2019年2月28日木曜日

90は、きょうで終わるよ。あしたからは「91歳日記」

90歳、最後の日になりました。あした、誕生日です。91歳になる。「91歳日記」だね。
★よく、まあ、この歳まで生きたと思いますよ。生かされたからには、何かの意味があったのでしょう。その意味は分かりません。しかし有るのはお恵みとして受け取って、唯、感謝です。人間、生きるからには、「嫌が負うでも」年は取ります。精一杯生きれば、満足でしょう。老いるのは、有り難い事です。
★ニンゲンって、欲のカタマリですよ。若い頃は、欲に負けました。人間は弱いね。でも立ち上がり、傷つきながらも、前に進みました。裏(ウラ)の無い人間になりたい。常に、そう思った。偉そうに見える人でも、ウラが有ると、ガッカリする。立派な文言を並べても、信用できないね。
★「トマさん」「トマさん」と声をかけてくれるのは有り難いね。「トマ」のどこが、いいのかね。ワカラン、ワカラン、首をかしげて、ふしぎに思うだけです。ご縁をつづけて下さる人がいる。孤独じゃない。出会いだね。ホームに居ても、ふしぎな出会いもある。
★90にも成れば、欲も枯れてくる。瞬発力も衰えてくる。老いても「こころ」に「タカラ」は持ちたいね。何の宝か。愛と、イノチ。一貫して、人生のテーマは、これだったと思うよ。愛する事と、イノチの大切さ。あなたも、わたしも、生きるに値(あたい)する値打ちがある。物欲は、もう、いらない。食欲だけは残したい。食べる老人は元気です。
★朝食後、すぐ入浴しました。老いたカラダを自分で洗いました。よくぞ、生きてきたな、労わりました。昼食には「ぜんざい」が出ました。なぜ「ゼンザイ」か。わかりません。栄養師さんがメニューを作った。偶然でしょう。でも、わたしは、「ああ、これは90の名残か、お祝いか」なんて心で、「おかわり、ある?」と聞いたら「汁だけなら、ある」。もちろんお替りしたよ。しあわせ、だな。きょうの1日。
               

2019年2月27日水曜日

大浦の風景を懐かしむ「お礼のお便り」。あらためて写真に見入る


「写真集」を受け取った長崎市の「なおみ」さんからのお礼の手紙。「早速、送っていただき、有り難うございました。私は長崎市内で育ち、大浦に嫁いだので、初めに大浦の写真があって、とても懐かしく拝見しました。友達が写真③の酒屋さんの横の洋館に住んでいたので、よく遊びに行き、2階の窓から、あの頃は団体旅行が多く、たくさんの観光客を眺めていました。
★そして天主堂の前で、大柄な赤ら顔をしたゼノさんが、いつもニコニコして冊子を配っていました。表紙を見て、あの笑顔だと思いました。今、思うと、すごいです。身近にキリスト教の方も多く、マリア園もあったので、同級生にも何人かいましたし、シスターになった人もいます。でも『聖母の騎士』のことは、ほとんど知りませんでした。ましてやポーランド人修道士の方たちのことは、初めて知りました」
★昭和30年代に、長崎市・大浦天主堂から、長崎港を見渡した写真です。ゼノ修道士と共に、大浦を巡ったときに撮りました。いま見ると、現在とは全く違っている景色なので、貴重な写真になっています。三角が寄せ合って屋根になった洋館群は、もう無い。下の写真に立山が遠方に見える。日本26聖人の殉教の丘でもある。プチジャン神父は、大浦天主堂を26聖人殉教の丘に向けて建てた。我ながら、よくぞ、この写真を撮ったと、自ら感心している。
★その証拠に、ゼノ修道士が同じ風景を眺めている写真がある。ゼノさんと一緒に大浦を巡ったとき、大浦天主堂の隣に大浦司教館がある。2階のテラスからゼノさんが港の方を見ている写真である。写真では薄く、屋根や山が写っている。この場面はゼノさんにとって決して忘れられない風景なのであろう。日本に着いて、長崎に上陸して、最初に来たのが大浦天主堂であった。おそらく当時の風景は、このような洋館群そのままで、殆ど変わっていないだろう。初めて見る日本の家々に、ゼノさんは、どんな気持ちだったか。コルベ神父と、ゼノと、もう1人の修道士と、3人は、ここ大浦が日本に於ける聖母の騎士の門出となった。
★大浦の思い出を寄せてくださった「なおみ」さんの手紙は、こんな筆跡で締めくくられていた。「30年代、40年代の、まだ豊かでない、不便な生活だからこそ、人との助け合いとか、思いやりがあったような気がします。修道士の方たちの屈託のない笑顔、やさしい眼差しが印象的でした」

2019年2月26日火曜日

2月は「写真集」発行の月。無料で配っても、お恵み一杯ある

写真は、今年の1月24日(木曜日)に写しました。場所は「写真集」の印刷をお願いした長崎市の東洋印刷所です。時計は11時15分を指しています。当方から3人。トマがクリニックの定期の診察を終えた後、野々村哲さん、塩沢美樹さん(トマの後方)と落ち合って、東洋印刷の会社に出向きました。シャレたデザインの建物でした。迎えてくれた山口社長さん、印刷担当の若い社員が並んで、記念にと写しました。シャッターを押したのは高原修道士です。この日が「写真集」の本格的スタートでした。
★東洋印刷所の山口社長さんは、奮発して、「写真集」を格安の値段で印刷・製本してくださった。本当に山口社長さんには感謝しています。
★早くも1月30日(水曜日)には「写真集」完成しました。長崎市からは遠方のホームにまで、山口社長さん自らが届けてくださった。塩沢さん、野々村さんの2人も同行。その様子は日記に載せました。
★次いで、登明日記に「写真集」の広告をしたのは、2月2日(土曜日)です。あれから早いモンですね。もう2月も終わろうとしています。昨日のコメントに、2月19日受付・147番目の栃木の匿名さんが「写真集を貰った」とありましたから、その後の人は、しばらく楽しみにお待ちください。これまで170冊が無料で発送されています。郵便は「クリックポスト」で送りましたので、戸惑いを感じられた人も居られたでしょう。
★「『写真集』を出したい」と発案したのは、野々村さん、塩沢さんの2人でした。最初は「修道士とカメラ」の題でした。2人は言いました。「修道者といえば、祈り、瞑想、まじめ、そんなイメージじゃないですか。トマさんの写真には、温かみ、笑いが、ある。それを取り上げたいのです」。写真集の中心は、それでした。題名はトマが変更しました。
★お礼のハガキが届いています。「古い時代の街並みの写真もあり、貴重です」との感想。また次のような1文もありました。「困難な時代であっても、修道者の方々が生き生きと生活していらっしゃる様子を拝見でき、うれしくなりました。その当時の方々は、みなさま神を心に感じて生活されていたことを強く感じました。写真のキャプションに『老いも若きも、修道者は、笑う、笑う』と書いてありましたが、これが自然と出る生き生きとしている姿だと思います」。まさしく野々村さん、塩沢さんが狙っていたポイントが、ズバリ、ここに、あった。トマも嬉しくなったよ。
★その人の文には、次のようにも書かれていました。「時代は違っても、心から満たされて出る笑顔が、いつの時代でも必要なことと思います」(ひろこさん)
★ハガキが届くのが2月は楽しみでした。感動もありました。細部には書けませんが、ハガキを受けたことで、むかしの30年前の知人や、思いがけない人の名前や、コルベ神父にお世話になった人の孫さんなどの消息もわかりました。本当に、無料で配っても、私たちにも大きなお恵みを戴いたと、心から「写真集」の発行を喜び、感謝しております。
★誕生日も近づきました。何か、いいことが、起こりそうです。

