2017年7月31日月曜日

純粋な男の子の精力的なチカラ。無心が体内から光る

昨日の「納涼会」の出し物で、特に目を引いた子供がいた。それが写真の左側の子です。3人とも懸命に叩いているのだが、手前の子の表情は全く違う。私は、それを見すえたのです。終わるまで、この子を見ておりました。
★しばらく観察していると、様々な事が私の中に噴出してくる。自分の持てる力を全部出し切って、無心にバチを動かしている子供。「言われた通りに、動いている」「手加減、しようと、思わない」「困難に、負ける心も、ない」。この子を観察していると、子供って、本当に、汚れなく、純粋ですよ。「子供のように成らなければ、神の国には入れない」。よく、分かります。見ていて、可愛いじゃないですか。自分の任務を懸命に遂行する。心の中に、余分なものは一切ない。体型も崩さず、最後まで頑張りました。こういう場面に遭遇すると、心は本当に癒されます。
★傾聴ボランチアの女性がきた。毎月、1度来ている。もう6度目になる。老人は、子供と違って、汚れや、傲慢や、駆け引きが多いね。まあ、話は、からだの調子が不具合なことから始めました。老人は弱いよ。これから先、どうなるかの不安もある。
★女性は、何でも辛抱して聞いてくれる。彼女は、意見は一切しない。話が途切れないように、こちらは次々と語りつづける。文句が多いね。あの太鼓の坊やに比べれば、恥ずかしいよ。「罪のない者から、石を投げ打て」と主は言われた。年寄りから、1人、1人と、立ち去った。聖書の物語は真実を表している。
★朝から入浴した。入江さんも、キリエさんも居なかった。1人で入った。入江さんは明日が誕生日です。大正14年に生まれた。92歳になる。おめでとう、を申したい。
『トマさんのことば』。お例文⑯埼玉県、美津子さん。「母の死をきっかけにごミサに与るようになり、十年前に洗礼を授けていただきました。もし、信仰を持つことが無かったならば「ふしぎなこと」に気づかずに暮らしていたかもしれません。ブログを通して、また「トマさんのことば」を通して、私はたくさんの影響を受けています。宣教という言葉の意味が、やっと分かった様な気がしています」

2017年7月30日日曜日

納涼会。太鼓に踊りに、料理、カラオケ。盛り上った

7月の終わりに行なわれる、恒例の納涼会。楽しみにしています。芝生の庭に、ヤグラが組まれて、夕方、景気づけに太鼓の演奏から始まった。肝の底を揺るがす高音の音。「池に飼っていたフナ魚が、びっくりしたのか、エサを食べなくなった」と女性がつやいていた。見事な太鼓だったよ。
★ホームの者ばかりではない。知らない人が殆ど。近隣、地元の子供さんや大人、誰が誰やら、わからない程の人が集った。代わる代わる踊りがあり、カラオケがあり、ハーモニカも聞こえる。それは、それは、騒がしいといったら、盛り上がりを示していた。
★もちろん料理もある。バイキング形式で、食べたり、飲んだり、これも楽しい。スダレで屋根を作って、焼き肉屋、串焼き屋、カレーライス屋、アイス氷屋の店も繁盛していた。職員は黄色いシャツを着て、目につくようにしていた。ニコニコ顔で、愛嬌がいいよ。みんな楽しいんだね.
★踊りで、2人連れ、黄色いスカートを履いた女性は、「あれ、顔、知っているよ」と思えば、調理場の栄養士さんでした。多彩な趣味をお持ちです。
★夜も暗く掛けて、盆踊りが始まった。夏の暑さを吹き飛ばす踊りでした。最後は、バンザイ・三唱だよね。
『トマさんのことば』。お例文⑮福岡県、雪義さん。「そばに置いていて手に取りやすく、短い言葉の中に過ぎし日を振り返って考え、反省するのに私にとっては大切な本の一冊となりました」

2017年7月29日土曜日

沖縄からマンゴが届いた。美しい海、果物、忘れない

沖縄の中部に「泡瀬」がある。毎年、泡瀬の女性が「マンゴ」を贈ってくださる。届くのが楽しみになった。沖縄には何度も行っているので、思い出も数々ある。
★ちょうど10年前になる。私は、稲国助祭の運転で、泡瀬を訪ねた。沖縄の泡瀬といえば、著名なクララ稲国先生の場所である。私が訪ねたとき、クララ先生は、2ヶ月ほど前に故人となられていた。95歳だった。
★泡瀬教会を訪問のときは、教会の信徒会長の長峯文子さんが、10人程の信徒を集めてくださった。「聖母の騎士の修道士が来たから、話題を提供しよう」。集った信徒の方々から、教会にまつわる話や、クララ先生の思い出、信者たちの苦労話など、信仰の話に花が咲いて、笑いや喜びのなかで楽しんだ。その頃から、文子さんが、マンゴを贈ってくれるようになった。だからマンゴには、長い歴史がある。感謝も一杯です。
★クララ稲国先生といえば、すぐ思い出す言葉がある。「悪口、言われて、あたりまえ。失敗しても、ありのまま」。クララ先生の生き方を示す言葉です。
★今朝、長峯さんに電話でお礼を申した。長峯さんは、カトリック小学校を20数年勤めて、この春、退職されたという。その後、ルルドや、ファチマ、スペインの有名なコンポステラなど巡礼の旅に出かけられたと楽しそうに話していた。自分の経験から「足が達者なうちに、巡礼や、旅行を楽しんだら、いいですよ」と勧めておいた。
★沖縄のカトリック小学校は、毎年、修学旅行で長崎へ来て、聖母の騎士にも巡礼していた。だから特に親しみを感じている。
★マンゴを見ると、もう1回、沖縄の海へ行きたい望みにかられる。大きく両手を伸ばして、胸一杯に沖縄の空気を吸いたい。美しい海に、砂浜。広い青空、その中に入れば、萎縮した心も、魂も、よみがえるだろう。
『トマさんのことば。お例文⑭』鳥取県、みどりさん。「素晴らしい表紙に先ず目が行きます。不思議のメダイと十字架に心が吸い寄せられました。本河内のルルドの聖母も。これらが小崎修道士の人生の全てであるということが示唆されています。トマさんを大切に思う人々に囲まれて、私は「幸せな方」だと思いました。どうか長生きされて、ブログをお続けくださり、私たちを励ましてください」

