2011年12月31日土曜日

トマ・2011・平成23・10大ニュース⑥から⑩まで

いよいよ大みそ日となった。10大ニュースのつづきです。⑥今年になって初めてケイタイを買った。これは外出して何かの事故に巻き込まれたときのためです。いま公衆電話は見当たらない。ケイタイは普通は全く使いません。メールも送らない。肉筆の手紙を書いている。⑦5月に遠藤周作文学館で、話すチャンスがあった。9月には、島根の三刀屋の永井隆・如己堂で、話すチャンスがあった。これらを思うと、恵まれたと感謝している。⑧今年の旅は津和野へ、出雲へ、鳥取などへ出かけました。旅行ができるよう体力が回復ています。⑨聖コルベ館に勤めていた太田さん、小柄な女性です。見学に来た人は出会ったこともあるでしょう。高齢になったので退職しました。太田さんは写真に写るのをイヤがりました。⑩最後のニュースは今年も無事に過ごせたお恵みです。カラダは定期的に検査し、体重55キロ代を超えないこと、寒さに負けないこと、怒らず、他人に干渉せず、トラブル全く無く、ホホエミで見学者を迎えたい、そんな老後を過ごしたいです。★さて、これまで愛をもって日記を読んでくださる人へ深く感謝します。来年もご縁をつづけてください。いっしょに人生とは何か、探して行きましょう。

2011年12月30日金曜日

トマ・2011・平成23・10大ニュース①から⑤まで

今年も終わりになってきた。どういう年だったのか。誰でも考え、反省する。記録になる出来事もある。トマの10大ニュース。①何と言っても白内障の手術をして、両方とも良く見えるようになった。ありがたい。ガンリキ(眼力)が効いて、世の中が明るくなった。②食卓テーブルで一緒に食事をしいた1人の神父さんは天国へ。1人の修道士さんは老人ホームへ。神父さんの死はあまりにも突然だったのでショックだった。修道士さんのホーム行きは寂しくなった。人数が減るのは侘しい。③軽のクルマだが、前に乗っていたのは平成2年の軽スズキ。平成9年に中古車を買って私の愛車でった。温泉にも軽で行った。クルマも老人になって、ツイに、「ボーン」とエンジンから煙をあげて自滅した。そこで同じ型の軽を購入した。6万キロ乗っている中古車だった。大事に使っている。④「ダメー」と言っているのは警察官です。7月でした。島原のオバマ温泉へ出かけたとき、山の上の交差点で「一時停止」に気が付かず、見張っていた警官から「ダメだ」とストップさせられた。7.000円罰金を払った。さすがに日記に書けず、ヒミツにしていた事件です。「おまわりさん、これから注意します。ごめんなさい」。⑤クリスマスの夜、13人が温泉宿『富士屋さん』に集まって、食べ、飲み、歌い、祈り、歌い、これらの1夜を過ごしたのは初めてだったから、これもニュース。私が料金のお世話をした。おそらく思い出になる。さあ、残りの5つは、何があるだろうか?

2011年12月29日木曜日

四国・松山からお話のお誘い。ああ、ちょっとムリ

小崎サン、覚えていますか。2ヶ月ほど前に、四国の松山から来た6人グループです。私たちは聖カタリナ女子高等学校の卒業生で、シスター方の導きで高校生のときに洗礼の恵みに与った「白百合姉妹会」の役員たちです。この会はあと数年で50周年を迎え、登録会員も1、200名を越えました。卒業し、結婚すると、教会から足の遠のくこともあります。その方々に、「神さまはいつも一緒に居てくださいます」というメッセージを兼ねて、毎年、7月に、「姉妹の集い」を開催しております。そこで小崎修道士にお願いですが、この会の講演にお越しいただけませんか。会のメンバーと役員で話し合いました。無謀なお願いでしょうか?★小崎修道士の返事。申し訳ありません。7月といえば、まだ先のことなので、今はお約束は出来ません。それに私は歳も取りすぎて、トークや話に心情が燃えなくなりました。ザンネンですが、行けません。聖コルベ館へまた皆さんで巡礼に来てください。ヒザを交えて、体験をかたりましょう。

