2013年4月30日火曜日

大晦日のパウロ君の旅立ち。韓国への旅立ち。さあ、出かけるぞ

2人が出発の朝、5時25分に起きる。パウロ君は、ウドン屋に勤めているので、朝が早い。慣れているので、早く起きた。修道者と一緒に朝のお勤めをする。声を大きく、祈りを称えた。ミサ、黙想、聖務の祈りなど、一連の祈りを終わって、朝食。昨夜、遅かった院長さんに挨拶をする。「岡山のパウロです。お世話になっています。5月1日の夜、夜行バスで東京へ。2日の朝、関町の修学院へ入会します」。パウロ君、いい思い出になったね。頑張ってね。とにかく、君には若さがある。20歳の出発だよ。祝福するよ。聖コルベ館に入会前に来てくれて、「ありがとう。祈っているよ」。朝食の後で、2人は聖コルベ館を出発した。岡山で、パウロ君を降ろして、付き添いの男性(運転)は神戸まで。安全運転で、帰れよ。こうして別れた。★いよいよ、午後3時、韓国への旅に出かけます。今夜は、列車で福岡へ。ホテルに泊まる。明朝、午前中に、福岡空港から、釜山へ向けて飛び立ちます。無事に帰れるように、祈って、助けてください。見守ってください。この旅が終われば、お恵みがあるでしょう。


2013年4月29日月曜日

大晦日のパウロ・うどん屋青年が来た。ホントかよ、嬉しいなあ

こんなことって、あるんですね。喜んでください。2011年12月31日の大晦日の日、閉館前に、滑り込みで来た岡山の青年・パウロが来た。「小崎サン、喜んでください。志願院へ入ります」「ええ、ホントう」。昼食後、3時まで自室で休んでいた。聖コルベ館へ出る。庭に、黒い軽が停まっている。「ン?」。玄関に待っていたのは、ウドン屋のパウロ君だった。「大晦日のパウロです」「え?本当に、来たの?」「ハイ」。嬉しい。大きな喜びだった。「ホントかよ」。手をにぎって、何度も、握手をした。あの日、大晦日の日、パウロ君と岡山の若者5、6人が来た。次に、2回目、付き添いの神戸の男性と2人で来た。そのとき初めて、コンベンツアル会に入会したいと知った。功のときに洗礼を受けた。神父さんが、「修道服を着て、スポーツする会を知っているか」「知らない」「聖母の騎士の会が、そうだよ」と教えられて、「その会に入りたい」と憧れるようになった。奨学金を返す為に、古本屋で働く。料理を覚えたいと、ウドン屋に勤めた。3月で、奨学金の全部を支払ったので、「よし、入会しよう」と決心したという。「よーく、がんばったな」。2日前に岡山を出て、平戸・生月・外海を周って長崎へ来た。軽のなかで寝ている。「今夜は修道院で、ゆっくり休みなさい」。夕べの祈り、夕食を一緒に果たして、共同休憩をして、入浴して、眠った。「マリアさまに抱かれて、安らかに眠れよ」

2013年4月28日日曜日

外海でお祝い。1日じゅう不在。オンナ部屋アネさんの思い出

郷土・出身の神父さんが、司祭除階の金祝を迎えるということで、外海・黒崎教会でお祝いのミサがあった。司祭として、50年を過ごすことは、大変なご苦労と責任もある。同じ郷土・出身の司祭や、修道士、シスターたち(奉献者)が20人ほど集まり、多くの教会の信者さんと共に、感謝の祈りが捧げられた。このミサと、その後で、海辺の会場に席を移して、奉献者たちで祝賀会が行なわれる。楽しい1日であった。司祭や修道者が、この道に入るのは、神さまからのお招きがある。それを感じてのことだが、入ったからには、本人の努力も必要であろう。周りの人たちの支えと、祈りも大切である。しかし強く感じたのは、「ふるさと」だった。みんなを育ててくれた「ふるさと」である。「ふるさとは、遠くにありて、思うもの」でなくて、「ふるさとは、近くにあって、慈しむもの、感じるもの」だった。★こんな思い出がある。父は、黒崎で生まれた。3男だったから、外地へ出稼ぎに出る。北朝鮮の地だった。都市、3万人の日本人のうち、カトリック信者は、父と母と自分の、たったの3人。キリスト信者である重圧さえ感じた。ところが15歳のとき、黒崎に帰ってきて、天主堂や、信者の家々を眺めたとき、言いようのない喜びを感じた。しかし、それは建物、家の感動であったが、それ以上に、人間の優しさ、愛に感動した。中でも、大きな印象を与えたのが、オンナ部屋のアネさんたちだった。その中でも、特に、優しく要理や賛美歌を教えてくれるアネさんがいた。ふっくらっとした顔、少し太めのカラダつき。そのアネさんの愛と名前を忘れない。このアネさんに押されて、修道士になったのかも知れないとさえ、思います。

