江修道院に、司祭が、3人。ホームに、司祭が、3人おられたのに、ホームの司祭が居なくなった。さびしいです。中島神父さまのホームの生活は、7年でした。
★ピオ中島優神父さまのために、安息をお祈りください。

2016年5月16日月曜日

湯江教会で、ツーショット。おみやげは、ルルドのお水

修道者であるが、今の環境から、こんなに、2人揃って、修道服で、ツーショットで、写真を撮ることなんて、そんなに無いでしょう。しかも右側は、管区長の崎浜神父さまです。修道服も着る機会が少なくなったが、こうして管区長さまと撮れるのは、幸いでしょう。礼拝の日に、湯江カトリック教会にミサに来られたときに撮りました。
★前々から度々書いていることですが、修道者は修道院にあって、共同生活を行なって、共に祈り、食べ、語らい、笑い、憩うのが、一番の幸せでしょう。それでこそ、修道者です。
★だが、今は、からだの都合で、ホームに入って、一人で、孤独で、生活するのは、寂しいことです。修道会から忘れられるのでないか、憂いもあります。しかし、こうして管区長さまが来てくださり、いっしょに写真を撮る機会もあるのは、ほんとうに嬉しい出来事です。
★これまでも時々、来てくださっていますが、いつも、おみやげは「長崎・聖母の騎士のルルドのお水」です。この日も、いただきました。コルベ神父さまが開いたルルドですから、管区長さまも特別の信心を持っておられるのです。ルルドで祈っているのを知っています。ルルドで、いろんな出会いもあると聞いています。
★管区長さま、ルルドのお水はありがとう。お忙しいところを来てくださって感謝します。ご健康に気をつけて、がんばってください。

2016年5月15日日曜日

小崎サン、あなたの記事を読んでいます、と男性が

楽しそうな男性が、自室に訪ねてきた。奄美大島(鹿児島県)から、西山神父さまに同行して、来ました。「小崎サンの記事を楽しみに読んでいた者ですよ。ああ、会えて、うれしい」と、ほんとうに、からだイッパイで、喜びを表現してくれた。こっちも、嬉しくなるよ。
★奄美大島にも、昭和9年から、昭和22年まで、13年間、教会に迫害があって、苦労しました。外国人の神父さまたちは、栃木、埼玉、茨城で宣教しました、と彼。
★わたしが初めて奄美大島を訪ねたのは、昭和40年(1965年)12月だった。名瀬で、新・教会の落成式があった。祭壇は、大理石で、キリストの十字架の道行像が彫られていた。アメリカ・ワシントンのセント・マテオ教会から贈られたもので、故・ケネディの遺体を安置した歴史的ないわれがある祭壇で、アメリカの軍艦でここまで運ばれた、と聞いた。
★当時、島には、19人の司祭・修道士が活躍していたが、町に出るとき、外出のときも、修道服を脱ぐことなく、島に溶け込んでいた。
★作家の島尾敏雄先生や、医師の大西基四夫先生にお会いした。
★訪ねてくれた男性とは、そういう思い出を語った。

2016年5月14日土曜日

礼拝の日。西山神父さまの入所。いっしょに祈る

毎月、1度。礼拝の日がある。希望者は、教会に集って、ミサを祈る。数日前に入所された西山達也神父さまも、教会へ来られた。きょうの礼拝の日には、大曾神父さま、中島神父さま、西山神父さま、村山修道士、それに小崎修道士、高原修道士さんたちが、共に祈った。これまでと違う気持ちであった。
★西山神父さまといえば、ローマに長年、滞在し、特記する出来事といえば、パパさま、聖ヨハネ・パウロ2世教皇さまと深いつながりがある。
★パパさまが日本へ来られたとき、パパさまに日本語を教えたり、巡礼旅行におそばで同行して、私たちに深い印象を与えた。その後も、ローマにあって、帰国までの13年間、毎週水曜日の、パパさまの一般謁見のための日本語スピーチの作成と指導を任される。イタリア、ローマに巡礼に来る日本人の団体、個人の案内や、教皇さまとの謁見のお世話など、されていた。
★特別なお恵みを受けて、活躍された西山神父さまですが、ホーム「聖フランシスコ園」で、静養されています。お元気です。鹿児島県の奄美大島修道院から、入居されました。
★右側の絵は、西山達也神父さまの著書、「田舎っぺ神父のローマ見聞記」の裏表紙に載っている絵です。