2011年12月28日水曜日

旅館・富士屋で始めての客。竹のジョッキーで飲む

ボクは、ビールのジョッキーです。大きな竹を切って、ボクが作られたのは、そうだなァ、もう、何年か前だった。だが、1度も使われなかった。この度、『富士屋』さんで、初めてのデビュー。さすがに、宿屋のおねえさんもビックリしていたよ。普通、旅館で出されるビールは中ビンだね。これだと2本分は入る。ガラスのジョッキーだと中が透けて見えるだろう。竹だから、中のビールは見えない。ゆっくり気兼ねしないで、飲めるよ。でも、さすがに、このジョッキーを使うのは、最初は気が引けて、遠慮ぎみで、宴会が始まったら、そっと、宿のお姉さんに聞いたよ。「マイ、ジョッキーで、よかですか?」。宿屋のお姉さんは、よく聞こえなかったのか、大きなグラスを持ってきたが、それじゃない。「これです」と、ヒザのあたりから出したのが、竹製のジョッキーだった。ああ、あの夜は楽しいひと時だった。これも思い出になる。竹製のジョッキーは、みんなを湧かせたよ。充分に飲めて、万足だったようです。飲んでも、飲まれるな。でも彼は、呑む前も、ニコニコ。酔っても、ニコニコ。全くおとなしいから、周りのみんなにも好かれる。毎日、飲んでいるわけじゃない。飲むのは、週に1度、夜の休憩のときだけだよ。だが今夜は何杯、飲んだか、そりゃヒミツさ。愉快な、夜だった。「最初で、最後かも・・・」。ジョッキーの主は、そう、つぶやいていた。

2011年12月27日火曜日

温泉旅館に、ミサと聖務の歌がひびく。地に平安あれ

私が島原(オバマ)の温泉旅館『富士屋』さんに宿泊を始めて、7年になる。最初は年に2度、3度だったが、最近は毎月、2泊3日、お世話になっている。いつも仲間のみんなに「富士屋さんに泊まりに行くからね」と言って出てくる。富士屋がどんな宿だか、実は仲間の皆んなには内緒だった。それがクリスマスの夜に、初めて公開になろうとは・・・。今朝は、みんなで、富士屋さんで、聖務で祈り、ミサを歌った。実はこの度は「私が勧めた訳ではないが、話がトントン進んで、夢にも考えなかった出来事になった」のです。でも私にとってはホントウに嬉しかった。みんなが、ここように泊まることは無い。ましてや飲みました。カラオケを歌いました。部屋に戻っても、夜中までお互い語り合った。それでいて、今朝は早朝から、ピシャと、ゲンシュクな祈りですからね。これぞ修道者です。宿屋の女将さん、お手伝いのおねえさん、戸をピシャリ閉ざしているから、「ミサを挙げます。部屋を貸してください」と言われても、中で何が行なわれているか、分からなかったでしょう。写真のようなお祈りです。平和を祈りました。活力を祈りました。1時間5分を要した。手前に1枚、ザブトンが見えるでしょう。これが私の席でした。ホントウに夢のような思い出を有り難う。こうして万足した私たちは朝食後、オミヤゲを買って、また現実の世界に戻って行ったわけです。『富士屋さん』、ああ、そりゃ、いい宿ですよ。

2011年12月26日月曜日

オバマ温泉へ行く。カラオケで歌う。仲間といっしょに

クリスマスの夜は、毎月、行っている温泉の『富士屋』さんに仲間12人といっしょに夜を過ごしました。宿屋の主人は言いました。「小崎さんは、うちに来るようになって、7年になります。今日は皆さんを連れて来てもらって嬉しいです」。一行は、まず聖務日課を唱え、幾人かに分かれて部屋をもらい、温泉にゆっくり入って、夕食はサカナ料理のご馳走にあずかって、カラオケで楽しみました。私は「古城」を歌いました。最後は、みなステージにあがって、「長崎の鐘」を大きな声で合唱し、宿のお姉さんから写してもらったのが、この貴重な写真です。夕食を始めるに当たって、「トマさん、あなたがカンパイの音頭だね」と言われて、一席語り、「今年はお恵みのうちに過ごすことができた。また来年に向かって、がんばろう」と盛り上がりました。私がいつも泊まっている部屋には、今夜は瀧神父さんと眠りました。イビキがうるさかったよ。でも、なぜかハラが立たない夜でした。クリスマスのせいかな。さあ、明日はどうなる?請う、ご期待・・・

2011年12月25日日曜日

吾が主の御降誕祭。神の御子、馬小屋で生まれる

昨夜、8時から、クリスマスのミサで祈りました。降誕祭は神のミステリーです。神さまが、一番大事な御子を私たちに下さった。それがクリスマスです。その真意は、神さまが私たちと一緒に居たい、切なる思いの現われです。天使が歌った、とある。『天に栄光、地に平和』と。これですよ。平和とは、御心に適う人、です。天使が歌ったという表現は、御子が生まれたよ、天も喜び、地も喜び、川も、風も、すべて喜んで叫びをあげる、その歌が聞こえてくるんです。神の御子がこの世に来られた。全く神秘な出来事です。しかも馬小屋に生まれる。奇想天外です。お母さんのマリアさま、どんなに苦労があったでしょう。ヨゼフも追われて逃げる不安もある。イエスの人生のスタートは苦難に満ちている。苦しみを救う御方が苦しみから出発する。苦しみの意味は何ですか。考えました。どんな苦しみがあっても、イエスが共に居られる。希望を持ちなさい。安心してよい。大丈夫ですよ。神さまから守られている。神さまが受け入れてくださる。苦しみは悲惨でなく、神の喜びに変わるでしょう。クリスマスの意味です。神さまの「みせつり」には深く計り知れないものがある。喜びイッパイ、嬉しい気持ちで、ケーキを食べました。

