2013年12月31日火曜日

司祭は言った。「日記を、ヤメなさい」。夢の中で、ショック。

とうとう年末、大晦日になりました。日記・ブログを読んで、見守ってくださった皆さん、応援をありがとう。今年は無事に過ごすことが出来ました。神に感謝し、皆さんに感謝します。今夜は、11時30分から聖堂で、感謝のロザリオがあります。つづいて、12時から、新年のミサが捧げられます。ミサで、祈ります。どうぞ、今年も良い年でありますように。★はっきり、その姿を覚えている。顔も、覚えている。それは司祭だった。まぎれもない、あの人だ。なぜ、その人が意見したのか、分からん。誰だったかは、口がさけても、いわないよ。姿は、はっきり、いまも焼きついて、この人だったよ、と言える。おそらく忘れないだろう。その司祭が、言った。「日記を書くのを、ヤメなさい」。それを聞いて、「ギョ、ショックだ、え?なんで」と思わず叫んだ。「日記は、人に見せるために書いているのでない。自分の記録です。病気になった。ガンだと言われた。さあ、ニンゲンって、どのように死に行くのか、そんな気持ちがあって、整理しよう、記録しよう。それで書き始めたのです。もう6年目を迎えます。それなのに、ヤメナサイ、とは。酷ですよ。タマランよ」。イヤだ、ダメだと叫びつつ、目がさめた。「ああ、夢だったのか」。目覚まし時計を見ると、11時30分であった。(30日、晦日)。初めてだよ、こんな夢を見たのは。6年、書いて、自分の記録になっています。それは、メイワクを、かけたことも、あったかも知れん。修道士らしからぬ記事、写真と思われたかも、知れん。でも、本心を書きたいのです。ただ、それだけです。リッパな、飾りモンクは似合わない。自分に正直になりたい。これからも、書き続けます。夢の司祭よ、許し給え。

2013年12月30日月曜日

映画・現代と戦争をつなぐ愛と命の物語。感動し涙を流す。

映画を見に行く。感動のナミダを流す。どこの部分で泣いたのか。やはり最後の部分でした。戦争のところは、あまり感動しない。実際の状況・雰囲気を知っているから、凄みが、ないのです。今の若者の顔が違うんですね。飛行機乗り達が生き残って、空中戦を語る。ある老人はガンに侵され、余命3ヶ月と言われる。それでも、それ以上に生きている。なぜ自分が生きているのか、分からない。そこへ、飛行機乗りの「爺ちゃん」のことを教えてくださいと、現代の若者が訪ねて来る。老人は語るんですね。そして言う。「ああ、自分が生かされている理由が、いま分かった。この話を教え、伝えるためだった」と。生き残った者も、ツライ。この作品は、テレビでは絶対、描けない物語だった。映画で無いと、見れない。戦争は悲しい。今の時代も、いわば、戦争です。「後の時代の人たちが、戦った自分たちの生き方を、どう思ってくれるか」「10年経てば、もう戦争を知っている人たちは居なくなる。戦争は受け継いで、行って欲しい」。物語の後半は、上官が、若者の飛行機兵と出撃する。上官は、古い飛行機に乗るように、交代し、戦死する。変わってもらった若者は生き延びて、戦後を生きる。戦後、生き残った兵士は、上官の家族、残された妻や子の家を訪ねて、援助を申し出る。妻は、「夫は必ず帰ってくると言った。死んでも帰ると約束した」。ああ、いま、夫が戻ってきたのですねと、最後には若者を受け入れる。このヘンから涙が出たのだった。戦争って、悲しいよね。死んでも、酷。生きても、酷。あんな時代も、あったんだな。感想は、何を書いてよいのか、わからぬ課題の多い映画だった。無念なり。★夕食のとき、10人がいた。「今日は映画を見てきた」と打ち明けた。ゼロ戦闘機や、徴兵制度のこと、戦争へ行った先輩の司祭のことで、食卓の話は盛り上がった。

2013年12月29日日曜日

心は大阪にあるよ。うれしいなあ。出会いは楽しいよ。

台湾人の絵本作家が、今月の11日に、聖コルベ館を訪ねた。日記にも載せた。その女性、許さんから手紙がきた。台湾で発行した絵本も入っていた。1冊は、アシジの聖フランシスコと狼の物語で、「古比欧的大野狼」と題に書いてあった。古比欧とは、グッピオと読むそうだ。確かに、読めるな。大野狼は、おおかみ。台湾の読み方は、おもしろいです。「なにか、絵を添える記事があったら、頼もうかな」の魂胆があったのです。「今回の長崎の旅で、トマさんにお会いできて、本当にうれしいでした。26聖人の映画で思い切って泣けたこと、コルベ神父さまの部屋で静かに祈ったこと、全部、貴重なお恵みでした。トマさんの色紙を3枚頂きましたので、1枚は自分に、2枚は芦屋教会の2人の親友に差し上げました。親友といっても、86歳と91歳ですよ。そしたら91歳の岩崎さんがビックリして、「この修道士さんの本を読んだことがありますよ」って。2人とも大変よろこんで宝物にするって言いました。私の場合は、うちの赤子イエスさまのご像の横に置いています。トマさんのこころ、コルベ神父さまのこころ、今、大阪と芦屋にありますよ」。知らない場所で、本を愛読する人がいる、うれしいね。許さん、ありがとう。出会いは楽しい。また聖コルベ館へいらっしゃい。コルベ神父さんの絵、じょうずだよ。


