2019年4月30日火曜日

「平成」今日で終わる。谷村神父命日。昨夜シスター院で食事

アルナルド谷村達郎神父さまの命日。明るい表情で、気安く誰にでも話しかけ、司祭の務めを果たしていた谷村神父さんが、亡くなられて1年になる。
★今朝、ミサのとき、司祭から「谷村神父さまのため祈りましょう」とお告げがあった。冥福を祈りました。
★ホームに2年ほど入居されて、体調を崩し、ホームで逝去された。写真は、谷村神父さんと「いこいの村」へ入浴に行ったときの仲良し2人です。優しい穏やかな気持ちの人柄で、誰にでも寄り添って、気楽くに声をかけてくれる。一緒に居ても楽しい神父さんでした。
★昨夜は、小長井町のシスター修道女院へ食事の招待をうけた。湯江、小長井の男子修道者たちがお世話になった。
★シスターたちは小長井修道院の司祭の典礼を受けている。感謝の意味もある。復活祭のお祝いもある。濱田盛雄神父さんの司祭ダイヤモンドお祝いもある。それでお招きとなった。シスターの手作りの料理ばかりです。楽しいひと時を過ごしました。
★「平成も終わりだね。平成最後の宴(うたげ)だね」。手前がトマの席でした。デジカメで写した。司祭が5人、修道士が3人で乾杯した。話題は専ら「昭和」の内容だった。
★「平成」は今日で終わります。平成30年、聖コルベ記念館と、ホームの生活でした。「昭和」3年から生かされて、「平成」を得て、「令和」に入ります。

2019年4月29日月曜日

「教報」の1文、トマの人生を、よくぞ、まとめている。感謝

3月の下旬だった。1人の女性が自室に訪ねてきた。
★「カトリック長崎教区報の編集をしております。年に数回、『人』の欄を載せています。今度、小崎さんの話を聞かせてください」
★私も、これまで、沢山の人に出会って話を聞いて、そこに不思議な導きや、見守りを見つけて信仰実話を書いてきた。「今度は、書かれる番かな」そう思いました。人は、何を『体験した』で、何を語れるか。自分が実際に、乗り越えたこと、人生に必要なことを語る。そこから得たもの、いいところを伝えていく。
★女性は問うた。「日ごろ心がけていること、好きな言葉、忘れられない出来事など教えてください」。私は、普通に話しました。女性が聞いて、女性が書いてくれて、出来上がったのが、下の文面です。喜んで、有り難く拝見しました。それは、私の人生が、この文面に「詰まっている=凝縮されている」のを感じたからです。満足しました。
★なかでも、一番胸にひびいたのが、下から2段目、左側の、次の文章です。
★「被爆後20年間は病に苦しむが、37歳で初誓願宣立。『ミロハナ院長や濱田増治院長、修道会は見守ってくれた。修道士になって元気に働き、多くの出会いがあった』」
★この1文こそが、トマの根幹と思います。病気で弱い。使い物にならない。17歳で入って37歳、20年間ですよ。普通ならば出て行きなさい。それを修道会が温かく見守ってくれた。導いてくれた。忍耐してくれた。だから、こそ今が、ある。この1文に強く惹かれました。よくぞ書いてくれた、と感謝します。この全体の文章を大切に胸に納めます。

2019年4月28日日曜日

生きている限り、いい思い出を沢山つくろう。それが幸せ

本会の修道者たちの集まりに参加した。4地区(長崎・東長崎・湯江・小長井)で宣教している。2か月に1度、20人ほどが集まる。顔を合わせるのが楽しみだ。共同で「教会の祈り」を唱えて、各人が順々に近況や感想、提案を述べる。
★私は「ホームに入って5年半になる。日記を書くのが楽しみ。4月24日で丁度、丸10年になった。取材したテレビが、本当は別の日に放送だったが、この日にテレビに出た。これもお恵みだったと感謝している」と伝えた。放送は既に終わっていたが、1人の司祭が『見たよ』。1人の修道士が『録画している』と声をかけてくれた。
★「日記を書いて10年」のテレビ放送には感謝している。目をかけてくれた岩本彩(あや)ディレクターさんには、その取り組み方に感心した。2年前から日記は知っていたそうだ。ステントの入れ替えで入院したときも、彩さんは訪ねてくれた。病院に許可も取って、カメラを持参し撮影した。
★この度の撮影に当たって配慮したのが、教会内での撮影だった。今は自由に教会内部の撮影は出来ない。2週間前に、教区事務所の許可を取る手続きになっている。この度の撮影では、湯江教会と聖母の騎士の教会の2か所でも行なわれた。その都度、教区事務所へ許可を申請した。カメラの方から考えると、色々な手続きを得て、撮影を仕上げていく。大変な仕事だと感じた。
★ディレクターの仕事は、先ず撮影する当人に理解と愛情を持つことだろう。人と人との『つながり』があって、良い感動的な作品が仕上がる。日記は、パソコンには2012年から残っているが、それ以前の3年間は、パソコンには無い。2009年、10年、11年の3年間は、紙に起こして綴じた日記がある。「それも見せてください」と彩さんから頼まれた。徹底して努力を尽くす熱意に敬服した。
★10年間、日記を綴ってきて注目され、報道されて、何やら報われた気持ちがして、喜びは大きかった。ホームに居ても、この5年間に、出会い、祝い、勲章、新聞、テレビ、出版など、貴重な足跡があった。「生きている限り、いい思い出を沢山つくろう。それが幸せ」と改めて思う。
★放送の中で「おざき・ぶし」で書いている、とあったが「心にひびく言葉、手アカのついていない言葉、魂をふるわせるほどの、一句がほしい」