2019年2月25日月曜日

老いと安らぎ、平凡にも呼吸する、ふしぎな哲理をみつけたい

食事時。食堂の一番奥の食卓に、3人は居ります。
★右から瀧憲志神父さん、月に1度、1週間ほど長崎・聖母の騎士から宿泊に来られる大野幹夫神父さん、そしてトマ。皆、安心した顔をしているでしょう。ゆっくり食べて、一番遅いのが、この食卓です。急がなくても、いい。慎重に歩いて、感謝して食べて、皆さんに笑顔をあらわす、これがホームでの生活です。
★月曜、木曜は風呂の日です。今朝は、朝食後に直ぐ、入浴しました。トマも介護の風呂に入っています。1月のヤバイ入院・退院後は、独りで大風呂に入るのは止めました。湯の中で、倒れると危ないです。介護の風呂では、瀧神父さんと一緒でした。風呂が違います。トマは、シャワーで洗って家庭用の風呂。瀧神父さんは、シャワーで洗って、高台に横に座って、横のフタを上げて湯を入れる風呂。あわただしさはあるが、安堵感はあります。他人の手を借りるのだから、文句は言えません。辛抱も必要でしょう。
★ホームに居て、現在の狙いは、何処にあるのか。以前は、特別に目立つ人や能力がある人、珍奇な人、尋常では出来ない行為をする人、特別な山に登ったとか、海で何日も漂流して助かったり、日常茶飯事でない、平常ではない、特別な生き方をする人に興味があった。拍手喝采を送っていた。世間の目は、そこに集る。
★しかし老いた今は、平凡です。大した事も起こらない。だが、果たして、そうだろうか。ニンゲン、老いて、枯れて、何もないのか。わが身ことを考えても、いや、そうじゃない。老人も、何事かの出来事が起こっていると思う。
★人間には、肉体と、タマシイがある。肉体は衰えても、タマシイは輝いている。特別なことを成し得なくても、愛情もあり、小さな出会いもあり、しかも不思議に出会いは喜びに育つている。老いても、枯れても、苦しみを乗り越えるパワーもある。その根源はタマシイだ。それらの老いの生き方に、何か「立ち止まる哲理」があるのを知れば、一見、見落としそうな行為に、心はビビッとくるだろう。ホームに居ても、何かが有ると感じている。
★つまり、私が今、心を魅せられるのは、珍奇な出来事ではなくて、人の、ささやかな動作とか、ご縁とか、神の摂理と思われること、その中での喜び、悲しみ、老いの人生の生きザマ。それでも生きる意味がある。それでもタマシイがある。人生の根底というか、根本の哲理か、そのような底辺に、何かが有る、それを見い出したい気持ちがあるのです。
★勿論、哲理と仰々しく言っても、そう難しいことは論じきれない。老いてこそ「光る生きた知恵」とでもいうか。根底の所です。生き方の不思議というか。老人の中にも、老いてこそ光る何かが有るだろう、一条の、イデアを見つけたいと願います。
★「哲理」とは、辞書に「物ごとのおくぶかい道理」とあった。

2019年2月24日日曜日

鐘は心に届く。「日頃から、そういう心の人に、なりなさい」

自室のガラス戸をあけて、見上げれば、教会の鐘。朝な夕な、日に2回、下から高原修道士が綱を引いて、ならす。鐘の音は、近隣の家々に届いていく。幸せを、喜びを、祈りの始まりを告げる。
★日曜日。ミサの福音。今日の箇所は、キリストの心、そのものズバリだった。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6章)。デキナイ。デキナイ。心は傷む。
★コルベ神父が、すぐ頭に浮かんだ。身代わりを果たした。決して「よし、オレが身代わりになってやるぞ」と、リキんでの代わりではなかったと思う。それは、スンナリと、全く自然に行なわれた行為であった。常日頃から培われた優しい精神の現われであった、そう思う。
★以前になるが、アメリカで起こった飛行機事故を思い出した。氷の張った河に旅客機が墜落し、大勢が遭難した。ヘリが救助に向う。その模様はテレビで全米に放送された。1人の銀行員が、自分の目の前にロープが下りてくる。捕まれば助かるのに、他人に譲ってしまう。彼は、それを2度、3度と繰り返した。最後にヘリが助けに来たとき、彼は沈んで、その姿はなかった。銀行員の行為は大きな感動をよんだ。
★その時、彼の母親がインタヴィユーを受けたが、母親の言葉が、私の心を強くとらえた。「あの子らしく行動しました。あの子は、子供の頃から、そのような優しい子だったのです」
★この言葉に、私は、すぐにコルベ神父を連想した。コルベ神父も身代わりになった時、そういう心境ではなかったか。自然に、私が代わりになります、と進み出た。信仰だ、愛だと、リキまずに、やさしく、スンナリと、前に出て行った。日頃からの精神の積み重ねだった。コルベ神父の身代わりの行動が、銀行員の母親の発言から、幾分、分かる気がした。
★銀行員に助けられたスチューワデスはズバリ語った。「人間、本来は、自己的、利己的です。私も助かることしか考えなかった。利己的なのが人間の本質です。身代わりの愛。並みの人には出来ません。だから、こういう行為に感動します」
★それでも今日の福音は告げる。みんなは聞いている。「赦しなさい。与えなさい。いと高き方は、恩を知らない者にも、悪人にも、情け深いから」(デキナイ、デキナイ、言うな、心の中)

2019年2月23日土曜日

突然、親戚が来て、話し込んで、時間がなく、日記が遅くなる

母方の親戚が訪ねて来た。それで今日は時間を食ってしまった。書くのが遅くなった。従兄の子供たちだ。めったに会うことのない子供たちだ。「兄貴(従兄)が亡くなったのは、いつだったか?」
★日記を書くのは、いいことですね。「2012年10月だった」という。早速、日記を開いてみると、「博多へ、列車で日帰り。ホスピス病棟の従兄を見舞った」とある。写真の左の女性から電話があって、病院へ駆けつけた。その日記の文章を読んで聞かせた。
★私にとって少ない親戚の従兄である。7歳年上の、少年の頃から知っている従兄である。戦争中は航空兵で、当時はプロペラ機だったが、故障して山林に激突した。それでも助かった、と淡々と聞かせる従兄だった。つまり訪ねて来た女性たちの父になる。
★ホスピス病棟のベッドに横になっていた。目を閉じていた。名前を告げると、目を見開いて、うなずいた。久しく会っていない。覚えているかな。飛行機の話を出すと、従兄の顔に温かい表情があらわれた。ああ、来てよかったと思った。どこで生まれたのか?と聞くと、「たい・きゅう」と、はっきりした声で答えた。「たい・きゅう」とは、当時「朝鮮」と呼ばれた韓国の地名だった。
★次の夜に、従兄が「神に召された」と電話で告げられた。また博多へ出かけて、お通夜とお葬式でお別れをし、安息を祈った。私に出会って安心したのか、とも感じた。91歳であった。従兄は私と同じく身内が少なく苦労して育っている。だから彼の唯一の願いは温かい家庭を作ることだった。彼は、沢山の子供、孫、ヒイ孫に囲まれて、安らかに眠っていた。みんなから慕われ、家族の一同はナミダ、涙で見送った。集った皆さんの写真も載っている。
★戦後は航空自衛隊に勤めて、二佐にまで昇進した。棺の上には、長剣が置かれていた。私と従兄は、戦後の混乱のときの思い出につながっている。長い歴史をもつ少ない親戚・従兄との別れは辛かった。私はそばで悲しみの目で見つめていた。彼の霊名は「ヨゼフ」。私の胸に刻んだ。
★この文章を読んで聞かせると、女性たちは涙を拭っていた。血のつながりは、どうなっているのか、系図を聞きながら、書いて残した。突然の親戚の訪問だったが、よくぞ、ホームまで訪ねてくれたと、ありがたく感謝して別れた。