2013年12月28日土曜日

ライモンド、年の暮れだよ。足を骨折した。気をつけるんだ。

ライモンド君を、抱きかかえて、ハイ、ポーズ。ライモンドは、抱かれるのを、イヤがるんだよね。手に乗せるのに、苦労したよ。おとなしく、しなさい。ライモンドは、左側の前足を、骨折したのか、折れ曲がっている。痛いのかなあ。それで、イヤがるのか。ほかのネコと争いが、あったらしい。ライモンドは弱いからね。エサも、ほかのネコに、しょっちゅう取られている。クリスマスだからね、サシミのごちそうが有ったよ。その、おこぼれを、あげるよ。ライモンドは、満足して食べていたよ。いつもは、朝に、エサを貰いに来ていたが、最近は、朝は姿を見せない。寒いからか、どこかに隠れているのかなあ。★この日記を書いていると、ピン、ポン。見学者が入ってきた。男女4人連れ。高速を、車で、1時間あまりの県外・教会から巡礼に来ました。皆さん、明るいカオをしていた。こちらまで楽しくなるよ。長崎ミカンを1ツづつ食べさせた。喜んで、ルルドへ登って行った。

2013年12月27日金曜日

生き延びて、口笛も出るさ。寒い風には負けないぞ。ピープー。

つい、つい、出た、口笛が。ピー、プー、気分が、いいんだな。寒ムーィ日なのに、なんで、クチブエなんか、出るの。北風が、日本列島に吹き荒れている。今朝は、泌尿器科の予約の診察日だった。朝食も、ゆっくり出来ない。早々に片付けて、白浜さんの軽で、聖コルベ館を出た。歳の瀬も近づいているので、車が込んでいる。雨も降ってくる。病院に着いた。今年は、ステント入れ替えの1泊入院が、数回だけで、まあ無事だった。昨年がひどかった。尿が全く出ないで、四苦八苦。今年は、ウソのように調子は良い。「変わり、ありませんか」とお医者さん。「ええ、まあ、大丈夫でした」。尿の細胞診も、1だった。病も治まっているらしい。ガンは良くなったが、50年前に病んだ腎臓結核の後遺症、石灰化が剥げて、それが今になって、苦しむとは、全く予想もしなかった。ステントを入れて、やっと生き延びている。「1ヵ月後の予約の診察のとき、ステント入れ替えの日を決めましょう」。診察は、1時間弱で終わった。ありがたい。タクシーで移動して、もう1つのクリニックの診察を受けた。「心電図を撮りましょう」。タクシーで移動して、耳鼻科へ。患者がイッパイなので、「また来ます」と退散。昼食前に、聖コルベ館へ戻った。東京から、「長崎は初めて」の女性が1人資料室に居た。大きな「長崎ミカン」を2個差し上げる。「長崎のコルベ神父」「身代わりの愛」を購入して、ルルドへ登って行った。昼食のあと、聖体訪問の後で、口笛がいつの間にか、とんがりクチビルから、出ていた。「寒い風に、負けないぞ」

2013年12月26日木曜日

すき焼きを食べて、心も和んだ。話して、笑って、楽しい夜。

クリスマスの夜の食事は、すき焼きでした。写真に写っている10人に、ほかに10人を足して、20数人で賑やかでした。長崎地区で働いているフランシスコ修道者です。忘年会の意味もありますね。みんな揃って、楽しいでした。最初に、ビールのカンや、ワインのセンを抜いたとき、瞬間、思った。(いま、ここに居る皆んなの中で、いちばん歳上は、ボクだから、乾杯の音頭は、「トマ、頼む」と言われるかも、と。やっぱり、ボクに指名があって、カンパイさせられた。直感は、まともに当たった。信念は、創立者・コルベ神父さまの心を大切にしたい。聖母の騎士を守りたい。祈り、働きのお勤めを、果たしたい。そんな気持ちがあるのは、確かです。「今年は、なんとか、皆さんの援助のおかげで、過ごしてきました」。これはホンネです。「トマは、自分の健康に気をつけて、不具合になったら、すぐ医者に行く。健康管理がよい」。との声もあった。自分のことばかり言っても何だから、「また来年に向けて、皆さんと一緒に、励みましょう」。それが気持ちです。目的は一緒だから、笑って、話して、盛り上がりました。クリスマスが終わると、今度は、年末、年始に向けて走り出す。「誰とでも、仲良くしょう」


2013年12月25日水曜日

我が主の御降誕。馬小屋で祈った。歌った。グロリア、幸せ。

我が主の御降誕、クリスマス、おめでとう。夜の8時。聖堂が真っ暗になった。集まった人びとは、手に灯をもって、歌いながら、行列を組んで歩き出した。「静ずけき、真夜中、貧し、うまや」「神のひとり子は、み母の胸に」。行列はつづく。聖堂の中央に設けられた「馬小屋」の前に進み、持っている灯を、幼子の前に、並べて置いた。心をこめたトモシビです。主任司祭の柳本神父さんの力強い声がひびく。「主は、皆さんと、共に」。大勢の人が集まって、歌い、ミサで祈った。願いは「家族は幸せに」「自分は清らかに」「素直に神さまを信じるものに」「誘惑や、悪に負けない強い心を持ちたい」。誰もが、求める祈りです。お祝いなのに、教会へ来れない人、病気の人、自由を奪われている人、戦火のなかにある人、神さま、見捨てないでください、と叫びたい。祈れるだけ、幸せです。歩けるだけ、喜びです。「ああ、今年も、クリスマスを迎えることが出来た」。ミサが終わる頃は、実感として、そう思いました。神さま、ありがとう。