2019年4月27日土曜日

NBC長崎テレビに出た内容。日記は生きた証になる。続けて書く

NBCテレビのつづき。6時19分に始まった画面は、25分に、91歳誕生会が映った。有志の11人が長崎市内の食事処に集まった。バースデイ・ケーキの灯を吹き消す。拍手が起こる。トマの声で「ありがとう」。やっぱり嬉しい。ここまで来れたのは、神さまの恵み、皆さんの助けによる。感謝しか、ない。女性アナの声「祝いの席には、ブログで知り合った若者も参加していました」
★ここで野々村哲さん、塩沢美樹さんのコメントがあった。野々村さん「勝手に知って、聞きたいことがあったら、聞いて、答えて下さる感じです」。塩沢さん「トマさん(小崎さん)のように、表裏なく生きられたら、本当に尊敬できる人です」。この2人の若者との出いは、ふしぎなご縁だった。「トマさんのことば」「写真集・昭和に生きた修道者たち」で、協力・お世話になった。喜びを共にすることが出来て嬉しい。和気あいあいの会食の後で、皆さんで記念の写真を撮った。それも映っていた。
★この度の取材は、2か月にわたって、4回行なわれた。最初が、誕生会の場面だった。参加者たちは、ちょっと、驚いていた。


★ホームの自室で、日記を書く姿が映る。左側に、マリア像、聖コルベ像が置かれている。男性アナの声「人生、ひと言で表現するならば「孤独」です。限りない孤独。その孤独を救うのは愛です。それでも人は死という最大の孤独に向かって、ひとりで歩いていく」。せまい部屋で、黙々と日記を書いているトマ修道士の姿です。「生きているなァ」
★取材のカメラは、ステント入れ替えで、入院していた病院へも追いかけて来た。ディレクターの彩さんが、単独で、撮影した。女性の声「小崎さんは10年前にボウコウ・ガンを発症。腎臓もわるく、4か月に1度の入院が必要です。しかしブログは休みません」
★携帯で、電話をかける。ステントの入れ替え手術は無事に終わった。「申しないけど、今日のを書いてください。イノチを4か月つなぎました」。女性の声「知り合いに内容を伝え、かわりに書いてもらっているのです」。トマ「1日書かないと、あれ(小崎さんは)どうなったかな、ずっと見守っている人がいるんです」「自分は今まで90何年生きて来たけど、これから先、どんな風に枯れていくのか、自分自身でそれを書き留めたい気持ちですね」
★聖フランシスコのご像や、サクラの木が映る。「今年も、このサクラが見れて、よかったよ」と、トマの喜び。窓に、「ヘンな虫=蝶?」が、しがみつくと、興味を持って見る。動かない。次の日、居ない。「ああ、やっぱり生きていたんだな」。そして最後は、朝、高来の町を眺める。「見なさい、すばらしい朝じゃないですか。希望の1日が明ける。
★以上で、映像は終わった。6時28分だった。(19分から始まっている)。この後の男性・女性アナの会話があった。男性「ブログを通して出会いがあるのもステキですけど、感じたこと、生きて来た証(あかし)がネットの上に残るのも、大きな意味がありますね」。女性「ご自身のために書いているそうですが、いろんな方が、いろんなことを感じることが出来て、本当にすばらしいツールだと思います」。男性「岩本ディレクターの取材でした」

2019年4月26日金曜日

テレビに出たトマ修道士。91歳で日記書くのは珍しい。そうかな

昨夜、6時19分からNBC長崎テレビで「91歳の男性が続ける日課とは」が始まった。男女2人のアナウンサーが、先ず導入の部分を会話する。そして出た。聖フランシスコ園の全景。「ここに小崎さんは暮らしている」
★次いで、昼寝から起きて、パソコンに向かう姿。「小崎登明さん御年91歳。日課は決まって、昼寝の後です」。右手でしか、キィを打てない。「パソコン操作を自分で覚えて、10年前、始めました」。パソコンの画面は、「書道」で書いた「令和」だった。「小崎さんの日課とは、ブログを書くことです。10年前から、日々の出来事や、心の動きをユニークな『おざき・ぶし』で綴っています」
★「梅よ、咲け、咲け。ボクも、咲くぞ」も、ある。女性の声で「小崎さんのお歳で毎日ブログを書くのは大変めずらしいのですが」の問いに「そうかなァ。他の人も書いているんじゃない?自分の出来事を、自分のために書きたいんです」
★食堂での食事風景が出た。次に、2羽のスズメの話。あの話を、ここに持って来たのは良かったね。気に入ったよ。男の声で「左のスズメが、じりじりと右の方へ寄ってきた。春だぞ。チャンスは逃すなよ。ここは老人ホームだ、遠慮はするな。あれ?、なんだ?、右のスズメはガンとして動かない。恋に破れたのか。オレには分からん。何やら切ない気持ち」
★朝、5時過ぎ、教会へ。お祈りと、ミサの場面。「小崎さんは、県内最高齢のカトリック修道士です」。濱田神父さんが写っていた。この後、家族の説明になる。両親の写真や、トマの幼児の写真、母と子の写真が出て、原爆の話になる。
★びっくりしたのは、1998年のトマ修道士が出て、原爆を語った。若いね。70歳のときだよ。よく、この写真が残っていたね。「炎で空が真っ赤になって、どんどん燃えて、母親の夢をみた気がしたんですね。ああ、母親が死んだ、予感がした」
★「終戦後、小崎さんは長崎市の聖母の騎士修道院に身を寄せる。当時の修道士たちは、戦争で親を亡くした男子の子供たちを集め、世話に奔走していた。そんな姿にあこがれた」
★「小崎さんは、神学校に通い、修道士になります」。そして女性の声で「小崎さんにとって『信仰を生きる』とは、どういうことですか?」「母から、もらった財産ですね。信仰のおかげで聖母の騎士に入ったし、修道士の道を歩んだし、ホームでも、その道を歩んでいます。信仰がなかったら寂しいなァと思います」
★この後は、また自室で、パソコンを打つ姿が出る。男の声で、いつかに載せた「人生で悲しいことは、2つある。その1つは、父親、母親に、子供の頃、早く死に別れることです。親を失った子供の悲しみ、ツライよ。最近は、親が子供を殺す事件が起きている。トンでもない事ですよ。子供は親が頼りですから」
★こんな珍しい写真も出た。聖母の騎士で病気を病んで、療養していた頃の写真だった。右はポーランド人のマチア修道士さん。乳牛を飼って、牛乳を搾っていた。マチアさんは草刈りに、ルルドの上の山へ毎日、出かけた。懐かしい写真である。テレビのディレクターもよくぞ目に留まったものだ。トマはいっさい口を挟まなかった。
★(この項、つづく)