2017年7月28日金曜日

セミよ、ひと夏のイノチだ。幸せに飛んで行けよ

「何だか、わかりますか?」。私より先輩の、足腰がしっかりしている女性が、部屋も遠いのに、「けさ、網戸に、かかっていた」と、大事そうに持ってきた。
★「セミだ、な。小さいな。生まれたばかりだよ」。女性は部屋を出て去った。「写真を、撮ろう」
★1ピキの小さなセミを、観察して、子供の頃を思い出しながら、語りかけた。けさ、生まれたんだろう。7年間も、土の中に、ジーッとして、生まれたかと思うと、今年の夏で終わってしまう。なんて、はかないイノチなんだろう。どうして、そういう自然形態を神は創造したのだろう。
★日野原先生は、105歳まで生きられた。ホームで長寿は104歳だった。セルギウス修道士は103歳まで生きた。人間が生きる限度だ。それを思うと、イジメで、学校の子供が自殺して、自分の命を失うのは本当に悲しい。何度も最近はその事実を思い出す。(前にも書いたと思うが)20代、30代、人生の大きな夢があるのに、僅かなイノチで、我が身を失うのは真に心が痛みます。
★ホームに入って、2年9ヶ月になる。ここ、1ヶ月ほど前から、からだの調子が不具合に感じる。歩けない。真っ直ぐに歩けない。足も痛い。尋常じゃないと感じた。事務所に頼んで、「押し車」を注文した。ショックだよ。もう、こんなハメになったのか。長生きしても苦しみが多い。
★セミは、ミンミン・ゼミというそうだ。写真を撮った後、ガラス戸を開けて、サッシも開けて、紙を上にあげたら、「バタ、バタ」とトンで去った。今年の夏は幸せになれよ。
★『トマさんのことば』。お礼文⑬大分県、恵理子さん。「『トマさんのことば』ありがとうございました。楽しみに待っていたので、大変嬉しかったです。野々村さんと塩沢さん、本当に出会いは神の恵みですね。49ページのトマさんの祭壇に向かう後ろ姿。この『トマさんのことば』を語っているように感じました。これからも私も主の十字架を眺めながら、自分の十字架を担って歩きます。トマさん、心からジンクーエン」

2017年7月27日木曜日

きょうの昼食は、おいしい「ぶっかけ」ウドンでした

きょうの昼食のメニューです。ごはん少々に、ぶっかけ・うどん、出し巻きタマゴ、それにスイカでした。「ぶっかけ」なんて、呼び名が面白いわね。おいしい食事でした。
★調理の献立を作ってくださるのが、勤続30年のこの女性です。栄養士さんでもある。利用者のキライなものや、病院からの診療を生かしながら、食べさせてもらっています。食は健康の元なり、と言います。ホームに長生きする人が多いのは、栄養士さんのお陰でしょう。感謝しています。これからも、よろしくお頼みしますよ。最近は、湯江教会の祭壇の生け花も飾ってくれる。こうした人たち、職員1人1人のチカラが集って、ホームが成り立っているのでしょう。
『トマさんのことば』。お礼文⑫茨城県、まゆみさん。「可愛らしい本ですね。手触りも表紙の写真も文字の形も、そして何よりフランシスコ園に移ってからの小崎さんの笑顔の写真がいくつもあって、うれしいです。小崎さんのお母様の写真もあって、この本を抱いて眠ったら、私も母の夢が見られるような気がします。裏表紙の、命をつなぐ、そんな気持ち という文字を見ていると、私も自分の人生大事に生きなきゃと思います」

2017年7月26日水曜日

苦しみから、恵みを探すのは、とても難しい、と彼

きのう、フランスから来た男性ジャムさんは、聖コルベ館で一杯の飲み物を頂いた。体調を崩して、ホームに入ったとブログで読んだ。「お祈りしました。今回の長崎への旅で、恩返しをしようと来ました」
★喜んで彼ジャムさんを迎えたが、彼の奥さんが難病で苦しみ、亡くなられたと聞いて、私の胸はキツク痛んだ。奥さんとは日本で知り合って、フランスで結婚式をあげて、2人の子供も恵まれた。幸せの絶頂にあった家族だった。それが突然、襲ってきた難病。なぜ人には、とてつもない試練や苦悩が与えられるのか。我々には分からない。奥さんはキリスト信者ではなかった。子供たちは幼児洗礼を受けていた。
★彼は言う。「病気になって、ある日、秋、会社から病院へ行くと、妻が、神父さまに会いたいと突然に言うのです。カトリックの洗礼を受けたい。すぐに司祭を呼びました。妻は言います。死が怖くならないように。神さまの御傍に行きたい。洗礼を受けるため、霊名は何にしよう?少しの時間、考えよう。しかし妻は即座に言ったんです。マリア、です。わたしは、マリアです。ちょうど5年前の、2012年7月24日に神に召される。享年50。若かりし死であった。結婚生活、22年。いろんな思い出があるだろう。一昨日が命日だった。彼はただ1人で、聖母の騎士のルルドでマリアのために祈った。そういう話を聞かされると胸が締め付けられるよ。
★彼ジャムさんは、フランスの西南にある一番大きな町に住んでいる。ルルドまで車で2時間ほどで行ける。「小崎さんにもルルドのお水を送りますからね」と約束してくれた。
★奥さんが亡くなって、5年。まだ、まだ心の整理はついていない。「神さま、これ以上、何を望みますか?」。いま考えていることは、「教会のため、奉仕したい、それです」。この間、100人の男女青少年を集めて、自転車で、5日間走ります。司祭もシスターもいる。何回か休んで、司祭の話がある。夜はテントで眠ります。17年目を迎える。「山にも耐える自転車巡礼」です。実行して信仰を固めました。
★「苦しみから、恵みを探すのは、難しい」。これは彼の言葉だ。「日本を廻って、何を感じますか?」と私が聞いてみた。「やさしさ、です。おもてなし、かな。素直ですよ」「素直って?」「すなお。悪いことを考えていないことです。人は、規則があれば、守らない知恵を考える。チャンスがあればドロボウになる。そういう人や、国には、なりたくない。平和の世の中で、有りたい」
★彼ジャムさんの奥さん、「マリア」のために、祈ってください。
『トマさんのことば』。お礼文⑪茨城県、みふみさん。「全てのお言葉が金剛石のような輝きにあふれるお言葉ですが、まだまだ『あ、あのお言葉は?』というお言葉がたくさんございます。どうぞ第2集(もっと続くと思います)を心待ちにしております」