2013年12月24日火曜日

感動しました。生半可じゃ、ダメですよ。真剣の祈りです。

昨日は、NHK・テレビを見て、感動しました。「大震災を受けた日本の人びとよ」と、バチカンから招ねかれて、日本人たちが、歌い手と、奏者、400人が、あの聖ペトロ大聖堂で、ミサ曲を歌ったのです。教会と関係のない人たちでした。準備するに当たって、女性の指揮者は、日本らしく取り組みたい。そこで、400年前に日本で出版された「ラテン語の歌集」を調べた。東京の上智大学キリシタン文庫に保存されていた。それを再現したい。そのためにはタマシイを入れる。長崎・生月島を訪ねて、島に伝わる「隠れキリシタンのオラショ」を聞き取り調査した。その様子がテレビに映っている。その爺さまの言葉にも感激した。「生半可でやったら、だめですよ。教えは厳しかった。代々、師匠さんを通じて習った。期間は46日間。そのなかで覚えないと、また来年です」。こうして口伝のみで伝えたオラショの祈り。少々、なまりもあるが、主軸はラテン語の祈りになっている。「生半可でやったら、だめ」。これだと思った。真剣にやりなさい。それで思い出しました。小崎修道士も生月でオラショを特別に見せてもらったことがあった。写真が、これです。このときは祈りは聞けなかった。1973年のことです。当時は、まだ公表しなかった。納戸神(なん・と・がみ)を写真に撮った。聖ペトロ大聖堂で、ミサ司式の枢機卿の言葉、「混乱が去り、秩序と調和が訪れるよう共に祈りましょう」。女性の指揮者、音を出す前に、皆さんに「さあ、歌うーでなく、祈りましょう」。こうしてミサが始まった。「ら・お・だ・て」(ラウダテ)から、「ぐるり・よーざ」(グロリオザ)が歌われた。感動したよ。久しぶりに心が燃えた。そして、この話題を全く知らなかった自分を、なんて、無知なんだろうと、責めた。


2013年12月23日月曜日

病気に耐える女子たち。50年の時を経て、苦しみにヒカリ。

大阪から、「小崎サン」と名前を告げて、母と、娘さんが訪ねて来た。お母さんの名前が、貞子さん。娘は、小百合さん。「同じ教会のお友だちで、みどりさん。いつぞや、ルルド参詣に来て、小崎サンにも会ったそうです。みどりさんに勧められて来ました」「ウーン?、いつだったかなあ」。考えて思い当たった。「フランスのルルドへ行きなさい、と勧めて、実際に息子さんとフランスへ行った女性がいた。あの人、病気でしたよ」「その人です。お友だちです」。そして、このお母さんも、病気と言った。ガンを病んでいる。手術もしました。最近、また影が写っているといわれ、心配しています。聖母の騎士のルルドの水を飲んでいます。この間、病院へ行くと、影が消えているといわれました。感謝の巡礼に、来ました。2泊3日の旅行だそうです。長崎では、真っ先に、聖母の騎士へ来ました。そして貞子さんが修道士に見せたのが、「病床で神との出会い」の記事であった。「え?これ、むかしの聖母の騎士だよ。知っているよ、この記事」。確かに覚えている。編集をしていた。昭和41年、1966年、2月号です。この記事、覚えている。病者の特集だった。「どうして、この記事、持って来たんですか」「私は看護婦をしていましたが、看護婦になった頃、勤めていた病院に入院していたのが、この方です。信仰の熱心な方でした。結核で、苦しんでいたのに、明るく振舞っていた。決して忘れない方です」。原稿は、4ぺージ。記事の女性は、「芸大、声楽科を卒業した。病気で、20年あまり耐えられて、49歳で亡くなられた」。原稿の最後に、センを引っ張った箇所があった。記事を持ってきた貞子さんが引いた線だった。そこを読むと、次の文があった。「私たちの総ての苦しみのうち、愚かな、全く無意味に思える苦しみや、また罪すらも、最後に、キリストさまにより頼むとき、総ては生きる。........つまり、御ひとり子を賜うほどに私たち人間を愛し給う神は、私たちに不必要な苦しみは決してお与えにならないということを、心の奥の深いところで、しみじみと感じております」。この記事を書いた「佐川みち子さん」。あなたの原稿は、記事は、50年あまりの時を経て、よみがえり、私たちの心に留まっている。「すばらしい、信仰、これも恵み」

2013年12月22日日曜日

日曜日。間もなく我が主の御降誕祭。静かな心、神やどる。

日曜日。ミサの後で、早くも、教会ホールで、クリスマス会が行なわれた。60人ほどが楽しいひと時を過ごした。子供たちの聖歌や、クイズがあった。「トマさん、出てください」「ハイ」と言いつつも、腰は重い。「問題を出しますから、わかった人は、いち早く、ピン、ポンを押してください」。じゃあ、言いますよ。「イエスさまの職業は、サカナ屋さんでした」「なーんだ、やさしいよ」「ピン、ポン」「ハイ、大工さん」「おめでとう」。小さなオミヤゲもらいました。長生きすると、いいことも、あるもんだね。トンじゅる、おにぎり、ケーキなど、食事があって、その後で、ひとり、ひとりの紹介。「聖コルベ館のトマです。3月1日が誕生日で、もう直ぐ、八十っと、伸ばしていると、みんなは笑った。八十六歳です。聖コルベ館の見学者は多いです。最近は韓国から沢山の巡礼者が来ます。出会いを楽しんでいます。お恵みがあります」。最後に、ビンゴで遊びました。カードを手にもって、呼ばれた数字を折っていく。「ハイ、整いました」。また、オミヤゲもらっちゃった。★クリスマスって、何の日だか、わかる?忘れては、いかんよ。神さまが赤ちゃんになって、この世にお生まれになった救いの日ですよ。ドンちゃん、騒ぐのが、クリスマスではない。ケーキや、サンタは、おまけの話だよ。「静ずーけき、この夜」。静かな心に、神は生まれる。神さまが、心の中に居つづけると、チカラ強いジンセイが送れます。そーだ、思い出すなあ、オレたち、子どもの頃は、「吾が主の、御降誕祭と、言ったんだよ」。夜中の12時にミサがあって、夜道を教会へ急いだ。帰りは、眠たくなってね。でも、楽しかったなあ。真っ暗闇でね。電灯の光も、うつろだった。あの頃が本当になつかしい。