2016年5月13日金曜日

窓をあければ、すてきな景色のなかで生活している

狭い空間です。自室で、パソコンのすぐ横のガラス戸をあけると、こんな風景が見えます。手前は、ホームの地所で、マリア像が立っていますが、白いバラの花がきれいで、もう散り始めているので写しました。小学校があり、人家が広がる。天候が雨模様なので、遠くの方に、有明海も雲仙岳も見えません。初めて訪れた人などは、「わー、いい眺めですね」と平和な雰囲気を愛でてくれる。静かに暮らしています。
★もう仕事は、しなくて、いい。責任は、ない。過去に何をしていたのか、ここでは余り話題になりません。歩いて、教会へ行けて、お祈りをして、散歩が出来て、食欲があれば、幸せです。表面は、そうですけれど、自分が歩んできた人生は、捨て切れない。時々、手紙が届くが、ほとんど「小崎登明」です。やっぱり、この名は捨て切れない。
★変えられません。修道士の身分と、88歳の年齢。そのワクの中で、生きる。いま、自分に一番必要なのは、「気力」です。やる気です。

2016年5月12日木曜日

ここの「ウナギ」は、おいしく食べられる。おすすめ

ほんとう言えば、「うなぎ」は、あんまり、好きじゃない。食べるのは、食べるが、おいしいとは思わない。食通じゃないんですね。
★しかし、ここの「うなぎ」だけは、なぜか、抵抗なく、「スーッ」と、おいしく、「ああ、これがウナギか」と思うほどに、入っていく。うまいです。特上、4.200円を払っても、食べたいなァと思います。おいしいね、と、よろこんで食べる。諫早(いさはや)のウナギ屋・福田屋さんといいます。写真の手前の箸ふくろにも、名前が見えるでしょう。
★ここは室内が黒塗りの江戸風の店で、「うなぎ」しか料理はない。諫早へ来ることがあったら、寄っていらっしゃい。ウナギを焼いて、タレをつけて、また焼いて、またタレをつけて焼いて、熱いウツワに、タレが満ちているんです。「タレをご飯にかけてください」と、小サジを出される。
★ただ、この店の場所が、車で行くと、わかりにくい。本通りから、横道に入って、曲がって、細い道を、また曲がって、やっと着くのが店の裏側。駐車場がある。ここへ行くのは地元の人でないと、わかりにくい。裏から入ると、ごらんの水ためがあった。ウナギと関係はないけれど、風情を思わせる。江戸時代、サムライたちが、カタナを小脇にかかえて、ここを通ったかも知れない。諫早は、小さな藩で、佐賀藩の家老でもあった。本明川(ほん・みょう・がわ)が流れていて、ウナギが捕れていた。

2016年5月11日水曜日

たまに釣ったサカナを見ると、日々の刺激になる

水曜日は、入浴の日です。男性組は、午前中に風呂に入る。きょうは、入江さんは居なかった。だから別の男性と入りました。
★入江さんは、隣の修道院の浜田神父さんと共に、早朝に起きて、天草灘にサカナ釣りに出かけた。
★午後2時頃、入江さんと、浜田神父さんが戻ってきた。大きな鯛が釣れました。左側が、入江さん。満足そうな表情。右側にいるのは、岩田事務長さん。本当はきょう、いっしょに行くはずでした。仕事の都合で行けない。でも釣り仲間です。他に、「アラカブ」が、何十匹いるかね。この他にも、ビニールに入ったアラカブもあった。これだけ釣れれば嬉しいよ、ね。
★92歳で、早朝に起きて、漁船に乗って、サカナ釣りに行くのだから、その元気さに、降参だね。いま、自室を「トン、トン」とノックして、入江さんが戸をあけた。「サシミ、料理するから、食べに来んね」「ああ、わかったよ。ありがとう」

