2018年7月18日水曜日

夏、ソーメン流しだ。酷暑に負けずに、本物をつかめ


「ああ、夏が来た感じだな」「予はマンゾクじゃ」「どんどん流してくれよ」。昼食は「ソーメン流し」でした。夏の風物詩だよ。職員の努力も大変だね。先ず天井のビニール屋根を伸ばして、脚立を組んで、新しい大きな竹を貰いに行って、それを交互にかわして、水を引く。水道の水じゃない。ホームは地下水だよ。冷たい清い水を庭からホースで流し込む。これだけ準備しても、屋外で「流しソーメン」を楽しむ入園者は男性が僅かでした。ソーメンを食べた後は、食堂に入り、食卓に、ご飯もあり、枝豆と、焼き鳥もあり、白いヨーグルトのような一品もあった。ホームにも今年は異常な酷暑が襲い掛かる。でも室内に居ると、冷房がきって涼しく過ごしています。
★今朝、老・司祭の言葉「祈り、愛、清さ」を思い出した。真に祈る人から、オーラが出る。清さには、ウラのない本物がある。信用できる。では、愛から出るものは、何だろう。むかし、カブトに「愛」の文字を記した武将がいた。私のアタマの中にも、愛の文字は書かれているが、「神は愛なり」と、真実の愛を体験するには、また、祈りと、清さに、戻るのでしょうか。教えてください。

2018年7月17日火曜日

NHK長崎テレビに又、出ました。うまく、まとめた

長崎・天草の潜伏キリシタンが世界遺産になった。テレビでも次々に報道された。長崎には民放が4社ある。そのいずれも、この件について取り上げていた。先週の金曜日、NHK長崎は、夜の特別番組で、「ロザリオの記憶」を放送した。「小崎さん、出ますからね」。NHKの担当者から電話があった。以前に放送した「岳踊り(たけ・おどり)」が挿入されていた。ホームの全景も、小崎の語りも出ていた。
★潜伏キリシタンといえば、隠れての信仰、秘かに唱えるオラッショ。一般的に、暗い感じがする。その中でNHKが取り上げたのは、「岳踊り」。喜びの踊り、五島の三井楽・岳の36人衆は迫害に遭い、踏み絵を強いられたが、1人も踏まなかった。迫害が終わって、苦難も跳ね除け、喜びに湧く信仰者たちは、歓喜の踊りに託した。
★今、岳踊りを踊る信者たちは、その由来を分からなかった。幸い、小崎修道士が1971年頃に現地を取材して、古老から岳踊りの由来を聞いていた。それがNHKのお役に立ったのです。
★こう1つ、この放送で感銘を受けたのが、五島の奈留島に教会がある。51年前に司祭を目指す少年が出たので、教会周辺の信徒たちが、夕方、教会に集って祈りの習慣ができた。「めでたし組」という。その少年が成長して、後、2,3年で司祭に挙げられる時がきた。彼は迷い、この道を外れようと思い悩む。すると、夫と3人の子供を失った女性がきて、「きつかでしょうが、どうか司祭になって、私どもの相手をしてください。頼るものは、どこにもありません」と言って、500円札をポケットへ入れた。彼は心を元に戻して司祭の勉強をつづけ、立派な司祭になって、大きな活躍をしている。
★NHKで、この話題の現実を見たとき、思った。五島の信徒と司祭の出会い。浦上信徒とプチジャン神父の出会い、日本にキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエル神父と信徒たちとの出会い、そこにキリシタンの思い、心があるのでないか。潜伏キリシタンたちは「7代経ったら、ローマからパパの船が来て、宣教師がくる」と、その思いを子から孫へと伝えて250年間期待し、希望し、オラッショを唱えつづけてきた。素晴らしい250年であったし、現在に至ったと思う次第です。