2013年4月27日土曜日

永井先生の会からの招待。この旅で、気力、体力、快復するかも

《韓国の李・大司教さまからの便り》「5月1日が永井隆先生の命日で、5月4日には、第4回の韓国・如己愛人賞受賞式がある予定です。永井隆先生の遺徳を偲ぶ集いでありますので、修道士さまのご臨席は、こちらの行事にいっそう光栄を添えることと思います。通訳の便宜のため、ご講演の原稿を前もって、イ・メールでお知らせください」。★早速、JTB旅行社へ出かけて、航空券を求めた。福岡から、韓国・釜山へ。往復で、1万2千3百円というキップがあった。「安いね」と言われる。飛行時間は、50分。楽しみは、ふくらんできた。この旅で、永井博士との思い出が、深まるやも知れぬ。何か、この旅で、気力も、体力も、気持ちも、快復するような気がみなぎる。韓国で、どんな交流が待っているのか。楽しみだ。★出発は、4月30日と決めた。★永井隆先生の辞世の句。「白ばらの、花より香り立つごとく、この身を離れて、登り行くらん」。亡くなった日のことをよく覚えている。1951年、昭和26年5月1日、病状が急変する。午前9時40分に、浦上教会・聖ヴィンセンシオ会の青年・壮年たちが、タンカで担いで、住みなれた如己堂を後にした。浦上天主堂の下を通って、大学病院へ入院。その夜の、午後9時50分、「イエズス、マリア、ヨゼフ」と絶叫して、亡くなられた。43歳であった。最後の様子を、恩師の田川初治先生が、詳しく語って聞かせたし、騎士誌にも掲載した。永井先生は忘れられぬ恩師となる。

2013年4月26日金曜日

韓国からのお招き。3度目。腰をあげて出かけるか。ゲンキ出せ

《韓国への、これまでの旅》。①8年前に、ソウルへ、小神学校の同級生の「ダニエル・ノー神父」の墓参りに行った。②6年前に、テーグの李・大司教さまの所へ行った。釜山から入る。《最近の韓国からのお招きの便り》。③昨年3月、李・大司教さまからのお招き。「5月、永井博士の日、来韓、いかがですか」。李・大司教さまは、度々、聖コルベ館にも巡礼に来ている。(写真)。返事は「見送ります」。④昨年11月、李・大司教さまから再度のお招き。「韓国・如己の会の新年会に来ませんか」。返事は「見送ります」。⑤今年の3月、李・大司教さまから3度目のお招き。「5月に、韓国如己愛人会の受賞式がある。来ませんか」。これほどまでに、お招きを受けているのに、さあ、今度は、どうする?⑥返事をする時がきた。《健康状態は、どうですか?》さほど丈夫じゃない。しかし今のところは、不自由はしていない。秋になったら、どうなるか。先のことは、分からない。カラダを大事にするよりは、ゲンキなうちに、楽しい思い出を沢山つくろう。85歳が、折り返し点だ。いま、動けるなら、少々、ムリしても行動しよう。《重い腰をあげて、計画を立てよう。5月の連休にめがけて》。⑦旅行者は、2人。小崎修道士と、介護者の白浜忠美さん(男性・長崎・本河内教会信徒)⑧韓国・テーグで、永井隆先生の話。依頼されている。なんだか、カラダが、わくわく、してきたぞ。★旅行は、その都度、移動して行くから、その場でのチャンスは1回きりしか、ない。ジンセイだって、旅と、おんなじだ。だから、苦しみも、楽しみも、これ1回きりと思えば、乗り越えられる。★韓国への旅。これが成功すれば、あるいはカラダが上向きになるのでないか、そう期待もしている。昨年はタツ年。自分のトシなのに、入院6回、苦難の年だった。今年は、ゲンキになるかも。

2013年4月25日木曜日

日記を書くのが遅くなった。ゲンキにしています。心配なし

朝から、散髪へ行く。スッキリとなって、聖コルベ館へ戻る。2人の見学客がある。修道服を着ていない。姿を現すのを、遠慮していると、事務室をのぞいて、「小崎サンですか?」。問われて、ああ、こりゃ、ダメだ。観念して、「黒長イスの方へ、どうぞ」。話に相対する。千葉から来ました。同じ教会のもの同志。「小崎サンの本、読んで旅行している。写真を撮らせてください」の願い。「本を買ってくれたらね。サインもしているし、ね」。修道服を着ける。記念の写真。本は、1人が3冊、もう1人は2冊、買ってくれた。もう、お昼になる。午後から、ヘルパー男性がきて、入浴の介護をしてもらう。ゆっくり自室で休んだ。もう夕方になって、祈りの時間になりました。日記の記載が遅いと、「心配するわ」という人も居る。「ごめんなさい」。ゲンキにしています。庭に、ジャスミンの白い小さな花が咲きました。

2013年4月24日水曜日

聖母の騎士の長崎・上陸記念日。83年になる。ゼノさん命日

コルベ神父(36歳)、ゼノ修道士(38歳)、ヒラリオ修道士(24歳)、3人のフランシスコ会修道者の長崎・上陸の記念日です。昭和5年(1930年)4月24日、午後1時過ぎに、長崎丸(5.500トン)は、長崎港の出島岸壁に着いた。東欧ポーランドから、長い旅の終わりであった。写真、上は長崎丸。中は、左より、ゼノ修道士、コルベ神父、ヒラリオ修道士の3人が上陸した。上陸するや、真っ先に、大浦天主堂を目指した。下の写真は、当時の大浦の家々である。天主堂側から、海の方へ向かって写している。このような四角い2階建て、木造の家が込み合っていた。あれから83年が経過している。今朝の食事のときの話題は、これであった。★4月24日は、又、ゼノ修道士の命日にも当たっている。コルベ神父はポーランドへ帰国し、戦争中に殉教したが、ゼノさんは最後まで日本に留まった。戦後は福祉の面で活躍し、東京で亡くなった。90歳と4ヶ月であった。府中墓地に眠っている。ゼノさんの功績は忘れない。


