2017年12月31日日曜日

トマさんの3大ニュース。ホームに居ても出番ある

ホームに居て、沢山の隣人にお世話になった。皆さんにお礼を申します。その中でも、年末になっても心に残る思い出を、3つ上げるとすれば、特別な出会いと、2つの出番があったことでしょう。
★①野々村哲さんと塩沢美樹さんとの出会いは、最初、たったの15秒だったが、それがふくらみ、ふくらんで、今年の復活祭には「トマさんのことば」を出版した。奇跡的な出会いの結果です。ブログを見ていてくださる人たちに、郵送料も小さな本代も無料で、配布するのが願いで、500部を作り、全部、配りました。本当に、お2人に「ありがとう」を申します。来年は又、何か考えてください。課題を残します。
★地元の小学校で、原爆体験の語り部を勤めたのも、思わぬ出来事でした。大きな絵を何枚も使って、1年生から6年生まで、彼らの心を引き寄せる話が出来ました。胸はワクワク、血は踊るとは、この事です。話の後は、気持ちが「スーッ」としました。やっぱり子どもに話すのは、いいですね。彼らの純粋な目に輝きの反応があります。
★ポーランド映画「二つの冠」の上映の前に、ステージで、13分の話をしたのも、これも特別な行動になりました。全く考えていなかったので、よく「アタマが真っ白になった」と聞きますが、「それ」に成った。「え?私が、ここに居る観客に話をするの?」。本当に幸いに、30分ほどの時間があったので助かった。アタマの中の整理が出来た。その意味で、この話は特別に忘れない思い出になる。
★今年も、根気よくブログ「日記」を読んでくださって、ありがとう。支えてくださって、カンシャです。これからも、よろしくお願いします。よい新年をお迎えください。

2017年12月30日土曜日

瀧神父さまと一緒の生活。こころ強く過ごしている

晦日になった。今年は、4月に瀧憲志神父さまが入所したので、こころ強く年末を迎えます。食堂では、隣同志の席です。瀧神父さまのお陰で、私も気持ちに余裕が出来ました。ミサも、食事も、ロザリオも一緒です。部屋が違います。瀧神父さまは1階で、私は3階です。
★司祭がホームで生活するのは大変なご苦労があると思います。それでも何1つ暗い話はしない。前向きに、ヨチ、ヨチと、歩いておられる。「トマ、ブログ、読んだよ」。最初の読者は前にも書いたが、瀧神父さまです。ホームでも餅つきがあり、トマは「あんこ餅」を、瀧神父さまは「しろ餅」を食べました。食べる時には、職員の大声がひびく。「餅を食べる時は、注意してください。お持ち帰りは出来ません」。ノドにひっかっかるのが心配です。確かに、詰まらせる危険もある。こうして今年も無事に終わります。「神さまの恵み、感謝」

2017年12月29日金曜日

騎士誌に久々小崎登明が載った。生きてこそ華だよ

ホームのクリスマスの馬小屋です。まだ紹介していなかった。ホームの特徴は、写真には写っていないが、横には車椅子が置かれていることです。目がそちらに行く。「ああ、やっぱりホームだな」
★聖母の騎士誌の2月号が早々と届いた。聖母子の表紙を開けると、直ぐの開きページに、「ポーランド映画『二つの冠』上映前の小崎登明の講演」と出ている。写真まで付いている。嬉しかった。久しぶりに「騎士誌」に、小崎登明の名前が載った。騎士誌の読者にも、懐かしく思ってくれる人も居るだろう。取り上げて下さって有り難う。
★今年も、あと3日となった。以前は、気力、忍耐という言葉を胸に覚えていたが、最近は余り考えない。自然に向き合うというか、そのような気持ちが強い。振り返れば、人生に沢山の病気で痛み苦しんだ。寂しい思いもした。しかし良い医師に恵まれていた。何人ものお医者さんが居る。だから1つ1つの病気を乗り越えて、ここまで来た。辿り着いた。それは感謝だと思う。
★歳には勝てないが、生きていて、こそ、華(はな)も輝く。残された人生を、感謝と祈りのうちに、喜びをもって生きたい。

2017年12月28日木曜日

高原修道士さん有り難う。今夜は大いに飲んでよし

3人の忘年会です。右、高原修道士さんは、いつも運転です。会合があるときは、ジュースです。「呑めないんだな。皆が楽しく飲んで、愉快にしているのに、帰りも運転だよ」。これが高原修道士の奉仕です。
★だか、今夜は違った。3人で忘年会だ。高原さんに、いつもお世話になったからね。今夜は、飲んで、飲んで、帰りは代行運転だ。滝神父さまと、夕刻、早めに、諫早の大通りにあるイタリア料理店「ピエトロ」へ行った。「さあ、カンパイだ」が、この写真。高原修道士さんも満足した顔を見せてくれた。
★「ピエトロ」とは、ペトロのこと。滝神父さまが女子店員さんに「わたしも、ペトロ、だよ」。高原さんが解説を入れる。「神父さんで、教会の名前なんです」。店員さん「え?どこの教会ですか?」「湯江教会」。女子店員さんは明るく、ほほ笑んでいた。スープに、スパゲッチに、ピザに、食べました。コップ・ワインも何杯も飲みました。
★高原さんも安心して飲める。彼は、先月11月に誕生日を迎えた。58歳だよ。私も滝神父さまもホームに居ても、外出には高原修道士さんの運転に頼っている。お世話になって助かっている。有り難い。彼のお陰です。感謝しています。それで、3人での感謝会ともなった。
★帰りの代行運転は、年末で、忙しいのか電話を何軒にも掛けても、全く繋がらない。近隣の町から呼んで、無事に帰った次第でした。

2017年12月27日水曜日

ヨハネ村山修道士さんの修道名のお祝い日です

修道士のヨハネ村山安治さん(92歳)です。今日は、教会では、聖ヨハネ使徒福音記者の祝日で、村山修道士さんの修道名のお祝い日になります。ミサの前に、司祭が、「ヨハネさんのためにお祈りしましょう」とお知らせがありました。
★ヨハネ村山さんは目が不自由になって、もう長い年月が経ちます。障害と、最近はカラダの不具合に苦しみ耐えながらも、心穏やかに過ごし、絶えず祈りながら、周りの人びとには安らぎと愛を注いでおられます。最近は何度も入退院を繰り返しながらも、「賛美と、感謝」と言い続け、神さまへの奉献生活を貫いておられます。そのお姿には、本当にアタマが下がります。
★1950年代でした。私は腎臓結核のため、山の修道院で療養していました。そこには少年たちの養護施設がありました。140人の男の子たちが生活していました。施設の長は、ペトロ石橋修道士さんで、ヨハネ村山修道士さんは指導員でした。その時は目が見えておられて、少年たちの面倒を精力的に見ておられました。その活躍ぶりのお姿は私の心に焼き付いて残っています。当時、ヨハネ村山さんは、ムリをしておられたのは確かです。忘れもしない運動会の朝でした。ヨハネさんが、「目に黒い固まりが見える」と言っていたのに、夕方になると「黒さが広がって見えない」と言われたのを覚えています。
★それからヨハネ村山修道士さんの苦難の十字架の道行が始まりました。人生に弱音を吐く事無く、マッサージの免許取得、東京へ行って、盲導犬との新しい生活、新幹線での旅行や、イスラエルへ巡礼旅行などの経験から、私たちに信仰を教えてくださいました。
★今は、ホームで暮らし始めて、2年目です。ヨハネ村山修道士さんを見るたびに、生き抜くチカラある「パワー」をもらっています。