2019年2月22日金曜日

弱い人間も、兄弟の集いで励まされ、チカラを得る、前進できる

人生には、摂理的なワク組が、その人、その人にあると思う。修道者というより、人間として、どう充実して生きるかが、問題だ。
★仲間同志が集るのは、楽しい。本会の、長崎の4つの地区で宣教する修道者たち(神父、修道士)が、2ヶ月に1度、集って交流する。今月は湯江修道院に集合だった。
★長崎、東長崎、湯江、小長井から20人の修道者たちが、先ずは湯江教会での「教会の祈り」を一緒に唱える。祈りから始まった。皆さんは、見詰める方向が一緒だから、すんなりと心は通い、祈りにも力が入る。特に最後の「サルべ・レジナ(聖母賛歌)」を、一同、声を合わせて歌えば、一致の心境になり、何とも言えぬ幸せを感じる。ホームの気持ちから、しばし離れて、修道者仲間と共に過ごせるのは、魚が、水を得た、イキイキとした、元の意識に戻るのを痛感します。
★祈りの後は、会議室で、意見の交換、近況の報告、個人の意見などが交わされた。4つの場所で暮らしていても、お互いに通じ合うものがある。ホーム生活で車椅子の西山神父さんも参加した。皆が心配しているのは、若い働き手の不足です。若い修道志願者が少ない。もっと、祈り働く修道者を増やしたい、それが願いでもある。
★人間は、真、善、美といった理念に真っ直ぐに向かい、それを心地よく思うのは確かだ。心を高く上げ、生き続ける願いがある。ピカ、ピカの靴は、少しでも汚れると、直ぐキレイにしたい。心を清くしたい。告白して、心の潔白を保って生きたい。改心の心がある者は、前に進める。
★しかし人間だ。ある時は、心の底辺で、欲望がうごめく時もある。肉体の叫びだ。肉体の望むことを果たそう、そんな弱さに負けそうになる時もあり得る。心のカットウだ。それが人間の平常だからだ。前者が強いか、後者が強いか。後者が強ければ、この生活は成り立っていく。人間に、二面性があるのは確かだ。
★修道者も弱い存在です。それに打ち勝って生きるには、常に、「祈り」と、この「兄弟的な交わり」、お互いの意識の「つながり」が、前進の大きな「チカラ」になるのは、ホントウだ。だから集りは、ありがたい。
★きょうも、この後、食べて、笑って、飲んで、充分なチカラを得たのだった。

2019年2月21日木曜日

27年目の手紙。「写真集」が縁。1つ1つが、つながる喜び

「写真集」は、これまでに150枚のおハガキを頂きました。「写真集」を受け取って、お礼の手紙も届いています。その中の1通をご紹介しましょう。
★滋賀県の篤子さんより。「27年前、高校の修学旅行の時に、聖コルベ記念館を訪れました。資料を残していたはずだと、探したところ、頂いたお手紙と、聖コルベ館ニュースが見つかりましたので、送ります」
★ニュースには「来館者のお便り紹介」欄に、A子の匿名で、「私は高校生です。先日、『長崎オラショの旅』を読みました。3月に長崎へ修学旅行で行きます。1日、自由研修で自由に巡ることができます。誰も行かない、長崎らしい所へ行きたいです。聖母の騎士修道院に伺ってもいいでしょうか、教えてください」
★手紙には、聖コルベ館から出した私の手紙のコピーが入っていた。平成3年3月4日の日付になっている。便箋2枚に書かれた文字、27年ぶりに自分の文字を見て、ちょっと、胸が高まった。「人の一生は短いものですが、その間にも、いろいろな人や本、物事、はては病気、災難などに出会います。その出会いを受けとめ、自分のものにすることによって、人間は年輪のように成長してゆくものと思います。教会に行くきっかけになったことも、大切に育てて下さい。人間にとって何が真に価値のあることなのか、教会の教えから見い出して下さい」。まじめに書いているな、と思った。後の文がある。「聖母の騎士のルルドや教会、聖コルベ記念館にも自由に入ることができます。いい旅になるよう祈っています。旅のあと、楽しい体験や思い出を、またお便りに書いて送って下さい。有意義な高校生・生活になりますように」
★旅行の後の高校生A子さんの手紙がニュースに載せてあった。大浦のホテルに泊まったので、先生の許可を得て、友達8人で大浦天主堂の朝ミサに参加した。感動して友人の2人は涙を流していた。浦上天主堂では叙階式が行なわれていた。信徒の「アーメン」の声が大きくて、びっくりした。永井隆博士の墓、中町教会、26聖人、そして聖母の騎士へ。ルルドで祈り、売店で買い物をした。外国人の修道士さんにお会いした、など書かれていた。
★「写真集」のお礼の手紙には、最後に、こう書かれていた。「旅行の次の年、洗礼を受けました。『長崎オラショの旅』を読んだこと、トマさんからお手紙を頂いたこと、修学旅行で聖コルベ記念館へ行ったこと、一つ、ひとつが、つながって、今の私があります。トマさん、ありがとう。

2019年2月20日水曜日

梅よ、咲け、咲け。ボクも咲くぞ。まだ、まだ、咲くぞ

ホームの梅も花ひらいた。春が近いね。ホームは余生を送る場所だからね。ゆっくりした気持ちで過ごしている。しかし毎年、変わらぬ梅と、年々変わり行く自分と比べれば、「同じ、生きているのに、なぜ、なのか?」、そんなツブヤキも出てくる。今年も梅が見れて、ありがとう。
★私は、人生で一番悲しいことは、2つある。
★その1つは、父親、母親に、子供の頃、早くに死に別れることです。親を失った子供の悲しみ。ツライよ。最近は、親が子供を殺す事件が起きている。トンでもない事ですよ。子供は親が頼りなんですから。
★もう1つは、子供の頃に、難病を病むことです。こんな痛ましいことはない。テレビで、幼い子供が難病を病んでいる可憐な姿を見ると、心が傷むよ。かわいそうだね。
★自分を振り返れば、何度も日記に書くが、7歳で父は病死。17歳で母は原爆死。1人っ子は残された。ツラカッタね。しかも、その上、病気だよ。13歳で、骨盤と背骨のカリエスを病み、手術で足のスネの骨を削り取って、背中に植えて、肋骨も何本か切り取って、寝たきりだった。ツラカッタね。これが私の人生の始まりだった。今、考えると、よくぞ生き抜いたと思うよ。もう、ゴメンだね。それから腎臓を病み、1つの腎臓で70年、更に、ガンも病み、ガックン、ガックンの人生だった。それでも「カオ」は若いと言われる。不思議なモンだね。風呂に入って、背中を見れば、スパーッ、スパーッと、3つに大きく切られている。自分で、背中が見えないのが、幸いだよ。
★歳を取っても親が生きている者が、うらやましい。親を大事にしない者が憎たらしい。病気1つしないで、健康に成長する者が、うらやましい。老いてもマラソンする者が、ねたましい。それでも生きるのは「90」まで生きた。なぜ、生きた?ワカラン。わかりません。今度は特に、年末年始に死にかけて、「ああ、ヤバイ」と観念したが、また生かされて、命をいただいた。おかげで3月1日が近づいた。携帯に何度も声が入って、10人ほどで、誕生会を祝ってくださると喜びの知らせがあった。大いに楽しみにしている次第です。梅よ、咲け、咲け。私も、咲くぞ。

2019年2月19日火曜日

長崎へ定期の診療へ。早くホームには帰ったが、パソコンの故障?

定期の診療、長崎へ。聖ヨゼフの癒しの心で診療を行なっているヨゼフ・クリニック。院長の高木正剛先生。心電図の検査を受けた。「ブラザー、100まで生きるよ」「3月1日が誕生日で、91歳ですよ」。終わったら、「祝・生誕91年、あと9年頑張りましょう」と書かれた、白い封筒を戴いた。高木先生、ありがとう。初診は2001年2月2日です。18年、診察して、お世話になっています。
★運転は高原修道士さん。諫早の川添の食事処で、昼食をすませて、買い物をして、ホームに帰ったのが、1時半だった。しばらく休みました。
★さて、日記を書こうと、パソコンを開いた。スイッチを押した。電源が入らない。え?何んで?2009年から使っているパソコンです。もう、寿命かな?あきらめた。今日は、書けない。ザンネン。事務室の男子の職員さんを呼んで、見てもらった。電源が入って、やっと、書けたので安心した。いずれにしても、年期が経っているのは確かです。新しいパソコンの購入が必要でしょう。91歳登明日記を書くためにも。
★今日の日記は遅くなりました。

