2020年8月31日月曜日

朝の陽の光が自室に入る。光が当たれば、影の部分が出来る。それが人間

「夢か、ウツロか、マボロシか」
今朝、ミサから、自室へ戻る。
朝の太陽が、屋外の戸から、まぶしく入っている。
光は、部屋をツツ抜けて、廊下の扉まで、伸びている。
「映っているのは、幻影か、幽霊か、足のないカゲロウか」
我が、姿、なり。これが、お前か、正体か。
8月、最後の日を迎えた。令和2年の3分の2は、過ぎ去った。
今年の前半は、「こころの時代」に出られて、幸いだった。人生で、テレビに長編、注目されたのは、2度、あった。
★1回目は、1998年(平成10年)、長崎の民放、KTN、「生かされて・ある修道士の半生」48分が流れた。これは、被爆の体験と、日本26聖人の映画、コルベ神父とアウシュヴィッツ強制収容所のロケ、が収録されていた。ガヨビニチェックさんは既に故人となられ、再婚の奥さんが思い出を語った。また身代わりの現場に居たポーランド人の老人にも出会った。取材班は、ブラジルにも就いて来たが、それはカットされた。長崎地方だけで、放映された。
★今年、2020年の「こころの時代」NHK・全国放送・60分。昨年の12月中旬、1本の電話から始まった。7月、テレビに「予告編」が出るまで、半年以上、資料の取材や、長崎にも何度か行ったが、日記にも書けず、「耐えて、隠して、秘かに」過ごすのは、本当に複雑な気持ちの月日でした。
★小崎登明は、2本のテレビで人生を映像化された。まだ、まだ、隠れた部分があるんじゃないか。そりゃ、あるでしょう、人間だもの。全部は、語り尽くせない。語れぬのは「ヤミか、カスミか、マボロシか」。太陽の光が当たれば、どうしても影は出来る。人間には、そういう部分が、あります。また、無ければ人間じゃないでしょう。
★「人生、甘くみるな。人間、甘くみるな。人は誰しも、外見には、わからない痕跡を背負っている。その人ならでの、痕跡だ。人生の、どの課程で、その痕跡がついたのか、わからない。それでも、耐えて、秘めて、生きるしか、ない。生き抜いてこそ、よかったと思う。人間って、ホント得体の知れぬ、生き物です」

2020年8月30日日曜日

ホームで「こころの時代」を上映。これからの人生、希望に生きたい

背中の脇に出来た「皮膚がん」の写真を公表する、また手術の後の縫った部分をも公表する、どうかと思いますよ。最初は、写真は出していなかった。抵抗が、あった。でも、もう、この歳になれば、隠すものは、ないでしょう。これから、どうなるのか、先は短いだろうが、やはり変化していく過程は、気になります。
自分でも、不安は、ある。
日曜日。入浴は、男性は、毎日、9時から午前中に出来る。お医者さんは「毎日、シャワ―」と言われるから、早々と、浴場で、シャワ―を浴びました。その後、医務室で、カットバンの交換をしてもらった。大々的に、貼っている。少し、皮膚のカブレがあるようです。まあ、これで気持ちも落ち着きました。
「ビデオの日」です。10時から、食堂で行なわれた。小崎登明の「こころの時代」を上映しました。20数人が見てくれた。ヘイ、ヘイ、ボン、ボンというか、なめらかに物語は流れて行く。「今年は、良い年だったな」と感謝します。
やっぱり最後のシメ。ディレクターの問いが良かったね。
「十七歳の時、『ざまー、みろ』と言ったこと、忘れないと思うんですけど、いま、先輩に、声をかけるとしたら、どんなふうに?」
「『大丈夫か』『大丈夫か』。その声だけ。手を伸ばして、助けてあげるのは、勇気のいる事だよね。だけど、コルベ神父さまを知った以上は、そういう人間になりたい。心の隅には、ある。『大丈夫か』は、かけたい。起こして、助けるか、そこは人間の弱さがまだ残っているから、分からない」
★ああ、あの答えで、よかったと、きょうも、思いました。常に、弱さとの戦い。しかし手本があり、希望がある。今日の、ミサの福音で読まれた言葉。「己を捨てて、己が十字架を背負って、我に従え」

2020年8月29日土曜日

シャワーを浴びる。縫ったキズは、どうなっている?ビックリだ

「出かッ」。写真に撮ってもらって、最初に見た印象。ビビったよ。「ムカデの如く、あるバイ」の感じ。
「毎日、シャワ―を浴びて下さい」とお医者さん。命令されると、苦になるよね。
ホームの医務室で、看護師さんに相談する。
看護師さんは言う。
「先ず医務室に来て下さい。ガーゼを外して、防水・セロハンで、しっかりと止めます。シャワーへ行って下さい。帰りに、医務室に寄って下さい」
事は、すんなり行きそう。「ハイ、分かりました」。ガーゼを外した時の写真です。「スゲーェ」。良くぞ、見事に、縫いました。
浴場には、誰も居ない。洗い場に椅子を置いて、アタマから、カラダ全体を、泡シャンプーで洗う。湯に入れないのが、うらめしい。冬でなく、よかったよ。
さっぱりの気持ちで、医務室に寄る。看護師さんが、セロハンを外して、やわらかい泡で、丁寧に洗って、大きなカットバンで仕上げてくれた。これで、安心しました。
写真で縫ったキズを見ると、我ながら「よくぞ、まあ、手術室で、ガマンした」と思いますよ。看護師さんは、2人居たので、ついでに「背中を、よーく、見てください。ヘンな出来物、ないですか?」。目をこらして、2人は見ていたが、「なんにも、ないね」
★慰めるように、1通の、知らない女性から手紙が届いた。「Eテレの『こころの時代・弱さを希望に』を視聴して、一番印象に残ったことは、病気になられた時、お見舞いに来られた神父さまに、『苦しい事ばかりです。少しでも楽な時があれば』と訴えたこと。その時、神父さまが『苦しみがあることがいい』と言われた。その言葉に真理があると思いました。私も苦しい時、少しでも楽なひと時を、と神に祈ってしまいます。『苦しみが、あることが、いい』。本当に、そう思えるように、神に祈らなければと思いました」。肝心の箇所を、よく受け取って下さった。
★苦しみは、どこにでも、あります。楽や、喜びは、すくない。それでは人生は、ツライです。なにか、今日の日、喜びを持って、生きたいです。
★背中は、キズだらけ。肋骨、取った深いキズ(14歳)。足のスネ骨を削り取って、背中に植えた長いキズ(14歳)。腎臓を摘出した長いキズ(21歳)。今度は、それに足し算して、ムカデのキズ。まあ、背中は、見えないから、幸いだ。

