2018年10月31日水曜日

めずらしい大根が採れましたよ。これ見て何を思うか、皆さん

1週間ほど前に、ホームに遊びに来た2歳8ヶ月になる「はな」ちゃんの写真を久しぶりに載せた。ママは、ホームの介護職員の絵里さん。写真も2枚載せて、ダンナさんの姿を「はな」ちゃんと一緒に初めて写した。
★その後、絵里さんから報告があった。家族で、グログを見て、ダンナさんも、ダンナのお母さんも一緒に見て、文章も読んで、「北海道から来て、勤めて20年を越えた」など、話題になって、「喜ばれましたよ」と笑顔で言った。
★そのご縁か、知らないが、「めずらしい大根が出来た」と、自室に声をかけてくれた。「これ、オモシロか、でしょう。ダンナのお母さんの畑で採れたのよ。めずらしいでしょう」「えッ、これが、ホントウに、めずらしい形をしているね」
★さて、皆さん、この大根の形をごらんになって、何を想像しますか。いろいろ浮かぶ思いもあるでしょう。私に言わせてもらえば、親から生まれた「5人の男の子」を連想しますね。私は1人っ子だからね。兄弟が沢山ほしかった。男の兄弟が5人も居れば、私の人生も又変わっていたかも知れない。兄弟が多いのが、とにかく羨ましい。兄や、弟に揉(も)まれて、遊び戯れて、楽しく育っ姿を想像する。性格も違った方向に築いたであろう。「ポン」と見せられた「珍・大根」は、私の心に何やら「ポチャン」と波紋を広げたように思う。
★だが、もう1つ見方がある。この「大根自身」が何を思うか?オレは変わっている。普通じゃない。落ち込むな。他人と比べると、悩みが起こる。とかく周りの他者と比べがち。「なぜ自分だけが違って、苦しむのか」と、こう、なる。ダイコンよ、お前は、オマエだ。他者と競うな比べるな。お前にも立派に良いところがある。皆から愛されるところもある。堂々と5本の根を伸ばして、誇りに存在しようじゃないか。
★ホームでは昨日、午後から「ハーモニカ・ミニコンサート」があった。演奏者3人。童謡を演奏した。その時、私は歯科へ定期の検診に行った。1時間かけて、歯茎の検査、歯石や清掃など丁寧に処置してくれる。お陰で歯の調子が良くなった。
★今日は、長崎・修道院の松下修道士が「毎日のミサ」を持って来た。ロザリオの長崎編みについて語る。

2018年10月30日火曜日

花の波に揺られて、イノチと愛の大自然を知る。我が身にも

ホームの近く、畑に囲まれた四角い一角に、コスモスの花が揺れている。遠方に、雲仙岳。棚引く秋の白い雲の流れ。絶景だ、と思いませんか。誘われるように、花々のジュウタンの中へ入って行きました。
★老人が花の中で、静かに憩う。ああ、気持ちが、いいなァ。今朝、また静かに考えました。「過去を振り返って、自己を見つめてみよう」「生涯で、一番感動した出来事は何であったか?」。やっぱりコルベ神父の最後の「身代わりの愛」でしょう。現場にも10回行って、その雰囲気に触れた。人生に大切な、愛とイノチ。そこには本物があった。助けられた男性にも3度会う。彼は3度共、「涙」を流した。このナミダも、本物だった。愛とイノチが、老いたる胸に、グ、グッと迫ってくる。愛を背負い、イノチを背負って、これからも「老いに耐えて、老いるのはキツイんですよ。天命を喜んで受け入れていこう」
★たわむれた花は、安物のコスモスの花たちだが、これだけ大勢揃うと、イノチの波を感じるね。「やあ、花も生きている、オレも生きている。感謝だよね」
★生きるとは、何んなのか? 救いとは、何んなのか? それは、これらの大自然を、生かして見守っておられる主に、出会うこと。そうでしょう。それ以外にありますか。出会えれば、ヒトは必ず(変わるのではなくて)変えられる。
★「私たちにある目の欲、肉の欲、生活のおごり、そう成らないように、守ってください。主の霊に従って、生きる恵みを与えてください」。ヒトは、どんなに外見は立派に見えても、誰にも暗い部分、秘めた部分が必ずある。世の中には、善もあれば、弱さもある。善の道を行けば、必ず助けられ、導きがある。そう信じよう。他人が落ちたのを見ても、おどろくまい。他人のセイにして、自分の墓穴は掘るまい。そのように思う私が、今、ここに居る。カンシャ。

2018年10月29日月曜日

傾聴ボランティア女性の訪問。語れば頭も整理する

きのう、電話があった。「きょう、来ても、いいですか?」。待っていました。きょう、朝から楽しみでした。傾聴ボランティアの女性。お元気な、明るいお顔で自室を訪ねてくれた。
★こちらが語るだけ。向こうは、ただ聴くだけ。言葉の折々に、同じ言葉を返してくれる。ほぼ1時間、当方は、語っている内に、心の整理、頭の整頓が出来て、自然に解決の方向が見えて、カラダ全体が楽になる。
★傾聴ボランティア女性が来る度に、思うのは、奇特なお方も居るもんだと、感心するし、感謝する。16回目です。列車、バス、徒歩で、誰が、年内に何回も来て、当方の話や、語りだけを聞いてくれる人が居るでしょうか。意見や、指導は一切しないのです。そんな人は、この女性以外に、私の周りには居りません。
★傾聴ボランティアを迎える朝、静かに、自問自答した。
★①今、一番気がかりなことは何ですか。「三食いつも完食。大のトイレあり。よく眠る。歩ける。この4つが基本」②近隣とのトラブルはないですか。「イヤに感じれば、その人の声も笑いも気になる」③何か心配事はないですか。「寒さに弱い。カゼを引きやすい。この冬を如何に乗り越えるか、心配もある」
★④何か変わった事はないですか。「最近は手紙も電話も少なくなった」⑤悩み事はないですか。「考え方が感動的でない。平坦で普通。短くて切れ味の良い言葉が出ない」⑥今、病院に行っていますか。「ステントの入れ換え、辛抱の心構え」⑦一日の時間割を教えてください。「夜7時半には床に着き、朝4時半に起きる。日常に退屈はしていない」「テレビは『きょうのわんこ』が楽しみ」⑧食べたいものが、ありますか。「大きな焼き栗を食べたい」⑨どこか行きたい所がありますか。「広島と、鳥取の砂丘へ行きたい」
★女性に語ったのは、この中の幾つかでした。「90までは上り坂。90からは横ばいです。日々変わらないのが幸いです」。女性はその言葉を返して、帰った。

