2018年3月31日土曜日

今夜は復活・徹夜祭。3月も終わる。恵みの月だった

ホームのサクラも満開となった。今日で、3月も終わる。満90を迎えたし、「日本26聖人」の映画の紹介でNHKのテレビにも出たし、愛野教会での出会いもあったし、恵みの月だった。満足していて、いいのだろうか。「人柄とは、笑顔、元気、主体性だよね」。道は、まだ、つづく。

2018年3月30日金曜日

聖なる3日間の儀式が始まる。信仰を再燃して生きる


ブリ神父さまの教会での話しに就いても、一応、日記に書き終わった。また、ホームの元の気持ちに戻る。何か変わった事があったか。毎日、色々と事が起こっている。ヨゼフ橋口修道士さんのお兄さんが亡くなった。享年90。
★教会では、聖なる3日間が始まる。昨夜は、聖木曜日のミサが行なわれた。「洗足式」では、司祭が、男子3人の足を洗った。この箇所の聖書が読まれると、イエスの時代の情景が思う出されて、心身にひびいた。足を洗う。最低の事をイエスは身をもって行なわれた。その時の思いは如何ほどだったか。「お互いに、愛し合いなさい」。2千年の時を越えて今も聞こえる。
★ミサの後で、御聖体が別の部屋に移動される。賛美歌をうたい、ロザリオを唱えた。儀式は夜7時30分から始まり、9時に終わった。安眠した。
★今日は、午後3時から、教会で、十字架の道行がある。7時30分から聖金曜日の儀式が行なわれる。

2018年3月29日木曜日

こころ配り。メダイとカードをおみやげに。皆、喜ぶ

愛野教会で、精一杯の話が終わると、参加者全員に、「ふしぎのメダイ」(説明入り)と、聖母の騎士誌と、カードが配られた。メダイは、聖母の騎士修道女会のシスター方に奉仕をお願いした。カードは大分の恵理子さんの作りであった。
★「話は、どうだった?」。夜、電話で、トマの知人で参加した女性の印象を聞くと、「疲れた感じ、倒れるのではないかと、心配した。体調が良くなかったのか、小崎さんの話の活力がなかった。メモを取る女性の姿を見た。メダイ、騎士誌、カードを配った。トマさんらしい配慮を感じた。普通の人なら、そこまでは、しないでしょう」
★カードをお願いした恵理子さんから、出来上がったカードの束に、1つの言葉が添えられていた。「アウシュヴィッツのコルベ神父様、長崎の原子野に居たトマさん、あの地獄に、神は居られたのか?・・ということを思う時、私はお2人から、神は居られた・・と思えます」。トマには、この恵理子さんの言葉が心に1つの閃光を走らせた。
★神の声も聞こえない。天使の姿も全く見えない。神は居られるのか?反対に、神は居ない、は良く体験する。それは原爆であり、アウシュヴィッツ。これらは人間の仕業だった。それならば、こんな体験は無いのか。「人間って、こんなに優しいのか。ならば神さまって、どんなに優しいのだろうか」。人間の仕業、愛の中に、神の愛と優しさを知る。神は、原爆の丘にも、アウシュヴィッツにも、居られたに違いない。
★なぜ、ブリ神父さまは、トマに話を頼んだのだろうか。「ゆるしの秘蹟」を与える司祭が、その日、2人も居られた。トマに、どうしても話して欲しかったと思う。ポーランドのこと、コルベ神父のこと、それを話して欲しかった。十分に話が出来なかったことを残念に思う。だが、もう過ぎた思い出になった。優しい、勲章の推薦人、ブリ神父を忘れる事はない。復活祭の次の日に、ブリ神父さまは、長崎に別れを告げて、転任する。寂しくなります。次の宣教の場での活躍を祈ります。

2018年3月28日水曜日

信仰は、愛とイノチ。マリアに奉献し、イエスに死ぬ

後半は、コルベ神父の生き方を語る。何をしに日本へ来たのか?コルベ神父は、とにかく「マリアさま」。けがれなき聖母です。ルルドでも言われた。「我は、けがれなき宿りなり」。マリアを通してイエスへ。これが一番の近か道。農夫が王様に農作物を捧げる時、直接、捧げるよりも、女王様に捧げると、美しい篭に入れて、周りを飾って王様に差し上げる。その方が喜ばれ,、効果がある。マリアさまに、我が身、心、知識、働き、総てを完全に奉献する。自分はマリアさまの道具となる。働かれるのはマリアさま。それが「マリアを通してイエスへ」。その信念を生涯、貫いた。
★修道院では、お互いに「マリア」の挨拶。手紙の初めには「Maria」。各部屋に無原罪の聖母像を安置する。「マリア」で呼吸し、マリアで生きる。日本へ来たのは「ふしぎのメダイ」の普及と、聖母の騎士誌の発行に全力を捧げた。人々をマリアに結びつけ、マリアへ奉献させる。「マリアに結ばれれば、必ず幸せになる」。その願いで、日本での6年間を宣教した。これだけは話したかった。
★神が存在するならば、神の見える働きが有るはず、です。コルベ少年は、町の教会の祭壇で、聖母マリアから白い冠と、赤い冠を見せられた。「どっちが欲しいですか?」「両方、欲しいです」。(コルベ神父の映画「二つの冠」の会場で語った事を繰り返した。死後、戦争後、列福調査。最初は「愛の殉教者」のイメージで列福が盛り上ったが、時代の反応からか反対が起こり、証聖者としての列福に変わる。2つの奇跡が必要とされ、祈りの結果、2つの奇跡が教会から承認された。ヴァチカンの聖ペトロ大聖堂内で、パウロ6世教皇によっての列福式。全聖職者の祭服は「白色」(証聖者)であった。それから11年後、列聖式は、今度は余りにも多くの参加者の為に、聖ペトロ大聖堂の広場で挙行される。ヨハネ・パウロ2世教皇初め全聖職者は「赤色」殉教者の祭服だった。列福式も列聖式も参加する栄誉を得たが、その情景を見て、コルベ少年が見た「2つの冠」は、話々でなく、目に見える形で実現した、と大きな喜びを感じた。(ちなみに列福は証聖者、列聖は殉教者は、コルベ師の他には居ない)
★アウシュヴィッツでのコルベ神父の姿と餓死の地下室。これが実際の部屋で、片隅に木製の便器が置いていた。
★列聖の翌年、ポーランドへ行き、コルベ師のお母さんの墓参りをした。観想修道女会のシスターから、コルベ夫人の信仰心を聞いた。
★またコルベ神父から命を助けられた男性・ガヨビニチェックさんにも3度、面会した。彼は言った。命を助けられた時、「ジンクーエン(ありがとう)と言わなかったのが、一番の残念」と。コルベ師は「安心しなさい、大丈夫だよ」と優しい微笑みを残して、餓死の地下室に入ったという。
★体が病弱だったコルベ師が、17日間の餓死状態を、生き延び得たのは、マリアさまの力、支えによる奇跡だったと信じる。
★コルベ神父が、なぜ、人の為に命を捧げる事が出来たのか。それは、つまらない人のために、どうしようもない人の為に、命を捧げた人が居たからです。それは誰ですか?イエスです。コルベ神父はイエスの道を生きたいと望んでいたからです。イエスに最も近い人、マリアを愛し、完全に奉献した。マリアさまの導きで、コルベ神父はイエスの如く、裸で、我、渇くと言って、人の為に命を捨てる事が出来たのです。コルベ神父の「愛の花びらは、いつまでも枯れることはない」

