2012年3月31日土曜日

見事な鯛のサシミで、ゲンキを出しなさい

「スゲー、大きな鯛だよ」と、食堂で誰もが感嘆の声をあげる。釣り上げた修道士いわく、「2Kgある。長さは50cm」。まこと、おいしい鯛のサシミでした。修道院に居ると、時々、こんなサカナが食べられる。ありがたい。これを食べて、カゼ気味を吹き飛ばすか、と思ったが、あまり食欲がないのです。惜しいですね。「精神は逸(はや)れども、肉体は弱し」。本当に、平常の感覚と、微熱・カゼの感覚では、カラダ全体で、何か違うんですね。それでも私は思いました。「まあ、私には、ワタシの人生がある。病気しても、カゼ引いても、退屈しないジンセイです」

2012年3月30日金曜日

とうとう、カゼで寝る。キツイ

周りで、ゴホン、ゴホン。身近な人も、ゴホン。ヤバイなあ、近づいてくるぞ、と警戒はしていたものの、とうとう声が出ない。微熱が夜、出てくる。残念ながら、今年、冬の最後のカゼ引きか、カゼで、ダウン。タクシーで、浦上の行き付けのクリニックへ。早めの処置をお願いする。胸のレントゲン。ノドの吸入。カゼの注射を肩に打つ。点滴を受ける。薬の処方箋を書いてもらう。十分の治療をうけてタクシーで帰った。もう軽の運転はしない。後は自室にこもり、忍耐して、安静にして、ガマンするしかない。若いときはカゼなんか平気だったのに、情けないとも思う。

2012年3月29日木曜日

コルベの愛の心、フランシスコの平和の心、魅了

新しい2人の修練者。毎日、午前中は授業で、午後は祈り、実習、作業があります。水曜日の午後は聖コルベ館の作業の時間で、働いてくれます。整理や清掃、今はホール後ろの部屋を片付けています。ここには映写機や、カラオケ機、映画フィルム、日本26聖人の活動写真(無声映画)も保管されている。旅行カバンなどは処分しました。2人とも体格がいいので、作業が良くはかどります。ありがたいですね。1年間ありますからね。ボチボチ、資料室なども片付けてもらう計画です。コルベ神父の資料を大切にすると共に、聖人の霊的遺産を守るのも務めです。この2人の修練者が神の召命に従って、自分の生涯を奉献することができるように、皆さんのお祈りをお願いします。召命は神さまのことです。常識は通用しません。祈りの応援がなければ実現しません。コルベの愛の心、フランシスコの平和の心は、私たちの生き方を魅了します。

2012年3月28日水曜日

予約の診察へ。帰りに、散髪。気持ちに、ゆとり

朝から泌尿器科へ出かける。気持ちは重い。「来月、入院して、砕石の治療をしましょう」とお医者さん(写真)。いよいよ取り掛かるか。まだ腎臓に結石が残っている。CTでは石の存在がはっきりわかる。しかし、レントゲンには写らない。それで、病院にある「体外衝撃波粉砕装置」は使えない、とお医者さんはいう。特別の器械、レーザー砕石器を、尿道・尿管からカメラと共に挿入して、粉砕を行なうそうだ。ところが、この器械は九州に1つしかない。「申し込みの予約」が必要でる。4月に使える可能性がでてきた。
4月9日、入院の予定。10日に実施となった。「痛いですか?」「あなたは腰椎に麻酔が入らないので、全身麻酔となります」。私の背中はカリエスのため、骨がくっついて、隙間がない。どのようになるか。私には、なんだか予感がする。今度、入院して、腎臓の石を砕けば、ゲンキになるだろう、と。いま、ボウコウの方が調子が良いからだ。ガンといわれて4年目を迎える。
病院を出るときは、明るい気持ちになった。「よし、帰りに、いつもの理髪店へ寄ろう」。散髪し、アタマを抜群の手さばきで洗ってくれる。さわやかな気分になった。カガミを見て、ニコッと笑ってみた。結構カワイイじゃないか。フ、フ、フ、サクラも咲いたぞ。歳に負けるな、フラフラするな。しっかり歩くんだ。

