2017年10月16日月曜日

今日、けがれなき聖母の騎士会創設100周年記念

今朝は、ミサが終わって、ホームの信徒たちが解散したあと、修道者(5人=司祭3人、修道士2人)のみが残り、「けがれなき聖母の騎士会創設100周年」の記念の祈りと黙想を捧げました。
★ローマのコンベンツアル聖フランシスコ修道会の大神学校で、1917年10月16日の夕方、つまり10月17日の聖女マルガリタ・マリア・アラコクの祝日の前夜祭に、マキシミリアン・コルベ神学生(当時)は一室に司祭1人と神学生の同士合わせて7人を集め、彼が1人で練り上げたプログラムを書いた小さな紙片を朗読して、全員が署名した。これが「騎士会」の起こりであり、その内容は現在の「聖母の騎士会証書」と同じものです。
★騎士会が出来て、今日で100周年を迎えました。コルベ神父の事業の始まりです。騎士会の目的は、人々の改心と成聖のため、けがれなき聖母のご保護と仲介の下で努力する。条件は、①けがれなき聖母に御手の道具として自己を全く奉献する。②騎士会の事務局の会員名簿に名前を記入する。③不思議のメダイを身につける。目的達成の方法は、不思議のメダイの配布に努める。身分職業に応じて、目的達成のため祈り協力する。
★ここから、コルベ神父によって、ポーランドに、ニエポカラヌフ修道院が創立され、日本には長崎に聖母の騎士修道院が創立された。すべては、ここから、100年前の今日からけがれなき聖母への霊性と事業は起こったのです。その中には、コルベ神父の殉教、列福、列聖などの出来事がありました。
★長崎の聖母の騎士会の会員名簿には、「永井隆博士」や「北原怜子(さとこ)」の名前もある。右の会員証書は、恐らく残存する中では一番古い証書であろう。昭和25年11月の入会で、霊名は「ルチア」とある。彼女は、後日、シスターとなり、騎士会のため福祉の事業に働いて、数年前に、神に召された。
★韓国、ポーランド、イタリアなど、全世界に、400万人の騎士会の会員がいる。要は、不思議なメダイを身につけて、けがれなき聖母マリアさまに結ばれて、神イエスへ向かうカトリック信者の会なのです。

2017年10月15日日曜日

ネコちゃんを見る人は多かった。ネコには負けるよ

2日前に、ホームに職員が連れて来たネコ、「みかん」ちゃんを載せた日は、見てくれた人の数が、202人で、おどろきました。ネコちゃんや、赤ちゃんには負けるな、と思いましたよ。動物や、幼児には、皆さんは興味をもって、見てくださるようです。
★あのとき、「みかん」ちゃん(写真)のほかに、もう1ピキ、連れてきていた。「バナナ」君というそうです。奥の方で遊んでいたらしく、写真に撮らなかったのが残念でした。
★それに、その日だったか、女性の職員さんが今度は「はな」ちゃんを連れてきていた。「はな」ちゃんは保育所に通っていて、ずい分と成長している。デジカメを自室に取りに行くヒマがなかったのも残念でした。
★朝から雨で、気温が下がって、圧手の衣類を着ている。午前中に、傾聴ボランチアさんが来る予定だったが、電話があって、雨が降るので、「今日は、来ない。来月、来ます」。ボランチアさんに一方的に話をすると、アタマの中の整理が出来るので、聴いてくださるのを楽しみにしていたところでした。