2018年3月27日火曜日

苦難を「みせつり」として受け入れるのが、信仰

原爆の丘での体験は、余りにも過酷すぎた。焼け野原に化した浦上。夜な夜な、崩壊した浦上天主堂の燃える火を見ながら、泣いた。わが家も、母も燃え、吹き飛ばされ、遺体も見つけなかった。18日、廃墟で生活して、聖母の騎士へ入った。そこには永井隆博士が避難して居た。永井先生は、小神学校(中学校)で、理科を教えてくれた。
★その永井先生が、原爆1周忌の浦上教会・ミサの祈りで、次のような意味を語った。「廃墟になった現実を見極めよう。多くの死者のために祈ろう。彼らは神への『いきにえ』となった。残された我々は、前向きに復興を進めて行こう。苦難を『みせつり』と捕らえて、信仰のうちに生きて行こう」
★突如、ガンを宣告される。苦難に落とされる。この世の中には沢山の苦しみがある。善処しよう。手当てをしよう。しかし人間には限度があり、どうしようもない時がある。その時には「みせつり」として受け止める。信仰は、苦難を「みせつり」として受け入れる。
★(旅に取られた浦上信徒たちは、帰郷した時、天主堂に1つの塔を立てた。それには「神の仕業(しわざ=意志)によって追放された人たちは、浦上に戻った」と記した。その塔は、原爆でも崩れなかった。
★自分は「カトリック信者」であることを感謝しています。人間とは何か?を、はっきりと教える。人間は神から出て、神に帰る存在である。神の愛と命から出た。しかし人間には弱さ、欠点、欲望、罪が有る。清めなければ神の元へは帰れない。そこに絶えざる改心と、悔い改めがある。悔い改めには、祈りと、御聖体と、ゆるしの秘蹟が必要です。
★尊敬する故・中島万利神父さまは、98歳の誕生・祝賀会のとき、私が個人的に聞いた。「人間、どう生きるべきか?」「祈りと、愛と、清さだ。毎日、ロザリオを6本唱えている。ロザリオを唱えると、天国へ行けます、ファチマの聖母のみ言葉だ。愛も出来る。愛は実行してきた。しかし清さが難しい。だから痛悔がある」。99歳で亡くなった。

2018年3月26日月曜日

修道士は語る。浦上の信仰の原風景。聳える天主堂

修道士は、神学や聖書を専門的に学んでいないから、教える能力は、ありません。ただ自分が生きて、体験した事、平凡な中の信仰を語ります。
★ホームに入って、4年半。静かで、単調だが、今年になって良い事が幾つかあった。1月に、ポーランドから勲章を貰った事です。平凡な修道士が勲章を貰えるはずがない。確かに推薦者が居る?ブリ神父さまです。そう信じている。(と言うと、ブリ神父は、しきりに、イヤ、イヤと、首を振っていた)。次は、3月で、90歳になった事です。皆さんからお祝いを受けた。そして今日は皆さんと出会えている。これもお恵みです。
★私の初めての信仰体験は、北朝鮮の港町で、小学生の頃、ただ1軒のカトリック。他の児童は総て、仏教。何故、私だけがカトリックなのか、小さな胸を痛めた。特に歴史で「キリシタン成敗」「島原の乱」など出てくると、学校へ行きたくない。母は熱心に信仰を守っていた。祈りは欠かさない。★旧制中学の受験のとき、筆記、体力試験も終わって、口頭試問になった。当時は軍国主義の時代。天皇は神さま。「君は、キリスト教だね、天皇の軍隊と、キリストの軍隊が戦争をしたら、どっちに付くか」と問われて、少年は、棒立ちとなる。彼は思い切って、答えた。「キリストの軍隊に付きます」。合格となった。今、考えて、合格を与えた先生は、「合格だ」と叫びたい。
★13歳のとき、母の里、浦上へ帰る。「見ろ、20年の歳月をかけてレンガを1つずつ積み上げて建造した大天主堂が聳えているではないか」。周りには1万2千人の信者が居た。天主堂の内部は、今のような机がない、板張りだった。男子は、左側、女性は、右側。ベールの姿が美しい。
★毎土曜日の夜には、近所の信者が集って「サバタ(土曜)寄り」が行なわれた。ロザリオを唱えて、死者の為に祈り、祈った後はお茶・菓子が出て、死者を語り、会話を楽しんだ。テレビの無い時代だった。親は、子に言う。「祈りバ、せろ。スラごと(ウソ・偽り)クルより、ロザリオ、クレ。善業バ、せろ。犠牲バ、せろ。貧しい人に食事を与えよ。死者の為め祈れ」。もう1つ、オマケがあった。「神父さまを大事にせろ」。浦上の信仰の原風景であった。
★母は、15歳の私を、聖母の騎士のルルドへ連れて行った。母から、ルルドへつながり、ポーランドの修道士につながる。コルベ神父につながり、ブリ神父にもつながった。
★信仰とは、「つながり」だと、私は思っております。
★ところが、この世は、思いがけない事が起こる。あの大天主堂が、一瞬の内に崩壊し、信徒1万2千人の内、8千5百人が亡くなった。人生には、時として、「どん底」に落ちる。その時、如何に生きるべきか。大きな課題がある。