2016年5月10日火曜日

踊りの会の皆さんが、慰問に来られる。楽しい日

もう、20年来、毎年、この頃になると、踊りの会の皆さんが、慰問に来られる。ツバキの付いたオビや、着物の美しさ、老いても踊る女性に、目が引かれた。楽しいひと時を過ごした。
★この人たちにも、ダンナさんや子どもや孫さんも居るのだろう。そこには家族がある。家族の愛がある。一方、自分たちは・・・と考えると、いろんな事情はあれ、やはり、「孤独」であるのを感じた。慰めてくれる。ハクシュを送った。
★朝から、雨が降っている。天候の厳しい中、皆さんには、お出でくださる。心が温まるのを覚えた。むずかしいことは考えまい。素直になろう。

2016年5月9日月曜日

マリアさまの「ルルド」。静寂な山に、ひっそりと・・・

ホームから車で、更に、山の方に向かって15分ほど走ったところに、養護施設がある。戦争が終わって、すぐに出来た子どもの施設で、歴史は長い。施設内に、私立の小・中学校もあった。男子の修道院もあり、1人の修道士さんが、ほとんど単独で、ブルトーザーを運転・操作して、石を積み重ね、「ルルド」を造った。
★ひさしぶりに、その「ルルド」を訪ねた。30年は経過したか、緑の木々にかこまれ、静寂で、祈りの雰囲気に適する環境になっていた。通路も作られ、小さな池に、竹筒から清流が落ちていた。
★時代は流れ、人は変わる。ルルド造りに専念した修道士さんは、別の場所で、静養されている。
★ルルドの入口に、石碑があり、「愛 希望 信仰」と記されていた。これは、一時期、この養護施設や私立の学校で活躍した「ペトロ石橋孟(いしばし・たけし)修道士」さんの、92歳のときの字であった。この字の後、亡くなった。25年になる。愛称は「ぺェーさん」。子ども、おとな、誰からも慕われていた。この山の施設・学校・修道院と、ペトロ石橋孟先生の思い出は尽きない。
★施設の小さな子が、泣きながら、ペトロ先生に寄ってきた。「アイツが、オレに、『ぱーァ』、『パーァ』と、イジメルと、ばい」「おまえは、パーか。オレは、ペー、ぞ。パ、ピ、プ、ぺ、ポ・・・・と、パーァが、ペーェより、上やっか」「そう、ね」と泣く子も黙らせる慈愛に満ちたペェーさんだった。
★この施設で育ち、学校を卒業した子どもたちは、幸福に暮らしているだろうか。沢山の思い出がある、山も、庭も、建物も、教会も、静まり返っていた。

2016年5月8日日曜日

遠い人になった母を想う。若い母は、いつも微笑む

「お母さん、ありがとう」。母の日。誰にでも、お母さん居るは。ホームに入って、90歳になろうが、100歳近くなろうが、誰にでも、母の思い出はある。ホームでも、母の日のお祝いがなされた。
★入居者の割合は、女性が多いです。その人たちが、お母さんか、ホームで働く女性職員さんが、お母さんか。とにかく、男子職員さんが、昼食時に、ごらんの通り、舞台にあがって、「海援隊」の「母にささげるバラード」をアレンジして、歌いました。
★「ふるさとは、なくなった。ひとつ、残っている。ふるさとは、お母さん」「おふくろが、人生を、教えてくれた」「こら、なんば、しよっと、か。この子は」「神さまに、祈りば、わすれるな」「ジンセイ、まっとうに歩くんだ」。ありがたい教えばかりです。
★男性職員さんも、やる、じゃん。この職員さんたちが役者です。歌の後は、ホームの女性・皆さん各人に、長いセロハンで巻いたカーネーションが贈られた。
★きょう、母の日の昼食のメニューは、筍と蕗のちらし寿司、かつおのたたき、シメジの茶わん蒸し、ヤクルトでした。
★わたしの母は、45歳で、原爆で行方不明になった。悲しいよ。すでに遠い人になったが、いつでも若くほほ笑む、篤信の母だった。信仰をもらったのは、お母さんからです。