2017年12月26日火曜日

光るアタマ(星)に導かれています。兄弟の集い


クリスマス・イブの夜。ミサの後で、家族的な小劇が行なわれた。羊飼い達も、博士も、夜空に光る不思議な星に導かれて、聖なる幼子を拝みに来た。「あの光る星です」と羊飼い達が指差した先には、何と偶然か、園長神父さまの光るアタマがあった。その光るアタマに皆さんの目が集り、愉快な笑いが起こった。皆さんを楽しくさせたが、ごめんなさい。ワル気はありません。実を言えば、私たちホームも、園長神父さまの
光るアタマに導かれて歩んでいるのを感じる。心から感謝しております。お体を大事に、職務に頑張って下さい。
★昨夜、長崎・聖母の騎士で、修道会の長崎地区の修道者たちが集って、皆で「教会の祈り」を祈った後、1人1人、思うことを発言した。私はいつものセリフながら「ホームの生活、4年目。来年の1月、2月、3月1日は誕生日で90歳になる。一応、区切りも付くので、それまで頑張る」と言った。場所を変えて、食堂で、和気あいあい、お互いに語り合った。やっぱり皆さんと語るときが、一番、安らぎと意気込みを感じる。ホームに帰ったのは、夜の8時頃、早めの帰宅となった。「やっぱり、ホームが、落ち着くなァ」

2017年12月25日月曜日

楽しいクリスマス。サンタさんは滝神父。小劇もあり

ホームの御降誕祭・クリスマスは、次から次へと行事が出て、賑わいました。先ず3つのミサです。昨夜イブのミサは、多くの信徒で祈りました。その後、教会の有志による「クリスマス小劇」が行なわれました。小さい女の子の「マリア」さま。少し大きな子の「ヨゼフ」さま。天使や、3人の博士たちが「聖なる幼子」に贈り物を持って捧げました。この劇を見れば、事情が分かります。神さまの愛が分かります。ミサの後で、ゼンザイが振舞われ、寒い冬からカラダを温めました。心づくしが有り難いですね。今日の朝ミサは、利用者の滝神父さまが捧げて、お説教もなさいました。そして今日の10時からはホームの園長神父さまの捧げる「礼拝」のミサが行なわれました。信徒の他、多くの利用者が参加して祈りました。このクリスマスには、1人の男性の洗礼式もありました。「皆さんの心と一緒になりたいのです」。男性ペトロさんの言葉です。
★ミサの後、全員が食堂に集まりました。降誕祭のお祝いの昼食です。食事の前に、恒例の職員による小劇「マッチ売りの少女」が上演されました。貧しい人に目を向けよう、の趣旨があるようです。大きな男性少女が、これ又、大きなマッチを持って、売りに来るのです。意地が悪い女性一団が、買うのを拒み、嫌がるのです。名役者揃いですがら、思わぬセリフが飛び出し、皆さんの笑いを湧かせます。とにかく劇の流れの最後は、よく、つかみ、にくかったけれど、マッチ売りの少女は幸せになったでしょう。食事の終わり頃、サンタさんがトナカイに押されて、やって来ました。今年のサンタさんは、滝神父さまでした。昨日の夜から、今日にかけて、沢山の思い出に残る出来事がありました。写真も40枚ほど撮った。今日は、午後から湯江修道院の司祭、修道士と共に、修道会の長崎地区の会合(祈り、報告、会食)に出かけます。帰りは、9時頃になるでしょう。後、1週間で今年も終わります。来年の1月、2月過ぎれば、3月1日は誕生日。90歳になる。それまでは頑張ります。

2017年12月24日日曜日

痩せても枯れても、目だけは光っている。自然だよ


今朝、ミサで祈る。4本あったローソクに、全部、4本共に点火された。待降節最後の日曜日。「ああ、やっと来たか」の気持ちになる。「沢山の恵みを頂きました。神さまからも、人さまからも。だから、こうして生きていける」。感謝の祈りを捧げた。教会からホームに帰ると、静かな廊下に、ポツンと、車椅子の人が、ゆっくり車を押していた。当てども無い。この姿を見ると、「孤独を感じるな」。だが、人間は自分の人生を最後まで生きなければならぬ。生きて行くのに何が欲しいですか?愛ですか?生き甲斐ですか?「人のために尽くす」何かが、したいです。老人ホームでも、自然に、男と女は寄り添うんですね。ニンゲンですもの、痩せても枯れても、目だけは光っている。「それは自然で、美しい気持ちと思いますよ。生きる慰めになれば、それでいい」

2017年12月23日土曜日

主は近づいておられる。あした、主の来臨を見る

ホームには、カトリック信徒が大勢居られます。月に、8回ほど、車椅子で、自由に教会へ行けない信徒のために、園長神父さまが御聖体の拝領を授けます。陽当たりのいい部屋、ここは介護詰所の横で、窓の周囲は、春になるとサクラが一杯咲き誇れるので、「サクラの間」と呼んでいます。クリスマスも、直ぐそこに来ていますので、皆さんに、救い主イエスさまを授けました。「神さまの御望み通りに行なわれますように」。それが心からの祈りです。
★今朝は、失敗しました。いつも夜勤の職員さんから4時40分に起こしてもらう。今朝の当番は男性だった。時間になっても、来ない。5時になっても、来ない。「おかしい、なァ」。部屋の助けの「ボタン」を押すと、「もう少し待って下さい」と女性の声。自分で起きて、身なりを整えて、暗い廊下を歩く。扉から屋外をのぞく。教会は真っ暗です。カギもかかっている。修道院の明かりを見て、戸をあけるが、開かない。廊下に戻ると、夜勤の男子職員さんを見て、「おーい」と声をかけた。「どうしたの?」と彼。「教会が開いていない」「いま、何時だと思う?」。廊下の大きな時計を見たら、まる1時間、早く起きて行動していた。初めてだったよ。「これ、老人ボケ、なったかな」。心で思わず叫んだよ。

2017年12月22日金曜日

北海道から届いたプレゼント。温かく冬を過ごします

北海道から大きな箱が届いた。中に入っていたのは、ごらんの上着です。早速、着て、写真に撮りました。札幌の裕子さん。ありがとう。よく似合うでしょう。胸にデザインも入っていて、オシャレです。これを着て、食堂へ行った。「暖か、そうね」の声。今年の冬は暖かく過ごせるでしょう。毎年、今どき、送ってくださっている。電話をかけて、お礼を言った。北海道は雪だそうです。長崎は雪など未だ遠い。裕子さんは時々、日記のコメントに感想を入れてくださる。聖コルベ館でお会いしました。今もご縁がつづいている。在世フランシスコ札幌兄弟会に入っておられる。皆さんからの支えを頂いて、明るく楽しく生きています。