2019年2月18日月曜日

故・坂本修道士の『いとこ』のシスターが来る。高原さんの恩人

高原修道士さんが、熊本で宣教するシスターを自室に連れてきた。休暇で、長崎へ帰ったという。93歳、お元気なシスターだ。シスターは、トマの顔を見るなり「坂本千一修道士の『いとこ』なの」と言った。「え?坂本さんの、いとこ。ちょうど、いま、写真集を出したところ、あげるから」と手に持たせて撮ったのが、この写真です。右側の写真が、カロロ坂本修道士です。
★シスターは長崎・原爆の被爆者。聖母の騎士のルルドや、修道士さん、神父さんにお世話になった。修道者たちから導かれた。それでシスターに道へと進んだ。「坂本千一修道士の『いとこ』なら、近い人だな」と感じた。
★写真集には、カロロ坂本修道士の見事な写真が載っている。修道院の一角に、つるべ式の井戸があった。炊事場担当の仕事をしていたので、よく、この井戸から冷たい水を汲んだ。写真集の説明には「軍隊の時は炊事軍曹。修道院でも炊事担当。大の巨人フアンで、負けると料理が一品減るという噂もあった」とある。
★人気者で、笑わせたり、冗談を言ったり、朗らかなのが、取りえだった。聖母の騎士で祝賀会があると、必ず、壇上にあがり、一曲披露した。それは得意の「替え歌」で、レパトリーも広かった。皆さんは喜んで、拍手喝采を送っていた。長崎勤務が多かったが、晩年は東京の修道院へ変わった。

★もともと心臓を病んでいた。何かの祝賀会で長崎に来たとき、「これが長崎は最後かも」と、こぼした。東京の修道院で、ある日、普段通り、焼き肉を食べて、一休みしたとき、急に心臓が痛くなる。苦痛の表情で思わず「イエズス、マリア、ヨゼフ」と口ずさんだ。それを聞いて、院長神父さんが「さすがに、長崎信者」と言いつつ、車で病院へ。入院となり、病室まで自分で歩いていく。ベッドへ腰掛けた途端、前のめりに息絶えた。苦しみの無い、うらやましい、72歳の死であった。
★高原修道士さんがシスターを連れて来たのは、彼が熊本に居たとき、シスターのお世話になったからだった。聖母の騎士へ入るのを勧めたのもシスターだった。高原さんは、カロロ坂本修道士は知らない。

2019年2月17日日曜日

傾聴ボランチア。1時間の語り。希望だよ、明日につなぐ力

心待ちにしていた傾聴ボランチアの女性が、久しぶりに来た。嬉しい。12月、1月は来なかった。当方の体調も不具合だった。その辺、考慮されたのだろう。
★自宅からバスに乗って、列車に乗って、またバスに乗って、徒歩でホームへ。しかも人の語りを聞く為に、自分の時間と費用を使って、誰が今の世、こんなに行動してくれる奇特な人がいるのですか。いつも不思議に思うのです。
★この女性を見ると、観音さまに見える。拝みたい気持ちですよ。何でも語って良し、グチをこぼしても良し。黙っていても良し。1時間が、あっと言う間に過ぎてしまう。当方の気持ちは、ハレバレする。こんな女性が、いまの世知辛い世の中、居るのが胸熱くなる。毎年、7,8回。3年目を迎え、つづいている。
★もちろん、最初は語りましたよ。入院のこと。苦しかったこと、を。でも、今年になって、あのこと、このこと、いいことが、あった。そして来週は、また訪問者の予定があり、来月は誕生日があり、5月や、夏には、いいことも「うわさ」されている。それを語ると、自分の胸に希望が湧いてくる。ホームという狭い空間で、希望がなければ、やっては、いけません。何かの希望があって、明日をつないでいる。呼吸している。それが嬉しい。「苦しい事もあれば、善いことも付いてくる」と先日、自分で書いたじゃないですか。
★3月に、また来ます、と帰られた。この女性のことは、何も知りません。何も聞きません。当方が知られるだけです。聴かれるだけです。愛を説く宗教者にも、こんな人は居ない。エライなァ、思うだけ、不思議に思うだけ、です。肩が軽くなる。心が柔らかくなる。きょうも、あしたも、シンボウ、出来そうです。耐えて、いけそうです。ありがとう、ね。

2019年2月16日土曜日

精一杯、自分らしく生きよう。影で支える人の恵みもある。感謝

食堂の入口に飾られた「生け花」です。生け花組の誰かの作品でしょう。午前中、食堂で、ホームの「懇談会」が行なわれました。毎月、1度、来月の「予定」が担当の職員から発表されます。その後、看護師さんからの言葉、栄養師さんからの言葉があります。インフルエンザの時期もありますからね。
★ホームの人たちの為に、いろいろ予定が組まれているんですね。先ず「誕生会」でしょう。3月はトマの誕生日もある。期待しますよ。女性職員から、こそっと、ささやかれた。「今度、ウチが、出るからね。サラ回しよ」「え?期待して、いいかな」。3月生まれは多くて10人。トマは91だが、100歳になる女性もいる。負けるわね。元気で、まだ、スイ、スイ、車を押して歩いているから。しっかり、しているよ。
★その他、毎月の行事を並べてみれば、趣味では、書道、絵手紙、生け花、手芸、カラオケ歌の日もある。歌う「自満の歌手」が増えたので、月に2度行なうという。トマは歌いません。戦争の歌と、聖歌ばかりだよ。
★手芸に、コーラス、グランド・ゴルフも体力つくりになる。バスで屋外に出れるのは、ショッピングの買い物、野外活動のドライブ。楽しみだね。健康面では、医務室があって、常時3人の看護師さんが勤務。血圧・体重測定、厳しく捕まえられる。週2度は医師の診察があり、月1度の眼科医師の診察、健康が大事にされています。信仰面では、礼拝の日、教会の掃除も行ないます。訪問美容室で美人になれる。ホームの1日も、あっと言う間に過ぎる。「早かーね」「はやか、ね」が合言葉です。
★この歳になって、自分に言い聞かせていることは、命には、限りがある。生物である限り、必ず終わりはくる。ホームに入って、沢山の人を見送った。お前が死んでも、隣の人は笑い、映画を見、空は無心に青い。お前が死んだからと言っても、周りは平常に動いている。それを思うと、どこかで寂しく、イヤ、なー感じがするのは、確かだ。
★こうなったら、自分の人生を、生きている限りは、精一杯、自分らしく、生きるようにしよう。今を楽しむ。今を感謝する。そのためには幅の広い人生を持つ。チャンネルを幾つも持って、楽しみながら、充実した人生を送るのです。後悔しないために。
★自分が生きていけるのは、影で支える人が居るからだ。陽の当たらない、影で支える人の尊い努力も考え、感謝しよう。
★生きてこそ、花は咲く。

2019年2月15日金曜日

絵を描いた。管区長さんに出会った。人が喜ぶ道を選ぼう

よく老人の集いや、ホームなどで、趣味の時がありますね。あれ、ですよ。ホームでも絵手紙があります。女性の先生が来られて、月に1度ですが、楽しみです。いつも参加しています。しかし「絵ご心」のある人が少ないんですね。
★2枚、描きました。「水仙」と「ピーマン、ブロッコリー」です。春が近いからね。絵を描くとは、写真じゃ、ない。自分が見て、思い浮かべた印象を描く。自分だけの作品です。そこが、いいんですよね。どのように表現するか。創作するか。想像力ですよ。これを子供の時から膨らませるのが大切と思います。だから楽しいんです。
★絵を描いていると、お客さんが来た。修道会の日本管区の管区長の竹内昭彦神父さんです。(中央)「やあ、トマさん、この間は大変だったね」「死ぬかと思いましたよ」「心配したよ」と濱田神父さん(右側・湯江修道院の院長さん)。「救急車に乗った時には、こりゃ、ヤバイな。でも、また、イノチ、もらって、よかった」「絵が描けるもんね」。管区長の背中に向かって言った。「いろいろ、ご苦労が多いと思いますが、頑張ってください」。左側は大野神父さん。長崎から来られた。時々ホームに見える。こうして励ましてくださる理解者が居るのが、ホームに居ても生きる力になります。孤独じゃない。兄弟的な「つながり」を感じます。有り難い事です。
★そこで、今日は思った。『登明・人生訓』です。◎こうすることと、ああすることは、どちらが良いか?そりゃ、こちらが、いい。それなら、それを、しよう。
◎この事をしてあげると、周りの人が喜ぶ。そんなら、少しは犠牲はあるが、やって、やろうじゃないか。
◎世の中には、善もあれば、悪もある。善の道を行けば、神は必ず助け、導いて下さる。そう信じて、生きよう。