2018年3月25日日曜日

1時間の話、大役を無事に終わる。もう限度ですね

枝の主日。聖週間に入ります。聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日が来て、次の日曜日は復活祭になります。
★愛野教会で、枝の清め、行列、ごミサが行なわれました。その後で、小崎修道士の話しが1時間ほどありました。話の後で、ゆるしの秘蹟が行なわれ、浜田神父さまも聴かれました。高原修道士さんは車の運転でした。ブリ神父さまが主任司祭です。ポーランド人で、復活祭の後、転任されます。7年間、この教会に勤めたれた。最後に、小崎修道士にお話を依頼されたのは、ポーランドのこと、ポーランドの聖人・コルベ神父さまの話をして欲しかったのでしょう。
★小崎修道士は歳には勝てません。アタマが混乱して、順序良く、まとまった話が出来なかったのが残念で、心残りになりました。それでも50人ほどの信徒は、熱心に聞いてくださった。無事に終わって、ホームに帰れて、ホッとしています。
★「もう、話は、限度ですね。そう、つくずく感じました」

2018年3月24日土曜日

フィンランドの直美さんから、チョコレートが届く

フィンランドの直美さんから、郵便物が届いた。フィンランドはどこにあるのだろう?地図を見ると、北欧、ノルウェー、スウェーデンと並んで、フィンランドがある。その隣は、ロシア。今年、1月、突然、直美さんがフィンランド人の体格の大きいダンナさんを連れて、直美さんのご両親もご一緒にホームへ来た。直美さんとは日記で知り合い、結婚前に単独でホームに面会に来た。洗礼を受けて、トマさんの本をガイドに、長崎・五島・ポーランドへも出かけたという。ダンナさんとはメールで知り合って、結婚した。フィンランドの人口は、550万人。北欧で、どんな暮らしをしているのか、聞かなかった。人口の少ない幸せな国であろう。送られてきたのは、フィンランドのチョコレートだった。ブリキの箱で、かわいい絵が付いている。「90歳のお誕生、おめでとう。すごいなあと思います。これからも日記、書いてください」。北欧の直美さんに励まされ、ゲンキも出る。
★明日は枝の主日。ブリ神父さまの愛野教会で、ミサの後、1時間ほど、お話をします。頑張らなくては、ね。

2018年3月23日金曜日

サクラも咲いて、春の気分。いい事、あるかな、凡夫

サクラが咲いた。嬉しいよ。写真は、右から、白い、アシジの聖フランシスコのご像。その左は、石塔。「聖フランシスコ園」と刻まれている。そして、ボク。変わりない。変わらないのが一番の幸せです。今朝は入浴する。食昼前、男性職員の車に乗せてもらい、地元の町へ降りて行く。封筒と、イチゴを買った。この職員は家に戻るという。隣の町に自宅がある。まだ独身だ。長身の青年。私の担当になっている。夕方5時半に出勤。6時から夜勤となる。介護の仕事は苦労が多い。責任もある。
★昨日は、山内園長神父、橋口修道士、私、高原修道士の4人は、長崎のクリニックへ診察へ出かけた。4人とも診察した。昼食に間に合うようには帰った。

2018年3月22日木曜日

福岡から3人の女性③「ルルドの奇跡」は起きている

昌子さんは、須磨子さんと、フランスの「ルルド巡礼」で『つながり』がある。一緒に旅行をした。
★昌子さんは、小5の時、洗礼を受ける。「マリア・クララ」。15年前、ご主人(洗礼名=アシジのフランシスコ)を病気で亡くした。神父さんから「ルルドのお水」を戴いた。「ルルドとは、どんな所?」と興味を持ち、ウインに居た友達と、2005年に初めてルルドへ向かった。5日間滞在して、深い感銘を受ける。国籍を問わず、多くの巡礼者が心を1つにして昼夜祈っていた。
★帰国して、検索すると、大阪に巡礼の会社があるのを知った。昌子さんは大学ではフランス語を専攻し、ペルパーの資格も取得している。申し込むと採用されて、2005年から、年に2回ほど、ルルドへのガイドを勤めている。2014年が最後となった。「今は巡礼の中に加わって、ルルドへ巡礼しています」。17回、行った。「18回は行きたい。それが今の希望です。マリアさまが18回ご出現になられたからね」
★旅行は20人ほどのツアーだったが、「お恵みでした。自分にとってツライ大変な事も起きる。それが恵みとなって、喜びに変わるんです。有りのままを受け入れて、一緒に過ごすと恵みを受けて、喜びに変わる。ルルドの洞窟の聖域の中で、障碍者も、病者も、悩む人も、奇跡を願う。奇跡は起きているんですね。160年間で、70人位の奇跡が認められている。奇跡は認められなくても、奇跡は起こっている。『おおせの如く』『ハイ』『何事も、ハイ』。マリアさまのお気持ちです」
★ルルドへ行けば、誰しも十分にマリアさまの恵みを戴いて、喜びを抱いて帰っている。私も何度かルルドへ行った。特に夜のルルドの巡礼は、灯火をともして信仰のうねりに胸は高鳴った。
★こうして福岡から来た女性の3人は、それぞれの人生をホームの私に語ってくれた。3人の女性たちの気持ちと、ご縁は深い「つながり」となった。

2018年3月21日水曜日

福岡から3人の女性②赦して和解して平和に到達した

須磨子さん(写真・右側)とのご縁は長い。32年前に、交通事故で亡くなった聖(ひじり)ちゃんの実話を記事にした。「ひっちゃん」と愛称していた。天使のように育ち、4歳で聖書を読む。教会に通って熱心に祈る。その聖ちゃんが、小学2年のとき、学校から自宅マンションに帰り、「ママ、遊びに行ってきていい」と言葉を残して出た。10数分後、「車が、跳ねた」と告げられる。聖ちゃんは、自宅の次の通りの国道で、白い洋服を着たまま、お人形のように倒れていた。傍に呆然と立つ会社員の青年がいた。聖ちゃんは、事故から50分後、全く無傷の姿で神に召された。
★家族は突然、悲しい現実を突き落とされる。母・須磨子さん、ご主人も、悲哀と苦悩のどん底に、もがいた。「赦されない。とても受け入れられない」。怒りと、悔しさ。だが聖ちゃんの声が聞こえる。「パパ、ママ、赦してあげてね」。青年は唯々泣いて許しを請い、うつむく。青年の両親は大粒の涙にむせび泣く。葛藤と苦難の末、聖ちゃんの声を受け入れて、「赦し」を受け入れた。やがて、ご主人は教会で洗礼を受け、「パウロ」となる。青年と、彼の家族との結びつきは、絶えずつづいた。
★5年後、青年は結婚した。須磨子さんは、その祝いの式に参列し祝福した。いつも聖ちゃんが見守ってくれるのを感じる。須磨子さんは「カタリナ聖・文庫」や「基金」を立ち上げ、福祉事業に送金している。聖ちゃんは、恵みの中で生きている。
★「あれから、あの青年は、どうなりましたか?」「もう57,8歳になるでしょう。2人の子供さんが居る。男性と、彼の実家との『つながり』が今もあります。男性からは毎年、年に2回、お花が届く。4月は聖ちゃんの命日で、11月は、聖ちゃんと、私(須磨子)の誕生日です。実家からは収穫した農作物が届いています」
★私、トマ修道士が「苦しみは、神の喜びに、変わる」と言うと、須磨子さんは「喜びでなくて、もっと深い」と返した。須磨子さんは言う。「事故があって、赦す気持ちはない。どっちも選ばれて、立場は違うけれど、恨めない。ある司祭が言われた。『赦すだけでは、いけない』と。本当の平和は、和解です。赦した後に和解がないと、平和が無い。本当の平和は、赦すこと、和解すること、自分と彼の関係は、意識をせずに、和解を重ねていった。彼も、私も、実家の人たちも、平和に到達したと実感しました。対等の和解を育てていた。だから今がある」
★須磨子さんは看護師だが、今は福岡ホスピスの会の代表を務めている。「心にキズのない人間は、人の気持ちに、寄り添えない」。今の世、受けた傷を「赦す」のは大変難しい。生涯、恨みつづける人もいる。当然だろう。しかし須磨子さんは実際の体験から、深い意味の言葉を私に残した。「苦しみはあったが、赦して、和解してこそ、平和がある」