2013年12月21日土曜日

長崎・善長谷の教会と、大きな木と、釣り下がった鐘の会話。

記録って、すばらしいですね。上のモノクロの写真は、昭和43年、1098年、6月に写した「長崎市・善長谷・教会」の写真です。大きな木の枝に、掛かっている小さな鐘。わかりますか。注意して見て下さい。この鐘、教会、大きな木が、アタマに刻印されている。それで、ですよ。先日、松下修道士さんが、善長谷・教会から長崎の海を見た夕暮れ、日没のスナップを写真に撮った。12月15日の日記に載せています。それで、小崎が言ったのです。今度は、木と教会と鐘の写真を撮ってください。真ん中の写真は、いま松下修道士さんが撮った写真です。比べて見て下さい。同じ場面ですよ。木が、なんと、大きくなっていることか。びっくりだよ。鐘が釣り下がっているのは、変わらない。鐘は注意して見ないと、分かりにくい。40数年、経過しているんですよ。下の写真は、その拡大で、木に下がった鐘は安泰でした。★これで、1つの記事が書けそうだ。「巨木と、天使の鐘の、会話」です。木と鐘は、何を見てきたか。何を語ってきたか。いろいろ話題は出てくると思います。夢は膨らみますね。長崎の片隅で、平和に暮らす人びと。祈ってきた人びと。ジンセイにとって必要なもの、事は何ですか。
 


2013年12月20日金曜日

クリスマス・カードが届く。みんなのために、お生まれになる。

東京の、若い夫妻から、クリスマス・カードと、写真が送られてきた。夏に、東京へ出たとき、赤羽教会で、出会った写真です。ご主人のコメント「夏には思いがけず、お会いでき、元気そうなお姿と、握手する手の力強さが大変嬉しく、とても印象に残っています。ブログを拝見し、病いを抱えつつも、精力的に活躍されているご様子に、勇気をもらいます。夫婦で、1月12、13日と長崎旅行の予定で、聖コルベ館のも立ち寄りたく、またお会いできると、よいと思います」。奥さんのコメント「夏に赤羽教会でお会いすることができ、うれしかったです。小崎サンの変わらず、あたたかな人柄の前に、懐かしさと、安心感を感じました」。東京のお2人サン、待っていますよ。★登明日記に、時々コメントを寄せる「茨城の空」(女性)さんから、クリスマス・カードが届いた。「いつも、ブログ日記のお導きに与り、おそれいります。騎士誌、12月号の記事と、ブログ12月4日のブログは何よりのクリスマス・プレゼントでした」。4日の記事は何だろうと、あらためて見ると、聖ザビエルの祝日で、「親や、兄弟はカトリックでないから悪いのではなく、ただ自分はキリストの心を受けて、生きたいと願っているのです」と書かれていた。みんな同じなんです。あなたにも、わたしにも、お父さんにも、お姉さんにも、クリスマスは来る、神の御子は、みんなのためにお生まれになる。全世界の人に、おめでとう。


2013年12月19日木曜日

オバマの湯、3日目。長崎へ。これから寒さも厳しくなる。

寒い冬がつづいている。道路の片隅に、紅葉が集まってた。赤く染まって、散る葉っぱたち。寂しい気持ちになる。午前中に、白浜さんが軽で迎えにきた。気分爽快。長崎へ戻ってきた。★本当の聖性とは、神の国の喜びを感じることではなく、キリストのために苦しむこと、自分に打ち勝つことに、ある。(十字架の聖ヨハネ・16世紀の聖人)と書いていた。修道士だからといって、リッパな人間になった分けではない。弱さもあれば、欠点もある。それらを押さえて、戦う気持ちは、ゆるめない。常に打ち勝つことである。負けたときには、反省し、立ち直るように努める。その気持ちを忘れず、また長崎での生活に戻っていく。★午後からは、介護のヘルパーさん(男性)がきて、入浴の介添えを受けた。週に、2回。お世話になります。ありがたいことです。感謝します。

2013年12月18日水曜日

オバマの湯、2日目。湯に浸かって、カラダぬくもる。

オバマの湯は、カラダが温まります。高温の湯で、105度のお湯が湧いている。この度は、天候が、雨模様なので、部屋に閉じこもって、2度、露天温泉に入りました。お湯に入ると、心も安らぎます。★最近は、カラダの調子は良好のようです。ゲンキを出さねば、と思います。今年は、もう直ぐ終わりになるが、良い年だった。韓国へも、2度、行ったし、東京へも出かけた。体力も、気分も、快復してきた。時間が取れず、しばらくオバマの湯は、遠のいていた。今年は、これで締めくくりたい。お客さんが居ない。ゆっくり、風呂に入った。★ひとが、生きる上で、必要なこと、それは衣食住に、ある程度の安心感があることでしょう。自分もお役に立っている。その上で、愛されていることの実感があれば、最高によい。人の役にたつ喜び。自分も何かの面で、お役にたっている。生きる意味もある。それが喜びであり、幸いです。★湯に浸かっていると、何もかも、忘れます。次の日も、女性1人旅だけ、寂しいモンでした。

2013年12月17日火曜日

島原半島・オバマ温泉へ。1日目。カラダが、ほどける気持ち。

島原半島のオバマ温泉へ出かけます。2泊3日の予定です。今年、最後のオバマでしょう。★昨日は、セルギウス修道士の命日でした。埼玉の女性から、「セルギウスさま」と書いたお花が贈られてきました。感謝し、聖コルベの祭壇のマリアさまのご像の前に、飾りました。昨日の写真、セルギウスさんが立っている場所です。セルギウスさん、喜んでいるでしょう。セルギウスさんの思い出をお持ちの方、生きるチカラ、助けとして、大切に残してください。★雨が降っているが、島原へ出かけます。運転は、白浜さん。軽で、行きます。1時間かかる。★途中で、老人ホームへ寄り、先輩の修道士さんたちを見舞いました。ポーランド人ローマン修道士さん、99歳。フランシスコ中村修道士さん、92歳。「トマさんも、老人ホームへ入らんね」「おすすめ、ありがとう。もう少し後で、お願いします」。オバマには、湯けむりが立ち込めていました。温泉らしい場所です。黄色い建物が、富士屋さんです。客は、1人だけでした。その夜は、ゆっくり休みました。カラダのゼンマイが、ほどけていく感じです。夜中に、大量の尿が出て、カラダが、すっきりとなった。部屋は暖かい。地面、そのものが暖かいのです。オバマへ来ると、ゲンキが出ます。夕食には、牛肉のテンプラも出ました。ありがたいと感謝しました。