2018年10月28日日曜日

聖母の騎士のロザリオ祭。マリアに祈れば心安らぐ

コルベ神父が創立の長崎・聖母の騎士修道院。コルベ神父の時代から、85年にわたって、5月のマリアさまの月と、10月のロザリオの月には、「けがれなき聖母マリアさま」に、最大の賛美と感謝と取次ぎの願いを捧げてきた。今日が、そのロザリオ祭でした。修道院で暮らす修道者も、信徒も変わったが、その心は変わらない。聖母の騎士に入った頃の、10代から90まで、マリアさまを見つめる心、信心は一筋の道を示している。
★ミサの司式司祭は、李信衡(LEE Sin Hyoung)神父さま。説教は、アシジでの思い出と、神父の母の聖母信心を語った。聖母マリアは、私たちを神さまへと導きます、その確信を新たにした。
★ミサの終わりに、山口雅稔院長神父さまが、大勢の皆さまが各地からお祈りに来てくださったことを感謝した。その中で、北海道からシスター10人が居られたのが紹介されて、拍手がおこった。外国人のシスターも居られた。
★ミサの後で、一同は、ロザリオを唱えながらルルドへ登った。瀧憲志神父さまと、トマは足の都合で、教会内で、修道士の先唱で、ロザリオを捧げた。
★コルベ神父は「けがれなき聖母マリアさまに、身も心も、あなたの総てを捧げなさい。奉献しなさい。マリアさまに結ばれると、必ず幸せになります。苦しみがきても、一緒に乗り越えることが出来ます」と教えた。聖母の騎士も、小神学生やポーランド人修道士、日本人の修道士が多かった頃は、「アカデミヤ」といって、聖母賛美の集いが行なわれていた。そんな事を思い出しながら、ホームへと高原修道士の運転で、瀧神父さまと、帰った。(いつまで、この祭に参加できるか、案じている)

2018年10月27日土曜日

55年ぶりに訪ねてきた男性。私は名を覚えていた

優しい、いい顔をしている男性。この男性、詳しく言えば55年ぶりに突然訪ねて来た、といえば、ビックリしますよね。こんな出会いは、ないと思います。
★事務室から自室に電話があって、「男性が面会に来ている」「1人ですか」「4人ほど居る」「名前を聞いてください」。名前を聞いても、覚えはなかった。
★応接室で会った。「理科を習いました。首都圏に住んでいるが、これからは長崎で暮らしたい。いま家を探している。小崎さんの日記を、数年前、偶然に見つけて読んでいたが、最近は見当たらない。気にかけていた」
★ふしぎなものですね。彼の姓を聞いて、名が脳裏からポッと出てきた。というより、姓と名が自然とつながって記憶が戻ってきたのです。これには自分でも、びっくりする。当時、一緒だった少年たちの名前を語り始めた。その名前も覚えていた。おだやかな表情で、男性は話した。苦労が多かった人生、と察した。「スマホは、持っている?」。スマホで、小崎の日記を検索した。すると出てきた。「ほら、ちゃんと書いているよ。読んでよ」「ああ、わかりました」
★連れの人たちは、兄(近くの都市に住んでいる)の家族だった。兄の嫁さんの運転で来た。家族の人たちにも挨拶する。
★50年も経って、訪ねてくれる男性が居るなんて、本当に驚くと共に、有り難いとも思った。苦労を乗り越え、優しい、いい顔をしている男性だった。人と、人を結びつけるチカラは何か。温かい思い出、安らぎ、喜び、引きつける『和』。「いつも、み旨をおこなわせてください」の祈り。つまり私たちが今日も誠実に生きることが出来ますように。それが今日、私が受けた『きずな』の証かも知れない。
★翌日、昼寝をしていると、自室の戸をノックして、兄嫁さんが「今、空港へ送っていきました。これは、おみやげです」と、カステラを置いて去った。

2018年10月26日金曜日

神さまのご計画の中で、精イッパイ生きよう

洽子(こう・こ)さんから、お花が届いた。アメリカ・テキサスに住んでおられる。故郷の諫早(長崎県)に帰っている。短い期間なので、ホームに見舞いに来れない。お花だけが届いた。どうも、ありがとう。
★洽子さんとの出会いは、聖コルベ館のときに始まる。5年前の夏、「アメリカに30年住んでいる。アメリカ人の夫と、年に1、2回は長崎にへ帰ります。アメリカでもコルベ神父さまは有名ですよ。よく知られています」が第一声だった。そして次に忘れない言葉がある。私が「ご主人のお歳は?」と聞くと、歳を答えて「修道士さんは?」と逆に聞かれた。「85(当時)だよ」「え?ほんとう、お若いのね。肌もツヤ、ツヤで、いいお顔している。何かヒケツがあるんですか」「あるよ」「教えて」「そう簡単には教えられないよ」
★この会話から、テキサス女性の洽子さんを忘れない。2週間ほどしてアメリカからメールが届いた。夫妻は熱心なキリスト教信仰者。「神さまのご計画の中で、精いっぱい生きたい」「神さまにとって、1人1人の存在の意味を感謝し、考える」と書いてあった。
★次の年の夏には、家のお手伝い、メキシコ人のエスペランザさんを連れて来た。そこで又、1つの物語が出来た。その年の秋、私はホームに入った。洽子さんは、ホームにも訪ねてきた。
★洽子さんとエスペランザさんもホームに来たことがある。右側の写真が、それです。2017年7月9日とある。
★「生かされて、感謝して、アーメン、ハレルヤの意味も理解できました。お顔のツヤ、ツヤ、ヒケツも、祈りですね」

