2017年8月31日木曜日

恨みは、ない。自由を喜び、先祖に倣う希望の踊り

五島・三井楽の「岳踊り」です。この写真を見て、独りで感動した。45年前の写真です。テレビから電話があって、すぐ長崎・聖コルベ館へ電話をかけた。「資料室から、写真を探して、速達便で送って下さい」。早いですね。一夜にして届いたのが、この写真です。
★一瞬、感じたのは、その頃の信徒には、「パワー」があった。教会の前で、床はジャリ石だよ。奥の中央で男性が太鼓を叩いている。横に女性が2人並んで、歌っている。歌の文句は分からない。踊りは、3人が1組になって、黒衣装の男役は2本の棒、白い衣装の女性役は1本の棒。棒には紅白の布が交互に巻かれている。踊りは、棒を先端の部分に集めて、合わせながら舞う。ジャリ石を、白の足袋が踏みしめる。
★この踊りから何を感じるか。迫害のときの刀やムチの責め苦を払い退ける、とあったが、いや、紅白の棒に巻かれた優しさを思えば、信仰が自由になった喜び、責め苦にも耐えた恵みの力、それを受け継ぐ今を生きる信徒たちの愛と希望を、この踊りは示していると感じた。「叩かれても、恨まず、責め苦にも折れない信念」。しかし人間は弱い存在であるから、神の助け恵みに頼る。苦難に負けぬ信仰を先祖に倣うのが、いまを生きる我々の招きであり、希望でもある。
★45年前、現地を訪れて撮った写真は、何かのお祝いの出し物であったのか、取材をするために再現をお願いしたものか、それは全く覚えていない。聖母の騎士の修道士と名乗ったので、快く応じてくれたのか。今、五島の一教会での踊りの写真を今再び見ることが出来たのは喜びであり、胸に大きな感動があった。

2017年8月30日水曜日

しおれる人生、それでも新しい発見の日々は始まる

絵てがみ教室。先生が、画材に、レンコン、ウコン、ナスなどの野菜を持ってきた。サーッと、目に付いたのが、ホウズキだった。「ああ、これ、描くよ」。眺めながら、スケッチする。何度も、何度も見ていると、しおれて、枯れかかって、それでも、ふくらんでいるホウズキが、何だか老人に見えてきた。人も、こんなに、しおれて行くのかな。何だか寂しい。それで言葉を添えた。「老いから新たな人生、はじまる」
★長崎へ行く日。朝から、修道院でパン1個と牛乳を飲んで、朝食とする。ホームの朝食の時間はまだ遅い。高原修道士の運転で、長崎のクリニックへ診察へ出かける。待合室に人が少なく、昼食1時間前には帰った。お医者さんは「歩きなさい」というが、とても歩ける状態ではない。この先、どうなるか不安がある。「とにかく、今年一杯は、気力を失わない。努める」
★長崎のテレビから電話があった。五島の三井楽教会に、信者間では珍しい「岳踊り」があった。それに就いて教えて欲しい、という。1972年、カトリック・グラフの取材で「踊り」を見て写真に撮った。その写真がまた良く撮れている。あの踊りのことは忘れない。テレビによると、もう、踊りは中止になっているそうだ。思い出だけでも語って欲しい、との願いだった。
★外海から迫害を逃れて、五島へ渡ったが、三井楽の岳には牢屋があり、ここでもキリシタンの迫害が行なわれた。現地の人の話によると、「三十六人衆」が刀やムチの責め苦を受けた。迫害が解かれ、自由になって、先祖が受けた、刀や、ムチの責めを払い退けるために信徒たちは踊りを始めた。私が現地を訪ねて、その踊りを見たときは、すさまじい迫力があった。写真にも、その表情が表れている。
★その時の説明では、以前は、男と女と混じって踊っていたが、男が減って、女ばかりの踊りとなった。ハチ巻姿の、りりしい井出たち、はかま姿の男役が竹を2本、女は1本持って、自由になった喜びを敏しょうな踊りに託しながら、竹を前後で打ち合い、悪を払い退ける。カトリック信者だけの踊りとしては長崎では唯一のものだった。
★踊りを通して、先祖の苦難を忍び、その信仰に倣う祈りに似た踊りに感じられた。その踊りが最近は行なわれないとは残念に思う。1枚の写真は、教会の庭で、踊る姿は、逞しさと喜びを彷彿させる。
★ホウズキのように、しなびたトマだが、迫力ある写真を自分が撮ったのかと思うと、過去も大事にしたい念に駆けられた。

2017年8月29日火曜日

「やあー」の挨拶が、親交を深めた。今も感謝です

知人の男性が久しぶりに来た。時々、顔を見せる。見せる毎に、ふっくらっとした感じだ。いつも、下げてくる御みやげは、果物ゼリーだ。息子が、この会社で働いている。
★81歳になる、と本人は言う。専ら、イヌの散歩と、ドライブ。「今日も、あち、こち、廻って、ここに辿り着いた」。来てくれて、ありがとう。
★長崎・聖コルベ館の隣が幼稚園だった。彼は、幼稚園の子どもを送迎するバスの運転手をしていた。私が、聖コルベ館へ出勤するとき、ちょうどバスが坂道に入る。「やあー」と、手をあげて、挨拶を送るのが常だった。「やあー」の挨拶が縁を深くしたのだ。
★トマさんの印象は、ある時、オラショの旅のために加勢を頼まれた。園長さんに相談すると、許可が出た。トマさんの言いつけで、巡礼者の荷物を車で運んだ。その案内ぶりに感心したと、今になって言う。夕食のときは、歌ったり、踊ったり、パワーにあふれていたそうな。確かに、あったよな。
★人生、いろいろな事故も起こる。彼の悲しみは、息子を山で遭難死させたことであった。辛い経験を乗り越えて来ている。彼の弟は、教区の司祭。苦しくても、困難があっても乗り越える原動力は、信仰であろう。こうして訪ねてくれるのも、愛の信仰の一旦であろうと、帰ってから思った。
★明日は、朝から、高原修道士の運転で、長崎のクリニックへ定期の診察へ出かけます。やっぱり、気が重い。

2017年8月28日月曜日

やあ、今年も来たか。ナヨさんの話、思い出したよ

わざわざ訪ねてくれる人を大事にしよう。ホームまで来てくれて、慰め、励ましてくれるのです。去年も来たが、今年も、来た。忘れないよ。長崎の「肥喜里(ひきり)」さん。珍しい名前だ。私を見て、「少し顔が丸くなった」と言う。
★個人タクシーで生活している。去年は、大きなスイカを何個も持ってきた。「スイカは、ないな」。その代わり、大粒のブドウを数個持ってきた。先日、大きな山梨のブドウが送られてきたが、それに匹敵するような大きさだった。笑いながら、「ブログは見ていますよ」と、かいつまんで、あれ、これ、私に聞かせて笑っている。
★肥喜里さんといえば、ナヨさんだ。諫早大水害のときに、有明海に流された。漁師の舟に助けられたが、ナヨさんは、不思議のメダイの信心家で、マリアのメダイを大切にしていた。救われたとき、肌着はなく、不思議のメダイだけが首にかかっていた。その助けた舟が、漁師さんの新造舟で、最初の漁の有明海で、生きた人間を釣り上げた。漁師さんは、非常に縁起がいいと喜んだ。こんな話は、人生に、そう有るものではない。そのナヨさんも、6年前に、86歳で亡くなった。肥喜里さんが、不思議のメダイをお棺に入れて、見送った。
★人生では、思いがけない、様々な奇跡が起こる。ナヨさんの話は記事にも書いて、忘れない私の信心の思い出の糧にしている。
★「いろいろ有って、大きくなって、育っていく。ごめんなさい。ありがとう。3回、ありがとうを言おう。それしか人生に、ない」