2011年12月24日土曜日

松下修道士さんが釣った42cmのサカナです。ウマイ

長崎のもんはね、サシミをよろこんで食べるのです。お祝いがあると必ずサシミ。アジ、イッサキ、イトヨリ、タイなど、白身のサカナを好みます。マグロやカツオは食べない。うちには毎週、休みになると趣味が魚釣りの修道士さんがいて、釣ってくる、ニコニコ顔で戻ってくる、これですよ、42cmありました。「なんというサカナ?」「ハタというかな」。サカナの名前はよく覚えない。「こんなのを釣ると気持ちがいいじゃろうね」と話しかけても、ごホンニンは「ヘヘへ」と笑うだけです。ゆとりがあるというかね。私は気が短いからサカナ釣はダメです。舟にも酔うしね。どのヘンで釣るのかというと、長崎港を出て、伊王島と式見の中間あたりの海上で釣るそです。もう、そのへんの海の底の、底まで知っているらしい。修道士が釣ったサカナはホントウにうまーいよ。これを食べると、カゼひきも、いっぺんに良くなるよ。さあ、今夜はクリスマス・イブだよ。おめでとう。皆さんに神サマのお恵みがイッパイありますように祈ります。

2011年12月23日金曜日

寒気がする。1日、休むよ。ニンゲンって弱いな

オイ、ライモンド、まるまる太って、幸せだな。オレは、昨日、夕方、聖堂へロザリオと聖務を唱えにいくとき、背中のあたりが、ゾクゾクと寒気がした。「ああ、こりゃまずいな」と思いつつ、ジャンバーを着て、がまんして勤めを果たした。ライモンドなんか、毛がフサフサ付いて、温かろう。寒さに心配ないよね。だけど目が何やら深刻な目つきをしているな。なに?修道院の食事を他のネコ仲間が奪いに来るんだって・・・。ケシカラン。思いわずらうな。ネコもカゼを引くのかな。夕食後、早めに寝たよ。寒いなあ。夜中になると寝汗が出る。「カゼにかかったら、こまるぞ」。クリスマスだからな。でも、ニンゲンって弱いよね。特に歳をとると、油断ができない。抵抗力が衰えているのか、普通じゃない。すぐ分かる。幸い、ネツは出ていない。6度7分。23日は国祭日。1日、ゆっくり休んでいた。25日に予約の仕事があるのです。絶対、はずせない任務があるのです。面会も、手紙も、電話も、ごめんなさい。

2011年12月22日木曜日

はげましの言葉をありがとう。ゲンキが出ます

小さな言葉が大きな慰めになります。騎士誌に毎月、書かせてもらっています。まがりなりにも書いて来たことは、人と人のフシギな縁(えにし)です。それを意識しています。めぐり合わせがあって、人は幸せになる。幸せを、見つける。そこに、フシギなおもしろさ、喜びがあるのです。書くことが好きですからね。生きるとは、フシギな出会いがある。私の駄文も、どこかで、誰かが読んでくれていると思えば、胸が熱くなります。うれしいですよ。前に、こんな例えを書いたと思いますが、ある人が夜中に道に迷って、困っていた。すると1つの小さなあかりが見えた。そのあかりを見詰めて進むと、彼は無事に助かった。家の人は別に人を助けようとアカリを灯していたわけではないが、結局、小さなアカリが人助けになった。人生は、分からないところで助けたり、助けられたりしているんですね。

2011年12月21日水曜日

長崎・中町教会と26聖人殉教の地。89年前

めずらしい写真が見つかりました。長崎・駅前の中町教会と、下は26聖人が殉教したといわれる丘です。スタンプが押してある。1922年9月10日、日本福者殉教三百年祭記念とある。1922年から300年を引くと、1622年。聖人伝を開いて調べると、1622年9月10日に、日本205福者のうち、セバスチャン木村神父と信者たちが長崎・西坂の殉教地にて、火刑にされた。木村神父は平戸出身で、ザビエルさまが平戸に来たとき、宿泊した家が木村という武士で、その家の2人の孫がイエズス会に入り、木村神父、木村修道士となって、2人とも殉教した。私がこの写真を取り上げたのは、下の写真で、殉教地と書いてあるが、場所はどこだろう?という疑問です。煙突のある長屋が手前にあり、上の方に平らな丘がある。ここが殉教地だろうが、場所が分からない。もう89年前の写真になるので、おそらく判定は難しいだろう。いま私は騎士誌の2月号のため原稿を書いているが、題は「日本26聖人殉教の丘」で、この丘の判定は、明治以後、2転3転して、現在の西坂の地になった。変遷の記録は大切だと思う。私には興味があります。