2013年4月23日火曜日

自分を励ます。このワクのなかに、自分らしさを見つける

いまの心境を、1筆、筆で書けと言われたら、「それでも、生きる」ですね。若い頃は、食べたいから、食べ、飲みたいから、飲んでいた。気持ちの、おもむくままに、自然体で生きていた。ありがたい気持ちは、あまり、なかった。それが、いまは違います。カラダ、ふぐあい、性格も弱いし、事の運びも、ゆるやかになる。それでも、自分のジンセイです。そのままで、受け入れて、抱いて、生きていく。この道は、もう、変えられない。このワクのなかに、自分らしさを見つけて、伸ばして、いささかの喜びが湧いてくれば、それで、いい。★小崎サンが書いたものが、なぜ読まれるのか。わかりません。ある任は言った。「歯にコロモを着せぬ、率直さがあるからだ」。そんな声を聞く。「そうか、なあ」。着飾っても、仕様がないからね。自分に、正直でありたい。それでも、笑われたくない、気持ちは、あるね。


2013年4月22日月曜日

ツツジ花咲く春よ。幸せの風も吹くよ。希望の光に満ちて

いま、長崎は、ツツジの花盛りです。どこも、かしこも、ツツジでイッパイ。ルルドの坂道にも、ツツジが咲きました。★若い頃は、燃えたよね。いま、老いてくると、冷めている。人間の心は、変わる。イヤだね。浮き沈みが、悲しいよね。ニンゲン、生きている間は、常に課題が残るんです。それが、また、いいじゃないですか。花を見ておれば、気持ちも、なごむ。「喜びましょう」「希望をもちましょう」「よし、やるぞ」。これですよ。★修道士も、忙しいんだね。それでも、自我を抑えて、応対すると、相手さんは、ひじょうに喜んでくれるんですね。修道服に、なにか、一目おいて、清らかなもの、自分たちと、ちょっと違う何かを感じるからでしょうか。修道士も、罪ある弱いニンゲンです。それでも、こちらへ入ってくる。ありがたいと、思います。


2013年4月21日日曜日

喜びなさい。最高の再会があった。神の導きに、カンシャです

昼食後、午後、自室で休んで、3時に聖コルベ館へ出た。資料室に、男性がいる。早速、声をかける。いつも、だいたい、3つの問いをする。「長崎へ来て、何日目ですか」「長崎は、初めてですか」「コルベ神父さんは知っていますか」。男性にも声をかけた。「山梨から来た。2日目です。長崎へは度々来ているが、ここは3度目です」。そう言って、1枚の写真を見せた。「バイクで来たときです」「え、え」と絶句。男性の説明によると、バイクが好きで、何年も乗っている。山梨から九州へ。3度目に来た時、駅の所で、小崎サンの「長崎あんない」(36ページ)を見つけて、これを頼りに初めて来た。小崎さんに説明を受けて、ビデオを見せられた。そして、もう1回来て、次に、2007年4月にバイクで来た。「その時の写真が、これです」と、見せられた。{上の写真)。「やあ、なつかしいなあ」。2007年だから、まだ苦難の前の年だ。「それにしても、アタマ、ボサボサだ」「小崎サンは、今度、来る時は、洗礼を受けていなさい」と言ったそうだ。「何か、変化は、ありました?」「ハイ、洗礼を受けました」「ええー、よかった」「娘が先に受けていた」「洗礼名は何ですか」「・・・」。すぐ出てこない。「大村の(殿さま)純忠(すみ・ただ)の霊名です」。そう言われて、今度は、覚えているはずの、純忠の霊名が出てこない。「ああ、思い出した。バルトロメオです」「そう、そう使徒の名でした」「聖母の騎士誌、読んでいる?」「『長崎あんない』見つけた時から(1983年)から読んでいます」「愛読者だね」「長崎オラショの旅も読んでいる」。こんな再会があるだろうか。30年前ですよ。1冊の小冊子を見つけて、バイクで山梨からやって来て、2度目は写真を残した。そして、いま、3度目。出会って、洗礼を受けてきたという。「ありがたい、再会だね。うれしかったよ」。男性も大いに喜んでいた。長崎へ興味を持ったきっかけは、高2のとき教科書で、遠藤周作の「沈黙」を習った。大学の時、「沈黙」を読んで、長崎やキリスト教に興味を持った。どのように導かれるか、わからない。「いま来た時、どこを回った?」「善長谷、神の島、外海、遠藤文学館」「ええ?善長谷にも、行ったの」。この度は飛行機で来た。「いま、何を感じる?」「沈黙は、助けるために、踏むのも勇気」「洗礼を受けて、変わった?」「最初は感動があった。いま教会の会計、頑張ってやっています」。大きな出会い。喜びの再会。偶然の1冊が、聖母の騎士へ。小崎さんが背中を押してくれた。「洗礼、受けて、来なさい」。実現した。すばらしい人生。この日、気持ちは、本当に、「最高に、良かったよ」