2017年8月27日日曜日

山の施設を巡る。思い出がよみがえる。病に苦しむ


福岡の大学院生の彼が、車で2度目、ホームへ来た。いま、修士論文の執筆中。テーマは、「終戦直後の戦災孤児、原爆孤児の救済状況から見えてくるもの」。折角、来たので、私も車に乗せてもらって、戦後、建設した「少年の町」の構想で始めた、山の施設、「聖母の騎士園」を久しぶりに訪ねた。現地を廻りながら、輪郭の説明をした。
★左の写真は、騎士園の入口で、マリア像が迎えてくれる。右の写真は、教会と、修道院。私にとって、この修道院、施設、学校は、懐かしい。私は、この修道院に、11年間と、6年間の、2回にわたって住んで、療養をしたり、子どもたちとも触れ合った。当時は食料不足で、子どもたちを養うのは大変な苦労があった。教会は、1953年、昭和28年に建てられた。戦争が終わって、8年後のことである。140人の男の子との格闘は、今になってみれば、おかしくもあり、愉快である。
★自分のことを言えば、原爆があって、聖母の騎士に入って、高校を卒業する。修道院へ移り、着衣式を行ない、修練を始めた。しかし残念ながら、途中で、右の腎臓結核にかかり、町の小さな医院で、腎臓の摘出手術をする。生死の境を漂った。経過は良くなく、修練は中止され、修道院の一角で療養を余儀なくされた。
★その頃の病苦は、かなり深刻だった。当時の日記がある。「病みつづける、わが若き日、ある時は病の中にもがき、また、ある時は悲しみと不安の中に沈む。寝られぬ夜もあり、憂いの夜もあり。人びとより見捨てられたと思う夜もあり。コルベ神父の伝記を読む。病室は修道院の宝庫、と神父は言った。そして実行した。だが、ここの病室は、倉庫なのか」。かまってもらえず、ひとり悶々とした当時の悩みが、ふつふつと感じられる。
★2ヵ月後、山の修道院へ変わったのが救いとなった。ミロハナ神父のお陰である。忘れもしない、昭和28年7月の、到着は夜になり雲仙に満月が輝いていた。山に来てもツライ日がつづいた。背中の穴から、絶えず膿が出た。更に、左の腎臓を結核で病んで、高熱と血尿で死ぬ一歩手前をさまよっていた。その時、祈ったのが、この教会だった。
★人の運命は分からぬものだ。幸いに生かされて、病は癒えて、痩せた体でも、元気を取り戻した。11年間の、この修道院と施設の思い出は、人生の貴重な宝庫となった。
★そして、今に到っている。まだ生かされている。山の修道院で癒されたのは、奇跡だったのかも知れない。最近、そう思う。ありがたい、感謝の日々を過ごしている。

2017年8月26日土曜日

親友、故・久之の奥さんが来る。思い出は、つのる

きょう、職員さんから、自室に、棚を作ってもらった。本や封筒類を動かすうちに、水浦久之の「神父発見」が見つかった。「これは思い出になる。取って置かなければ」と、手元に残しておいた。すると奇遇じゃないですか、久之の奥さんが、きょう、ホームにやってきたのです。
★久しぶりの再会。写真は奥さんと握手したところです。久之は私の第1の親友だった。頼まれて、聖句入りのブドウの水墨画の掛け軸を描いてやったことがある。「まだ自宅に掛けて飾ってありますよ」と奥さんに言われて、「え?ほんとう」と嬉しくなった。実は私の部屋の2つ隣の部屋に、奥さんの兄さんが入居ししてきたのです。それで様子を見に来たと言う。
★久之の思い出話をする。最後はどうだったのか、初めて奥さんから聞いた。81歳だった。病院に入院していて、最後まで意識はしっかりしていた。最後の時を知ったのか、司祭の名前を告げて、告解を頼んだ。その後で、ベッドに座って、奥さんと2人きりになって、奥さんを、やさしく、見つめながら、ゆっくり、はっきりした声で、「愛、して、います」と最後の言葉を語ったという。それから間もなく、人生を終えた。
★「久之は、病気になったとき、『おおせのごとく、我になれかし』と書いてくれと頼まれた。彼が書いた字は今も大切に持っている。奥さんにそれを言うと、「飾ってあります」との返事。本当に、親友として、久之がボクを大事にしてくれたことを痛感した。
★彼、水浦久之の功績は、コンクリート造りであった浦上天主堂を、赤レンガ・スタイルに改装のための総監督を務めたことであろう。リッパに改装した浦上天主堂に、教皇さまをお迎えしたのであった。彼、久之の墓は、十字架と、「空の鳥」の字が書かれているだけである。空の鳥のように、神へと飛んで去ったのであろう。

2017年8月25日金曜日

働くのはアナタです。マリア様のお恵み、必ずある

山の女子修道院を訪ねた。1人のシスターから、終戦直後の話を聞いた。終戦のときは、14歳、大阪に住んでいた。戦争で、どこも、かしこも、焼け野原になった。「神さまは、こんなことを許されるのだろうか」。神に対する疑いさえ起こった。
★長崎で、親戚が結婚するというので、興味もあって、長崎へ向かった。洗礼は既に受けてはいたが、浦上の惨状を目の当たりにしたとき、更に、神に対する疑いは深まった。「神さまは、こんな悲惨を許されるのだろうか」
★長崎駅に着いたとき、ゼノ修道士に出会った。汚れた修道服に、やぶれそうなカバン。孤児たちが駅に降りると、ゼノさんは、父親以上の愛撫をする。短い言葉、とぎれ、とぎれの言葉で、ゼノさんは誰彼なく話しかける。日本人じゃない。外国人が、です。「神さま、浦上の人たち、みな天国。残った人たちを、助けるのは、私たち。マリアさまが、すべてのことを、して下さいます」。少女は、ゼノさんのことばに興味を持った。
★ゼノさんの懸命な姿に接したとき、14歳の少女は、「神さまは居られる」と直感した。少女はゼノさんに聞いた。「こんなに子どもたちを抱いて、お世話を誰がするんですか?」。すると、ゼノさんは直答した。「あなた、です」
★ゼノ修道士に、子どもたちと一緒に、聖母の騎士修道院へ連れて行かれた。それから福祉の仕事が始まった。数年後、シスターとなり、原爆孤児、戦争孤児の施設で働いた。あれから何十年、いまは障害者施設の修道院で14歳からの仕事を続けている。86歳になった。
★[天国に行くには、この人たちのために、働くこと。みんな救われます」「恵んでください。マリアさまのお恵み、必ずあります」。みんなは「ドーゾ」「どーぞ」と下さる。ゼノさんは、もらった物は一切食べない。使わない。修道院の固いパンだけ食べた。
★その印象が、シスターの心に強く残って、励ましとなっている。