2018年3月20日火曜日

福岡から3人の女性①抽選で列福式に参加。47年前

福岡から3人の女性が、ホームに面会に来た。須磨子さん(写真の左側)は長いご縁があり、昌子さん(中央)は最近、ホームに須磨子さんと一緒に2度程来ているので、よく知っている。
すが子さんは初めてだった。と、思ったらーー「私、『カトリック・グラフ』の旅行の抽選に当たって、コルベ神父さまの列福式に参加しました。出発の日、羽田で花束を戴いた。写真もあります。その翌年、洗礼を受けました」
★突然の申し出に、一瞬、過去に連れ戻され、胸がときめいた。「え?あの時の・・思い出したよ」
★1970年、コルベ神父の来日40周年を記念して、騎士社から大型B4の「カトリック・グラフ」誌を発行し、4年間つづいた。私はその時の編集者で、編集所は東京・赤羽にあった。すが子さんが言われる抽選のことは、勿論よく覚えている。
★1971年はコルベ師の列福式の年で、騎士社では、式を控えて、グラフ誌で「読者アンケート」を実施して誌の反応を調べながら、その応募の中から、1等から4等まで賞品を決めてた。1等は1名、「列福式参加へご招待」の得点を付けた。多数の応募があり、抽選会は厳粛に行なわれ、1等を決めたのは、特別抽選人の「加藤一二三八段(当時)」だった。当選者は、名古屋の17歳の高校生である。しかし彼からの返事は「自分は今、大学受験を控えており、将来は、海外にも行けよう」と辞退した。繰上げ当選者が、福岡の「すが子」さんであった。
★当時のグラフ誌に、すが子さんのコメントも、若い顔写真も載っている。「姉の2人は洗礼を受けているが、私は親が賛成してくれない。そこで大型のグラフ誌を、両親の目の届く所に置いていたのです。学園講師をしているが、ぜひ参加したいです」
★旅行実施後の「列福式」特集のグラフ誌には、すが子さんの次の感想が載っている。「式は、静かで、おごそかと思ったが、お祭り的な雰囲気だった。全世界の人びとが心を1つにして祈る姿には『我らは皆、兄弟』を実感した。カトリックはカトリック(普遍)の体験が出来たのは、大きな収穫だった」
★「訪ねて来てくれて、ありがとう。洗礼の霊名は何ですか?」「マリアです」「どうして今日は、ご一緒に?」「須磨子さんと、『つながり』があり、ホスピスの会で、コルベ神父さまの話が出て、小崎さんが出て、一緒に行こうと、今日、来ました」「ああ、それは良かった。よく来たね」と遠い日を結んで再会を喜んだ。人生、どこで、どう『つながり』があるのか、信仰とは『つながり』であると感じている。
★須磨子さんや、昌子さんの話もそれぞれ聞いた。
★最後に、すが子さんが言った。「生きて行くためには宗教心があった方がいい。マリアさまの心と、自分の心を重ねて、自分の心の向きが変わる。ああ、そうなんだと気付かせてもらう。聖書って、すごい。今まで残っていて、生ける知恵です」。心の目が覚めたような日の出会いだった。

2018年3月19日月曜日

ヨセフ橋口修道士の修道名の祭日。彼の生涯を問う

聖ヨセフの祭日のお祝いです。聖ヨセフは、聖家族の保護者、教会の保護者でもある。写真は、湯江教会の聖ヨセフの御像と、ヨセフの修道名を戴いている湯江修道院の橋口達夫修道士さんです。今日がお祝いなので、この日に及んで、ヨセフ橋口修道士さんの一代記を聞きました。
★明日、3月20日が彼の誕生日で、満84歳を迎える。
★橋口修道士さんは、外海・黒崎の出身。3歳の頃、長崎市に変わった。兄弟姉妹、全部で9人。その中で、彼は真ん中。現在4人が亡くなり、上は94歳の長女、下は76歳の妹。差し入れして修道院を助けてくれる。
★幼少の頃から、マリアの御像や馬小屋を飾ったり、宗教的雰囲気があった。中学を卒業して、船大工の造船所で働いていた時、養護施設「騎士園」の子ども達を見て、「自分も世話をしたい」と考える。17歳の時、聖母の騎士に入った。
★先ずミロハナ神父から「司祭志望か?、修道士か?」と問われると、直座に「自分は、修道士になる」と答えた。翌日から、与えられた仕事は、ルルドへの坂道にある畑の農作業だった。1年半、つづいた。少年には耐え難い。根を上げて、ミロハナ神父に「もう辞めたい」と申し出た。するとミロハナ神父が、大きな十字架を出して「これを越えて行きなさい」。これにはショック。彼は考えた。「神父に聞くより、直接、神さまに聞いてみよう」。一日の日課、勤めが総て終わった後、一人、暗い教会へ行き、1週間、祈りつづけた。すると、ある夜、暗闇から声が聞こえた。「私が、あなたを、選んだ。あなたが、私を選んだのでは、ない」。この言葉で彼の心は決まった。以前にも増して熱心に勤めることにした。
★志願期は、カシアノ修道士の炊事場でも働いた。カシアノ修道士と言えば、聖ヨセフの熱心な信心家であった。聖ヨセフの本も出している。カシアノさんから、修道名は「ヨセフ」を勧められた。修練に入る時、「ヨセフ」の修道名を受けた。修練期を終わって、いよいよ誓願を立てるとき、また迷いが起こる。自分は弱さを認めて、果たして、このまま行けるか。夜、また祈りがづづいた。すると、また声が湧いてきた。「あなたを、創ったのは、私です」「それなら、責任は、創られた、あなた、ですね。私は努力いたします」。こうして彼は修道士の生活を始めたという。
★修道士の働きは、どんな活動か。ホーム「聖フランシスコ園」事務で4年。資格も取得した。その後も同じホームで2回目、12年働いた。東京2ヶ所と、愛知県春日井でも働く。長崎では、山の養護施設や、長崎・騎士社で活躍した。カリエスを病んだ経験もある。湯江に来る前は、長崎に長年、居た。
★ヨセフ橋口修道士は言う。大切なのは、神さまとの対話。お祈り。責任は神さまが取る。神さまは人間を大事に創られた。人間には弱さもあるが、神の愛がある。神さまに祈ること。語ること。相談すること。必ず聞き入れられる。「親たちには言うんですよ。子どもには、きびしく、やさしく、あたたかく、この3つの言葉を混ぜ合わせて、与えなさい」
★最後に聞いた。「当面の、自分の課題、何ですか?」「まあ、体重を、落とすことだね。ハ、ハ、ハ」

