2015年8月31日月曜日

これが絵てがみで描いたカキのスケッチです

ヘタか、じょうずか、描くのは楽しい。残暑、お見舞いを皆さまに届けます。
★父と母は、戦争の前に、出稼ぎで、長崎を出て、海を渡って、北朝鮮の奥地の町で、商売をしていた。人口、5万人の人に、日本人も多い。だが、日本人のカトリック信者は、わが家1軒のみであった。北朝鮮で生まれ、育った自分が、なぜ長崎の聖母の騎士のルルドに導かれ、修道士となり、50周年の金祝を祝うまでになったのか。人生の移り変わりは、ふしぎでしかない。
★昨夜、仕事が終わって、高原修道士が自室に来た。狭い部屋だから、2人は横に並んで長々と語り合った。「世間的に言えば、病気や、からだのキズ(手術の痕跡)をかかえて、とても生きる、ここまで生きれるからだでない。ここまで生きているのが、ふしぎ」と彼は言う。「そうか、な」の返事。「善とか、悪とか、あるけれど、それを超えるものが導いてくれた。ここまで導いてくれた」と彼。「そうだよ、な」

2015年8月30日日曜日

絵てがみを描きましょう。何がいいかな。カキ


絵てがみの先生が来られるという。絵には興味がある。何を描きましょうか。悩むね。廊下で話をしていると、庭に柿がなっているよ、と教えられた。ああ、柿なら題材になるな。描いているところです。朝夕は涼しくなった。

2015年8月29日土曜日

登明の日記の読者に、こういう人もいる。驚き

昨日、来た、美樹さん、哲(さとし)さんとの玄関でのお別れです。よくぞ訪ねて来てくれました。
★「トマさんのことば」の小さな本よりの一部。「母につながり、神につながる。愛とは、つながりなんだよ」(5ページ)。
「人生、ひとことで表現するなら『孤独』でしょう。限りなく孤独。その孤独を救うものは、出会いによる愛です。愛を知った者は、幸せになる」(6ページ)。
「生かされている喜び。悪に負けない勇気。お礼を求めない愛。目標はわかってはいるが、それでも人間は、迷い悩むのです」(12ページ)
★この小さな本を作るために、2人は言った。「『登明の日記』を以前の分から、全部、読みました。そして抜き書きして、その中から選びました」「その抜書きするのは、大変だったでしょう。それを見せてくれませんか」「コピーして送りましょうか」。その熱意に、感動というか、びっくりと言うか、こういう隠れた日記の読者がいるのかと、慰めになった。
★「トマさんのことば」の本の全体を皆さんにも紹介したいが、どのようにすればいいのか、方法がわかりません。残念です。
★美樹さんの誕生日、おめでとう。歳は聞きましたが、書きません。お2人の幸せを祈ります。

2015年8月28日金曜日

訪ねてきた、2人。楽しい出会いが、そこにあった

出会いとは、ふしぎなご縁だと思う。今年の1月だった。午後、ロザリオへ行くとき、教会の庭で、パッタリ出会った2人がいた。「小崎さんですか?ブログを読んでいます。会えて嬉しい」。握手をしただけで別れた。誰だったんだろう。
★4月になった。女性から、手紙が来たので、返事を書いた。すると、同じ4月の末に、手紙と、「トマさんのことば」という、34ページの小さな本、1冊が同封されていた。「感謝の気持ちを込めて」とある。その本を開いて、リッパに出来ているので、本当に嬉しくなり、我ながら感動さえした。返事を出したら、3度目の手紙が、8月になって、先日、届いた。「お伺いして、いいですか?」「待っているよ」。
★そして今日、その2人がやってきた。1月に会ったときは、すれ違い。初めて、ゆっくりと出会って、顔を見て、会話して喜びにあふれた。美樹さん、哲(さとし)さんという。2人とも非常に喜んでいた。もちろん私も喜び、「トマさんのことば」についても詳しく聞いた。美樹さんは「長崎のコルベ神父」を、哲さんは「ゼノさんの写真集」を持参して、サインしてほしいと頼んだ。コルベ神父の方は、マリアさまが好きだったから「けがれなき聖母マリア、愛と平和」と筆で書いた。さあ、ゼノさんの方は、どうする?少し考えて、「ゼノさん、天国から、働いてください」と記した。
★美樹さんが言った。「きょうは、わたしの誕生日なんです」