2017年10月14日土曜日

運動会。ホーム全体が、笑いと拍手で一体となった

楽しい半日だった。午前中に、期待の運動会は行なわれた。看板を見れば、50回を数える。それだけ歴史があるわけです。園長神父さまのお祈りから始まる。ちゃんと国旗掲揚も、聖火の入場もあった。職員は色々工夫する。棒に赤い火の色紙をつけて、室内を一周して立った棒の上に火を灯す。すると、細く切った赤く長いタバが、フニャ、フニャと立ち上がる。自然と皆さんの拍手が起こる。競技は、パン食い競争から出だしとなる。車椅子も、歩ける人も、介助を受ける人も、パンに向かって突進する。こうした開催の目的は、職員も入居者も心も体も一体になることです。親密さが湧いてくる。左の手の指と、右の手の指が、交差して、組み合うわけです。その喜びを感じた。だから笑いましたよ。拍手しましたよ。生きている喜びを感じましたよ。赤組と黄色組に分かれて、細いフーセンの輪をリレーで次の人に渡す競技もあった。90歳も、80歳も、誰でも喜んで、フーセンの輪を隣の人に急いで送る。それに使う棒は、新聞紙を細く丸めて職員が手間をかけて作った道具だった。
男性の職員歴が短い2人が犠牲になる。2人は走って、女性の衣装が掛かった場所へ行き、自分好みの衣装をまとって、また戻ってくる。すると女性職員や入居者の女性が加勢して、2人にお化粧をほどこす。どんな女装が出来上がるか。こういう変わった競技に人気がある。よって、たかって、2人の顔に、塗って、塗って、塗ったくり、仕上がったのが見事な女装でした。どちらが美人か、皆さんの拍手の音で決まった、コクな競技もあった。まあ、女性職員は多いので、色々考えるわけです。入居者も女性が多いので、こんな競技は受けますね。出来上がったのが、この姿です。まあ、この写真を見ても、楽しさはわかるでよう。最後には白い袋に入った「おみやげ」のお菓子も頂きました。こんな楽しい日、笑える日は、毎日来るといいね、と思いました。園長神父さまから、代表で、私がお菓子をもらいました。


2017年10月13日金曜日

農村の刈りいれ。盗む少年、昔の人は情が厚かった

秋の稲刈りどきです。先日、山のシスターの修道院へ行ったとき、車の中から写真を撮った。「たまらなく、いい風景だなァ」が実感です。実りのとき、収穫のとき、この日を迎えるには、農家の人びとの苦労や心配が多々あったでしょう。
★この地区は、私にとって思い出が深いところです。修練の一番大事な時に、結核になって、25歳、この場所を通って、山の養護施設・修道院で療養をはじめた。よく、この辺は、来ていた所です。36歳まで、11年間も、山で生活しました。懐かしい場所です。
★あの頃の古い記録が、A4ノートに残っているのを引き出してみた。今の人には解らない作家と思うが、「倉田百三」の本や、エックハルトの「離在」を愛読しました。特に、倉田百三の言葉をメモしてある。「人は、罪をつくらずには生きていけない。罪は精神的死を意味する。人間の良心は、罪に耐えない。いかに人間は罪から救われるか。それが必要なのが、懺悔の意識である」。若い心には、ビン、ビン、響きました。
★20代の若い頃に、病気で悩み、罪の意識に迷い、孤独に苦しんだ。しかし絶望はなかった。案外、気楽に、病気・結核にも無頓着であり、施設の少年たちと交わる明るい気持ちで過ごしていた。
★当時は、まだ食料不足で誰もが苦労し、餓えていた。施設に親交のある農家から、新米が収穫されると、修道院の者は夕食に呼ばれて、ご馳走になった。その時は、お寺の坊さまもご一緒した。その時の「お米ご飯」の美味は忘れない。
★一方、施設の少年たちは、ひもじさを、もろに感じた。いま稲刈りをしている写真の農家に忍び込んで、食べ物の盗みを働くのであった。中でも、農家の芋釜(穴を掘って来年の種芋を置いて、ワラで、とんがり帽子型に囲んだ)に手を突っ込んでは、少しづつ盗んだ。次に来た少年が、「これ位なら、いいだろう」と、また盗む。結局、春になって、種イモを植えようと開いて見ると、中は空っぽだった、そんな事件もおこった。
★農家の人が施設に、怒鳴り込んで来た。指導主任のペトロ石橋先生(修道士)は、この少年たちの事情をコンコンと説くと、農家の人は感動し、先生や職員たち、シスターの苦労を察して、食料を大きな袋に入れて、寄付した話題も残っている。昔の人は、情があったと、いま思います。

