2018年11月30日金曜日

祈る家族の像が心に残る。み旨を受け止め、祈りつつ耐える

昨日の日記に「みどり」さんからコメントが寄せられた。「克明な描写でよくわかった。。タオルの間違い、おかしくて笑った。畑で、金の十字架の発見は興味深い。『原城の宿』は外観が城の石垣を模していますね。前にいる尾の長い動物は何でしょうか。ライオンですか?」
★入浴・食事の「原城の宿」の外観を、ぜひ撮りたかった。巨大な壁の形式なので、近くでは撮れない。バスに乗って、サヨナラする時に、揺れるバスの窓から、瞬間的に撮った。それが昨日の写真でした。「尾の長い動物、ライオンですか?」の答え。みどりさん、よく分かりましたね。写真を拡大して、興味深く見たんですね。まさしくライオン「獅子喚」でした。
★ライオンの前で、写真を撮りました。彫刻家、北村西望先生の作です。長崎市の平和公園に、平和祈念像があるでしょう。右手を天空に、左手を横に伸ばし、足は「あぐら」をかいた巨大な像、年に1度は必ずテレビに出ます。製作者が北村西望先生で、先生の出身地が、この有馬なのです。西望記念館もあります。
★昨日のドライブ旅行で、1つ、印象に残った像があります。それはロザリオを祈る親子のキリシタン家族の姿です。左側には役人の手と刀が見える。「キリシタンを捨てよ、さすればイノチは助けてやろう」「いいえ、お役人さま、わたし共は、ゼズスさま、サンタ・マリアさまと、いっしょで、ごぜーます」。彼らの声が聞こえてきそうな場面です。
★昨日は、この親子の姿をジーッと見詰めて、度々脳裏に描きました。原城跡では3万7千人が殺された。悲しい出来事です。「キリストの教えを信じれば、なぜ、こんなにも苦しみ、痛みを受けるのだろう。キリストの弟子たちも次々に殉教している。イノチを捧げた。信じることは、イノチを賭ける試練だった。信仰は厳しい」と、生き方の覚悟が問われます。
★わたしの常の言葉に「生かされて、今日も、祈る」がある。次いで「苦しみは、のち、神の喜びに変わる」がある。前者は分かるが、後者は、中々人間の知恵では、理解し難い。だが、そこまでの体験に至らなければ、信仰は本物では、ないだろう。人それぞれ、与えられる苦しみ、痛みは異なる。み旨として受け止め、祈りつつ耐えてこそ、希望の光が見えるかも知れない。助けて、ください。ゼズスさま、マリアさま。

2018年11月29日木曜日

島原半島「日帰り旅行」。原城の宿で湯に入る。カラオケ謡い満足

海辺に面した「原城の宿」(写真)。ホームから、島原半島を一周する「日帰り旅行」に出かけた。20人余りが参加。ホーム⇒干拓道路⇒愛野⇒小浜温泉⇒加津佐⇒口の津⇒原城跡⇒「原城の宿」。宿では先ず、湯に入った。
★湯は広い。アワ立つ丸い湯がある。これは、ぬるめの湯。しばらく浸かった。体を慣らして、広い熱めの湯に変わった。左側に手すりが付いている。滑らないように慎重に歩く。黄色く丸い洗面器にタオルを入れて、湯に浸かった。気持ちが良い。ジーッと湯の熱さを身で感じた。
★体格がガッチリした爺さんが、洗面器を置いて、同じ場所から湯に入ってきた。爺さん、腹部まで浸かっている。しばらく時が経った。私が、上がる。もう出よう。シャンプーは使わない。シャワーで流して、タオルで拭く。洗面器でタオルをもんでいた。
★すると先き程の爺さんが、ツカ、ツカと傍に寄ってきた。「タオル、間違っていませんか」「え?タオルには、オレのは名前を書いているはずだ」。名前がない。完全に間違ってしまった。「ああ、ごめんなさい、間違いました」。なんともバツが悪かった。謝りに、あやまった。「すみません。ごめんなさい」。思わず手を出して爺さんの手をつかみ握手した。後で、考えた。あの爺さん、ふしぎに思っただろう。(なんで、握手なんか、したんだろう?)。老人の失敗、カンベンしてください。この失敗は誰にも言わなかった。
★食事をしながら、ゆっくりとした時間を過ごし、カラオケでも楽しんだ。トマは、原城にちなんで「古城」を歌い、山内園長神父さんが「島育ち」を歌うと、瀧神父さんが「島ブルース」を歌った。料理は「うちわ貝」に乗った黄色いグラタンが出た。ホームを出る。しばし違った、世間の雰囲気に浸るのも、元の気分の転換になる。部屋の外は、眺めがよい。天草灘が広がり、雲仙岳が霞んでいた。
★潜伏キリシタン関連が世界遺産になったお陰で、ここ「有馬」にも脚光が浴びた。旗や看板が立ち並び、旅人を誘う。有馬キリシタン資料館を見学した。有馬の殿様、有馬晴信はキリシタンの洗礼を受けて、口の津、加津佐を中心に文化が栄えた。弟の純忠は大村の殿となり、大村領もキリシタンで繁栄した。
★私の記憶では、有馬あたりの農民が畑を耕していると、縦4cm程の太めの金の十字架を発見した。殿様・晴信がローマから戴いた貴重な品らしい。いまは島原城の資料館に展示されているが、あの金の十字架が有馬の資料館にあれば、もっと格があがるのに、なあと思った。
★有馬資料館⇒水なし本陣⇒島原ロード⇒かまぼこ屋⇒ホーム。朝、9時に出て、夕方4時半に帰った。小型バスに揺れて、見学で歩いて、立っている時も多く、やはり足に堪えた。でも、ゲンキなうちは、歩けるうちは、出かけよう、見物しよう、体験しよう、そう思う気持ちは変わらない。

2018年11月28日水曜日

傾聴ボランティア女性が来る。何でも語って、アタマは、スカッと

ご苦労さま。待っていました。この女性が来ると、安心というか、ホットします。
★毎月1回、定期的に来て、こちらの語りを一方的に聴いてくれる人が、他に誰が居るでしょうか。2、3度は来る人も居るでしょう。でも17回ですよ。しかもボランティアで、自分のお金を使って、列車・バスを乗り継いで、後は徒歩でホームまで来る。2時間はかかる。大変ですよ。帰りも同じです。お礼金も、お茶1杯も受け取らない。1時間、ただ、相手の話を聴くだけです。女性は、話の最後の部分の言葉を相手に繰り返してあげる。意見も言わない。説教もしない。だから話す方は気兼ねがないのです。聴き手と、語る者の間に、壁も川も、ない。語る内に、ご縁が深まってくる。聴く者にとっては、以前と重複の言葉かも知れない。それでも忍耐して聴いて下さる。有り難い。
★語り始めは①生活のリズムだね。(三食完食、大のトイレ、安眠、歩ける)の様子。②老いと共に、これから先、身体的に、どうなるか、心配になり、不安もある。③生き甲斐は、あるのか。日記を書くこと、かな。これは自分のためでも、ある。④物の整理をする。不要な物は破棄していく。⑤職員や隣人とのトラブルは、ないか。⑥老いて、心境の変化は、ないか。話すことは、いろいろ有ります。
★こうして一方的に語る内に、当方のアタマは整理される。そして傾聴女性も、何らかの心的恵みを受けているらしい。お互いの恵みが成り立っていると感じた。当方は、傾聴女性については何も聞かない。何も知らない。
★この世の中に、こんな女性も居るもんだと、ただ、ただ感心して、甘えているだけです。「今度、いつ来れるの?」。次、12月の予定を決めた。
★今日は、ホームの「日帰り旅行」です。20人近くが、島原半島「天草四郎の原城」近くの宿(入浴と食事)に向かいます。帰りは午後4時頃になるでしょう。