2020年8月28日金曜日

皆さんのお祈りに感謝。無事に手術は終わる。ホームに帰りました

きのうは、午後1時から、点滴が始まった。
午後2時、車椅子で、手術室へ。幾つもの扉が開いて、明るい部屋に入る。
中央に、清潔なベッド。だが、横になると、冷ややか。
腕も、胸も、器具を付けられ、顔に青色の覆いをかけられる。「ドク、ドク」と、心音だけが、大きく耳に届く。
「消毒しますからね」「麻酔を、打ちます」。全身の神経が、患部に集まる。どういう作業をしているのか、全く分からない。
やがて「ドク、ドク」の心音が、早さを増した。縫い方が始まった。分かる。皮膚は、1枚だけじゃないらしい。何度も、何度も、縫っていた。2、30分は、かかっただろう。
「ハイ、終わりました」「見ますか?」と先生。「見ます」。6、7センチの小瓶に入った異物。透明液に浮かんでいる。見た瞬間、連想したのが、サカナの頭のアラ煮。目をほじくり出した、アレを思い出した。「脂肪まで、取りました」。確かに、脂肪は白い。
車椅子で、手術室を出たのが、3時頃だった。高原さんが、付き添ってくれる。
痛みもなく、出血もなく、平熱で、血圧も正常。点滴が終わったのは、午後5時。夕食は6時。安心して、早めに眠りにつきました。1つの峠を、越えて「フーッ」とした感じです。
★今朝、8時半に、病室へ先生が来られる。ガーゼの取り換え。「退院しても、いいですよ」「毎日、シャワーを浴びて下さい。細菌を洗い流します」「え?毎日、ですか?」「ハイ、毎日です。5日後に、外来へ来て下さい。予約を入れておきます」「大変、お世話になりました。有り難うございます」
★高原修道士さんが迎えに来た。ホームの昼食に間に合った。ああ、やっぱり、ホームが、いいな。環境が変われば、呼吸がツライ。
★瀧神父さんが喜んでくれる。「行く前は、寂しい顔だったが、帰った顔は、ニコニコだ。いいなァ」

2020年8月27日木曜日

長く生きれば、いろいろ有ります。お任せの気持ち。お祈り、頼みます

人生、「まさか」「まさか」の連続です。午前中に、また又、諫早市の総合病院・皮膚科へ入院します。
担当のお医者さんは、女性の医師先生です。
きょう、手術が行なわれるでしょう。
どのような手術になるのか、分かりません。
病院は一緒でも、ステント入れ替えの時とは、違うでしょう。病棟の雰囲気は、どうでしょうか。
すべては、「おまかせの気持ち」です。
★今朝は、4時に起きた。無呼吸のCPAP(シーパップ)の機器があるので、荷が重い。荷物を2個にまとめて、押し車で、ホームの出口まで自分で運んだ。教会へ入ると、濱田院長神父さんと、高原修道士さんが既に席についていた。高原さんにメモを渡す。「9時20分、出発」。荷物は、持って来た、と言うと、高原さんは直ぐ席をたった。早速、荷を車へ積んだ。ミサで、耐えるチカラを祈った。朝食は、当たり前に食べます。看護師さんが、心配そう。
★昨夜は、夕食が終わった後、静かな気持ちで、「こころの時代」の録画を、初めから最後まで、見た。「ああ、これが、オレの人生だったのか。コルベ神父も苦しんだ」。自分の語りを聞きながら、身の引き締まる思いがした。終わりの映像に、ホームの庭で、聖母マリアのご像へ向かうところがある。
★そのとき、トマは、こんなコメントを語っている。「人間の弱さの中にも、苦しみ、痛みの中にも、何か、意味があるんだと、それでも生きる意味があるんだと、見い出したとき、いま有る存在、今日、一日、生かされたことを感謝しよう」。今朝は、その場面を背負いながら、気持ちを新たにして、病院へ向かいます。
★どんな展開になるか。無事に過ごせるよう、皆さんの見守りと、お祈りをお願いします。

2020年8月26日水曜日

入院・手術の前日、入浴し、写真を撮る。これも、み旨。果たして生きる

あしたは、入院・手術です。
朝から、体操が終わると、すぐ風呂場へ。
入浴しました。カラダを洗う、その、つもり。
入浴の前に、事務長さんに頼んだ。
「背中の、写真を、撮ってほしい」
確かに、これは、異物だね。
午前中、バッグを広げて、必需品を入れた。
昼食のとき、瀧神父さんが聞いた。「入院は、あした、か?」「ウン」「いつ、退院か?」「ワカラン」
1日、1日、生きている。「おまかせ」と、トマは、両手を大きく広げた。
自分でも、気取って、いるな、そう思った。枯れゲンキか。
トマが言った。A神父さん、B神父さん、C神父さん、D神父さん、E神父さん、と次々に故人となった神父さんの名前を上げた。
「彼らは、ほんとうに、若くして逝った」
トマが、また言った。「残された、オレは、長く生き過ぎたよ」
トマの心中は、ヤセ・ガマンだった。
瀧神父さんが、ナントカ言った。トマには「逝った人たちは、それだけで、み旨を果たしたんだよ」と受け取った。
昼食時に、最後まで、食卓に残ったのは、トマたちだけ、だった。
トマは「オレも、み旨を果たそう」そう決心して、あすを迎える。