2018年7月16日月曜日

傾聴ボランチア女性が来る。待っていた自分の語り

電話があって、予定の日が告げられていた。その日を待っている。炎熱の夏に、傾聴さんが来た。とにかく感心です。長崎市から電車に乗って、自腹でキップを買って、駅を降りてバスに乗って、歩いてホームへ。費用も、時間も、他人の悩み事の傾聴に費やして、我慢して忍耐して、全くの無報酬で帰って行く。相手が「ああ、話を聞いてくれたんだな」と思えば、それでいい、と言われる。世の中には、こういう女性も居るのだな、感心しながらも待っている心情が私には、ある。
★歳老いてくれば、将来に対する不安はある。ホームでも、歩いていた人が、何かの原因で、急に車椅子になる。急激な変化を見ている。終末医療というか、どんな病気になって苦しむのか。その苦難を、どのように消化していくか、課題だろう。
★心かけているのは、生活のリズムを崩さないこと。教会や自室で祈り、三食完食し、毎日、大のトイレがあり、よく眠る。そのために朝食は「おかゆ・大目」。昼食は「常食」。夕食は「おかゆ・軽く」。いまの所、これが調子が良い。外出した時に乱れるので困る。
★歩くチカラ、足が弱っているのは確かだ。それでも求められれば応じている。小学校での語り部や、両親の墓参り。やっぱりカラだに堪える。
★ホームの生活は本当に単調だが、もう慣れてきた。毎日、日記を書くのは楽しみでもあり、ボケ防止でもある。読んでくださる人も居るので、有り難い。支えてくださる人が居るのが、生きる推進力にもなる。勿論、内容に乏しいので苦労はしているが、何とか書いている。
★書く内容は、ホームの生活、出来事もそうだが、「人間が生きること」「生きる価値」など考えたいと思う。未熟な考えであっても、自分の言葉として印し、心に刻みたい。
★「お前には、生きつづける、義務がある」
★傾聴ボランチアさん、また来て下さい。待っています。面会人は、白浜さんと、東京の松尾修道士さんが来た。

2018年7月15日日曜日

遠藤先生の思い出。1981年頃。マジメなお人柄

昨日、日記に遠藤先生の事を書いたが、どうしても、この写真を載せたくなった。遠藤先生が長崎へ取材に来たとき、トマが案内した記念の写真です。朝日新聞に、「女の一生・第2部」を連載される少し前で、この時、トマが作成した「長崎のコルベ神父・資料集」を差し上げた。この資料集が、女の一生・第2部の執筆に役立ったそうで、お丁寧なお手紙まで戴いた。
★その後、東京で、コルベ神父の列聖にちなんで、遠藤先生と対談した。遠藤さんは快く引き受けてくださった。対談で、遠藤さんが言われた言葉を忘れない。
★「小崎さん、あなたは僕に、修道士になる前の話をタクシーの中でしてくれたでしょう。長崎で。戦争中、あなたが原爆で、助けを求める人の手を振り切って逃げた話を。アウシュヴィッツとよく似た世界におられたわけだ。ああいう時、パンを誰も与えることはできない。僕が隣の奴のパンを盗んで食べてしまったとしても、あなたは僕に、極限状態だから仕方がないと言ってくれると思うんですよ。病人がおってもですよ。コレ食わなかったら、フラフラになってガス室行きでしょう。
★そういう世界の中で、自分のパンを枕元に置いて行った人がいた。そういう、ごく小数の人が、人間の威厳を救ってくれた。人間はまだ信ずるに足ると思わせてくれるいる人だという気がしますね。その象徴としてコルベ神父様がいる感じで」
★遠藤先生は「狐狸庵先生」のイメージとは程遠く、まじめで暖かいお人柄を感じた。2時間半の対談で、お別れに色紙に一筆お願いすると、細い字で、次のように書いてくださった。「多く愛するものは、多く許さるるなり」

2018年7月14日土曜日

遠藤周作氏と外海。波紋の「沈黙」。出津でパスタを


名作・遠藤周作の「沈黙」より。2人の宣教師は、船で陸地に近づく。「真夜中、船はふたたびできるだけ静かに動きだしました。が幸い月がないため空は真暗で誰にも発見されません。半レグワほどの高さの陸地が少しずつ迫ってきます。両側が急な山の迫っている入江にはいりこんだことに気がつきました。浜のむこうに押しつぶされたような家々の塊が見えたのもこの時です」
★外海・黒崎の海岸。城(じょう)と呼ばれる山が2つ。遠藤先生が想像したのは、あの山の迫った入江に上陸したのだろう。右は、黒崎・集落の家々です。「沈黙」が出版された頃、新聞1頁に、黒崎教会の内部写真が載っていて、説明文が書かれていた。「沈黙」の舞台は、どうやら黒崎だったようだが、好意をもって受けていない。
★以前、瀧神父さんがトマに、こう言った。「むかし、アメリカ人の司祭が居て、沈黙の遠藤さんの作品を、最初は、一切、受け付けなかった。否定に近い。ところが、若者と遠藤さんのインタビューをテレビでみたとき、若者が聞いた。なぜ、あなたはカトリックなのか。遠藤、答えて、私には、それしか、ない。このひと言で、その司祭の遠藤観は一転したんです。それから遠藤、さま、さま、となった。遠藤は、偉いと言い続けた」
★この言葉を瀧神父さんから聞いたとき、私、トマは思ったよ。「そうだよ。知った以上は、捨てられない」。これさ。だれ、それが、例え、神は居ない、魂はない、と叫んでも、信じて、受け継いだ者にとって、知ったからのは、捨てられない。その根性が、ニンゲンには、ある。
★遠藤文学館から望んだ出津の集落。この日は霞んで、建物がよく見えなかった。昼食は、ド・ロ神父記念館の、坂道をへだてた民家のレストランで、ド・ロさま・パスタをおいしくいただいた。主人の女性が長年、黒崎役場に勤めていた。同行のシスターの兄も、松下修道士さんの兄も、同じ頃、黒崎役場に勤めていた。「よく知っています」などで、パスタ料はタダで、更にパスタのみやげものを戴いた。黒崎の墓参りは、本当に松下修道士さんにお世話になった。写真は松下昭征修道士さんです。

