2017年12月14日木曜日

映画「二つの冠」を見ての感想。昭和の匂いを思う

茂みの道を行く少年と母親の会話から始まった。少年は「冠を見た。両方とも欲しい」と母親に秘密を明かす。率直に「二つの冠」。題目から入った。映画では、コルベの少年時代のことが、よく理解できなかった。宇宙へ飛ばすロケットを考えていた少年。また一方では、国家のため軍人となって戦う気持ちも抱いていた。なぜ神学生の道に進んだのか、映像では読めなかった。
★ローマに留学して、「けがれなき聖母の騎士会」を立ち上げる様子は、手際よく描かれていた。騎士会創立100周年を意識してか。ラチスボーヌンの改心の教会も出ていた。懐かしい。
★次の場面が深く印象に残った。中央にコルベ神父が居て、手前、両脇に2人の修道士が居る。これから誓願を立てる修道士達だった。コルベ神父は、彼らに諭す。「行くべきは清貧の生き方。フランシスカンだから貧しく生きる。自分個人の所有物は持たない。次いで、貞潔の生活。これが最も困難になるだろう。神は人間に、愛情や性欲を与えておられる。その普通の流れに逆らって、生涯、貞潔の生き方を選ぶのは尋常ではない。人間には出来ないが、神と聖母マリアが助けてくださる」。この諭しは、私が70年の過去を振り返ってみても、当然よく思い当たる。人間は弱いものです。迷います、傷つきます、汚れます、でも、また立ち上がる。長い人生です。いろんな誘惑、惨めさがある。
★映画には「清貧」と「貞潔」だけが諭されていたが、実は、コルベ神父の特徴は、もう1つの誓願、「従順」にある。これが大切。コルベ神父の本命だ。コルベ神父が、騎士会を創立する、騎士誌を発行する、ニエポカラヌフ修道院を設立する、東洋へ宣教に出かける、これら総ては、彼が個人的に自由に行動したのではなく、先ず必ず長上(総長、管区長、院長など)に意見を提出して、「許可」を得てからの進軍であった。自分の意思ではなく、けがれなき聖母の意思に従う。マリアの御意思は目上によって示される。そのためコルベ神父は絶えず長上に沢山の手紙を書いて許可を願った。許可があれば、安心して、彼なりの行動が出来る。コルベ神父は「従順の聖人」とも言われる。
★映画で印象に残るのは、もう1つ、「マリア」の挨拶がある。修道院の暗い廊下と個室。病室であろうか。明かりを灯した見回りの修道士が「マリア」と低い声で挨拶する。暗闇の病人も「マリア」と応じる。「マリア」の挨拶は、ニエポカラヌフ修道院だけの「マリア信心」の習慣だった。これは長崎・聖母の騎士修道院でも受け継がれ、実行されていた。実際、私たちも「マリア」の挨拶を、ごく自然に、楽しく実行していた。今はもう無くなったが、なんとも、この「マリア」の挨拶は懐かしい。コルベ神父自身が「マリア」を呼吸して生きておられた。聖人と共に生きる者は本当に幸せである。
★「二つの冠」は、コルベ神父を全く知らない人には、理解に少々困難を感じるだろうと思う。ある程度、コルベ神父を知っている者には魅力的な映画である。沢山の、古い写真が出てきて、私には「昭和の匂い」を感じるような気持ちであった。
★ショパンの国だけあって、音楽は素人の私にも、心を揺らすものを感じた。
★映画が終わって、休憩をとって、監督と俳優のトークショウがあって、散会となった。去り行く人びとの群れに、「ジンクーエン」「ジンクーエン」の言葉が聞こえた。ホームに帰って床に就いたのは、11時15分。初めての時間だった。13分の話に安心したのか、眠れた。