2018年3月18日日曜日

幼稚園の女の子に出会う。健やかな成長を祈ります

昨日の「誓願・祝賀会」で、嬉しいことがあった。遂に、時々、コメントを寄せてくれる幼稚園の女の子に会った。最初のご縁は、ハガキで「トマさんのことば」の申し込みがあり、お送りしたのが、知ったきっかけだった。幼稚園は、聖コルベ館の隣にある。
★騎士誌の2月号が出たとき、「ママ、トマさん、載っているよ。読んで」と大喜びだった」とお母さん。1月23日の日記には「卒業するまでに、会えたらラッキーだね」と書いた。トマの誕生日の日記にも、コメントを入っており、「トマさんに会える日まで、マリアさまにお祈りします」と希望があった。それが昨日、実現したわけである。
★「祝賀会」で、突然、声をかけられ、対面して、トマは、びっくり。だが非常に喜んだ。本当に会えて良かったね。名前を聞くと、「瑚々菜」さん。3月、幼稚園は卒園で、4月から小学1年生になる。
★「どうして、マリアさまが好きなの?」。お母さんの説明では「子供は4人で、上に中学生の男の子が2人、小学生の男の子がいる。中学生の男の子が教会巡りが好きで、家族揃って教会を訪ねている。長崎の教会には、どこでも「マリアさま」が居られる。それで「瑚々菜」は、マリアさまが好きになり、毎日、お祈りしているのです。洗礼を受けたいと言っています」
★かわいい女の子の出会いに、トマも戸惑い、言葉も十分に出ない。遠慮があった。もう少し、「好きな食べ物は?」「好きな事は?」など話せば良かった。まあ、会場の騒がしさもあり、「瑚々菜」さんの成長を願いながら、時々少女を眺め、時を過ごしてお別れした次第だった。また、いつの日か、会いましょうね。
★今日、コメントが入った。「お会いできて嬉しい。マリアさまに毎日、会えますようにお祈りしていた。トマさん、益々お元気で、笑顔で、ステキなトマさんで居て下さい」
★出会いは、神の恵みなり。神にカンシャ。

2018年3月17日土曜日

修道会の喜び。若者よ、司祭への道を、勇気で進め


今日は、信徒発見の聖母の祝日です。大浦天主堂で、潜伏・浦上キリシタンが、プチジャン神父に言葉をかけ、「あなたの心、わたしの心、同じです」と打ち開け、信仰の扉が聖母マリアと幼きイエスによってお恵みがあった日です。
★この日、修道会で大きな喜び、お祝いがあった。神学生の中野里晃祐(なかのり・こうすけ)さん(修道名=テモテ・マリア)が終生誓願を宣立しました。長崎・聖母の騎士教会で行なわれた。ホームからも10人乗りの車が出て、ホームの信徒有志と、瀧神父さま、トマ修道士が参加しました。修道会で、前進して行く者があれば、教会の希望になります。修道士の先輩たちと、喜びの挨拶が、ミサの中で誓願を立てた直後、行なわれる。みんな嬉しかったよ。その後、教会下のホールで祝賀会があった。
★また修道会では、昨日、浦上天主堂で、4人の神学生が、「朗読奉仕者」の任命を受けました。いよいよ司祭への道に進みます。受けたのは、①ミカエル外山祈(あきら)さん。②テモテ・マリア中野里晃祐さん。③ペトロ峯勇太郎さん。④パウロ今井裕次郎さん、でした。誓願も、叙階も、おめでとう。前進あるのみ。前へ進め。(写真は右から、④今井さん、②中野里さん、①外山さん、③峯さん、です。

2018年3月16日金曜日

NHKテレビで「日本26聖人」映画が紹介される


昨夕、NHK長崎の番組で、日本26聖人の映画が取り上げられた。10分間、放映される。なぜ今、26聖人なのか。そうではなくて、この番組は「ロザリオの記憶」と題して、「長崎県内、各地に残るキリシタン文化を訪ねて、知られざる歴史や、そこにある信者の思いを探していく」。それで今度、映画が紹介された、ということだった。
★先ず、スタジオで「無声映画」に注目、86年前、現在のお金で6億円をかけて製作された」と紹介。西坂にある26聖人資料館で「誰が、どんな思いで、この映画を製作したのか」聞く。映画が流れ、片岡千恵蔵(1903-1983)、山田五十鈴(1917-2012)も出演して、「浦上出身の信者、平山政十さん」が自分のお金を使って制作」と説明があった。
★政十さんの孫に当たる「平山高明・司教さま(94歳)」がお元気で登場されて、伯父になる守山甚三郎の言葉を話された。政十に「お金の成功で、タマシイを失うな。死ぬ時は裸で、神さまの御前に立つ」。その甚三郎の言葉が彼を目覚めさせて、映画の製作を思い立った。
★次いで、「政十さんの志を受け継いで、長年、活動している人がいる」と小崎修道士が登場した。「白黒映画で非常に古いが、殉教者の本当の苦労や苦しみが表れている。少年時代に見て、感動した。その感動を皆さんに知ってもらいたい」。小崎修道士が実際に弁士をしている場面が再現された。お役人から、バプチスタ神父がムチで叩かれる。お坊さんが見るに見かねて寄ってきて「お役人さま、しばらく御慈悲を。なんと、みごいことを」と言葉をかける。感動の場面だ。次いで「キャスターの説明がある。「高齢になり弁士を引退して、多くの人に映画を見てもらいたいと、ナレーション・音楽を入れてDVDを作り、無償で配った」。そしてキャスターが小崎に聞いた。「天国の政十さんに何か言葉をかけるとしたら?」。即座に、手を上げて「政十さん、ありがとう」
★小崎の映りは良く、松下修道士も映写機の傍で、フィルムを掛ける仕草が映っていた。長崎のカトリック小学校で、児童に「26聖人」を見せる場面もあり、児童の感想も出た。