2018年10月25日木曜日

小学4年生たちと遊びを楽しんだ。童心に返る

ホームを下った所に、小学校がある。グランドが見え、子供の声も聞こえる。小学校の4年生たち、52人がホームの皆さんと交流に来た。毎年の出来事で、楽しみにしている。午後のひと時、小学生たちが元気よく姿をあらわした。
★最初に、子供代表の挨拶がある。次いで「手をつなごう」の歌を大きな声で披露してくれた。「いい、歌だ、な」の声が。写真が、その場面です。
★小学生たちは、各テーブル毎に、遊びを考え、準備していた。声や、笑いが盛り上がる。紙で作った王冠を被った男の子も目についた。各テーブルで、何の遊びをしているのか分からない。とにかく、ザワ、ザワ、ハッ、ハッと賑やかになる。
★私と瀧神父さんのテーブルには、6人の小学生が来て、「ビンゴ・ゲーム」を楽しんだ。男の子が3人、女の子が3人。私たちは4人。子供たちと触れ合うのは本当に楽しい。自分の小学生の頃を思い出す。この小学生たちにとって、50年後、80年後は、どのような社会になるだろうか。平和で、豊かであってくれればと、願う。
★校長先生も姿を見せた。私の所へ来られて、「語り部でお世話になりました」とお礼をされた。この小学校の皆さんに「原爆の話」をしたのは昨年の6月だった。「その後、飯盛西小でも、されたそうですね」。校長先生は知っておられた。
★小学生には夢がある。空は秋晴れに晴れていた。「愛と友情が、いちばんの宝」

2018年10月24日水曜日

入居の記念日。4年が経った。せい一杯、生きるのだ

今日で、マル4年になる。ホームに入った記念日である。入所の日、夕方、高原修道士さんが運転する小型バスに1人だけ乗って、後ろに流れ行く田園を、ぼんやりと見つめていた。高原さんが慰めるように、連なる山の名前を告げた。濃紺の青い空に、薄い線が山並みを描いていた。その山よりも、先ほどから道路の脇に広がる赤、白のコスモスに目が奪われていた。「コスモスだよ、高原さん」「あしたの野外活動で、ホームから見に行きたいね」。その声をさえぎって「あーッ、ごらん」
★コスモスの花全体が、暮れ行く太陽に向かって、精一杯に、枝を倒していた。感動ものだった。今も、その情景を忘れない。あの時、コスモス達は語っていた。励ましていた。「せい一杯、生きるのだ。老いに負けるなよ」
★あの日、夕食に間に合った。「新入り、です。よろしくお願いします」。夕食が5時半過ぎに終わると、各お部屋に散在していく。「おやすみーなさい」が挨拶だった。「早やー」と、ちょっと驚いた。ホームの生活が始まった。お世話になる人生です。
★翌日、ホームから10人はどが、あのコスモスを見物に出かけた。その時の写真です。入居時の顔です。この時、不安と悩みに脳裏は満ちていた。体重は51Kgあった。今は53Kgになっている。あのコスモスの日から4年が経ったのか、感慨深い。
★ホームの生活は単調ではあったが、それでも日記をつけていたお陰で、記録が残る。ファイルに納めた日記を読み返すと、様々な出来事があったが、心の奥の悩み、苦しみ、不安は書いてはいない。孤独と、時間の余裕と、生きる意味と、本当に辛かった。今は安らぎを得ている。生きていれば、いいことも、あるもんだ。
★午後1時50分から、地元の小学校の4年生たちが訪問に来るそうです。彼らが考え、作った遊びに一緒に参加して、楽しいひと時を過ごします。それで早めに日記を書いた。

2018年10月23日火曜日

はなちゃん、ゲンキ。かわいい。カメラは恥かしい

「夕方、5時頃、『はな』が来るよ」。介護職員の絵里さんが教えてくれた。時間になった頃、はなちゃんを探した。玄関には居ない。広い庭に、はなちゃんは居た。ダンナさんと、小さなボール遊びをしている。ポンと投げては、ころがるボールを追いかける。ダンナさんを、はっきり見たのは初めてだった。
★ダンナさんは笑いながら『はな』ちゃんを見守っている。時にはボールを取って投げる。はなちゃんの可愛い足がそちらへ歩く。写真には、とても写せない。
★ダンナさんと絵里さんが、湯江教会で、ホームの皆さんから祝福されて結婚式を挙げたのは3年前の5月だった。翌年、3月2日、はなちゃんが生まれた。以来、育っていく『はな』ちゃんを日記にも時々載せて見守ってきた。成長していくのが楽しみだ。だから『はな』ちゃんと聞けば、写したくなる。
★はなちゃんは2歳と8ヶ月になる。保育園に通っている。徐々に「自己」を意識する歳になったのか。カメラを向けると、隠れて、顔を見せない。写真を撮るのも苦労する。やっと1枚、まともに撮れた。
★お母さんの絵里さんは、北海道の高校を卒業して、長崎へ来て、18歳でホームに就職した。20年勤続を超えた。20年も経てば、ホームの入居者の状態も変わったであろう。確かに近年は、車椅子の人が多くなり、毎日、介護する仕事は大変だ。日々忙しい。
★5時に仕事を終わって、はなちゃんを保育園に迎えに行く。絵里さんにとって、はなちゃんにとっても、これからが、ゆっくり家庭生活が始まる時間だろう。