2017年8月24日木曜日

3度目の流しソーメン。これで夏も終わる。また、ね


ソーメンを食べる2人。左は瀧神父さま。「ソーメン、食いに行こうよ」と瀧神父さまを誘った。運転は高原修道士に頼んだ。昼食目当てに出かけました。
★今年の夏は、3度、ソーメン流しを食べた。1度目はホームでした。2度目は、この間の「轟きの滝」のお店です。今日の3度目は、前から是非行きたいと思っていた東長崎・滝の観音のお店です。
★ここのソーメン流しは特別です。大きな、畳2枚ほどもある丸い巨石を繰り抜いて、10個ほどの穴をつくる。石の真ん中から清水が湧き出てくる。ソーメンは、20人分だけ、手作りです。大きな竹を割った器に、こしのあるソーメンが入ってくる。最初の1すすり、これがノドを潤すんだね。「そりゃ、ウマイ、と言ったら、満足しかない。ああ、とイノチが伸びるよ」。これを食べて、夏が終わった感じです。毎度、ソーメンのことばかり書いてすみません。
★運転は高原修道士でした。帰りの車の中で、同行の瀧神父さんと話した。「宗教とは、何ぞや?」。昔の公教要理の冒頭に書いてある。「宗教とは、神に対する人の道であります」。道、なんだよ。神に向かって行く。それに、ふさわしい人間になる。神の前に出る。汚れも、塵あくたも、弱さも、まともなものに正して、道を行く。これが「宗教」だよ。ハイ、わかりました。明確な論評でした。悩むことなんか、ないよ。真理は、手元にあり。瀧神父さんとの会話が役にたった。ホームに帰ったのは、2時15分。ロザリオには間に合いました。「ソーメン、食って、祈って、足だけ、よろよろ、だよ。負けないぞ。ソーメンの効果か」

2017年8月23日水曜日

病気にも耐えて、喜んで、受け入れるのが信仰者です

きのう、ソーメン流し店の近くで、山から落ちる一筋の清流があった。真っ直ぐに落ちる、美しい一本の流れ、冷たい水でした。
★日頃から信心の厚い女性が、突然に倒れて、入院した。後には心配が残った。ショックも受ける。
★なぜ、この信心深い女性に、突然に苦しみが与えられたのか。こんなに祈ってきたのに、神は助け、愛し、導いてくれないのか。一抹の疑問が湧き起こった。信仰とは、なんだろう?
★人は、信じなくても、信仰していても、同じ人間として、身体に様々な病気を経験する。女性にしても、まさか、突然、倒れるとは思ってもみなかったであろう。世の中、何が起こるか分からない。だから「変わりなく、一日を過ごせば、それが幸せ」と思っている。
★ホームに居て、老いるのは当然だが、急に病気になるほどツライ出来事はない。神を信じても、信じなくても、同じように病気や苦難が起こるとすれば、どこに信仰する意義があるのか。疑いさえ起こった。
★病気になったら、如何にすべきか。歳と共に病気は多くなる。病気になれば、先ず万全の治療を尽くして、その後は、ただ与えられた苦しみを受け入れて、乗り越えるしかない。そのとき祈りが助けになる。私たちには、神の御意思は分からない。なぜ病気が与えられたのか。病気になったとき、如何に生きるか。受け止めるか。それが問題だ。
★イエス御自身が苦しまれた。聖母マリアも多くの苦しみに耐えられた。聖人方も沢山苦しんでいる。それを思いながら、与えられた、わが身の痛さに耐え、苦難を捧げていく道こそが信仰であろう。ツライのは確かだ。神の御思召ならば、この痛みと苦しさを癒してくださいと、御助けを願うしかない。信仰者の生きる道は、現実をみての悲観ではなく、希望でありたい。祈りの中に、イエス、聖母マリアの助けと慰めが必ず与えられる。
★女性の一日も早い回復を、ミサや、ロザリオのときに祈っている。
★苦しみによって、自分を変える。自分の我がままや、勝手さ、利己主義、無慈悲から、祈りと忍耐によって自分を聖なる者に少しでも変えて、神の導きを願う。それが信仰者に望まれる厳しい道かも知れない。
★苦しみに耐えてこそ、神の御心にふさわしい人間になる。

2017年8月22日火曜日

昼食は、森の奥の清らかな流れで、ソーメン食べる


ホームから森の奥に入ると、清流がながれて、滝がある。静かな場所で、森の空気も清純だ。昼食は、森の中の店で、ソーメン流しをたべるという。もちろん参加した。16人が居た。車は3台に便乗した。これを食べると夏も終わりだ。そんな気持ちです。足がふらついて困った。先が心配になる。みんなは満足した。足が達者なら、どこへでも行ける。希望がある。歩ける足を大切にしなければと思う。
★ホームに帰って、すぐ歯科の治療に出かけた。歯石を取って、歯を洗浄してくれる。いまホームに帰ったところです。何も考えは浮かばない。

2017年8月21日月曜日

苦しみの必要性を、ミロハナ神父は教えてくれた

ある日の、廊下の窓から見える風景です。「夏だ、なあ」。平凡だが、そんな感じがします。いま私の手元に、薄い手帳がある。1954年、昭和29年、古い手帳です。いま8月だから、8月16日の処を開けてみた。ミロハナ神父と語る、と冒頭に書いてある。
★ミロハナ神父は語る。「苦しみが是非とも必要な論理的なわけを教えましょう。
★①天主様(その頃、神を、こう呼んだ)は正義です。罪を人々は楽しみによって犯し、天主様を侮辱する。それ故に、どうしても罪のつぐないのためには、楽しみの反対の苦しみによって補わなければならない。
★②罪びとは、自分の力で改心し得ない。「祈りたくない」「祈りたい」の心を与えるもの、それは恩寵です。この恩寵は他人の苦しみによって与えられる。私たちは苦しみの価値を知るよう祈らなければならない。
★③聖母に次のような恵みを祈ったらどうですか。すべて御身の御思召です。しかし長く生きながらえて多くの病苦を忍んで、十字架のキリスト様のようになって死ぬ。今の生活ではダメです。もっと、もっと、大きな苦しみを忍んで、死ぬ。この恵みです。
★④私たちは、ここで、かわいそうな人々を集めて、(心身障害者施設を創設した)彼らにイエズス様のことを聞かせて、子羊の如き平和な心を与えたい。
★⑤あなたが書いた原稿は、初めは苦しみを述べたものでしたが、後になって、苦しみを耐え忍びたいと書いてあった。よいことでした。これからも原稿を書いてください。ただ、御思召のままによいうことでね。人に説教するのは、これダメですよ。
★ミロハナ神父は、神学生のときに、コルベ神父から勧められ、ポーランドから長崎へ来た。コルベ神父から哲学・神学を教えられて、東京で、司祭に叙階された。コルベ神父に最も近く、神父から聖母の騎士を任されたと、信念を持って生涯に生かした。ミロハナ神父の、誰でも抱擁する心の優しさに魅力を感じる。
★ミロハナ神父が懐かしい。いま、このような話を直接聞かせてくれる司祭はいない。