2019年4月25日木曜日

昨夜は無事に放送。91歳の日記。満足し喜ぶ。これからも頑張る

昨夕は、予定通りに、テレビの放映は行なわれた。まず、アナウンサーの「毎日、欠かさず、日課って、ありますか」「毎日?特にない」。ここで笑って、女性アナが「朝、神棚に手を合わせる」の会話から始まった。終わるまで、約10分。見ていて、ホッとした。顔写りも良かったので、安心した。題は「91歳の男性が続ける日課とは」。アナの説明「10年間、つづけてきた。この歳では珍しい日課。若者の関心を集めています」。いきなり、ポンと出たのが聖フランシスコ園のマリア像を含めた建物だった。昼寝から起きて、靴下を履き、セーターを着るところから登場する。
★この度の放送では、女性ディレクターの熱意に感動した。4回の取材・撮影で、最後に記念に撮ったのが、この写真です。一番・左側の、赤い女性。放送の最後に「Report岩本彩」と名前が出ていた。この「彩(あや)」さんの熱意に負けたよ。主題は、91歳の日記だった。
★(1)作品を作るには、先ずディレクターのイメージがある。彩さんは、2年前から、日記を見ていたという。10年間の日記に目を通した。その熱意だよ。「入れ込んでいる」と感心した。
★(2)取材されると、本人は、沢山の「語り」をする。材料として、多くの言葉がある。だから、取材された本人は、何の言葉を使われるのか、不安になる。
★(3)沢山の言葉や写真から、どの部分を切り取り、つなぐのか。組み立てていくのか。それは彩さんの経験と裁量による。本人には分からない。
★(4)放送された映像を本人が見る。喜ぶか、首をかしげるか。実質いって、「昨日の放送は、大満足でした。嬉しかった。もちろん録画していて、昨夜は、3、4回は見ました。よく、まとめていた」。放送が終わって、30分後、ディレクターの彩さんから電話があった。正直、「よかったよ。満足したよ。ありがとう、ご苦労さま。あなたの熱意に感心する。その熱情で、放送のお仕事、成果をあげてください」と応じた。昨夜は、安眠しました。
★きょうは、10時から共同でロザリオがある。11時に、長崎から千草さんらが来る。一緒に昼食を食べに出る。午後から修道者の仲間と、長崎・聖母の騎士へ。修道者の恒例の集まりに出かけます。それで早めに日記を書きました。
★放送の内容については、次に書きましょう。「4月に、いいことも、あるよ」と予告したのは、この放送でした。これからも日記を書き続けます。応援してください。

2019年4月24日水曜日

本日、夕方、NBC長崎テレビで放送。ニュース番組でトマ出る

今朝、ミサが始まって、司祭が告げた。
「きょうは、フィデリス西山達也神父さまの修道名の日です。神父さまのため、お祈りしましょう。(西山神父さまも、車椅子でミサに参加されていた)。次に、きょうは、コルベ神父さまとゼノ修道士さんが日本で宣教を開始した日です。(汽船で長崎港に着き、大浦天主堂へ向かった=89年前になる)。また、きょうは、ゼノ修道士さんの命日でもあります。(37年前になる)。お祈りを捧げましょう」
★ミサの最後の祈りが終わった時、司祭は、また告げた。「先月、朝ミサの取材に来ていたNBC・テレビ、トマ小崎修道士さんのことが、きょうの夕方に放送されます。どうぞ皆さん、ごらんになってください」
★NBC長崎テレビの女性ディレクターさんから、2月の中旬、2度ほど電話があって、その後、ホームの自室に訪ねて来た。「『登明91歳の日記』を読みました。ブログを書かれて10年になりますね。ブログで紡ぐ言葉や、これまでの人生を紹介したいです」「え?わたしで、いいんですか?」
★撮影は、3月1日の「誕生会」から始まった。これを入れて、4月15日まで、計4回の取材・撮影が行なわれました。いよいよ、きょう、夕方の6時15分からのNBC長崎・Nスタプラス長崎で、ニュースの中で、放送されます。8分間と短い時間ですが、どのような番組になっているのか、楽しみです。
★今日は、トマが登明日記を書き始めて、ちょうど10年なります。またコルベ神父さま、ゼノさんの上陸の日でもあって、ゼノさんの命日でもあり、とても、いい日に放送されるのも、お恵みの導きがあると感謝しています。自室で、ゆっくり拝見します。
★NBCの女性のディレクターさん、カメラさん、音声さん、ご苦労さまでした。長崎地方しか見れないのが残念です。

2019年4月23日火曜日

四つ葉を見つけたよ。教会の玄関で、少年が喜んで、見せてくれた

「四つ葉、だよ」。少年が、私に、見せた。「ほれ」「ああ、ホントだ。よく、見つけたね」「ウン」「よかったね、きみ、幸せになるよ」。少年は喜んでいた。デジカメで撮った。
★誰でも、幸せになりたい。願望がある。幸せって、なんだ?問いかけは出来ても、答えるのは難しい。何をもって幸せというか。じゃ、反対の不幸は?それは病気や、貧困や、苦しみ、悲しい出来事、寂しさ、色々あるだろう。じゃあ、その反転が幸せかというと、そう簡単に断定は出来ない。でも、人は幸せでありたい、それは誰も反対はしないだろう。
★四つ葉で、テレビのドラマを思い出した。戦争中の出来事だ。四つ葉を探す少女が居た。四つ葉を見つけた喜び。きっと、いいことがある。希望を持った。父は、食べられる雑草や植物の研究者であった。その父が戦地に行って、戦うことなく、食糧不足で、戦友たちが餓死する状態になる。その時、見つけたのが四つ葉だった。食べられる雑草、植物を研究していたので、ジャングルの中で、食べられる植物を見つけ、生き延びたのだった。無事に帰国して、娘に喜びの出会いを果たした。四つ葉が描かれていた。ストリーは定かでないが、なぜか、四つ葉を見つける少女と、その父親の戦いが、私の印象に残っていた。
★四つ葉を探して喜ぶ少年は、これから人生が始まる。苦難や、試練に、幾たびも体験するだろう。だが「誠実に」「努力して」「愛情深く」「思いやりを持って」成長して欲しいと願う。少年の手の上で、四つ葉は輝いて見えた。