2018年10月22日月曜日

パパさまの優しさ、「カミニ、カンシャ」忘れない

聖ヨハネ・パウロ二世教皇の(任意)記念日です。2005年4月にローマで死去された。このパパさまの思い出といえば、唯一、この写真でしょう。パパさまから、アタマを撫でられた修道士です。何年か、分かりません。「ナガサキ、コルベ神父、修道院」と言ったら「カミニ、カンシャ」とお言葉をかけられた。ヴァチカンでのお恵みです。
★聖ヨハネ・パウロ二世教皇さまは、ポーランドのご出身です。私にとっては特に親しみを覚えます。パパさまが聖母の騎士修道院を訪問されたとき、コルベ神父と生活を共にしたポーランド人の司祭、修道士が10人ほど居ました。教会内で、彼ら修道者たちに会われたとき、親しく笑みと労いにの声をかけられました。修道者たちにとって大きな喜びでした。セルギウス修道士は叫んだ。「こんなに偉い人が、ポーランド人に居るんだなァ」
★パパさまの故郷、ポーランドの生家も巡礼しました。クラクフの枢機卿館も見学しました。コンベンツアル聖フランシスコ修道院の道路、一つ前にあるのです。
★本当に聖ヨハネ・パウロ二世教皇さまは親しみの深いパパさまです。

2018年10月21日日曜日

修道士の服が目を引く。服の中身はどうなんだ? 

先日、台湾人の巡礼者たちが来た時のことです。ホームと教会へ30人もの団体さんが来るのは初めてでした。
★ホームと教会は、一段と高くなった丘にある。道は2つある。坂を登る道と、上へ登って下る道。いずれも大型バスは入れない。バスはどこに着いて、皆さんはどこで下車するのか。どの道から来るのか、私たちは心配でした。
★私は、修道服を着て、庭で待っていた。予定の時間がかなり過ぎて、坂道から、1人、又1人と、あらわれた。私は、さっと手を挙げて「オーイ」と叫んだ。疲れているためか、個々に、1人、1人と、間をおいて、次々と姿をあらわした。私は更に「待っていましたよ」と大手を振って、招いた。安心したのか、台湾の女性たちに喜びの笑みがうかんだ。安堵の色が伺えた。
★修道服のおかげです。服を見れば一目瞭然、信徒なら、台湾人であろうが、すぐ理解できる。全く修道服の効果です。着ている中身じゃない。服を見ただけで、「ああ、やっと着いた」。即座に安心するわけです。修道服はありがたい。服だけが輝いている。
★それで、いいのか、という問題があります。服を着なくても、修道士であると果たしてわかるか。示せるか。服の中身に輝きがあるか。生活の中で、脱いだ状態で修道士を示すのは中々難しい。「何となく、あの人は違うな」。そう示して生きるのは簡単ではない。
★ホームの男性老人で、事業を手広く営み、多くの眼力を見抜いてきた彼が、言った。「あの職員は『出(で)』が違う」「どうして、それが分かるの?」「頼んだら、直ぐに応えてくれる。イヤがらない。いい家庭に育っているよ。出が違う」
★修道服のおかげで、台湾人の信徒たちは、初対面なのに、親しく修道服の私の周りに集って、写真を撮った。
★彼らが、日本へ来て、最初に出会った日本人は(昼食時を除けば)湯江の人たちが初めてであろう。どれほどの愛を、台湾の信徒たちに与え得たであろうか。温泉の湯に浸かりながら「ああ、きょうは、よかった。うれしかったよ」と思ったであろうか。
★次の日の朝、そのようなことを考えた。別れに1人の台湾人女性が、台湾のスナック菓子を3袋押し付けてくれた。

2018年10月20日土曜日

一緒の仲間、修道者が集った。ああ、心も安らぐ

ホームに居ると、静かではあるが、やはり寂しい。同じ会の修道者(司祭・修道士)たちと会えると、肌の触れ合い、声の響きで、何となく元気が湧いてくる。2ヶ月於きの集会。この日を楽しみにしている。
★長崎の、4つの修道院で宣教している本会の修道者たち。19人が集った。(2人が留守番と出張で欠席)。共に共同生活をしていた修道者たちなので、心も安堵し、和らぐ。
★集会は先ず、お祈りで始まる。「教会の祈り」を一緒に唱える。祈りの声が落ち着く。最後に聖母の賛歌「サルべ・レジナ」を歌う。これが又、身心ともに癒される。
★次いで各人が、仕事や任務、話題、健康状態などを報告する。話の合間に、「思いやりや、気くばり、が大切。そこから信頼が生まれる」の意見や、「聞く耳を持つこと。空気の読める人」の言葉もあった。私は「ホームに入って丁度4年が過ぎた。生活は私は3階に住み、西山神父さまは2階、瀧神父さまは1階。食事は、私と瀧神父さまが一緒のテーブル」など伝えた。松下修道士から「テレビにデビューした」話題。NHK長崎で、ロザリオの編み方で出演した。「何枚かDVDを録画して、配った」と嬉しそう。
★報告の後わると、会食に入る。これが楽しみ。瀧神父さまが、カンパイの音頭をとった。「トマが、本会・日本管区で、一番の歳上、最高齢者になった」
★思い出や、笑い話やで、会話がはずむ。集った19人の年代を言えば、30代が2人、40代1人、50代2人、60代1人、70代が6人。80代も6人。90代が1人。こうして面々の顔、顔を眺めると、壮年、働き者の修道者(司祭・修道士)たちは、神に召されて「抜けて、行った」「残るアタマの毛も、抜ける」