2017年8月20日日曜日

何も出来ない自分。助けてください。手を伸べて

ホームに隣接する湯江教会。日曜日の1番ミサは、6時から、主にホームの信徒が祈ります。一般信徒のためには2番ミサ、9時から行なわれる。今日は、ミサ後、信徒の分かち合いがあるというので、2番ミサの終わり頃、教会へ行った。ミサが終わろうとしていた。その時に写した写真です。中央に司祭の後姿が見える。
★その後で、会議室に10数人が集って、今日、読まれた福音の中で読まれたひと言を、それぞれが発表した。私は、「主よ、助けてください」を述べた。そして次の説明をした。
★ホームに入って、3年目を迎える。振り返ってみて、一番の悲しみ、悔やむのは、入居してから、「人のために働いていない。尽くしていない。愛の実行をしていない。何も人に与える仕事をしていない」。何も行なっていない寂しさだと、述べた。
★この事は言わなかったが、長崎・聖コルベ館に居たときは、巡礼者や見学者のために手助けが出来た。教えたり、会話をしたり、お互いの交流の中で充足感があった。それらの他人に対する奉仕が、入居によって、いまは全く無くなった。それが寂しい。「主よ、助けてください」。入居したから、あなたは、何もしなくて、いいんだよ。日々元気で暮らせば、いいんですよ、そう思われるのが一番ツライ心境です。
★いまは自分で生きるのが懸命です。歩くにしても、以前は何も考えずに、自然に自由に歩いていたのに、その肝心な能力が失われつつあって、一歩、一歩、歩くのを、気にしたり、辛さを感じたり、そのことが自分の生活の課題にこそなっている。
★「主よ、助けてください」。今日は、福音の中から、その祈りを心から唱え、願いました。聖書に出てくるような弱い人間が、ここにも居ります。「手を伸ばして、助けてください、主よ」

2017年8月19日土曜日

夏、真っ盛り。かき氷屋さんが繁盛した。おいしい

いま、夏の真っ盛り。屋外は、暑い陽が照る。町では、冷たい物が繁盛する。「冷たい、冷たい、かき氷を食べたいね」。そんな気持ちになる。子どもの頃の思い出も湧き上がってくる。職員さんの手間かけた思いで、ホームでも実現した。「かき氷屋」さんが出店したのです。
★機械はちゃんとホームにある。四角の氷は、諫早の氷屋から求めた。四角い氷を台に載せて、ハンドルをクルクルまわす。氷に掛ける色は3つあります。赤に、青に、グリーンです。午後のひと時、食堂で行ないました。「どうしても、行って、食べたいよ。風物詩だから、ね」。「3バイ食べたよ」。好評でした。
★「トマさん、どの色にする?」「イチゴの赤だね」。やっぱり先ずは、イチゴ。それからレモンの緑。これが味を感じておいしかった。まさに、思いもかけぬ夏の風物詩だね。
★車椅子の女性が、かき氷を前に置いたまま、眠っている。この女性、眠る姿をよく見かける。教会でのロザリオでも、最後は、カラダを前のめりにして、心地よく眠っている。
★「がんばれ」「がんばって」。よく言う言葉です。「頑張らないと、いけない時もある。しかし、頑張れだけでは、あまり好まない。頑張れ、よりも、よかったですね。いいですね。眠っていても、いいですね」。そんなふうに、肯定してやりたいと思う。共感だよね。共に喜ぶ。共に痛みを感じる。共感が、いいと思います。

2017年8月18日金曜日

ホームに居ても修道士です。感じ、考え、祈る者です

朝のホームの廊下です。右側の窓から、陽の光がサンサンと輝く。ミサを終わって、6時半過ぎ、自室へ帰るときの廊下です。「ああ、きょうも、一日が、始まる」。同じ毎日だけれども、生きる意味はある。「変わりが無いのが一番の幸せです」と、いつも思う。
★朝食を終えて、早速、山梨の大きなブドウ(巨峰)を食べた。5個、6個と自分でも、食べすぎだよ、と健康のことを考える。残りは大事に冷蔵庫で冷やしている。
★初めて、午前中に、パソコンへ向かった。午後から月に1度の「ショッピング」がある。バスで、買い物に出かる。自由に動ける人が利用しており、10人余りになる。帰ると、ロザリオ。時間に追われるのを感じる。今日は、午後から、日記を書く時間が足りないだろうと予想した。
★憧れは、長崎・聖コルベ館に居て、修道服を着て座っておれば、巡礼・訪問者と多くの出会いがあるだろう。90歳になっても、100歳になっても続いて勤めれば、それが一番の幸せでと分かっている。そのまま幕を引きたいと思う。
★でも、ね。人間には歳と共に色々な事情が起こる。妨げもある。自由にならない。今はホームに居て、静かに、余生を暮らすしかないのです。ホームに居ても、修道士は忘れない。修道士って何者か? 修道士は神から呼ばれた者。神の愛、いのち、賛美を考える者。故人や、生者の幸福、世界の平和を祈る者と自ら言い聞かせる。

2017年8月17日木曜日

夫妻の目は、緑色。イノチの色。見ている御方がいる

ホームで人が集まる所は、エレヴェーターです。その前に介護詰所があり、その横に、陽の当たる明るい1間がある。春は見事な桜が観賞できるので「サクラの間」と呼んでいる。テラスがあって、1輪の「風車」が無心に廻っている。
★人の目に付かない所で、風に吹かれて廻っている。「良いことをしても、誰にも気付かれない」。そんな気がする。この風車から学ぶのは、誰にも気付かない良い話、隠れた愛の話、そんな心の温まるような話が知りたい。聞きたいと思う。言葉や難しい話は、もう、いいです。愛の実行、しかも人知れず、実行する話を見せてください。実践、実行、今は、言葉やお説教よりも、それを望みます。
★夫妻は、自宅の一室を増築して、ホームレスを受け入れて、部屋で、ゆっくりさせて、風呂に入れ、食事を与えて、1晩安らかに泊まっていただく。彼らが脱いだ衣類は異臭を放つので、奥さんが洗濯タライで、手洗い作業で丹念に汚れを落としている。その善業は夫妻以外に誰も知らない。夫妻が理解しあって、心から愛の好意を行なっている。その事実を聞いたとき、最初、信じられなかった。家族で、そんな愛の好意が可能なのか。しかも誰も知らない。きっかけは、奥さんが、中学生たちからホームレスが撲殺された事件に発すると言う。この実話は、生きている愛の実行として、キリスト者の実践として、心に深く刻まれ、消えることは、ない。「愛の実践集」はないものか。「人間に愛を持たせる。希望を持たせる。生きる価値、生きる力を持たせる。人は、生きているから、生きなければならないのだ」
★昨夜、携帯に、その夫妻から突然電話があった。思いもかけぬ電話だった。トマさんを励ましてくれた。慰めてくれた。それでトマはホームレスへの愛の好意を思い出したのだった。
★主人は、奥さんを、「緑のまなざし」を持っている、と言った。緑は、森の色、海の色。つまり、いのちの色なんです。いのちと、慈愛の色なんです、夫妻だけがお互い知り合っている目の色です。隠れた所から見ておられる御方も、目の色をご存知でしょう。