2019年4月22日月曜日

スズメの縄張りに、他のトリ「石たたき」が侵入。平和にいこうよ

ホームの3階、自室の前の廊下の窓から、例の場所を見る。「ああ、やっぱり、スズメが居るな」。どうも、この辺に巣を作っているらしい。2羽のスズメが飛んでいる。
★だが、きょうは、ヘンだぞ。尾っぽの長い、恰好がスマートな別の鳥がいる。「あれ、あれ?」。確か、あれは「石たたき」じゃないか。セキレイという。美声で、さえずるトリだ。貫ろくが、あるよ。スズメの上に堂々と居る。「スズメが可哀そうだよ。縄張りを犯かすなよ。居場所が、あるんだからね」
★「石たたき」が1羽かと思っていたら、ちゃんと相棒が居るじゃないか。「寄ってくるなよ」。あれ、あれ、スズメの近くまで寄ってきたよ。右に、もう1羽の「石たたき」。伺っている。様子を見ている。スズメを人間に例えたら、何になるかな?一般庶民か、✕✕大学卒か。「石たたき」は、エリートか、〇〇大学卒か。区別したら、アカンな。人間に貴賎はない。トリにも貴賎はない。自分らしく生きる。それで良い。幸せは、自分に適した道を進んで、手元に引き寄せる。その生き方で十分だ。
★あれ、とうとう、石たたき=セキレイが、もう1羽近寄ってきた。スズメはピンチだ。もう1羽の、あのスズメは、どこへ行った?助けに来いよ。残されたスズメよ、気合いだ、気力だ、負けるなよ。だが、やっぱり、茶色よりも、白黒のトリがカッコウが、いいな。尾っぽが、スーッとして、スタイルが好みだな。でも仲良く暮らしていたスズメの縄張りに、侵入しちゃダメじゃないか。「石たたき」に同情はしたくない。セキレイは、小川に居て、石の上に足を乗せて、長い尾っぽを上下に動かしている。何度も見たよ。近くに、小川があるだろう。小川へ行けよ。ここは丘にあるホームだ。
★ああ、ザンネン。とうとう、スズメは飛び去った。オレは、スズメを応援していたのに、譲ったのか。スズメは雑穀食べて、庶民性があるからね。チュン、チュン。なき声もカワイイさ。確か、いつもスズメが居る場所の下あたりに、巣を作っているハズだ。巣を見たいと思うよ。そのうち「石たたき=セキレイ」も、いつしか飛んで消えた。
★その後、「セキレイ」は見なくなった。今朝は、スズメが2羽、仲良く飛んでくる。もうペアになってるらしい。あかちゃんスズメも生まれるぞ。ホームのオレにも、ちょっぴり、未来の楽しみが出来た。スズメよ、美声で鳴かずとも、よい。チュン、チュンで、よい。雑穀を食べて、幸せになれ。

2019年4月21日日曜日

復活祭。濱田盛雄神父さんの司祭叙階60年のお祝いのミサ

復活祭。濱田盛雄神父さんの司祭叙階60年、ダイヤモンド祝のミサが行なわれ、皆さんは心を一つにして、神父さんと感謝の祈りを捧げた。お祝いの花束や、霊的花束など戴いて喜ぶ濱田神父さん。
★平戸・宝亀(ほうき)の出身で、26歳で司祭となる。60年だから、いま86歳です。「歳を重ねた今、教会の助任司祭を10年勤めている。こんなに長く助任を務める司祭はいません」と濱田神父さん。いつまでもお元気でお勤めになってください。
★感謝のミサの後で、信徒一同で記念の写真を撮った。湯江教会の信徒たち、ホームの信徒たち、小長井町のシスター2人、東長崎の信徒たちも居ます。
★残念ながら、パソコンへ来る電波が弱くて、記事や、写真の挿入が困難です。
★午後5時頃に、パソコンを開くと、写真を入れることが出来た。修道服は左から、トマ、瀧神父、濱田神父、萩原神父です。この後、湯江修道院で、お祝いの夕食会があります。西山達也神父さんの修道名のお祝い日は(フィデリス)24日です。お祈りください。