2018年11月27日火曜日

「小崎さん、日記を読んでいます」と、突然、男性と出会いの喜び

毎日、「90歳日記」を書いている。何処で、誰が、読んでくれているか、全く分からない。ただ自分のために、ボケ防止のために、終末の心境で書きつづけている。そんな中、突然「お会いしたい」と訪ねて来る人が居れば、それは嬉しさと驚きを隠せない。
★事務室から自室に電話があった。「いま男性1人が、小崎さんのブログを読んで、お会いしたいと来られている」「自室にお連れしてください」「いや、それが時間がないそうです。お顔を見ただけで帰ります、と言っています」。メガネをかけ、デジカメを持って、玄関へ降りて行った。
★写真の男性が待っていた。東京の人、名前も告げた。「長崎空港へ着いて、レンターカーを借りて、直ぐに来ました」「日記を見ているんですか」「ハイ、2年前から毎日、読んでいます」「どうして日記を知ったんですか」「検索している内に、日記に行き当たりました」「そりゃ、どうも。何か、心に響くものがありますか」「ええ、それは、もう、あります」
★男性は、「おみやげは何も持たない。途中の花屋で、お花を買いました」。シクラーメンの鉢物だった。「ありがとう。お花まで頂いて」「これから長崎市へ出て、早くレンターカーを返すので、急ぎます。一目、お会いするのが念願でした。嬉しいです」。トマが握手を求めた。
★全く見知らない男性が、一目会いたいと、わざわざホームまで訪ねて来たのは初めてではないか。その熱意に心が動いた。男性のことは何も聞かない。訪ねてくれるのが有り難い。
★日記の、何が、人を惹きつけるのか。自分では分からない。ただ気持ちとしては、単なる日常の出来事や行事を示すのでなく、人の生き方や、苦労と喜び、悩みや困難、それらを乗り越えるひと言が欲しい。90歳。終末に向かう気持ちを正直に記したいが、限度もある。どこまで書けるか迷いもあるが、記録で吐露したいとは思う。
★「心に、ひびく言葉、手アカの、ついていない言葉、魂をふるわせるほどの、一句がほしい」。いま、一番うれしいこと、「小崎さんですか。会えて、よかった。うれしいです。日記、読みました。本、読みました」と、言ってくれる人に、出会うことです。

2018年11月26日月曜日

「尼さん」と親しく呼んでいる神戸の尼さん。思い出沢山ある

聖母の騎士でお祝い事があるとき、出席するのは、思いがけない出会いに期待している。それが秘かな楽しみです。
★左のお方、仏教の尼さん。私たちの間では、「尼さん」「尼さん」と呼んで親しんできた。今度も、本当に久しぶりにお会いしました。神戸にお住いで、6、7人の女性の親友をお連れしての参加でした。尼さん、もちろん、トマをよく覚えていてくださった。
★神戸の尼さんが、どうして聖母の騎士にご縁ができたのか。尼さんが話してくださった。あるお坊さんから、ルルドのお水を頂いた。病気を病んでいて、お水を頂くと、病気が快癒した。ルルドはどこにあるお水だろう。調べてみて、フランス。そこへ行けない。日本でも、ルルドは無いものか。探したら、長崎に、コルベ神父が造られたルルドがあった。そこでお礼に、お花を抱えて、ルルドのマリアさまにお礼の祈りに行った。それが1998年のことでした。ちょうど20年前のことです。
★その頃、聖母の騎士の受付に、修道士のフランシスコ中村さんが居た。フランシスコさんと親しくなる。この尼さんの特徴は、優しさ、誰とでも、すぐ親しくなる。相手を温かく心の内に抱擁する。慰める。オーラがあるんです。フランシスコ中村修道士を通じて、院長のコンラード濱田盛雄神父さんとも親しくなる。1999年には、濱田盛雄神父さんが主催の「ローマ・ヴァチカン・ルルド」の巡礼旅行に同行した。それを期に、「尼さん」「尼さん」と修道者仲間から親しまれた。
★トマが忘れる事が出来ないのは、アントニオ久松修道士が病気のとき、尼さんが仲間を連れて神戸から来られて、手厚く看護・介護してくださった思い出です。よく面倒を見てくださったのが、頭にしっかりと残っています。
★修道服と、尼さんのお姿で、一緒に祈ります。コルベ神父の愛の心が、私たち修道者と神戸の尼さんをつなぎます。その後も病気を病みながら、20年はお元気で、人びとの幸せのため活動しておられます。こういうお方を友に持つのは、大きな喜びです。

2018年11月25日日曜日

修道会の司祭叙階50年金祝、25年銀祝のお祝い、ミサと祝賀会

コンベンツアル聖フランシスコ修道会・日本管区の「兄弟の集い」の最終として、本修道会員の司祭叙階50周年金祝と、25周年銀祝のお祝いが、長崎・聖母の騎士教会に於いて行なわれた。
★左から金祝の①ベナンチオ水浦征男神父(77歳)=長崎・聖母の騎士。②ニコラス・スワイアテック神父(77歳)=愛知県瀬戸教会。銀祝の③チェチリアノ赤尾満治神父(52歳)=兵庫県西宮市仁川学院。
★祝賀ミサの司式は、ニコラス神父。彼の力強い先唱の声の祈りと、歌で始まった。同修道会の多数の司祭たちによる共同ミサ。沖縄のベラルド押川壽夫司教も参加された。説教は水浦神父。「15.262。この数字は何だか分かりますか。50年間、これだけ毎日ミサを捧げてきました。司祭最大の務めは、ミサを(完璧に)捧げることです。お祈りください」
★ミサの後は、教会ホールで祝賀会が行なわれる。ここでの水浦神父の挨拶。「日本に沢山の司祭が居られるが、私に自慢出来る事がある。それは体重が最も少ないという事です。生かされています」。水浦神父は療養中です。
★祝賀会のとき、押川司教は、水浦神父について、こう絶賛していた。「彼は上智大学の新聞学科を出たジャーナリズムの専門家です。教皇が来られたとき、日本の教会にとって貴重なメディアで苦労した。コルベ神父はメディアで最先端で生きたい司祭だった」
★ニコラス神父は、アメリカ人で、「日本に、33年間」宣教している、と述べた。
★赤尾神父は、壇上に家族と共に上がり、両親をはじめ一同を紹介した。生んでくれて、ありがとう。生まれてきて、ありがとう。そういうオーラーが輝いていた。赤尾家の皆さんは、「幸せな方、マリア」を合唱した。それは素晴らしい音楽だった。家族の支えで、司祭は育つ、その証を現実に目に前で見せてくれた。会場内は感動の渦に舞い上がり、喜びに満ちた。
★「順境のときも、逆境のときも、兄弟愛のうちに、一日一日を大切にしつつ、神から与えられた愛の奉仕を、これからも果たしつづけることができますように」(ミサ中の共同祈願より)
★お祝いのミサと祝賀会で、トマは珍しい女性に出会ったが、それは次に報告しましょう。