2020年8月25日火曜日

オルガンを奏でて歌うシスターの訃報を知る。寂しい思いのなか、祈った

長崎の外海・出津にある「ド・ロ神父記念館」
館内を見学すると、担当のシスターが、ド・ロさまの「オルガン」を奏でて、優しい日本語の聖歌を口ずさむ。シスターのほほ笑み。心が、安らぐ、オルガンと歌。旅の疲れが、癒えて、信仰へのファイトが湧いてくる。あのシスターのオルガンと聖歌、忘れない。シスターが、101歳で、神に召されたと、新聞で知った。
晩年は、引退して、療養しておられた。
記念館の前で写っている4人の女性は、ウン十年前、トマが案内した、母方の従姉妹たちです。3人は故人となった。ド・ロさまが建てた教会を中心に、信仰を守った村の人たち。カガリを荷う3人は、「おんな部屋」と呼ばれた、シスターたちでしょう。
オルガンのシスターも、若い頃は、こうして働いた。
シスターの家は、記念館のすぐソバにあった。
並んで、ド・ロさまの学校、2階建てがあった。
村の少女たちは、ここで学び、技術を習得し、信仰を固めて、結婚して、ここから飛び立った。
その親たちから、大勢の、シスターや司祭、枢機卿も2人出ている。子供たちは、ここに集うのを楽しみにしていた。
「オルガンのシスター」の訃報を知って、祈りを捧げた。
★もう、いまは、出津にも行けない。シスターを思いながら、古い写真を並べたが、素朴な中にも、深い信仰があったのは確かだった。近代化、現実化の波に飲まれて、信仰は置き去りにされているのだろうか。寂しい思いが、ホームに居ても、する。

2020年8月24日月曜日

今週は、入院して、手術があります。あわてない。安らかな気持ちで

背中で、見えないが、写真に撮ると、やっぱり異常だね。
入浴した。広い浴場に、誰も居ない。湯のなかで、両手で、カラダをなでる。気持ちが、いい。
左手を延ばして、脇の下から背中へ向ける。
ギリ、ギリの場所に、この異物に触れる。「皮膚がん」
幸運だったね。今週は、入院して、手術する。
早く、見つかって、良かったよ。
入浴の後の昼食は、「冷やしソーメン」だった。
今年は、ソーメン、よく食べたな。
「苦しみは、外から、やってくる。喜びや、希望は、ウチから、湧いてくる」
生きているだけ、幸せさ。「アウト」「アウト」ばかりじゃ、ない。「安打」もあるし、たまには「ホームラン」も打つ。あわてない。さわがない。もう、この歳だモン。

2020年8月23日日曜日

暑さに負けるな。楽しいこと有ったか?過去は、今に、つながる喜び

今年の夏は、暑かった。
ホームの飲料水・スタンドも、盛況だった。
補充のため、大きな赤い車が、度々、庭に横づけになった。
だが、トマは、殆ど、使わない。
聖母の騎士の「ルルドの水」を飲んでいる。
「こまめに、水分の補給をしなさい」と、看護師さん。室内に居ても、熱中症にかかる。恐ろしい。老人には、特に注意が必要だ。
★老人に、もどる。マスクをして、普通に呼吸する。
普段の、何事も起こらない日々がつづく。
★午前中は、タンスから、裁縫箱を出した。ズボンのスソが外れて、履くとき、足がひっかかる。「縫って、止めなければ、ね」。黙々と、針に、黒糸を通す。ズボンを裏返しにして、縫った。ホームは静かだよ。自室のクーラーは、適温に設定している。
★昼食の後、しばらく、ベッドに横になる。足を延ばして、緊張を解く。すると快適になる。その後、パソコンを開いて、日記を書く。考えながら、書く。何かの、ヒントがほしい。「まあ、日記に、何も書けない日があっても、いいでしょう」とは思う。
★日記の後は、「教会の祈り」を唱える。聖書を読み、ロザリオで時間を過ごす。修道士は、お勤めを果たさねばならぬ。安泰と、平和、死者のため、祈ります。
★次に、窓を広く開け、廊下の扉も開けて、外気を、部屋じゅうに通す。その間、押し車で、廊下に出て、お湯、お茶、お水の共同のスタンドへ。ポットにお湯を入れる。そこには共同の冷蔵・冷凍庫がある。それが終わると、しばらく録画したテレビを見ることも。
★先日、老いて、認知症にかかった映画監督の言葉をメモした。「記憶、それは人が生きた証(あかし)。その記憶を呼び覚ますチカラを、『愛』と言う」。その言葉が、グッときた。老いて、認知症でも、作品制作に意欲を燃やしている。イケメンや、ヒーローを主演にすることなく、庶民の記憶を集約して、物語に仕上げる手法を取って来た。
★過去とは、過ぎ去ったもの、自分から離れたもの、価値のないものと思いがち。今は、ナンの役にも立たない。そうか、な。疑問が、湧く。「よい記憶も、よくない記憶も、人が生きた証である」「忘れたい、というのと、忘れたくない。表裏、一体」と、監督の言葉。何か、分かるような気がする。
★振り返って、自分に嬉しいことは、あったか。あったね。今朝も、言われたよ。「テレビの顔、若いね、いくつ?」。今年は、話題になる出来事が起こった。老いても、よかったと思ったよ。過去の集約だからね。過去は、今に『つながる』。出番が、あれば、ね。人生に、こういう恵み事って、あるんだな。実感した。旧友から、見知らぬ人から、便りが届いている。テレビの感想文です。過去を、有り難いと素直に思っております。
★老人になると、自ら問う。気は、確か、か? 「まだ、まだ、行けるぞ」の気持ちで、ふんばる。楽しいことの続編も、あるだろう。生きて居れば、ね。

