2017年8月27日日曜日

山の施設を巡る。思い出がよみがえる。病に苦しむ


福岡の大学院生の彼が、車で2度目、ホームへ来た。いま、修士論文の執筆中。テーマは、「終戦直後の戦災孤児、原爆孤児の救済状況から見えてくるもの」。折角、来たので、私も車に乗せてもらって、戦後、建設した「少年の町」の構想で始めた、山の施設、「聖母の騎士園」を久しぶりに訪ねた。現地を廻りながら、輪郭の説明をした。
★左の写真は、騎士園の入口で、マリア像が迎えてくれる。右の写真は、教会と、修道院。私にとって、この修道院、施設、学校は、懐かしい。私は、この修道院に、11年間と、6年間の、2回にわたって住んで、療養をしたり、子どもたちとも触れ合った。当時は食料不足で、子どもたちを養うのは大変な苦労があった。教会は、1953年、昭和28年に建てられた。戦争が終わって、8年後のことである。140人の男の子との格闘は、今になってみれば、おかしくもあり、愉快である。
★自分のことを言えば、原爆があって、聖母の騎士に入って、高校を卒業する。修道院へ移り、着衣式を行ない、修練を始めた。しかし残念ながら、途中で、右の腎臓結核にかかり、町の小さな医院で、腎臓の摘出手術をする。生死の境を漂った。経過は良くなく、修練は中止され、修道院の一角で療養を余儀なくされた。
★その頃の病苦は、かなり深刻だった。当時の日記がある。「病みつづける、わが若き日、ある時は病の中にもがき、また、ある時は悲しみと不安の中に沈む。寝られぬ夜もあり、憂いの夜もあり。人びとより見捨てられたと思う夜もあり。コルベ神父の伝記を読む。病室は修道院の宝庫、と神父は言った。そして実行した。だが、ここの病室は、倉庫なのか」。かまってもらえず、ひとり悶々とした当時の悩みが、ふつふつと感じられる。
★2ヵ月後、山の修道院へ変わったのが救いとなった。ミロハナ神父のお陰である。忘れもしない、昭和28年7月の、到着は夜になり雲仙に満月が輝いていた。山に来てもツライ日がつづいた。背中の穴から、絶えず膿が出た。更に、左の腎臓を結核で病んで、高熱と血尿で死ぬ一歩手前をさまよっていた。その時、祈ったのが、この教会だった。
★人の運命は分からぬものだ。幸いに生かされて、病は癒えて、痩せた体でも、元気を取り戻した。11年間の、この修道院と施設の思い出は、人生の貴重な宝庫となった。
★そして、今に到っている。まだ生かされている。山の修道院で癒されたのは、奇跡だったのかも知れない。最近、そう思う。ありがたい、感謝の日々を過ごしている。

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