2015年8月27日木曜日

コンラードさんへの問い。ありがとう、ジンクーエン

教会の祭壇に飾られた生け花です。 ★昨日は、明子さんと「ありがとう」、「有り難い」の違いを話し合った。ありがとうは、言葉で言う。ありがたいは、気持ちが違う。感謝が入っている。ありがとう以上に、もっと、感謝している。何か、もらったら、すぐに、ありがとうと言うでしょう。ありがとうは、生まれた時から教える。有り難いは、有り難いと思っているのよ。有り難いは、ものすごく、感謝している。有り難いは自分で悟る。有り難いには、感謝。ありがたいが入っていないといけない。神に感謝。人にも感謝。ありがとうは、返す。有り難いは自分が思う。 ★その夜、明子さんから電話があった。「有り難いの意味は、存在がマレである。なかなか有りそうもない、めずらしいことをしてくれるのが、わたしは有り難い。普通に有ることが難しいこと、めったにないことです。これは辞書の広辞苑に書いてあった。ありがとう、有り難いは別。 ★なぜ、私がこだわるか。ポーランド語に「ありがとう」の「ジンクーエン」がある。ポーランド語には、その区別があるのだろうか。コルベ神父から命を助けられた男性は、言った。コルベ神父に命をもらったが、「ありがとう」と言えなかった。ナチの所長が、絶対、しゃべるな、と禁じていたので、お礼を言えなかった。それが一番残念、と、コンラードさんといっしょに、あの男性のところへ行ったとき、聞いたでしょう。ジンクーエンには、ありがとう、有り難いのちがいがあるのですか?

2015年8月26日水曜日

トンボの行方は?精密検査に出かける。慌しい日

また、トンボが廊下に落ちていた。そーっと、羽をつかんで自室で写真に撮った。足も羽も動いている。窓をあけて、竹の「すだれ」へ、つかまえさせた。台風が来るからと、すだれをかたづけた。台風が去って、明るい空になった。「すだれ」は床に置かれたままである。あのトンボはどうなったであろうか。命あるものの行く末は気になる。
★午前中は整骨院へ出かけた。丹念に両足をマッサージしてもらう。午後から、昼食抜きで、諫早の総合病院の泌尿器科へ予約の診察に行った。送り迎えは、明子さんが車を運転してくれた。ここにも「いのち」に、浮き沈みする者がいる。胸から膀胱までの「CT」を撮った。血液検査に、尿の検査。腎臓には大きな石がみえる。検査の数値は変わりない。「ステントは外しても、いいのでないか」とお医者さんは言った。「10月になって、決めましょう」。あわただしい1日だった。
★車の中や、待ち時間のときの、明子さんとの会話。それは「ありがとう」と、「有り難い」は違うという興味ある話がつづいた。

2015年8月25日火曜日

長崎へ診察へ。コンラードさんのコメント。見識の高さ

昨夜は、台風が、熊本から北九州へ直撃しながら抜けて行った。今朝は、長崎へ診察に行く予定だった。雨は降っているが、風はおさまっている。「高原さん、どうする?」「行きましょう」。雨のなか、高原さんの運転で、長崎のヨゼフ・クリニックへ診察へ出かけた。「歩くと、胸がつまるんです」。心電図をとり、胸のレントゲンをとる。先生はレントゲンに写った心臓の大きさを測っておられた。「大丈夫でしょう」。昼食までには帰った。ホームが我が家になって、無駄な寄り道は、したくない。帰ってくると、安らぎを覚える。
★午後、パソコンを開くと、昨日の日記に対して、早くもポーランドのコンラードさんからコメントが入っていた。外国人なのに、その文章のしっかりしている構成に感心した。コンラードさんの日本語も素晴らしい語学力になっている。長崎を如何に見つめるか。全般的にわたって、緻密に、配慮した文章におどろかされた。長崎を、このように見ることも出来る。近場の人間の見識の無さに、恥ずかしくなった。長崎を、どう説明するか。外国人はどこに興味をもつか。簡単に考えていたのが、情けない。
★コルベ神父の修道院は外せないだろう。ポーランド人にとって、コルベ神父は愛の強烈な存在である。憎しみも、争いもない平和を告げている。誰にでも。(写真はかつてのコンラードさん・日本の愛好家)

2015年8月24日月曜日

ポーランド・コンラードさんへの便り。どこを見学するか?

2日前、ポーランドのコンラードさんから、コメントが入っていて、お便り懐かしいでした。ポーランドでも見てくれているのですね。ありがたいです。度々のポーランド旅行の際には、通訳でコンラードさんに大変お世話になった。忘れていませんよ。
★昨日、訪ねてきたのは、高校の先生です。何度か電話があって、来られた。「実は、うちの高校と、ポーランド・ワルシャワのある高校と姉妹校を結んでいます。2年に1度、生徒の交換旅行をしている。今年は、ポーランドから、6人の生徒が10月に来る予定です。今までは、京都や他の都市を体験見学していたが、今年は、ぜひ長崎へ行きたいとの願いがあった。小崎さんの『長崎オラショの旅』を参考にしながら、短い日程で、長崎のどこを回ったらいいでしょうか。教えてください」と聞きに来られたのです。
★ポイントは、ポーランド人のための見学場所です。コンラードさん、どう思いますか。ポーランドだから、コルベ神父の聖母の騎士修道院はぜひ勧めました。ポーランド人の修道者たちが活躍したところですからね。他に、いろいろ見学場所はあると思いますが、個人的には、神の島の教会を勧めました。ポーランドは北部に海はありますが、ワルシャワの人たちには、海が広がっていて、100年の教会あって、海岸の岬に4mのマリア像が立っていて、出船、入り船を見送っている、その姿は印象に残るのではないですか。
★ついでに、マンガ『焼けたロザリオ』のポーランド訳があるので、その本を読むように勧めました。