2019年4月20日土曜日

入る時は、夕焼け空。出た時は、満月だった。見事な景色に感動

いまは「聖週間」という。浦上では、子供の頃、母は、「大きな声で笑うな」とか「映画を見に行くな」「ゴミを拾いなさい」など小さな犠牲を教えた。そういう教育の仕方があった。
★昨日は「聖金曜日・主の受難の日・悲しい気持ちの日」。湯江教会では、夜、7時から聖金曜日、主の受難の儀式が行なわれる。教会へ行こうと、ホームを出たところで、西の空が見事に赤く染まっていた。何やら神秘を感じた。「きれいだ、なァ」。以外に無い。
★始まった儀式では、聖書から「受難」のくだりが長々と読まれた。長く立つことが出来ないので、座ったままで、その有様を連想した。十字架を担い、裸にされて、「われ、乾く」と仰せられて息絶えられたキリスト。神の御子も人間と同じように、死を受け入れられた。あまりにも残酷な死だった。痛ましい気持ちになる。
★自分の死の予想も考えた。いずれは死は、やってくる。再び、ガンを宣告されて、「あなたの余命は半年です」と言われたら、その心境はどうなるか。私の場合、血尿して、ガンを告げられて、10年になる。ちょうど「登明日記」を書きだした頃であった。幸い、抗がん剤が効果があって、まだイノチの無事がつづいている。
★私の知っている女性は、ガンを告げられ、余命半年と言われたが、2年は生きた。息を引き取るとき、「わたし、必ず、復活するから」「死ぬのは、いっとき。だから大丈夫」と言って亡くなった。その女性の体験から、苦しみや病気の悲しみにも、意味があると信じたい。大曾神父さんや、全盲の村山修道士、ローマン修道士のことを想う。
★日頃から、常に神に祈り、愛や導きを感じ、罪を悔やみ、つながってきた。いま、神の愛と永遠のいのちに戻ります。その希望がある。現実を受け入れるというよりも、未来を見詰める。
★儀式は、1時間ほどで終わった。教会の外に出ると、もう真っ暗になっている。突然、「アッ、月が」と誰かが、叫んだ。本当だ。まん丸い月が、夜を照らしている。「ああ、きれいだな」。右側が湯江教会。左側の建物がホーム。こんなに近い。白いご像は、聖コルベ神父のお姿です。「あんなに、真ん中に、見えるなんて」。お月さんを見て、何だか静寂な気持ちになる。「春分の日の後の、満月の、次の日曜日が復活祭だよ」と、よくぞ、言ったモンだ。潜伏キリシタン達も覚えていた。秘かに祈る潜伏者たちも、あの満月を待ち望みながら、主の復活の喜びと希望を持ったに違いない。
★今日は、朝食後、入浴した。ゆっくりとした気持ちで過ごしている。夜、7時から「復活徹夜祭」が行なわれる。「復活祭、おめでとう」のカードは、1枚だけ届いた。

2019年4月19日金曜日

「お互いに、足を洗いなさい」その意味は、許し、愛し合しあえ

昨夜のミサです。ミサの中で、洗足式が行なわれた。その模様を写真に撮ろうと、構えていた。受難に向かわれるイエスが、弟子たちと共に、最後の晩餐をご一緒にされる。その時、イエスが、弟子たちの足を洗われる。そしてイエスは言われた。「主であり、師である私が、あなた達の足を洗ったのだから、あなた達も互いに、足を洗いなさい」。足を洗うのは、どんな意味があるのか。「へりくだりなさい。謙遜になりなさい」との教えが示されている。その儀式が、二千年間にわたって守られてきた。湯江教会は信徒が少ないので、男性・数人が洗足式に臨んだ。
★主任司祭の神父さんが司式して、信徒の足を洗った。素早く近づいて写真に撮った。信徒は気のどくだよ。足を差し出して、神父さんが水をかける。儀式の示す「謙遜になること」。これが難しい。人間は、元もと、自慢、傲慢に生きている。「自らを示そう。拍手、喝さい、頼むぞ」。そんな気持ちで満ち溢れている。「へりくだる」「自己の真価を認める」。いずれも、己との戦いだ。老いてくると、己の鎧(よろい)も解けて、自己の虚しさを知る。「行なってきた過去の出来事に、輝きはない」。すべては助けられて、導かれて、行なって成立した足跡だった。
★ミサの後で、ご聖体を先頭に、信徒一同は、ラテン語の聖歌を賛美しながら行列し、ご聖体は別の部屋に移された。いま、教会に、ご聖体は、ない。その後、皆で一緒に、共同でロザリオを唱えた。この儀式は、これまで何十年も、同じように参加してきた。しかし今度は、自分の体力を考えると、「ああ、もう今年が、最後になるかな」と自覚した。
★ホームに居て、いま一番感じるのは、「つながり」である。自分は独りじゃない。孤独じゃない。修道会の皆さんに「つながっている」。それが今の自分の活力になっている。

2019年4月18日木曜日

からだの調子は、どうですか?友人が聞く。理髪屋も聞く

訪問者があった。いい顔、している。アタマの白髪に比べて、少し顔が赤いかな。諫早市に住む阿野さん、おきまりの手みやげ、果物ゼリー箱2つを下げて、突然、自室に来る。
★顔なじみ、「どう?からだの調子は?」の話から入る。「ええ、まあ、なんとか、がんばって、いるよ」しか言えない。阿野さんのアタマがキレイに刈られているのに気がついた。「いい髪、しているね」。この問い掛けから、散髪屋の話になった。「同じ店に20年も通っているよ。同じ店でも、店長も変わった。店の人も変わった。近頃の人は、カトリック信者だった」。理髪店も、最近は会社経営になっているのだろう。料金も安いそうだ。阿野さんは魚や教会やの話をして、私を励まして帰った。
★私は、ホームで、いつもの理髪屋さんにお世話になっている。先日、散髪を済ませた。ホームに来てからだから、5年になる。私の髪をさわりながら、理髪のおじさんが言った。「最近、お体の調子は、どうですか?」。それを聞かれて、ちょっと「エッ」と思った。オドロイたよ。「え?なんで、わかるの?」「髪をさわっていれば、わかります」。触れたら、感じる、やはり職人だな。「体調が、わかるとは、えらいモンだ」。年末・年始は、入院して大変だった。確かに、あれは心身に堪えたよ。
★ホームに居て、常々思うのが自分の生き方だ。いつかテレビの画面で、哲学者が言った。「いま自分は、この時点で、何を成すべきか」。自分への問いかけだ。そのことは、いつも私も考えている。ホームの残された日々に、意義がある、後悔しない生き方はあるのか。自分は、何を果たせばいいのか。哲学者は「その問いに対する答えは、自分の内から出てこない」という。何を、すべきか。「問いかける者がある。その問いかけに、まことを尽くして答えていく。それ以外にない」と。
★私たちの信仰でいえば「み旨のままに、生きる」であろう。「み旨のままに、あるべき姿で、まことを尽くして応じていくのが、私のホームでの人生であろう」。いまは、せいイッパイ生きよう。気力で、甘えずに生きる。それしかアタマに考えはない。
★教会では、今夜7時から「聖木曜日」の典礼となる。ミサ、洗足式がある。いよいよ復活祭へ向けての「最後の晩餐」、「受難の十字架」の儀式が行なわれる。