2020年8月22日土曜日

天の元后聖マリア。「ルルド」のマリアさま。ホントに、きれかった

テレビで見た聖母の騎士の「ルルドのマリアさま」
こんなに美しいご像、お顔だちだとは、思いませんでした。
ホントに、ホントに、きれかった。美しかった。
普段は、遠くから見上げるので、気が付かない。
NHKのカメラ・レンズが、いいのかな。
初めて知った、マリアさまのお顔です。
コルベ神父が愛していた「けがれなき聖マリアさま」
今日は、教会では「天の元后聖マリア」の記念日です。
聖母の騎士の「ルルド」で祈ったことを思い出しました。
幸せだったな、あの日。
からだ、じゅうに、浸み込んで行ったな、お水。
マリアさまには、安らぎがある。十字架、殉教は、血と汗です。潜伏キリシタン達も、マリアに秘かに祈った。
そこには、母なる、優しい、慰め、眼差しが、ある。
★「人間は、ね。誰でも、ね。外見では、見ては分からない、痕跡をもっている。誰でも、その痕跡を背負いながら、生きている。どんな人でも、その痕跡があると思う。キズだよ。それを受け入れて、生き、耐えて行くしか、ない。私は、思うね。自分の人生を振り返って、ウン、簡単じゃ、ない、人間は」。この言葉から、私の番組のテレビは始まった。再放送がなされて、1週間になる。
★17歳で、聖母の騎士に入ったとき「真実なものを、求めたい、気持ちがあった。真なるもの、ゆるぎないもの、(原爆で、人間が、営々として、築いた物が、すべて破壊され、メチャ、メチャになった、その現実を見たからね)、なんか、こう、人間の底辺にあるもの、そういうものが分かるんじゃ、ないか。おぼろげながら、あったんだね」
★だが、結核・病気になって、「残る腎臓も、侵されて、アウト。私が、こんなに、がんばるのに、(神は)なぜ、私の道を、はばむのか、という気持ちは、あった」
★当時の、ポーランド人院長は、私の病状を見て、先の見込みは、ないと判断し、「出て行きなさい」と言う。助けてくれたのが、ミロハナ神父。同じポーランド人。ミロハナ神父は「苦しみは、100%受け入れなさい」という。「私は、その頃、7割ぐらいは、シンボウしてね。3割ぐらいは、グチを、こぼしても、いいじゃ、ないか」
★そんな私は、よくぞ、生きた。テレビは、よくぞ、私の人生を、まとめてくれた。安堵(ど)したのか、もう、腰骨のチカラが抜けたよ。

2020年8月21日金曜日

原爆医師・永井隆博士と聖母の騎士誌。「読売新聞」に掲載される

永井隆博士は、コルベ神父を診察した記事を書いた。
戦争中、永井先生は、軍医として、中国戦線へ。時折、『聖母の騎士』誌に、絵を添えて「戦地の便り」を載せた。
★戦争が終わった年の秋、トマが聖母の騎士に入ると、永井先生が、宿として学校内に宿泊していた。夜の自習時間に、永井先生が来て、いろんな話を聞かせた。その年のクリスマスは盛大で、御馳走もあり、永井先生も一緒にお祝いした。
★翌年、春。「聖母の騎士中学」が始まる。トマは、中三になる。永井先生が「理科」を教えた。
★秋、運動会の競技のため、大きな「アシジの聖フランシスコ」の聖痕の墨絵を2枚描いて下さった。(写真)
★その年の12月、『聖母の騎士』誌が再刊されると、永井先生は、毎月、原稿を書いた。連載は、逝かれる寸前までつづいた。
★トマには、永井隆博士(長崎大学教授)を知ったこと、また教えられた貴重な思い出は、先生の「平和を」の文字と共に、いつまでも心に残っている。
★今日の「読売新聞」に、永井先生と聖母の騎士誌の記事が載った。紹介します。

2020年8月20日木曜日

「心を、耕す」とは、心を「平和」にすること。いま、それを思い出す

1枚のハガキが届いた。
「テレビの『こころの時代』を見て、元気な小崎さんのお顔を見る事が出来、嬉しく思いました。トマさんから頂いた言葉『旅ゆけば、心耕す、出会いあり』『生かされて、今日も、祈る』の言葉を思い出し、日々、前に向かって歩んでいます」
「生かされて」は、度々使っているが、「心を、耕す」は、久しぶりに、思い出した。
「心を、耕す」の言葉を教えてくれたのが、公立小学校の女性教師だった。
★長崎・聖コルベ館には、カトリックや、他のキリスト教の学校の修学旅行生たちが、多く来ていた。その中で、公立の小学校が、来たいと言う。「ここは、カトリックの教会ですよ」と念を押したら、それでも「来たい」と先生は言う。
そして教えてくれたのが、「心を、耕す」だった。「価値ある出会いは、心を耕し、生涯、思い出として残ります」。保護者にも理解を求め、先生が下見にも来られた。
★トマは、旅人に、「旅には、3つの意味がある」と伝えている。
➀本物を見る。教科書や、本で、学んだ箇所の、実物に接する。これが大事。②地元の人との触れ合い。地元の食材・料理を食べながら、地元の人と語り合う。これも思い出になる。③自分が変わる。旅によって、自分の生き方に何かの味付けをする。これも大切だろう。
その意味で、「旅ゆけば、心、耕す、出会いあり」
★あの小学生たちの感想文が、すごかった。「人が喜び、幸せになるように、自分の幸せを分ける」「がまんすることで、自分を成長させ、幸せ、喜びを分かち合う」「平和の見方。平和とは、生きているものを大切にし、物を粗末にしないこと、鉛筆や消しゴムから大切にします」
★トマよ、お前は、あの時、シャンと、立っていたか。
「心を、耕す」とは、心を「平和」にすること」だった。