2017年8月16日水曜日

お盆休みの思い出は、ボーシと、巨大・巨峰だった

お盆の休みは終わった。誰も来ない。どこへも行かない。雨が降ったり、陽がつづいたり、そんな日で過ぎて行った。ホーム生活は単調だが、自分にも、小さな喜びと、慰めになることがあった。気持ちの良いことがあると嬉しい。
★1つは、ボーシを贈ってくれた女性がいた。早速、かぶって、「似合うでしょう」と、写真も入れてお礼の手紙を出した。ボーシは小さな衣料だが、高価な値段がついている。いつも帽子屋で、良いのを見つけると、かぶってみて、「これは、いいな」と購買力は高まるが、値札を見ると、直ぐあきらめて、もとに、そっと、戻す経験が何度か、ある。今度のボーシの贈り物は嬉しかった。今年の聖母被昇天の記念になる。
★もう1つは、山梨産のブドウ(巨峰)1箱、6個入りが着いた。贈り主は、5月の連休に、山梨から、バイクでホームに来た男性だった。ブドウは好物だから喜んだ。写真の右側は、スーパーで売っている上等の巨峰ブドウです。左側が送ってくれた巨大の巨峰ブドウです。とにかく見た瞬間、その大きさに、たまがった。(おどろいた)。こんなにも大きいブドウがあるんだな。初めて見たよ。食べてみて満足した。贈ってくれたバイクの男性とは、別れの際、玄関で、修道服を着て、本人と、バイクも入れて、記念写真を撮った。長崎は、22回目。バイクで来たのは、12回目。トマさんに会ったのは、5回目と言った。「なぜ、そんなに、ナガサキを?」「長崎には特に違ったところがある。それに魅せられ、気がついてみれば、この回数です」。人は何でも、一念固執すれば、何かが生まれてくるだろう。人生における、こだわり、体験こそが、その人の心の宝になる。

2017年8月15日火曜日

歳を重ねるごとに、キズや、係わり合いは、深くなる


今日は、幾つもの思いが重なる日でした。教会へ行くと、祭壇の横に白い台が置かれて、写真が飾られている。昨年の今頃から、この1年に亡くなったホームの人たちです。冥福を祈りました。写真、左は村山修道士さんと、大曾神父さまです。右側の写真は、祈るホームの人や湯江教会の信徒たちです。
★聖母の被昇天の祭日でもある。荘厳に祈りました。また終戦記念日でもある。戦争によって、沢山の命が失われた。今も戦争は続いている。また、お盆でもある。亡くなった先祖、家族のために祈りました。どうして人間は争い合うのか分かりません。解決は遠いでしょう。
★テレビでは、韓国は戦勝記念日で、また、また慰安婦の像が、バスの中でも座った姿で置かれて、他にも小さな慰安婦像が作られて、配られている。戦争は悲惨です。戦争を起こして、アジアを蹴散らした日本人は、アジアの皆さんに許しを願わなくてはならない。
★暗い話ばかりだけれども、私が2013年に韓国に行ったときに、こんな事があったのを思い起こした。韓国人の案内で、夜の、テグの「ルルドの聖母堂」の祈りの集いに参加したときです。言葉が分からないのを気にして、案内の大学教授が「さあ、もう行きましょうか?」とうながした。車のドアを開けて、車内に座った小崎修道士のそばへ、赤ん坊を抱えた若い母親が寄ってきて、子どもを差し出した。崔教授が言う。「祝福して、ほしい。願っています」。修道士はびっくりして、「なに?わたしに?」。母親の目が、うるんでいる。ためらいがあった。司祭でない。修道士が、祝福していいのか?」。「アボジ(父親の祝福)なら出来るかも」と瞬時に思い、幼子のヒタイに、十字を記した。「この子も、この母も、幸せになりますように」。願いを込めて祈った。ここに来れば、韓国も日本も、なかった。同じ人間として、カトリック者として、愛と平和になるように祈った。あの子は、あの母親は、元気にしているだろうか。

2017年8月14日月曜日

聖コルベの殉教の祭日。聖母の騎士で盛大にお祝い

聖母の騎士の創立者、聖マキシミリアン・マリア・コルベ神父が、大戦中、アウシュヴィッツ強制収容所において、死刑になった1人の父親のために身がわりとなって、餓死の地下室で殉教した祭日です。
★コルベ神父が何を教訓に与えてくれるでしょうか。先ず、①宣教への熱意です。「マリアを通してイエスへ」の信仰で、日本、インドまで福音宣教を行なった。
★次は②苦しみです。コルベ神父ほど苦しんだ人は居なかった。沢山の苦しみ、困難を経験したが、マリアへの揺るぎない信頼をもって、乗り越えた。肺や全身の病気、宣教の困難、修道士たちの反対、それらを受け取り奉献し、耐えて行った。
★③何と言っても無償の愛。「神から愛されたから、愛を返そう」。その基本で、1人の死刑者に家族が居る。自分はカトリック司祭で、家族は無い。では私が代わろう。聖書に「友のため命を捨てる、これ以上の愛はない」という言葉がある。コルベ神父は文字通り、聖書の中心になる部分を実践した。
★最後に、④人は如何に終焉を迎えるか。コルベ神父が望んだのは、マリアを通して、イエスの如く死にたいという熱烈な希望であった。その通り、彼は「裸」で、「我、渇く」といって、殉教した。まさにイエスの愛の死に倣う最後だった。
★湯江修道院からは、6人が参加した。司祭3人。修道士3人。瀧神父さまと私も仲間に入る。午前10時30分から、長崎・聖母の騎士教会で、ロザリオを唱える。その後、お祝いのミサが捧げられた。ミサが終わると、修道者は院の食堂に集まり、会食で親睦を固めた。休暇の人も居て、人数は少なかった。しかし集って、お互い語り合うのは、大きな喜びである。聖コルベの精神に倣う生き方を誓いながら別れた。ホームに帰ったのは、午後2時50分であった。