2017年12月21日木曜日

告解して、心を清めて降誕祭を向かえる。習慣です

今朝の太陽です。雲仙岳の裾野に、太陽があがる。
★今朝は、ミサの後で、3人の司祭が告解(ゆるしの秘蹟)を聴きました。信徒たちは、それぞれに分かれて、希望する司祭の元で、自分の罪を告白しました。御降誕前に於ける長崎での習慣です。普通は「こっかい(告解)」と言います。年に3回は必ず行なっている。復活祭、聖母被昇天祭、そして降誕祭。清い心で祭日を迎えるのです。習慣です。
★「自分が今、死んで神の御前に立ったら、受け入れて貰えるのか。今の現状で良いのか。神の愛に背いていないか。自分にある欲望、他人への無関心、ごまかし、悪口、争い、自分さえ良ければ善しの心、信仰への懐疑、色々有ります。自分は完全ではない。欠点がある。弱さがある。誰にでも有る。改心し、清めて下さい、心の叫びがある。チカラを下さい。神への愛に、他者への愛に、向かう心を与えて下さい」。祈るばかりです。
★朝食は修道院で食べた。焼いたパン1切れに、ホット牛乳、リンゴ半分、お世話になった。8時にホームを高原修道士の運転の車で出る。クリニックへ着いたのが、9時過ぎだった。幸い、待合室には、2,3人しか居なかった。診察は早めに終わった。高原さんが「どこか行きたい所があれば連れて行くよ」と勧めたが、なぜか最近はホームで落ち着きたい気持ちがある。11時前には、ホームの戻った。
★昼食後、しばらくベッドで休む。幸せです。太陽のようの心に、明るい陽が照らす。これからロザリオです。

2017年12月20日水曜日

今朝の風景。雲仙岳と有明海。ホームは平和です

静かな朝が明けます。ホームから見た今朝の雲仙岳です。雲と、山の色がいいですね。灰色で、同色です。手前の方が、高来の町並み。その町と、山の間に薄く棚引いているのが、有明海。黒ずんでいる仕切りが、干拓の堤防。問題のある海と湖水に分けています。平和な風景を感じた。
★昨日は聖コルベ館へ行き、テレビの取材で疲れました。聖コルベ館で、院長神父さんから、「映画の前の話は好評だった」と言われ、「ポーランド大使館は、小崎さんに顕彰を授けるそうですよ」「え?また、ですか」。意味がよく分からず帰った。
★午前中、職員さんが部屋の掃除をしてくれる。その後、懇談会があり、来年の予定が報告された。栄養師さんからは「餅の食べ方」の指摘があった。老人になると、餅を食べるのが微妙になる。私の願いは、丸い餅を、焼いて、砂糖・醤油で食べたいね。
★明日は、また長崎へ。クリニックで定期の診察のため出かけます。

2017年12月19日火曜日

NHKテレビ(長崎)の取材。また又、日本26聖人

疲れました。高原修道士の運転でホームを朝9時に出て、午後4時に帰った。NHKテレビ(長崎)が、また又、日本26聖人の、「あの活動写真(無声映画)を、私がかつて行なっていたように取材させて下さい」と願うのです。長崎・聖コルベ館で取材があった。
★もう昔の事だよ。だが、私にとっては「むかし」かも知れないが、若い人にとっては新鮮な題材なんですね。日本26聖人の映画は、先ずフイルムを求めて、映してみたが時々説明の字が出るだけで、後は無声だから、音楽なし、セリフなし、内容がよく分からない。それを何度も見て、研究して、自分で台本を作り上げた。自分で弁士を務めて、音楽は擬音や、それに合う聖歌、音楽をテープにつないで、上映した。観客は感動し、涙を流したものです。弁士をしながら私も泣いた。
★今日は、その辺の事情を説明して、一部は実際に弁士を果たした。相棒は松下修道士です。彼が居たから助かった。北海道から、沖縄まで、また海外のブラジルまで上映に出かけた。今では懐かしい思い出です。よく頑張りました。
★今では老いて、活ベンも出来なくなったので、DVDにして、何百本を無料で配布して、この貴重な映画を残して、皆さんに伝えて欲しいと願うばかりです。NHKテレビが取り上げるというので喜んで協力しました。放送は、3月以降だそうです。久しぶりに活ベンをやったが、口は動かず、急な事で気分は乗らず、冷や汗ものでした。
★帰りの車の中で、高原修道士が私に言った。「聖書にも、あるでしょう。『捨てられた石が、隅(すみ)の親石(おや・いし)となった』」「へーェ、そう、なの。ありがたいね」

2017年12月18日月曜日

寂しさから豊かな年に変わる。生きる希望をもって

ホーム3階の廊下です。このホームに入った頃は、どんな心境だったのか? 3年前の、入居当時、12月の日記を開いて見る。それは本当に寂しい、打ち捨てられた気持ちだった。体力は今よりあったのに、気力は全く失せていた。
★ホームにお世話になっている。この現実に、「自分には、この選択しかなかった」と自らに言い聞かせている。ホームの夜は特に寒かった。温かい衣類も揃っていない。日中は、する事がなく、時間をもてあそび、退屈した。詩篇を書き取った事もあった。何とかして、時間を過ごしたい。朝、教会へ行く時は、修道服を着なかった。なぜか着る気持ちにならなかった。不眠に苦しみ、ツライ日々がつづいていた。
★今、3年経って、心もカラダもホームの生活に慣れてしまった。溶け込んだ、と言った方がいい。心は強くなったが、カラダが弱くなった。ホームに居ても、来客や、行事や、金祝や、語り部や、テレビ出演や、映画出演まで、様々な出来事が起こる。修道服も着るようになった。後は、来年の3月1日、誕生日を見つめている。
★修道院のコピー機で、椿を描いた年賀状を100枚刷った。「九十の春、ご縁つづけて、恵みあり」

2017年12月17日日曜日

日曜日。教会・祭壇前のローソクも3本が灯った

「神をたたえよう。主は近づいておられる」。教会の祈りの導入・交唱も、このように変わった。教会・祭壇前に置かれた4本のローソクには、3本に灯が点される。降誕祭が近づいている。次の日曜日の朝ミサには、4本目が点されて、その夜は降誕祭・前夜、クリスマス・イブとなる。
★今朝は、かなり冷え込んだ。全国的な寒波らしい。東北辺りは、2倍の雪が降っているとか。長崎は寒いといっても、雪はまだ遠い。朝食の後、一人で入浴した。広い風呂に、ゆっくりと入る。楽しみのひと時でもある。最近は、一人で入ることが殆どで、「もし倒れたら、どうしよう」など考えている。それでも入る。
★後、2週間で、今年も終わる。ホームに居て、これと言った計画はないが、今週は、長崎行きが、2度。火曜日は、長崎・聖コルベ館で、NHK(長崎)のテレビ取材がある。木曜日は、毎月のクリニックの診察へ行く。25日の降誕祭には長崎・聖母の騎士で、私たち修道会の長崎地区・司祭・修道士の集まりがある。2ヶ月に1度の集会だが、修道者の皆さんに会えるのは喜びでもあり、生きるチカラの源にもなる。楽しみにしている。
★昼食は好物の「ハヤシ・ライス」。午後から東長崎教会の3人による懐かしい歌の音楽があった。珍しい中国笛を吹く女性。「夜来香」「蘇州夜曲」など、涙する聞き手も居た。高原修道士もギターで「アヴェ・マリア」を弾いて拍手を受けた。クリスマスが近づくと、なにやら、心がワクワクしてくる。まだゲンキは残っているぞ。

