2017年8月9日水曜日

苦労した母だったが、もっと甘えたかった。悲しい

長崎・原爆の日。母の命日でもある。爆心地から500mの岡町にあった、家も、母も、熱風で焼かれ、爆風で吹き飛ばされて、母ワサの遺体も見つけなかった。どこで死んだのか、あまりにも悲しい。45歳だった。「母ちゃん、行って、くるケン、な」。朝の別れが、最後となった。
★自分の人生は、家族的には幸せでなかった。7歳で、父・松吉は病死。17歳で、母ワサが原爆死した。兄弟姉妹はいない。この日、自分は全くの孤児となった。
★それにしても、よくぞ原爆を生き抜いたと思う。原爆を聞いて、県内外の町から家族や親戚を探しに来て、2日3日と探して、自分の町に帰った人がふしぎに次々に死んだ。「放射能」の影響だった。沢山の人が亡くなっている。それを思うと、自分は被爆の丘で18日間も生活し、雨風にも打たれ、飲食し、被爆者を介抱、死体を焼いたのに、自分には「放射能」の影響は僅かで生き残った。
★なぜ自分は生きたのか。海軍・魚雷爆弾・製作工場で働く工員だった。工場は24時間の稼動で、昼勤と、夜勤があった。1週間の交代で、原爆の週は、昼間の勤務になっていた。その事が、生と死を分けた。もし夜の勤務に当たっていたら、家で眠っていたであろう。母と運命を共にした訳だ。幸い、今も生きている。生きる不思議さを感じている。
★今朝、湯江教会のミサで、「トマ田川松吉。クララ田川ワサ。原爆死した親戚のため」、追悼のミサを捧げていただいた。父の思い出はない。母には、甘えて育った。母を思うとき、精肉店を切り盛りする姿、米や野菜を背負う姿、玄米を一升瓶に入れて、棒で突く姿、カリエス・結核で苦しむ子供を癒そうと努力する姿が次々に連想される。
★「お母さんと、楽しく、暮らしかったよ」「原爆が憎い。戦争が恨めしい」「なぜ早く戦争を止めなかったのか」「核実験を繰り返す国がある。恐ろしい」。原爆の丘で書いたメモの日記。その頃から、書くクセがあった。原爆死した、すべての人の冥福を祈る日となった。

4 件のコメント:

  1. サワ様が永遠の安息を得られますように。

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  2. 心を合わせて祈ります。

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  3. お祈りしました。いつも主がともに。

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  4. 御無礼をお許し下さい
    ワサ様の安息を心からお祈り致します。

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