2018年10月19日金曜日

シスターアグネス永松ミツエの50周年忌の命日

シスターアグネス永松ミツエの50周年忌の命日です。いま修道女会本部修道院に電話をして、次の話を聞きました。
★亡くなったシスターの命日には、誰でも、どのシスターでも、必ずミサを捧げて祈ります。また朝、昼、晩、一日3回祈ります。
★朝食が終わると、シスター方は墓参します。今朝も、30人ぐらいのシスターがお墓参りに行きました。
★シスターアグネス永松は最初に天国へおくったシスターですからね。知らないシスターも居るけれど、話題がよく出ます。障碍者施設「みさかえの園」の最初の看護師・婦長でしたからね。優しい人でした。
★佐賀県まだら島(カトリック信者が多い島・シスターの修道女院がある)に赴任したときは、お医者さんが居ないでしょう。シスターアグネスは従軍看護師を経験していますからね。テキパキと看護に当たっていました。
★最後に電話のシスターは、こう言った。シスターアグネス永松の取り次ぎを願いなさいよ。天国に居るから。取り次ぎを祈りなさい。
★シスターアグネス永松ミツエ、あなたから死にかかった病気を癒されたトマです。40歳で神に召されて、50年が経った。忘れない、恩義を。天国からトマを助け導いて癒してください。今日は祈りました。
★シスターアグネス永松の葬儀のとき、トマが写した記録写真です。

2018年10月18日木曜日

看護師さんのネコ。名前は「キイロ」。幸せの色

看護師さんのネコ。名前は「キイロ」。なぜ、きいろ?「幸せの色だから」。5ヶ月ほど前、駐車場の隅っこに、痩せこけた小ネコを見つけたのが縁。出会いというのかな。小ネコは救われた。大事にされている。出勤のときに抱えて持ってくる。看護師さんが休みの時は居ない。
★通称、サクラの間と呼ぶ、日当たりのよい部屋、小人数の食堂にもなる、その部屋の片隅に、静かに暮らす。左はオッシッコのための大きなウツワ。「ちゃんと、まもってね。まもらないと、チュウシャされるよ」
★お年寄りたちの慰めのキイロ。皆さん、寄ってきて、誰もが、さわりたい。イノチあるものが愛しい。かわいがられている。黒い、キジ猫なのに、いいよな。「幸せになれよ。大きくなれよ」。メスか、オスか、聞くのを忘れた。
★今夜、修道会の集まりが、諫早市で行なわれます。今から出かけます。修道者の皆さんに会うのが楽しみです。

2018年10月17日水曜日

台湾から30人の巡礼団、初めて湯江教会へ来る

台湾から30人の巡礼団が、湯江教会に来る。2人の神父がミサを捧げる。初めての出来事です。連絡を聞いた時、なぜ湯江教会なのか、不思議に思った。
★台湾の信徒の熱心なミサでの祈り、聖歌。大きな声で、主を賛美し、圧倒された。こんなに燃えているのか。説教が長いのには、意味も分からないし、時間が気になった。ホームの信徒も10人ほど一緒に祈った。台湾の女性はベールを被らない。ホームの女性は皆、ベール姿です。
★カトリック信仰は同じ。皆さんと私たちは心は一つです。いま私たち、この中には100歳近い女性もいる、と通訳に言ってもらうと、大きな拍手も起こった。
★なぜ湯江教会なのか。今日、福岡空港に到着して、昼食をとって、真っ先に湯江教会へ来たという。やっぱり修道服だね。私は修道服を着て迎えた。すぐ分かる。疲れも飛んで、二コ、二コして、握手を交わした。これで旅の疲れも癒される。
★湯江教会から雲仙温泉へ。ここで泊まって、明日は長崎市内へ。大浦天主堂、浦上天主堂、日本26聖人殉教地、平和公園を廻って、長崎泊。後は福岡へ。5泊6日の旅ですと聞いた。旅の無事と、信仰の増進を祈りながら、別れを惜しんだ。

2018年10月16日火曜日

行くときは気が重い。帰りは軽々ホッとする診察

ヨゼフ・クリニックの定期の診察日。高原修道士が運転。ホームから丁度1時間かかった。診察室に3、4人の待ち人。先生、なかなか名前を呼ばない。1時間が経過した。
★本棚に沢山の本。「本島等の思想」を手にした。カトリック信者の元・長崎市長。よく聖母の騎士に告白に来ていた。市役所を出た所で、銃弾に倒れたが、危機一髪、助かった。本島さんには度々お会いして、自宅にも訪問した。本を開けると、「永井隆博士」の項目があった。その頁に惹かれた。本島さんなりの解釈だ。聖書のヨブ記に「主は与え、主は取り給う。主の御名に賛美」とある。永井博士はその気持ちで廃墟の丘に立ったという。私も賛成だった。
★診察室に待ち人は、14,5人に増えていた。名前と一緒に「ブラザー」と大声で呼ばれる。ブラザーという呼び方は好かないが「ハイ、よし」と直ぐ、フラフラと歩く。先生はいつも緑の衣装。長崎大から、この恰好だそうだ。今日は椅子に座るや、何やら水を、パッ、パッと、アタマや両肩に振りかけられた。「ルルドのお水だよ」
★聖ヨゼフは、乳飲み子イエスを見守り、天使の言葉でエジプトへ逃れ、イノチを狙うヘロデ王からイエス、マリアを守った。そのイメージで、名前を付け、待ち人を診療している。
★ヨゼフ・クリニック。私の初診は2001年2月2日であった。

2018年10月15日月曜日

8年前44名。今86名。お会いして感謝したい

フォロワーの方が86人もいらっしゃる。8年前の、10月15日、登明日記を見ると、「読者になる、44名。ありがたいです。カンシャ」と書いてある。その時、つづいて書いている。「私、思うんです。私に元気があって、もし、この44名の方々を訪ねて、2時間ほど、おじゃまして、お話を交わすことが出来れば、それは、それは大きな物語がふくらむではないか。喜びが増すのではないか。これまでの経験から分かるのです。トマさん、トマさんと、声かけてくれる人、ありがとうね」
★8年が経過して、いま86名の皆さんにも、お会いしたい。お話ししたい。会えなくても、見守ってくれて、ありがとう申します。