2019年2月14日木曜日

長崎新聞に「90歳登明日記」掲載。「写真集」も紹介される

先日、長崎新聞の女性記者が、ホームの自室に取材に来た。「90歳で毎日、日記(ブログ)を書いている。めずらしい」「そうか、なァ」と本人は頭を掻いた。そう言えば、日記を始めて10年になる。「自らの終末、つづる心境」で、コツ、コツ、書いてきたのが、心を惹いたらしい。
★今朝、その記事が出たよ。ページを開いて、びっくりした。「デカッ」。5段抜きだよ。こんなに広いスペースで紹介された。さすがは女性記者だね。上手に書いていて感心した。満足した。ウマークまとめている。感謝しか、ないね。
★ホームという狭い空間に居て、早々、出来事が、話題があるわけでない。だが、日常茶飯事は「生活」でしょう。生活も書きたいが、ホンネは「人生」です。なぜ自分だけ苦しむのか。老いて、左団扇(ひだり・うちわ)で安らかに過ごせるかと思いきや、そうはいかない。老いは、苦しみでもある。老いると自分に甘くなる。本性がシッポをあらわす。なぜ、なんだ。それが「人生」なんです。書きたいのは、生活と人生。日記でそれを見詰めている。
★「写真集を自費出版」とあり、ブログの読者が編集に協力して、写真集「昭和に生きた修道者たち」が出来たと紹介された。野々村哲さん、塩沢美樹さんの名前も出ている。これも嬉しい内容だった。彼ら2人の協力がなければ、この貴重な写真集は出なかった。この2人に感謝です。
★日記を書いて10年、使っているパソコンWindows7は古くなった。ホームの自室には電話線がなく、Wi-Fiで電波を飛ばしている。時々、トラブルに遭遇する。新聞が出る前日も、急に、画面一杯に英語の文字が出て、日記が書けなくなった。線を外し、バッテリを外し、操作しても出て来ない。日記が書けない。新聞に出る、どうするのだ。心配した。ホームの職員が来たが、ダメ。高原修道士が来て、「息を吹きかけたら」正常になった。そんな事って、あるのかな。あったんです。悩み苦労しながら老人は書いている。
★日記を読んでくださる皆さん、「写真集」の広告を出して、12日が経ちました。あなたも、おハガキを送ってください。ぜひ皆さんに見て欲しいのです。おハガキをお待ちしています。

2019年2月13日水曜日

礼拝の日。17年目の祈り。大切なのは、多より、イチ

ホームでは、月に1度、「礼拝の日」があります。カトリック信徒も、他宗教の人も、聖歌を歌って、祈ります。自分の幸せ、健康、これから先の導きを願います。
★今日の礼拝の日は、祭壇に小さな額入りの写真が飾られていました。カトリック信徒でない黒い服の男女3人が、前列に座っていました。写真は、3人の「おば」さんに当たるそうです。ホームでお世話になって、17年前に逝かれた。葬儀はホームのこの教会で行ない、ホームのお墓に埋葬された。事務長さんの話によると時々、お墓参りにも来ておられるそうです。
★この話を聞いて、これほどまでに尽くす「甥」さんや「姪」さんの死者を想う心に感動しました。ホームでお世話になった。忘れない。感謝の心でお願いに来る。17年も前に亡くなった「おば」さんですよ。生者は、死者と固く結ばれている。ホームに来て、お祈りをお願いする。園長神父さんは「皆さんでお祈りしましょう」と最初に告げた。昼の食事には、茶色のお饅頭が1つ、食膳にのっていた。
★私たちは、大勢の人に出会う。大量のものを集め、並べる。大量の情報を流す。こうして大量の『もの』をこなす。喝采を浴びて、これが偉いと、世間は目標にする。ところが、ある時、気がついた。個々の、私の、あの人の、悲しみ、苦しみ、悩みがある。人間、もっと個々に注目し、味わう。人の、個人の、この人だけの、痛みをわかる心を持つ。そのことが大切な気がするのです。出会いの原点は、人の痛みがわかる心にあるに違いない。
★昨日のコメントには、「写真集が着きました。感動して、見ています」と幾つかの喜びが書かれていた。嬉しいです。思いは、沢山の人に大量に見てもらわなくても、いいのです。あなたが、1人が、感動して、受け入れて下されば、それで、いいのです。『多より、イチ』。私は、それを望みます。
★「写真集、欲しい人は、どうぞおハガキを出してください、あなた1人に、呼びかけます」

2019年2月12日火曜日

飛び込んだ出会いと、一瞬の輝きの出会い。バトン・タッチの人生

1月末日。1冊の「写真集」が出来上がった。真ん中の男性が、東洋印刷所(長崎市)の山口社長さん。両脇、右が塩沢美樹さん、左が野々村哲さん。この日、「写真集」が出来上がって、長崎市から、わざわざ社長さん自ら届けてくださった。完成記念に、湯江教会の中で撮りました。
★人生で、一番の不幸は、両親に早く死に別れる現実です。7歳で父は病死。17歳で母親は原爆死。残された自分は1人っ子。しかも周りの環境は、長崎・原爆によって浦上一帯は焼け野原。17歳の少年は、1人で、どのように生きて行く選択をするのか。迷う事無く選んだ道が、ポーランド人の修道者たちの中に飛び込む出会いだった。衣食を与えられ、学問を授けられ、修道士になった。17歳から90歳まで、どれ程、ポーランド人修道士たちにお世話になったことか。実際、ポーランドへも10度、旅行して彼らが育った風土にも触れた。いま、その修道者たち皆さんは、神の御国に召されて、誰も残っていない。あのポーランド人たちの恩を、思い出を忘れてしまっていいのか。
★それは許されない。ポーランド人修道者たちの面影を、写真を、残しておきたい。その願いから「写真集・昭和に生きた修道者たち」が出来上がった。だが、そこには導かれた不思議な出会いがあった。老いた私には、とうてい出来ない。振り返れば、ホームに入って、3ヶ月ほど経った、ある日の午後、偶然の出会いがあったのです。
★その頃、入所当時の私は「ホーム」という環境に慣れずに、苦悶の日々を過ごしていた。今、考えると、闇を、パッと、美しく彩る、火花のような一瞬の出会いだったと思う。その輝く2人の若い男女が、庭に居た。「ああ、いらっしゃい。見学ですか」「ハイ、教会巡りをしています。小崎さんですか」。名前を言われて、びっくりして「そうです」「ブログ、読んでいます」「ああ、そう、うれしい。アクシュ」。これだけの言葉を交わすのに、何秒かかるでしょうか。ここに一瞬の出会いがあった。その足で、私は教会の共同ロザリオに参加した。祈りながら、いま出会った2人が気になっていた。
★普通ならば、その出会いで終わりでしょう。3ヶ月ほど経った2015年4月、女性から手紙が届いた。「看護師で、福島から単身、長崎に移住してきた。トマさんの『ブログ』によって癒された今の私がある。『ブログ』を読むと、今まで関わった患者さんや、亡くなった祖父母を思い、心がしめつけられる時があります。トマさんの素直な気持ちや考えを、表出される方は少なく、気付かされることが多々あります」。私は直ぐに返事を出して、それから野々村哲さん、塩沢美樹さんとの交流が始まった。
★私の『日記・ブログ』を愛読してくれる人がいる。ホームにおいて慰め、励ましにもなる。彼ら2人は、私の『ブログ』の言葉を拾って「トマさんのことば」を作ってきた。これには私も感動する。そして小さな本となって出版し、ブログの読者の希望者に無料で発送した。更に、野々村哲さんは、写真に興味があると、私が撮った写真を丹念に見てくれた。聖コルベ館の資料室に、私が撮った写真が沢山残されている。フイルムをデーター化して保存出来るようにして、その中から2人が選んだ写真で、完成したのが「写真集・昭和に生きた修道者たち」だった。
★2人との出会い、2人の熱意、2人の愛情がなければ、この写真集は完成しなかった。彼らの大きな協力で、ポーランド人修道者たちの姿を残せるのは、嬉しさと満足感に今、満たされている。人は、人に、バトン・タッチして、時代は流れていく。