2018年3月15日木曜日

NHK長崎で、日本26聖人の映画が、今夕、紹介

昭和6年制作の活動写真(当時は、そう呼んだ)「日本26聖人・我、世に勝てり」が、NHK長崎のテレビで、今日の夕方、「イブニング長崎」で放映される。時間は、午後6時15分から県内のニュースが流れて、その後、だから6時半頃になるだろう。特集で出るはずです。
★なぜ、いま、26聖人なのか、よく分からないが楽しみでもある。この映画には、惚れ込んでいる。よくぞ、あの時代に、立派な映画を製作したものだと感心する。昭和51年(1976年)2月23日、26聖人のフィルムが到着した。その年、3月から12月まで、映画会へ出かける。翌52年、53年も上映会をつづける。54年6月には、1人でキャラバンを運転して、北海道まで行った。疲れが溜まったのか、8月、10月には、2度、入院している。その後は、松下修道士と共に、全国を、ブラジルまでも上映して廻った。思い出は深い。
★どのようなナレーションでNHKは描くのか。今日の夕方が楽しみである。午前中は、入江さんと一緒に、ゆっくり入浴した。テレビに出るのは、3度目だよ。「五島の岳踊り」「勲章」「26聖人」。ホームに居ても話題は出てくるね。

2018年3月14日水曜日

春の陽ざしは温かい。上等・車で海沿いの道走る

椿原小・中時代の教頭・藤下先生が自慢の車で迎えにきた。日産のノート・イ・パワーで、走りながら電気を充電して動く。運転席に、955Kmの数字が出ていた。この距離は、電気で走れる。ガソリンを注油する。便利なクルマです。
★朝から乗せてもらって、先ず「カメラのキタムラ」へ寄って、デジカメから300枚程、紙焼きしました。日記に載せるために写した写真です。
★途中で、昼食のため休憩しました。その時のスナップです。店には、お雛様が、まだ飾られていました。店の伝統なのでしょう。その後、車は、海沿いの風景のよい眺めの道を走った。春の陽ざしは温かい。気持ちがいい。海の向こうには、天草や雲仙岳が望遠できました。気分も休まります。聖コルベ館に居た頃、オバマ温泉の富士屋さんに宿泊へ行くとき、よく通った道路です。懐かしい思いがしました。
★ホームの帰りが遅くなったので、今日の日記は遅れてしまった。
★長崎・騎士社の編集コーナーにお邪魔して、1つの原稿を、女性社員さんの協力を得て口述して、久しぶりに仕上げました。日記の中から、選んだ記事です。

2018年3月13日火曜日

台湾の女性、来る。長崎は平和を感じる祈りの場所

昨日、台湾人の許書寧さん(大阪在住)から電話があった。「いま長崎に来ている。面会に来たい」。朝の電車を指定すると、9時半過ぎには、駅から徒歩でやって来た。玄関で待ち受けていた。昨年の6月初めに1度来たことがある。ホームでは2度目だ。早速、労をねぎらい自室に招く。
★台湾からの巡礼者たちを、長崎・外海へ案内して、終わった。今日は、ゆっくり許さんの経歴を聞いた。台湾で、幼稚園、高校、大学は、カトリックの学校に学んだ。先ずは母がイスラエルの巡礼中に受洗し、次いで父が台湾の教会で洗礼を受けた。母方の祖母が亡くなった時、カトリックの葬儀に初めて祈った。その時、感銘を受ける。「おばあちゃんの子だった。悲しいけれど、それ以外の何かが有る。絶望ではない」。3ヶ月後の2007年2月、カトリックの洗礼を受けた。(霊名を聞くのを忘れた)31歳だった。
★大学卒業後、航空会社の客室乗務員を勤める。大学の夏休みに、イギリスへ語学留学したが、その時、同じく日本から語学留学に来ていた男性と知り合っていた。1999年、日本へ来て、翌年、結婚し、大阪に住んでいる。主人は会社員で、自分は「作家、翻訳家、イラスト・レーター」という。「カトリック児童週刊誌『こじか』に、コルベ神父を書きます」
★「洗礼を受けて、何か変わった所がありましたか」とトマが聞く。「愛という字。おばあちゃんの葬式まで、『愛』を言うのが恥ずかしい。言いたくない。文字だけの感じだった。洗礼後は、愛という字に骨組みが出来た。愛が身近に実感出来るようになった。聖書を読み、生活して、また聖書を読む。イスラエル巡礼記を3冊、台湾語で出版した。最初の旅は、キリストの愛に燃えていて、涙が出た。最近は、黙想会で高く燃えても、名説教に感動しても、日々の私が歩む生活に戻って、1つ1つ実践の大切さに戻らないと、自分の骨肉にならないと感じている」「前は、がっかりしたり、すぐに怒る。いまは最初にその反応はあるが、すぐに、『でも、何か意味があるでしょう』。ゆとりが出来た」
★「洗礼を受けて2007年の夏、大阪から長崎・聖コルベ館を巡礼した。小崎さんの本を買いました。2回目、3回目は、小崎さんに会っている」
★長崎を巡礼して、感じる事は?の問いに「台湾のフランシスコ会の神父さまが企画した30人ほどの巡礼の案内を年に数回行なっている。巡礼で廻って戴いた恵みの実践ですね。巡礼の後、長崎へ帰ると、西坂へ行って、ホテルへ帰る。西坂は刑場でしょう。惨殺された場所ですよね。でも怖くない。穏やかな気持ち、すごく平和を感じる祈りの場所です。それがナガサキのチカラか、な」
★「コルベ神父さまのポーランドへ行きたい。小崎さん、教えてください」。元日のエリザベットさんが、ポーランドへ行ったこと、クラクフのコンラードさんが居ること、など教えた。
★もう、12時になる。食事の案内のアナウンスが鳴った。残念だが、時間が足りなかったことを惜しみながら別れた。自室の壁には、許さんの作品の絵が額縁入りで飾っている。