2017年12月16日土曜日

コルベ神父の7つの不思議。こんな人も居たのです

私の人生は「原爆に会って、ポーランド人修道士に助けられて、コルベ神父を知った、90年」と言えるかも知れない。コルベ神父の生涯を思って、不思議に感じることを列挙してみよう。7つの不思議が浮かび上がる。これらは、到底、普通の人間には成しえない。不思議で仕方がない。
★① 長崎に上陸して、1ヵ月後に、日本語の雑誌「聖母の騎士」誌を1万部発行した。勿論、日本語は全く知らない。しかも第2号からは自分たちで印刷し、発行している。
★②ポーランドに、ニエポカラヌフ(けがれなき聖母の園)修道院を創設したが、何と700人の修道士が集った。恐らく今までかって無い世界最大の修道院だった。その運営の仕方に驚く。修道士は各部門に配属されて、巨大な印刷機が回り、多量の月刊誌、毎日新聞、印刷物を発行した。自給自足の生活で、村人に奉仕する消防隊まであった。
★③けがれなき聖母マリアへ完全に奉献した。「マリアを通してイエスへ」。マリアに完全に結ばれていたのに、コルベ神父の生涯は、病気や誤解や批判や、苦しみの連続であった。それも不思議である。苦しみの中にも、愛と希望と平安と幸福を見出していた。
★④コルベ神父の特徴は「従順」。自分の意思ではない。けがれなき聖母の御意思のみを追求した。聖母の御意思は目上によって示される。コルベ神父はこの鉄則を完全に果たした。アジアへ向かったのも、すべて従順。これも不思議な結果である。
★⑤コルベ神父は、1冊の本も書かなかった。私は不思議に思う。巨大な印刷所を持ち、沢山の印刷物を発行しているのに、彼自身は何ら著書を出していない。その代わりに目上宛の多くの手紙を書いた。一千通とも言われる。
★⑥餓死の地下室で、最後まで生き残った。他の人たちは、死ぬか、意識を失っているのに、他の人よりも病気勝ちで、体力が弱いコルベ神父が、祈りながら耐えて最後まで意識を保ちつづけた。普通の人間には、とても出来ない。考えられない最後です。
★⑦少年の頃、見たと言う「二つの冠」は、長い年月を経て、列福式では「証聖者」で白い祭服。列聖式は「殉教者」で赤い祭服。私たちにも目に見える形で実現した。これ以上の「不思議さ」はない。
★コルベ神父が創立した小神学校で学び、度々ポーランドを旅行したのも人生の良い思い出であった。コルベ神父に『ハグ』して欲しかった。ホームで亡くなったフランシスコ中村安五郎修道士は、コルベ神父の『ヒゲ』で、アタマを『こすられた』と自慢していた。

2017年12月15日金曜日

「映画」の忘れ事。2人の修道士の出演。安堵する

昨年の8月、長崎・聖コルベ間の居室で、ポーランド映画班の取材を受けている写真です。
昨日、夜になって、日記をふと思うと、大事な内容が抜けているのに気がついた。私たち2人の修道士が出演していた。松下修道士と、小崎修道士です。「これが一番、興味があったんじゃないか、忘れるナンて」と苦笑した。
★映画の中ほど、場面が長崎市を走るチンチン電車が映ると、何となく気持ちがホッとした。眼鏡橋も映る。先ず松下修道士は、コルベ神父、ゼノ修道士の一行が長崎に上陸した時から、現在地へ移る過程を説明した。大浦天主堂へ行き、司教に会い、神父が哲学教授を勤める条件で宣教の許可を得る。大浦の雨森病院跡を仮の修道院として落ちついた。ゼノ修道士は、市内に修道院の土地を探した。浦上に見つけたが、コルベ神父は現在の場所(本河内・ほんごうち)に決めた。後日、長崎に原爆が落ちたとき、修道院は安全で、守られた。これらの歴史を語っていた。
★ポーランドの映画取材班は、原爆の日、午前中は浦上の平和公園で行なわれた平和の式典を撮影していた。午後に聖母の騎士に来た。写真がその時の取材の様子です。
★小崎修道士は、お決まりの言葉で、原爆で、家と母を失い、直ぐに聖母の騎士に入る。原爆の丘で、自分は原爆当日、どのように歩み、生きたか。助けない、逃げた、仇なる人間は許さない、「この『許す』が最も難しい」。人間の弱さ、逃げる、助けない。それと仇なる人間に対しては憎んで当然、恨んで当然、仕返ししようと思って当然、なのに、コルベ神父のような愛の人もいる。そこに人間の希望もある。
★もう1つ、このコルベ神父の居室の隣は、セルギウス修道士だった。彼は、聖人は居室で何をしているか、カギ穴から覗いた。コルベ神父は床にひざまずいて祈っておられた。セルギウス修道士は、そう語った。
★映画では、画面右側に、日本語訳、下に英語訳が付いていたが、私たちの言葉は日本語そのままで語っているので、満足した。語りを短くまとめていたが説明はついた。匿名さんから「堂々として映っております。監督を導く親父さんのよう」とコメントを頂きましたが「ありがとう」

2017年12月14日木曜日

映画「二つの冠」を見ての感想。昭和の匂いを思う

茂みの道を行く少年と母親の会話から始まった。少年は「冠を見た。両方とも欲しい」と母親に秘密を明かす。率直に「二つの冠」。題目から入った。映画では、コルベの少年時代のことが、よく理解できなかった。宇宙へ飛ばすロケットを考えていた少年。また一方では、国家のため軍人となって戦う気持ちも抱いていた。なぜ神学生の道に進んだのか、映像では読めなかった。
★ローマに留学して、「けがれなき聖母の騎士会」を立ち上げる様子は、手際よく描かれていた。騎士会創立100周年を意識してか。ラチスボーヌンの改心の教会も出ていた。懐かしい。
★次の場面が深く印象に残った。中央にコルベ神父が居て、手前、両脇に2人の修道士が居る。これから誓願を立てる修道士達だった。コルベ神父は、彼らに諭す。「行くべきは清貧の生き方。フランシスカンだから貧しく生きる。自分個人の所有物は持たない。次いで、貞潔の生活。これが最も困難になるだろう。神は人間に、愛情や性欲を与えておられる。その普通の流れに逆らって、生涯、貞潔の生き方を選ぶのは尋常ではない。人間には出来ないが、神と聖母マリアが助けてくださる」。この諭しは、私が70年の過去を振り返ってみても、当然よく思い当たる。人間は弱いものです。迷います、傷つきます、汚れます、でも、また立ち上がる。長い人生です。いろんな誘惑、惨めさがある。
★映画には「清貧」と「貞潔」だけが諭されていたが、実は、コルベ神父の特徴は、もう1つの誓願、「従順」にある。これが大切。コルベ神父の本命だ。コルベ神父が、騎士会を創立する、騎士誌を発行する、ニエポカラヌフ修道院を設立する、東洋へ宣教に出かける、これら総ては、彼が個人的に自由に行動したのではなく、先ず必ず長上(総長、管区長、院長など)に意見を提出して、「許可」を得てからの進軍であった。自分の意思ではなく、けがれなき聖母の意思に従う。マリアの御意思は目上によって示される。そのためコルベ神父は絶えず長上に沢山の手紙を書いて許可を願った。許可があれば、安心して、彼なりの行動が出来る。コルベ神父は「従順の聖人」とも言われる。
★映画で印象に残るのは、もう1つ、「マリア」の挨拶がある。修道院の暗い廊下と個室。病室であろうか。明かりを灯した見回りの修道士が「マリア」と低い声で挨拶する。暗闇の病人も「マリア」と応じる。「マリア」の挨拶は、ニエポカラヌフ修道院だけの「マリア信心」の習慣だった。これは長崎・聖母の騎士修道院でも受け継がれ、実行されていた。実際、私たちも「マリア」の挨拶を、ごく自然に、楽しく実行していた。今はもう無くなったが、なんとも、この「マリア」の挨拶は懐かしい。コルベ神父自身が「マリア」を呼吸して生きておられた。聖人と共に生きる者は本当に幸せである。
★「二つの冠」は、コルベ神父を全く知らない人には、理解に少々困難を感じるだろうと思う。ある程度、コルベ神父を知っている者には魅力的な映画である。沢山の、古い写真が出てきて、私には「昭和の匂い」を感じるような気持ちであった。
★ショパンの国だけあって、音楽は素人の私にも、心を揺らすものを感じた。
★映画が終わって、休憩をとって、監督と俳優のトークショウがあって、散会となった。去り行く人びとの群れに、「ジンクーエン」「ジンクーエン」の言葉が聞こえた。ホームに帰って床に就いたのは、11時15分。初めての時間だった。13分の話に安心したのか、眠れた。