2017年7月25日火曜日

フランス人が訪ねてきた。心と心をつなぐのは笑顔

きのう、電話があった。「ホームに面会に来たい」という。「遠いんだよ。何しに来るの?」。しかも、フランス人。「3年前の夏休みに、聖コルベ館へ行った。小崎さんは、ちょうど出かける所で、短い間でしたが、ご親切に、冷たい飲み物を一杯下さいました。それでお会いしたいです」。聖書の話じゃないが、それは、それは、ご苦労さん。
★そして、やって来たのが、この男性です。ジャム・ブリュノさん、47歳。最初の私の問いかけは、「なぜ私を訪ねて来るのか?」です。フランス人は答えた。「フランスの人は、アウシュヴィッツで命を捧げたコルベ神父のことは良く知っている。コルベ神父さまが日本へ行ったことは誰も知らない。司祭も知らない」。続いて、「聖フランシスコ・ザビエルと同じ考えです。宣教に挑戦した。自分の命を捨ててまで、キリスト教を守り通した。自分の命より、死んだ後の皆さんの魂が大事です。生きている人と死んだ人とつなげている。小崎さんの『長崎のコルベ神父』を読みました。いまは『信仰の出会い旅』を読む。サインして下さい」。彼の話に感動する。
★彼は、エンジニア。28年前、夏休みに1ヶ月、長崎の外語短大で日本語を始めた。仕事の都合上で、3年間と、4年間と、日本で暮らしたこともあるので、日本語は達者だ。3年前にも来た。仕事柄、各国を廻っている。彼は言う。「世界をまわって人と出会う。心と心をつなぐ」「つなぐためには、何が必要ですか?」。彼は即刻、答えた。「エガオ、ですね。笑顔は心の窓口です。笑顔をつくるためには、心の有余が必要です」
★奥さんは日本人。子供は2人。奥さんは筋肉と神経が衰える難病に罹り、5年前に亡くなった。「昨日が命日でした。聖母の騎士のルルドで祈りました」。様々な経験をしている彼の話は、まだ続きそうだ。
『トマさんのことば』。お礼文⑩千葉、ひさのさん。「トマさんの蘇鉄の前の写真、とても自然で後方の雲の動きも感じられます。『前に進む力を失うな。自分らしく生きよ』ここにくるとしばらくとまり、二、三回くり返し「ハイ」と自然に声がでてきます」

2017年7月24日月曜日

ゼノ修道士の靴。ニホン全国を歩いて神の愛を伝えた

「大きなクツだね」「リッパな、クツじゃないか」。ゼノ修道士さんが愛用したクツたちです。長崎・聖コルベ館資料室に保存されている。「これを使って、日本全国を歩き周ったんだね」。クツが光るというか、ふしぎなチカラを感じた。貧しい人に、神の愛と命を伝えたんだね。大切な遺品です。
★1953年(昭和28年)の、私の手帳日記に、ゼノさんの記事がある。3月3日の項目だ。『火曜日。おひな祭り。朝、ゼノさんが来て言った。「きょう、おひな祭りね。ニホンのお祝い日です、これね。かわいそうの人、貧しい人、ね。お祝い、来ても、何もないです。わたし、こん晩、7時、皆さんを200人あつめて、ズボン、ジャケツ、パン、たくさん、あげます。それで、かわいそうの人のため、何か書いてください。貧しい人たち、ね。食べ物、着物、やるばかり、ダメでしょう。その人、神さまに祈る、これ、しなければ、なりません。これ、教えなければ、なりません」。こう言ってゼノさんは、白髪の美しいヒゲを傾けて、きれいな青い目で私を見た。ゼノさんの心は純粋だ。欲がない。安心できる人だ。私は早速、青い紙に、次のように書いてやった。「(前略)これは私の贈り物ではありません。神さまが、この品物の与え主です。私にではなく、神さまに心からの感謝の祈りをささげてください」
★当時、私は25歳で、結核を病み、修道院の一角で静養していた。私の隣がゼノ修道士の部屋であった。だから良くゼノさんは、私に書き物の頼みに来るのだった。いま、あの頃のことを思えば、よくぞ病気に耐えたな、と人生を感じる。ポーランド人の院長さんは、「司祭になる見込みの体力がないから、退会させるように」と勧めていた。ゼノさんから励まされた覚えはない。ただ「ゼノさんのように働ければ、な」とうらやんだ。私は、まだ生きている。冷たく、あしらわれても、悲観しないことだ。助ける、サマリア人は必ず現われる。
『トマさんのことば』。お礼文⑨京都、邦子さん。「物言わぬ冊子にやさしく見守られている気がしました。カバンに入れて、小崎さんに守ってもらいます」  

2017年7月23日日曜日

「ゆるす心」が、むずかしい。いかに、説明するか

6月の半ば、地元の小学校で、小1から小6年まで、287人に話す機会があった。先生が前もって、「講話の題は何ですか?」と聞いた。「たすける心、にげない心、ゆるす心」と伝えた。私の原点は、原爆の日。小6の少年を助けなかった。そこから「助けなさい」。女子中学生を助けてタンカに乗せて運んだが、飛行機が再び来たので、タンカを置き去りにして逃げた。助けていたけれども、困難が来ると逃げる。「困難が来ても、逃げない心」を持ちなさい。
★次は問題の「ゆるす心」です。原爆の丘で、私を叩いた先輩工員が、重症を負って苦しんでいた。偶然に出会った。私はその時に思った。「いい気味だ。ざまーみろ。イジメた人間は、そう、なっても、いいんだ」。私は許さず、その場を去った。これが現実。この事実を、子供たちに、どう話せばいいのか。実は悩んだ。ゆるす心が一番むずかしい。
★日常起こる現実で、殺人された家族や、傷つけられた本人の心のキズは重く、そう簡単に相手を許すことが出来るか、と言っても、とても、とても、許るせるものではない。それが世間の常識だ。
★しかし、傷つけられたから仕返しする。やられたら、やり返す、それが普通の心境だが、それが続けば、平和は来るだろうか。子供に説明するのに、むずかしい。ひそかに悩んだ。話を、どう、持っていけば、いいか。
★私は言った。「イジメは、ダメだよ」。ゆるす心は、どうか?寄寓にも、10年後、あのタンカの女子中学生に、出会うことになる。10年だから、立派な娘さんになっていた。オレは助けず、放棄して逃げだ人だ。彼女は、あの時のことを良く覚えていた。「しかし、娘さんは、私を、許してくれたのです」と、小学生に語った。相手を、ゆるす心、生活の中で、許す心は大切です、と強調した。
★私の人生の原点は、この3つにある。①助ける心、②困難が来ても逃げない心、③許す心。だが、人間は真に「助けることが出来るか」「逃げないことが可能か」。人間は弱い。とても出来ない。しかし出来た人がいた。それがコルベ神父だった。そこまで子供たちには話せない。主は言われる。「汝、敵を、愛し、敵のために、祈れ」
平和の原点は「助ける心」「逃げない心」「許す心」。この許しが一番むずかしい。皆さんの心に、この3つの花が開き、広がるならば、必ず世界は、もっと平和になるでしょう。
『トマさんのことば』。お礼文⑧神奈川県、信子さん。「トマさんのことば」をお送りくださり、ありがとうございました。とても素敵な御本で、一頁ごとの言葉と写真がすーっと心にしみこんできます。小崎さまが歩んでこられた年月、お母様やコルベ神父様、たくさんの方々が生きてこられた年月、そして野々村さん、塩沢さんがいらしたこと、全てが神様からずっとつながっているのだと感じました。出会いは本当に神様のお恵みと思います」