2017年8月13日日曜日

落ち度はあっても人生は宝。助けられて今も生きる

ホームの隣、湯江教会の祭壇の生け花です。
★自分の健康を考えるとき、歩くのに、バランスが定まらない。両ヒザの関節が痛み、歩行に困難を感じる。昨年から比べると、自分でも意識するほど、体力が落ちている。
★毎日、教会の祈り(寝る前の祈り)で、良心の反省を行なう。実のところ、何を反省すればいいのか、日々悩む。ウソを言うわけでもない。ケンカもしない。人をおとしめる言葉も吐かない。ミサや、ロザリオは唱えている。ホームという囲みの中での生活では、特別な事件は起こらない。その毎日の繰り返しがつづいている。
★被昇天の祭日を迎えるため、司祭に告解をするとき、何の罪を語るべきか、心に迷いを感じた。もちろん自分が聖人でないことは、百も承知している。それでも語るものが無いというのは、「本当の自分の正体を分かっていない」ことに気がついた。自分の心は真実に神に向かっているのか。祈りや黙想は充分なのか。むかし犯した落ち度を思い出して、反省するどころか、反対に快感を覚えることは、ないのか。生きていることは恵みではあるが、その恵みを充分に感謝し、愛に応えていない自分が居る。傲慢や、自己過信、信仰への疑い、など、まだ、まだ本当の自分に気がついていないことに実感する。この心境では、神の御前に出ることは出来るか。到底、出来ないだろう。だが神の愛は自分を見放さないと信じている。
★一方、反省し、悔やむだけでは、事は前に進まない。「喜べ」。いつも喜べ。苦難があっても喜べ。神は確かに自分に御心を掛けてくださる。神は弱い自分を導いてくださる。苦難があっても、神の助けで乗り越える。いつまでも、この苦難の状態がつづくと思うな。時は変わり、人も変わる。変わらないのは、オマエの喜び、神の恵みだけだ。
★生きているではないか。親しい友達たちが多く居たが、彼らは、もう、この世に居ない。だがオマエは生かされている。足が少々痛くても生かされている。目で美しい花が見れる。心に愛を感じることも出来る。笑いだって、ある。生きてきた人生は、はやり落ち度はあっても、自分の宝であったに違いない。そう信じて続けて生きたいと思う。
★人生に苦しみはある。生きている限り、当然だ。助けられて、励まされて、慰められて、ワタシは、今も生きる。うれしいよ。

2017年8月12日土曜日

ソーメン流し、スル、スル、食べて、魂も、清めた


数日前に、「ソーメン流し、しますか?」と食堂で、職員さんが皆さんに問うた。「ハイ、した方が、いいよ」。そこで今日の昼食は、ソーメン流しになったのだが、実際に職員さんたちが苦労して、流れる竹を準備しても、流れるソーメンにありついた人は、数人だった。殆どの人が身体上の都合で、食堂でソーメンを食べた。数人の希望者のためでも、若い職員さんたちは手を掛けて準備してくれる。その家族的な心が嬉しい。ホームの温かさがある。
★左側の写真、真ん中に居るのは瀧神父さんです。「トマ、早く食べれよ。私は、もう十分に食べたよ」。右側の写真、赤いタオルを首にかけているのは山内園長神父さんです。「うまか、ぞ。元気が出るな」と喜んで食べていた。
★ソーメンを食べ終わって食堂へ入ると、昼食が準備してあった。アンパン、串焼き、ブドウ、それに、たこ焼きです。栄養士さんが、「たこ焼き、どうですか?」と食堂内で勧めて周る。「結構、いけているね。たこ焼き、なくなっているよ」
★冷たいソーメンを、タレにつけて、「スル、スル」っと、食べるのは、日本の味だね。
★教会で、被昇天の祭日前の「告解(こっかい)」が有ります、と広告があった。長崎の教会では、昔から、復活祭の前と、被昇天祭の前、御降誕祭の前に、司祭に自分の罪を告白をする習慣がある。ソーメン流しも、いいですが、神に向かって、自分の魂の清算を行ない、汚れや弱さを流すのも信仰者として生きるためには必要でしょう。清い心で祭日を迎えたいと願います。

2017年8月11日金曜日

人と、人を、つなぐ、そこには、なにか神秘性がある

「トマさんのことば」を送った女性から手紙が来た。最近、読んだ手紙で、これほど感動的な手紙はなかった。
★自分は20年以上前に、「十七歳の夏」を読み、むかし教会で、トマさんの弁士で、「日本26聖人」の無声映画を見たことがある。少女の頃、身体が弱かったが、洗礼の恵みを受けた。
★その後、健康を回復して、結婚して、2男、2女に恵まれた。子供たちは、教会学校で学び、小1のときに洗礼を受けたが、主人だけが残されていた。でも家族思いのお父さんでした。
★主人は、心臓を病んで、苦しむようになった。そのとき、主人から、「洗礼を受けさせてほしい」と厚い願いがあった。どれほど喜び、神さまに感謝したことでしょう。神父さまにご相談して、病気は不具合のなか、教会で、家族と、親しい方々の援助を受けて、神さまのお恵みである洗礼を受けることが出来た。本当に幸せでした。その時の、主人の晴れ晴れとした顔が忘れられません。何度も入退院があり、22年に召されました。
★娘の1人が別の都会に、結婚して住み、お父さんが亡くなって以来、命日には必ず帰ってきて、家族で父のお墓参りを、この間、つづけて祈っています。娘が先に、「トマさんのことば」を貰っており、帰って来たとき、見せてくれたのが、その小さな本でした。手に取ると、むかしの思い出もあり、親しみを感じて、ぜひ私にも送ってくださいとお願いした次第です。
★「トマさんのことば」が生活の慰めになっています。トマさんに、夫のことを判っていただきたかったのです。心より神さまの慈しみをお祈り申し上げます。

2017年8月10日木曜日

天命を喜んで、うけ入れよ。人生には深い意味ある

「楽天知命」。天を楽しみ、命を知る、と読みます。中国、古代の言葉でしょう。その真意が、いい。「天命を喜んで、うけ入れる」。いまの心境にピッタリです。
★書道は正式に習ったことがない。ホームに書道の先生が来られるので、練習程度でお世話になっている。
★秋が近づいて、町でも「文化祭」が行なわれる時期になった。去年は、「千客万来」を出したところ、「奨励賞」を貰った。書道の先生が言われる。「今年は、これ書いてみたら、どうですか」。渡された手本の半紙が、「楽天知命」とあった。
★何と読むのだろう?そして意味は?
★瞬間、「天命を喜んで、うけ入れる」の言葉に心は動いた。いま、自分の心境は、これでは、ないのか、と思った。修道士として生きて来たこと、そのように行動してきたこと、我が天命として、迷うことなく、うけ入れる。しかも喜んでうけ入れる。それが自分の人生の幸せという生き方だ。まさに、その心境さを、この四つの文字を書いて心に留めたいと思う。
★原爆で突然、前触れも無く、孤児になった少年は、これから、どう生きるべきか。迷った。課題は山積する。家もなければ、銭もない。被爆者は世間から冷たい目で見られている。どう生きれば、いいのか。雨が降る中、びしょぬれの少年の足は、迷うことなく無言でポーランド人がいる聖母の騎士に向かっていた。
★玄関で、迎えてくれたのは、ゼノ修道士だった。「お姉さん、どう、しました?」。母が若く見えたので、ゼノさんは「お姉さん」と呼んだ。「原爆で、死にました」「かわいそうの、ヒト」。ゼノさんの青い目から涙がこぼれた。ゼノさんは、少年を応接間に待たせて、奥の部屋に消えて、院長のミロハナ神父を連れてきた。ミロハナ神父は万遍の笑みを浮かべて、濡れた少年をしっかりと抱きしめた。そのとき1人の少年は、「天命を喜んで、うけ入れた」のだった。そして、長い年月が経って、今が、ある。
★人生とは、自分の天命を、喜んで、うけ入れることだ。古代中国人は、人生を読み、心中を読んだ。人間という者を知っていた。
★先日、送られてきたメロンが、少しづつ昼食に出た。赤みがかったメロンだった。
★車椅子の女性たちが、ヒマワリの張り紙を作った。女性職員さんから、詰所に張りたいから、何か、いい言葉を書いて下さい、と頼まれた。そうは簡単に書けないよ。幾つか考えが浮かんだが、次の言葉を選んだ。「八月は祈りの月、先祖と、平和と、わが身の幸せを」。オマケに、「汗にまけるな」
★ヒマワリは、夏の暑さにも負けず、太陽に向かって、いつも顔をむけているからね。