2015年8月23日日曜日

許しから、和解へ、そして平和へと導いてくださる主

1枚の写真が送られてきた。いつ頃、撮ったのか、確か、入居まもなくだった。県外から、2人の女性がやってきた。友達同士だ。会話が終わった後、教会の前で写した。左は、須磨子さん。右は昌子さん。
★須磨子さんについては、語ることは沢山ある。30年ほど前、家の近くの道路で、7歳の愛娘を交通事故で失った。家族はどん底に落とされ、立ち直るには大変だった。そのことは騎士誌の記事にも書いた。そのときは、事故のことは話さなかった。
★写真と共に、雑誌が入っており、2ページにわたって、須磨子さんの記事が載っていた。その中で、ある神父さまが、こう言われた言葉が心を引いた。「ゆるしは大きな忍耐が必要でしょう。しかし私たちは、それだけではいけません。ゆるしの後に和解がきて初めて平和があります。そして回心できるのです」。そして須磨子さんは書いている。「この和解という言葉は私にとっては、まさに言霊(ことだま)で、言葉にならない緊張感から私を解放してくれました」。私は、ゆっくりと、2ページにわたる記事を読んだ。
★同時に、昌子さんからも便りがあった。「フランス・ルルド巡礼の添乗員、約10年間に、15回ほど行く機会に恵まれました。トマさんの描かれた梅の花の色紙に『どういう形で生きようとも、自分の弱さや痛みをかきわけて、進むしかない』という文言を心の支えにしています」とあった。
★お2人とも、金祝のお祝いに来られるという。

2015年8月22日土曜日

アシジのおみやげ。争いより、和解を。憎しみより、愛を

ホームでの生活は、変わらない日常。午前中、整骨院へ治療へ出かけた。整骨院の車で、送り迎えしてくれるから有り難い。坂をくだり、車で、数分。繁盛している。農村には足腰痛む人が多い。機械の整備は整っている。足と肩に電気をかけ、肩と、両足の裏側をマッサージしてくれる。だが、患者が多いから、マッサージの時間が、10分ぐらいか。もう少し、時間をかけてもらえないかと思う。とにかく今は、何とか、体力を温存したい気持ちでいる。
★自室へもどると、アシジのおみやげがベッドへ置かれていた。誰が持ってきたのか、わかっている。最近、アシジへ行った人だ。自分もアシジに何度か行ったこともあるが、聖フランシスコの修道院や教会、ほかの教会など、風景もなつかしい。広い平原に、ヒマワリがいっぱい花開いていた光景があった。Τ(たう)は、ギリシャ文字で、この形は、聖フランシスコの印である。
★憎しみのあるところに、愛を。争いのあるところに、和解を。愛されるよりも、愛することを。(平和の祈り、より)。心をこめて祈りたい。

2015年8月21日金曜日

金祝のお祝いは、9月5日(土)です。お祈りください

先日、ドライブに行った『轟の瀧』です。水源は細いが、パーッと散って落ちて、くだける。神さまのお恵みも、このように落ちて、たましいを包むのかも知れない。
★きょう、ホームで「懇談会」というのがあって、9月の行事の説明や、連絡事項があった。そのとき、「田川さんが、修道士の誓願を立てて、50周年の金祝を迎えます。9月の5日の土曜日に、お祝いのミサや祝賀会が長崎の聖母の騎士で行なわれます。園からも希望者は参加しましょう」と報告があって、マイクを渡された。
★私は立って、次のように言った。ホームには色んな宗教の人が居られるので、「個人的なことで、教会のことですが、私は修道士の身分を持っています。昨年の10月から、このホームでお世話になっています。金祝のお恵みをいただくことになりました。お祈りください。これからも、よろしくお願いします」
★金祝のお祝いをする修道者は、3人です。司祭叙階50周年、ペトロ瀧憲志神父さま。修道誓願50周年、トマス小崎田川幸一修道士、アレキシオ松下昭征修道士です。感謝のミサ、午前11時から。カトリック本河内教会において。ミサ後、教会のホールにて祝賀会。
★金祝を迎えることが出来るのは皆さんの祈り、助け、支えのおかげです。瀧の泉のように、神さまのお恵みが私たちの『たましい』を清らかに、たくましく、激しくしてくださいますように。