2018年7月13日金曜日

子供の頃の思い出。恵み。赤レンガ黒崎教会で祈る


両親、家族の墓は、黒崎教会墓地にある。昔は段々畑だった狭い場所を、信徒の墓地に造り変えた。家の墓地は石段の途中にあり、行くのが高齢者には危険です。助けてくれたのが松下修道士さんでした。松下さんの細やかな配慮が本当に嬉しい。支えられて外海行きをは果たした。
★墓地の次に行くのは、黒崎教会でしょう。赤レンガの堂々たる天主堂です。戦争中はアメリカ軍の空襲を避けるため、黒色に塗りつぶした。戦後、洗い流して、元の色を甦らせた。誇れる教会です。15歳の頃、しばらく黒崎の伯父の家で暮らした。毎朝、ミサに通った。女部屋の「あねさん」から要理を教えられた。信仰が深い、優しいあねさんでした。木に登って、要理を丸暗記した。戦時中、黒崎教会で堅信を受けた。教会下に、小さな川がある。「あそこで、よく泳いだよ」と松下さん。
★教会の中は、ごらんの通りです。こうもり傘天井、柱など、昔のままです。ただ、床は板張りだった。祈祷台はなかった。寒い冬など、床の冷たさは子供にも堪えた。
★教会の右側に、聖母の小祭壇がある。その聖母マリアと御子イエスのお姿に惚れた。子供の頃、眺めて、見とれた。お気に入りのご像です。17歳、原爆の後で、伯父の家で1ヶ月ほど療養した。被爆の症状があらわれ、皮膚に吹き出物がでて、周囲の人に気が引けた。17歳の少年は決心して、ある雨の日、黒崎の浜からポンポン船に乗って、長崎港へ。上陸すると真っ直ぐに聖母の騎士へ向かった。コルベ神父の小神学校へ入った。新しい人生が始まった。
★黒崎教会から出津に向かう。松下修道士さんが「『トマの日記』を見た。よく古い写真があったね。昭和30年代だろう」と言った。トマ「そう、30年代。あの場所は、どこだろう。橋が写っているから、教会の下の場所と思うが、階段が見えるのが、わからない」。松下修道士「あの場所は、ここら辺だよ」と撮ったのが、右の場所です。階段は、教会へ登る石段だった。この場所は「女部屋」があった。門の柱が2つ残っている。

2018年7月12日木曜日

念願の墓参。松下修道士さんのおかげで立派に果たす


すべて松下昭征(あきゆき)修道士さんのおかげです。私たち2人の墓参のために、パラソルと折りたたみ椅子を2脚、準備、備えてくださっている。今日で3度目です。母の命日は、8月9日、真夏です。それで1ヶ月前に、今日、墓参りに出かけた。
★7月でも暑い。熱中症が心配です。ロザリオを唱えながら、倒れるのでないか、もし倒れたら救急車は来ない。そういう場所です。ホームで、朝食が終わると、もう松下修道士さんが新車の軽で迎えに来ていた。トマを乗せて、1時間、恵みが丘で、従姉のシスターを乗せて、外海・黒崎へ。
★真っ先に、墓地へ着いた。ごらんの通り、トマと、従姉のシスターは、パラソルの影で、家族の死者のため、両親のため、ロザリオを祈りました。熱中症に気を使って、ポカリを2本備えて、少しづつ飲んだ。おかげで倒れることもなく、望みは果たしました。出津の風景を見ながら満足でした。潜伏キリシタン関連遺産にもなっている。あらためた気持ちで眺めました。シスターを送り、ホームへ帰ったのは、夕食の前です。詳しいことは、また明日、書きましょう。