2011年12月20日火曜日

もうすぐ降誕祭。特注の修道院のパンとブドー酒です

クリスマスになると、修道院の釜で、ポーランド人のマチア修道士が大きなパンを焼いていました。両脇に抱えるほどのパンでした。それはオイシイ・パンでした。今は、町のパン屋さんに頼んで、特注のパンになりました。『マルコ・ポーロのパン』といいます。軽を運転して、パンとブドー酒を配りました。まだ食べていません。クリスマスが楽しみです。親戚の女性が、ころんで骨折し、入院しています。まだ寝たままです。パンを持って見舞いに行きました。「パンを食べて、ゲンキになりなさい」。降誕祭の夕食には、カシアノ修道士がオイシイ・ポーランド料理を作りました。あの料理が懐かしいです。時は過ぎ行く。ああ、ムカシが懐かしい。昔がよかった。そう言いたくなりますよ。

2011年12月19日月曜日

なぜ私は宗教を信じているのだろう?

①先ず、なんと言っても親、なかでも母親の影響が大きいと思う。母親が信じていた信仰をそのまま受け継いだ。大事にした。伯父や叔母もカトリック。幼い頃、要理や聖書物語を教えられた。カトリックという大きな河のなかで育ったと思う。しかしよく考えてみると、それだけではない。②私自身が、宗教に惹かれるというか、神に引き寄せられるというか、そういう雰囲気があるのを感じている。③理屈じゃない。学問で学んだ結果でもない。他の宗教は全く知らない。カトリックだけで、満足というか、充分というか、教えに徹してきた。ウラを返せば、神からの呼びかけがあった、とも言えるやも知れぬ。④神に祈り、犠牲をささげ、善行を行ない、神と係わり合いを持つと共に、神の愛や導き、ハタラキを感じるようになる。⑤生かされているのは自分の力でなく、神の恵みによる。実感ができるようになる。霊的に結ばれていくのであろう。信仰とは、こういう実情ではないだろうか。★食卓での話題。五島のある教会で、普通の日に、30人ほど、毎朝のミサに祈っている。またある教会で、降誕祭が近いので、告白をする信者が列をなしている。信仰は生きているんだな。

2011年12月18日日曜日

ご縁はつづく。ミカンがつなぐ。今年も有り難うね

電話をかける。「モシモシ、ケイ子さん、変わりないですか。贈り物の『長崎みかん』、いま届きましたよ。見事なミカンだよ。有り難うね。久しぶりにケイ子さんの声を聞いたよ。懐かしいなあ、もう30年になるかな。私がオラショの旅を実施していたとき、バス・ガイドさんが、ケイ子さんだった。お世話になったね。いっしょに長崎や平戸の教会を巡ったね。ケイ子さんも信仰の恵みを受けて、どう?自分の人生のためになった?え?なに?信仰が自分の人生のフシメ、節目で、すごくタメになったって。そりゃ、よかったね。教会に行っている?ああ、そりゃ良かった。毎年、年末になって、ミカン、すまんね。私もケイ子さんのこと、忘れないよ。ダンナさん、お元気している?ああ、そりゃ良かった。2人のお子さんは?もう就職して働いている、がんばっているな。いつかケイ子さんのお宅、訪ねてもいい?なに、散らかっているから、ダメって。1度は訪ねてみたいよ。ゲンキしていてね、そのうち、会えるだろう。じゃ、ね、有り難う。さよなら」

2011年12月17日土曜日

苦しみがあっても幸せになろう。上手なテクニック

若い女性が1人でバッグをさげてやってきた。コルベ神父のビデオを見せながら、説明した。「聖人といわれるコルベ神父にも、沢山の苦しみがあったのですよ。ここの土地の問題もあったし、ポーランドから来た修道士は挫折して帰るし、本人自身が肺病の病気であったし、食べない、眠らない、事業の困難など、苦しみがイッパイだった。それでも幸福だったのです。マリアさまに完全に結ばれていたからです」。すると女性が「実は・・・」と語りだした。「昨年の夏に洗礼を受けました。受けたときは、大きな慰めもあった。しかし今はツライ毎日です。職場で、イヤなことが沢山あって、悩んでいます」と涙ぐんだ。ああ、かわいそう。世間の人は苦しんでいる、悩んでいる。人間関係がうまく行かない。他人から冷たい視線で見られている。祈りもできない。心は乾いている。そう簡単に、この女性を慰めることができるだろうか。「何か、いい思い出はないですか。小さな喜び、小さな発見、ちょっと注意をそらすだけで、あるかも知れません。風の向きも変わるやも知れません」。女性は悲しそうに、じーっと、私の目を見ていた。