2013年12月16日月曜日

セルギウス修道士さんの命日。3年忌。牛乳、足りない朝。

セルギウス・ぺシェク修道士さんの命日です。ミサのとき、祈りました。2010年に、103歳で亡くなった。3年忌です。早いものですね。セルギウスさんは、コルベ神父さまといっしょに生活をした。部屋も、となり同志でした。コルベ神父さまの介護や、部屋の掃除など、勤めました。また、コルベ神父さまの講話を記録しました。貴重なノートになって、残されている。聖コルベ館の資料展示に保存している。コルベ神父さまがポーランドへ帰国される時、「セルギウス兄弟、あとは頼みますよ」と特に指名されて、言いつけられた。その使命感を持って、語り部を勤めました。ルルドの係りを勤め、皆さんに対しては、非常に優しい人でした。修道士の仲間には、厳しい表情があった。ポーランドのお菓子を焼いたりした。晩年は病院に入院して、長生きしたので、よう眠っておられた。非常に、手の握力の強烈な人でした。働いたんですね。戦争中は、苦労をしました。戦争が終わると、東京や、西宮・仁川へ出かけて、活躍しました。セルギウスさんを慕う人は多いです。お祈りください。★セルギウスさんは、牛乳が好きだった。今朝、セルギウスさんのためお祈りして、朝食になった。「あれ、牛乳が、足りない?」。こんな事は初めてだった。「おかしいなあ」。牛乳を飲まない人もいた。(トマは思ったよ。口には言わない)。「セルギウスさんが飲んだかな」


2013年12月15日日曜日

長崎の港を見下ろす教会。日没の夕陽がすばらしい。

長崎市内に、「ぜん・ちょう・だに」(善長谷)という集落があって、ここからの夕陽がすばらしい。これが、その夕陽の写真です。写真が趣味の、松下修道士さんが写してくれました。なるほど、心が沈むような光景です。ぜん・ちょう、とは、キリシタン時代は、キリシタンでない宗教の人を、そう呼んでいました。だから、自分たちは、「キリシタンでは、ないよ」と看板を掲げながら、信仰を守る家族が、何・家族か寄せ合って、暮らす集落が出来ました。その集落に、今も、20数家族が、生活しています。山の中腹に、教会があり、境内から、この日没が見えるので有名です。教会の庭に、何の木か知りませんが、大きな木があって、鐘が架かっているのです。もう何10年も、そのままで、木だけが巨木になっている。ここには、りっぱなルルドもあります。1度、参詣をお勧めします。しかし難儀を覚悟で登ってください。★ライモンド君、人気があるね。写真を載せたら、3つのコメントが入った。また「小崎登明・画像」を検索したら、ライモンドの写真が、幾つも出てきて、びっくりしました。誰かが、撮った写真もあった。


2013年12月14日土曜日

ライモンドのつぶやき。寒い世の中だよ。いいカオしている。

今朝のランモンドだよ。修道士の皆さんは、5時に起きる。間もなく、朝の祈りが始まる。長いお祈りだよ。神さまに賛美をささげる。いのる人がいないと、世の中は、暗くなる。祈りが終わるのが、7時20分ころ、決まっている。ライモンドは、食堂の屋外の扉のところで、待っている。おなか、へっているよ。最近は、寒いので、朝は顔を出さない時もある。夕べの祈り、ロザリオと聖務のあとで、夕食のときに、扉のところで待っている。修道士たちは、お魚が好きだから、ライモンドも助かるよ。でも、食べないサカナがある。それは紅鮭(べに・さけ)です。最近は食べすぎかな。まる、まると、ふくらみが出来てきた。時には、サカナの残り物がない時もある。かまぼこ、だよ。長崎のカマボコは、純粋のサカナで出来ているから、食べられる。ライモンドが食べるのを見ていると、サカナでも、すぐには、かぶりつかない。匂いをかいで、3、4秒、確認して食べている。よそのネコが、横取りに来る。ライモンドは優しいというか、弱いというか、よそのネコに、奪われる。「このカオじゃ、怒れないし、ね」


2013年12月13日金曜日

子どもたちと、祈る。きょうも、幸せがあるように。

「神さま、ありがとう」。子供たちと、祈りました。幼児の祈りは、清らかです。神さまは聞き入れてくださるでしょう。聖コルベの居室です。コルベ神父さまも、喜ぶでしょう。★電話が、あった。女性の声。「長崎のコルベ神父」の本を読みました。大変、感激しました。ゼノ修道士さんの事も書いてあり、よく分かりました。ありがとう」。こういう声をもらうと、うれしいです。長崎のコルベ神父は、ポーランド人の修道士たちから聞いた話を基にして、書きました。もう、このような本を書くことは出来ないでしょう。それだけに自負があります。★朝日新聞から電話が、あった。以前の、「ナガサキ・ノート」が、英語になって、インタネットで配信されます。報告を受けて、喜びました。沢山の人の目に読まれるのは、ありがたい。「ナガサキ・ノート」は、先ず①「小崎登明の部屋」を検索してください。②2、朝日新聞連載記事。③2008年。16話。これらが英訳になります。★小さな幸せ。自分が頼りにされている。うれしい。心の励みになります。