2019年4月17日水曜日

スズメが、ジリ、ジリ、寄っていく。恋がかなわぬ春だった

廊下の窓で、屋上にいるスズメを2羽見つけた。春になったな、の感じがする。スズメも活発になった。この辺に、巣を作っている。ホームの庭には、芝生もあるので、スズメがよく目につく。ツバメも来て、巣を作るが、スズメから壊された。2羽のスズメを見ると、左のスズメは、キョロ、キョロしている。右は、ジーッとして動かない。しばらく見ていると、左のスズメがジリ、ジリと、右の方へ寄ってきた。
★これはオモシロクなるぞ。期待する。「寄れ、寄れ」と応援もする。ああ、やっぱり案の定、にじり寄ってきた。いい仲になりそうだ。カップルになるか。期待も湧いてきた。がんばれ、応援もしたくなる。右のスズメは動かない。体格は、こちらの方が大きく見える。どちらが、オスか、メスか、分からない。春だぞ。チャンスは逃すなよ。だが、ニンゲンでも、好みがあるからな。さあ、うまく行くかな。
★「ああ、ついに、寄ってきた」。うまく行きそうだ。よし、いいぞ。こちらの観察の目は興味深々。こんなに接近したのは、まずは成功だ。「愛して、いるよ」。ピイ、ピイと、伝えているだろう。うまく、やれよ。ここは老人ホームだ。遠慮することはない。ニンゲンだって、老いても、愛する心は残るさ。ジーッと、ソーッと、眺めるボクも楽しい。カップル成立か。さあ、これから、どうなる?
★「アッ、あれ、なんだ?」。寄ってきたスズメが時間をかけて、ソバまでノックしたのに、ふとっちょのスズメは反応を示さない。「おい、それで、いいのか」。スズメの社会も厳しいんだな。成るようには、成らん。寄ってきたスズメが背をそらせた。「ああ、ダメか、残念、無念」。右のスズメは、ガンとして動かない。「恋に破れたのか、振ったのか」。オレには分からん。どっちが、オスか、メスか、それも分からん。一瞬、1羽が飛んだ。同時に、もう1羽も居なくなった。なにやら、せつない、気持ちが、残った。

2019年4月16日火曜日

長崎へ。定期の診察。ホームには、工事の関係で変化がある

定期の診察へ。早朝から出かける。修道院で朝食。パン、牛乳、ミカン1こ。高原修道士の運転。長崎へ。高速を利用。長崎市のトンネルを抜けると、浦上川に出る。ごらんのように、川に何本かのツナが張られて、多くの鯉のぼりが吊るされていた。車から、シャッターを押す。
★浦上川では原爆の日、多くの市民が水を求めて、川に降りて亡くなった。原爆の灼熱で、皮膚が燃える痛みを感じる。ノドが乾く。「水を」「ミズを」と、川に落ちた。車から一瞬、その悲惨な思いがよぎる。「あの、鯉のぼりは、慰霊の意味も、あるのだろう」。老人には、そう思う。
★死んだ者は可哀そうだが、生きても様々な苦労があった。目的のクリニックには、9時前に着いた。看護師さんから「9番目です」と言われる。高原修道士は、聖母の騎士へ「ルルドの水」を汲みに車を走らせた。診察の後、血液を採取される。終わった頃に、高原修道士がクリニックに迎えにきた。10時だった。
★ホームを出る前、修道院でパンを食べたとき、濱田神父さんが「きょうは10時半から、浦上天主堂で、大司教さまと一緒に、司祭叙階、濱田神父さんのダイヤモンド祝、その他の司祭の金祝、銀祝のミサがある」と言った。ちょうど、浦上天主堂の道路を通ると、シスターたちの姿が何人も目についた。「やっぱり、浦上らしい、な」と思う。ミサ後、お祝いが、信徒会館で行なわれる。写真は浦上天主堂の石垣(原爆で焼ける)と、咲き始めた「つつじ」の花です。
★ホームに戻ったのは、11時過ぎだった。昼食から、エレベーター拡張工事で、食事は4か所に分かれて食べる。私は3階で、「雲仙の間」(雲仙岳が遠望できる)で、9人が居た。瀧神父さんは、1階で、別になった。寂しい。職員は、2階の炊事場から、階段を使って、9人分の食膳を挙げるのは大変だ。
★最近は、歩行器を使っているので、階段を下りて、教会へ行けるか、心配です。

2019年4月15日月曜日

「書道」で「令和」。ホームで温かく、穏やかに生きつづけたい

ホームでは月に1度、趣味の「書道」が行なわれている。新・年号が「令和」になったことで、早速、「令和」を書いた。まあ、まあ、の出来だ。他に「意気、雲の如し」もある。先生が「令和」の手本を書いてくれた。
★4月も半ば過ぎて、「平成」も終わる。平成31年、この平成は、私にとって、どんな年であったか。2つに分けることが出来る。修道服を着て、聖コルベ記念館に座っていた24年。その後、修道服を脱いで、ホームに入った5年間、気持ちは大きな変化を遂げた。
★聖コルベ館の時代は、多くの「出会い」に恵まれた。巡礼者に出会い、観光客を案内し、修学旅行生たちに、コルベ神父の「身代わりの愛」を語りつづけた。「出会い」とは、私が修道服を示して、何かを発信するのではなく、相手からも受け取る、何かの輝きを受け取る、それによって、自分も変わっていく。そうでなければ真の出会いには、ならないと感じる。修道服を着ているだけで、その中身は何なのか。出会いでは、そこが問われる。私に出会うことによって、キズついた人も居ただろう。
★だが、いま考えてみると、聖コルベ館の出会いは、本当に恵みであった。ホームに来て、仕事がなくなり、孤独になり、今までとは変わった「孤独」に落とされた。それでもホームにも恵みの出会いはあった。聖コルベ館で、夏の暑い日、1人で訪ねたフランス人に、1杯の冷たい水を差し出し、飲んでもらった。その有り難さからフランス人は、私がホームに入ったと日記で知って、わざわざ訪ねてきた。
★ホームの出会いは、聖コルベ館からのご縁が多い。出会いは、愛で、つながっている。平成の半ば頃、聖コルベ館に訪ねて来た「まゆみ」さんは、きょうも、「塩零梅」を2つも送ってくれた。私が「減塩の食事」を取っていることを知って、塩を使わない「梅干し」である。「リンゴ酢」と「はちみつ」で仕上げた逸品だそうで、以前も頂いており、ありがたく食べている。「まゆみ」さん、ありがとう。
★ホームで迎える「令和」は、最初、「令」の字が「冷たい」感じがした。寒いところで育った私には「令」は「零下」に、ピンとくる。間もなく始まる「令和」は、ホームに居ても、温かい、和やかな日々に生きつづけたいと願う。