2011年12月16日金曜日

希望をもって生きる。信じる、信じない、どちらか

長崎の修道士です。司祭では、ない。いつも一歩、引いた身分を意識しています。昔からの馴れ合いですね。修道士は朝、5時に起きます。怠けてはいけません。歳のせいか、足も腰も痛いけど、身を律して起きる。なんとか、頑張ります。今日も神さまを認め、平和を祈ります。歳を重ねてくると、この先、どうなるか、不安があります。しかし私たちの信仰は、私たちの信じる神が、愛の神が待っていて、受け入れてくださる。そこに安心があります。何も信じないで生きるか、信じて希望して生きるか、そりゃ、信じたほうが豊かになります。もちろん私は完全な者ではない。しかし私たちの信仰では、神の御子が来られて、ニンゲンになられて、人間の生活も、苦しみも体験されて、私を覚えてくださった。大きな愛があることを、最初に教えてくれたのは母親です。今は神の霊が私たちを導いておられる。クリスマスが来る。この日が近づけば、いろんな思い出が湧き起こって、信じる者の喜びが溢れてきます。いいなあ、降誕祭。間もなく歌うぞ、グロリアの歌。考えてみれば、ポーランド人から、朝鮮人から、いろんな人からお世話になりました。みんな、みんな、信仰でつながっている。これだけ回想しただけでも、勇気と希望が湧き起こってくる。生きるのは喜びです。もっと、目を、ぐっと、見ひらこう。もう、すぐ万民のクリスマスだ。★セルギウス修道士の命日でした。昨年の今日、103歳で神に召された。ポーランドから日本へきて、ご苦労の人生でした。

2011年12月15日木曜日

85歳まで運転を希望する。常に安全走行で頑張る

自動車免許の更新が近づいた。「高齢者講習」の通知がきた。近くの自動車学校に予約を入れる。講習を受けて参りました。高齢者の講習は3度目。じょじょに厳格になっている。この度は、最初のテストは認知症の検査でした。幻灯で、16もの品目を見せられ、その後、いろいろ話したあげく、16を皆、書き出しなさい。これには参った。12書くのが、やっとでした。実車の研修も厳しい。Sのクランクも、車庫入れもあった。高齢者は視野が狭くなり、事故につながるという。事故が一番恐ろしい。幸い、私に事故は全く無い。安全運転で、いつも走行している。真ん中のおじさんは、同じ高齢者で、その右が指導員です。85歳まで、免許を申請するつもりです。運転できないと、温泉へ行きません。意欲まんまん、実車の走行に挑みました。まだ負けないぞ。

2011年12月14日水曜日

予約の泌尿器科診察日。ボウコウ・カメラ。痛いよ

朝から、1人で軽を運転して、病院へ向かう。予約の診療日。やはり気が重い。尿を検査に出して、しばらく待っている。お医者さんに呼ばれて、診察室へ。「今日はカメラをしましょう」と言われて、素直に「ハイ」。ベッドがイヤだね。台が冷たい。下半身、ハダカになって、カエルをひっくり返したように、オナカを上に横たわる。カメラを入れる・・・イタイよお。ツメを立てて、手のヒラをしっかり押さえて、気持ちをマヒさせる。覚悟が必要だ。なぜ、こんな目に会うのか。疑問に思っては、ダメ。とにかく耐える。しようが、ない。楽しいことを思い出そうとする。こうして、乗り越えた。「ああ、終った。1つ、山を越えたぞ」。ボウコウ内は変化なしという。診察はあっけなく終った。「ジンセイ、何事もなく、80何歳まで生きるのが、いいか」「ハラン万丈の生涯を送りながら、いろんな経験をして80何歳まで生きるのが、いいか」。どっちだ・・・と言われると、「ウーム、待てよ」と、こう、なる。「ハラン万丈がいいかな」。喜んで病院を後にした。よかったぞ。次の診察は2月初旬です。正月休みは温かい沖縄あたりまで行くか、の希望も湧く。

2011年12月13日火曜日

安全運転で、無事に帰る。途中、山の学校を訪問

オバマ温泉の名物お菓子、「湯センペイ」です。あれ、あれ、あけてビックリ、形が小さくなったなあ。前は、もう少し、太めだったのに・・・と、だまされた気持ち。世知辛い、世の中になったもんだ。だが、このお菓子は評判がいい。それだけは認める。味は変わっていない。シンプルで、サクサクして、おいしいよ。原料は小麦粉、タマゴ、砂糖、それに温泉水を使用している。島原の殿さまにも献上したとか。歴史的にも伝統と人気がある。「なぜ、せんべい、と言わないか」。餅(もち)を、ペイといいます。このあたり中国人の影響も受けている。パリパリ・センペイだが、謎めいているのも、湯けむり立ち上る温泉のお菓子らしい。500円あったら買える。オバマへ行くと、必ずミヤゲに買って帰ります。絵柄もカラフルなので、買うのも楽しいよ。5時半に起きて、すぐ温泉に入る。露天風呂はまだ真っ暗だ。だが気分は爽快だね。イノチも伸びる。温泉3日目。早めに食事をして、軽で、安全運転で、途中、山の学校を訪問した。午後から帰る。