2015年8月20日木曜日

真ん中の青年にも、ドラマがあった。神の恵みに感謝

昨日、来た、3人の修道者志願者の「つづき」です。
★真ん中の青年は、2年前の、2013年8月に聖コルベ館へ来たと言った。「ひとり旅でした。福島から、大学4年でした。そのときトマさんから言われたのは、親から自立しなさい、でした」。なぜ、そんなことを言ったのか、覚えていない。小さな録音機を持っていて、聖コルベ館でのビデオの説明や、トマさんの話を録音した。家に帰って、何度も繰り返し聞いた。
★そのとき、うどん屋の話もしたという。「聞きました」。だから、ここにも、つながりがある。こうして、いま、彼らが座っているのは、ふしぎなご縁があり、神さまの導きもあると思う。
★実は、この青年、幼児洗礼で、12歳のとき、母と、姉と、3人で聖コルベ館を訪れたと言った。「そのとき、サインをしました。そのサインも見つけた」。スマホで、彼はそのサインを見せた。ついでに2年前に来たとき、いっしょに撮った写真も見せた。コルベ神父さまを知ってからは、この青年の心は燃えてきて、コンベンツアル会に入りたくなった。「よかった、じゃないね」「ハイ」。かくして今年、2015年4月24日、コルベ神父の長崎上陸記念日に入会しました。ゼノさんの命日でもある。小さな一歩だが、大きな恵みだと青年を見て思った。「修道士の道を進みたい」と彼は言う。どういう道があるのか、神さまの召し出しは、わからない。
★彼らに出会って、ゲンキが出た。ありがとう。おいのりください。

2015年8月19日水曜日

来たーッ。トマさんと呼びかける者。おお、ゲンキか

昨日の日記で、「トマさん」「トマさん」と呼びかける者もいなくなった、と書いたら、来たーッ、じゃないか。3人の若者が。「おお、めずらしい」。写真の左、これが岡山のうどん屋だった。今井君だ。
★忘れもしない、2011年の12月31日、大晦日の日だった。長崎の聖コルベ館に居たが、そろそろ閉館しようと、準備していると、7人ほどの若者たちが、岡山、神戸から、長崎の案内人も交えて、やってきた。その中の1人が、今井君だった。高二のときに洗礼を受けた。豊田神父さんに聞いた。「どこか、修道服を着て、野球、ボールを打つような修道会はないですか?」「聖母の騎士へ行きなさい」。名言を与えた神父さんだった。
★今井君は、高校の奨学金、108万円を払うために、うどん屋で働ている、と言う。コンベンツアル会へ入ろう。2012年も聖コルベ館へやってきた。司祭になるため、がんばります。爽快な青年だった。「霊名は何んだい?」「パウロです」「名前は?」「裕次郎です」。あの有名な裕次郎と同じ名前と言って笑った。「おみやげも、持ってきたでしょう」「おみやげ?」。すっかり忘れていた。
★2013年5月に、奨学金は払い終わって、すっきりなった。これからコンベンツアル会に乗り込みます、と聖コルベ館へやってきた。カバンをさげて、黒いハットかぶっている。この帽子が印象的だった。「待て、待て。順序がある」。1晩、聖母の騎士へ泊めてを岡山に返した。手続きがあって、その年の9月に待望の入会を果たした。いま東京の修学院で暮らし、上智に通って、勉強している。「ああ、よかったな。ひざしぶりだな。がんばれよ」。はげます言葉はいっしょだ。「歳は幾つだ?」「22歳」。若くて、心は燃えて、元気あふれる神学生だった。
★ところが、写真の真ん中の青年に、これまた、ドラマがあった。人生の出会いとは、ふしぎなものやな、と思う。

2015年8月18日火曜日

涼をとるため、近くの瀧にドライブ。外気を楽しむ


時には、外気を吸おう。車で20分ほどのところに、小川があり、涼しい場所がある。ホームの人、10人。午後から、近くの「轟の瀧」へ涼をとるために出かけた。子どもたちが、無邪気に、水に戯れていた。石が、ゴツゴツ。足元がフラフラ。園内を歩くのと違って、足元が心もとない。川の水だから、冷たい。涼しい風が吹いてくる。帰りに、道ばたの店で、轟アイスを食べた。★ホームに入って、もう「トマさん」[トマさん」と呼びかける者もいなくなった。いま、何が出来るか。「人を助けることが、できました。胸、はって、言える自分に、なりたいです」