2017年10月12日木曜日

ネコのみかん君。かわいい目。運動会のポスター紹介

夕食を終わって、何やら賑やかな笑い声がする。自室の前を通る人に聞いたら、ネコを連れてきているという。早速、デジカメを持って、介護の詰所に行った。
★男性職員さんが連れてきた、ネコです。小さな生き物。「かわいい、かわいい」と思わず顔もほころびる。この職員さんは、前にもネコを飼っていて、日記にも取り上げたことがある。「はな」ちゃんといった。痛ましくも1歳で、白血病で亡くなった。今度の「名前は、何?」「ミカンです」と思いがけない返事。「え?みかん」「毛がミカンの色に似ているから」「オスね、メスね?」「オスです」。生まれて2ヶ月ほどになる。小さなミカン君は、目をパッチリさせて「ここは、どこだろう?職員さんたちは若いが、後はお年寄りばかり」と戸惑っているに違いない。
★ネコは、実家から4匹もらってきた。ネコ好きな彼です。心の優しい彼です。「時々、連れてきて見せてよ」
★2、3日前から、「運動会」(室内)の組み分けの名前が貼られた。土曜日の午前に行なわれる。ホームの全員が、赤組と黄色組に分かれる。赤組は37名。職員が13名。大曾神父さま、西山神父さま、谷村神父さま、それにトマが入っている。他方、黄色組は36名。職員は14名。夜勤の勤めや交代の職場の人は含まれていない数です。黄色組には、瀧神父さま、村山修道士、それに山内園長神父さまが含まれている。
★楽しいじゃ、ないですか。ホームの全体が、ワクワク、モリモリ、愉快で気持ちがスッキリします。パン食い競争は必ずある。要領のよい者も必ず居る。以前は広い庭で実施していたが、車椅子が多くなった。土曜日を楽しみにしています。
★朝食後、ラジオ体操をして、浴場に行った。毎日、午前中に、男性は入れます。入江さんは、もう風呂から上がって、衣服を着ていた。中にはキリエさんが居た。久しぶりにキリエさんから背中を流してもらった。午後からは、歯科医院へ治療へ行く。ホームの職員が送り迎えしてくれる。車で15分かかる。ジマンじゃないが自分の歯です。入れ歯はない。1時間かけて、歯石を取り、洗浄し、手当てをしてくれる。満足して、いまホームに帰ったところです。