2011年12月11日日曜日

宇宙は計算で動くのに、なぜニンゲンは揺れるのか

12月8日、開戦記念日があるせいか、12月になって、テレビで、戦争の回想の番組が放映されている。ワタシはなぜか、「明治の戦争」の話は、聞きたくない。その理由は少年の頃、先生たちから、明治の戦争の話をイヤというほど聞かされて、戦争への鼓舞されたからだと思う。それに比べて、昭和の戦争は興味がある。知りたいとも思う。開戦時は、13歳の少年だった。真珠湾攻撃の放送に、「バンザイ」と喜んだ。あの喜びは何だったのか。最近の戦争の証言はあまりにも悲惨だ。80歳代の旧・軍人たちは、どれほど苦労し、ジャングルをさまよい、生きのびてきたか。今年は「人肉を食った話」もチラホラ出てきていた。生きて帰っても「申し訳ない」気持ちに揺れている。昭和を生き抜いたニンゲンの地層はあまりにも複雑だ。ただ言えることは「戦災や、戦死した人を、決して忘れない。ずーっと、覚えて共に生きている」。昨夜は皆既月食で、全国ではっきり見えたと報じていた。宇宙や、惑星は、寸部たがわず動くのに、計算が成り立つのに、なぜニンゲンには欲があり、迷いがあり、争いがあるのだろう。その背後には、大きなチカラ、愛のチカラが働いているのを知る。その愛は、決して見捨てない。いつも寄り添っている。寄り添う愛のハタラキを知らなければ、人は生きてはいけない、そう思います。★寒くなりました。今日から、2泊3日で、島原半島の温泉(小浜)へ出かけます。安全運転で、ゆっくり走ります。

2011年12月10日土曜日

十字架は苦しみのシルシ。主よ、付いて行けない

修道士さんの部屋に、机の上に、十字架が置かれていた。十字架にはキリストさまが苦しみを受けている姿がある。その修道士さんの十字架は、いつも裏返しだった。苦しむキリストのご像は見えなかった。「なぜ、そんなに反対にするの?」と聞くと、修道士は答えた。「主の苦しみに寄り添いたい。その願いはあるけど、まだまだワタシは弱い。苦しみが来るのが,不安になる。子どもは親の背中を見て、育つという。今の私は主の背中を見て、少しでも御跡に従いたいと願っている」と、その修道士は答えた。それから10年が経過して、修道士の部屋を訪ねると、十字架は真っ直ぐ置かれていた。「主よ、ワタシにも御身の十字架の苦しみに添わせて下さい。弱い私ですが、主の御チカラで強めてください」。そう願っていた。それから何10年がたって、その修道士は神に召された。・・・・この話を、昨日、阿野修道士さんの葬儀のときに、元・寮生で、神学生だった木場田友次さんが弔辞で読み上げたのだった。今朝、私は、木場田さんに電話をかけた。「昨日の弔辞はありがとうね。よかったよ」。そして思った。信仰者の生活の中には、このような「こぼれ話」というか、時折、土着した信仰の表現がポロリと出てくることがある。「ツミのツグナイ」とか、「降誕祭に向けて、わるい習慣を改めよう」など。これこそ信心の甘味さだと思うのです。「パパさまが来られたとき、ツミが許された」も、その一言。それらの小話を大事にちていきたいと思うのです。

2011年12月9日金曜日

アダムさん、神に召されて、修道士は寂しくなる

12月8日は無原罪の聖母マリアの祭日であった。この日の未明に、1人の修道士さんが神に召された。阿野修道士さん、享年、70.阿野さんは修道士の霊名を「アダム」といった。修道士になったときに付けてもらった名前で、普通、阿野さんというよりも「アダムさん」の名で親しまれていた。主に、学生や寮の指導に当たっていた。ボーイ・スカウトでも活躍した。最初は神学生の勉強を励んでいたが、学業半ばで、修道士になるよう転向した。そのとき迷いも有ったが、ポーランド人司祭から、「目立たない道にこそ、神さまの御前で大きな光栄になります」と教えられて、進んで修道士の道にまい進し、神のみ旨を果たした。少なく食べて、マラソン毎日、贅肉は全く無く、すらりとした体格をしていた。そのアダムさんが日々、肺活量を失い、少しも歩けないようになったとき、私たちはおどろいた。「あの、アダムさんが、なぜ?」。亡くなる3日前まで修道院で意識のはっきりした状態で過ごし、「ありがとう」「ありがとう」と周りの修道者に感謝して、病院へ入院し、肺炎のため生涯を終えた。修道士が少ない現在、アダムさんを亡くした哀しみ、痛手は大きい。「トマさん、大丈夫ね」。会う度に、声をかけてくれていた。1度存在したものは消滅することは無い。肉体は燃え尽きるとも、人格(ペルソナ)は神の御前で、尽きることなく生きつづける。それが私たちの信仰です。

