2017年8月23日水曜日

病気にも耐えて、喜んで、受け入れるのが信仰者です

きのう、ソーメン流し店の近くで、山から落ちる一筋の清流があった。真っ直ぐに落ちる、美しい一本の流れ、冷たい水でした。
★日頃から信心の厚い女性が、突然に倒れて、入院した。後には心配が残った。ショックも受ける。
★なぜ、この信心深い女性に、突然に苦しみが与えられたのか。こんなに祈ってきたのに、神は助け、愛し、導いてくれないのか。一抹の疑問が湧き起こった。信仰とは、なんだろう?
★人は、信じなくても、信仰していても、同じ人間として、身体に様々な病気を経験する。女性にしても、まさか、突然、倒れるとは思ってもみなかったであろう。世の中、何が起こるか分からない。だから「変わりなく、一日を過ごせば、それが幸せ」と思っている。
★ホームに居て、老いるのは当然だが、急に病気になるほどツライ出来事はない。神を信じても、信じなくても、同じように病気や苦難が起こるとすれば、どこに信仰する意義があるのか。疑いさえ起こった。
★病気になったら、如何にすべきか。歳と共に病気は多くなる。病気になれば、先ず万全の治療を尽くして、その後は、ただ与えられた苦しみを受け入れて、乗り越えるしかない。そのとき祈りが助けになる。私たちには、神の御意思は分からない。なぜ病気が与えられたのか。病気になったとき、如何に生きるか。受け止めるか。それが問題だ。
★イエス御自身が苦しまれた。聖母マリアも多くの苦しみに耐えられた。聖人方も沢山苦しんでいる。それを思いながら、与えられた、わが身の痛さに耐え、苦難を捧げていく道こそが信仰であろう。ツライのは確かだ。神の御思召ならば、この痛みと苦しさを癒してくださいと、御助けを願うしかない。信仰者の生きる道は、現実をみての悲観ではなく、希望でありたい。祈りの中に、イエス、聖母マリアの助けと慰めが必ず与えられる。
★女性の一日も早い回復を、ミサや、ロザリオのときに祈っている。
★苦しみによって、自分を変える。自分の我がままや、勝手さ、利己主義、無慈悲から、祈りと忍耐によって自分を聖なる者に少しでも変えて、神の導きを願う。それが信仰者に望まれる厳しい道かも知れない。
★苦しみに耐えてこそ、神の御心にふさわしい人間になる。

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