2017年12月13日水曜日

話は13分。最後は「ジンクーエン」で締めくくる

ステージに上がるのに、木製の階段を、院長神父さんが手伝ってくれた。椅子に座って、快調にしゃべり出した。
★修道士の小崎登明、老人ホームに入って4年目、89歳です。昨年の8月、原爆の日、母の命日に、ポーランドから映画の取材班が聖母の騎士に来た。「なぜ今どき聖コルベなのか?」「けがれなき聖母の騎士会創立100周年に当たるので、映画を作って、広く上映したい」「題は何ですか?」「二つの冠です」。コルベ少年が、町の教会の聖母子祭壇で、聖母マリアから見せられた白と赤の2つの冠のことです。
★原爆に会って、家を失い、母を失い、孤児になった私を、救ってくれたのがポーランドの修道者たちだった。戦後すぐにコルベ師の列福調査が始まり、最初は「愛の殉教者」を目指していたが、途中で「証聖者」に変更になる。証聖者になるには2つの奇跡が必要です。奇跡は認められ、列福式が聖ペトロ大聖堂で行なわれた。その時、パウロ6世教皇さまを初め、全聖職者の祭服は白色だった。11年後、聖人に挙げられるときは「殉教者」。ヨハネ・パウロ2世教皇さまで、大勢の信徒のため大聖堂の広場で行なわれたが、全聖職者は赤い祭服だった。2つの式に与った私は感動した。「かつて少年が見た白と赤の2つの冠は、話噺(はなし・ばなし)でなく、現実に、いま、私たちの目で見える形で実現した。感謝の祈りを捧げました。
★この世で一番大切なのは「愛とイノチ」です。コルベ神父の「愛とイノチ」を追い求めて、私はポーランドを10回巡礼した。コルベ師が聖人に挙げられて、すぐに「お母さん」の墓参りをした。クラクフの観想修道女会で、30年を過ごされた。厳しい生活のシスター達で、屋外には出られない。百数十人のシスターが居た。「お母さん」は禁域外に小さな部屋をもらって、シスター達のために受付係、外交係、買い物係として、働かれた。数人のシスターが出てきて、お母さんの思い出、「マリアへの信心が深い、優しいお母さん」を語ってくれた。コルベ師が亡くなった時、知らせに来たのは、ニエポカラヌフのガブリエル修道士だった。報告を受けて、「お母さん」は既に覚悟をしておられた。しかし「二つの冠」は、まだ秘密にしていた。修道士が帰った後、お母さんはニエポカラヌフの院長神父宛に手紙を書いた。そのとき初めて「二つの冠」の秘密を明かし、公となったのです、そこの修道女院のシスターから聞いた。お母さんは、ある日、出かけた際、途中で不具合になった。近くに2人の看護師が居り、助けて、近くの石段に座らせたが、突然、手をあげて、目を空に向けて「息子よ」と小さく言って前のめりになり、亡くなった。お母さんは、シスター達の墓地に葬られるのを望んでいた。墓地をお参りしたとき、自分の母の事をも思い、祈った。シスターが言った。「日本人で、お母さんの墓参りをしたのは、あなたが最初です」
★コルベ師からイノチを助けられたガヨビニチェックさんを3度訪ねた。イノチをもらったとき、彼は、ありがとう「ジンクーエン」と言わなかったのが一番の残念です、と言い、青い目から涙を流した。3度会ったときも、そうでした。
★この映画を作ったスタッフの皆さんに、ポーランドの修道士達に、ポーランドの皆さんに、ありがとう、と申したいです、「ジンクーエン」。私は深くアタマを下げた。大きな音の拍手をいただいた。13分の話だった。
★話の後で、駐日ポーランド大使から「感謝状」を頂いた。「ポーランド文化の普及、キリスト教的な価値の伝達、青少年教育のご活動、ポーランド人宣教師の事業を長年にわたり継承された」と書かれている。名誉ある感謝状だった。
★私は誉められる事は何もなく、反対にポーランド人の修道者から助けられたのが実感です。握手をして、また三方に「ジンクーエン」とアタマをさげた。席に戻ると、あの例の2人の司祭が、喜んで、ニコニコしながら、手を振ってくれた。
★会場が暗くなり、いよいよ映画が始まった。私のカラダは何故かいつまでも小刻みに震えていた。