2016年5月7日土曜日

5月の誕生会。カニさん、エビさん、オドリまくる

月の楽しみは、誕生会ですね。職員さんの趣向を凝らした出し物が、今月は何だろうと、期待されています。よく考えるよ。これも入居者たちを喜ばせようとの気持ちからです。職員さんたちも楽しくやっていますよ。5月は、3人の誕生日がある。
★長く生きるのは、腰の痛みや、足の痛みもあるし、大変だけれども、歳を重ねるのは、おめでたい事です。
★誕生会は、昼食がお祝いです。皆さんが、食堂に集まります。今日の昼食のメニューは、赤飯、お刺身、柔らかポークソテー、玉ねぎのまるごと蒸し、春野菜の炒め煮、みかん、地元産のお菓子、リンゴ・ジュースでした。玉ねぎが、おいしかったね。
★明日の日曜日は、母の日です。女性の入居者たちは、皆さん「お母さん」だから、そのお祝いも誕生会と一緒にあったが、それは明日、載せます。お楽しみに。

2016年5月6日金曜日

北海道の親友、神に召される。お悔やみ申します

ヨゼフ小松隆二さん。享年、87。今朝、神に召されたとのお知らせが、ご家族からあった。
★隆二さんから、1枚の絵ハガキが届いたのは、4月18日だった。「天国で会いましょう」。あの絵ハガキが届いた夜、長崎から電話をして、隆二さんと親しくお話が出来た。「腹部に病気が見つかった。手術も、クスリも使わない。いっさい自然にお任せする。痛みが全く無いのが、幸いです」。彼との出会いは、日記にも載せた。
★絵ハガキから数えて、17日目。親愛なる友、ヨゼフ隆二さんは神に召された。
★絵ハガキの翌日には、速達で、お写真も届いていた。「永年の友情に感謝しております。ご利用下されば幸甚です。写真は、平成27年7月15日、札幌・大田司教歓迎会席上、湯川教会にて」とあった。
★隆二さんの訃報に接し、心からお悔やみを申し上げます。終戦後、間もなくの、混乱した長崎で、出会い、何年かを共に過ごし、真理への道を見つけて以来、これまで親交と支えあいを共有してきました。お別れは本当に悲しく、辛く、胸が痛みます。聖母マリアの御導きによって、神の御国で、安らかに憩われますようにお祈り致しております。

2016年5月5日木曜日

シスターの墓参り。このような出会いは1度しかない

山のシスター修道院を訪ねた。50年前、この山で、一緒に顔を合わせていたシスターが、再会を喜び、からだイッパイに嬉しさを表わしながら、話に乗ってくれた。
★その頃、わたしは病んでいて、背骨が痛み、肋骨からウミが流れ出ていた。それを介抱してくれたのが、シスター・アグネス永松だった。「その頃は、ね。シスターは1人では、行動が出来なかったのよ。下にあった男子の修道院へ行くのに、シスター永松は1人では行けない。わたしが、いつも一緒に付き添いで行ったのよ」。そういって、亡くなったシスターアグネス永松を懐かしんだ。
★シスターアグネス永松のおかげで、看護で、わたしは回復し、元気になった。恩は忘れない。この微笑むシスターのことも忘れない。
★この後、シスターたちの墓地へ向かい、お花を添えて、シスターのために祈った。亡くなって48年になる。わたしは助かったが、シスターアグネス永松は、40歳の若さで、神に召された。わたしの人生で、このような出会いは、生涯に唯一度しかなかった。シスターアグネスを知っているシスターがお元気であるのを、きょうは喜んだ。
★聖書に、「お前は偉大な業をなしたから、天国へ入れ」とは書いていない。「あなたは、この最も小さい者に愛を施したから、神の国に入りなさい」とある。福祉に身をささげたシスターの生涯こそが、聖句の通りであった。(自著・十七歳の夏より)

2016年5月4日水曜日

ひさしぶり回転寿司へ。昼食どき。おいしく食べました

昼前だった。隣の修道院の浜田神父さんが、ホームに見えた。大曾神父さまの部屋へお見舞いに行くといわれる。入江さんと、わたしもご一緒した。大曾神父さんは、ベッドに横になっておられた。お元気で、おられます。
★部屋を出たとき、「昼食は、回転寿司でも食べに行こうか」と誘われた。「ひさしぶりの回転寿司だから、いいですね」。昼食を、ご一緒することにした。
★入江さんと、3人は、ホームから諫早へ。浜田神父さんの運転の車で、30分ほどかかった。店は旗がなびき、内部は、賑わっている。ごらんの通り、おいしく、いただきました。
★長崎人が食べる寿司ネタは、だいたい決まっている。店の壁に、大きくネタの名前が書き出してあった。そこから選んだ。長崎らしく、新鮮なネタで、サカナは大きく、食べやすく、満足しました。何か、チカラが湧いてくる気がします。
★1時間半ほどで、ホームへ戻ってきた。