2017年8月9日水曜日

苦労した母だったが、もっと甘えたかった。悲しい

長崎・原爆の日。母の命日でもある。爆心地から500mの岡町にあった、家も、母も、熱風で焼かれ、爆風で吹き飛ばされて、母ワサの遺体も見つけなかった。どこで死んだのか、あまりにも悲しい。45歳だった。「母ちゃん、行って、くるケン、な」。朝の別れが、最後となった。
★自分の人生は、家族的には幸せでなかった。7歳で、父・松吉は病死。17歳で、母ワサが原爆死した。兄弟姉妹はいない。この日、自分は全くの孤児となった。
★それにしても、よくぞ原爆を生き抜いたと思う。原爆を聞いて、県内外の町から家族や親戚を探しに来て、2日3日と探して、自分の町に帰った人がふしぎに次々に死んだ。「放射能」の影響だった。沢山の人が亡くなっている。それを思うと、自分は被爆の丘で18日間も生活し、雨風にも打たれ、飲食し、被爆者を介抱、死体を焼いたのに、自分には「放射能」の影響は僅かで生き残った。
★なぜ自分は生きたのか。海軍・魚雷爆弾・製作工場で働く工員だった。工場は24時間の稼動で、昼勤と、夜勤があった。1週間の交代で、原爆の週は、昼間の勤務になっていた。その事が、生と死を分けた。もし夜の勤務に当たっていたら、家で眠っていたであろう。母と運命を共にした訳だ。幸い、今も生きている。生きる不思議さを感じている。
★今朝、湯江教会のミサで、「トマ田川松吉。クララ田川ワサ。原爆死した親戚のため」、追悼のミサを捧げていただいた。父の思い出はない。母には、甘えて育った。母を思うとき、精肉店を切り盛りする姿、米や野菜を背負う姿、玄米を一升瓶に入れて、棒で突く姿、カリエス・結核で苦しむ子供を癒そうと努力する姿が次々に連想される。
★「お母さんと、楽しく、暮らしかったよ」「原爆が憎い。戦争が恨めしい」「なぜ早く戦争を止めなかったのか」「核実験を繰り返す国がある。恐ろしい」。原爆の丘で書いたメモの日記。その頃から、書くクセがあった。原爆死した、すべての人の冥福を祈る日となった。

2017年8月8日火曜日

失った物があるだろう。もう1度見つけてみよう

大きな箱に、目を見張るような巨大な「メロン」が届いた。長崎では、メロンは珍しい。高級な有り難い贈り物です。送り先を確認すると、知らない名前の女性だった。多分、本のお礼と予想した。宛名紙を大事にはがして、メロンは炊事場の栄養士さんへ渡した。
★宛名紙に、電話番号が記されていた。早速、電話をかける。お礼を申すつもりだった。しかし電話は出なかった。夕方になって、再び電話をかけてお礼を言おうと、はがした宛名紙を探したら、紙がない。手元に置いてあったのに、「え?どこへ、紛れ込んだのか」。探しても、探しても、やっきになって、見つけたが、全く紙は出て来ない。贈り主の名前も、住所も全く分からない。お礼の電話を先ずは掛けたいのに、と気持ちは、あせるばかりであった。
★ふと気がついた。「そうだ、最初にかけた携帯に番号が残っているはずだ」。やっぱり携帯に番号があった。その時の安堵感は言い知れない。「嬉しさ。安心。よかったな」。夕方になって電話をかける。名前も知らない、住所も知らない、暗中模索だよ。何とかお名前を聞き出した。ヒア汗ものだった。
★女性は言った。「『トマさんのことば』のお礼に送りました」「ブログは読んでいますか?」「読んでおりません。お友達が頼んで、送って頂いたのです」「小崎に会ったことは、ありますか」。ありません、の返事だった。
★昨日、その女性から、短い手紙が届いた。幸い、住所も分かった。お礼のお手紙を書こうと思う。今朝になって、何と、紙と紙に挟まった、思いがけない場所から宛名紙が出てきた。今日は思った。「失った物があるだろう。もう1度探してみよう。人生に大事な物もあるはずだ」。いま、自分で、苦笑している。

2017年8月7日月曜日

誕生会で踊った女子職員さん。優しさ、奉仕、愛

お世話になっています。ホームの女子職員さんたちです。明るく、元気で、奉仕のお勤めを果たして居られます。ホームには動けない人が多いので、介護も大変です。人と人の関係ですから、お互いに理解しながら、生活するしかありません。与えられたイノチは、大切なその人の人生です。
★人は1人では生きられない。助けられて、介護を受けて、こちらからは感謝と、ほほ笑みを返して、喜びのなかに生きなければでしょう。人は、どんな状態になっても、「生きる意味」はあります。「あなたが居なくなれば悲しむ人がいるよ」。そういう気持ちで暮らしています。
★午後から担当の職員さんの運転で買い物に出かけました。登明日記のファイルも3年目に入ると、かさばってきます。白い棚を買いました。フアイルも注文して、揃えたいと思います。日記を書くのは、自分のためでもある。ボケないように、文章を書いて、まとめて、時には「オチ」を入れて、そんな書き方が出来ると自分でも楽しいです。

2017年8月6日日曜日

「歩行車」を初めて、手に持つ。記念すべき日か、な

「歩行車・シンフォニー」という機械を買いました。2万6千円かかりました。使用してみると、歩行にとても便利です。軽く歩ける。早く歩ける。ヒザにかかるダメージが少ないです。今日から使い始めました。早めの対策です。これからは器具のお世話になります。「あれ?もう、それ使うの?」。皆さんは興味深々。いろんな感想がありました。
★「ニンゲンって、体力は、登って行くか、平行で行くか、落ち目になるか、三法しか、ないんだよ」。特に歳をとれば、平行であるのが幸いです。かわらないことだよ。
★遠い、遠い、どこからの世界から、1つのイノチが飛んで来て、この地球にこびりついて、1つのイノチが生まれた。このイノチは成長して、殆ど、「修道服」を着た、長い人生を送った。
★イノチの花は咲いたが、どういうわけか、表は良くても、裏は汚れや、弱さがある。イノチを生きるとは、その戦いでもあった。やがて歳をとり、イノチはやがて枯れて、木の葉のように軽くなって、小さくなって、小粒になって、最後は、イノチに戻って、また遠い、遠い、どこかへと飛んで行く、それが誰もが辿るジンセイではないか、今朝は教会で、ミサの前に、そんなことを、ぼんやりと考えた。
★ミサが終わって、歩行車を取って、通りがかりの職員さんに写してもらったのが、この写真です。歩行車があると、スイ、スイと、歩けます。まだ人生は開けるぞ。希望を持って、夢持って、前向きに歩行車で歩いて行こう。
★聖マキシミリアン・マリア・コルベの祭日は、8月14日です。湯江教会では、祭日の前の9日間の祈りが始まりました。聖コルベを慕う皆さんは、短い祈りを決めて、祭日までお祈りをつづけることをお勧めします。
★今日は、歩行の記念日になりました。