2020年8月19日水曜日

ホームの夜明け、長い1日。職員さんの働きで、呼吸をつなぐ幸せな日に

朝、5時。ホームの、暗い廊下を歩く。窓の外は朝焼け。空に、欠けた月がある。
教会へ。祈りから1日が始まる。今日の日を与えられた喜び。ホームに、入居者が70人ほど生活している。
70代から100歳まで、いろんな人生を歩んできた。
これだけの男性、女性が、静かな呼吸をしながら生きる。
そりゃ、波風が、立つときも、あるだろう。
3階の、自室に登るエレベーターの前に、職員の詰所がある。トマの耳に「ジャッチ・マン」との言葉が入った。「ナンの事?」。職員に聞いてみた。
ホームで生活している中で、職員も、なれ合いになる。「待っとって」「後から、来るケン」。ダメな言葉。
それらの言葉を、やめよう。入居者に、安心、安全、安らかな生活をして頂くために、優しい言葉を使おう。
職員たちが話し合った。介護の現場も、事務も、看護師も、ヘルパーも、総ての職員が意識改良して、初心に戻る。
職員同士でも、言葉使いを良くしていく。介護という大変な仕事の中でも、優しさ、ほほ笑み、正確さ、家族的な心を忘れない。ちょっと、おかしな言葉を聞いたら、日ごとに交代の役目、「ジャッチ・マン」が、注意する。「ちょっと待っとって下さいね」。いい言葉。
丁寧に、敬意を払う。
「ナントカ・ちゃん」は、ダメ。
「後から、来るケン」も、ダメ。
こうして、住みよいホームをつくりましょう。心のゆとりが、長生きにつながります。
感染症、転倒事故防止、身体の拘束、虐待防止、床ずれ防止など、色々な委員会があり、月に2回の会議がある。60人あまりの職員が活躍している。
★私たちは、ホームの職員さんたちに守られて、日々生活しています。その上で、職員さんは、毎月の誕生会の「出し物」で楽しませてくれるし、敬老の日、父の日、母の日、ひな祭り、室内運動会、1年の間には、他にいろんな日があります。職員さんは本当に大変だと思います。お盆もなかった。正月もない。今年は、特に、新型コロナウイルス対策で気を配っています。
★とにかく、安心して、暮らせるホーム。それが、ヨカです。ああ、きょうも、食べさせてもらって、介護を受けて、静かな夕暮れを迎えます。
★「人柄とは、笑顔、元気、主体性ですね」

2020年8月18日火曜日

日々、平常に戻るが、まだ心に余いんが残る。自分に正直でありたい

お盆も終わった。
聖コルベの殉教・祭日も終わった。
ふくれマンジュウの聖母被昇天祭も終わった。
「こころの時代」のテレビも終わった。
何か、気持ち的に、平常に戻った気がする。
「こころの時代」は、毎週、日曜日の午前5時から放送される。再放送は、その週の土曜日の午後1時からとなっている。
その日は、全国高校野球の関係で、午後2時15分からの放送になった。それでも、無事に映像が流れて、安心させた。
8月9日の日記には、カウントが、946と記された。
放送は、原爆の日と、聖母被昇天祭の日に当たっていた。自分的には、こんなに良い日はなかったと感謝している。お恵みだったと、素直に感じている。
県内3か所、県外1か所の、シスターの修道女院で、みんなで見ました、と報告が届いて嬉しかった。
★次のような女性からのお手紙も頂いた。(略あり)
「小崎さんのお話し拝聴しました。涙なくしては見られませんでした。人には必ず秘めた思いや、邪悪な心がある事を深く知らされました。ご自分に正直な方で、真正面から、神さまと、ご自分と、コルベ神父さまに向き合っていらっしゃる方ですね。
10年ほど前に、コルベ神父さまのお部屋、執筆なさっていた机を見学したことがあります。偉大な神父さま過ぎて、当時は、とても遠い存在と感じていました。
いま改めて小崎さんの話を聞いてみると、もっとも人びとの近くに寄り添っていた神父さまだった、と言うことがわかりました。イエスさま、みたいな方だったのだ、と」
★幸せは、愛を感じるとき。神の愛を、充分に受けたから、隣人に、100%、愛を返そう。コルベ神父は、なぜ、命をささげたか、の答えです。

2020年8月17日月曜日

小崎登明の紙芝居が出来た。誰か、この紙芝居を使って活動を願います

「原爆を見た17歳の夏・小崎登明さんの原爆体験」という紙芝居が出来ました。
発起人・企画は、末永浩さん、絵は、西岡由香さん。大きさは、横、42センチ、縦、30センチ。17枚に出来ている。そのうち、数枚を紹介しよう。
原爆の日の朝、母親との別れです。17歳でした。父親は、7歳のとき、病気で亡くなり、2人の暮らしでした。
原爆で、燃える長崎。「大変な、バクダン、だぞ」
小崎さんは、トンネル兵器工場で働いていました。身体にケガはなかった。外に出て、びっくりです。
一体、何が起こったのか、わけが、わからん。
お母さんは、どうなった?心配です。
家に向かって歩いたが、実は、ここには放射能が拡散していたのです。全く、知らない小崎少年。
まだ燃えていない、崩(くず)れた家々があった。
小学2,3年の少女が、泣いている。わめいている。
「どうしたの?」「家が、つぶれて、お母さんが、中に」。瓦(かわら)の下の隙間を見ると、黒い髪の毛が見える。でも、助けられない。「どうやって、瓦を除けるのだ」。小崎少年は、どうしようもなく、その場を立ち去った。「原爆って、いうのはね、助ける事が出来ない爆弾だよ」
自宅は、燃えて、何もない。焼け野原です。母は、自宅に居たそうですが、姿がない。行方不明のままです。
近所に、仲良しの3人姉妹がいました。小崎少年は1人っ子だったから、3人の女の子が大好きでした。
3人は、どこにもケガがない。「よかったね、助かって」
しかし、怖いのは放射能です。日にちと共に、幼い子から次々に死に、とうとう3人とも死んだ。
原爆の後、小崎少年は、コルベ神父さんが創った修道院へ入りました。修道士になりました。
修道士になった時、修道士の名前を、日本二十六聖人殉教者の中の1人、聖トマス小崎を頂きました。
聖トマス小崎は、長崎・西坂の丘で、15歳で殉教しました。修道院を創ったコルベ神父も、6年間、長崎で宣教した後、ポーランドへ帰り、戦争で、殉教しました。
修道士になった小崎登明は、コルベ神父の「愛と平和」の心を受け継いで、少年、少女たちに、平和の語りべとなった。
みんな、仲よく、暮らしましょう。助け合いましょう。
暗い世の中、明るい火を灯しましょう。戦争、内戦、イジメがないように、みんなで手を取り合って、愛と喜びを広げましょう。17歳の少年は、いま92歳の老人になりました。