2017年12月12日火曜日

「二つの冠」映画の前に、隠れたカットウがあった

長崎のカトリック・センターの映画上映ホールのトマ修道士と、松下修道士です。(写真がブレていて、すみません)。2人とも映画に出ているそうです。これから、コルベ神父の生涯の映画「二つの冠」が、いよいよ上映されますが、その前に、今日は、これまでの知られざる裏側の一連の流れを、知って欲しいのです。待ちに待った映画ですが、実は、このときトマのアタマの中は混乱状態でした。写真がブレているように、アタマの中もブレていた。映画を見る前に心配事があったのです。
★振り返れば、今年の10月末のある日、ホームの自室で昼寝をしていたトマは、2人のポーランド人司祭が突然、入って来て起こされた。12月11日に長崎で映画の上映が決まった。「実は、映画・上映の前に、トマさんに、10分ほどの自前のコルベ神父の話をして下さいませんか」「え、私が、ですか? いや、ですよ。私には、とても出来ません。長崎には適当な司祭も居るし、その人に頼んでください」「いや、いや、トマさんの話の方がいいのです。わかっています」。トマは必死で断り続けたが、2人の司祭はガンとして聞かない。あきらめない。しきりに、「トマさん、頼みます、お願いします」を連呼する。「何を話せば、いいのですか」。押し問答になった。「どうしても出来ません」。2人の司祭は、両の手を合わせて帰って行った。確信が持てないままに、別れてしまったのです。
★11月、長崎・聖母の騎士で、女子高校生たちに話をした。そのとき偶然にも、聖コルベ館で、ちょうどポーランドから映画の関係者が来て、あの2人の司祭も来て、院長神父さんが応対していた。「これは神の計らい」と、私は女子高校生の群れから外れて、その場に入り、そのとき、はっきりと「私の話は、院長さんにお願いします」と、その場で断った。院長さんは話を承知してくれたので安心した。その後、自室に来た司祭の1人に、はっきりとお断りの手紙を出した。返事はなかったが、これで終わった事と思っていた。
★12月に入り、院長さんから電話があって、「何か、トマさんに『章』を贈りたいそうです。本名がいいか、小崎がいいか、尋ねています」。何のことか分からないが、「小崎がいいです」と返事はした。(カトリック・センターに着いて気がついたのですが、何とか、トマをステージに上げ様とした策でした)
★そして、いよいよ本番、上映の日となった。ホームを出発するとき、ステージに上がれば大変と、修道服を着て、スソをたぐり上げて、その上から黒のジャンパーを着て隠しておいた、「トマさん、おなかが、ふくらんでいるよ」「そうか、なァ」
★カトリック・センターに着く。聖母の騎士からも院長さん初め、10数人が修道服姿で到着した。映画の監督さんと握手して、担当の女性から「感謝状」を受けること、その前に10分ほどの話をすることを告げられた。あの司祭2人も居た。「手紙、もらったよ」。でも効果がなかった。院長さんに迫ると、2人でステージに上がろう、と言う。幸いに30分ほどの時間の余裕があった。「2人で上がるなら、私が1人でします」。そして混乱したアタマを整理しているのが、今日の写真です。覚悟は決めました。心臓はパク、パク。足はガタ、ガタ。「よし、それでも、ガンバルぞ」。映画を見るまで、まだ遠い。

2017年12月11日月曜日

コルベ神父の映画「二つの冠」は今夜が上映です

昨年の8月9日、長崎・原爆の日、母の命日でもあった。午後から、ポーランドの映画取材班が、長崎の聖コルベ館へ来て、コルベ神父の映画の撮影が始まった。私も呼ばれて取材に応じた。映画の題目は「二つの冠」。コルベ少年が、町の教会の聖母子祭壇で、聖母マリアさまから見せられたという「赤い冠、白い冠」のことで、コルベ神父の全生涯を表している。
★あれから1年4ヶ月、映画は完成し、既に東京では上映され、今夜、長崎のカトリック・センターでもその映画が上映される。待っていました。私は、どのように写っているでしょうか。心、ワクワク、期待しています。
★ホームからも、7、8人が観映に出かけます。もちろん私も行きます。ホームの出発は4時です。映画は6時から始まります。帰るのは10時頃になるでしょう。映画を見ての感想は、明日のブログ・日記に書きましょう。

2017年12月10日日曜日

お昼の食事は、これでした。完食すれば健康によし

三度の食事の時間が近くなると、自然に、食堂の入口の長椅子に、毎回、同じ顔ぶれが集る。扉が開くのを、ジーッと待っている。食堂内では既に介護が必要な人たちが食べている。歩ける人も、どうしても食事に時間がかかる人は、早めに入れてもらえる。健康な人たち、車を押している人も辛抱強く待っている。
★誰かが、「ゼンザイが食べたかね」と言った。そういえばホームに入っている人たちは、自分の好みの食事は食べられない。私は、ぼんやり、「そう言えば、夏に、トウモロコシの蒸かしたのを食べたかったな」。テレビで食べている姿を見たのだ。食事に対して、特別な好みや思いは無いが、やはりホームの生活は寂しいと思う。
★お昼のメニューは、さつま芋ご飯、柔らかチキンソテー、ゴボウのおかか煮、つけもの、こんぶのすまし汁、ブドウ、だった。食事のときは、皆さん、会話も無く、黙々と食べている。食べる時間が早い。もっと、ゆっくり、くつろいで食べたいと思うが、そうは行かない。あと片付けがあり、洗いがあり、掃除もある。
★やっぱり、自宅で、一人ででも、自由に暮らしたい思いは起こるだろう。ホームに居れば、食事はカロリーで計算され、健康が保てる。独り暮らしは、そうはいかない。ホームの人の長生きは確かだ。自由を選ぶか、管理を望むか。結局、人間、最後は歩けなくなります。前にも書いた。「人は、オシメで始まり、オシメで終わる」
★何んか、暗い話になった。屋外では、雨の降る音がしきりにしている。「アッ、ピカッと、いなずまが光ったよ」

2017年12月9日土曜日

祈りとは、今を肯定し、未来に希望を持つことです

女性が聞いた。「祈り、とは何ですか?」。答えに難しい質問だね。「自分で、考えなさい」
★食堂で、隣の席の滝神父さまが、私に尋ねた。「お母さんの命日は何にち、だね?」「9(ここのか)です」「9日のミサの意向は、お母さんのためお祈りするからね」「ありがとう」。そして今朝の食事の時、「ミサの祈り、ありがとう」「お父さんは?」「19日です」。父の事は殆ど考えない。記憶では、父は、19日に亡くなった、と思っていたら、今、ノートを調べたら、昭和10年3月9日に死亡していた。父、46歳。母、45歳。どちらも「9」の日だった。
★浦上には「9」(原爆)の日に、1軒の家に、近所の信者が集まって、先祖や故人のためロザリオを唱え、その後で、1家族から、3、4人の霊名の聖人、「聖マリア」「聖ドミニコ」「聖ペトロ」「聖エリザベット」など長々と呼び上げて、皆で「我らの為に祈り給え」と祈る習慣があった。その家族らも老齢化したであろう、今でも続いているだろうか。
★コルベ神父は、「マリア」「マリア」と呼吸し、それが祈りだった。「望みを叶えて下さい」だけが祈りではなく、苦難が来たとき、乗り越えるチカラを求めるのも祈りだろう。祈りとは、今を肯定し、未来に希望を持つことだと思う。生かされている、ありがとう、かんしゃ、これが祈りの基本だと思う。
★ホームでは、午前中、「コーラス」「軽体操」といって、皆さんが食堂に集まって、両手を、アタマ、胸、足へと動かしながら、童謡を歌う。結構、これがカラダのためになるのです。その後、ネットと張って、両側に分かれて、フーセンを飛ばし合う笑いの多い競技があった。幼児になった「つもり」で参加している。楽しかったよ。

2017年12月8日金曜日

無原罪の聖マリアの祭日。戦争開戦。何処に居た?