2013年12月12日木曜日

幼稚園の子どもたち。カラダ・ゲンキ。心、優しく仲よく。

聖コルベ館の隣は、幼稚園です。子供たちが、分かれて、70人ほど、見学に来ました。子供たちに願うことは、カラダは元気な子、心は優しく、友だちと仲良くする子。大きな声を出すのが、好きなんです。気合が、入っているというか、昭和の一ケタ生まれだからね。しょんぼりの子は、スカン。でも、子どもに接すると、気持ちがワクワクする。先ずは玄関で、ここはコルベ神父さまのお家、と紹介、何があるんでしょうかね、興味の展示物を見せた。お船の長崎丸。昭和の電話。扇風機。「ほら、これが、コルベちゃんだよ。ゲンキだよ。大きく天に向かって、叫んでいるよ」。ホールで、絵本も見せた。コルベ神父の赤いカンムリ、白いカンムリ。イメージはやっぱり、優しい子、ゲンキな子、だね。最後は、アメ、3個づつもらって、お別れした。子どもに接すると、こちらも、ゲンキだ出る。ありがたい日であった。


2013年12月11日水曜日

台湾の女性です。大阪で生活。絵本作家です。今から活躍。

美人の女性が来たよ。「ニー、ハオ」。台湾の人です。聖コルベ館に入るなり、いきなり、修道士の色紙を見て、「これ、買います」と、3枚も買ってくれた。「2年前にも、来ました」「そのとき、わたしに、会いました?」「ハイ、会いました。1月でした。修道士さんのブログも読んでいますよ。長崎オラショの旅、買いました」。そう言われれば、嬉しいね。「写真、撮って、ブログに載せると、言いました。しかし載せなかった」「ああ、ゴメン」。次に言った言葉が、思いがけなくも、「日本26聖人の映画、見せて下さい」。修道士は、びっくりしましたよ。喜んで、見せます。ホールを暗くして、映画を見せた。感動した様子です。台湾の人にも分かったかな。「ナミダ、沢山、出ましたよ」。台湾の、おばあちゃんが亡くなったとき、カトリックの葬式でした。それから洗礼を受けた。日本に来たのは、14年前です。日本語学校へ通って、デザイン・絵本科の専門学校で勉強して、絵本作家の仕事をしています。台湾で本を何冊か出している。この度は長崎に、5日間、滞在するという。昨日は、外海へ行った。「いま、心を惹かれるのは、隠れキリシタンです」。女性の顔は、輝いていました。何か、作品を書くでしょうか。長崎の信仰が、若い人の心に点じるのは、嬉しいですね。コルベ神父さまの絵本も書いてください。大阪に住んでいます。「日本26聖人の映画」のDVDをプレゼントしました。若い人に希望を持ちます。
 


2013年12月10日火曜日

サシミのごちそう。魚は決まっている。修道士の思い出話し。

昨日は、無原罪の聖母マリアさまの祭日でした。お祝いに、夕食は、鍋料理を食べました。その前に、サシミです。必ず、出ます。食卓には、8人が居りました。サシミの食材は、いつも決まっています。①キビナゴ。②ヒラス。③アジ。この3品です。このサカナがあれば、みなさん満足します。庶民のサカナ通ですよね。海岸の町から、生かしている魚を買ってきて、松下修道士さんが、きれいに、さばいてくれます。時々は、松下さんが釣ったサカナのサシミが出ることもあります。そのときは④タイも加わります。★お祝いの夕食を食べながら、飲みながら、出た話題は、これまでの修道士たち面々の思い出でした。戦後、ポーランド人の修道士が10数人居た。それに、多くの日本人修道士の志願者たちが、聖母の騎士には入ってきた。いろんな職業の人、経験者、イケメンもいた。当時の食堂では、それは賑やかでした。コルベ神父さまが始めた修道院だから、修道士が多く生活した。戦後の、1つの時代を作ったと思います。信心も、生活も、盛り上がっていた。なつかしい時代です。気性は皆、バラバラだったが、眺めていた目標は、1点でした。幸せは、どこに有るのか。小さな道でも、自分が本当に望むなら、それで、いいのでないか。あの人も、この人も、次々に神に召されていった。懐かしい皆さんを偲びました。「いま、修道士たちは、何人居るかな?」。数えてみると、13人居りました。


2013年12月9日月曜日

マリアさまに、美しいお花を。シクラメンの花を飾ります。

無原罪の聖母マリアの祭日をお祝いします。ミサと聖務で、祈りました。本当は、12月8日ですが、昨日は、日曜日でしたので、今日のお祝いになりました。カトリックでは、マリアさまは神の御母であり、神さまのお恵みに満ちた御方であり、原罪も、自罪も、すべての汚れから免れた御方であると、賛美します。写真のご像は、聖コルベ館玄関の無原罪の聖母マリアです。幸いに、この日に、山口県の女性から、お祝いの赤い花、シクラメンが送られてきました。「マリアさま、おめでとう」と、み傍に捧げました。★12月8日は、太平洋戦争が始まった日でもあります。思い出があるわけです。戦争が始まった、その日に、長崎大学病院の外科病室に入院していました。8人の大部屋で、「いよいよ戦争が始まったよ」と興奮して叫んだことを思い出します。13歳でした。いま思えば、大変な苦難の始まりでした。歴史は流れ、人間も去って行くのですね。お世話になった外科の教授の調先生も亡くなった。あの病室に居た病人たちも、歳上だったから、もう亡くなったでしょう。自分だけは、まだ生かされている。そのような環境から、歴史から、生かされている実感を感じるんですね。「マリアさま、助けてください」。単純に祈りたいです。「マリアさま、導いてください」。お願いしたいです。


2013年12月8日日曜日

聖なるものへの感動。思い出を大切に。自戒のいましめ。

昨日の、ポーランドからの写真集を見ながら、思いました。写真に写っている修道士たちの姿、行列、生活に、自分の姿を重ね合わせました。すると、心の中に湧いてくる感情がありました。それは人間は、誰もが、弱いです。欠点もあれば、落ち度もある。しかし、ある時、強く、聖なるものへの憧れが、一瞬、閃くというか、湧いてくるというか、心に強く感じることがあった、ということです。それは人間に、兼ね備えているものでしょう。天使も居れば、悪魔もいるわけです。その戦いが、絶えざる修練です。聖なるものへのバクハツ、憧れは、尊いと思います。「その憧れが有ったことを大事にしようと、思います。自分が持っている宝です」。人間、誰もが、100パーセント悪いわけではないでしょう。必ず良い部分も備えています。聖なるものへの憧れは、真であり、善である、美である、御方への憧れでしょう。人間の営みは、落ちながらも、立ち上がり、また落ちて、立ち上がり、たゆまず聖に向かって進んでいきます。気づかせてもらって、ありがとう。自分はダメだと、失望しないようにしよう。聖なるものに感動した時期があった。それを覚えよう。希望は持ち続けたいものです。