2012年3月27日火曜日

カゼに気をつけよう、だが、ああ、ヤッパリ

春になって、生活空間に、人が増えると、イライラ度も増してくる。接触率が多くなる。言葉の矢も飛んでくる。まわりで、ゴホン、ゴホンとセキの音がしていたが、段々と近づいてきて、とうとう私も2日前から声の調子が出にくくなった。長崎は3日遅れてサクラが開花宣言。でも、未だ寒さが残る。老人は寒さに一番敏感だ。若い頃、胸を病んでいるので、寒くなると、ノドが腫れて、すぐ胸の奥に炎症がおこる。声が出ない。今朝は書簡を朗読するのに苦労した。生きていくのも、タイヘンだな。最近は見学客も多くなった。ごめんなさい。ゆっくり休ませてください。

2012年3月26日月曜日

女子高校生たちの笑顔で、若くなる。平和と愛

「17歳で、修道士の道に入って、いま84歳だよ」と最初に言うと、「え、え?」と驚きが起こる。修学旅行の女子高校生たちが、このところ毎日、兵庫、鎌倉、横浜から来た。30分ほど、まとまった話をしているが、何を伝えるべきか。もし私が17歳に戻って、今から人生を始めるなら、どういう生き方を望むだろうか。才能を伸ばすことか、自己満足か。振り返ってみると、ムダが多すぎた。抽象的だが、やはり人生に最も大切なのは「愛とイノチ」だろう。イノチの危険は沢山みてきた。愛が難しい。自己愛もあれば、愛欲もある。家族愛には飢えていた。愛を追いつづける。「愛の狩人」と作家・遠藤さんは私に言ったが、そう思う。愛の根源、イノチの根源を知らずして、この世は渡れない。「死んだ、あの人。私が生きている限り、その人は私の心の中にいる。その人の人生も大切だったのです」

2012年3月25日日曜日

人生、悩み多し。自分が生きる意味、何か?

1人の男性が聖コルベ館へ入ってきた。彼を見た瞬間、思わず「オー」と歓声をあげ、彼の手をつかんで思い切り揺さぶった。「どーうしていたの?心配していたぞ」。彼は五島の出身。県外で長年働いて、心身疲れて、失望し、島の断崖絶壁へ向かっていた。途中、美しいマリア像を見つけて、気持ちが「ストップ」する。新しい職場を見つけて、長崎でタクシーの乗務員をしていた。正月、ルルド参りに来たところで、私に出会った。その後、1年間、聖書を学んで洗礼を受けた男性だった。「あれから来ない。もう4年になるかなあ」。歳は60半ば。独りで、年金暮らし。生活はシンプルで、テレビなし。冷蔵庫なし。電気レンジなし。車だけ、あるという。読書が好き。いろんな人間の生き方がある。「修道士以上じゃないか。付いて行けないよ」。その彼が悩みを打ち明ける。「自分は何のために生まれてきたのか、意味がわからない」。これはどういうことなのか。人間、誰しも悩みが多い。基本的に、自分はこの道を生きて良かったのかと悩む者。生きる意味に悩む者。悩みはどこから来るのか。「人のために尽くすこと、ないの?喜びを感じないの?」。「うれしさは有るが、実感が湧かない」。自分に凝り固まっているから悩むのか。「4月8日が今年は復活祭。教会に来なさい」と勧めた。彼は笑いながら、クルマの番号を指して、「ハローだよ」。ナンバーは、8と6だった。

2012年3月24日土曜日

パソコンを購入。さあ、これから喜びを書く


「汗にまみれた、ドロにまみれた、一言がほしい。ひとコトあれば、人はイキイキと、生き返る」。毎日、《小崎登明の日記》を書くのは楽しみです。これまでのパソコンは2005年に購入の品でした。最近は画面が出るのが遅く、30分は要した。新しい、ごらんの品をネットで購入しました。(値段、59.850円)。画面が明るく、見やすいです。これで楽しみが倍増します。日記を書くのは、私の記録にする考えもある。今日も生かされている喜びが湧いてくる。入院後、尿がきれいになった。なぜ、こんなにきれいになったのか。理由はわからない。尿が正常に出ているのが一番うれしい。これが私の生きている証拠でもある。それに最近、この3月になってから、ボウコウの調子がよい。生きている喜びは、あたかも海岸の波が、押し寄せては返すうちに、砂地に深く吸い込まれて行くように、人生の節々で、何度も、何度も、恵みを実感して、魂に吸い込まれていくのでしょう。「今日の喜びの1日を、あなたに捧げます」