2013年4月20日土曜日

マザー・テレサのシスターたちが、祈りに来る。明るいホホエミ

「めずらしい服装をしたシスターたちが来たよ。一見して、すぐ分かる。「マザー・テレサのシスターだ」。大分から、クルマで、九州を横断してやってきた。「どこの、お国?」「日本、韓国、フィリピン、バングラディッシュ」。それから、もう1つの国を言ったが、覚えなかった。「これだけ?」「まだ、修道院に、5人居るよ」「どうして、いしょに来ない?」「クルマに乗れない」。男性はフィリピン人の神父さん。彼らが話す言葉は英語です。クルマの胴体に、「修道会」の名前があった。「マザー・テレサは活躍するね」。シスターたちは貧しく生きている。低所得の人たちと、仲間だ。「感心や、ね」。行動する者には、何もモンクはいえない。大切なのは、祈り、働け、です。祈らないと、稔りはない。「自分が働くのではなく、神さまが働いておられる。自分たちは、神さまの道具でしかない。コルベ神父も、そう言った。根幹のところは、変わらない。シスターたちは、お弁当を食べて、ルルドへお祈りに行って、ゆっくりと巡礼の時間を過ごしていた。「マザー・テレサよ、貧しさへの恐れぬチカラ、与え給え」


2013年4月19日金曜日

平成25年度、最初の修学旅行。大阪の小学生だった

「やあ、大阪の小学生がやてきたよ。ゲンキだね。「シャシン、撮って、撮って」「先生も、入ってよ」★午後から、あわただしかった。ヘルパー・介護男性が来て、入浴させてくれる。ゆっくり湯につかって、休んでいると、来客があった。★学園の卒業生が、神奈川から来ている。奥さんも一緒。ダンナさんは「日記」の毎日・読者。奥さんは「騎士誌」の愛読者。「お会いしたい」と。あわてて、自室を出る。「やあ、変わっていないね」と大喜び。お互いが、満足の出会いとなった。★すると電話で呼び出される。「大阪の小学生たちが、100人あまり、10分後に到着です」「ええ、なんて?」。午後4時から、長崎県内で働く修道者たち(司祭・修道士)の集会もある。「どうしよう?」。教会へ降りて行こうとすると、「エレベーターは点検中」「ええ、なんで」「小学生たちが到着しました」「聖コルベ館で、ビデオを見てもらい、ルルド、買い物の後、教会に集まってください」と指示。★教会で待っていると、小学生たちが、みな、揃った。皆さん、聖歌を唄う。心が引き締まる。次いで、お祈り。平和学習の話しが始まった。小学生たち、みな熱心に聞いている。「平和の原点は、人間の痛みが分かること」「助けてあげる。許してあげる。困難が来ても逃げない人」。明るい小学生たちだった。「お名前は何と言うの?」「小崎登明です」「ここにお名前、書いてください」「よし、書いたよ。写真を撮ろう。あなた、何んと言う名前?」「ゆみ、です」「ゆみ、って?」「唯未、と書きます」「さあ、入って、ブログに載せるからね」(上の写真)。「ボクたちも、撮って」(下の写真)。皆さんは、今朝、大阪を出て、長崎空港に到着。昼食後、浦上天主堂から聖母の騎士に回ってきた。ゲンキな、いい子ばかりだったよ。★とうとう、修道者の集まりは、前半は不参加となる。共同の祈りと、会食には参加した。「ああ、あわただしい日だったよ」


2013年4月18日木曜日

樹音(じゅ・ね)の夫妻からの手紙。その節は、ありがとう

広島市西区の夫妻から、封書が届いた。「トマさんへ」とある。「3月15日の登明日記に書いていただいた者です」。その日の日記を探してみると、樹音(じゅ・ね)を吹く夫妻が載っていた。「ああ、覚えているよ」。樹音(じゅ・ね)とは、クルミやカリンの木を、手のひら程の大きさで、中を繰り抜いて、前に4つ、後ろに2つの穴を開けて、上の細くした部分から吹くと、音が出る。これを吹く夫妻の物語が記してあった。「トマさんが書いてくださった日記を、広島や、旅行先で友だちになった方たちに渡しています。『何よりも、長崎みやげだね』と喜んでくださいます。『十七歳の夏』を読みました。神さまから健康を与えられ、聖コルベ館で語り部として、トマさんにしか出来ない尊い日々を過ごしてくださるようお祈りしています。原爆、コルベ神父、アウシュヴィッツ、ゼノさん、永井博士、聖母の騎士、殉教者、長崎の教会群、トマさん、大変だァ。聖コルベ館で、BGMがかかっていたので、CDをかけてもらったら嬉しいです。新婚旅行のときに、訪れたショップでかかっていた樹音のCDです。コカリナ奏者の安川誠さんが樹音の生みの親です。私たちは樹音だけでなく、安川誠さんも紹介したいと思います。長崎から帰って、2人とも祈りの最後に、「主よ、信じます。私たちの信仰を強めてください」と祈るようになりました。「祈りを、忘れては、いけないよ」と、トマさんのお母さんはおっしゃったのですね。未熟な私たちの祈りも、神さまは聞いてくださると信じて、祈ります。また、トマさんに会いに行きます。★広島の樹音の夫妻さん、信仰の音を吹きつづけてください。又会いましょう。