2020年8月16日日曜日

野口嘉右衛門神父さんの思い出。オルガンで楽しくマリアの賛歌を弾く

北海道のトラピスト、野口神父さんから連絡があった。
「浦上天主堂の中で見つけたマリアさまを写真に撮ってほしい」
長崎市・浦上の片岡弥吉先生のお宅だった、と思う。
駆けつけて、撮ったのが、この1枚です。それは痛ましい聖母マリアさまのお姿だった。
野口嘉右衛門神父さんは、戦時中、兵隊へ出かけた。
復員してみると、浦上天主堂は無惨にも、瓦礫と化していた。
神父さんは、偶然にも、このマリアさまを発見する。神父さんは、大事に抱えて、北海道の修道院へ持ち帰った。
野口神父さんは、毎日、マリアさまに、平和を祈りつづけた。
ある時、聖母の騎士社から、小崎修道士が、トラピストの取材にやってきた。野口神父さんの仕事は、養豚。文を小崎が書き、同行の写真家が、子豚に牛乳を飲ませる神父さんを撮って、「カトリック・グラフ」誌に載せた。以来、仲良しになる。
野口神父さから、小崎修道士が呼ばれたのも、その縁であった。「このマリアさまを、浦上に返します。写真を撮ってください。写真のマリアさまを大事にします」。野口嘉右衛門神父さんは、涙を流して、マリアさまに別れを告げた。
返却の日に、記念の写真を撮ったのは、小崎修道士だった。
★「平和とは、なんだろう?」。小崎のアタマに、すぐ浮かぶのが「秩序の静けさ」だ。何かで読んだのだが、お母さんが、まな板の上で、包丁を使って、トン、トンと、野菜を切る。みそ汁の匂いがする。心地よい。だが、一方で、包丁を、振り回したら、どうなるか。殺傷事件が起こる。血の匂いがする。包丁も、正しく使えば、有利になるし、振り回せば、凶器になる。人間が作ったものは使いたい。有利に使えば、平和が保てる。
★何十年、経っていただろうか。小崎修道士が、北海道トラピストを訪ねると、野口嘉右衛門神父さんは老いていた。それでも小崎修道士を温かく歓迎し、聖堂に案内して、オルガンを開いて、神父さんは、マリアさまの賛歌を弾き、楽しそうな表情で、歌っていた。
★それから間もなく、野口嘉右衛門神父さんは、神の御元へ逝かれた。92歳だった。いま小崎修道士は、神父さんと同じ歳になっている。

2020年8月15日土曜日

聖母被昇天祭日。ホームの故人への祈り。浦上のマリア像。再放送で完了

午前中、ホームの人たちが、教会へ集まった。お盆でもある。この1年間に、逝かれた人たちの写真を祭壇の前に並べて、山内園長神父さん、瀧神父さん、大野神父さんのミサが行なわれ、安息を祈った。
園長神父さんは、「亡くなった人たちは、家族です」と言った。また、今日は、終戦の日にも当たっている。戦争で亡くなった人たちのためにも祈った。
★今日は、教会では「聖母マリア被昇天」の祭日です。合わせて祈りました。
この写真は、原爆前の、浦上天主堂の大祭壇に掲げられていた聖母マリアさまのご像です。少年の頃、原爆まで、浦上天主堂に通って、ミサ、ロザリオなど祈っていました。このご像を仰ぎながら、「戦争に、勝つように」祈っていた。
いま思えば、考えが狭かった。もっと、広く世界を見詰め、他の国とも仲良く生きるはずでした。
自分の国の事だけを考えて、裕福、発展を望んでいた。資源がないから、よその国に奪いに行く。それが正当だと思っていた。鬼のような気持ちを持ちながら、祈っていた。
★原爆で、あの大天主堂が崩壊した時は、近くの丘から眺めて、毎晩、泣きました。「なぜ、こんなに壊滅したのか。なんというバクダンか」。周辺は、原子野です。夜は、真っ暗です。天主堂は、何日も燃えている。上を見れば、万点の星空が美しく輝いていました。「あんなに、キレイな、星空があるのに、浦上の丘は、すべては瓦礫(がれき)、破壊、なぜ、なんだ」。泣いた思い出が、いまも残る。
★天主堂の美しい聖母マリアのご像が焼け落ちて、首から上の部分だけが残った。「被爆のマリア」さまです。2度と、戦争がないように、核兵器が使われないように、世界に平和がきますように、ホームの故人の思い出と共に、祈りました。
★午後2時15分から「こころの時代」再放送がテレビに映った。これで無事に、テレビの放映は終わった。昨年の12月、NHKからの1本の電話から始まって、思いもよらぬコロナの万延をくぐり抜け、再放送まで完了した恵みを、神に感謝した。もちろん再放送も見ました。後は、ディレクターに心境の手紙を書く仕事が残っている。見た人たちは、必ず、コルベ聖人の「愛とイノチ」に感動してくれるに違いない