2012年3月23日金曜日

2人の若者。有田焼が好き。優しさが人を導く

夕方、2人の若者が入ってきた。入館者は男性の方が話しやすい。こちらが問いかけると、ポン、ポンと返事が返ってくる。もう4日目で、この後、空港へ行くという。「どこ回っていた?」「有田焼」と意外な答え。焼き物に魅せられたという。1人は、ここを3度め。やっぱり、「自分の命を、他者のために与えていく生き方、行ない」に感動する。誰だって、感動するなあ。モンクなしだよ。やっぱり、コルベ神父は人を引き寄せる。私なんか、ここで生活できる、誇りに思うよ。有田焼の男性は、スペイン人の神父さんから親しく導かれ、洗礼を受けた。「もう亡くなりました」。怖そうなお兄さんだが、心は優しそう。「日記に載せるので、写真に入りなさい」というと、素直に写った。「神は、あなたにも、目をかけてくださる」。また、おいでよ。

2012年3月22日木曜日

猫くん・ライモンドと、修道士さん、食べ過ぎるな

「ニャーオ、ニャーオ」。朝の食事が終わる頃、外で、ライモンドが呼んでいる。修道士さんが昨夜のサカナをやった。以前はスマートな姿だったが、今はこの姿だよ。食べすぎだな。前は首輪もはめていたが、はずしてしまった。長崎の猫はシリッポが短かく曲がっているそうだが、ライモンドは長いもんね。修道院の近所の家が空き家になって、猫くんがルルドで過ごしていた。お参りに来る人を待っていた。ルルド祭のとき、神学生が志願院に連れて来たのが縁の始まり。神学生がライモンドと名づける。修道院はサカナの料理が多いので、幸せだよ。匂いを嗅ぎつけて、2匹の猫が近所から音もなくやってきて、じーっと狙っている。ライモンドは負けない。少し食べ残して、ゆうゆうと去っていく。幸せだなあ。

2012年3月21日水曜日

朝から町のヨゼフ・クリニックへ。10年来、通う

朝、9時30分に着く。患者24番目だった。カトリック信者の町のお医者さん。シスターの姿も見える。診察室に飾られた聖ヨセフの聖絵(右側)。コルベ神父が日本へ持ってきた聖絵です。私が縮小してコピーして高木先生に差し上げた。ヨゼフ・クリニックの守護の聖人です。「先生、写真、撮っていいですか」「ああ、いいよ」。10年前から、老人になって、脈が飛ぶようになり、この医院に通院している。心臓専門のお医者さん。終ったのは10時40分だった。カラダに、いろいろ細かいところは故障があるが、イノチにかかわることではない。ただ風邪をひいたとき、ヨゼフの点滴は抜群に効ける。やはり、メインは腎臓・膀胱です。幸い、この3月、聖ヨセフの月になって、ボウコウの方も調子がよいのです。ボウコウ病んで、4年目に入る。とにかく今のところ、尿がきれいで、安心しています。

2012年3月20日火曜日

2人の若者が、1年間の修練へ入る。お祈りを

春です。希望の春です。2人の若者が、靴をぬいで、聖コルベの小聖堂の祭壇前に進みました。天国のコルベ神父も喜んでいるでしょう。フランシスコの黒の修道服を着せてもらって、この日から来年のこの日まで、1年間、フランシスコの会則、会憲に従って、修練を始めました。修道者への道へ入るのです。神に捧げる若者の姿はいいですね。私も、若い頃を思い出しました。若さを、神さまに奉献するのです。2人は修道者の名前を聖人名からいただいた。「アンゼロ(守護の天使)」と「テレジア(小さき)」です。皆さんのお祈りをお願いします。これからは私たち同志のお祈りも声が大きく揃います。期待がふくらみます。志を貫くには、人間のチカラでなく、お祈りのチカラが必要です。クツ、見て、[デカッ」、言わないでね。何cm?、教えません。カラダが大きくても、「小さき兄弟」と呼ばれます。

2012年3月19日月曜日

主は言われる。「行きなさい。信仰があなたを救う」

昨日の日記で、「ツライ」「幸い」と並べて書きました。一本の線を、入れるか、ハズスかで、幸せになり、辛さになる。線一本の違いです。実は「幸一」というのが、私の本名、親が付けた名前です。小崎登明は修道士になって付けた名前。聖人の名前をとった。「ま一もんじに、行け」。昨日の書字に、そう書いた。この「行け」のイメージは、駅長さんがホームで列車を送り出すとき、白手袋のユビを、右、左に示して、最後に前方を指差して、それから出発する、あの「勢い」のついた「行け」なのです。それを昨日の日記に書いたら、コメントが入っていた。「入院、大変でしたね。傍らのイエスさまがおっしゃいませんでしたか。行きなさい、と」。行けという覚悟も、行きなさいという勧めも同じです。これを読んで、大きく背中を押される気持ちがしました。コメントを寄せてくれたのは、「元日の母」娘、覚えていますよ。今年、最初に聖コルベ館に誰が来るか、興味深々だった。しかし昼になっても誰も来ない。3時にも来ない。ああ、もう閉館だ、というとき、ギリギリに来たのが、この元日の母娘だった。そのお母さんがコメントをくれた。「行きなさい。信頼しなさい。あなたの信仰が前に進む」