2018年11月24日土曜日

ペトロ神父。2人並んで、心は、いっしょ、だよ。仲間、だよ

「兄弟の集い」で会ったペトロ・イシトク神父。ルーマニア人。最初に聖コルベ館で会ったのは、2009年秋だった。あれから、2、3度、東京へやってきて、環境が自分に合うか確認して、とうとう日本に定着した。背丈は、トマと、イッショだよ。だから親しみが湧くんだね。「オレたち、仲良し、だもん、な」。またペトロ神父、声も、心も優しいんだ。気にいったよ。
★トマは普通、自分が小柄だとは思わない。しかしペトロ神父と一緒に写真を撮ると、ああ、こんなに自分はしているんだな、と思う。それは、それで、いいじゃないか、ネ、ペトロよ。小さくても、心は温かいさ。ヒトに負けないさ。気合は入っている。
★「ペトロ」と呼ぶと、彼は、すっ飛んで来る。彼は言った。「少年の頃から、ニッポンへ行きたい、こころがあった。神さまに祈っていた」
★歳はトマが90歳。ペトロ神父は49歳。今からが働き盛りだよ。期待しているよ。ペトロ神父、トマに聞いた。「ポーランド、何回、行った?」「10回、だよ」。フ、フ、フ、と笑う。
★実は、トマは、ペトロ神父とイッショに、彼の国、ルーマニアへ行くのが念願だった。ルーマニアは正教が8割で、カトリックは少ない。でもリッパな教会がある。修道院もある。ペトロ神父と手をつないで、巡礼したかった。2人を見れば、絵になるよ。話題にもなるよ。聖コルベ館に居るとき、手描きの色紙を売って、収益をペトロ神父の家族のルーマニアへ送金したことも数度ある。
★ペトロ神父は双子だそうだ。もう1人は女の子で、背がずば抜けて高いという。名前が、セシリア。「ペトロと、セシリア。双子の子供に、なぜ両親は名前を付けたの?」「お父さんの名前が、ペトロ。お母さんが音楽好きで、セシリア」。聖女セシリアは、3世紀に殉教したローマの貴族の『おとめ』。教会が建てられ、広く記念され、音楽の保護者として尊敬を集めている。ルーマニアへ行って、そのセシリアにも会いたかった。
★今度の「兄弟の集い」のとき、ペトロ神父が、ルーマニア織りの赤い布を、トマに、そーっと渡した。「おみやげ、もってきたよ」。前にも、もらったが、それは大事に、ホームの自室に飾っている。今度、貰ったのは、ごらんの通り、真っ赤な織物だった。縦、90cm。横、32cm。ペトロ神父さんが言った。「たぶん、これ、おかあさん、編みました」。母思いの遺品をくれるなんて、ペトロ神父さん、ありがとう。大切にするよ。
★昨日の「兄弟の集い」は不参加でした。今日は、最終日、司祭叙階金祝・銀祝のお祝いがあります。朝、朝食は湯江修道院で頂いて、8時45分に出かけます。それで日記は出発前の、早い時間に記しました。今日のお祝いのミサや説教、祝賀会の様子は、次の日に記しましょう。「真福八端を生きた聖マリア、私たちが聖性の道を歩めるよう、祈ってください」。では、行ってきます。

2018年11月23日金曜日

困難があっても福音に生きる。兄弟の集い。一瞬の輝き大切に

「兄弟の集い」の会議は、長崎・聖母の騎士教会ホールで行なわれた。管区長・竹内昭彦神父の司会で始まり、「私たちは、フランシスカンとして、出会う人に、一瞬の輝きになろう」と呼びかけ、奮起をうながした。
★日本管区の内情を、各委員会の代表が発表したが、その中で、「『小崎登明の90歳日記』も毎日更新されて、広報の面で一助の影響を与えている」と好評もあり、トマは内心、喜んだ。
★修道会の「兄弟たち」も高齢化が進んでいる。当然ながら、その辺も危惧された。若い修道志願者の獲得に、希望をもって努力していく。今の時代は「個を大切にしながら、共同体を築いていく」の言葉もあった。今の子ども達は、食に対する感謝がない。お菓子を貰っても、気にくわなければ食べない。そんな例も聞いた。
★うどん屋出身の今井君の姿は、無かった。大学の授業のため、東京の神学生たちは参加できない。
★ルーマニア人のペトロ神父は来ていた。「おお、会えて、よかったな」とお互い手を取り合って喜んだ。ペトロ神父も嬉しそう。彼は本当に、心優しい司祭だ。いま、東京・赤羽教会で宣教活動をつづけている。日本語も通じ、分かるようになった。今年は、ルーマニアへ休暇で帰ったという。姉、妹、弟たちに会って嬉しかった、と彼。
★各地から集った皆さん「兄弟たち」と一緒に交わることは、ホームで独り暮らす自分にとって刺激でもあり、大きな喜びとなる。会議の後は、聖コルベ志願院のチャペルで、司祭叙階銀祝の赤尾満治神父司式の共同ミサが行なわれた。その日は、赤尾神父の修道名・聖セシリアの日に当たっており、そのお祝いも兼ねていた。
★その後に、聖コルベ館のホールで、兄弟たちの「会食」があった。和気あいあい、楽しい雰囲気に包まれた。司祭や修道士の、個人的な出来事の話もでる。心配したり、喜んだり、語り合って笑って、食事もして、私もホームのことは、すっかり忘れて、ここ聖母の騎士に居るような気になった。
★「思いやりの心を抱き、人びとの痛み、苦しみを深く受けとめ、まことの愛を大切にしよう」と祈った。
★兄弟の集いの結論は、「困難があっても福音を生きることが出来ますように」との確認を熱望しながら、ホームへ戻った。自室に入ったのは、夜7時30分だった。安らかに眠りました。神にカンシャ。

