2017年12月13日水曜日

話は13分。最後は「ジンクーエン」で締めくくる

ステージに上がるのに、木製の階段を、院長神父さんが手伝ってくれた。椅子に座って、快調にしゃべり出した。
★修道士の小崎登明、老人ホームに入って4年目、89歳です。昨年の8月、原爆の日、母の命日に、ポーランドから映画の取材班が聖母の騎士に来た。「なぜ今どき聖コルベなのか?」「けがれなき聖母の騎士会創立100周年に当たるので、映画を作って、広く上映したい」「題は何ですか?」「二つの冠です」。コルベ少年が、町の教会の聖母子祭壇で、聖母マリアから見せられた白と赤の2つの冠のことです。
★原爆に会って、家を失い、母を失い、孤児になった私を、救ってくれたのがポーランドの修道者たちだった。戦後すぐにコルベ師の列福調査が始まり、最初は「愛の殉教者」を目指していたが、途中で「証聖者」に変更になる。証聖者になるには2つの奇跡が必要です。奇跡は認められ、列福式が聖ペトロ大聖堂で行なわれた。その時、パウロ6世教皇さまを初め、全聖職者の祭服は白色だった。11年後、聖人に挙げられるときは「殉教者」。ヨハネ・パウロ2世教皇さまで、大勢の信徒のため大聖堂の広場で行なわれたが、全聖職者は赤い祭服だった。2つの式に与った私は感動した。「かつて少年が見た白と赤の2つの冠は、話噺(はなし・ばなし)でなく、現実に、いま、私たちの目で見える形で実現した。感謝の祈りを捧げました。
★この世で一番大切なのは「愛とイノチ」です。コルベ神父の「愛とイノチ」を追い求めて、私はポーランドを10回巡礼した。コルベ師が聖人に挙げられて、すぐに「お母さん」の墓参りをした。クラクフの観想修道女会で、30年を過ごされた。厳しい生活のシスター達で、屋外には出られない。百数十人のシスターが居た。「お母さん」は禁域外に小さな部屋をもらって、シスター達のために受付係、外交係、買い物係として、働かれた。数人のシスターが出てきて、お母さんの思い出、「マリアへの信心が深い、優しいお母さん」を語ってくれた。コルベ師が亡くなった時、知らせに来たのは、ニエポカラヌフのガブリエル修道士だった。報告を受けて、「お母さん」は既に覚悟をしておられた。しかし「二つの冠」は、まだ秘密にしていた。修道士が帰った後、お母さんはニエポカラヌフの院長神父宛に手紙を書いた。そのとき初めて「二つの冠」の秘密を明かし、公となったのです、そこの修道女院のシスターから聞いた。お母さんは、ある日、出かけた際、途中で不具合になった。近くに2人の看護師が居り、助けて、近くの石段に座らせたが、突然、手をあげて、目を空に向けて「息子よ」と小さく言って前のめりになり、亡くなった。お母さんは、シスター達の墓地に葬られるのを望んでいた。墓地をお参りしたとき、自分の母の事をも思い、祈った。シスターが言った。「日本人で、お母さんの墓参りをしたのは、あなたが最初です」
★コルベ師からイノチを助けられたガヨビニチェックさんを3度訪ねた。イノチをもらったとき、彼は、ありがとう「ジンクーエン」と言わなかったのが一番の残念です、と言い、青い目から涙を流した。3度会ったときも、そうでした。
★この映画を作ったスタッフの皆さんに、ポーランドの修道士達に、ポーランドの皆さんに、ありがとう、と申したいです、「ジンクーエン」。私は深くアタマを下げた。大きな音の拍手をいただいた。13分の話だった。
★話の後で、駐日ポーランド大使から「感謝状」を頂いた。「ポーランド文化の普及、キリスト教的な価値の伝達、青少年教育のご活動、ポーランド人宣教師の事業を長年にわたり継承された」と書かれている。名誉ある感謝状だった。
★私は誉められる事は何もなく、反対にポーランド人の修道者から助けられたのが実感です。握手をして、また三方に「ジンクーエン」とアタマをさげた。席に戻ると、あの例の2人の司祭が、喜んで、ニコニコしながら、手を振ってくれた。
★会場が暗くなり、いよいよ映画が始まった。私のカラダは何故かいつまでも小刻みに震えていた。