2018年10月14日日曜日

言葉は、もう、いいです。実際を、見せてください

ミサへ行く時は、真暗だった空と闇。帰った時は、丁度、朝陽が上がっていた。何度も日記に載せた風景。だが今日の朝は、又新たに始まる。どんな日になるか。昨日と同じだろう。誰も訪問者は居ないだろう。でも新しい日は始まる。過去のカスミを食って生きても。
★夢を見た。自分が運転していた。確か、長崎駅から出て、電車の線路を越えてユータンして、カステラ屋の前を走り、慣れた道を軽々と、気分よく運転して、満足だった。夢の男は考えた。「まだ、まだ、やれるじゃないか」。目がさめた。ザンネン、免許は86歳で返納した。
★ミサを終わってホームの廊下へ戻ると、車椅子の女性がポツンと1人動かない。いつも見かける女性だ。白髪、目は遠くを見て動かない。言葉も、反応もない。何か愛(いと)しい気持ちになる。華々しい過去もあるだろう。家庭の事情もあるだろう。黙して語らない。慰める意味で時々、肩のところを軽く、2度、3度と抑えて、「ゲンキで、ね」と声をかける。「パワハラに、なるだろうか」。そんな思いも、よぎる。
★いま、直ぐ吐ける言葉といえば、3つ、ある。
「生かされて、今日も、祈る」。この心情は変わらない。その気持ちで生きている。すべては感謝しかない。
「苦しみは、神の喜びに、変わる」。苦しみ、一杯、あるじゃないですか。老いは、重ねるだけで、苦しみは増える。耐えて、受けて、神の喜びに変えて行きたい。希望は持ちたいのです。
「もう言葉は、いいです。実際を、見せて下さい」。これまで沢山、美辞麗句を聞いた。沢山、素晴らしいお説教も聞いた。話は、もうタクサンです。今度は見せて下さい。実際に、実行している姿を見せてください。
★20歳代の病気の頃、周りの人や看護者が、常に自分の方に目を向けてくれるのを熱望した。最初は、よく丁寧にやってくれるが、徐々に無関心になる。弱者はその時、一番心が痛んだ。だから「省略しない心」が、いいと、強く望んだ。しかし考えてみれば、看護者だって、愛ある人も、そんなに構っておられないだろう。映画も見たいし、自由の時間も欲しい。結局、辛抱して、耐えて、「文句のない心」が必要だ、と自らに望んだ。今日は、それを思い出したよ。90歳になっても、気持ちは変わらないね。「省略しない心」「文句のない心」の両方を考える。
★午前中、入浴した。たった1人で、広い風呂で、ああ、いい湯だったよ。生きているんだな。
★古い写真を見つけた。病気から健康を取り戻して、学園の中学生に理科を教えていた頃の、30歳代のトマ先生です。実験を行なって中学生たちの心をつかんだ。「やっぱり、やって、みせる、ことだよ。ウワー、ホントだ、だれもが、なっとくする」

2018年10月13日土曜日

笑顔で応援。室内運動会。盛り上がる。赤組、白組

日記を書くのも楽しい。運動会だよ。そりゃ楽しいさ。私が入居した頃は、庭で、来賓も招いて行なわれていた。最近は車椅子の入居者が多くなって、室内で実行される。歴史があるからね。第51回だよ。ホームの全員が集る。赤組35人。黄組35人。数日前から名簿が張り出されている。職員は32人(夜勤・用件を除く)。赤組に、山内園長神父さん、瀧神父さん、トマなど。黄組に、西山神父さん。「君が代」斉唱から始まった。聖火入場。園長の祈りと挨拶。選手宣誓。左の写真は瀧神父さんが園長の前で、手を挙げて宣誓をしている場面です。右は準備のラジオ体操がある。午前9時半過ぎから始まった。
★最初の競技は、パン食い競争ですよ。これには全員が参加する。パンがあるからね。誰かが言った。「入れ歯、落とすなよ」。職員も勿論行なった。職員の場合は、ちょっとイタズラもある。長い棒に吊るした竿を、上下に動かして採りにくくする。それがオモシロイんだね。それでも上手な職員がいる。魚釣りもあった。滝神父さんの魚釣り。上手なモンだね。他にフーセンの輪のリレー。球を打って、門に入れるゲートボール。みんな笑った。愉快になった。拍手も沸いた。労わる姿もあった。車椅子も押した。寄り添って歩いた。そこに入居者と職員の融和、和やかさ、信頼、助け合い、心の一致がある。これがホーム聖フランシスコ園のいいトコロだね。51回だよ。伝統があるからね。運動会の半ばでは、ちゃんと水分補給も行なわれた。こんなトコロは感心するよ。終わったのは11時だった。「もう終わるの」の声。最後はオミヤゲまでもらった。ポカリ、ビスケット箱、チッシュが入っていた。
★昼食は、好みで、「巻き寿司・いなり」か「幕の内」を選ぶ。瀧神父さんは前者、トマは後者。楽しい半日でした。下の写真は園長さん初め職員の皆さん。リレーが始まる。やはりソワ、ソワだよ。