2018年3月12日月曜日

フランシスカ中山和子先生、神に召される。99歳

12日の朝、聖母の騎士修道女会の創立者、前・会長のシスターフランシスカ・中山和子先生が神さまに召されました。99歳でした。けがれなき聖母マリアさまの元へ逝かれ、聖コルベ、ミロハナ神父さま、故人のシスター方に天国でお会いしていると思います。心から、ご冥福をお祈り致します。
★中山和子先生は、医師でした。1953年(昭和28年)、カリエス(わき腹から膿が出る)と結核(右の腎臓を既に摘出し、残る左の腎臓を病む)で苦しんでいた時に、結核の新薬を佐世保のアメリカ海軍から貰い、死に掛かったイノチを助けてくれた恩人でした。
★中山和子先生は、誰に対しても優しく、謙遜で、信仰の深い、けがれなき聖母マリアへの信心が厚い先生でした。この写真は、長崎・聖コルベ館へ来られた時に写した1枚です。「みさかえの園」を創立して、心身・不自由な人たちの救いのために生涯を捧げられました。中山和子先生の祈りと働きは、奇跡を起こす程のチカラを持っていました。偉大な生き方を決して忘れません。

2018年3月11日日曜日

東日本大震災の日。7年前の日記を調べた。ああー

大震災は、3月11日に起こった。日記には、12日に書いている。新聞も12日付けである。
★午後、ベッドで安静にしていた。2時過ぎ、テレビをつけると、地震の知らせ。そのうち「津波が来るから、即刻、避難しなさい」と盛んに呼びかける。10mと予測。やがて大波が押し寄せて、家も畑も空港も海水で飲み込んだ。「恐ろしい」と唖然。刻々増加する死者、行方不明の数。1夜あけて、被害の甚大さに、もう言葉はない。どうしようもない。何年か前に、三陸を旅行したことを思い出した。あの美しい海岸が、1夜のうちに廃墟となるとはー。粉々に砕け、火災が起きた状況を見ると、原爆の丘を思い出した。亡くなった人たちの冥福を祈る。今夜の夕食は、被災者の苦労を思い、オカズを減らそう。ポーランドのコンラードさんから「同情します。安全を祈ります」とメールが入った。世界の人が見守っている。
★先ほど、町のスピーカーから予告のアナウンスがあり、いま、けたたましく町にサイレンが鳴り渡った。午後2時46分、ホームで、自室で、死者、行方不明者、被災者のため冥福と復興を心から祈った。
★あの日、現地で、サイレンが鳴らなかったのが不思議で仕様がない、と日記にある。原発が破裂した。被爆者が出た。66年目の被爆。恐ろしい。チェルノブイリを訪問したことを思い出した。津波は20mにも達した。45万人が被災した。テレビで見る。もどかしさ。東北地方の東海岸の地図を出して、どの町、どの場所、どこら辺まで被災したのか、全体的に教えてほしい。それが知りたい、とある。あの時、全く、被災の状況が分からなかった。

2018年3月10日土曜日

楽しみ誕生会。10人が祝う。長生きは神の恵みです


誕生会は楽しみだね。全員が食堂に集まりました。昼食時です。トマは窓際で、隣は大曾神父さま、その次が、瀧神父さま。3月生まれは多いので、10人ですよ。それぞれの席に、園長神父さまと職員さんが、お花と、小さな灯と、プレゼント(チッシュの束です・結構これが喜ばれる)を配られる。99歳の女性も居りました。負けては居れません。まとめて「ハッピバスデイ」を皆さんで拍手しながら歌い喜び合いました。長生きは神さまのお恵みです。
★さァ、さァ、出るのが、職員の仮装小劇だよ。待っていました。「ひな祭り」の音楽に合わせて入場して、食堂を、杖をついたり、車を押したりして廻りました。3人の女官が老いて、腰も曲がって、やって来た。彼女らが言うには「お内裏さまも、お姫さまも、老いて、もう亡くなった。5人バヤシも亡くなった。自分たちだけが残っている。長生きしなさいよ」と振れて廻った。

2018年3月9日金曜日

年の黙想で、自分の反省。心も新たに元気が出そう

湯江教会の「年の黙想」の説教師・山口雅稔(まさとし)神父さまの講話です。毎夕、7時からロザリオを祈り、その後、45分のお話、ゆるしの秘蹟が行なわれます。
★聖書のヨハネ・13章、「イエスが弟子の足を洗う」場面の説明がありました。普通は、弟子が師匠を選びます。イエスは、師が弟子を選んで、弟子たちの足を洗われた。これは「謙遜」を意味します。イエスは弟子たちを、愛し、愛し抜かれた上で、足を洗われた。当時は、サンダルでしたので、マリアさまが、育ちゆくイエスさまの足を、愛をこめて洗われたでしょう。清さを表しています。御聖体=キリストの御からだ。ミサ=キリストと共に居る。お互いに、足を洗いなさい。イエスの謙遜が=御聖体となり、謙遜が=洗足となる。ゆるしの秘蹟も謙遜を示すお恵みです。
★イエスの聖心が、マリアの聖心が、じわじわと、心に染み込んで来るのを感じながら聞きました。昨夜は、復活祭を前に、ゆるしの秘蹟を受けました。心が軽くなって、ぐっすり眠りました。
★今日は、3日目で、十字架の道行があり、講話の後で、ミサが行なわれます。こうして年の黙想に与れるのもお恵みでしょう。明日は、ホームで、楽しい誕生会が行なわれます。3月生まれは、10人ほど居ますが、私もその中に入っています。90歳になって、何やら肩の辺りに、盛り盛りと、ゲンキが湧き出ているみたいです。