2017年7月22日土曜日

「カリエス」から立ち直ったんだ。それで生き抜いた

絵てがみ教室で描いた「むらさき・たまねぎ」です。割ると、真っ白い実に、紫の美しい線が入っています。甘い味がするそうです。
★自分の子供の頃を知る人は少なくなった。中・高校生のとき、一緒に神学校で学んだ友人に「トマさんのことば」を送ったところ、彼から便りが届いた。自分は今まで、「原爆に会って、聖母の騎士に入った頃、そんなに自分は体力が弱かったのか」。いつも疑問に思っていた。彼の手紙に証明があった。彼は印象として、「フラテル(ラテン語で、兄弟)は私達も小神学生時代から、フラテルについて知っていましたのは、100%の健康ではなく、将来の司祭職も諦められる程でありましたのに、今日の89歳まで頑張っておられる事は信じられないのです」
★「そんなに思われていたのか」。電話番号も書いていたので、その夜、久しぶりに彼に電話をした。「オレは、そんなに、弱かったか、な?」。すると彼が言った一言が納得させた。「カリエス、だったよ」。当時、カリエスは不治の病で、自分も十三歳で経験していた。彼は書いてくれていた。「今まで生き得たというのは、神がフラテル・トマさんが、御自身の御栄えのために、適当な存在であることを証明しておられるのだろう」。ありがたいお言葉です。それに、ふさわしく、生きたいと思う。
『トマさんのことば』。お例文⑦茨城県、優子さん。「人の歩みは小さなものだが、大きな力が常に守り導いてくださる。(21頁)。本当に大きな力が常に守り導いてくださっている、と日々実感しています。トマさんのブログに出会えたことも、神さまのお導きと思います。いま私がいちばん好きな「トマさんのことば」を書きます。「あなたの人生で、すごく、ふしぎなことはなかったか?あったよな。沢山」(12頁)。はい、トマさん、沢山ありました。トマさんにこうしてお手紙をしたためていることもすごくふしぎなことです。嬉しいです。ありがとうございます」

2017年7月21日金曜日

うなぎの土用の日は、まだ早いけど、いただきました

これが諫早の福田屋のうなぎです。うなぎだけしか商売していない。4枚、5枚、6枚と順序がある。それに特大がある。高価ですよ。これは4枚でしたかね。6枚は多すぎます。タレ汁がウマイ。サジを付けてくれるのです。サジでタレ汁をメシに載せるのです。ごはんが、いけますな。
★本当は、うなぎは、そう最初の頃は好きではなかった。周りが、うなぎを食べるので、いつしか仲間入りをするようになった。ポーランド人のある修道士なんか、うなぎが大好きだった。ポーランドに、うなぎはあるのかな?
★うなぎを焼いて、タレ汁をつけて、最後に、この器に入れて、中にお湯が入っている。蒸すそうです。諫早は殿様の時代から、うなぎが有名だった。うなぎについて、さしたるコメントはありません。相手は、車の藤下先生でした。
★時には、うなぎでも、食べさせてください。夜のホームの食事を少し残した。栄養士さんが廻って来て、サラの具合を見て、「あれ、諫早で、いいモン、食べたんでしょう?」「ガックリ」
『トマさんのことば』。お礼文⑥広島、八智子さん。「トマさんのことば、ありがとうございます。どこまで行っても御本の出版に繋がるのですね。これまでの思い出が詰まった本で、とてもうれしく思っています。力が湧いてきます」

2017年7月20日木曜日

シスターのお墓参り。久しぶりに山に登る。安息祈る

シスター永松のことを思い出した。時々夢を見る。優しい看護師さんだった。シスターから命をもらった。彼女の奉仕がなければ、今のトマはいない。椿原の学校の教師だった藤下先生に運転をお願いした。
★藤下先生は、自慢の電気自動車を持っている。運転に応じてくれた。懐かしい山道を走る。養護施設の中に私立の小・中があって、2人は助け合いながら教育に励んだ。子供たちとの戦いや、慰めや、励まし、笑いなど沢山の記録がある。その学校も今は無くなって寂しい。途中、農村に、ひまわりの畑があった。子供たちは、この辺の農家におせわになったものだ。特に、お寺さんと、町会議員を懇意にしていた。
★先ずは、修道女院に寄って、数人のシスターと会話をする。メロンのご馳走をいただく。
★シスターのお墓で、お花を交換して、色とりどりのお花を添える。シスターが亡くなったのが、1968年(昭和43年)、来年で、50年になる。それでも忘れない。人生って、ふしぎなものだと思う。心の中では、シスターはいつまでも若くて、優しい。声をかけてくれる。世の中に、忘れ得ない人が、1人でも居てもいいではないか。シスターの存在は、生きるチカラであり、励ましでもある。シスターが、きっと守ってくれる。これはトマの小さな信念だ。
『トマさんのことば』。お礼文⑤静岡県、恵子さん。「とても素敵なご本に感動いたしました。読み始めてから涙がポロポロ流れ、泣きながら最後まで読みました。私の宝物になりました。大切にいたします」