2018年11月22日木曜日

私たちの修道会の「兄弟の集い」。参加のため午前中に出かける

2年前に、私たちの「修道会・兄弟の集い」で揃った写真です。みな、同じ仲間、兄弟です。ホームに暮らしていても、この中に入ると、水を得た魚の気持ちです。
★毎年、この時期、11月に行なわれる「兄弟の集い」。今年も今日から3日間、長崎・聖母の騎士で実施されます。
★修道会の会員、兄弟たちに会うのは楽しみです。私も、今日と、中、おいて、最後の日の、2回参加します。
★もう間もなく出発です。だから早めに日記を書きました。帰りは夜の8時頃になるでしょう。今日は、全体の会合があり、ミサがあり、その後、兄弟的な交わり、夕食会があります。東京、愛知、兵庫、長崎、奄美、沖縄などの各地で宣教する兄弟たち、久しぶりに出会って、喜び合い、語ったり、笑ったり、盛り上がるので、本当に気持ちがワク、ワクします。これが楽しみなんです。
★ウドン屋出身の今井君も来るかな。同じ背丈のルーマニア人のペトロ神父も来るかな。集る中で、最高齢者は、トマになりました。みんなの顔を、しっかり見ておこう。もう今年で最後になるかも、そんな気もする。
★最後の日、24日は、司祭叙階金祝・水浦征男神父、二コラオ神父と、司祭叙階銀祝・赤尾満治神父のお祝いのミサと、祝賀会が行なわれます。これにも参加します。ホームの生活は寂しいが、時折、こうして皆に出会うと、昔の気持ちがよみがえり、「ああ、生きていて、よかった。長生きしよう」。そんな心境で、出発します。
★どうぞ皆さま、兄弟の集いに大きな実りがありますように、神の導きがありますように、お祈りください。

2018年11月21日水曜日

昭和の漫画。「のらくろ」から「フジ三太郎」。昭和も終わる

「マンガ」といえば、子どもが見るもので、私たち、昭和一ケタの人間は、少年時代、「冒険ダン吉」や「のらくろ1等兵」から「大尉」に昇進するまで、楽しみに愛読した。軍国主義の憧れだ。「ダン吉」の方は、南の島に漂流して、その島の王様になり、島民たちの楽園を作る、希望を含んだ夢のある物語だった。
★「のらくろ」は戦後、軍人をやめて、私立探偵や、植物学者の助手となったり、さまざまな職業を体験している。作者の田河先生のゆかりの地、長野県に「のらくろの里」があり、私も物好きで、その里を訪ねたこともあった。
★神学生・修道士になってからは、全くマンガは読んでいない。「少年ジャンプ」も知らない。ただ昭和の何年頃か、新聞に載っている「フジ三太郎」の4コマ漫画を、チラ、チラと見ていた時期がある。これが私の気に入ったマンガだった。
★茨城県の久義さんから、その「フジ三太郎」の漫画本が8冊も送ってきた。久義さんの手紙。「妻が本屋に勤めていた時に、手に入れたものです。長い間、倉庫に眠っていました。最近、読み返して、一人占めするのは、もったいない。その時、浮かんだのがトマさんの顔です。気に入ってもらえると思います。クス、クスか、アッ、ハ、ハか、笑ってください」
★1巻は、昭和40年。8巻は、昭和55年。私が37歳から、52歳までだった。その時代を反映したのが「フジ三太郎」だった。
★フジ三太郎が、タバコを吸いながら、大きな口を開けて、ハ、ハ、ハ、と笑っている。そこへ女子社員は入ってくる。今度は、ヒッ、ヒッ、ヒッ。すると女子社員「まあ、きたない歯」。「じゃ、女性のように」と、手で口を被(おお)い、ホ、ホ、ホ。女性社員「まあ、きたないツメ」。今ならセクハラの発言だよね。
★「銀座」と書いた看板の前で、若い男女が、ニコニコ顔。そこへお年寄りがやってくる。フジ三太郎「立ってあげましょう」と勧めるが、動かない。そこでフジ三太郎「銀座を英語で何と言いますか」。若い男女は「銀はシルバー、座はシート」。これじゃ譲らんといかんね。まあ、こんなマンガです。楽しみに読んでいます。久義さん、ありがとう。

2018年11月20日火曜日

湯江の地元に、お昼ご飯を、おいしく食べられる場所がある

11月7日の日記に紹介した濱口夫妻。ホームの近くで整骨院を開院している。湯江教会の信徒。毎朝、ミサに来られる。ミサが終わっても、まだ暗い。暗い中で、濱口夫妻から声をかけられた。「トマさん、お昼ご飯、一緒に食べよう。施設が、ある」。ただ、それだけ。詳しいことは分からない。「12時半に、ね」
★その時間、自室で待っていた。ダンナさんが戸を叩く。庭へ出ると、白い軽に、奥さんも乗っていた。軽は、町内をしばらく走る。「この道、いつもミサへ行くとき、ジョギングしながら歩く道です」
★早々と、着いた。「就労継統支援B型事業所・かたつむりの家・みのり食堂」の看板があった。詳しいことは分からない。この「みのり食堂」にお世話になるらしい。室内は明るく、広々としていた。昼食の時間のみ、運営している。日替わり定食、限定になっている。「こういう施設があるので、トマさんを連れ出した」という。「え、え、初めてだな」。高来町湯江には、適当な食堂がない。お客さんが来ても、連れ出して、食事が出来る場所がない。「ここが、あれば、便利だね」。客は1人しか居なかった。後は私たち3人だけ。接客は丁寧だった。温かいお茶が出た。
★色の違ったご飯と、サバの味噌煮と、竹輪の料理、野菜、汁もの等々、心のこもった料理が出てきた。それに、小さなお菓子つき、コーヒーか、カルピスが付いてあった。看板に「550円」と記していた。「ああ、おしかったな。写真を撮ればよかった」。食事の途中で思いついた。ザンネンです。
★垣根に、なんだろう?朝顔のような紫の花が広く咲いていた。帰りは、ジョギングの道を軽で案内してくれた。川が流れて、橋の向こう丘に、聖フランシスコ園がくっきりと見えた。(ここからの眺めも、いいな)
★「お昼ご飯、ありがとう」。湯江教会の庭で、車を降りるとき、奥さんが言った。「主人の還暦は、もう終わったのですが、来年、わたしが還暦です。子ども達が祝ってくれるそうです」。夫妻は明るい微笑みを私に贈ってくれた。

2018年11月19日月曜日

イモの絵を描いて、戦争・前後はお世話になったよ。ご馳走だね

なんだか、わかりますか?絵手紙の先生が、「これを描きましょう」と持って来られた。これが描きにくいんだな。色が出しにくい。形も難しい。「戦争中は、よく食べた」と書き入れた。すると、わかるでしょう。
★イモ、です。我々の年代は、サマザマな体験をした。今の若者は幸いです。我々の年代は、苦労して、日々を生き延びるために、おイモさんを頂いた。主食に「これしか、なかったんです」
★父親の実家の外海・黒崎で、戦争中は、おイモさんをよく食べた。農家の人は考えて、イモでも、おいしいイモを沢山作った。黄色いイモもあったし、紫色をした芋もあった。「源氏いも」と名前の付いたイモもあったね。とてもオイシイ、イモちゃんだった。
★聖母の騎士の神学校に入って、終戦直後は食料難で、中・高生の食卓には、イモがよく出ていた。文句を言っても、食べるものは、これしかない。我々の年代で、もうイモを食べるのは、イヤと言う人も居るが、私は、ホームでイモが出ると、喜んで食べる。イモのテンプラも美味しく食べる。我々の年代の若い頃は、イモのテンプラはご馳走だった。
★終戦と同時に、聖母の騎士に入ったので、17歳の少年は、「原爆・被爆者」と差別されなかったし、「食料難」も経験しなかった。愉快に、笑って、学ばしてもらって、信仰もで与えられて、戦後の4、5年は、本当に幸せだった。
★いま、自分が描いた「イモ」の絵を見ながら、「サイワイ、サイワイ」と自分に言い聞かせる。