2019年4月14日日曜日

1つの言葉が、1つの文章が、人の心を感動させ、変化させる

昨日の夜は、湯江教会で、年の黙想のミサが行なわれて、黙想会は終わった。
★ミサの説教の後半で、李信衡神父さんは、自分の召命について語った。「子供の頃から、司祭になりたい希望があった。日本の大学を出て、29歳のとき、早く自分の召命を決めなければいけない。韓国では、司祭志望は30歳までになっている。韓国で司祭を目指すか、日本で目指すのか、迷った。韓国には両親も居る。司祭になっても、何かの時に直ぐに帰れるか。それでも修道会に手紙を出した。修道会から『来てごらんなさい』の返事がきた。何度か修道会に通ううちに、召命担当の司祭から、こんなことを言われた。『2つの道があるとする。1つは困難な道、もう1つは易しい道。あなたは、どちらを選びますか』。この問いかけで、心は決まった。日本の修道会(コンベンツアル・フランシスコ会)の司祭になりました」
★ミサが終わって、黙想会が終了した。信徒の1人が代表で、李信衡神父さんにお礼の言葉を述べた。「1日目は、聖フランシスコと、パパさまの話。2日目は、ごミサの話でした。私が一番心に残ったのは、エマオの弟子の話です。旅人(イエスさま)と一緒に歩いたが、イエスさまと全く気付かなかった。一緒に宿を取って、食事をしたとき、パンを割かれた。そのとき目が開かれ、主イエスさまだと分かったが、その姿は消えた」
★信徒の話を聞いた時、私の胸に、ググっと、くる反動があった。「ああ、そうだったのか」。私たちの日常で、苦しみや、孤独や、困難な環境にあっても、主は私と共に居られる。私が気付かないだけだ。あのエマオの弟子のように、気付かなくても、主イエスは共に居られる。希望を持っていいのだ、と。一瞬の言葉が、心に刻む。「主は、私と、同じ出来事、環境、境遇を共有される。それが信仰だ」と思った次第でした。
★きょうの日曜日は受難の主日でした。枝の主日ともいわれ、枝の清めがあった。聖週間が始まります。次の日曜日は復活祭です。

2019年4月13日土曜日

昨夜は年の黙想2日目。十字架道行。講話ミサの解説。今日終わる

昨夜は、黙想会の2日目。夜は早い時間に寝るので、夜の行動は、隣の教会へ行くのにも、一応、馬力が要る。信徒の先唱で「十字架の道行」から始まった。長崎教区の「カトリック祈祷書」から、14留までを祈る。昔ながらの文語体の流れの祈りが、なんとなく悲痛な叫びとなって胸に込み上げてくる。聖母の騎士では、毎金曜日に祈っていた。
★昨夜の李信衡神父さんの講話は、最後の晩餐、ミサに付いてであった。十字架の印に付いても教えられる。今日の予定は、ロザリオと、ミサ。それで年の黙想は終わりとなる。復活祭の前に、1つのクッションを置くのは、いいことです。
★今日は、朝から1人で、広い風呂に入浴した。元気が戻ってきた。「顔色が、ワルイね。どこか、不具合なの?」と言われるのが、いちばん、スカン。やはり、ゲンキが、いいね、と言われるのが励みになる。昼食は、食卓に3人居残った。話が尽きない。午後から大野神父さんは、聖母の騎士へ帰る。また瀧神父さんと2人になる。寂しい。
★昔は、ポーランド人の司祭から、よく「聖成(せい・せい)」という言葉を言われた。「聖人に成りなさい」。それ、だった。修道服を身に付けても、それで立派な人間になる訳ではない。欠点もあり、弱さもある。ポーランド人の神父さんは、礼儀作法から、マリアへの信心、聖成のこと、自己反省の仕方、欠点など教えて導いてくれた。厳しいところもあったが、あの頃は、若かったから、付いて行ったんだな、と思う。その中でも「自己の欠点」と向き合う、これは修業には大切な行為だ。
★欠点とは、悪を習慣的に行なうことで、様々な欠点は、種類は多いが、結局、傲慢(ゴウマン)の1点に集約される、と教えられた。余り自分では分からない。祈りの時の散漫、目上への不従順、むやみに立腹、不機嫌や、モノへの執着、食欲、性欲、人の足を引っ張る、不摂生、あせり過ぎ、無視する、イジメなど、欠点は皆、ゴウマンの子供ですという。すべての罪の親は、ゴウマンだという。
★「欠点を治すには、けがれなき聖母マリアを通して、信頼をもって神の恵みを求めること。それと、治したいと望みを持つことが条件です」と教えた。
★最近は、教会で、「自己の欠点を治しなさい」など直球で聞かない。歳を重ねてきたが、いつまで経っても欠点は残る。失望は、しては、いけない。「自己を律する」ことは、生きている限り変わらないと思う。他人にも迷惑になるだろう。
★年の黙想に当たって、自己の欠点をもう1度根っ子から考えて、治したいと思うのも良い生活の切り替えになるだろう。