2019年2月11日月曜日

ルルドご出現のマリアさまの日に、従姉のシスターを偲び祈る

今日は、フランス・ルルドで、けがれなき聖母マリアさまが、村の少女ベルナデッタにご出現になられた記念日です。160年前になります。フランスのルルドの事も語らねばならないが、長崎・聖母の騎士にも、聖コルベが開いたルルドがある。86年前になる。この聖コルベのルルドにもお恵みの話題が沢山ある。お水も愛飲されている。ロザリオ玄義・レリーフの坂を登れば、ルルドの聖母像が迎えてくださる。
★しかし今日、記したいのは外海・黒崎出身の「従姉」のシスター・マリア・マグダレナ・田川タヨ(写真)の事です。黒崎の農家に生まれて、信仰深く、働き者の女性でした。少年の私を「コォー」「コォー」(幸一から)と呼んで、かわいがってくれた。縁側で、小型の石臼(いし・うす)を引きながら、農家の仕事の話を聞かせたり、信仰の話を教えてくれた。私は「タヨ」「タヨ」を慕った。
★終戦の前後に、黒崎には「おんな部屋」があって、数人の女性が天主堂の傍の家に共同生活をして、祈りながら働く生活をしていた。「あねさん」と信徒から呼ばれて慕われていた。「タヨ」は、おんな部屋に入った。神学生だった私は、春、夏の休みに黒崎に帰ると、必ず「おんな部屋」に挨拶に行く。タヨのお陰で親しく「あねさん達」から大切にされ、コメのメシを食べさせてもらった。
★長崎・五島の各地にあった「おんな部屋」は、後、1つの修道女会となる。タヨは学問も才能もなかったが、信仰と労力だけは人一倍優れていた。よく働き、よく祈った。特にルルドの聖母マリアさまと、ルルドの聖水に対する信心が熱心で、常にロザリオを唱えて、マリアさまに祈っていた。
★そのシスター・タヨが、腹部のガンを病み、病床に臥すと、神に病気を委ねながら、毎日、ルルドの聖水を少しずつ戴いていた。「お見舞いの品はいりません。ルルドの聖水をください」。タヨの好きな歌は、ルルドの聖母の「アヴェ、アヴェ、マリア」だった。好きな言葉は「主に愛されて、主のイノチを受け、この恵みの中に生きてきた。感謝の心で主の愛を示し、望みを主にかけて、この日を生きたい」(桐生・聖フランシスコ発行・平和を祈ろう)
★病むこと2年半。ルルドの聖母マリアを信心し、ルルドの聖水を飲み続けたシスター・マリア・マグダレナ・ツヨは、2月11日、ルルドの聖母マリアご出現の日に神に召された。62歳だった。逝去して34年が経過している。年月は遠くに去ったが、マリアさまを慕って祈っていたタヨが、ルルドの日に召されるなんて、「天国は、私たちの、近くにある」と私は感じた。
★「この世を、しっかり生きる。信仰でしょうね。人生、楽しかったよ。かんしゃ、と言って終わりたい。いのちを、もらった。また、いのちに、帰る」

2019年2月10日日曜日

同じ名前の幸一君が、大学を卒業して、母と一緒に会いに来た

13年前に、さかのぼる。
★2006年4月、春休みだった。大阪から母と子供2人、姉と弟が聖コルベ館に訪ねて来た。理由は、こうだった。母が、ネットで弟・息子の名前「田川幸一」を検索していると、トマに行き当たった。「同じ名前なので、ぜひお会いしたい」と電話があった。そりゃ、こっちもビックリするよ。写った記念写真が右側です。
★左側の幸一君は小4だった。この家族との交流が始まった。幸一君は何度も聖コルベ館へ来た。2008年、夏休みの写真もある。トマも、大阪の田川幸一君の家に訪ねて、すき焼きをご馳走になった。
★年月は流れる。幸一少年が成長して、長崎大学受検に来たのは、2015年2月だった。トマはホームに入居していた。ホームまで訪ねてきた。「教育学部」に入ります。時の流れは更に早いものですね。今日、幸一君と、お母さんがホームに訪ねて来た。「3月、卒業します。学校の国語の先生を勤めます」。明るい話好きの青年になりました。21歳だよ。今から希望に満ちた未来が開ける。70年経って、トマの歳になったら、社会はどんな変化を遂げているか、そんな心配まで心に湧いた。
★「ところで何んで、幸一と名を付けたの?」。お母さんが答えた。「幸一という名の神父さんが居たのです。名前を貰いました」「洗礼名は?」「十字架のヨハネ」。次に幸一君に聞いた。「長崎は、どうだった?」「楽しかったですね。1年の2学期から250ccのバイクに乗って、回りました」「海外は?」「韓国、タイ、カンボジア」。1年から同じ「焼き肉店」でバイトで稼いだ。「彼女は出来た?」「出来ました」
★「ぜひ卒論を見てください」とプリントを渡された。「キリシタン資料にある『天狗』について」と表題にあった。『悪魔』を『天狗』と表現している。明治まで続いた。「おもしろそうだね。ゆっくり見せてもらうよ」
★姉は、いろんな国を回って、いまドイツに居るという。大学院で学んでいる。
★トマは殆ど本名を使かっていない。幸一君が、タンスの上に置いた「塗り薬」のフタに、医務室から渡された「田川幸一」の名を見つけた。「ああ、やっぱり、ここに有った」。2人は明るい笑いを残して去った。一抹の寂しさを感じた。

2019年2月9日土曜日

「ノンノコ・サイサイ」踊りに笑う。誕生会は楽しい。生きる喜び

2月の誕生会。楽しみにしていますよ。2月生まれは4人でした。その中の男性99歳。女性99歳。圧倒されるよ。お元気にしておられる。おめでたい誕生会です。
★職員による出し物は「諫早の『のんのこ踊り』」でした。この3人が踊ってくれた。「のんのこ」とは「かわいい」という意味だそうです。両手に2枚の小皿を持っている。皿を、チャカ、チャカ、鳴らしながら「ノンノコ・サイサイ」と軽快に踊るのです。この辺では、よく見かける踊りです。
★男性の職員は、キンパツの髪で、女性になったつもりで、おめかし、するんですね。他の男性職員から顔を塗ってもらいました。ホームの皆さんを喜ばせる「変わりよう」です。人気があるんだからね。介護も、しっかり頼むよ。誕生会の出し物は、歴史を重ねた恒例の行事だからね。皆さんも期待しているよ。「今月は、何が、出るか」なんて、ね。人を喜ばせ、笑わせるのは、ホーム全体が明るくなるよ。
★歌は、「芝になりたや、箱根の芝に、ヤーレー。諸国諸大名の敷き芝に、ノンノコ・サイサイ。シテマタ・サーイサイ」。諫早の藩主が参勤交代のとき、箱根の関所を越えて一休みした場所の芝生を指している。武士たちが酒を飲んで陽気になった。諫早の藩主もご苦労さん。小さな藩主だからね。気兼ねもあったろう。それでも「ヤーレー・サイサイ」
★踊りの後で食事が出て、やがて歌が出る。90何歳の小柄な女性が、美声を張り上げて、2番、3番と歌うんだね。歌を聞きながら、この女性が若い頃は「モテタ」だろうな、なんて考え想像するんだね。誰にも若い頃はあった。花盛りの頃はあった。老いても、今でも「シャキッと」している。人生、老いてもリッパだよ。