2013年4月17日水曜日

笑え、ウァ、ハ、ハ、ハ。笑えば、ボケないぞ

アタマを働かせ。作文、書けば、ボケないよ。アタマのなかで、整理するからね。クチを働かせ。語り部で、しゃべれば、ボケないよ。若者、中学生たちのゲンキな息を、吸収するからね。ありがたいよ。「笑え」「大いに、笑へ」「ウ、ハ、ハ、ハ、ハ」。それで、いいのだ。ボケないよ。「カンシャ、カンゲキ、あめ、あられ」って言うでしょう。感謝する者、感激する者、これもボケない。感謝は「ありがとう」。感激は「おかげさまで」。電話の応対が、いかんな、と言われた。最後に「どうも」でなく、「失礼いたします」「お声が聞けてうれしいです」「お電話ありがとうございました」。これが、いいそうです。効果があるかな。テストするよ。「やあ、いつもゲンキだな」と声かけられると、なんと答える。「あたりまえや」(ペケ)。「おかげさまで」(マル)。「きれいな花やね」「あたりまえや」(ペケ)。「野の花を見よ。感動ものだね」(マル)。ジンセイは、明るく、行こうーぜ。

2013年4月16日火曜日

出会いに、慈しみを。マリアさまが助けてくれます

珍しいシスターの見学客があった。「東京の聖ヨハネ会です」。ヨハネ、と聞いて、すぐピンときた。「ああ、病気の人を介護する会ね」。大体、当たっているらしい。左側の2人は姉妹で、姉は長崎・地元に住んでいる。右のシスターはオーストラリア人だった。ゆっくり、聖コルベの愛に浸りながら、お恵みの時間を過ごしていた。食堂で、シスターの話を出すと、邦人の修道女会らしい。「戸塚文卿神父さん」の名前が、懐かしく出ていた。シスターとは、込み入った話はしなかったが、マリアさまの信心を少しばかり語った。「聖コルベは、けがれなき聖母マリアへの完全な奉献者だったからね」。★朝の祈り。「恵み豊かな神さま、きょう1日、誠実に生きて、まごころをもって、人びとに交わることが出来ますように、御身の慈しみをあらわしてください」。★この世は、苦しいじゃないですか。悲しみもイッパイあるじゃないですか。この苦しみ、悲しみを、温かく、受け止めてくれる人が居ても、いいじゃないですか。マリアさまだよ。そう思うと、手をイッパイに広げておられる。ナミダが、ジワーっと出てくるよ。マリアさまって、高貴な女性じゃなくて、普通の、井戸端に居られるお母さんですよ。安らぐよ。今夜は、ゆっくり眠れるよ。

2013年4月15日月曜日

祈り、働け。口でも、手足でも祈る。神に向こう行為が奉仕

昭和の、レトロな街角の写真です。昔が懐かしいよ。よかったね、あの頃は。人間味もあったし、純情だった。心が優しかった。こんなポストも、自転車も、あったッ、ケ。ただ、チョット、おなかが、出っ張り、すぎじゃない?★毎日、朝は5時に起きている。朝の黙想で、北海道のトラピスト修道院・院長さんの記事を読んだ。「33人が居る」とか。一番、感心するのは、助・修道士の祈り、働きだそうだ。黙々として、修道院内という「ワク」の中で働いている。社会に出て、奉仕することは無いが、生活自体が、神にのみ、向かっている。そのことが、すばらしく、他者への奉仕にも成っているんですね。★聖書にも、マルタに向かって、イエスは「マリアは、いいものを選んだ」と言われる。★トラピスト院長さんは書いている。「口で、祈り、手足でも、祈る」。これが「祈り、働け」ですね。★同じようにアンドレア崎辺修道士をも思い出しましたよ。「彼は、祈りと、修道院の内部での仕事に忠実であった」。皆、暗黙のうちに尊敬している。「アンドレアさんは外部に働かなかったが、その徹した生活が、神へ向かう奉献が、立派に、他者への奉仕に成ったのです」


2013年4月14日日曜日

遅い春が始まる。ゲンキを出そう。気分も快調なり

ああ、今年も、ジャスミンの芽が出たね。聖コルベ館の木に、緑の芽が吹き出してきた。これも、イノチの誕生だね。一粒のタネが芽を出し、花を開かせ、実をつけ、大きな樹木となる。人智を超えた大きな存在を感じないか。自然を支える緻密さに驚く。ジャスミンの木は、春になると、必ず芽を出し、花を開かせ、収束をつげる。ヒトは赤ちゃんの時に死ぬ者もおれば、100歳までも生きる人もいる。しかし短く生きようが、長く生きようが、①愛された。②愛した。③感謝されている。この3つがあれば、その人の人生は十分ではないか。生きる価値は有った。ヒトは嬉しいとき、無意識に、とっさに言う。「ああ、よかった。ありがとう」と。これが人間の基本的な感情かも知れない。「感謝だよ。ありがとう」。そう言われる人になれば、幸せだろう。★去年の今頃の日記を見てみた。入院で、大変だったよ。ジャスミンの芽は遅かった。オレはまだイノチをつないでいる。体調は快適で、心配は、ない。心に、やましさも、ない。すべては恵みのなかで運ばれている。


2013年4月13日土曜日

アメリカからも「ブログを楽しみ、読んでいる」。ありがたい

ブログを読んでくださる皆さん、うれしいです。多くの方が励ましてくれて、ありがとう。4月の3日から、お腹をこわして、大変でした。でも、お腹の中が、スカーッとして、おかげで、体重が、2Kg減って、いま、53・5Kgで、この体重を維持して、食べ過ぎないように努力しています。カラダが順調です。先のことは、わかりませんから、今を楽しんで、生きて行くつもりです。★ところで、この度、アメリカの女性から、次のような手紙が届いた。「いつもブログを楽しみに読んでいます。4月4日から体調を崩されたようで、遠いアメリカからお祈りしています。3月中旬にポルトガルのファチマに行ったときに見付けたロザリオを同封します」。アメリカの人も見てくれて、うれしいですね。ロザリオはありがとう。★「ロザリオで、平和を祈りなさい」とは、ルルドやファチマの聖母マリアさまのお願いです。祈りましょう。なんだか、心が癒され、和むのを感じます。