2018年10月12日金曜日

今朝、思ったこと。人は、一人では生きられない

山の修道院からの帰り、農村に咲く秋の花、コスモス。今年は花数が少ない。夏の天候の加減なのか。ちと寂しい。
★今朝、教会で、静かに黙して思った。心を落ち着かせると、まっさらな脳裏に、何やら思いが浮かんでくる。
★思いは、3つに、まとまった。
★第一は、私は、何か、大きな『いのち』の流れというか、『いのち』の源から生まれて、存在し始めたと思う。自然に宇宙の広がりのような思いに包まれる。古代からヒトは、それを感じていたのでないか。
★第二は、自分は、人と、人との『係わり合い』の中で、自分を見つけていく。人は誰しも、一人では生きられない。誰かに関わって、助けられて生きて行く。育ってきた。
★第三は、こうして『見つけた』自分は、弱さもあり、愚かさもあるが、それでも十分に生きていく価値がある。生きる意味もある。生きる力も与えられているし、才能も知識も努力もある。それらを伸ばして、今度は他者のために、お返ししていく。奉仕していく。そういう人生でありたい、そんな事を思った。
★終末医療を携わる医師の記事を新聞で読んだ。病者の最後を看取る。悲しみの家族。その時、医師が家族に、「今、この方の霊魂があなた達の周りに漂っています」と言い、「先に行って待っていて下さいね。私たちも後で行きますから。向こうでゆっくりお話ししましょう」と語りかける。家族は驚きながらも、「そうだね。向こうの世界でゆっくり休んでね。お疲れさま」などの声が帰ってくることが多い。題には「あの世」も家族には慰めになる、とあった。
★人びとは、それを素直に受け止める。人は、霊と霊の「つながり」を暗黙のうちに感じているのかも知れない。
★明日は、ホームで、午後から、室内運動会が行なわれる。楽しみでも、ある。

2018年10月11日木曜日

25歳のときの写真。下駄を履いているよ

山の施設の教会。創立65年になる。よくぞ耐えたものだ。いつ訪れても、この堂内には、又この周辺には思い出が一杯詰まっている。森林も十字架を越えるまでに育ったが、65年前は林のような山林だった。ニワトリを小さくした『こ・じゅう・けい』という鶏が住んでいて、「チョッと、来い」「チョッと、来ーい」と鳴いた。近づいていくと、今度は「ビンボウ・ニン」「貧乏人」と鳴き変わった。今は居ない。
★教会の左手に2階建ての家が見える。山の施設の修道院である。病気で苦しんでいた私は、あの建物で療養した。25歳だった。当時の写真が残っている。教会の道の下に立っている私。下駄をはいている。ういういしい感じだ。こんな時代もあったのだな、そう思う。なつかしい。昭和28年、戦争が終わって、8年後だった。戦後の混乱で、修道院はお金もなく、食料もなく、貧しかった。それでもポーランド人の修道者たちは、この山には施設を作り、幼・小・中の男子ばかり140人の子ども達を養い、授業を行ない、育てていた。
★病む私もポーランド人ミロハナ神父から助けられて、この施設の修道院で療養するよう安心を与えられた。一番、働き盛りの年齢なのに、私の背中の脇から絶えず化膿した汁(ウミ)が出て、果たして、どうなるか、行先は本当に暗かった。それでもミロハナ神父は、「マリアさまにお任せしましょう。苦しみを喜んで受けていますか」と励ましてくれた。ニンゲンのカラダの生命力は強烈ですね。11年の年月を、ここで重ねて、ゲンキになった。もう下駄は履かない。クツで、あちこち廻るようになった。
★人生って、ホントに、ふしぎですね。その人に、どんな使命が与えられているか、わからない。

2018年10月10日水曜日

故シスターの50周年忌がくる。祈りで思い出す

久しぶりに、野々宮哲(さとし)さん、塩沢美樹さん、2人が訪ねてきた。小さな写真集「トマさんのことば」を編集してくれた2人です。午前中に来たので、私には考えがあった。10月19日は、故・シスター永松ミツエの50周年忌にあたる。少し早いが「お墓参りをしよう」
★野々村さん運転の車は、赤いクルマ。後部に乗せてもらい、ホームを出た。お店で、造花のお花を買う。私の好みで選んだ。クルマは山の施設へ向かって登っていく。施設の園長・山下公輝神父さんに、シスターのために、ごミサをお願いした。山下神父さんは毎朝、山の修道女会でミサを捧げている。故・シスターも自分の修道女会の聖堂で祈ってもらえば喜びだろう。
★次いで、クルマは修道女会の墓地へと下って行った。多くのシスターが眠っている。シスター・アグネス永松の墓だけが、手前に埋葬されている。これは最初の埋葬だったので、この場所になった。
★シスター・アグネス永松が旅立って、50年になる。享年40。あわせて90。私の歳である。同じ歳だった。25歳で、腎臓結核で死にかかっていた時、救ってくれたのがシスターだった。シスターのおかげで、これまで生きてきた。今は、ステントの入れ換えで苦しむ私だが、それでも生きて、喜んで、今が、ある。そのシスターは心臓病で、早く召された。恩義は忘れない。
★もう50年の区切りです。私もカラダも弱ってくる。寂しい思いだが、お墓参りも出来なくなる。神の御国から見守って欲しい、と祈った。祈りは、きっと届くだろう。
★赤いクルマは3人を乗せて、有明海沿いの食事処へと下って行った。「人生、困難があると、誰かが、そこに助ける人が必ず居た。壁にブチ当たらずに進むと、またカドがある。そこに、やっぱり助ける人がいた。だから、この歳まで生かされている」

2018年10月9日火曜日

カキの絵に、一筆、書いて下さい。これが中々難しい

女性職員さんが頼んだ。「手芸で、みんなで、カキの木枝を描いた。その横に一筆、書いてくれませんか」
★「甘柿も、シブ柿も、みんな」と、そこまでは浮かんだ。柿もそうだけれど、人もいろいろ、優しい人、親切な人も居れば、そうでない人もいる。ホームの人を表わしているわけでないが、一般的に、それを暗黙のうちに、あらわしている。「だけど、みんな・・・」。さあ、次に何を書くか、それが問題だ。「みんな、神の恵み」「みんな、仲良し、友だち」。『神』と書けば、あまりに、ストレート。仲良し、友だち、は、何やら、ややこしい。それで「自然の恵み」にしたわけです。
★世の中には、いろんな人がいる。だが、それぞれ、その人の人生を生きている。その人には、その人の「こだわり」がある。「考え方、生き方」がある。みんな受け止めようじゃないか。受け入れて、尊重して、仲良く暮らそうじゃないか。それが願いです。だが「小さな声でしか言えないが、これが、なかなか、難しい」
★ホームでは午後から「野外活動」と言って、バスで、コスモスの花々を見に出かけた。私は行かなかった。