2015年8月17日月曜日

ヒマワリのように、いつまでも、シャンと立っていたい

庭に咲いたヒマワリ。元気に立っているね。昨日のからだの調子が、今日も変わらないのが、幸せと思う。ホームにお世話になって、ありがたい。感謝しかない。
★北海道の友人から、夕張メロンのゼリーが届いた。彼もホームに入っている。彼のホームの年数は長い。なつかしい友人だよ。なぜ、ポンと思い出したように送ってきたのか、とまどった。電話をかけて、お礼を言う。「同じ歳だよ」と彼が覚えている。
★バカのような話だが、終戦になって、みんなは故郷へ帰るのに、彼は北海道を出て、中国へ渡り、匪賊になると、列車で、日本列島を縦断して、長崎へ着いた。長旅で疲れて、仰げば、十字架の天主堂が見えた。そこへ、吸い込まれるように入って、結局、カトリック信者になった。昭和20年代の頃か、その頃、出会った友人になる。
★若い頃には、夢がある。何年か、長崎で暮らし、北海道へ帰って、会社員をしながら教会のためにも働いた。彼を訪ねて、自宅へ行ったこともある。そう考えると、人間は生涯に色んなことをするもんだ、と思う。そして人生は長いとも思う。「腹部に病気が見つかってね」と電話の奥で、彼が笑いながら言った。「それは、おだいじに」。ヒマワリのように、いつまでも、シャンと立っていたい。昨日に変わらぬ今日でありたい。

2015年8月16日日曜日

奇抜な風呂敷に入ったクッキー。楽しみになる

真理さん。面会に来たのは、いつでしたかね。写真の日付を見ると、8日でした。そう、誕生会があった日でした。長崎の郊外の町から、車を頼んで、来てくれた。昼から、2時間ほど自室でお話しましたね。
★人生、いろんな苦労があっても、自分の足だけは、しっかり地につけておきたい。ご主人も居られるが、自分でも大学院目指して、法律の勉強している。そんな気概が感じられて、慰められる。ご縁は、もう長くなります。帰る前に、教会を見たいといわれるので、案内しました。真理さんのお土産は、奇抜なものがあるので、楽しみです。篭を、風呂敷で包み、その中にクッキーが幾つも隠れて入っている。数人でわけて、1つだけ残った。
★昨年の3月、まだ聖コルベ館に居たころ、真理さんとの会話。「新しい話題が次々に入ってくるので、古い話は忘れてしまう。記憶力がわるいんだな、そう思っている」。すると真理さん「トマさん、新しいことに興味がある。次々と、古いこと、すぐ忘れていくと自分では、そう思っている。必要なとき、フンイキを引き出す。引き出しが、いっぱいある。新しい記憶から古い記憶、必要なときに引き出してくる。カギがかかって、サビついていても、カギがパンとこわれて、思い出せる時がある。あっち、こっち、見ていて、歳をとってもオウセイですよ」。ああ、最近は、カギがサビついて、引き出しが開かない。

2015年8月15日土曜日

お盆でもあり、聖母被昇天祭。故人のために祈る


  きょうは、お盆でもあり、聖母被昇天祭でもある。ホームには仏教を信仰する入居者がおられるので、食堂に、このような祭壇を設けました。中央には、今年、亡くなった故人のお写真を飾っています。思い出してください。ローマ修道士、フランシスコ中村安五郎修道士の写真もあります。亡くなった人たちは、なつかしい思い出のある人たちです。
★10時から教会で、信徒も、仏教の人もいっしょに集まって、故人を偲びながらミサで祈りました。長崎では、聖母被昇天祭は「ふくれ・まんじゅう」のお祝い日と言った。唯一のご馳走だったのでしょう。人は生まれて、初めがあるが、終わりも来る。しかし亡くなった人は近くに存在する。守ってくださる。喜んでくださる。人間は、そう信じて生きたい。★終戦記念日でもある。よくテレビでは、天皇陛下のお声が放送されて、戦いが終わるが、原爆の廃墟の丘には、電気はなかった。終戦の声を聞いた覚えはない。「戦争は2度としない」。終戦の人間は、誰もが、そう思った。70年が経っても、その思いは変わらない。

2015年8月14日金曜日

聖コルベの祭日。身代わりの愛。けがれなき聖母

聖コルベの祭日。聖母被昇天祭の前日に殉教した。ふしぎな御取り計らいであった。ミサで祈る。司祭がミサの始めに次のような意味の言葉を言った。「コルベ神父さまが日本(長崎)に来なかったら、私たちも居なかったでしょう。ホームもなかったでしょう」。確かに、そうだと思う。つながりがある。
★コルベ神父を語るとき、けがれなき聖母マリアを外すことは出来ない。常に、マリア、マリア、マリアを呼吸して生きていた。その話はポーランド人の修道士から本当によく聞かされた。「マリアを通して、イエスへ」。それが目標だった。
★コルベ神父やゼノ修道士や他の修道士たちの生き方を見ると、アシジの聖フランシスコの生き方によく似ていると思う。質素で、純朴で、祈って、許して、愛して、「わが神よ」と叫んで、主に似た者になることを目指した。
★コルベ神父が長崎へ上陸して、1ヶ月で、日本語の雑誌を発刊したのには、おどろきである。誰がそのような行動ができるだろうか。昭和の初め、雑誌、新聞、ラジオに興味をもった。最先端の科学、技術をもって、宣教すると、肺を病みながらも行動した。コルベ神父のことを考えると、なぜか次から次へと話題が湧いてくる。信仰が燃えてくる。人間味が広がってくる。