2017年10月11日水曜日

聖ヨハネ23世教皇の日。大改革を行なったパパ様

いつものように4時45分に起きる。教会へ入るのは、5時15分。決まっている。浜田神父さまと、車椅子の男性が居る。席に座ると、「毎日のミサ」の本を開く。今日は、「聖ヨハネ23世教皇さまの日」(任意)と記されていた。
★今日は水曜日で、始業早々、職員さん自室の掃除をしてくれる。終わってパソコンを開くと、この絵が出てきた。切手であろうか。「右側」のパパさまが、聖ヨハネ23世教皇さまで、左側は、聖ヨハネ・パウロ2世教皇さま。この教皇さまには出会ったとこがあり、アタマも撫でられた。
★今日、日記で、聖ヨハネ23世教皇さまを取り上げたのは、時代を読み取って、教会も大きく改革するため、第二バチカン公会議を開催されたからです。その改革は、下々の修道士にも理解がわかるほどの大変革でした。
★例えば、司祭は1人1人ミサを捧げていた。ミサ使いをする修道士も大変でした。ミサはラテン語で、ミサ使いもラテン語で答えました。教会に祭壇は限られており、1人のミサが終わるまで次の司祭は待っていました。ミサも信者席に背を向けて捧げた。教会の祈り「聖務日課」もラテン語で、読むのに苦労しました。それが自国の言葉で、ミサをささげ、聖務日課も唱えることになった。聖体拝領台といって、祭壇と信徒席を分ける仕切りがあって、内陣がはっきり示されていた。それが取り除かれた。こうした変化に、とまどいを感じたのも確かです。
★公会議が終わって、50年が過ぎました。90近い修道士にとっては、人生の前半分は古い以前の仕来たりであり、後半が今の典礼、祈りを続行しています。以前のラテン語のミサ曲や、豪華な刺繍の入った祭服などが、今は懐かしい。子供の頃に覚えた「公教要理」が今も自分の信仰の理解の背骨になっているのは確かです。
★人は、「神から出て、神に帰る」存在でしょう。過去を辿れば、霊的には決して自分はリッパとは言えない。だが、清められて、ふさわしい人間になって神に帰りたい。弱い自分だが神に信頼し、神はいつも私と共に居られる。度々聞かされた。「神は愛して下さっており、必ず善いように導いてくださる」。もちろん神から与えられる試練もある。歳を取ると共に苦痛は増してくる。それもイエスの苦しみ、マリアの悲しみに寄り添って、受け入れて行きたいと思う。感謝と祈り。いつまで生かされるか、どんな苦しみが来るか、分からないが、すべては神の計らいに希望のうちにお任せしよう。2人の聖人に取次ぎの祈りをささげた。

2017年10月10日火曜日

10月8日は終戦後、聖母の騎士に入った記念日

昨日から、ポーランド人の画家、モルガさんを紹介していますが、彼は、アシジの聖フランシスコ(色つき)の聖絵も描いています。その格好のモデルとなったのが、フランシスコ中村修道士さんでした。聖絵の両手と、中村修道士さんの両手が似ている。
★中村修道士さんは、ここのホームで神に召された。懐かしい写真なので、載せました。いま、この聖フランシスコの聖絵がどこに飾られているか、分からない。
★過ぎ去りましたが、先日の10月8日は、トマが聖母の騎士に入った記念日でした。度々日記にも書きましたが、雨降る日でした。受付で、ゼノ修道士に迎えられた。母が、原爆で死んだと言うと、ゼノ修道士さんの青い目から、涙がこぼれました。1945年(昭和20年)、原爆・終戦になって、2ヵ月後のことでした。もう72年の昔になります。それから今日まで生かされてきた分けですね。
★朝食のとき、隣の瀧神父さまに聞いた。「神父さまは、いつ入会したの?」「1956年(昭和31年)4月、聖母の騎士に入った」「それまで何をしていたの?」「奄美(鹿児島県)で、教会のお手伝いをしていた」。聖母の騎士で、志願期、修練期を過ごした。
★昭和31年というと、トマは、山の施設の修道院で療養していた。瀧神父さまは、その頃、志願者のとき、ロムアルド修道士に連れられて、山の施設・修道院へ1度行ったことがあるという。「トマに会ったかも知れないね」。今朝の会話でした。
★昼の食事のとき、また瀧神父さまに尋ねた。「修練の時は、何人でした?」「22人だった」「その内、何人、司祭になりましたか?」。しばらく数えていたが、「5人」。5人の司祭というと、良好の結果です。ここで、こうして瀧神父さまと一緒にホームで暮らし、三度の食事も共にするのも、神さまの導きと、力強さを感じています。
★モルガさんが描いた絵が、山の修道女院の聖堂の壁画と額縁の絵が残されている。コルベ神父が福者に挙げられた頃で、わざわざポーランドから来て描いたのでした。トマはポーランドへ行ったとき、モルガさんの家を訪ねて、彼にも会い、お礼を言った。彼の部屋には、日本のテレビ(ポーランドでは珍しい)や日本の製品が多々見受けられた。