2018年11月18日日曜日

雲を見よ。根元は細くしっかりと、上になれば広がりボヤケるぞ

この雲を見て、何を連想しますか?
★珍しい雲が出た。自室の前の廊下、窓から見えた。ヘンな雲やな。1本、真っ直ぐに上へ延びている。何を表わしているか。根元は、細く固まり、上は広がりボヤケている。ジーッと見詰めていると、私は「人生」を思った。
★若い青少年の頃は、下の根元だ。細く純粋に固まっていた。未知なる未来があり、夢もあり、熱情的で、まっすぐに上に向かって、言われる通りに疑いもなく突き進んでいた。本当に純粋だった。何でも学び、吸収し、受け入れて、可能ならば実行した。
★壮年になると、少し違ってくる。自らの経験を踏まえて、過去と未来を見詰めながら、計算や予定を立てて、新たな計画に挑戦した。コメントの「うまいこと言うな」に感心する。オレも負けておれんぞ、競争心もある。口も、アタマの回転も、なめらかだ。
★ところが老年になると、もう後がない。土俵は残っていない。夢や未来は外れて、今が現実となる。今の足元を見詰めて、心境は、あの雲の如く広がってしまう。「枯れたコメント」になる。
★こうした流れは信仰の中にも表われる。青少年の信仰は、純粋で、何事も抵抗なく受け入れた。あの頃、記録したコメントは、清らかで、観念的で、バラ色だった。忘れもしない。「デ・アンゼリの祝日」に、煉獄の霊魂を助けるため、教会に何度も出入りして、「贖宥(しょく・ゆう)」を受ける祈りを競い合った。
★壮年の信仰は、やや実質的になる。甘いも酸(す)いいも噛み分けて、自分の欲望にも悶える。「ボヤけた」部分が出てくるわけだ。だが、まだ未来は残されている。
★老いてくると、信仰は堅実になるかと思いきや、私の場合、そうとは言えない。単純に、素直になれない。現実だけを掴み、その上に立って判断したくなる。「肉の望みと、霊の導きは、対立する」(パウロ・ガラテア5.17)を実感するようになる。そこに信仰の危機もある。「老人は黙っているが、真理をつかむ」
★ああ、あの雲の上を見よ。ボヤケている雲。あそこが老人だ。老人は、からだの心配や介護だけでなく、老い行く気持ちや心理を自ら率直に理解した上で、しっかりと霊的生活を固め、完成していく必要がある。今からでも、遅くない。今日から、始めよう。

2018年11月17日土曜日

月に1度は礼拝の日。今月は死者の月。ホームの故人のため、祈る

今週の水曜日は、ホームの「礼拝の日」だった。毎月、1度行なわれる。
★ホームでは、毎朝、6時からミサがあり、元気な人は参加する。身体の都合で、祈りに参加できない人は、この「礼拝の日」に、職員の介助で、ミサで祈る。11月は死者の月になっている。この月の「礼拝の日」には、特にホームで亡くなった故人のために祈った。
★今年、ホームで逝去した人も、10人近く数える。100歳の女性が、2人。修道会では、大曾神父さま、谷村神父さま、村山修道士さんの3人の修道者が神に召された。
★大曾神父さまの修道服を着た写真がある。これは去年のクリスマスの日に撮った大曾神父さまのお姿です。いつも祭壇の近くで、車椅子に座って、ミサで祈られた。
★大曾神父さまは、ホームに来られて、本当に良かったと思います。大曾神父さまは職員から愛情を持った介護を受けて、見ていても、羨ましかった。(ボクも、あんなに、心のこもった介護を受けたいよ)
★室内運動会でも、こんなに楽しく過ごされていた。2人、合わせて、「ピース」だよ。食事は、いつも大曾神父さまが、ゆっくり、全部食べてくれるので、介護をする職員も嬉しい。大曾神父さまは、心優しい印象を職員さんたちに与えた。
★ホームの入居者の幸せって、何ですか?入浴設備や、室内の広さもあるけれど、要は、職員と入居者の「家族的な『つながり』にある」。人には、それぞれ好みや、気が合う人、イヤに思う人も居るでしょう。そうした中でも、愛情を持って接してくれる。受け入れてくれる。そんなホームが大好きです。老人は、徐々に老いてくると、行動範囲も狭くなり、必要でなくなる。豪華さや、便利さは、遠くになる。欲しいのは「愛情」です。
★「礼拝の日」に祈りました。「神さま、教えてください。示してください。わたしは愛されており、ひとりポッチでないことを」

2018年11月16日金曜日

小さな出来事、つないで、オチに至る。人生に、発見、面白い

今朝は、冷えました。起床時の温度は、20度でした。
★午前中、「絵手紙」があった。間もなく年の暮れなので、年賀状になる「つばき」を描いた。
★昼食は、トンコツ・ラーメンだった。袋から四角い固まりを入れて、グツ、グツ、煮て、寒くなると「これに限る」と皆、喜んで食べた。「予は、マンゾクじゃ」。鍋は、グツ、グツ。囲む顔は、二コ、二コ。他に、半熟のタマゴ、くし刺し焼き鳥2本、あった。みんなで、ガヤ、ガヤ。ホームの暮らしも楽しいよ。
★少年の頃に習った「起承転結(き・しょう・てん・けつ)」という言葉があったな。これを最近は思い出す。人生には「つながり」があるんじゃないですか。これがオモシロイ。
★ホームに居ても、「焼きクリが、食べたい」と思うと、ちゃんと「焼いた、リッパな、大きなクリ」を送ってくださる。「鳥取へ旅したい」と望むと、鳥取からお医者さんのご夫妻があらわれる。突然、お手紙が来て、「お会いしたい。6,7日が、いいです」と言われると、7日は、女子高校生たちにお話するので、「その場所で会いましょう」。実現して、大きな洋ナシが送られてくる。小さな出来事だが、私には「起承転結」がある。「つながり」がある。これが「オモシロイ」
★小さいけれど、ドラマがあるわけです。ドラマには「オチ」がある。私が、これまで沢山記事を書いてきたのも、この流れじゃなかったか、そう実感します。自分の人生だって、そう、でしょう。小さな出来事が起こって、それが次につないで、思いがけない逆転もある。だが最後は、落ち、がある。人生とは、これや、な。その発見やな、そう思います。ノン・フィクションだよ。「起承転結」。これが、好きだな。