2015年8月13日木曜日

助ける人に出会うのが幸せだろう。だから今がある

「子どもの頃のマンガがあるそうですね」と女性職員さんから声をかけられた。『焼けたロザリオ』のことでしょう。「どこで知りました?」「騎士誌の広告に載っていました」。そういえば、ちょうど今が旬の本であるのを思い出した。しおうら・しんたろう作。2009年初版。原爆を生き抜いた少年の・・・数奇な運命と新たな心の世界、とある。「ドッカーン」と、きのこ雲があがったところ、50ページから83ページまでは原爆の状況が正確に描かれている。
★原爆の後、すぐ聖母の騎士に入ったが、当時、小神学校に入ってから、初誓願を立てるまでは、5、6年だった。それが私の場合、20年かかった。一番肝心な時期に、結核に見舞われ、次から次に苦難におそわれた。死にかかったこともある。よくぞ、修道会の長上たちは、温かく見守り、周りの人たちも支えてくれたと感謝している。祈りと、信頼が苦難の道を開いたのかも知れない。
★人生、大きな壁にぶつかると、そこには助ける人がいた。また壁にぶつかると、また別に助ける人がいた。一回や、二回にあらず、三度も、四度もあった。だから、今がある、と思っている。人生を振り返れば、感謝しかない。

2015年8月12日水曜日

夏の生け花は長くはもてない。考えない日々

日曜日。祭壇に飾られたお花です。いつも、丹念に、心をこめて活けてくださる女性が居ります。生け花は長くはもてません。残念です。今朝は、大雨でした。雨の中、整骨院の車が迎えにきた。ホームから5人が乗って治療に行った。幸い、足のむくみも取れたので、足をマッサージしてもらっています。帰りも車で送ってくれる。ちょうど、町の理髪屋さんの前を通りました。2日前、お世話になった。
★最近は、自分の人生から何を学ぶべきか。これから、どう生きるべきか。あまり考えずに過ごしている。刺激がないのかも知れない。出会う人もいない。明子さんは来た。忙しそうです。お花を飾ってくれる。小さな花でも慰められています。「きょうは笑いましたか?」「笑いません」「挨拶は、しましたか」「挨拶は、沢山しました」。ああ、それで、よし。

2015年8月11日火曜日

贈りつづけるお花に感動。平和を語りついでいく

ここ10数年間、毎年、原爆の日、母の命日になると、豪華なお花が届く。今年も届いたのが、このお花です。北九州の、お母さんと、娘さんの名前で、届くのです。お部屋に飾りました。母の冥福を合わせて祈りました。北九州の母娘とは1つの物語がある。忘れることの出来ない思い出です。
★娘さんが小学六年のとき、修学旅行で長崎へ来た。私はその頃、原爆資料館で、原爆の語り部を努めていた。私の話を聞いた娘さんは、中学生になったとき、平和を願って、「毎月、100羽づつ折鶴を織るから、原爆中心地に飾ってほしい」との折鶴が送ってきた。「10ヶ月で、1.000羽を織り上げます」というのだ。そこで私が提案した。「原爆中心地に飾るのも、いいが、それを原爆老人ホームへ持って行き、1ヶ月、1人づつのお年寄りさんに贈る。10ヶ月になれば、10人の老人さんのお部屋に飾ることになる。どうでしょうか」。時は2000年の9・11の年だった。
★中学生の娘さんは、毎月、100羽を送り、1.000羽完成の日には、お母さんと中学生が最後の100羽を持参して、原爆老人ホームを訪ねて、10人のお年寄りさんと喜び合ったのだった。その頃から、私の母の命日、原爆の日の前に、必ずお花が届くようになった。
★こんなに長くつづくのは感動ではないか。普通にある話ではない。私がホームに来ても、お花は届いた。あれから何年が経つだろうか。娘さんは高校を出て、就職し、結婚して、子どもも出来た。平和をつないでいく心に変わりはない。今年、届いたお花には、1枚の写真(2人の子どもが満開のサクラのしたで、向き合って、笑っている)と、次のコメントがあった。「衣里(娘さん)の長女の通う小学校の校庭に、城山小学校(長崎の原爆被害を受けた学校)の嘉代子桜があります。小さな苗木が卒業する頃、どの位大きくなるのか楽しみです」