2020年8月14日金曜日

コルベ神父の祭日。チェスを楽しんだ。負けると、くやしい人間らしさ

聖マキシミリアン・マリア・コルベ司祭殉教者の祭日です。
この絵は、大阪に在住の台湾人の女性・許書寧さんが、描きました。
マリアさま。白い冠と赤い冠。修道服に、聖母の騎士誌とロザリオ、強制収容所の服、16670の番号。燃えるような愛を表わす赤色のバック。そして白い十字架。
この絵の中に、コルベ神父さまの生涯のすべてが入っています。見事な絵です。それで載せました。
聖コルベを思うとき、沢山、沢山の苦しみを乗り越えて、悪に負けない戦いを成し、隣人に、最高の「愛と、いのち」を捧げる、そういう人だと思います。コルベ神父の生き方、死に方を知った以上は、それに見習いたい。その願いは、あります。
★コルベ神父は、多くの写真を残している。殆どが、数人から数十人の集合写真です。1人で写したのは、数枚しかない。その中で、笑った写真が1枚だけある。仲間の修道士と、チェス(西洋将棋)を楽しんでいる写真です。貴重な写真です。日記に載せようと、自室の写真を探したが、見つからない。
★セルギウス修道士から聞いた話。夕食後、聖体訪問があり、休憩時間となる。チェスや、ゲームや、楽器で楽しんだ。大抵、コルベ神父と、セルギウス修道士、グレゴリオ修道士などは、チェス組だった。コルベ神父はチェスが得意で、手加減することなく、真剣にコマを動かした。ある晩、チェスをしていた時、セルギウス修道士は傍で見ていた。相手の修道士が、あと一手でコルベ神父を負かすのが出来るのを気づかず、コルベ神父の番になったので、素早く教えてやった。修道士の勝ち。負けたコルベ神父は、何も言わないけれど、ニラミつける鋭い目で、私を見たんです。(なぜ教えたのか)トゲのある目だった。あの顔は忘れない。
★将棋の加藤一二三さんにお会いした時、コルベ神父が西洋将棋を好まれ、自らもゲームを創案されたと知って、特に親しみを感じています、と言われた。コルベ神父の列福式にも、列聖式にも、信仰を持って巡礼に参加しておられる。意外な所に、コルベ神父と親しみ、ゆかりがある人がいるのを知った。
★今日は、コルベ神父の殉教の日だが、愛のチカラなのか、穏やかな、和む日となった。明日、また「こころの時代」が再放送される。

2020年8月13日木曜日

「こころの時代」再放送。ぜひ見て下さい。修道士の実体験の語りです

お盆に入る。
ホームで、この1年間、逝かれた故人の写真が並べられ、供養の壇が、食堂に設けられた。
逝かれた人たちを、忘れない。
いつか、自分も、あの写真の額になる。
神父さんや、修道士さんで、逝かれた人は居なかった。
ホームには、仏教の入居者もいる。偲び、冥福を祈る。
ホームに入った頃、こんな話を聞いた。夫婦で、ホームに入ってきた。2つの部屋の間仕切りを外して、夫婦で、使った。間もなくして、ダンナさんが亡くなった。奥さんは、毎朝、熱心にお経を唱えて、ダンナの下の名を呼ぶのだった。そして「チン」を鳴らす。
ダンナさんが亡くなったので、間仕切りを元に戻して、2つの部屋にした。その1つの部屋に、ダンナと下の名が一緒の男性が入って来た。奥さんが、毎朝、ダンナの名を呼ぶと、隣の男性が聞こえて、答えて「ハイ」と返事する。奥さんが「チン」。どうやら奥さんも歳を重ねて、耳も遠くなったらしい。「ハイ」「チン」は日課となった。これは、いつも入浴のとき一緒になる、その本人の男性から聞いた話です。男性は、その後、部屋を変わった。あの奥さん、今も「チン」を鳴らしているか、どうか。
★朝、ミサの後、「ゆるしの秘跡」を受けた。むかしは「告解(こっかい)」と言った。浦上では、被昇天の祭日前に、信徒は「告解」する習慣があった。原爆が投下された時も、ちょうど天主堂内で、告解中であった。司祭も、信徒も、亡くなった。「ゆるしの秘跡」の前に、自らに問う。「死んで、神の御前に出たら、自分は何を問われるか」。その念頭で、自省する。老いても、汚れや、欲望は、あるものです。
★「こころの時代」の再放送が、15日の午後、テレビで出ます。92歳の修道士、小崎登明の語り。まだ見られていない人は、ぜひ、見て下さい。

2020年8月12日水曜日

平常の日常に戻る。「孤独のバッタよ」。生ある限り、生きつづけよ

食卓の横の編み戸に、「孤独のバッタ」が現われる。どこから、来たのか。「ホームの中には、入れないよ」
ホームに入って、もう6年が過ぎた。最初、入った当時は、悩みがあった。今までの仕事から一切、手を引いて、狭い自室の暮らしになる。「何を、して、いいのか。わからない」。そりゃ、キツかった。
でも、人間は、生きている限り、壁もあるし、喜びもあるんだね。「バッタ君のようには、孤独じゃ、ない」
★今年は、思いもかけず、コロナ時代で翻弄(ほんろう)されたが、それを、かいくぐって、「こころの時代」で放送され、トマには、いいしれぬ喜びと、元気が湧いて来た。放送の日の「日記」のパソコン読者は、何と、683人を数えた。コメントや、電話も、沢山いただいた。「ああ、生き抜いてきた甲斐は、あったんだね」と思ったよ。
★東京の女性から届いた手紙。(途中、略)「『こころの時代』を拝見しました。私は1944年生まれの主婦です。お話の内容は大変に感銘を受けました。若かりし頃、コルベ神父さまのことは本で読んでいました。特に最後の『ほほ』を叩いた人に、何と言われますかの質問に、『大丈夫かと声をかける』が、手を差し出して助けるか、どうかは、わからない、とおっしゃいました。この最後の言葉で、これなら私にでも、前に進めるかもしれない、という希望が湧きました」
★平常の日常が、戻ってくる。また自分の「からだ」との戦いが始まる。8月の末には「皮膚がん」の入院・手術がある。「孤独のバッタには、なりたくない」