2017年7月19日水曜日

赤いポスト。温かく立っている。昭和が懐かしい

赤いポスト。懐かしい。昭和の時代を思い出す。古い考えも、物も、置き去りにされていくのか。一抹の寂しさを感じる。昔の年寄りは、知識者であり、経験者でもあった。若者にそれらを伝えていた。だから有り難りがあり、尊敬もされていた。それが、いま平成になって、若者が手にするのは「スマホ」だ。これさえあれば、すべての情報がわかる。親しまれた赤いポストよ、お前をいつまでも残したいとデジカメを向けた。
★ホームの老人がつぶやいた。「孫にね。勉強しなさい。昔の二宮金次郎は、背中にマキをかついで、働きながら、歩いて本を読んでいたのだよ」と言えば、孫は即答した。「バアちゃん、本を読みながら歩けば、危ないよ。交通事故に遭うよ」。バアちゃんは全く反論出来なかった。シワが1本増えただけだ。
★水曜日は、女性職員さんが、3、4人で廻ってきて、部屋の掃除をしてくれる。職員さんが、「トマさんのブログを読んでいる。家に帰って、読むのが楽しみだ。知らないことも起こっている」。嬉しい限りです。
★このところ来客が多くて、外出もあり、からだに疲れが溜まっている。足も痛いし、早く歩けない。体力にチカラが失せた。どうなることやら。辛抱するしかないだろう。「い生かされているだけが、有り難い」。そう思え。「それでも、老いには勝てないから、困難、苦しみも多い」
★頼みのパソコンが、急にトラブル発生で困惑する。パソコンのスイッチを入れると、いつもの「天草四郎の原城の一夜城と、菜の花」が出てくるのだが、突如、消えて、他の物に変わった。出たのは、今日、使ったポストの一部分であった。職員さんに願って、絵を変えた。長崎市の聖母の騎士の全景に変更した。後部に、彦山の緑があって、写真としては中々良い。満足している。
★生活が狂うことが、一番ツライ。何事も無く、昨日と同じ日、調子を迎えるのが、幸せです。
『トマさんのことば』。お例文④東京都、真波さん。「小ちゃな本を開けば、本河内のルルド、両手を広げた無原罪の聖母、日記より選り抜かれたことばたち。愛は涸れることのない泉ーそんなフレーズを思い出します。聖コルベが日本で蒔いた種が人々の心に花を咲かせていますね。人生いろいろありますが、「あんまり下ばかり向くな」(P62)「前に進む力を失うな}(P34)、そのためには体と心の立て直しの時期に来ていることを実感してしています」

2017年7月18日火曜日

女性は語る。親戚に、司祭が続々。篤信の島に育って

ホームの入居者たちは、自分の過去を語ったり、家族を話すことは殆どない。三度の食事の前に、自然に、食堂の入口に皆さんが集るのだが、待合の長椅子に座っても、言葉は少ない。ところが最近、トマの隣に、同じ女性が座るようになり、少しづつ話しかけるようになる。
★女性は、下山ハルミさん。96歳になる。話を聞いて、びっくり。このホームに、20年、生活している。「まあ、そんなに、長ーがく、ここに居るのですか」と、ただ、ただ感心するしかない。
★生まれは、上五島。カトリック教会が多い島。ハルミさんの話を聞いていくうちに、親戚に次々と「神父さまの名前」が出てきたことが、興味をひかれた。殆ど知っている神父さま達であった。当時は、村に子供が多かった。優秀な子供から神学校へ送られた。家族から「司祭」を出すのは、誇りでもあった。
★ハルミさんの「父親」は、鯛の浦の増太郎。母は、頭が島からきたカオ。父の妹に、タケがいる。タケの子供が、初田徳一神父になる。聖母の騎士の初期の司祭である。聖フランシスコ園の園長も長年勤めた。入江さんや、大曾神父さまも勿論知っている。
★更に父の妹に、イトがいる。イトの子供が、中田武次郎神父。また彫刻家の中田秀和がいる。2人とも、トマもよく知っている。中田先生は彫刻家で、大浦天主堂の庭にある「信徒発見のレリーフ」や、聖母の騎士・ルルドへ到る「ロザリオの玄義」のレリーフなどを制作した。著名な人物だった。鯛の浦のルルドも造っている。信仰の厚い人だった。
★父の妹、タケの子供の徳一神父は次男で、長男は正一(まさいち)。正一は、大曾のチマと結婚して、6人の兄弟が出来る。トマは神学生の頃、夏休みは、このお宅で過ごした。家が3軒並んでいて、端の家が大曾神父さまの家だった。
★子供の枝美さんは、同じ上五島の浜串に結婚する。子供に、竹内昭彦神父(管区長)がいる。
★1人の女性の言葉から、こんなに沢山の司祭の名前が出てくるのが不思議な気がした。父の増太郎の妻は頭が島の出身だが、頭が島から熊谷神父が出ている。親戚になる。
★下山ハルミさんの話を聞くと、親戚のつながりや、幼い頃からの信心が心の奥に根深く染み込んでいて、「もう、これしか、生きる道は、ない」の信念にあふれて、ホームに居ても日々の信心の行動につながっているのを感じる。少々の不具合でも、ミサ、ロザリオには参加する。見事な信心は尊いとトマは思っている。
『トマさんのことば』。お例文③東京都、好子さん。「ここ最近、身のまわりに苦しい事がたくさんありますが、この本を開いてなぐさめられる事が多く救われております。ありがとうございました。枕元に置くのにちょうど良いサイズでとても気に入っております。そして、この本を手に取って開いてみると、小崎さんの八十九年の人生を垣間見ることが出来るような気が致します。たくさんの苦しみを味わっていらっしゃるのにいつも優しく、あたたかな笑顔を向けて下さるのは、やはり信仰があるからなのでしょうか」

2017年7月17日月曜日

エスぺランザさんと、雲仙殉教者、島原教会で祈る

アメリカ・テキサスから夏休みに帰国しているKoKo洽子さん。同行しているドミニカ人のお手伝いさん、エスぺランザさん。帰国が近づいている。エスぺランザさんは、もう1度トマさんに会いたいと、白浜さんの運転で、ホームに訪ねて来た。途中、愛野カトリック教会に寄って、日曜日のミサを祈った。感謝の祈りと、家族のために祈ったことであろう。
★ホームに来たのは、11時過ぎていたので、白浜さんと、3人で昼食に出た。近くにファミコンがある。メニューに、現品の絵が載っているので選びやすいだろう。スープ、えび・フライ、ハンバーグ、アイスクリームなど食べた。この後の企画はトマが決めた。エスぺランザさんは「沈黙」を5回も見たという。映画は、雲仙の熱湯を殉教者に掛けるシーンから始まる。
★雲仙に登って、白雲吹き出す地獄を見た。十字架も立っている。沸騰する熱湯を見て、エスぺランザさんは涙した。残酷な時代もあったモンだ。仁田峠へ登って、島原半島、広がる海、天草・熊本の棚引く姿に感動していた。
★最後は、島原のカトリック教会です。ここに、殉教者が雲仙に引かれて、熱湯を掛けられるステンドグラスがある。トマは英語を話せない。エスぺランザさんは英語は分かるが日本語は全く理解できない。話したい内容は、山ほどあるが、伝わらないのがザンネンだった。とにかくエスぺランザさんが喜んでくれたのは確かだった。3時頃にはホームに帰った。夜に、エスぺランザさんから、メールが入った。「一生、忘れません。泣いています」
『トマさんのことば』。お例文②熊本、きよみさん。「お母さんからのロザリオの表紙を見せていただくだけで、すべてが伝わってくるような気がします」