2019年4月12日金曜日

年の黙想会。湯江教会で夕方から始まる。李神父さんの講話

恒例の、復活祭前の「年の黙想」。ホームと湯江教会で、3日間始まる。講話は、李信衡神父さん(長崎・聖コルベ志願院院長)。夕方、6時30分から共同のロザリオを唱える。次に、中に休憩を挟んで、8時30分まで講話。その後、ゆるしの秘跡があった。李神父さんの話を聞いて、自分なりに整理してみた。
★(1)イエスの時代。聖書(マルコ10-17~)から、金持ちの青年の話。青年はイエスに問うた。「永遠のいのちを受け継ぐには、何をすればよいか?」「あなたは、掟を知っているはずだ」「それらは皆、守っています」。イエスは彼を見詰めて、慈しんで、「欠けているものが1つある。持てる物をすべて売り払い、貧しい人に施しなさい。それから私に従いなさい」。金持ちの青年は、気を落とし、悲しみながら去った。
★(2)千年が経って、イタリア・アシジに、織物商人の息子がいた。金持ちの青年だった。彼は十字架からのイエスの声を聞いて、立ち上がる。すべてを捨てて、父親から受けた物はすべて返して、貧しく生きるフランシスコとなった。夜を徹して祈り、托鉢し、崩れた教会をレンガ1つ1つ自分の手で修復し、清貧の生活を始めた。イエスの後に従う。フランシスコの生き方をあざ笑う者も居たが、彼の熱意と信仰、純粋さに惹かれて多くの弟子たち、兄弟たちが集まった。聖フランシスコは、イエスの生き方の再臨だった。苦しみの中に聖痕も受けて、完全にイエスに従う望みに生き抜いた。
★(3)二千年が経って、教皇フランシスコが選ばれた。歴代教皇の中でフランシスコは初めての名前だった。10月4日、聖フランシスコの祝日に、教皇さまはアシジを訪れた。そこには聖フランシスコの遺体を守る大聖堂がある。李神父さんは、その修道院に勤めていた。修道院の兄弟たちも、町の人びとも、教皇さまの歓迎に湧いていた。教皇さまはヘリでアシジに到着される。真っ先に訪問したのは、障碍者の子供の施設だった。昼食は修道院で行なわれたが、教皇さまは修道院内の別の部屋で、貧しい人たちとの食事を楽しまれた。李神父さんは、聖フランシスコ大聖堂で、僅かな秒数、教皇さまにお会いした。その後、教皇さまは、観想修道女クララ会へ行かれて、シスターたちに40分のお話をなさった。「障碍者」と「貧しい人」と「観想シスターの祈り」。私たちへの限りない愛のために貧しい者となられたイエスの後に従う、これが教皇さまの望みだった。
★(4)フランシスコ教皇さまは、いま、私たちカトリック信徒に、何をお望みだろうか。今朝の食卓で話題となった。その問いには、各々が考えるべきだろう。各々が答えを出す。ヒントになる話が出た。それは「北原玲子さん」の生き方だった。大学教授の娘という恵まれた環境にあったのに、廃品回収者たちのグループへ自分も一緒に生活した。貧しさを共有し、呼吸した。子供たちを愛し、仲間を愛し、主イエスに、愛と苦悩を喜んで捧げた。ゼノ修道士も、そうではないか。自分の宣伝ためでない。ゼノ修道士は自分には厳しく貧しく生きた。新聞を利用して広く物資を求め、戴いた物資はすべて貧困者、困窮者たちに渡した。貧しい人、困っている人、病める人の支えになる、力になる、理解者になる。それが今の世を、生きる我々に問われているのでないか。朝の食卓での会話だった。

2019年4月11日木曜日

ゲラルドさん。親しみ深い修道士。命日だった。安息祈る

ゲラルド修道士さんの命日。帰天して33年になる。聖母の騎士のポーランド人修道士。コルベ神父の時代に長崎へ来た。背が高く、足のコンパスが長く、背中を折るようにして、急な坂道を上っていた。昭和の初めから、昭和を終わるまで、聖母の騎士誌の印刷のため、全力を尽くした修道士だった。
★私は、小神学校に入った頃、活字や印刷が好きだったので、よく聖母の騎士の印刷所へ見学に行った。ゲラルドさんと仲良しになり、彼の仕事ぶりを観察した。活字の組版や、カットの絵、写真を鉛版にしたり、印刷機、折り機、裁断機の傍に立って、何万部の騎士誌を作り続けた。多くは語らず、黙々と働く修道士だった。
★ゲラルドさんは、よく「およしなさい」の言葉を使った。長崎に来て、52年も働いている。その間、1度もポーランドへ帰国していない。帰国への誘いは度々あったが、いつも「およしなさい」と、こばんだ。なぜだったのか、いまだに分からない。修道誓願の金祝を迎えたとき、皆さんがお祝いしようとすると、この時も「およしなさい」
★朝・昼・晩の御告げの鐘を、鳴らすのが彼の務めだった。昼間、忙しく働いても、夜には、受付の修道士と交代し、自分が受付を好んで務めて、来客に優しく接していた。「ゲラルドさん」「ゲラルドさん」と親しまれた。そんな思い出が次々に湧いてくる。カメラを彼に向けると、両手で顔を隠して「およしなさい」。その姿が、なんとも、かわいい。従って彼の写真は、そんなに多くない。
★ゲラルドさんは生き物を愛する修道士だった。鳥を愛し、虫を愛し、生物をいたわる。中でも、特に好きなのが、「犬」だった。それも子犬ではなく、セパード系の雑種を何代にもわたって飼ってきた。犬と共に生活し、ポーランド語で話かける。ゲラルドさんの犬は、ポーランド語しか解しない。ゲラルドさんの動物愛は、彼の少年時代からと聞いた。
★コルベ神父の時代に、コルベ神父の部屋に紛れ込んだ犬を、ゲラルド修道士に任せて、その犬が何匹もの犬を出産させた逸話もある。「ゲラルドさんが、旅行に出かけないのも、犬のせいだ」との噂もあった。
★昼食の時、食卓で、瀧神父さんと、大野神父さんと、トマと、ゲラルドさんの思い出ばなしを語り合い、彼の冥福を祈った。昭和の、ポーランド人修道士が居た頃が、なんとなく楽しい。愉快な思いになる。