2012年3月18日日曜日

日記を書き始めて、3年が経過する。いい勉強

「ツライ」に、1文字くわえると、「幸せ」になる。信じる道を、真一文字に行け。私が日記を書き始めたのは、2009年の春、ボウコウ・ガンと言われてからでした。ニンゲン、どのように落ち込んで行くのか。最後は大変だろうが、行けるところまで、正直、書き留めたい。そんな気持ちで始めました。あれから、3年たった。なぜ、多くの人が日記を見守ってくれるのでしようか。分かりません。期待されると、タメになることを書きたいと、欲や迷いも出ます。なぜなんでしょうね。教えて下さい。「自分のことばかり宣伝するな」「自分の写真を載せるな」「温泉へ湯とう冶へ行くな」。いろいろ有ります。老人の明るいカオを載せても、たまには良いじゃないですか。真一文字に行け。毎日、日記を書くのは楽しみです。でも最近は考えに深みがなくなった。それを自分でも感じます。早々、感動する出来事は起こらない。生活のどの部分を切り取って、ふくらませるか。勉強になります。

2012年3月17日土曜日

信徒発見の記念日。聖母マリアに導かれて

長崎の修道士です。信徒発見のこと、よーく、分かってます。今朝、ミサの祈りのとき、うれしかった。「信徒発見じゃない」「神父発見ですよ」。司祭が言った。「あと3年で、150周年になる」。本当にフシギと思います。①サンタ・マリアの導きによって発見された。キリシタンは7代にわたってサンタ・マリアに祈ってきましたからね。願いがかなった。②キリシタンはエライ。厳しい迫害にも、くじけず、代々にわたって信仰を守り抜いた。私たちの先祖ですよ。誇りに思ってよい。それには秘密があった。オラショを唱える。暦から祝日を祝う。犯した罪の後は、コンチリサン(痛悔)。大事なのは③私たちも、聖母マリアの祈りに守られて、力強く信仰の道を歩むこと。マリアさまが助けてくださいます。素直に、単純に、信じて生活のチカラにしましょう。それにしても④コルベ神父は長崎上陸して、真っ直ぐに「大浦天主堂の信徒発見のマリア」へ向かった。コルベ神父の行為にはムダがない。感心しますよ。マリアさまの熱愛者だから、本人も満足だっただろう。とにかく今日は嬉しい日です。

2012年3月16日金曜日

登明日記の読者がやってきた。パワーを下さい

朝、聖コルベ館の開館と同時に、電話で予約の男性が1人、入ってきた。「はじめまして。千葉からです」。長崎はこれで3度目だが、今度、来た目的は2つある。①浦上天主堂の朝ミサで祈ること。今朝、行って来ました。次は②小崎サンに会うこと。実は10年来の騎士誌の読者で、記事を愛読している。3年前から登明日記も読んでいる。「日記を読んでいると、自分と重なってくるのです。洗礼を受けました。あと1年で、65歳になる。それまでは頑張りたい。ぜひとも会いたいと願って来た。パワーをください」。こんな熱意のある人は初めてだ。お互い気持ちが通じるのか、会話は、ポン、ポンと、笑いのうちに、はずんだ。はや時計は12時を指している。「せっかく来たから、ルルドで祈りなさい」と、祈りを勧める。その後で、わざわざ訪ねてきたからには・・・と、いっしょに町へ出て、いけす店で、イカとサシミの昼食を食べた。こんなサービスは殆どしないが、この人だけは特別の感じがした。「小崎サンからご馳走まで頂くって思わなかった」と大いに喜び、午後2時頃、別れた。こういう来客もめずらしい。長崎の旅で、ゲンキになったであろうか。