2017年7月16日日曜日

野々村哲さん、塩沢美樹さん、ありがとう。打ち上げ

上五島にお住まいの塩沢美樹さんは、その日、有川港から一番の快速船で、長崎港に着いた。浜の町に出て、昼食の買い物をする。
★一方、トマは、ホームで野々村哲さんの出迎えを待っていた。思いがけなく早めに到着した。赤い、素敵な車だった。車中で会話を交わす。「あなたの車ですか?」「父のです」「え?お父さんが、こんな車を」。ちょっと驚いた。お父さんの職業を聞いて、もっと驚いた。お父さんは、長崎活水大学の学長をしていた。今は退職されている。野々村さんの家族が、そんなに高貴なご家族だったのか。初めて知った。大学へ行くときは、別の色の車がある。
★長崎の聖母の騎士の聖コルベ館で落ち合った。3人が揃って、成すべき仕事は、資料室に、トマが1970年頃から撮った写真のファイルがある。フイルムで、冊子のケースに収めているが、それをデータ化したい。そして、その中で、抵当な写真があれば、紙焼きにしたい、そういう目論見があった。
★以前は、修道士は個人でカメラを持つことは禁じられていた。幸い、トマは、騎士誌やカトリック・グラフの編集をしていたので、カメラを所有し、撮影する機会に見舞われた。素人ながら、その作品が多くある。
★フイルムの入った冊子は、57冊あった。もちろん、複写した分も入っている。中には、今では撮れない風景や人物のフイルムもある。ゼノ修道士や、1970年代のポーランドの風景や庶民の素朴な姿などです。「長崎・聖母の騎士 昭和の修道士たち」というイメージで、写真集が出来れば、何と嬉しいことであろう、と密かに心の中で思う。昼食は、聖コルベ館の応接室で、おにぎりなどを3人で食べた。
★作業が一段落したところで、「トマさんのことば」の打ち上げをしようと、夕刻、浜の町へ出かけた。ロシア料理店「ハルビン」で会食を行なった。「トマさんのことば」は本当に不思議な出会いから完成した。野々村哲さん、塩沢美樹さんのお陰です。お礼の便りによる評判も好評のようである。このような出来事は、人生に度々起こることではないと信じて、感謝している。出会い、って、神のお恵みだね。
★料理は、前菜が出て、説明があったが、よく覚えない。次に、赤色スープ(ボルシチ)、デザートにエスキモ、それにメインは3人、思い思いで、ある料理には、ご覧の盛り付け料理が出ました。
★これで「トマさんのことば」も一応、終了しました。野々村哲さん、塩沢美樹さん、出会い、ありがとう。生涯、忘れません。成功し、感謝します。夜の道を、2人で、ホームまで送ってくれた。着いたのは午後9時過ぎであった。
★『トマさんのことば』。お礼文①大阪府、貞子さん。「早速、本を送っていただき、心よりお礼申し上げます。娘、主人共ブログのフアンです。小崎様の病状を心配していたもので、とてもお元気になられたと、本を見て喜んでいます」

2017年7月15日土曜日

朝から長崎・聖コルベ館に出かける。帰りは遅くなる

絵てがみ教室で描きました。ミニ・トマトの3兄弟。兄弟が1人も居ないトマだから、即、そのイメージが湧きました。
★今日は、朝から長崎・聖母の騎士の聖コルベ館へ出かけます。聖コルベ館には資料が展示されていますが、その奥に、もう1つの部屋があって、そこにトマが集積した資料があります。今日は、その整理を思いつきました。それで朝、早く出かけて、帰りは遅くなるでしょう。
★送り迎えの運転をしてくれるのは、「トマさんのことば」の編集者の野々村哲さんに頼みました。「行動しなければ、何も、生まれない」。次の世代に残すためにも、元気があるうちに整理をしておきたい望みが強烈にあります。コルベ神父・ゼノ修道士の長崎上陸から、コルベ神父の時代、コルベ神父が帰国してからの戦争中の聖母の騎士の困難な時代を通して、沢山の写真があります。それらに今、目をつけている処です。
★野々村哲さん、塩沢美樹さんが加勢してくれるでしょう。今日から3連休が始まります。

2017年7月14日金曜日

今年も庭に、ブドウが見事に成った。実りは嬉しい

1階に下りることは、めったに有りません。庭に出ることも全く有りません。「トマさん、庭に、ブドウが沢山、成っているよ。写真に撮ったら、いいよ」と教えてくれる人がいた。庭に出て見ると、「おお、目を引くようなブドウが成りさがっていた。平和だね。静かだね。音が全くしない。向こうの方で、女性が洗濯物を干していた。
★1階には、瀧神父さまのお部屋がある。ホームの生活にも、慣れたらしくお元気にしておられる。今日はお部屋に寄らなかった。大曾神父さま、西山神父さま、村山修道士のお部屋は2階にある。トマの部屋は一番上段3階にある。お部屋の角度によって、部屋から見える風景が全く異なる。70人あまりの利用者が暮らしている。住めば都で、いい処ですよ。

2017年7月13日木曜日

アメリカ人の司祭が取材にくる。動機は何なのか

長崎・聖母の騎士から連絡があった。午後、アメリカ人の司祭が「コルベ神父の話を聞きに来ます。よろしく頼む」
★午後、教会で、共同のロザリオを唱えていると、司祭と、女性の通訳が、聖母の騎士の川渕修道士さんの運転で到着した。応接室に通して、話をする。
★アメリカ人の司祭は、マイケル・ゲイトレイ神父。40歳。なぜ、コルベ神父に興味を持つのか、聞いた。伝記を読んでいたとき、コルベのお母さんが、コルベ少年を見て、「この子は一体どういう子になるのだろう」との記述があった。その言葉が自分に重なったという。そこからコルベ神父を知りたいと思った。
★コルベ神父の話から入ったが、結局、長崎の現地に来ると、衝撃を受けるのは「原爆」であり、「永井博士」「浦上天主堂」につながる。更に「キリシタンの信仰」や「四番崩れ」にも及ぶ。長い話だ。
★司祭は言った。戦争は悪魔の仕業です。ユダヤ人、ポーランド人は困難を負った。その後、その人たちは復活した。神の慈悲をもたらした。この話は世界的に有名で、誰れでも知っている。しかし原爆で、クリスチャンが苦しくてもピースをもたらした、これは知られていない。昨日は浦上天主堂で祈りました。サタンによって苦しみがもたらされたが、神さまが苦しみによって平和を持ち上げてくださった。天皇の御前会議と同じ時間に、長崎で27人の被爆したシスターが平和の祈りを捧げていたのを本で読みました。
★「コルベ神父は、沢山祈った、働きも沢山、どんな祈りでしたか」と司祭は聞いた。知っている聖コルベの話を等々と語った。夕食時は過ぎて、2時間は経過していた。司祭はこれから空港に向かい、帰国するという。川渕修道士が空港まで送って行った。
★英語で、言葉が通じないのが難点だった。何か割り切れない心境が胸に残った。