2015年8月10日月曜日

2ヶ月に1度の理髪屋さん、楽しみにしています

今日が、理髪屋さんの日でした。3人で来られた。2ヶ月ぶりです。老人になると、白い眉毛がひょろっと伸びるんですね。「切ってくださいね」。散髪中に、理髪屋さんが聞いた。「ブログを書いているそうですが、検索の仕方を教えてください」
★実は、この間の理髪は、6月15日の日記に書いた。そのとき女性職員さんに頼んで、理髪のところを写真にとってもらった。「ブログに載せるのでしょう」と女性職員。その通り、日記に載せました。理髪屋さんは、それで探してみたが、見つけられなかったのでしょう。「検索の仕方」を教えてあげた。
★もう、ずーっと以前から、ホームで奉仕して居られる。ありがたいです。楽しみにしています。この理髪屋さんは、ここの集落でも、ていねいに時間をかけてリッパに理髪するので喜ばれて、知られています。地元の人も誉めていました。アタマがサッパリした。心地よく、眠気がさしていた。ありがとう。ごくろうさま。

2015年8月9日日曜日

長崎・原爆の日。かあちゃん、行ってくるケンな

きょうは長崎・原爆の日。多くの人がテレビで、70年前のこの日を想い、涙している。わたしも母を失った。
★今年の4月末のある日、わたしの所に、「トマさんのことば」というタイトルで、1冊の、手作りの小さな本が送られてきた。ミキさんと、サトシさんからの、34ページの本です。いま、それを開いて、14・15ページを見ると、母の写真と、小さな字で、言葉があった。「あなたがイキを吹き込むと、人は生きるものとなる。かあちゃん、行ってくるケンな」
★いま、母の写真をジーッと見つめながら、この言葉をかみ締めている。あの朝、いっしょに朝食を食べて、わたしは出かけた。17歳だった。魚雷工場で、工員として働いていた。家を出るとき、「かあちゃん、行ってくるケンな」。確かに、そう言った。母は、返事をしてくれなかった。家の外に出て、もう1度、「かあちゃん、行ってくるケンな」。母の声はなく、にっこり、ほほえんでくれたのが母を見た最後になった。原爆の日は、母の写真をジーッと見つめていたい。
★かあちゃん、オレ、7歳で、父ちゃん病気で亡くなっただろう。1人っ子、かあちゃんに、あまえて育った。17歳で、かあちゃんと別れて、孤独になった。そして、いまホームで孤独だよ。かあちゃんの歳の、2倍近く生きたけどね。
★ミキさんも、サトシさんも、よくぞ、この言葉を選んでくださった。ありがとう。
saide

2015年8月8日土曜日

誕生会。90まで生きて、おめでとう。長生きね

月に1度の誕生会は楽しみだね。まとめてお祝いする。みな、ハクシュ。「ハピー・バスデイ」歌いながら、園長神父さんから「ハイ、お祝い」。小さなローソクの火もあるよ。90歳の男性。元気、もりもり。今月は、3人がいた。長生きは神さまのお恵みです。「さあ、踊りの出番だよ」。皆さんを喜ばせるために、職員さんが体を動かします。テーマは何かって「真っ赤に燃える太陽」だよ。お年寄りの元気が若者にも通じる。若者の心が、お年寄りにも燃え上がる。こうして世の中は、助けられたり、助けたり。それが幸せです。「きょうのメニューは何か」って。肝心なところだね。写真には撮りました。

2015年8月7日金曜日

長崎の空も海も、曇っていた。人生、何が起こるか

高原修道士が休みの日というので、2人連れられて、ホームの山にある「いこいの村」へ登った。ここからの眺めがすばらしい。有明海、島原半島、雲仙岳がかすんで見えた。写ってはいないが、リッパな建物がある。入浴を楽しんだ。風呂からの眺めも、この通りだった。
★人生、まさか、まさかの連続という。何が突然に起こるか、わからない。昨年の8月の今頃は、まだ元気もりもりだった。この1年で、体力も、心境も、こんなに変わるものか。歳をとって急転するのは、きつい。ホームに入って、1ヶ月、2ヶ月は、誰にも会いたくなかった。こころの整理がついていなかった。最近では、自由に会える気持ちになった。
★大きな壁にぶち当たれば、そこには助ける人がいた。助けられて、今がある。ありがたいと思う。高原修道士も、その1人だろう。

2015年8月6日木曜日

登明の日記。サブ・タイトルの館長は引退

最近、写した庭の花の写真です。意味はありません。8月6日、広島に原爆が落とされた日、その時間、サイレンが大きく鳴り渡り、朝食前に、黙祷しました。
★修道院の橋口修道士を訪ねて語り合った。私が以前に、からだが虚弱だったので、「60まで生きるかな」と言ったそうだ。それを覚えていて、いつも私を見ると、この歳まで生かされて、と繰り返し言っている。彼によると、「あんたは、神さまから、語りべの使命を受けているんだ」という。ありがたい。「コルベ神父の身代わりの愛、原爆と世界平和の尊さを語る。修道士の道に導かれたのも、召し出しだった」「そうかな。最後まで貫けなかったよ」「そこが、また、いいところさ」と彼は肯定してくれる。