2012年3月15日木曜日

やわらかいビードロの光のなかで眠る毎日です

長崎では江戸時代、ガラス細工を『ビードロ』といった。なんと優しいヒビキだろう。先日、オバマ温泉へ湯とう冶の際(3月8日)、雲仙にビードロ博物館で、小さなガラス・スタンドが入館と同時に、すぐ目についた。「ああ、これ、いいなあ。幾らですか?」「3.700円です」「え、ちょっと値を張るなあ」。でも、即刻、買いました。自室の片隅に夜中じゅう、点けています。心が和みます。何10年と、部屋をまっくら闇にして眠っていた。これからは優しい光に慣れて、眠ります。退院して、ふしぎなことがある。それは一番気にしている尿が、とてもキレイなのです。どうして、こんなに透き通っているのか。正常な尿が出ています。うれしいことです。1日1日を感謝をもって生きる。もう迷いませんよ。『自分が一番知っていること、その中でも一番感動していること、それを話せば、少々話し方はヘタでも、聞く人は感動する』。これで、行こーう。

2012年3月14日水曜日

映画を見に行く。ユダヤ人は、なぜ迫害されるのか

新聞で、映画の広告を見た。「ナチス占領下」「ユダヤ人」「アウシュヴィッツ」「逃亡」などの字が、チラッ、チラッと、目に入ると、見に行きたくなる。気晴らしのつもりもあって、午後から、町のアーケードを抜けた小さな映画館に出かけた。7、8人ばかりの客が見ていた。ドイツ軍将校が出てくると、なぜか、心がさわぐと共に、憎しみも湧いてくる。この感情はどこから来るのか。ポーランドへ10回も旅行をしているので、その歴史、国土の風を感じるのか。それにしても、なぜユダヤ人はこのように迫害され、嫌われたのであろう。ヨーロッパ全体で、犠牲となったユダヤ人は600万人だった。ユダヤ人を憎しみ、偏見を持ち、嫌う言葉に『反ユダヤ主義』という言葉がある。これらはユダヤ人の歩んだ歴史を抜きには語れない。ユダヤ教を守りつづけ、他民族との同化を拒んで、さまざまな国で、異質な存在とみなされていった。杉原千畝が救ったユダヤ人は6.000人といわれる。杉原のビザが救うことのできたのは、1.000分の1であった。

2012年3月13日火曜日

過去の行ないに、心の整理がつきません

歳をとって、微妙に、迷っているのです。若い頃は、良心に背く行ないをして、本当に悪かった、ダメなオレだ、そう思いました。ハッキリしていた。だから告白もしてきました。正直に。ウソを言っては、いけません。恥ずかしい罪でも、正確に打ち明ける。踏んだら、ワルイですよ。罪の意識がある。踏んで、平気なら、キリシタンじゃない。罪の意識が、有るか、無いか。これは大事です。有りましたよ。それでも、また踏んでしまう。コンチリサンを唱える。決心は、します。踏みたくない。イヤです。拒否する。ところが最近、歳をとって、過去を思い出すとき、良心に背く行ないを成したこと、単純に、ああ、ダメだったと、思えないのですね。人生に、そういう体験が有って、良かった。肯定する気持ちさえ、有る。これは、どういうことですか。歳をとって悩むことがある。ハッキリ、わるかった、認めなさい。降参しなさい。人間って複雑と思います。そのとき、罪の意識が有って、ごめんなさい、と述べて、何年たっても、あれは悪かったと思わなければ、本当じゃない。むずかしいです。

2012年3月12日月曜日

アントニオ(久松修道士)さんの納骨。サイレン響く

アントニオさん。昨日、午後から納骨でした。浦上のカトリック墓地は十字架が立ち並び、分かりにくいです。道幅も狭く、クルマを置くのも気を配ります。修道会の納骨堂に、修道者や、黒服の親戚たち、シスターも20人ほどが揃いました。すると、その瞬間、天空からスピーカーの大きな声。「大震災の・・・時間です・・・冥福を・・・」。次いでお堂の扉のカギをカチッとあけた途端、「ウーン・・・」とサイレン。みんなはお骨を抱いたまま、まず、震災で亡くなった人たちに黙祷を捧げました。私も目をつぶって、思いました。(世話好きだった、アントニオさんらしいなあ)(それにしても、よくまあ、ピッタリ、合ったモンだ)。アントニオさんの納骨を語る1つの思い出になりました。アントニオさんの働きは忘れません。私が山の学校の校長のとき、いっしょに学校に居て、営繕・用務員さんを勤めて活躍してくれたのです。84歳。私と同じ歳だよ。(わたしも、この納骨堂に入る、そろそろ近いかなあ)、思いました。