2017年7月12日水曜日

管区長を歓迎。フランシスコは福音を生きる創立者

ホームの隣、湯江教会の祭壇の生け花です。お花を生ける女性が変わりました。立派なお花です。
★竹内管区長神父さまが、本部の東京から来られて1泊したので、夕食は歓迎の会食となった。管区長を入れて、8人が席を連ねた。同じ修道者の仲間に居ると、一般の人と居るのには全く違う。安心して、心がなごむ。疲れも取れる。
★お互いの生い立ちから、性格から、勉学から、勤めから、良いところも、模範的なところも知り尽くしている。説明はいらない。久しぶりに、こころを開いて語るだけで、喜び合える。
★会食を前にして、教会に集り、共同で、「教会の祈り」の晩の祈りと、寝る前の祈りを唱えた。これが、また雰囲気が、いい。祈りは、お互いの心をつなぐ。私たちの小さなお勤めは、ローマのあの教会の、アシジの大聖堂の祈りにも、典礼の祈りは、つながっている。そこがカトリックの力強いところだ。8人は誰でもアシジの聖フランシスコの大聖堂の祈りを知っている。
★歓迎の会食は、デジカメを持参しなかったので、撮れなかった。残念だ。今度、管区長を引き受けた竹内昭彦神父も大変な苦労があろう。でも、彼のお母さんを知っている。育った信心深い家庭を知っている。お母さんの人生には数々の試練が与えられた。それでも、この笑顔だよ。どんな大波が押し寄せても、ビクともしない。「ツミの、ツグナイ、たい」。そう言って、笑い飛ばして乗り越えてきた。このお母さんに育てられた昭彦神父だ。くじけることは、なかろう。
★今朝のミサは、管区長がミサの司式を行なった。ミサの前に1言、いった。「自分は大学生の時から聖フランシスコ園には来ている。初田(以前の園長)神父さまにお世話になった。聖フランシスコの生き方は「福音を生きる」。イエスのように生きる。皆さんの園には良い名前が付いている。聖フランスシスコのように生きましょう」

2017年7月11日火曜日

ホームの修道会の皆さん、どうですか?視察がある

修道会の管区長、竹内昭彦神父さまが、午前中、突然にホームを訪問・視察をされた。ホームを利用している、司祭3人、修道士2人を訪ねて来られた。
★トマの自室に来られたのが先だった。次に瀧神父さまの部屋へ行くという。写真を撮るのを忘れたので、デジカメをもって、瀧神父さまの部屋へ直行した。写したのが、このスナップです。写真が撮れて満足した。
★修道士は、修道院で、仲間の皆さんと祈ったり、食事をしたり、休憩したり、とにかく共同生活をするのが使命でもあり、幸福でもある。若い間は、自分で自由が効くから、それで、いい。歳を重ねて、自分も仲間も、それ自体が介護を必要とすると、問題は深刻になる。家族でも起こるような老・老・介護になってしまう。同じことです。
★可能ならば、老いた修道者は、施設があって、その場で、修道者と共に暮らして、介護され、老いていくのが最も望むところです。一番の良い生活形態です。最後まで修道者の場所で老いたい、それが願いです。竹内管区長さまに言いました。
★一般のホームに入って3年目になるが、色々と気持ちのも、精神にも起伏がありました。修道会が、どのような道を示すのか。いまはホームで受け入れる気持ちで生きております。ゼイタクは言えないが、ここにも幸せはあります。心次第で、気持ち次第で、幸福、幸せは、足元にあるはずです。
★管区長さま、各地に修道院がありますから、問題もあり、お仕事は大変ですね。しっかり頑張ってください。
★先日、来たKoKo洽子さんが言った。「トマさんのことば」を持って歩いているが、一番好きなのは「トマさんの後姿」ですね。背中に、みんな表している。病気の苦しみも、困難も、修道生活の浮き沈みも、あのトマさんの背中が語っている。あれは、いい写真ですね。こころ引かれる1枚です。

2017年7月10日月曜日

洽子さんとの会話。走るだけ、走ろう。喜びはくる

昨日、ミサで祈った後で、KoKo洽子さんが、読まれた「答唱詩篇」の感想をもらした。「あなたに従う人は感謝して歌う」。この言葉が、心にひびきました、と言った。
★洽子さんと語り合った。「入居一年目は落ち込みましたよ」「それは、そうでしょう」。理解してくれた。「皆、家庭がある中で、独り修道士。自分の人生、本当にこれで良かったのか?」。疑い、迷いの考えがもたげてくる。人生、一回切りだ。思うように生きたい」。洽子さんは言う。「神さまが、そなえてくださった。有明海の朝陽を見て、ブログの写真に載せているでしょう。流れに添って生きている。神さまを拝む、祈って、賛美する。それで終わる」。トマは言った。「言える事は、よく生きたなァ。89歳、そう思います」「それは神さまからの、み旨」。洽子さんは更に言った。「テモテ二、に、あるでしょう。『わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました』(4.6)。こんなにトマに語ってくれる人は居なかった。
★お手伝いのメキシコ人女性、エスぺランサさん。トマに出会って大喜びだった。再び会えるとは思いもしなかった。彼女のおみやげは何かな?包みから出てきたものは、一枚の木彫りの額だった。
★聖ヨセフ、聖母マリア、幼いイエスの聖家族だった。家族が一番大切だよね。エスぺランサには、3人の男の子がいる。どこの家庭でも色々とご苦労が多いだろう。
★今度の2人の休暇は、10日ほどだという。エスぺランサさんは忙しい。聖母の騎士のルルドの掃除、トイレの清掃、祈り、計画している仕事が山ほどあるからね。十分に日本の生活、経験を楽しんで、また現地で語り部をつづけて欲しい、それが願いです。