2013年4月12日金曜日

人生とは何かと問えば、この心境にある。志を遂げて帰ろう

ある本で読みました。お医者さんの指摘です。この言葉は、「小学唱歌」の「ふるさと」の歌詞にあるそうです。「こころざしを、はたして、いつの日にか、ふるさとへ、帰らん」。いま、この心境ですね。ジンセイとは、何か?と問われれば、この言葉を臆面もなく挙げるでしょう。生きる意味は、なんぞや?ジンセイ、生きていいのか。悩むときも、ある。その答えは、これですよ。志を果たして、自分が生きた証を立てようではないか。人のために尽くすのも、いいだろう。自分を精進するのも、いいだろう。ヒト、それぞれに、生き方が、ある。★先日、京都から、初老の夫妻が聖コルベ館に来た。手に「長崎オラショの旅」を持っている。サインもあったので、びっくりした。ダンナさんはカトリックで、しばらく教会を離れていたが、また戻った、と言った。そこで、「なぜ、帰れたのか?」と聞くと、答えた。「もう、歳をとってきたので、自分を律したい」。その言葉が、気に入った。ニンゲンって、心の底辺の、どこかで、「自分を正したい」という心情があるんですね。奥さんは、カトリックでないと言われたが、率先して、話しかけてくるし、気安さを感じた。喜んで、帰られた。「いつの日にか、ふるさとへ」。つまり、神さまの元へ、帰りましょう。それで十分です。★いま、悪いことが、起こっていても、いいことも、付いてくるよ。希望を失わないように、しよう。


2013年4月11日木曜日

こういう出会いもあるのか。50年前の思い出話の娘さんが

むかしの実話です。あの頃、まだ若かった。長崎から東京へ。当時は寝台列車を利用していた。広島あたりで夜があける。東京はまだ遠いので、広島で途中下車をして、1つの用件を果たした。降りて、改札へ行くと、キップがない。財布もない。「あッ、車内に忘れた」。発車ベルがなる列車に、あわてて飛び乗った。何んと、忘れ物は、車掌さんが駅員へ渡したところだった。すでに本人を乗せて急行列車は発車した。20分ほど走ったか、やっと次の駅に降りて、折り返し列車を待った。40分ほど待って、列車が入る。空いている席に座ると、窓辺に『聖パウロ物語』が置いてあるではないか。老人が眠っていた。目をさまして、お互いに、カトリック信者と分かって、話がはずんだ。最近、洗礼を受けたという。信仰を語り、慰め、励まして、別れた。広島で用件を果たして、急行列車に乗り、東京方面へ向かった。列車内は混雑していた。1つだけ、席が空いている。そこへ座った。なんと、目の前に、あの老人が居るではないか。「ああ、また会いましたね」。すっかり意気投合して仲良くなった。この近くの都市で、材木商をしているが、いろいろ困難がある、悩みもある、という。その悩みとは「自分は若い頃、いろんな体験をやり過ごした。因果応報もある。自分はこれで救われるか悩みます」と言った。若い修道士はそれに答えて次のように慰めた。「救いは神さまのお恵みです。私たちに資格があるから救われるのでなく、お恵みとして与えられます。素直に心を開き、その恵みを受けましょう」。その後も、訪ねて行ったり、文通を交わしたり、交流がつづいたが、もう亡くなられた。思いもかけない2つの出逢いが、ご縁をつなぐこともある。「ジンセイには、こんなフシギが、度々あると思う」。老人には、娘さんが居られた。時々交流をさせてもらっている。何10年のおつき合いだ。「ピン、ポン」。聖コルベ館のベルがなって、入って来たのは、あおの老人の娘さん(と言っても、もう熟年)とダンナさんの夫妻が姿を突然、現して、ビックリさせた次第だった。「よー来たね。ゲンキしとった?」「小崎サン、ゲンキそう」

2013年4月10日水曜日

5日前の別れ。平穏に、修道士は、神の御許に旅立って行った

今月の1日、島原半島・オバマ温泉へ行く途中で、病院に、先輩の修道士を見舞った。安らかに、寝息をたたて、休んでおられた。自分で食事の摂取ができない。胃ろうは断り、点滴の栄養だけでイノチをつないでいた。痛みはなく、横たわっていた。耳元で、「アンドレアさん、アンドレアさん、トマだよ。聖母の騎士のトマですよ」と告げると、寝息をやめて、閉じていた両目をパッチリと開いて、こちらを見た。「ああ、わかっているんだな」。言葉は交わせなかったが、心の交流ができて、慰めとなった。看護師さんが寄ってきて、枕辺の「タマゴ」と「天使の絵」を取り上げて、「これ、何ですか?」と聞いた。「復活祭です」と答えたが、意味は通じなかった。(イースターといえば、よかった)。看護師さんが言った。「崎辺さんは、名前を呼んでも返答してくれない。アンドレアさんというと、応じてくれます」。アンドレアの意味も分からないらしい。それを聞いて、「さすがは、アンドレアさんだ。徹底している」と思った。「誰が、一番、価値のある生き方をしているか。神さまの国に行ったら、わかる。この世の価値と、神の価値は、違うもんね」。アンドレア崎辺修道士の言葉だった。あの出逢いから、5日めに、神に召された。痛みなし、平安のうちに、静かに旅立って行ったであろう。善人の死は、安らかだ。自分も、あのように、召されたいと願う。死も人生のうちだ。誰もが、自分の死について、考えておくべきであろう。