両手を広げたマリアさま。足元に地球。御足は「ヘビ」を踏んでおられる。無原罪の聖マリアさまの御姿です。今日が、そのお祝い日(祭日)でした。写真の無原罪の聖マリアのご像は、トマの自室に飾っています。アメリカ・テキサス在住のKoKo洽子さんからの贈り物です。マリアさまに守られています。
★「無原罪の聖マリア」というと、コルベ神父に直結します。コルベ神父は、マリアさまを表現するとき、「けがれなき聖母」「インマクラタ(ラテン語)」「ニエポカラナ(ポーランド語)」を使いました。全く汚れの無いマリア。そして私たちも「清さを保つ」人間になる。けがれなき聖母に全く奉献して、マリアさまの道具になって、マリアさまのために働く騎士になる。そのため沢山、苦しみました。最後は「マリアを通してイエスへの愛」をつらぬき、友のために命を捧げた。「いま、一歩、前に、進みなさい」。コルベ神父の耳に、マリアさまの御声がひびいたのでしょう。コルベ神父はナチの所長の前に進み出た。「わたしが、この人の代わりになります」。餓死の地下室でも、コルベ神父は「けがれなき聖母」を見つめていた。マリアさまを見ていた。慰められていた。そのように信じます。
★また今日は、日本と、アメリカ、イギリス、オランダと太平洋戦争を開始した日でもある。1941年、昭和16年のことでした。わたしは13歳。その日、どこに居たか。長崎大学病院のベッドの上に居た。骨盤と背骨のカリエス、肺の肋膜炎の治療中でした。あの日の出来事は忘れない。日本の飛行機による真珠湾攻撃で、アメリカの軍艦を撃沈した。「バンザイ、バンザイ」。誰もが叫んだ日です。既に中国と戦争をしていたが、さらに暗い戦争の始まりだった。戦争に「バンザイ」は2度と叫びたくない。「戦争が、ありません、ように」。無原罪の聖マリアさまに祈ります。

2017年12月7日木曜日

尿が正常に出る。生かされているの実感。感謝のみ

先の日曜日から「待降節」に入り、祭壇の生け花の左横に、大小4本のローソクが置かれている。日曜日ごとに、1本づつ灯を増して行きます。いまは1本だけ灯をつけて、ミサを捧げます。待降節の日曜日は4つあります。そして御降誕の祭日・クリスマスです。
★昨日は病院へ予約の診察へ行きました。午後からの診察です。車で25分。高原修道士が運転です。面倒を見てくれます。ありがたいことです。2階、泌尿器科の受付へ。次に3階の検査室へ。普通ならば血液の採取、尿の採取があるのに、この日は尿検査だけでした。尿の判定が出るのは、15分ほどです。検査紙をもらって、泌尿器科へ。30分ほど待ちました。担当の先生から呼ばれて、診察室へ。問診。「尿は、血尿も、糖も、蛋白も出ていない。少々濁りがあるのはステントのためでしょう」「次の診察は、2月中旬。その時、血液、レントゲン、調べて、ステントの月を決めましょう。5月の連休明けか?」
★帰りの車の中で考える。よくぞ、1つの腎臓は頑張ってくれている。22歳の時から、もう90になろうとしている。私にとって、尿が正常に、普通に出るのが、ふしぎです。よく耐えたものです。「生かされている」とは、この事でしょう。感謝して、残された人生を生きよう。
★いま、ここまで書いたところで、男子職員が戸をノックして、姿を見せた。「変わりないですか。見回りです」「やあ、ありがとう」

2017年12月6日水曜日

昨日はホームの創立記念日。ハーモニカ演奏もある

昨日はホームの創立記念日でした。別に式典はないが、昼食に、大きな紅白のおマンジュウが食卓を飾った。お赤飯、お刺身、焼き肉などがあった。
ホームの創立は、1960年(昭和35年)です。57年になります。県から正式に認められた日で、ホームの歴史は、それ以前、10年ほど、さかのぼって続いている。戦争が終わると同時に、老人達が集まってきた。それを数えると、70年近くになります。長い歴史は、やはり誇りでしょう。
★トマは、1953年に、もう老人たちの養老院を知っている。会いに行っては、話しかけていた。最初は、名称はなく「養老院」と呼ばれる。正式に創立日から「聖フランシスコ養老院」となった。時代と共に「養老院」はなくなり「園」となる。
★長いホームの歴史の中で、園長神父さんも、次々と替わった。皆さん故人となられた。これまで多くの職員さんやシスター、修道士が働き、また、その数以上の人たちが生活している。墓地の十字架も沢山になった。ホームが、今日まで、つながれて行ったのは、基本にカトリックの愛の精神、フランシスコの心があったからだと言えよう。
★午後からは、3人の女性による「ハーモニカ演奏」があった。可憐な、細い音のハーモニカも、いいね。静かに耳を傾けると、心の奥に染み込んでいく。クリスマス、長崎の鐘、ふるさと、諫早の「のん、のこ節」など。職員が、皿を2枚、手に持って、チャカ、チャカ、言わせながら、踊った。この辺では親しみのある踊りです。時間は、30分ほどで終わった。
★今朝は、ミサの前に、考えた。老人ホームに居て、老人たちを見ながら、人生とは、何だろう? 人は生まれ、育ち、独り立ちをする。沢山の困難や愛情、喜び、悲しみに翻弄され、辿り着いたのが、ここ、ホームだ。色んな経験を背負ってきたが、大切なの「今」であろう。今を、どう生きるか。誰も、過去は語らない。自慢しない。今を懸命に生きている。苦しみが押し寄せれば、川に揺れる「ささ舟」のように、流れに身を任せるしかないであろう。
★今日は、午後から、高原修道士さんの運転の車で、諫早の総合病院へ予約の診察へ行きます。血液・尿の採取、検査があるでしょう。病院へ行くのは気が重い。

2017年12月5日火曜日

野々村哲さんが来る。トマの写真ネガ集を全て収録

覚えていますか、この人?野々村哲(さとし)さんです。
★15秒の出会いから、もう1人、塩沢美樹さんと「トマさんのことば」を編集した男性です。いま長崎・聖コルベ館の資料室に、トマが残した「写真ネガ集」が56冊あります。貴重な資料です。野々村さんは、写真が趣味で、トマのネガ集に興味を示して、56冊分のネガ集を全てパソコンに収録し終わりました。その収録を見せるために来られました。
★可能ならば、その収録の分から、心を魅せられる写真を集めて、写真集にまとめたい気持ちがあります。「トマさんのカメラ」になるかも。希望しております。56冊ですから膨大な枚数になります。そこから選ぶのはタイヘンでしょう。主な箇所を、持参のパソコンで見せてくれました。
★写真を撮った後、乱雑にするのではなく、ネガを小マメにまとめて、整理して、ファイルに残していたのが好かったんですね。コルベ神父と交流があった人物写真のネガ、ゼノ修道士と一緒に大浦を歩いて撮った貴重な写真のネガ、変遷する建物を写したネガ、聖母の騎士修道院には、ポーランド人司祭、修道士、日本人の修道士たちが、30人ほど生活していた時代のネガなど、貴重な記録となっています。
★1970年正月には、修道院の中で、修道士たちが1人1芸。落語、手品、小劇、習字、変装して歌うなど、盛り上ったカラーの写真もあった。カラーネガは痛みが激しかった。記録の大切さを思い知った日でした。野々村さんの働きのお陰です。
★写真を次々に見ると、当時の状況が思い出されて、人生の出会いは、大きな足跡、恵みであったのを感じました。野々村さんの協力に期待しています。