2017年8月5日土曜日

8月生まれの誕生会。いつまでのお元気で長生きして

月の初めの土曜日、昼食は「誕生会」です。8月に生まれた人を一緒にお祝いします。今月は1つの特徴があった。それは大曾昭神父さまの誕生祝い、90歳になった。一方、入江敏行さんの誕生お祝い、彼は92歳になった。大曾神父さま、おめでとう。入江さん、おめでとう。お2人とも、いつまでもお元気で居てください。大曾神父さまは、愛知県の春日井教会から入居されて、本当に、職員さんから大切に看護され、介護され、皆さんと一緒に食事をしますが、出された料理は全部食べて、いつまでも若さを保っています。一方、入江さんは、ホームの重鎮です。熱心に亡き奥さんのため、家族のため、五島の集落の人々のため、ミサに、ロザリオにと、祈っています。まだ、まだ元気はある。だが最近は入浴しても、トマの背中を洗ってくれなくなった。寂しいよ。入り江さんの力強いパワーをもらいたい。
★さて、誕生会の楽しみは、職員さんたちの出し物です。今日はちょっと変わっていた。ハッピを着た女子職員さん、7、8人が、いきなり音楽に合わせて踊りだした。「何の踊りですか?」「ドラえもん音頭です」。手並みも、スイ、スイ、踊りまくりました。

2017年8月4日金曜日

「トマさんのことば」編集・若者に聖コルベ館で会う

久しぶりの再会でした。嬉しいです。新しい仕事のもくろみも、ありました。これもご縁でしょう。こんなことは、めったに起きない。生涯に1度しかない出会いです。
★朝からホームに、野々村哲さんがに迎えにきた。長崎・聖母の騎士、聖コルベ館へ向かう。塩沢美樹さんが、上五島から1番便の高速船で長崎港に着いた、その足で彼女は、昼食の買い物をして、聖コルベ館で落ち合った。
★思えば、たった「十五秒の出会い」で、奇跡的にも『トマさんのことば』が出版されて、反響は好評であった。本当に、出して良かったねと、3人で喜んだ。先ず写真を撮ろう、それが定番の場所での写真です。
★2人に来てもらった理由は、1つの仕事を考えての意味があった。1965年頃から、個人では持てないカメラを、騎士誌の編集を理由に写真を撮り始めた。「カトリック・グラフ」の編集写真もある。聖コルベ館の資料室の棚に、全巻、56冊の写真フィルム・ファイルがある。写真に興味がある野々宮哲さんが、小崎さんが撮影した写真を収集したいと意見を出した。
★「フイルム・スキャナー」を買いました。ネガ・フイルムをスキャンして、デジタル・データーに変換します。資料室の写真保存にとっても幸いなことです。パソコンに保存も出来るし、プリンターで印刷も可能になる。ありがたいことです。
★56冊の写真をスキャナして、その中から、小崎さんの写真をまとめたいと、野々村哲さんは言う。今日は、その作業に取り掛かりました。
★お昼は、楽しく応接室で、準備した豪華な昼食をいただいた。作業は3時までつづけた。ホームへの帰りは、修道院の松下修道士の運転の車でお世話になる。ホームに着いたのは午後4時15分でした。
★野々村哲さん、塩沢美樹さんのお陰で、違った雰囲気で、楽しい一日を過ごしました。作業は、どうなるか、見守っていきましょう。

2017年8月3日木曜日

笑顔が2つ。困難が来ても、喜ぼう。「喜びなさい」

納涼祭のときに、ほほ笑み、喜び、笑いがあったから撮った写真です。デジカメを持って、沢山の人を見渡しながら、シスターを見つけて、寄って、撮りました。名前は知りません。納涼祭だから、ブログに載せてもいいでしょう。
★お互いに神さまにお捧げした身、最後まで奉献生活を尽くしましょうね。それ以外に何もありません。若くても、神さま。老いても神さま。道は1つです。疑いはありません。迷いもありません。日々、人のため、マリアさまの騎士として、勇敢に悪と戦いつづけましょう。言わなくても知っているのです。ただ、時々、怠けをすることが、あるだけです。そんな時は、ごめんなさい。そして、また進もう。
★他者に伝えるのは、喜びです。福音とは「喜びの訪れ」です。聖書にも書いてある。「喜びなさい」「喜べ」。本当のものを持っておれば、それが「喜び」になるのです。老いたる者は、もう言葉で宣教は出来ません。生きている姿で、乗り越えて行く背中で、見てほしいです。苦難があっても、何とか耐えてきたよ。落ち度があっても、何とか、また、もとの道に戻ってきたよ。人生って、それの繰り返しです。神さまは、お許しくださると思います。
★神さまは、生きのいい魚と、腐れかかった魚を選り分ける、と今朝のミサの聖書にあった。生きのいい魚になるのが、喜びなんです。シスター、写真を載せてごめんなさい。でも、結構、いい写真だよ。本当に喜んでいるしね。人と人に会うのが嬉しいんだね。

2017年8月2日水曜日

元気なのがイチバン。心も、カラダも、成長してね

納涼祭のときの少女たちの踊りでした。日々、お年寄りばかり見ている目には、時には明るくて、希望があって、元気で、マジメさもある一団に接すると、見ていて楽しいよ。自分も、そういう若返りの気持ちで、日々を過ごしたいと思う。
★今日は朝から、長崎のクリニックの診察予約の日でした。8時に高原修道士の運転で出発するので、朝食は隣の修道院で食べました。クリニックまでは、朝の時間帯で、約1時間ほどかかる。診察はどうも気が重いです。最近は、歩けなくなったのが心配です。からだが、真っ直ぐに進まない。ふらつく時もある。薬の加減ではないかと思っている。ホームに帰ったのは、昼食前でした。途中で、外食も出きるが、ホームの食事が、いい。「ハヤシ・ライス」でした。栄養士さんがささやいた。「ハヤシ・ライス、好きでしょう」「好きです」
★今日は、フランシスコ修道会のお祝い日でした。イタリア・アシジにある「天使の聖マリア大聖堂・サンタ・マリア・デリ・アンゼェリ大聖堂・ポルチゥンクラ教会」の祝日でした。絵の右側にある小さな教会が、聖フランシスコが建てた小聖堂で、この小聖堂を大きな大聖堂が覆って守っているのです。参詣した思い出のある大聖堂です。