2018年11月15日木曜日

お客の2人の女性、しゃべって、笑って、ゲンキでね、と帰った

長崎の千草さんと、運転の蓉子さん。時々、自室に見える。昼食少し前に、電話があった。「今、諫早。ホームを通り越して、山の『いこいの村』で食事して、午後1時過ぎに来ます」。(『いこいの村』の白い建物は、ホームの窓からよく見える。もう少し早く電話をしてくれたら、昼食を断って、わたしも一緒に連れ出して食事を食べたいのに、残念)
★1時過ぎに、2人は姿を現わした。千草さんは、ご縁が長い。一緒にポーランド巡礼も2度行ったし、長崎で入院のときは、毎度お世話になった。ホームに来ても、誕生日など、金色箱の「祝彩」お酒や、ホーム全員の数だけの「紅白まんじゅう」など多々功績を立てている。運転の蓉子さんは、ホームに入ってからのお知り合い。写真、右側の女性。
★千草さんが、わたしの顔を見て、「少し、肥えたのじゃ、ないの?」。手を取って、「少し、ふくらんで、いるのでないの?」「いや、そうでも、ないよ。げんき、だよ」。(顔が、痩せた、ふくらんだ、手が、どうの、こうの、そう言われるのが、いっチョン、スカン)
★蓉子さんは、ある情報を提供してくれた。「大学の先生で、聖コルベ館に興味がある。何度も訪ねたらしい。一度、お会いしてお話になったら、いかがですか」「ああ、そりゃ、いいね。聖コルベ館に興味があるのか、コルベ神父に気持ちがあるのか、確かめてみたいね。集めた資料が沢山あるので、コルベ神父にまつわる研究を、学術的に叶えて欲しいね」「今度の土曜日にお会いする機会があるので、聞いてみましょう」。良い突破口が見つかれば、幸いと思う。期待した。
★千草さんと、蓉子さんに、洋ナシを1個づつ持たせた。手草が、「もう1個頂戴」と願う。「今から、95歳の母親の処へ行くの。持って行きたいから」「しようが、ないな。洋ナシ、大切なんだぞ。そんなに、やられん」と言いつつも、1個追加に取られた。
★1時間ほど、シャベって、シャベッテ、千草さんが「12月、総合病院ね、1月、ステントね。日にちを教えてね」。スリッパ、ペタ、ペタ、言わせて、足音は遠ざかった。後に、ホットした気持ちと、寂しさが残った。

2018年11月14日水曜日

出会った夫妻からの贈り物。洋ナシ。支えて下さる人がいる

70代の男性が、入院のとき、図書室で、「登明」の本を読んで、長崎へ行きたくなり、聖母の騎士で私に出会った。その時のご夫妻です。出会いは、僅かな時間でした。
★いただいた名詞に、会社の「会長」とあり、裏には「子どもたちに安心して、食べさせられることのできる、食品作りを目指して」《主な取り扱い商品》パスタソース・中華まんじゅう・ぎょうざ他、各種デリカテッセン、とあった。
★その会長さんから、大きな重たい箱が届いた。《取り扱いの商品》が入っているのかと思い、開けるや、大きな洋梨が、ころ、ころ、と入っていた。おいしそうな、大好きな洋ナシです。短い出会いの会長さんなのに、温かいお心ざしを感じた。
★お手紙が添えられていた。出会いは「感動の私の記念すべき日になりました。夫婦そろってお目にかかれ、うれしい限りでした。長崎に、又行きたいです。私の古くの友人で、山形で農業を営んでいます。ラ・フランスも、一生けんめい栽培しています。召し上がっていただければ、うれしいです」。こんな素晴らしい洋ナシをありがとう。

★説明文が入っていた。「明治時代よりの原種を大切に育て、ラ・フランスの特徴である香り、とろけるような食感、甘味・酸味の程よいバランスと三拍子揃った味は最高で、高い評価を得ています。山形県おきたま興農舎」とあった。「軸のわきの頭の部分を軽く指先で押すと柔らかく感じられるときが食べ頃です」
★わたしは、ホームに居ても、独り、孤独では、ない。誰かが、どこかで、わたしを支え、見守ってくださる。ブログが、そうだ。誰かが、日々、楽しみに、読んでいてくださる。ありがたい。この日を生きる、わたしは、しあわせです。

2018年11月13日火曜日

定期の診察、長崎へ。耳の掃除、2cmの異物。聖母の騎士を眺む

ヨゼフ・クリニックの高木正剛先生。トマの主治医。毎月1度の定期の診察日。高原修道士さんの運転で、1時間で、長崎市坂本へ着いた。
★「ブラザーが動けなくなったら、わたしが診察に行きます」「え?遠か、ですよ。1時間15分は掛かります」「高速(道路)は、どこで降りるの?大村で?」「いや、諫早です」「血液の検査をしよう」。優しく、温かい診療をしてくださる。20年来のお付き合いです。頼りにしているお医者さんです。
★診察を終わって、高原修道士に頼んで、聖コルベ館時代の、行き付けの耳鼻科へ車を回してもらった。新大工町の細い通りにある。4年ぶりだった。受付で、「4年前、週に2、3回は通っていました。住所が変わって、初めてです」。受付さんが、パソコンで名前を打ち込んでいた。「カルテ、ありますか?」。どうやら、無いらしい。「この紙に、書いて下さい」と小片を渡された。
★耳鼻科先生の診察。「4年前まで、耳で通っていました。耳と、声の調子が出ない。調べてください」。左の耳から2cmほどの「ガーゼ」のような異物を抜き出した。カメラを使って、右の耳、左の耳、鼻から奥へ入れて、「ハイ、こちらを見てください」。テレビの画面に、両方の耳の奥、咽喉も徐々に写して、声帯まで、はっきりと見える形で診療を終えた。「声変わりは年齢のせいです。Vの字の声帯が細くなっている。ガンなどの異常はありません」。こんなに、はっきり、示してくれた耳鼻科の医師は初めてだった。安心しました。
★昼食は、聖母の騎士が見える「ファミレス」で、高原修道士と、ゆっくりと時間を過ごした。ホームから屋外に出ると、空気も新鮮に感じる。気持ちも新しくなる。高原修道士は、去る土曜日に、熊本で、シスターの修道女会の来日120周年に参加した話をした。
★聖母の騎士も、1930年のコルベ神父来日だから、2030年には100周年を迎える。後、12年後である。次の時代の会員たちが、その気持ちを、そろそろ持つべきではないか。そんな思いで、彦山の麓の聖母の騎士修道院を眺めた。