2012年3月11日日曜日

アントニオ久松修道士、納骨の日。祈りのなかで

身近な出来事は何でしょうか。東日本大震災の1年目。多くの人が亡くなり、多くの人が苦しんでいます。遠い長崎にあって、ミサのときお祈りしました。原発事故は恐ろしい災難です。被爆者として、チェルノブイリ見学者として、思いは色々ありますが、今日、私にとって大きな出来事は、修道士アントニオ久松さんの納骨の日です。午後から教会でお祈りし、浦上の墓地へ行きます。今年の2月10日の日記に葬儀のことを書きました。そのとき、「90歳のトラピスト・シスターのお姉さんから、84歳の弟・修道士へ」の手紙を載せました。この日記で、手紙を読んだ女性が内容に心を打たれて、文書をコピーして、友人・信徒仲間に配りましたと、お知らせを頂きました。貴重なお手紙でした。写真は2年前の夏の久松さんです。ロザリオを手にして、「祈っていますよ」と明るい表情を見せました。「神さまが私たちを待っています。(お姉さんの便り)」。永遠のいのちを信じ、希望して、この世を去った修道士の兄弟よ、私たちに、いちまでも、つながっていてください。

2012年3月10日土曜日

小さなお友だち、孫さんたちが励ましに来る

3年前から、お友だちになった小さな仲間です。孫さんたちは成長しました。私の誕生日とか、お父さんの日とか、復活祭とか、クリスマスとか、何かにつけて、小マメに来ては、小さな贈り物、プレゼントしてくれるんですね。継続はチカラなり、です。励みになります。孫さんたちが無心に、なついてくれるのです。嬉しいですね。修道士はこんな小さなお友だちに接する機会が殆ど無いので、たまらなく嬉しいです。そう、そう、バレンタインにはチョコも貰った。これはこん度の誕生日のときのスナップです。子どもさんの成長は本当に早い。上に女の子がいるが、スポーツ競技で出かけているそうです。ガンを発症したときから、「小崎シュウドウシ、ハヤク、病気をナオシテください」祈ってくれた。それだけでも癒される。バプテストの皆さんです。

2012年3月9日金曜日

今から、温泉宿を出発します。無事に帰った

「キリスト教の修道士」って言えば、どうも相手さんが、「え?なに?」って1歩、引くというか、構えるというか、こっちが感じるんですね。でも、こんな話なら、普通の日本人なら誰でも受け入れるでしょう。「みなし子の小僧さんが居った。お寺の和尚さんが、可愛そうに思って、引き取って、小僧さんはやがて師匠に付いて修業して、リッパなお坊さんになった。災害や争いで亡くなった人の供養をしている・・・。同じですよ。少年の頃、両親を失い、弧児になった私を、外国人の宣教師が可哀想に思って、引き取ってくれた。少年は修道士になった。原爆や災害で亡くなった人の冥福を祈っている。キリスト教も、お寺さんも、人間が生きる、人間が求める、その心は同じでしょうが・・・」。ああ、ここまで書いて、話はいいんだが、修道士は温泉に浸かっているじゃないか。そう言いながらも、写真は今朝、定宿『富士屋』さんを出発するときの記念です。左が宿屋の会長さん。『焼けたロザリオ』を差し上げた。右がドライバーの藤下さん(元・教頭先生)です。火曜日から、4日間、クルマを運転してお世話になった。無事に聖コルベ館まで、送り届けてくれた。「やっぱり運転しないと、ラクだね」。またお願いします。

2012年3月8日木曜日

クルマは、リッパ。親友の運転で、雲仙を走る

「オバマへ行くなら、送り迎えしますよ」。藤下さんが申し出てくれた。彼の家は、ちょうど温泉へ行く途中、『愛野』にある。聖コルベ館に勤める前、(20年以上になるが)、多良・山中の、養護施設にある(私立)小・中学校で働いていた。その時の教頭先生が藤下さん。「いいクルマ、持っているね。じゃあ、お願いね」と、この度は、4日間、お世話になった。走る車中での話は学校時代のこと。私は「6年間、子どもに接した体験も有ったが、公立の校長先生との会合や接触を持った、これが人生のタメになったね」。『キレル』『ムカつく』の時代で、小学生たちは、女の先生の言うこと聞かない。山学校ばかり。なのに、背中にオンブされて喜ぶ。男の先生が「これ、しなさい」と言えば、小4のクセに「オマエが、せろ」と口答え。「これが学校か・・・」と先生。「いろいろ有ったなあ」と、今は笑いだけ。「リッパになって、スーツ着て、見せに来たよ」と藤下先生。その先生がポツリと言った。「原爆で亡くなったお母さん、骨も、何も無いなんて、可哀想ですね。身の回りのモンとか、形見とか、無いんですか?」「なーんにも、ナカよ」。しばらくクルマは無言のまま走っていた。