2011年12月8日木曜日

今年、最後の修学旅行生たちの平和学習。東北から

朝、東北の仙台空港を飛び立って、やあ、長い旅でしたね。福岡まで約2時間。それから貸切バスに乗って、長崎入りをした。最初に訪ねたのがコルベ神父の聖母の騎士です。午後3時には着きました。お疲れさま。「津波、地震の被害はありませんか」「原発事故は大丈夫でしたか」。皆さん、ニコニコ顔でした。今年も平和学習に、20校ばかりの学校が来ましたが、この学校が最後です。「皆さん、この世で最も大切なのは、イノチと愛です。イノチの大切さは誰にでも良く分かります。しかし愛はむずかしい。愛欲もありますからね。コルベ神父の身代わりの愛は『お礼を求めない愛』無償の愛です。ホントウの愛は神さまから出ます。愛の狩人、愛を追い求める人になろう」。約2時間、滞在して、夕暮れの5時に、別れを告げた。この後、大浦のホテルに落ち着き、夕食は中華料理の『四海楼』でチャンポンを食べ、夜のグラバー園を散策し、長崎の夜景を堪能するそうです。東北の大きな災難を受け止めた女子高校生たちは、長崎の夜の港の光景をどのように受け止めるでしょうか。がんばれ東北の皆さん。

2011年12月7日水曜日

ユスチノ田川幸雄修道士の命日。7年忌。平安を

ユスチノ田川幸雄修道士さんが神に召されたのは、2004年でした。7年忌になります。彼の生涯を眺めるとき、2つの顔がある。1つは養護施設の職員としての働き。20年近く指導員を勤めた。家庭の事情で、施設の生活を余儀なくされた子ども達の世話や教育、指導面で苦労された。もう1つの顔は、イタリア・アシジの聖フランシスコ修道院で、巡礼者・観光客の案内を務めたことです。1991年から1997年まで滞在した。その間、アシジの修道院を訪れた皆さんは、ユスチノ田川修道士の説明を聞いているはずです。その説明はピカ・イチでした。流暢な口調で、自分で自分の説明に酔うようでした。彼の熱弁を聞いて、聖なる感動を受け、洗礼に導かれた人も多々おられます。堺屋太一(著名な評論家)をして、「心洗われた」と言わしめた。73歳で、東京で亡くなった。心の温かい修道士でした。彼と、私は、従兄弟同士です。彼の名前は「田川幸雄」で、私の名前は「田川幸一」です。「雄」と「一」が違うだけです。今朝、ミサのとき、司祭が間違えて、「命日、田川幸一のために祈りましょう」と言っていた。「オイ、オイ、幸一はまだ生きとるぞ」

2011年12月6日火曜日

少女の3つの願いはヒミツだよ。叶えると、いいな

先月の23日。国際日に浦上から、ごらんのように小学低学年の女の子たちがやってきた。ゆっくりと、4時間も聖母の騎士で過ごした。弁当も食べた。その15人の子どもたちから作文が届いた。そのなかに、こんな文があった。「聖母の騎士で、ワタシは3つのお願いをしました。それはヒミツです」というのだ。かわいいじゃないですか。少女にだって小さな願いがある。ひょっとすると「父ちゃん、カアチャン、ケンカしないで」。そんな願いもあったかも知れぬ。少女たちの願いをマリアさまはきっと叶えてくださる。そう思いましたよ。そのほか、印象にのこったのは、『コルベ神父さまのお部屋』『コルベ神父さまの髪の毛』『パパさまがお座りになったイス』など。それよりも、ビックとしたことは「エガオで迎えてくださった」というのです。子どもと言っても、ちゃんと見ているんだね。それらが小さなお友だちの心にいつまでも残るのです。「こんどは家族で来たいです」「ロザリオ、ルルドのお水、お祈り、沢山となえました」。小学1年から4年生までの低学年だよ。心はホントウに純粋だ。いつまでもキレイな心で居てくれるといいなあと思います。あの3つの願い、なんだろうなあ。ニンゲン社会は、いつも割り切れるのでなく、ミステリーな部分があってもいいじゃないですか。そんな気持ちでクリスマスを迎えたい。