2017年12月4日月曜日

傾聴ボランティアの女性が訪問。話ばなしの時です

昨日、自室のテラスから見た夕暮れです。湯江教会のアンゼラスの鐘の塔が、すぐ前にある。左は教会の屋根。右はホームの建物、緑は「非常灯」。向こうに赤く焼けているのは諫早平野です。こういう部屋に暮らしております。
★昨日は「傾聴ボランティア」の女性が来られた。女性は聴くだけ。今年の3月から初めて、月に1度、1回は台風のため休んだので、9回つづけて来られた。こちらは、しゃべるだけ。1時間が過ぎる程、語ります。ホームで、こんなに長時間、語るのは、この時だけでしょう。女性は時折、私の言葉を繰り返します。バスを2回も乗り継いで、無料で、よくぞ来られる。感心すると共に、この日を待っている自分と、「さよなら」した後は、肩の荷が軽くなるのを感じます。ありがたいことです。
★語る内容は、毎度、同じでしょう。①ホームに入居した当時は、心的に動揺があった。退屈で、無気力。今は生活にも慣れて、落ち着いてきた。変わりなく日々を迎えるのが幸せです。②周りの人と摩擦が無いように気をつける。挨拶が大事です。③時折、新聞に掲載される「ホーム介護のよし、あし」。切り抜いて、参考にする。「施設は清潔で、不快な匂いはないか。職員の振る舞いは丁寧か。利用者の身だしなみは整っているか。介護する側、される側のチカラ関係、上から目線が固定化していないか」
★④心配な事。カラダのこと。ステントの入れ換え、考えますね。⑤三食、食べて、大のトイレが有って、よく眠る。自分の足で歩ける。この4つの基本があれば幸せ。⑥90までは頑張る。1つの区切りになるから。あと3ヶ月。⑦ホームの活動で、雲仙の青雲荘へ日帰りで出かけた。小浜(おばま・女性の住所)を通りましたよ。愛野の展望台が変っていたので、びっくりしました。
★昨夜の月です。夕食を終わって、3階の廊下で窓から見ました。「15夜は過ぎているよね。16夜かな」。急いでデジカメ取って、月を写して、鐘の塔の夕暮れを写した。この日も静かに、悩み無く、暮れて行きました。7時半に寝支度をして、8時前には床に入りました。寝るのが一番の楽しみです。「守護の天使よ、我が眠り、見守り給え」

2017年12月3日日曜日

100歳、大阪の孝子さんから、愛がこもった小包


大阪の孝子さんから、小包が届いた。この女性からの小包は、もう中を見なくても分かっている。袋入りのお菓子が、6、7個。それに黒の毛糸で編んだ帽子か、マフラーが入っている。ああ、やっぱり、そうだった。
★白の紙に、裏表に、孝子さんの直筆の手紙があった。「百才過ぎて、ご恩忘れず、編むマフラー。田川姓にかえれば、母恋し」。グッとくる便りだよ。「百才過ぎて」とは、孝子さんは大正6年、1917年4月生まれ。確かに、もう2018年になろうとしている。「ご恩忘れず」とは、一緒にポーランド旅行へ巡礼した。その事を示しているのだろう。
★裏に、まだ、文章の、つながりがあった。「すっかり、ご無沙汰していますが、ご容態いかがですか。チョコレートの原料、『カカオマス』。体に大変いいそうですよ。12月から寒さ、きびしくなりそうです。お大事になされませ。孝子」
★電話をかけたが、出ない。大きな建物の4階に住んでいる。2度、3度、訪ねたこともある。孝子さんは独り住いだが、とにかく、ジッとしていない。字を書いたり、絵を描いたり、手編みをしたり、カラダを常に動かしている。それが健康のヒケツだろう。時折、こうして便りや贈り物があるのは、ダツボウ、あるのみです。感謝して、みんなで分けて喜びました。孝子さん、いつまでも健康でいてください。

2017年12月2日土曜日

オスモウさん乗せて、ワッショイ。誕生会と忘年会

ホームの誕生会と忘年会。園長神父さまの話。「今月の誕生会をお祝いするのは4人です。忘年会も一緒になっているが、どうも自分は『忘年』はしっくりこない。神さまから沢山のお恵みを頂いた。それを忘れる。出来ないね」
★話とお祈り、カンパイとつづくなかで、別の部屋では、ごらんの出し物が準備されていた。「オスモウさん(介護の女性職員)を載せた『みこし』だね。ワッショイ、ワッショイ。担ぐのは介護の男子職員たち。チカラは強いよ。まかせなさい」
★食堂には皆さんが集まった。栄養師さんも炊事の職員も1人1人の好みに気をつかう。前もって、イチ、イチ、聞いて回った。すき焼きだけど、牛肉がいいか、豚肉か、魚がいいか、いろいろ有るンだね。細かいところまで、心を注ぐよ。本当に、80人近い人をお世話するのはタイヘンだよ。トマの隣に大曾神父さま、次が滝神父さま。このような席も職員さんが気をつかって場所を決めてくれる。この食卓は牛肉の『すき焼き組』だった。右の写真は、まだ始まる前だよ。「ハッピバスデイ・ツーユー」。誕生日を迎えるのは、いいね。12月で、今年は、これで全員が誕生会を祝ったことになる。平凡だが、皆さん、1つ歳を重ねたわけです。ここで出し物が入ってきた。食堂に、笑いや、拍手や、「モッテ、コーイ」の声がかかる。この『オスモウさん』ちょっと、重たいかな。見てもわかるよ。心配だな、落っコチなければ、いいが。
★この後は、例の「のど自慢」の歌が出たが、声を張り上げ歌うのは90歳代で、80歳代はおとなしくしていたようでした。楽しい日となった。歳を重ねるのもお恵みです。

2017年12月1日金曜日

ああ、もう12月だよ。早やーィ。いい年だったよ

今年は何の年だった?トリ年だよ。早いですね。12月に入りました。あと1ヶ月たったら、今年も終わる。「いい年だったよ。生かされているのだから」。来年はイヌ年になる。
★ホームに居て、毎日が変らぬ生活をつづけていると、時の流れは早い。12月は多々忙しいことだろう。11日(月)には、コルベ神父の映画があり、先日、NHKテレビ(長崎)から取材の申し込みがあり、19日(火)に長崎・聖コルベ館へ出向くことになった。まだトマから、しぼりだすモノがあるのだろうか。
★今日は、入浴した。午後からは、眼科の女医さんの診察があった。メガネは使っていないが、最近はナミダが出るようになる。聖書の文字がかすむ。
★待降節が始まり、やがて主の御降誕祭・クリスマスが来る。大人でも楽しみである。年賀状の準備もあり、12月は、あっと言う間に過ぎ去るだろう。「早やーい、ね」とお互いに話し合っている。自分を考える時、やはり根底は、来春は「90」になるという現実だろう。「歳に負けるな」「自分は90になっても走っている」という勇ましい人も居るだろうが、自分は、老いの中での年齢を考えてしまう。90歳は人生の一つの区切りに思う。90の老人に何が可能か、どんな生産性があるのか。年齢を意識せずには居れない。確かに、生きていれば、良いこともある。
★少年の頃、小学生たち、3,4人の仲間が居て、よく冒険に出かけた。暗い穴やトンネルや、森の中など、入って行くと、小1、小2の子が、怖くて泣き出す。すると小6の年上の子が「泣くな、シンパイするな。オレにまかせろ」。自信に満ちて言うのだった。すると幼い子たちは安堵の胸をなでおろした。いま、遠くなった昔の事を思い出す。「オレに、まかせろ」。そんな気持ちがあるだろうか。