2019年2月8日金曜日

蟻の街のマリア北原怜子を偲ぶ。ゼノさん、聖コルベにつながる愛

長崎・聖母の騎士社に勤める修道士さんが、ホームの自室に来て、「聖母の騎士」誌の3月号を10冊ほど手渡した。「トマさんが、むかし書いた『北原怜子(さとこ)』さんの記事を再び載せているから、皆さんに読んでもらってください」
★北原怜子といっても、最近の人は殆ど知らないだろう。
★昭和33年(60年前になる)1月23日が命日で、東京・隅田川のほとり、「蟻の街」と呼ばれた「廃品回収の共同体」で生活し、28歳の若さで神に召された。私は会ったことはないが、北原怜子さんの愛は、広く当時の社会に影響を与えた。偶然にも、ゼノ修道士に出会った摂理で、蟻の街共同体へ導かれる。過去の人は、心の中で生きている。怜子さんはゼノ修道士の愛につながり、ゼノさんは、聖コルベの無償の愛につながる。
★怜子さんは大学教授のお嬢さん。ゼノ修道士の出会いから、裕福な家庭を背に「蟻の街」に出向き、子供たちに勉強を教えたり、お手伝いをしていたが、「共同体」にしてみれば「変わったお嬢様の道楽」としか理解されない。敏感な怜子は気づく。「この子ども達にとって、一番大切なことは、お金や食べ物を恵むことではなく、誰かが、親身になって、愛し、信じてあげることだ」。怜子は家を出て、蟻の街の住人となった。そこから事態が変わっていく。「蟻の街」にも教会が出来た。
★平成5年(25年前になる)の10月、私は東京で、お姉さんの和子さん(当時78歳)にお会いして、一緒に、蟻の街から移転先の8号埋立地へ、怜子さんの苦労話を聞きながら、足跡を訪ねた。
★お父さんは東北帝大、東京帝大で学び、農学博士、法学博士、弁護士の学者だった。和子さんは言った。「父は、よく言いました。『人から与えられる恩は、その人に返せなくてもいいから、下の人を引っぱり上げたり、別の人に与えなさい。それが恩を戴いた人への恩返しだよ』と。父の教訓でした。その心で、怜子も働いたのでしょう」。お父さんは洗礼を受けて、昭和56年11月、83歳で神に召された。
★私が書いた記事の最後は、次の文章でまとめている。「あなたは今、微笑みを忘れていませんか」。北原怜子さんは、いつも自分に問いかけていた。にこやかな心で眺めれば、どんな所にも美がある。どんな所にも真理がある。まずい物にも、おいしさを、苦しいときにも楽しさを、ニッコリ笑って発見する。それが北原怜子の二コ二コ精神である。あなたの幸せを祈る二コ二コです。
★60年目の、北原怜子さんの声です。ほほ笑むところに、幸せがくる。

2019年2月7日木曜日

老いても誉められれば嬉しいよ。病院の診察結果も良好です

先日、2月4日の夜の集いで写した1コマです。真ん中が、崎濵神父さん(校長、元・管区長=五島出身)、左が、松下修道士さん(外海・黒崎出身)。近くの席になりました。
★お酒がまわると、崎濵神父さんは、しきりに「トマを誉めて、褒め上げる」。聖コルベ館に、あれだけ沢山の資料を集めた者は居らん、というのです。そりゃ老いても「誉められれば嬉しい」ですよ。コルベ神父の資料は少ないですからね。コツ、コツ、集めた成果です。
★崎濵神父さんは、トマのよき理解者です。彼は様々な体験から、心温まるような実話と笑い話を沢山持っている。だから面白い。宴席も和みますね。
★一方、松下修道士さんは余り語らないが、聖母の騎士を支える裏方の大きな働き手です。松下修道士の忠実さ、確実さ、熱心さには頭が下がります。ロザリオ編み(長崎編み)が特技です。テレビにも出た。注文にも応じます。トマと一緒に「日本26聖人の映画」を上映して、ブラジルまでも行った。こういう仲間と一緒の席に居れば、雰囲気だけで、即、昔の心境に戻り、自分の足跡を楽しく思い出すのです。
★昨日は総合病院の診察日だった。午後1時半に病院へ着いた。腹部のCTを撮るので、昼食は無しでした。減塩食を食べているせいか、腎機能が若干、良くなっていた。CTの結果は、前の写真と比べて、良好になっている。院内は広く、素早く移動が出来るように、車椅子を使った。高原修道士さんが面倒を見てくれる。
★診療を終わったのが3時頃だった。「昼めし、食っていない。アンパン、買ってよ」。高原さんと、アンパンは縁があるね。病院から帰ると、解放された気分になる。次のステント交換の日にちが決まった。
★「昭和に生きた修道者たち」。2日に広告して、昨日6日で、丁度50冊が出た。早めのおハガキをお待ちしています。

2019年2月6日水曜日

昨日はお祝い。今日は一転、病院・診察へ。気が重いです

昨日は修道士名のお祝い日でした。2人のシスターから「おめでとう。お祈りします」の言葉を頂きました。シスターの祈りには、マリアさまもお聞きくださる効果があります。皆さんの祈りに支えられて、長生き出来るんですね。
★今日は午後からは一転して、気が重い。高原修道士の運転と介添えで、諫早総合病院へ出かけます。胸を腹部のCTを撮る予定です。朝の7時までに朝食をとり、その後は食べてはいけない、と言われています。昼ご飯は抜きです。総合病院といえば、気が重いです。12月も、1月も、入院で苦労しましたからね。「ステントの入れ換えは、早めにしましょう」とお医者さんは言っておられる。今日の診察で、予定が決まるでしょう。
★90歳まで生きても、慢性心不全だったり、腎臓が苦労したり、ステントが入っていたり、元気なカラダではない。それでも生かして頂いている。十字架を背負いながらの人生です。だからこそ、生きる価値があると思います。あまり心配はしません。
★「昭和に生きた修道者たち」。5日は、25枚のハガキが届きました。北海道からのハガキもあります。広告を出した「2日」の日記の閲覧者は478人でした。

2019年2月5日火曜日

日本二十六聖人の1人、聖トマス小崎。凡人のトマを励ます会あり

1個のメダルを手元に残している。ST.THOMAS  KOZAKI聖トマス小崎。裏を返すと、伊勢カトリック教会。献堂記念。昭和41年12月18日、とある。
★今日は、日本二十六聖人殉教者の祝日。その中の1人に、少年・聖トマス小崎がいた。父親と共に殉教している。私が、この聖人のお名前を頂いたのは、昭和25年4月、修道服を着たときだった。自分から選んだのではなく、院長神父から与えれた名前だった。私は、この名前を非常に気に入っている。「小崎登明」は、この名前から名乗った。本名は殆ど使わない。ホームに入居して、初めて本名を使うようになった。
★二十六聖人たちの殉教の道のりを思うと、胸が痛む。京都から長崎までの長い道のりを、人々からは罵倒され、役人からは責め苦を受けながら苦難の道を歩きつづけた。長崎に着けば、即刻、死刑が待っていた。彼らの歩みは、どれ程、辛かったであろう。聖トマス小崎少年は、三原(広島県)の牢獄で、最愛の母に、信仰に溢れる手紙を書き残している。
★私は、かつて、車キャラバンで、二十六聖人の映画を積んで、京都から長崎まで、映画上映をしながら巡礼した。聖トマス小崎の熱心な信仰と、周りの人たちに対する細やかな愛は、老いた修道士にとっても、目標の模範となっている。
★昨夜は、「老いたトマの信仰を励まそう」と、長崎・聖母の騎士修道院の皆さんが諫早まで出て来て、ホームからは私と、瀧神父さん、高原修道士さんが参加して、全部で13人が集り、お祝いをしてくれた。みんなと顔を合わせるのは、本当に嬉しい。ゆっくりとした楽しい、ひと時を過ごした。修道者仲間と居ると、心が和みます。元気が出ます。ホームのことも忘れます。常々運転を勤める高原修道士も、昨日はビールを飲んだ。「沢山、飲んだね」「いや、一杯だけ」。自粛しているそうだ。帰りは代行運転を頼んだ。
★「昭和に生きた修道士たち」。2月2日(土)に日記に載せた。翌3日(日)に長崎の白浜さんが、聖母の騎士のルルドの水を持って自室を訪ねて、ハガキを差し出した。白浜さんが第1号となった。4日(月)、8枚のハガキが届いた。
★皆さんからのハガキをお待ちしています。