2018年11月12日月曜日

ヨメにきた時、植えたミカンたい。五島の思い出。帰りたい

「トン、トン」と自室の戸を叩く。「居りますか、のう?」。戸を開けると、この顔。おだやかな、やさしい、この顔。80半ばの女性。
★教会へ行くにも、食堂へ行くのも、小さな押し車を頼りに、ゆっくり、腰をまげて、ゆっくり足を交わしながら、「そーれ、よいしょ、あ、こーれ」と掛け声をあげながら歩く。私の自室の前の廊下を、いつも行き交う。
★手にしたミカン。手押しクルマから1つ、1つと取り出して、私にくれた。4個くれた。説明が付いている。「わたしが、ヨメにきたとき、植えたミカンたい。おいしかぞ、もらって、くれん、ね」「五島は、どこな?」「上五島たい」「上五島の、どこな?」「若松、たい」「ああ、知っとる」。島と、島をつなぐ大橋がある。海に面した教会。ステンドグラスが美しく、聖体拝領台が残っていた記憶がある。
★この女性に、いつも癒される。ミサ、ロザリオと、信心深い。動作が、おだやか。おそらく若い頃は、教会でも、集落でも、まとめ役だったのだろう。誕生会でマイクを持たせると、それは落ち着いた声で、リッパに歌謡曲を歌う。
★五島で、「かわいい」ことを、「ミジョーカ」という。娘盛りの、あのツヤ、ツヤした肌の「かわいさ」の表情だ。おそらく、この女性も、そう言われていたに違いない。子供も孫も居るが、健康の都合で、6年ほど前に、ホームに入った。「五島へ、帰りたいーよ。帰りたか」が口ぐせ。
★前にも、ミカンをもらって、日記に書いた覚えがある。自分が植えたミカンを、いま、どっさり、送ってきた。何人かに、配ってまわり、後は大きな包みは、職員さんの処へ、「さー、こら、よいしょ、こーら」と、手押しクルマに頼りつつ、去って行った。「ありがと、ね」

2018年11月11日日曜日

太陽を見たり、移動販売店の本を買ったり、ビデオを見たり

今朝の太陽。きれいだ。美しい。偉大な力を感じる。こんな素晴らしい光に恵まれているじゃないか。今日も、生きよう。強く生きよう。なぜか、朝の日の出を撮りたくなる。静かに今日の明るい1日が始まる。朝に生きる魅力があるんだね。有明海を、温かい光が輝いて漂う。天上には、ごらん、細く白い、長がーい雲。
★ミサが始まる頃は、まだ暗い。自室に戻ると、この日の出の時間です。思わずデジカメを取って、テラスから写す。写したくなるのです。毎度、同じ写真を載せて、すみません。でも、惹かれるんです。朝は、汚れを感じない。
★同じ日の出でも、デジカメの角度によって、写り方が違ってくる。右に雲仙岳。左へ長く延びるのは島原半島。手前が高来町で、その間の薄い横線が、有明海。ホームは、眺めがよい場所の土地を購入した。海も、山も、空も近い。
★午前中、サン・パウロ会の修道士が、書籍・信心具・カレンダーの移動販売店を玄関で開いた。福岡から来ている。ご苦労さま。苦労の辛さ、喜びは、自分も経験があるので、よく分かる。「何かを買わなければ、だろう」。2冊の本を買った。「ミサの前に読む聖人伝」(2.500円)。1年分、毎日の聖人略伝が記されているから、朝、ミサの前に読もう。あと1冊は、1.100円の本だった。ページを開くと、「しんどいときほど、おまかせする」「助けると、助けられるよ」「幸せは目の前のつながり」など、題目に気に入った。自分の気持ちに合うようだ。老いると目の都合で、本を読む機会も少なくなる。だが、何か心の糧を読みたい気持ちで求めた。
★午前中、ホームでは「ビデオの日」で、「日本26聖人」の映画を上映するという。弁士の声に反省も含めて見に行った。(よく、まあ、あんなに、しゃべったものだ)。音声を聞いて、早口なのに気付いて、(ホームの人に分かるだろうか)と思った。半分ほど進んだところで、「きょうは、これまで」と打ち切られた。老人のホームだから、ムリは出来ない。私もおとなしく引き上げた。(職員が、なぜ、このDVDを取り上げたのか?)

2018年11月10日土曜日

枯れても、老いても、色や、中身は、美しくなる。リッパだよ

「絵手紙」で描いた。町の文化展にも出した絵です。色合いが良く、上出来だと思います。
★1週刊が早い。こん週は、女子高校生たちに話をした。実は、前の日は少々、カゼ気味だった。「果たせるか」。心配になった。寝つきも遅かった。でも、無事に果たして、安心した。1つ山を乗り越えた気持ちです。
★80代の女性が、ホームで亡くなった。車椅子の女性で、ゆるりとクルマを動かしながら、アイキョウのある笑みで静かに見ていた。「ジャンケン・ポン」と、グーを出すと、即、応えて、「ジャンケン・ポン」と返した。生きるか、亡くなるか、私たちは、紙一重で呼吸している。
★土曜は、「きょうのわんこ」はない。朝食の後、自室で、クッキー、ぶどう、ヨーグルト、牛乳を飲食した。間もなく体操。体を動かした後、すぐ入浴した。70代の男性が入っている。入江さんは居ない。いつも、この男性と一緒に入る。独りは、危ない。湯につかりながらの会話は、私が持ちかけ、「うなぎの蒲焼き」だった。うまい「うなぎ」は、柳川だと、彼は言う。柳川の川下り、行ったことはある。
★昼食は、「すき焼き風煮」と「水ぎょうざ」があった。全部食べると、空き皿が6つ残った。栄養師さんが、姿を見せた。食卓の食べ具合を、チラッ、チラッと流し目で見詰める。「完食だよ」。私が言った。すると近くに寄ってきて、「ブログ、見たわよ。女子高校生、すごいね。30回ですか、話したの?大学出て、先生になって、引率して、また来るなんて」。私は、いい学校だよと、応えた。水曜だった。木、金、土曜と、天気に恵まれ良い旅が出来ただろうと思った。
★昼食が終わって、食堂のガラス戸から屋外を見た。秋の気配がする。「紅葉は、ないね」と、こぼすと、女性が言った。「ここは温かいので、紅葉は咲かないそうです」。今朝、起床の部屋の温度は、22度。現在の温度は、26度。やわらかい陽がふりそそいでいる。
★「表現することが、生きること」「おまえが、何を考えているか」「結構、楽しく、たくましく生きてきた」

2018年11月9日金曜日

人生とは出会いの旅。本を読んで長崎へ。喜びの出会いがある

11月の初めだった。見知らない男性から、お手紙をいただいた。神奈川県にお住いの70代のお方です。
★「はじめてお手紙をさし上げます。東京の病院に入院したとき、図書室で、著書『信仰の出会い旅』を手にし、読書させていただきました。今は『長崎のコルベ神父』を読書中で、とても楽しく読ませていただいております」
★私の小さな文庫本が、見知らない場所で、目に止まり、読んでくださる方が居るのは、本当に嬉しく感激です。
★手紙文は更に続く。「長崎には、何回となく訪問しておりますが、著書の中の1つでも訪問してみたくなり、11月6日と7日に行きます。何の用件がある訳ではありませんが、もしご迷惑でなければ、お目にかかれば嬉しいと思っております」
★お会いするといっても、ホームは、長崎市から車で1時間10分程の距離にある。列車、バス、タクシーを乗り継ぐと、多くの時間と費用もかかる。ホームに来ていただくのは有り難いが、大変でしょう。
★幸い、7日には、長崎で、女子高校生たちに語り部を勤める予定になっています。教会へ来ていただければ会えるでしょう。電話番号が記してあったので、電話で伝えた。「7日の昼12時30分に、聖母の騎士の教会へお出でください」
★その時間に教会へ着くと、神奈川の男性ご夫妻が、教会で待っておられた。私の顔を見て、修道服をも見て、安心されたようです。間もなく女子高校生たちが教会へ入ってきて、話が始まった。ご夫妻は、後部の席で聞いておられた。女子高校生たちの「ハレルヤ」も聞いて、その後、お別れした次第です。
★人は毎日、出会いのなかで生きている。家族に出会い、近所の人に出会い、思いがけない人に出会い、すぐれた芸術や、事故・事件に出会い、さまざまな体験をする。出会いとは、受ける側の『こころ』が止まり、私が変わることだ。自分の人生を振り返るとき、沢山の人に出会った。支えられた。出会いは、神さまのお恵みだった、と言える。人に出会い、最後は神さまに出会うだろう。そんな事を考えながら、ホームへ帰った。
★翌日、男性に電話をしますと、出会いを非常に喜んでおられた。「いつまでもお達者で、またお会いしましょう」