2013年12月7日土曜日

ポーランドの修道士たちの写真集。オタクの女性が送った。

ポーランドから、1冊の写真集が、郵便で送られてきた。大きな、重たい豪華な本です。「ZAKONY」と題がある。ポーランド語は分かりません。内容から見て、ポーランドの修道会の紹介のようです。送ってくれたのは、「アンナ・ヴァニタチストゥコワスカ」さんです。覚えていますよ。ポーランドから、アニメの雑誌が送られてきたことがあった。日記にも載せました。10月7日でした。アニメの雑誌社に勤める「アンナ」さんです。アニメの雑誌に、『焼けたロザリオ』のポーランド語版を紹介したと、記事を載せていた。ありがたいと思って、返事に、お礼と、オタクの下敷き数枚と、雑誌を送ったら届いたようです。そのお礼に、また、この豪華な写真集を送ってくれたのです。★写真集のなかを見ますと、豪華な写真なので、すばらしいと思いました。もったいないとも思いました。ポーランドの色々な修道会の紹介のようですが、修道会の系統には、ベネジクト、アルベルト、アウグスチノ、フランシスコ、クララ、などがあるようです。行列や、祈りや、食堂や、行事などが、美しい写真で紹介されています。これを見ると、カトリックの力、祈りの力、熱意、活気、そのような燃えるものを感じました。内容を皆さんにも見せたいです。それで動画を入れました。見てください。


2013年12月6日金曜日

聖ニコラスの記念日。サンタ・クローズの起こり。愛の贈り物。

今朝、ミサのとき、聖ニコラスの名前を見ました。4世紀の司教さまで、貧しい家族を助けるために、窓からお金を差し入れした。それが原型になって、サンタ・クローズの名前が世界に広がった。キリスト教は、子どもを大切にする。その精神があります。これまで何十回とサンタ・クローズに接してきたが、いちばん思い出に残るのは、戦争が終わった年のクリスマスです。戦争を生き抜いた修道院で、アメリカ軍からのご馳走があって、永井隆先生も招待されて、一緒でした。宴もたけなわの頃、受付の鐘がなって、受付係りのポーランド人のグレゴリオ修道士が『おみやげ・プレゼント』を持って、食堂へ入ってきた。そして、こう言った。「今年は、長崎は、原子爆弾でやられた。沢山、憐れむべき人が居るので、忙しくて来れない。来年は、沢山、お恵みと共に、沢山のバツも持ってくる」。みんなを湧かせた。そのグレゴリオさんもポーランドへ帰って、100歳で亡くなった。次の年は、修道院のなかに、戦災孤児、原爆孤児の施設が出来ていたので、サンタ・クローズはやってきた。プレゼントはアメリカ軍からの差し入れが多かった。そして3年目の年、それが、この写真です。サンタ・クローズは司教の姿、天使も、悪魔も居た。神学生たちが扮した。手前はゼノ修道士です。ゼノさんもプレゼントに一役かった。平和になれば、サンタさんも来る。なぜ、戦争など、したのだろう。不自由から開放されて、自由の尊さを知った。戦争をして、苦労をして、何になるのだろうか。いちばん、食べたい盛りに、食料がないのが、最も苦しかった。惜しくて、ザンネンでならない。


2013年12月5日木曜日

東北の女子高校生たち。今年、最後の学校。平和学習。

コルベ神父の愛に惹かれて、学生たちが平和学習に来る。今年は、修学旅行の児童・生徒、20校あまりが聖コルベ館へ来て、平和学習を行なった。今日は、最後の学校、東北から仙台のカトリック女子高校生たちが、102人が来た。先ず聖堂に入ると、1連のロザリオの祈りを捧げた。こんな学校は初めてです。下の写真が祈る皆さんです。その後、例の如く、修道士のお話しがあり、それからルルドへ登った。「長崎は、どう?夜景は、きれかった?」「ハイ。すばらしい眺めでした」と満足そう。「東北だから、流された華族もいるのでしょう?」。クラスのなかにも、被害を受けた生徒もいるという。彼らは、それぞれ大きな試練を受けている。この度の災害で、多くの人から援助を受けているが、特記すべきは、ポーランドから受けた援助だった。ダンボール箱に、何個分も、励ましの手紙が届いたという。ポーランドの人たちは、日本の災害に特に敏感に反応して、援助してくれた。阪神淡路大震災のときも同じです。ポーランドとの交流が出来て、この学校から、20人あまりが、今年の3月に、ポーランドへ行った生徒も居る。クラクフにホームステイをして、アウシュビッツへも行った。思い出の旅行でしたと、語っていた。★また、ある女生徒は、ゼノ修道士のミュウジカールで、別口で、ニエポカラヌフ修道院へも行った。ゼノさんの写真を入れて写真を撮った。短い時間の出会いだったが、さまざまな広がりを見せた。