2016年5月3日火曜日

ホームに入って、1年6ヶ月。ほぼ、落ち着いたか、な

今週の、湯江カトリック教会・祭壇の生け花です。3、4日経つので、花に幾分、変化があるでしょうか。
★ホームに入って、1年6ヶ月になります。まだ、それ位か、そう思いますよ。なーんか、もっと長い感じがする。
★これまでの修道院での共同生活から、からだの都合とはいえ、いきなりホームの一人部屋に入って、心理的に、とまどい、孤独、時間の有り余り、人にも会いたくないし、眠れない夜など、いろいろ有りました。平坦では、なかった。よく耐えて来たな、と自分でも思いますよ。
★最近になって、ホームの生活も前向きに受け入れ、時間の流れも、そうタイクツなく過ごしている。やっぱり信仰だけが頼りです。生きるチカラのモトでもある。これが無ければ、骨抜きだよ。1年半だが、いろいろな事が起こったんだなと、そう思いますよ。
★ホームは、老人ばっかしだね。すばらしい老人がいる。顔の輝きが、違うね。ああ、いう老人になりたいな、と思うよ。あこがれる老人は、シャキッとしている。リッパだね。老いて、ますます磨きが、かかる。
★一方、自分は、反省することが、ある。老いると、ツイツイ、グチも、こぼしたくなる。それだけ周りの人は、忍耐してくれて、いるんだね。わがままは、ダメだね。

2016年5月2日月曜日

空は青く、マリアさまは白く、園長神父さんはミドリ

風も心地よいし、陽のぬくもりも温かい。午後から、庭で、屋外の空気に包まれて、いいね。「ああ、空が、きれいね」と誰かが言った。「園長先生、ミドリのシャツ、持っているの?」。また誰かが言葉を添えた。「持って、いるさ。リッパだろう」。そういう意味の言葉を返した。園長神父さんがいると、明るくなる。
★写真を撮るとき、顔を写すのは、遠慮しています。顔が見れるのは、園長さんと、マリアさま、だけです。でも、皆さん、楽しそう。何だか幸せを感じます。難しいことは考えたくない。
★広い庭も、ホームの自慢です。しかし手入れが大変だよね。この場所で、50年以上、ホームの歴史を刻んでいる。
★テレビで、「老人ホームを選ぶには?」というのがあり、答えは「働いている職員が、自分の家族に勧められるか。それが一番」と言っていた。人の世の中、いろいろ有って当然だが、ここのホームは長年勤務の職員さんが多く、何とか無事につづいている。そしてお世話になっている。

2016年5月1日日曜日

五月になった。パーッと、気持ちも明るく、開ける

五月になった。さつき。マリアさまの月。ホームの入口にあるアシジの聖フランシスコ像の、向こうのお宅に、鯉のぼりが泳いでいる。手前には、ツツジも咲いている。絵になるな、と思って写真に撮った。地面から、「温かくなった、なあ」の感じが湧いて、カラダのシンに伝わる。
★温かくなる日を望んでいた。とにかく寒さに弱くなる。風邪も引いた。「ビク、ビク、だよ」。神経、使って暮らしていた。
★日記を書き出して、何年にもなるが、書いている文章もずいぶんと変わってきた。自分でも分かります。毎日、たいした出来事は書けないけれど、書くこと自体が自分のタメになる。最近は、難しいことも、書けなくなった。今日という日を生きているのが、ありがたい。それだけです。
★人は、何気なしに歩いているが、自分で歩けることが、いかに大事か、至って平凡なことを考える時に来ています。「ジョウダンじゃ、ありません」。歩けることは、本当に、ありがたい。人は、やがて歩けないようになるから、注意しなさい。ホームのお年寄りたちを見ていると、誰もが、老いと戦いながら生きている。老いも、人生の一部です。「本当に、いい人生だった。最後まで、そういえるように毎日、祈っている」