2012年3月7日水曜日

オバマの温泉も、これが最後か、そんな気持ちで

朝、早く、まだ夜は明けない。誰も居ない一番・温泉に入って、満足して、部屋にもどって、ホッと、一息つく。この時が、幸せを感じます。こんな気持ちが、長くつづけば、いい、そう願います。でもね、やっぱり、寿命がありますからね。歳を考えます。
人間は、長く生きていると、わからんことが、1つや、2つは有るものです。ふしぎだなあ、思うことも、1つや、2つは有る。なぜ、なんだ?尿が、突然、全く出なくなった。そして1日たって、今度は、出た。今までとは違った、キレイな、見事な尿に変わった。なぜ、なんだ?別の、泌尿器科の専門医に説明を受けると、答えは「わかりません」。やっぱり、そう言われるのです。なぜか、理由が分からない。
オバマに来て、温泉に泊まって、わかることは,カラダの調子です。立ったり、座ったり、スムーズに行くか、痛いか。そして、オバマの温泉の土、自体が、105度で高温なので、夜中にカラダが、ジヮーっと温まるんですね。定宿『富士屋』さんに通って、7年。部屋は、いつも同じ202室。
幸せは、いつまでも、つづくよう、願います。

2012年3月6日火曜日

島原・オバマ温泉・湯とう冶へ。体力、つくりです

★加筆しました。1月分。緊急・入院をした日にち。1月28日(土)、29日(日)、30日(月)、31日(火)の4日分です。尿管結石で尿が出なくなり、心配しました。バイパス手術で一応、解決しました。その分、くわしく記録しました。
島原半島のオバマ温泉へ。定宿の『富士屋』さんへ。この度は、軽の運転は用心して行なわない。親友が連れて行き、また帰りも引き受けてくれる。私にとって、オバマへ行くことは、「イノチをつないだ」ことになる。オバマは海沿いの温泉で、暖かい場所です。「寒さに、気をつける」「カゼを引かない」「暖かい所に、居る」最も適した場所です。尿が出ない。大変な経験をしました。生きるか、終るかの瀬戸際でした。大げさじゃありません。ああ、また行けるか。晴れ晴れした気持ちです。毎日、日記を読んで、安否を気遣ってくださる皆さんにもお礼を申します。急激に発症し、イノチの戦いでしたが、私にとっては痛い痕跡を残しました。これからのカラダの契機は、神のみ旨にお任せします。3月に入り、84歳になって、なんだか心象が落ち着きました。

2012年3月5日月曜日

退院後、予約の診察日。体調は、どうですか?

入院中、治療の点滴が終ったのが、金曜日だった。あれから10日経っている。今、あまりにも尿がキレイになったのに、おどろいている。入院前と全く異なる。尿がキレイだと、心も、スッキリ、落ち着きもある。ファイトも湧く。ニンゲンって、現実的なものだと思う。この度は「急性・腎盂腎炎」の恐ろしさを、特に身に浸みて感じた。尿が出なくなる。大変なことだ。20時間の不安。腎機能が低下する。アウトだ。だが、助けられた。救われた。
病院・玄関を出るとき、庭のアシジの聖フランシスコの白いご像を、まじまじと見た。「生きて行くチカラを、もらいました。ありがとう」。それしか言えない。聖フランシスコは私の背後に、何を語るか?「あなたは、祈る人ですか?ひとりで、祈る人ですか?あなたの生き方は、ホンモノです」。そんな声が、聞こえてくる。「ひとりじゃ、祈って、おらんなあ、まだ、まだ・・・」

2012年3月4日日曜日

入院・余談。2人部屋。私の話、なぜ、はずまない?

写真は、この2月、入院していた病室の窓から見た風景です。結構な建物の間に、病院は建っています。私は2人部屋。最初は誰も居なかった。看護師さんが「窓の方が、いいですか。それとも入口?」。私はトイレが近い入口のベッドを選んだ。すぐ隣にも患者さんが入った。私は入口だから、この窓からの景色も殆ど見なかった。同じ部屋に2人の患者が居て、気が付いたことがある。日に何度も、看護師さんが検温や、点滴や、処置に来るのだが、窓の患者は私よりも若い男性なのに、看護師との話がはずむ。笑い、息がつながる。私は、というと、用件だけ、やり取りして簡単に話は終る。「どうもヘンだ。なぜ、だろう?」と考えた。私の持つ雰囲気が寄せ付けないのか。隣のテンポは、ゆっくり話す。世間なれも、している。私は、というと、「ポン、ポン」と応対して、「ハイ、それで終わり」。ダメだよね。人間の性格によるものなのか、「今さら、変えよ」と言ってもねえ。もう少し、人間に、話に、幅を持たせたいと、今でも、思っている次第です。