2018年3月8日木曜日

35年前に書いた一条の字。どんな年だったか

35年前(1983年)、サインした自分の字が見つかりました。「十字架ニ至福アリ」。結構、キレイに書けていますが、どんな気持ちで記したのでしょうか。55歳でした。35年前は、どんな経験を積んだのでしょうか。自分の年表を開いてみました。
★この時は、任命されて聖母の騎士誌の編集者でした。前の年、コルベ神父は聖人の位に挙げられました。特別聖年(ヨハネ・パウロ二世教皇)が始まる。聖コルベの特集号を発行しました。また自著「長崎のコルベ神父」も出版しました。初夏に、40日程、ローマン修道士と一緒に、ポーランド・ローマを訪問しました。
★この歳で、通信教育で大学を6年かけて卒業し、2週間、教育実習を行ない、社会の高校2級、中学1級の免許を取得しました。頑張っていたんですね。
★5泊6日で、韓国・全州に、呉基順神父を訪問しました。コルベ神父の長崎時代に入会して、コルベ神父から直接に哲学を習った司祭です。後、ローマに留学して、ポーランドへ行きましたが、母の願いで韓国・教区の司祭に変わり、韓国の大神学校で、教授を勤めて、その後、引退していました。コルベ神父の思い出を聞きに行ったのです。「師匠は聖人になられたが、自分は凡人だよ」の言葉が印象に残っています。
★この年の夏、長崎大水害が起こり、299人の死者・行方不明者が出ました。聖母の騎士のルルドが大打撃を受けました。この年、シスターのためのオラショの旅や、その他、5組のオラショの旅(208人が参加)を案内して長崎・五島を巡礼しています。こうして並べてみると、いろんな事を行なっているんですね。
★経験から感じる事は、信仰とは「みせつり」として事態を受け入れる事だと思います。病気や、不具合になった時、全力を尽くして改善します。しかし、どうしても良くならない、動きがない時には、これを「みせつり」として受け入れる。神と共に、イエスと共に、苦しむ。それが信仰ではないでしょうか。「十字架に至福あり」とは、困難ではあるが、苦しみを、神への喜びに変える、その心情だと思います。そういう気持ちが、おぼろげながらも、その頃、あったのでしょうか。
★湯江教会では、昨夜から、年の黙想が始まりました。3日間、つづきます。説教師は長崎・修道院の山口神父さまです。

2018年3月7日水曜日

鳥取のみどりさんのお花。NHKテレビからの電話

鳥取のみどりさんから戴きました。華麗なお花の盛りを、教会のイエスの聖心像に飾りました。有り難うございます。みどりさんにはお世話になりました。度々鳥取に行って、教会での祈りや、修道士の会のお宅訪問、砂丘のラクダに一緒に乗った思い出など、心に残っています。
★日に、日に、温かくなり、春の兆しがみえてきました。サクラも今月の20日頃には咲くでしょう。職員さんから、手芸で「サクラ」の貼り絵を作ったので、横に一筆書いてほしいと頼まれました。「咲くサクラ、散るサクラ、ともに美しい。されど、老いる桜木は、もっと美しい」と書きました。「桜木って、わかる?」「ウーム」。返事は、いまいち、でした。
★今年になって、いいことが、もう1つあります。NHKのテレビが、「日本26聖人」の映画・弁士について取材を行なったのは、いつでしたかね。「なんで今頃、26聖人映画か」と思いましたが、長崎・聖コルベ館で、松下修道士と一緒に、取材に応じました。昨日、NHK長崎・テレビのキャスターさんから電話がありました。「15日、木曜日、午後6時15分からの『イブニング長崎』で放送します」。楽しみです。
★NHK長崎・テレビでは、「五島の岳踊り」で出て、また「勲章授与」で出て、今度は「日本26聖人」の古い活動写真の映画が披露されることになります。とにかく広まるのは良いことでしょう。期待しています。

2018年3月6日火曜日

心にある闇の部分。自分に打ち勝つのは難しい

明るい平和な朝が明ける。自室の前の廊下から見た朝陽です。こんな静かな所に暮らしています。晩年は、ホームに居て、幸せです。ホームを嫌がる声も聞きますが、「お帰りなさい」と言われて、安心です。何の心配もありません。午前中は、書道があって、幾つかの墨字を書きました。
★テレビでは度々事件が放映される。取材者が隣人にコメントを求める。答えは大抵「いい人ですよ、アイサツもするし、良い人ですよ。その人が、ねぇ」。それなのに人間は事件を起こしてしまう。人間には誰でも隠れた部分が、ある。どんなニンゲンにも弱さがある。それを認めて、自己を律していく。自分に勝っていく。それが課せられた人生の日々でしょう。
★自分には、何もない。与えられた才能、生きるチカラ、自分の働きではない。無償の贈り物です、と神にカンシャする。ジンセイは、これ。これが信仰者の考え方でしょう。だが実際は、これを本当に認めるのは難しい。誉められれば喜び、ケナされれば落ち込む。常に他人の目を気にしている。自分に「無」じゃなくて、自分に「有り」と思っている。
★ジンセイのエッセンス。ある早朝、アタマの中に瞬間に、自分の隠れたハズべき傾向が、ポン、ポンと出てきた。今頃の出来事でなく、遠い日の、まわりの輪のような出来事が出てきた。これが私のエッセンスか? 10数年前のメモから見つけた言葉です。

2018年3月5日月曜日

明子さん宅でお祝いの昼食。楽しいひと時を過ごす


小さな町の、農村の、ある1軒のお家での出来事です。そのお家は、木村明子さんのお宅です。シスターと、修道士の2人が呼ばれて、昼食をご馳走になった。明子さんは湯江教会の信徒で、トマの自室に、週2度、お話に来られます。入居当時からで、4年になります。シスターは山の修道女院で奉献生活をしていますが、元・ホームの職員でした。修道士のヨゼフ橋口さんは、湯江修道院に居り、以前、ホーム職員として勤めた経歴の持ち主です。トマ修道士の90歳のお祝いと、ヨゼフ橋口修道士の、3月19日が聖ヨゼフの大祝日で、修道士名のお祝いであり、3月20日が誕生日で、84歳になります。その意味で、こうして集った次第です。
★話題は、子供の頃の、母親の信仰の実話、祈りのこと、祈祷文を暗記していたこと、です。シスターはホームに勤めていた頃、多くの老人を見送った経験を話しました。
★橋口修道士の話しで、長崎教区の「年の黙想」は、パリ・ミッションの宣教師が始めたのではなく、水浦久之(故人)の研究によると、神の島の信徒が、明治の初め、キリシタンからカトリックに変わったとき、公教要理を学ぶ意味で、復活祭の前に行なうようになった。それが長崎教区に広まった、と語った。今も教区では、3日間、実施されている。昔は年の勤めを果たさない信徒は、教会で葬式が挙げて貰えなかった。そういう話が出ました。
★シスターは上五島出身、橋口修道士は長崎出身、彼は15歳で修道士の道に進んだ。幅広い人脈を持っている。「やはり、長崎、外海、五島の者(もん)は、信仰の固(かた)か、ばい」