2020年8月11日火曜日

「ざまァ、みろ」。あの先輩を助けるか。コルベ神父を知ったからには

「こころの時代」の最後は、長崎・聖母の騎士の「ルルド」へ登る。6月末の、さわやかな午前だった。
院長の山口神父さんと、高原修道士さんが付き添った。
ゼノさんが作った階段が、107段ある。
1歩、1歩、踏みしめながら、祈りながら、登る。
15歳のとき、結核を回復し、母に連れられて来た「ルルド」へ、いま登る。8年ぶりだった。
コルベ神父が開いた泉。あれから90年近くになる。キレイな水が、こん、こんと、湧き出る。
けがれなき聖母、ルルドの聖母を仰ぎ、挨拶して、マリアの泉を飲む。母と、一緒に、飲んだ泉。変わらない。
人生、どれだけの苦難があったろうか。悩み、喜びがあったろうか。泉を飲めば、すべて忘れる。
ほほ笑みに変わる。「マリアさま、導き給え、守り給え」
ディレクターが最後の質問をした。「『ざま、みろ』と告げた先輩に、いま、どんな声をかけますか」
トマは、即座に答えた。「『大丈夫か』か、それだけだね。手を伸ばして助ける事は、勇気がいる。だけど、コルベ神父さまを知った以上は、助ける人間になりたい、心の隅にある。起こして、助けるか、人間の弱さが、まだ残っているから、わからない」
母に連れられて来たルルド。原爆の朝、「行って来るケンね」と言って別れた。いま、ルルドのマリアさまに言う。「帰って参りました」
陽の光が、茂る樹木の葉の間から、サン、サンと輝いていた。安らかなルルド。人生、振り返れば、何度、倒れたか。コケたか。その度に、立ち上がって、前へ進んで、いま、ここに居る。「生きるとは、感謝の呼吸しか、ない」

2020年8月10日月曜日

渡部ディレクターさん、池田カメラマンさん、ご苦労さま。反響は好評

この度の「こころの時代」の番組を手掛けたディレクター・渡部祐樹さんです。番組の最後に、名前が出ていた。電話で話す中で「名前が出たら、写真を載せてもよかろう」と告げると、彼の笑いで、承諾の了解と受け取った。とにかく若いのに、熱心・緻密に、調査をするディレクターだった。「こころの時代」は、高名なお坊さまや学者さんが出ている。「修道士が出て、いいんかね」「それが、いいんです」
カメラ・撮影は、池田潤さん。以前も、映像を撮ってもらった、なじみの彼だった。特殊なレンズを持っている。その他、多くの製作・関係者たちのお陰で、番組は作られた。昨日の日記には、沢山の読者から、涙や、感動のうちに見たとの感想・コメントを頂き、トマも嬉しかった。番組の中で、ポーランド人修道者たちが紹介できて、本当に、喜びでした。「彼ら修道者のご恩は、忘れない」
昨日も、ガヨヴニチェックさんとの写真を載せましたが、今日のは、彼と握手している写真です。これには意味がある。ガヨヴ二チェックさんは、コルベ神父から「愛と『いのち』」をもらった。彼と、握手することで、コルベ神父の「愛と『いのち』」を、トマが受け取るのです。それを、日本の少年、少女たちに伝えたい。その心で「語りべ」を始めた。
昨年の7月、高来中学校で、「原爆体験」を語った。「こころの時代」の最後の頃に、その場面が出ていた。「助けなさい」「困難が来ても、逃げない人になりなさい」「赦す人になりなさい」。それを語るとき、いつも、ひっかかる事がある。今の世に、赦せるか。殺傷事件、交通事故、おれおれサギ、イジメなど、赦せない。解決を教えたのが、コルベ神父だった。悪は許さない。ナチの兵隊は、回心の眼差しで見る。自分の生き方は貫いた。「弱さ」に「希望」がある。それが今度の「こころの時代」の中心だった。トマには、そう思える。
★いま、「はな」ちゃんのお母さんが自室に入って来た。ホームで介護の職員を勤めている。「見たよ、テレビ」。見ながら、何度も、ナミダが出たそうだ。すると「はな」が、チッシュを持って、ナミダを拭いてくれた。セルギウスさんも知っている。ルルドにも登っている。「懐かしい」と言いながら、喜んで帰った。

2020年8月9日日曜日

「こころの時代」放送される。目に涙がこぼれる。取材班に感謝する

今朝は、4時に起きた。着替えて、身のまわりを行なって、修道服を着て、押し車を準備した。5時から、NHKテレビ、Eテレで、「こころの時代」が、いよいよ始まる。まだ15分ほど時間があった。しばらく心を落ち着かせる。「こころの時代」の録画の赤ボタンを押した。6時から、日曜日のミサがある。5時から、45分ぐらいは見れるだろう。コロナを苦慮しながらの半年間の取材・成果だった。
映像となって、テレビに流れる。先ずは安ど感。ディレクターや、カメラ・マンたちの苦労の作品に感謝する。ジーッと見詰めるトマの目に、ナミダがこぼれる。
どれも、これも、トマが発した言葉だ。行動だ。ウソ、偽りは、ない。これが真実だ。原爆を語るのも有るが、原爆の日を如何に生きたか、それがトマ・人生の根底となる。
「人が、生きることに、興味があります」
このテレビの最大の感心事は、ディレクターの熱意で、古いテープを掘り起こし、コルベ神父から『いのち』をもらったフランチシェク・ガヨヴ二チェクさんの声をポーランド語そのまま収録できたことだった。彼は、その時、40歳。コルベ神父に出会って、「あなたは結婚していますか、独身ですか」と聞かれている。「私は若く見えましたから、『結婚しています。子供も居ります』と答えました」。幸いな出会いがあったのです。
★早朝は、最後まで見れず、自室を出て、教会へ行った。長崎・原爆の日。母親や、原爆死した多くの人たちのため祈った。自室へ戻り、再び、朝の食事までの1時間を利用して、最初から、見た。録画には、言葉の字幕はなかった。我ながらに、感動したよ。やっぱり、ナミダが出た。感想を、便せん2枚に、メモする。こうしてトマ修道士、92歳の物語は完成した。今日は、ホームでも何人からも声をかけられ、数本の喜びの電話もあった。肩の荷がおりた、令和2年の、半分の歩みであった。嬉しかったよ。幸せだったよ。