2011年12月5日月曜日

来年は、タツ年です。そろそろ年賀状の準備か

「エー、えっ、ヘン。来年は、タツ(辰)どしだよ。ボクの年です。よろしくね」。84歳。タツ年が、7回まわってきたことになる。長ーガイ、人生だったね。ニンゲン、なんのために生まれてきたんだろうね。私が存在したことだけは確かです。イノチをもらって、メグミをもらって、自分なりに生きてきた。もうタツ年を迎えることは無いでしょう。96歳だからね。そんなには生きないよ。このヘンで、そろそろ人生を考えなくちゃ。「生きるとは、愛を知る、営み」だね。本当の愛を知れば、存在の意味も、生きる理由も、苦労する訳も、すべてが分かる。この世に折角生まれて、真の愛を知らずに消えて逝くのは、本当に寂しいよ。小さな愛を見つければ、それで充分だよ。ホントウのモノを見つけることだよ。大きなお金、大きな権力、大きな肩書きがあっても、見つけて、見つけて、その先は、ギャンブルじゃないか。悲しいことだよ。漫画家の水木しげるは言った。「金持ちになったからと言って、3倍も4倍も幸せになれない。金持ちも、ボタモチは、4つは食えない」

2011年12月4日日曜日

ライモンド、こら、おまえ、太りすぎ、減量せよ

炊事場にねぐらを構えている「ライモンド」。コラ、オマエ、こんなに太りあがって・・・。ライモンドという名前、知ってるか。コルベ師の幼名だぞ。ありがたく思え。昭和の初め、コルベ神父の時代にも、ネコちゃんは居た。だが栄養失調で死んでしまった。あの頃は聖母の騎士も貧しかったからな。充分に食がなかった。オマエはなんだ、ブクブク太っちゃって。修道院の食事が良くなったからかな。反省せんと、いかん。近所のネコがやってきて、ライモンドのねぐらに入っている。ライモンドは追われて、炊事場のダンボール箱で寝ている。かわいいもんよ。「ライモンド」と呼ぶと、臆することなく、ソバに寄ってきて、ゴロゴロ、からだを転がす。本心、言えば、オレはネコはスカン。犬がいい。犬派だね。しかも柴犬がいいね。飼ったことはないけど。

2011年12月3日土曜日

高貴なお人も凡人も同じニンゲンには変わりなし

大司教さまといったら、教会では高位聖職者ですよ。一方、修道士といえば、ヒラの名もない小さき兄弟です。その差は、雲泥です。勉強も、経験も、権能も、比べ物にならない。ところが昨日、突然、韓国のテグの李大司教さまが、わざわざ私を訪ねて、お見舞いに来られた。私は午後の休み中だったが、姿を見せるまで待ってくださった。「いまから鹿児島へ行きます。途中で寄りました」「ああ、聖フランシスコ・ザビエルの祝日(今日がその日)ですね」。なぜか、この司教さまとは気持ちが合うんです。私のことを聖コルベ館の奉公人と呼ぶ。「修道士さんは、前よりゲンキ、ふっくらっとした感じですね」。優しい言葉をかけてくださる。何年か前に、私もテグを訪問して、大司教様の手ずからの焼肉をご馳走になった。「来年の5月1日、テグで、永井先生の会があります」「永井博士の命日ですね」「如己の会で主催します。ぜひ来てください」「ありがとうございます」。お付の者が3人。白い福岡ナンバーの車で去って行った。私が言いたいのは、高貴な人も、凡人を大事にしてくださるということです。李大司教は言った。「愛のあるところ敵はない。敵がなければ争いはない」。わすれ得ぬ名言なり。

2011年12月2日金曜日

ユビを丸めて、よかったよ、今日のイノチを

やっぱり生かされているんですね。わかりますよ。老人の心は敏感です。そうね、海岸に押し寄せる波を、小さな舟が波を1つ1つ乗り越えていく、そんな気持ちがしています。波の向こうには、明るい空がある。押し寄せる波(苦難)も見詰めよう。しかし空の彼方の(明るさ)も遠くだけれども見詰めよう。すると勇気が出てくるよ。結局、人生は自分は己(おのれ)で耐えるしかないのです。老人の徳は、覚悟だよ。孤独にも耐えよ。痛みにも耐えよ。神さまに素直に祈りましょう。「今日もイノチをくださってありがとう」「生かしてくれて、この苦しみをささげます」

2011年12月1日木曜日

ネツも下がって、聖コルベ館へ出勤する

いつまでも寝ておれません。ネツは下がり、気持ちも整い、聖コルベ館へ出ました。怠けてはいけません。ニンゲンには使命がある。歳をとると、フシギですね。若い頃は、ピチピチ、ランラン、飛んだり走ったり、自由に出来ていたのに、同じ人格なのに、腰は曲がり、弾力性は全くなくなり、心は全くはずまない。お説教を聞いても眠るばかりです。ニンゲンの尊さは成長にあるのではないですか。老いても成長です。老いても、ただ1つ残された部分がある。ホホエミだね。人に出会ったときのホホエミ。ニコっと口びるをゆるめて愛想を振りまくこと、若かった自分も、今の老いた自分も、全く同じ私です。それを自覚して、失望しないで生きよう。ホホエミなら、これなら出きる。そう思っていると「ピンポン」。やあ、見学者が来たぞ。「ああ、いらっしゃい、寒かったでしょう・・・」