2012年3月3日土曜日

入院・余談。倒れた日の、少年たちの思い出

1月、2月と、2度の入院は大変でした。でも、ゲンキになって、よかったです。沢山のお祈り、お心遣い、ありがとう。それにしても思い出すのは、倒れた日の出来事です。やっぱり、忘れません。でも、それが原因で倒れたわけではありません。この日の午後、東京の、有名・私立小学生たち、120人に、原爆、平和の話をしました。久しぶりの、市内の会場で、原爆から、アウシュヴィッツ、コルベ神父の話と燃えましたよ。1時間の話です。だから、もしも排尿がしたくなったらと、実は、ね。「オシメ」をしていたんです。ところが全然、尿が出ない。この辺ですよ、おかしいなあ、の疑問です。その夜だった。とうとう尿が全く出なくなった。受難の始まりです。
今日、私がこの記事を書いたのは、実は、120人の児童に語った後で、ただ1人だけ、お礼の手紙が来たことです。秀昴(しゅう・こう)くんという少年です。嬉しいじゃないですか。小学生とは思えない、しっかりした文章で、きれいな字で書かれていた。「小崎サンの話を聞いて、生きる本当の意味は何だろうかと、頭にのしかかるテーマだと思いました」。小学生が、生きる意味だって、負けるよ。熱心に語れば、腕白少年だって、心に痕跡を残すんですね。それだけで満足です。それにしても、この小学校の半ズボンには、いつも参るよ。この小学校には、長崎・修学旅行の際、もう10年来、話しつづけている次第です。下の写真は代表が聖歌を歌っている場面です。ウインの少年合唱団並みの美声でした。

2012年3月2日金曜日

ポーランド・聖女シスター・ファウスティナのコンタツ

「ありゃ、これ、なんね?」。病院に見舞いに来た、「いそがしか、ケン」の女性が持っていたコンタツです。昨日の誕生会にも、持ってきた。イエスさまの御胸から、アカと青の光が出て、シスター・ファウティナに「神の慈しみへの祈りの花束」を唱えなさい、と言われた。コンタツも、赤と、青の色玉に分かれている。
「祈り方は?」。①主の祈り1回、アヴェ・マリア1回、信仰宣言1回。②「永遠の父よ、私たちと全世界のすべての罪の贖いのために、あなたの最愛の子、私たちの主、イエス・キリストの御体と御血、ご霊魂と神性をみ前にささげます」(1回)。③「イエスの大いなる受難によって、私たちと全世界に慈しみを注いでください」(10回)。・・・②と③を5回唱える。最後、締めくくりに、④「聖なる神、聖なる全能の神、聖なる永遠の神よ、私たちと、全世界をあわれんでください」(3回)。これを、この女性は唱えているというのです。「隠れた所で、信心しているんだね」「あら、イヤだ。小崎サンが、ポーランド・チェコ旅行に連れて行ってくれたとき(2004年10月だった)、聖女シスター・ファウスティナの巡礼地に行ったじゃないですか」「ああ、そう、そう、ポーランドのクラクフの南にあったね」。シスター・ファウスティナ(1905-1938)は、2000年、大聖年に、ヨハネ・パウロ2世から聖女に挙げられた。行動するだけじゃなく、祈らんとダメだね。

2012年3月1日木曜日

84歳の誕生日。1軒のお宅で祝ってくれる

「歳をとるって、嬉しいんですよね。なぜか、と言うと、この年まで生かせてもらった喜びですよ」。昼食時に、元・高校の女性先生のお宅におじゃましました。写っていないが、集まったのは、7人です。このメンバーで、今年で、8年目ですよ。誕生日を祝ってくれるのです。ありがたいですね。「継続は、チカラなり」ですよ。「小崎サンの人徳のおかげよ」と言うけれど、「そうか、なあ」。ポーランド・チェコ旅行や、長崎の電車(どこまで乗っても、120円)の話など、2時間半ですよ。盛り上がりました。健康って、いいな。私の右隣が、入院のとき、見舞いに来て、「いそがしか、モン」と言った女性です。ホントウに、今日は楽しい日でした。