2019年2月4日月曜日

教授の訪問。コルベ神父の愛と平和の心は、受け継がれていく

知らない所で、思いもよらない家庭で、コルベ神父を愛慕しつづけた人が居るんですね。また、その心情を受け継ぐ学者の先生も居られるんです。
★大学の先生(教授)が、ホームに私を訪ねて来られた。1冊の本を持っておられる。私が1983年5月に出版した「長崎のコルベ神父」(単行本・初版本)です。
★「長崎のコルベ神父」は、その後、文庫本になり、ページ数が減少したり、「ながさきのコルベ神父」に変わったりしましたが、この単行本が原本です。「よく、その本、ありましたね」「諫早の図書館で見つけました」と喜んでおられる。「いま、コルベ神父さまの事を考えています」と、こんなにも熱心に、コルベ神父に要り込んでおられる先生の喜びをみて、本当に嬉しかった。今日は、先生が、原本を持って喜ぶ姿を見て、幸せな日になった。
★「どうしてコルベ神父を知るようになったのですか」。父親のお母さん(祖母)が、聖母の騎士誌の愛読者だった。月刊「カトリック・グラフ」も見ていたという。私にとっては懐かしいグラフ誌です。祖母は、コルベ神父の列福や、列聖された特集号も見ていた。コルベ神父さまが好きだったようです。
★母親も、コルベ神父さまの生き方に感動していた。「母のテーブルの上に『長崎のコルベ神父』の本があったのです」。そして父も、晩年には、「コルベ神父の生き方はすばらしい」と誉め言葉を述べていた。「その心が、私にも引き継がれたんですね。聖母の騎士の教会や、ルルド、聖コルベ記念館に度々行きました」
★「コルベ神父の、どこに『つながり』を感じますか」。先生は、この問いに答えて、次のように言われた。「平和」に、関わってくる。常々、平和を証しする。戦争の悪、打ち破る力があるなら、愛しか、ない。永井隆博士も研究している。コルベ神父にも惹かれます。
★私は、先生の言葉を聞きながら、アウシュヴィッツの残虐で、過酷な状況を思い出していた。あの場所には憎しみしかない。憎しみ、恨みを、愛で貫いたのがコルベ神父の身代わりの愛だった。
★「死が迫っても、生をまっとうした。まさにコルベ神父の生き方だった。餓死の地下室で」

2019年2月3日日曜日

節分。オニは外へ。紙の弾丸で追い払った。福は入っておいで

「福は、うち」「鬼は、そと」。ホームの節分。恒例の行事です。午後のひと時、2時半から、食堂に集まった。車椅子の人も入れて、皆さんが、円を描いて腰掛ける。にぎやかだよ。皆さん、ニコニコ顔、お楽しみだなァ。
★最初は、節分だから、マメだね。「マメ拾い競技」が行なわれた。赤組と白組、2組に分かれて、代表が10数人出る。「よーい、ドン」で、沢山ある皿から、小さな皿にマメを移す。急いで移す。30秒経ったら「ハイ、次の人」。次々にリレーしていく。大豆マメをつまむ、これが結構、リハビリになるんですね。
★私も出ました。瀧神父さんも出ました。競走だよ。負けては、おれない。見ていると、長い箸を、短く持った方が、マメはつかみやすい。年寄りの手は動きが鈍い。ドン・カンだね。それでも気持ちは、早るね。マメが小さく見える。思ったよりも、スムーズに入ったよ。成績としては上出来だね。まだ、まだ老人じゃ、ないぞ。「ハイ、これで、おしまい」。赤組、白組、どちらが沢山入ったか。皆さんで、大きな声でマメの数を叫びながら、興味深々。150近いマメが入っていた。
★次に出てくるのが定番の「鬼」だよ。職員の中でも、元気な者がおメンを被っているからね。動作が、大あばれ。新聞の中に入っている「チラシの広告」の紙を1人に5個づつ丸めて、紙の弾丸を作って、「オニは、ソト」と投げつける。笑いあり、楽しさあり、おもしろいなァ。節分って愉快だなァ。こうして節分のひと時を過ごしたのだった。
★帰りには、マメやチョコレートなどが入ったオミヤゲ袋まで頂いた。気分転換になりました。鬼さん、大変だったね。ごくろうさん。
★「悪いことが起こっても、いいことも付いてくる。希望を失うな」

2019年2月2日土曜日

「写真集」を無料で贈ります。200部限定。早めのハガキを

★今年は「平成」も終わり、「新・元号」となります。「昭和は、ますます遠くになりにけり」となりました。しかし「昭和」は思い出深い。私は昭和3年生まれです。
★長崎・聖母の騎士にとっての「昭和」は、昭和5年、聖コルベ神父の宣教来日と、ポーランド人修道者たちの祈りと汗によって始まりました。修道者たちが最初に住んだ大浦の仮の修道院の建物も忘れてはなりません。
★「昭和の中期」の聖母の騎士には、大勢の修道士たちが「マリアさまの為に」と、共同体の修道生活を過ごしていました。再び、このような時代が来ることの願いもあります。また「聖母の騎士」誌は、修道者の手によって、編集され、印刷、製本、発送が行なわれました。そこには修道者たちの、熱意と、奉献と、喜びがあった。今となっては懐かしい思い出です。
★私は、昭和30年代から40年代、長崎と、ポーランドの「コルベ神父の修道院」を数々の写真に収めました。そのフィルムは大量に聖コルベ記念館の資料室に残されています。この度、野々村哲さん、塩沢美樹さん(2人は「トマさんのことば」の編集者)が、その1部の写真フィルム56冊分をデーター化し、その写真の中から、修道者たちの祈り、食事、働き、笑い、生活などを主に選別し、編集して、写真集「昭和に生きた修道者たち・長崎とポーランド、コルベ神父の修道院」が出来ました。皆さんに分かち合おうと思います。
★聖母の騎士にご縁のある人や、ポーランド人修道者との出会いの思い出、聖母の騎士のルルドのお恵み、聖母の騎士誌の話題など、懐かしさを感じられる人も居られるでしょう。見て頂ければ幸いです。
★写真集はB5判、114頁。お1人につき1冊のみで、お願いします。写真集代や、送料など不要、すべて無料で贈ります。ただし、200部が限度となっています。無くなり次第、終了となります。
★お早めに、おハガキで「郵便番号、住所、氏名」を、わかりやすい字でお書きになって送って下さい。
★送り先は、「859-0131 長崎県諫早市高来町神津倉41-1 聖フランシスコ園 小崎登明」あて、です。お待ちしています。

2019年2月1日金曜日

塩分0.1%の梅干。減塩食には有り難い。喜んで頂きます

ホームの生活で、手紙や贈り物が届くのは嬉しい。茨城の「まゆみ」さんから、食塩不使用の「塩零梅」が送られてきた。塩気のない梅干。塩分は約0.1%。紀州みなべの完熟南高梅を、食塩を使わずに「りんご酢」と「はちみつ」で、丹念に漬け込んだ梅干、と包んだ表紙に記してある。
★この塩零梅は、実は園長神父様宛てに、手紙と共に届いた。手紙に「小崎さんが減塩食となったこと、ブログで知りました。私の義母も小崎さんと同じような経緯で入退院し、減塩・水分制限の生活をしています。毎日のメニューにも気をつかう中で、この梅干をみつけました。施設の栄養師さんに見ていただき、許可がでれば、小崎さんや、同じような方々に食べてもらえたらと思い送らせていただきました。義母も毎朝、食べています」
★ホームの栄養師さんが、手紙と、梅干を持って自室にきた。「え?珍しかね」。ホームの食膳にも時々、梅干がでる。でも私は食べない。栄養師さんが、「これを預かって、梅干の日に、塩分控え目の人も居るので、いっしょに出しましょう」と提案した。「いいですよ。お願いしますよ」。いつ梅干が出るか、楽しみができた。
★塩零梅を送ってくれた「まゆみ」さん、ありがとう。「まゆみ」さんとの出会いは、2007年5月、聖母の騎士のルルド祭に来た。「まゆみ」さんは、北海道のトラピスチン修道女院の売店で、「長崎のコルベ神父」を1冊見つけて買った。「サインをして下さい」
★翌年08年2月にも、また聖コルベ館に来る。写真は、その時に写した。「まゆみ」さんから送って来た。私のサインも写真に撮って添えていた。「感謝は神に、愛は隣人に」と書いてある。
★以来、私がホームに入っても、手紙や贈り物で励ましてくださり、交流がつづいている。もう12年にも、なる。支えて下さる温かい心が嬉しい。
★手紙の最後には「私もディサービスで働いているので、ブログで知る職員皆さんのご様子に日々励まされています」と書かれていた。