2013年12月4日水曜日

再び、聖ザビエル祭。あの感動。キリストの心で生きる。

昨日、聖ザビエルの祝日に当たり、戦後、間もなくの聖ザビエル400年祭の写真を載せたところ、2人の司祭から、「めずらしい写真」「ローマンさんの歳は、100歳?」など、興味を持って聞かれた。ついでに、400年祭の写真を載せます。ローマから教皇さまの特使、ギルロイ枢機卿(今でも名前を覚えている)と、アメリカ人司教、スペイン人司教など、上の写真は、長崎駅に、聖ザビエルの聖腕を掲げて到着された。歓迎に行きました。下の写真は、次の日、駅前の西坂でのミサです。2万人におよぶ信徒が集まった。原爆で、8千5百人が、犠牲となった。残る浦上信者は、4千人。皆が参加し、しかも長崎県下から、県外から、交通事情が悪いのに、盛り上がる信仰の熱意で、見てください、この人、人、人ですよ。よく、まあ、この写真はどこから撮影したのか、日本26聖人殉教の丘・西坂ですよ。こんなに広かったのか、なあ。そう思います。白いのは、女性のベール、黒が男性、はっきり分かれている。祈りました。戦争中、どれだけ迫害されたか。弾圧されたか。バカにされたか。それらは皆、解放された。平和が来たよ。2度と、戦争も、弾圧も、自由を奪うことも、止めてくれ。喜んで、信徒たちは、感謝の祈り、平和への祈りを捧げました。覚えています、あの熱気を。そこから日本のカトリックは、また復活したのです。★信者は立ち上がったが、「信者」「未信者」、そうじゃない。信者だけに天国の門は開かれていて、未信者は救いがない、そうではない。親も、兄弟も、友人も、みんな全く同じ状態なんです。私たちだけが救われるのではない。同じ人間であり、同じ日本人、地球人です。カトリックだけが別人ではないのです。全く同じレベルのなかで、白いベールや黒いアタマは、キリストの心、キリスト教的な人生観で生きて行きたいと思って、歩んでいるわけです。親が、兄弟が、悪いのでなくて、ただ自分が、キリストの心を受けて、生きたいと願っているだけです。ただ1つだけ、覚えてください。わかってください。「人間は、神から創られた存在である」「神から出て、神に戻る存在である」


2013年12月3日火曜日

聖ザビエルの祝日。戦後、間もなくの祭典は、忘れない。

聖フランシスコ・ザビエルの祝日です。ザビエルといえば、日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師ですから、歴史の本にも登場し、誰もが親しく知っているでしょう。ザビエルの思い出といえば、強烈な痕跡がある。戦争が終わって、これまで迫害されていたキリスト教は、自由に信仰が出来るようになった。その頂点が、戦後、4年後に行なわれた『聖ザビエル400年祭』です。長崎・会場では、それは盛大な祭典でした。聖ザビエルの聖腕が、長崎駅に到着するや、全市民がこぞって歓迎しました。その時の興奮を覚えています。21歳でした。浦上天主堂の廃墟を整備して組み立てられた祭壇(写真・中央に聖ザビエルの御姿・両脇は天主堂の廃墟の壁)に、多くの信徒が雲集して、平和と自由と信仰の喜びを祈り、歌いました。あの感動は、戦後のカトリック歴史の大きな出来事です。そして強調したいのは、この祭壇を築いたのは、指揮をしたのは、記憶では、ポーランド人修道士のローマンさんでした。戦後は物資がなかった。ローマンさんは進駐軍などと掛け合って、資材を集めて、自由の発想で作り上げたのです。修道服を着たままの姿で、現場で、采配を揮っていた。姿が、今も残っている。「偉いなあ、ローマンさん」。今でも感心しています。ローマンさんは、100歳で、老人ホームで静養されている。人が生きている限り、歴史の思い出は消えない。


2013年12月2日月曜日

夏休み訪問の家族。奥さん、神に召される。安息を祈る。

訃報を聞くのは、悲しいことです。夏休みに、東京へ久しぶりに行った。東京で、最初に訪ねたのが、墨田川の近くの木島さんのお宅だった。そのときに写した写真です。もう何10年からのお付き合いで、戦争前から、町工場を経営してこられた。上京する度にお世話になっていた。長崎へ、オラショの旅で来られたり、26聖人の映画上映でもお世話になった。写真・右は、ご主人。イグナチオ教会へ通っておられる。左端が、奥さん。隣が娘さん。(7月27日の日記に載せた)。1通のハガキが届いた。「8月13日、妻、マルチナ美恵子が、93歳にて帰天しました」。びっくりしました。え?おゲンキだったのに。なぜ?電話をかけると、亡くなる前日まで、普通に生活し、夜は休まれた。朝、亡くなっておられた。静かな臨終でした。神さまの安息を祈ります。★あのとき、訪問した時、木島さんのお宅を出て、帰りしなに、交通違反にあった。ちょうど隅田川の花火大会の日で、右折禁止になっていた。お巡りさんに咎められたことは、木島さんには打ち明けなかった。美恵子さんは心優しいお母さんだった。


2013年12月1日日曜日

12月。落葉を拾うと夢がある。出会った人だけ宝がある。

食堂の窓から、毎回、見えている、色鮮やかな紅葉です。ますます色づいて、今が最高です。ああ、今年も早や、12月に入ったね。そう思いながら、色にも魅せられて、紅葉の下まで、足元に気をつけて、よちよちと歩いて来た。ツバキも咲いている。石の道には、可憐にも、落ち葉が美しく散在する。「ジンセイって、ある人を、踏みしめて、登りつめていく」。落ち葉を踏みしめ、そんなことを考える。落ち葉を見れば、寂しいが、人間の「肉体は、朽ち果てるとも、タマシイは天にあげられ、カラダも復活し、人格・ペルソナルティは、永遠につづく」と、今朝、ミサのときには、そんなことも口ずさみました。感動、カンドウ、何にカンドウするか。常日頃、見ている風景や出来事でも、一瞬、アッと、パアッと、敏感にヒラメク時がある。それがジンセイに瞬発力を与えるんですね。★気持ちだけは、夢を見るんですね。この歳になっても、勉強したい、思います。タカラものを発見する。宝物は、未来には、ないでしょう。過去にあって、埋もれているものを、発掘する。過去に、いろんな人に出会った。教えられた。学んだ。いろいろ有りましたよ。それや、それ、散り行く紅葉の下で、思います。