2018年11月8日木曜日

女子高校生たちへの語り。お礼を求めない愛。命の大切さ

「皆さん、ようこそ長崎へ。最初に聖母の騎士修道院を訪ねて下さいまして、心から皆さんを歓迎します」
★神奈川県の女子高校生たちの修学旅行。200名の学生と、9名の先生方。この高校に、私がお話をするのは、28回目です。最初の学生の中には、大学を卒業して、教職免許を取って、母校に就職して、担任になり引率して来た先生も居られました。年期が入った好い高校生たちです。
★語り部は燃えました。若さを受けて、私も反応しました。今、足が弱くて、15分と立っては居れない。それが高校生たちに語りつつ、40分は立って、我を忘れて、安定していました。皆さんの目や表情をしっかりと見ながら、抑揚をつけ、間を置いて、若い心を惹き付けていく。喜びですよ。生き甲斐でもある。熱心に聞いてくれていた。よく分かった。
★この日の語りは、大きな絵も使いました。手助けは高原修道士さんでした。コルベ神父から命を助けられた男性「ガヨビニチェック」さんの涙も語りました。「受けた恩は、もう、その人には返せない。別の場所で、別の人たちに返していく」。皆さんも沢山の人の恩を受けながら、これまで育ってきた。それを忘れては、いけない。その心情を伝えたかった。それと命の大切さです。
★コルベ神父の生き方、死に方。厳しい強制収容所で、僅かなパンを若い人に与えて「助けた」。ナチの兵隊から、材木や煉瓦を運ばされ、倒れても、最後まで頑張った。「困難が来ても逃げなかった」。憎いナチの兵隊に対して、彼らにも温かい目で見つめ、「赦した」
★「助ける」「逃げない」「赦す」。この3本の「要(かなめ)」が「愛」なんです。そしてコルベ神父の愛は、「ガヨビニチェック」さんに優しい目を向けて、無言で「大丈夫だよ、安心しなさい」。コルベ神父の愛は「お礼を求めない愛」なのです。
★旅行の収穫は3つある。①本物を見る。鎖国や出島、原爆。教科書で習った出来事を、本物で確認し体感する。②地元の人たちと出会い。話を聞く。③自分が変わる。旅で学んだことで、自分の人生に何らかの影響を受ける。「これを考えながら、平和の勉強をして下さい」
★女子高校生たちは千羽鶴を捧げ、全員で、「ハレルヤ」と、もう1つの歌を捧げた。教会内に素晴らしい歌が響き渡った。記念の写真を撮った。この学校に語るのは、これが最後になるでしょう、と私には、その予感がよぎった。
★高原修道士さんの運転で、ホームを出発したのは午前10時。戻ったのは午後3時だった。安堵感で、疲れは全く感じなかった。昨夜は熟睡でした。

2018年11月7日水曜日

湯江教会の信徒、濱口夫妻のお宅におじゃまする。嬉しかった

「トマさん、家に寄ってくれんね」。湯江教会の信徒、濱口夫妻から声がかかった。「お昼を一緒に食べよう」「ご馳走しないで、いいよ。沢山食べないから」
★濱口さんは、整骨院を開業している。ホームの坂を下ると、湯江小学校があり、隣に町の支所があり、100mほど行くと、交番の十字路があり、そこに濱口さんのお宅、治療院がある。毎朝、湯江教会のミサに祈るが、家を出て、遠う周りをしてジョギングして、教会に来て、又遠う周りをして帰る。
★私が、誘いの声を受けて、是非、おじゃましたかったのは、今から33年前、小長井の私立椿原小・中学校の校長として赴任した。50人の小学生と、50人の中学生が学んでいた。体育館で子供と運動をしている時に、足首の上が「ビシリ」と音を立てて、アキレス腱が切れた。湯江に、濱口のお父さんが、整骨院を開業していた。お父さんにお世話になった。1ヶ月通って、又運動が出来るようになった。その恩義もあって、濱口のお宅は訪ねたい希望があった。お父さんの写真を見て、「ああ、この人」と写真は若かかったが感慨深かった。「お父さん、お世話になりました」。整骨院は人気があった。五島からも治療者が泊り込みで来ていた。
★濱口昌三さんは地元・湯江で生まれた。奥さんの則子さんは青森県弘前出身の看護師。関東で、結ばれた。男、女、男、男の4人の子供に恵まれる。夫妻のカトリック信仰は、子供の名前に現われている。男は、「聖士(さとし)」(聖母の騎士を表している)。女は、「真規子(まきこ)」(マキシミリアン・コルベを表している)。男は、「愛丈(やすたけ)」(愛情で、丈夫な体になるように。霊名は、ミカエル)。最後の男、「戒(かい)」(天主の十戒・自分自身を戒(いまし)める人間になれ)
★2人で、日本26聖人の道を、京都から長崎まで歩く巡礼をしたり、長崎の集会や講義に参加したり、カトリックの信仰を深めることに余念がない。以前は3階建ての立派な整骨院を構えていたが、今は地元に帰って、痛みのある人の癒しに勤めている。
★「夫婦の秘訣は、何ですか?」「御大切に」「ご主人、好きな言葉は何ですか?」「力は弱さの中でこそ、充分に発揮される。(第ニコリント12章9節)」。弱さを、さらけ出すことによって、神さまの力を感じることが出来る。「生まれも、育ちも、湯江教会。自分の教会ですよ」
★「奥さんの好きな言葉は何ですか?」「主が何をお前に求めて居られるかは、お前に告げられている。正義を行ない、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。(ミカ6章8節)」
★奥さんの手料理。おいしかったですよ。炊き込みご飯。愛情がこもっているね。サバの煮付け、大好きです。ボリュウームある、汁。キュウリの押しだし。箸入れが、いいね。「神は愛なり」と書いてあった。信者の家庭におじゃまして、立派な家庭祭壇を見て、「ああ、やっぱり、長崎信者だな」思いました。
★「手ぶらで、や」。行けないよね。取って置きの「ぶどう酒」。レッテルに「トマ修道士の写真とマンガ本」が貼ってある。それを持参した。夫妻は喜んでくれてね、「家庭祭壇に飾って置こう」