2015年8月5日水曜日

聖コルベへの9日間の祈り。始めましょう

聖コルベの殉教の日は、8月14日です。その日の前に、9日間の祈りが始まります、と「無原罪の聖母への祈り」を渡された。朝、ミサの後に、です。そして祈りました。1941年の8月、アウシュビッツで、コルベ神父の牢獄での苦しみが始まりました。決して忘れることは出来ません。戦争は2度と繰返しては、ならない。愛と平和。つながりがある。
★コルベ神父が、なぜ、人のため命をささげることが出来たのか。それは、つまらない人のために、どうしようもない人のために、命を捧げた人が居たからです。それは誰ですか。イエスです。コルベ神父はイエスの道を生きたいと強く望んでいたからです。イエスに最も近い人、マリアを愛し、完全な奉献をした。マリアさまの導きで、コルベ神父はイエスの如く、裸で、「渇く」と言って、人のために命を捨てることが出来たのです。以前に読んだことがある。(浜尾司教・正しさを求めて・中央出版・27ページ)を参考にして。

2015年8月4日火曜日

来たーッ。2人の修道者。ああ、これで、よかった

きょうは日記に何を書こうかと迷っていると、夕食どきになった。廊下で、パッタリと出会ったのが、2人の修道者だった。2人とも東京からで、右は松尾修道士。前にも紹介したことがある。以前、ここのホームの職員を勤めていたから、皆さんにも人気がある。みな喜んで迎えている。左は、ベトナム人の司祭、ホワイ神父さんだ。あしたから、長崎・聖コルベ志願院で、「サマー・キャンプ」が行なわれるそうだ。がんばってください。
★ホワイ神父さんについては、5年ほど前の騎士誌に載せたことがある。村の人口は2千人。99%がカトリックで、幼児洗礼。ここでも東洋の使徒聖フランシスコ・ザビエルが尊敬されていて、ホワイ神父さんの霊名もザビエルと聞いた。村では信仰に燃えていて、朝の4時に鐘がなる。スピーカーから聖歌がながれる。教会では祈りが始まり、ミサが行なわれる。終わっても、まだ辺りは暗い。「家から空を仰ぐと、教会の上に1つの輝く星が見えている。明けの明星です。忘れない思い出です」。司祭になることを望んで、希望は果たした。活躍している。
★「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「どんなことにも感謝」。ホワイ神父さんの言葉です。

2015年8月3日月曜日

追加。納涼祭の一こまです。食べるのが楽しみ

納涼祭の追加の写真です。一連の屋台です。準備された食事には、細やかな心遣いがあらわれていました。
★メニューは、おいしいカレーに、冷やしソーメン。焼き物は、焼き肉、焼き鳥、イカ、エビ、シイタケの塩焼き、盛り合わせには、鶏のからあげ、フライド・ポテト、とうもろこし、枝豆、たこ焼き。飲み物はジュース各種。果物にはスイカ、オレンジ、パイナップル、キュウイ・フルーツ。カキ氷もあった。特製ソフト・クリームもあった。奉仕する人たちは、あちらから、こちらから、集まってきた。顔見知りから、「元気ですか」と声もかけられる。
★去年は台風で、中止になったそうで、今年は盛り上がりを見せていた。歳を重ねれば、楽しいこともあるモンですね。気分がラクになります。参加して、幸せを感じました。おかねは無料だしね。3件のコメントありがとう。見守ってください。

2015年8月2日日曜日

夕べの納涼祭は盛り上りました。歌に、踊りに、食事


楽しかった納涼祭。にぎわいました。ホームの人たちだけでなく、近所の人も、隣町の人も、みんなで、食べて、出し物を見て、すばらしい太鼓の音で心を揺さぶられ、感動した。職員さんを入れて、みんなで「岳の新太郎さん」の踊りも盛り上った。元気をもらったのが良かった。職員さんたちが準備するのは大変だったと思う。それでも、みんなが喜んだ。夏はやっぱり祭りだよ。からだ、ウキウキ。こころ、ウキウキ。これで、また長生きができる。

2015年8月1日土曜日

昨夜は、十五夜でした。納涼祭まで、まだ時間がある

酷暑の夏がきて、自室の窓側には、小竹の網すだれが立てかけている。最近は外を見る機会もなくなった。窓を少し開けて、天井から冷房が入っている。扇風機も壁側の方向に回す。風通しがよい。「いま、きれいな十五夜が出ていますよ」と声をかけられた。昨夜のことです。窓側のテラスに出ると、「ああ・・・」と、久しぶりに空を仰いだ。「まあ、静寂のさなか、まんまるの月が、天空に浮かんでいるではないか」。納涼祭が楽しみだ。1夜は明けたが、まだ時間があるので、このブログを書いた。