2013年4月9日火曜日

1枚の写真の行方。時代は流れ、人は去り、オレは長生きするぜ

1枚の写真がある。右下の年代からすると、1年半ほど前のスナップです。左から、長崎出身の橋口修道士。中央が平戸出身の崎辺修道士。右が、おなじみトマ小崎修道士。80歳以上で、聖母の騎士を守る3羽カラスといわれている。真ん中の崎辺修道士が、体力の衰えを感じて、老人ホームへ行く記念に写したものです。あれから、人の移り変わりは、激しいですね。昨日が、真ん中の、老人ホームへ行った崎辺修道士(86歳)の葬式でした。故郷を捨て、家族から別れて、修道士になったからには、孤独に耐えて、ひとり修道・奉献生活に、それは、それは精進してきた。主に、院内で、隠れた支え手として、掃除や食器洗いや、営繕の仕事に徹してきたのです。だから告別式には、弔電は1つもなく、参列者も、まばらでした。そこでトマ小崎修道士が、式中にオルガンを弾いていた赤尾院長さんの許可をえて、「天国へ、見送る、ことば」を読み上げました。その真意は「アンドレア崎辺さんは、古典的な修道士の生き方の模範です。昔ながらの修道者の生活を、真っ直ぐに、ぶれることなく、貫いた生涯でした」。これです。1つの役目を果たして、トマ小崎修道士は一応、満足でした。葬式が終わって、皆が食堂に集まった時に、隣の席には、(写真・左の)橋口修道士(79歳)が居た。彼が、トマ小崎修道士に、こう言ったのです。「トマが死んだら、送る言葉を、言って、やるねんな。病気ばかりで、60歳しか生きないハズのニンゲンが、85歳、それ以上、生きた。神さまの使命があった。そかし人使いは、荒かった。でも優しいヒトだった」と。トマ小崎修道士は、それを聞きながら、実際に、当を得ているので、「人使いが、確かに、荒い。オイ、これを、せろ。あれを、運べと、命令調が多々ある」。それで、トマ小崎修道士は、ただ、ヘラ、ヘラ、笑うばかりであった。この日、橋口修道士は、老人ホームがある湯江修道院へ転任して行った。今日から、トマ小崎修道士が、1人残された。「さあ、もっと長生き、するぜ」


2013年4月8日月曜日

大阪から軽で、来る。貧しくても愛があれば、幸せです

午後、自室から聖コルベ館へ出ると、庭で、目の前を、軽自動車が、よろよろと、坂を登ってきた。まるで疲れたような車だった。ナンバーは「なにわ」。大阪じゃないか。「あれ?クルマで来たのかな」。しばらくすると、館内に入ってきた。5人家族。若いご夫妻と、3人の子どもたち。5人、みな、カトリック。5年前に、奥さんが、何かに惹かれるように、教会へ。3人の子たちと一緒に、洗礼をうけた。後で、ダンナさんも洗礼をうける。休みを利用して、ダンナが「長崎へ行きたい」。奥さんも「聖母の騎士へ行きたい」。軽で、15時間かけて、やってきた。奥さんは霊名「マキシミリアナ・コルベ」。とにかく、聖母の騎士へ行きたい。「よーく、来たね」。セルギウス修道士の名も、トマさんとも、呼んだ。「騎士誌の読者です」「15時間、走って、何回、休憩?」「4回かな」「高速を来たんでしょう?」「いや、下の道。2号線と、3号線」「しかし、また、よく来たよねえ」「もう、帰ります。仕事があるから」「写真、とらせてよ」。この写真、見てごらん。ちょうど、並び方も、平和なリズムがある。愛があれば、貧しくても、いいよ、ねえ。そんな感じも家族だった。こちらも癒されたよ。「帰りは、高速?普通の道?」「決めていません」。家族は、ルルドのお参りして、帰って行った。


2013年4月7日日曜日

日曜日の朝です。おかげで立ち直りました。見守りに、カンシャ

心配させて、すみません。何とか、また生き返りました。急に、腹部が痛くなって、おなか、ゴロゴロ。激しく鳴り出し、下から水分が噴射すること、20回あまり。尿管が大腸に進入したのかと、さえ思い悩みました。2回、大量に、嘔吐する。はいたんです。こうなると食欲が全くなくなり、テンプラを思い出しても、チャンポンを連想しても、全く食べる気がしない。尿量が少なくなり、腎臓は大丈夫か、腎機能は保っているのか、わかりません。クリニックへ診療に行く。クスリをもらい、点滴を打ってもらう。やっと昨夜から、共同の夕べの祈り、ロザリオ、聖務日課に参加し、感謝の祈りを捧げました。しかし、声が、まともに出てこない。まあ、そのうち、出るようになるでしょう。老人の体調の変化は、油断が出来ません。原因が全くわからない。食中りでも、ない。それにしても、おなかのゴロゴロ、引っ切りなし、「カミナリが落ちるが如し」とは、よく言ったものです。「シェーッ」とか、「グルグル」とか、さまざまな音が出ていた。やっと、それも治まった。「さあ、希望を持って、また始めよう」「日記を見てくださる皆さん、ご心配をかけました。引き続き、見守ってください」