2017年7月9日日曜日

楽しい再会。思い出の女性たち。ウナギの蒲焼で満足

今日は、KoKo洽子さんと、メキシコ女性にエスぺランサさんが、面会に来るというので、心して、修道服を着て教会の玄関で待っていた。9時からミサが始まる。待っても会えない。どこ?と思っていると、教会の中で既に祈っていた。教会で再会を喜んだ。エスぺランサさんはカトリック。洽子さんはキリスト信者。聖体拝領では、司祭の祝福を戴いた。
★狭いけれど、自室に案内して、再び再会を喜び合った。エスぺランサさんが来るとは全く思わなかった。最初に聖コルベ館で会ったのが、2013年7月、次の年の2014年4月にエスぺランサさんを連れて来た。洽子さんは毎年、夏休みに諫早へ帰国している。諫早には、92歳になられるお母さんが独り住まいをしておられる。それで毎年、帰国し、帰られると必ず面会に来られる。これまで何度、お会いしたことだろう。エスぺランサさんは、この間、来たとき、日本の信仰の体験をして、アメリカへ帰って、日本の語り部になって努めているという。聖母の騎士、ルルドのマリアさま、トマさん、外海、カンコロ、初めて見た海の印象、日本26聖人の1人メキシコ人の聖へスス、など語る材料は沢山ある。
★洽子さんは、アメリカで「沈黙」の映画が上映されたとき、英語版「沈黙」の本を500冊購入して配布したと言った。「沈黙」はアメリカでも大きな反響をよんだらしい。
★再会の喜びの後は、タクシーで諫早へ出た。トマも同行した。目指すは、福田屋のウナギ料理です。エスぺランサさんも、ウナギ大好きです。実は、洽子さんの実家は、福田屋の正門のアーケードの前のマンションにあるのです。すぐ近くですよ。福田屋のウナギの蒲焼で満足しました。
★今日は、本当に楽しい日となった。KoKo洽子さんとは何を語ったか。それは長くなるので、明日に書きましょう。

2017年7月8日土曜日

平安のうちに暮らしております。まだ梅雨は明けない

先日、お伺いした林の中のお店。納富美紀さんの「ひつじのじかん」の陳列棚です。次の日に、美紀さんから、「天然はちみつ」(五家原岳のふもと、いさはや産)が、2本贈られてきた。ありがとう。おいしく、いただきます。
★梅雨の最中ですが、平安のうちに暮らしております。
★一日三食、決まった時間に食べて、間食は控えて、腹の出っパリを減らそうと努めています。
★九州の北部に梅雨前線が盛んになり、ドカ雨が降りました。テレビで各地で、悲惨な被害が出ています。老人の一人がつぶやいた。「神さまは、ほんとに、居らすとじゃろうか?」問いは聞こえたが、返答はしなかった。自然の驚異は恐ろしい。あふれる濁流は家も車も飲み込んでしまう。被害者の顔を見ると、悲しい。
★長崎の白浜さんから電話があった。「いま、アメリカ・テキサスのKoKo洽子さんが帰国している。エスぺランサさんも同行している。日曜日に面会に来ます」。嬉しい知らせです。洽子さんに、エスぺランサさんに会いたい。「日曜日には、9時からミサがある。間に合うように来て下さい」。面会の楽しみが増えた。
★ブログ「小崎登明の日記」は、2009年4月24日から書き始めた。聖コルベ・ゼノ修道士の「長崎上陸記念日」だった。どの年代の、どの月日が欠けているか調べてみようと、その気になった。
★娘さんと2人で、個人でポーランド旅行をした東京の「元日のエリザベット」さんから、旅行の写真が数枚届いた。右の写真は、クラクフのコンラードさんの自宅です。「本や写真や絵がイッパイ。小崎さんのお母さんの写真もありました」
どうやらコンラードさんも、ずい分と歳をとられた様子です。左は奥さんでしょう。思い出も沢山あります。親切なコンラードさん。独学で日本語をマスターしました。
★今週は、夏休みの前か、3人の地元・女子中学生と、2人の女子短大生の研修が行なわれました。若い女子学生たちに、お世話を受けました。出来れば、夢は福祉を目指して頑張ってください。

2017年7月7日金曜日

タナバタ。願いは、幾つになっても、長生きだよ

7月7日。タナバタの日です。ホームの玄関にも、笹竹が飾られた。97歳の老人が、事務室の女性に、一筆書いたから、付けてください、と頼んでいる。何んと書いてあるか、こっそり見ると、「長生き、できます、ように」。まだ生きたいんだよ。生きることはホンネのところで喜びだ。
★「トマさん」と呼びかけられた。「トマさん、ホームを出なさい。まだ、まだ働ける。聖コルベ館に居て、巡礼に来る人に語り部を勤めてください。それがトマさん、らしい」。トマに対しては、いつまでも、そのイメージで見ている。ありがたいが、身体的にも諸事情があり、もう老いも近々90だよ。歳を取ろうが、いつまでも聖コルベ館に勤めて、語り部で自爆するまで徹して働き勤める、それは美談でしょう。でも、やはり、そうは行かない。平凡なトマです。ごめんなさい。
★タナバタに付けられた札を見ていると、「若い男性に出会いますように」とあった。出会いの喜びと、色気を失わないのは、生きるチカラがあるメデタイ証拠だよ。
★夕食には、おはぎ(ボタモチ)が出るそうです。楽しみだな。

2017年7月6日木曜日

12歳の聖女の心は、私の心を貫く。清さを与え給え

聖女マリア・ゴレッティの記念日です。「ああ、今年も、この日が来たか」と、毎年、ある1人の女性を思い出すのです。1970年代、長崎オラショの旅を主催して、全国から巡礼者を集めて、長崎・外海・平戸・島原など祈りの旅を行ないました。30組には、なるでしょう。そのとき、ガイドに頼んでいたのが、マリア・ゴレッティの洗礼名を持つ女性でした。名ガイドさんで、彼女の説明に満足していたものです。
★マリア・ゴレッティは、イタリアの貧しい農家に生まれました。1890年です。たとえ生活は貧しくとも、清く生きることを神に誓っていました。彼女を狙う暴漢がおりました。彼女を犯そうとしましたが、極力抵抗して、暴漢の刃に命を落としました。1902年のことでした。生まれてから、命を捧げるまで、引き算をすると、12歳ですよ。彼女は貞潔を守り通しました。暴漢が成す事は絶対に許されていけない出来事です。「欲望の鬼」。悲しいことです。この世の中には暴漢の心を持った人が沢山いるのです。
★今朝の祈り。神よ、私たちの心に光を注いで下さい。『み旨を理解し』(これが、ポイント)いつも希望にあふれて、あなたの道を歩むことができますように。(教会の祈り、125ページ、結びの祈願)
★み旨を理解し、これがポイントです。何を神は望まれるか。罪を犯すな。隣人を愛す。からだの苦しみは、取り去るものなら、手当てをする。残るものには、受け入れて、主イエスと共に耐える。希望を持って生きる。悲しい顔はしない。これぞキリスト信者の生きる道。「聖女マリア・ゴレッティよ、我にも清らかな心を与え給え」