2013年4月6日土曜日

思わぬ事態。カラダ弱い、情けない。食事の話は、はずむ

まだ、ホンモノでない。声が、正常に、出ない。ガマンして、食堂へは行っている。食欲はないが、ご飯を食べないと、ゲンキも出ない。皆さん、心配してくれる。まあ、歳もとっているので、厳しくは言わない。食卓に、春休みで、人も多い。9人も居ると、話題もはずむ。鳥の話になった。「とりもち」の木。この木の北限は、聖母の騎士の近くになるらしい。(カーナビに出ている、とか)。鳥と言えば、メジロ。ウグイス。それに、カラスだね。ルルドには、いろんな鳥が鳴いている。それは賑やかです。「空のトリ」の歌を歌うには、最適の雰囲気だ。すると、カラスがじゃまをする。「カラスが笑うのを聞いたよ」「へーえ」。みな感心する・。「カア、カア、カ・・アハハハ」。爆笑、食卓は盛り上がる。「オレのハラだけ、ゴロ、ゴロ、だ」。声が変わって、正常な音がでない。自由に、話もできぬ。「くやーしい」。これらの修道者に愛されて、死にたい、そう思って、その夜は,寝た。

2013年4月5日金曜日

寝ています。なぜ、こんなに、なるのでしょうか

自室から見る長崎市内です。体調は未だに良くならない。困ったものです。つづいて休んでいます。食欲がまったくありません。食べないと、ゲンキがでない。病気に負けるな、と自らを戒めても、ニンゲンは弱いです。じーっと、耐えるしかない。医者に、行くか。行くまいか、迷う。心配すれば、キリがない。尿量が少ない。腎臓の機能は、大丈夫か。ステントが入っている。正常を保っているか。あまりにも、下からの水分の放射が激しいので、尿が大腸から出ているのでないか、とさえ誤解してしまう。むかし流に言えば、大腸カタルか。おなかを冷やさないことだ。ビオフェルミンを飲んだ。様子を見るしかない。

2013年4月4日木曜日

老人の体調は、なぜ、こんなにも変化するのか

「どうして、こんなになるか、わからない」と、老人はつぶやいて、ポンをヒザをたたいた。「体調が、ストンと、底まで落ちる。「ヘンじゃ、なあ」と、、また、うつむいて、つぶやいた。もう、ダメだ。腹が痛い。2度、嘔吐した。下からの噴出、20回あまりも。「ああ、なんと言うことか」

2013年4月3日水曜日

島原の3日目。長崎へ帰る。シスターのご苦労はなし

「周って、帰る」とだけ書いていたら、コメントに、「新しい発見がありました?できれば公表してください」と記されていた。「新しい発見、ね。ありましたよ」。それが、この2人の出会いの写真です。2人は高校1年5組の同級生なんです。男性は、元・学校で一緒に居た教頭先生。いまは退職して、オバマ温泉の近くに住み、周辺をドライブして欲しい時に、いつも頼んでいる先生です。先生が言った。「同級生が、シスターになっている。短大出て、大学教育学部を出て、障害者の施設で働いている」というんです。「そうね、会った事はあるかも知れないが、あらためて会ってみたね」。それで山の修道女院へ連れて行ってもらった。2人は同級生だったが、もちろん、行く道は違っている。女性の方は短大を出たとき、普通児童と、障碍者の児童と、教育に差があるのを知った。それで、教育学部に学んで、洗礼を受けて、とうとうシスターになってしまった。教頭先生は、若い頃、シスターが知的障害者の学校で、バケツに雑巾を持って立っている。お漏らしをしたら、黙って、キレイに拭ってあげている。それを見て、感動し、どうして、そこまで、やれるのか、損得ぬきの愛情だ、と感じたと語っていた。シスターの働きには、人知れぬご苦労が多いのだろう。シスターに会って、心が温まる日だった。

2013年4月2日火曜日

山の修道女院の墓地。死者との、つながりで生きている

この日、山の修道女院の墓地に、お墓参りに出かけました。幻想的な写真でしょう。雨が降っていてね。煙った向こうから、僅かな光が差し込んでくるのです。「死んだら、あの人に会える」。誰もが、そう思うでしょう。思える人は、幸せです。お花も数本、追加しました。亡くなった人が、見守ってくれる。それも小さな信仰でしょう。人は皆、つながって生きている。ニンゲンとは、もともと、そういう存在だと思います。祈れば、心が安らぐのです。お勤めを果たした気持ちになるのです。死んで行った人たちも、皆、大切な人たちだった。自分が生きつづける限り、彼らも生きつづける。

2013年4月1日月曜日

春の島原半島へ。サクラ散り、菜の花が満開。遠くに有明海

新年度が始まった。天気晴朗。春の島原半島へ出かけます。定宿・富士屋さんに泊まる。オバマ温泉です。入室は、午後の2時ですから、それまで春の野原を走ります。体調が良好な時には、気持ちも晴れ晴れする。白浜さんの運転で、軽は、山野を走った。「新聞に載っていた、菜の花畑へ行ってみよう」。そりゃ、爽やかでした。遠くに「有明海」が見える。諫早干拓も見える。広大な工事ですよ。一目りょうぜんです。江戸時代から、明治、大正と掛けて、干拓して行ったんですね。干拓外からは、反対の声もある。それらも、しばらく忘れて、海からの風を受けると、そりゃ、気持ちが、いいものです。