2018年10月8日月曜日

余裕のある人生を歩みたい。土俵の後ろは残したい

お昼の食事。肉うどん。メンは細めん。五島うどん、です。人参白和え。みかん。私は細めん、が好きです。
★10月8日は、私が聖母の騎士へ入った日です。73年前になる。原爆後、休養していた外海・黒崎を小舟で出て、長崎へと向かった。舟はシートで被われ、長崎港へ入る時には、アメリカ軍を恐れて、隠れていた。アメリカ軍は得体(えたい)の知れない集団だった。鬼畜米英と叩き込まれていた。そんな時代だった。雨が降っていた。修道院の戸の鐘をならして、しばらく待った。姿を現したのが、ヒゲのゼノ修道士だった。ミロハナ神父から抱擁される。私の新しい人生が始まった。
★諫早の総合病院・泌尿器科へ予約の診察に行った。尿検査、血液検査、腹部のレントゲンを撮った。お医者さんは言った。「ステントの入れ換えは、前は6月でした。7ヶ月置いて、1月の中旬にしましょう。12月に、もう1度、診察に来てください。その時に日にちを決めましょう」。ステント入れ換えは、トマの十字架でも、ある。
★腎臓からボウコウまで管(くだ)が入っている。これを交換しなければ生きてはいけない。もう10年近く続いている。痛みと苦しみを、その都度、ガマン、ガマンで、乗り越えてきた。最初は3ヶ月毎であったが、半年に延びた。それでも有り難い。
★私は、いつも余裕のある人生を歩みたい。ギリギリは、イヤだ。土俵の後ろに余裕は残したい。前方には、抜け道の開ける人生が、希望と幸せをもたらすのではないか。常に未来は残しておく。そのユトリは持ちたい。

2018年10月7日日曜日

コルベ神父のルルド清掃で働く白浜さん、恵みは働く

長崎の白浜忠美さんが来る。聖母の騎士のルルド清掃を勤めて6年になる。ルルドへの道や、広場をキレイにしておくと、巡礼の皆さんが喜ぶ、と白浜さんは嬉しそう。台風の後の清掃は大変だそうだ。
★韓国人のシスターたち10数人が参詣に来た。広場がキレイにしてあるので、シスターたちが感謝をこめて、韓国語の賛美歌を3曲も捧げてくれた。「意味がワカランしね。ハハハ」
★女子高校生が修学旅行で、ルルドへ来た。シスターから「お水を飲みなさい」と言われて、飲んだ翌年に洗礼を受けた。10年経って、お礼に来たと、そういう女性もいた。また難病で2年しか生きられない、と医師からは告げられたのに、13年も生かされて、8月15日、マリアさまの祭日に召された。お礼に来た家族もあった。車椅子の女性が、ルルドのお水を飲んで、30年生かされている。
★コルベ神父が「マリアさまへの賛美」に造ったルルドは、人知れず多くの恵みをもたらしている。コルベ神父のルルドの水は愛飲されている。白浜さんはトマにも沢山のルルドのお水を持って来た。
★話題は変わるが、先日、NHK長崎テレビで、「ロザリオの長崎編み」が紹介された。聖母の騎士の松下修道士が出演して、編み方の作業が出た。「そのルーツは、どこ?」。大浦天主堂の資料館に展示されたロザリオは、既に長崎編みで、信徒発見後、プチジャン神父が沢山フランスから取り寄せて、配布された、と説明があった。それに加えて、コルベ神父が紹介され、古い騎士誌に、「ロザリオ」の題で、執筆「コルベ」と書かれた記事がテレビで示された。コルベ神父が熱心にロザリオを勧めておられる文章に感動した。10月はロザリオの月。あの番組は適宜であったと喜びを感じた。

2018年10月6日土曜日

出ータッ、誕生会。ソーラン節を踊る。賑やか食堂

月の初めの土曜日は、その月に生まれた人の誕生会です。ご馳走もあれば、職員の出し物、余興もある。「待ちに、待っとりました」だよ。
★出番を待つ男子の2人。何を踊りだすやら、わかりません。食堂には、全員が集まります。普通は3箇所に分かれて食卓に向かう人も、この日ばかりは全員が集る。私の席の横には、入江さんが腰掛けていた。
★園長神父さんの挨拶、祈り、乾杯の音頭があって、3人の職員の踊りが始まった。「ソーラン、ソーラン」。ソーラン節だよ。10月に誕生を迎える人は、5人いた。「ハッピバスデイ」は5回、拍手と共に歌う。踊りが始まると、笑いが起こる。また拍手が起こる。楽しいね。愉快だね。長生きは、いいね。感謝だね。
★100歳近い女性もいる。神さまの恵みだよ。職員さんたちの介護のお陰でもある。その職員さんがサービスに踊るのだから、ホント、ありがたいよ。このカオ、アイキョウが、いいね。男だよ。嬉しそうだね。パット開いた両手、この手で介護に励んでいる。胸には、ふくらみを付けていた。その「ふくらみ」を押し付けてくるんだからね。ヤメテくれよ。
★もう1人は、ウチワを持って踊る。「踊らにゃ、ソン、ソン」。腰つきが、いいからね。みんなが一体になるよ。気持ちが一緒になるよ。そこがホームのいいトコロさ。気長に生きようよ。くよくよ、するなよ。「任せて、おきなさい」。ウチワが、そう告げている。
★歳を重ねて、老いて、ホームにお世話になって、三度の食事、入浴の介助、個室もあって、静かに眠れる。だから長生きできる。
★直接、関わる職員さん、ヘルパーさん、看護師さんも3人も見守ってくれる。週2回の医師の診察、月1度の眼科医の診察がある。食事の献立を考える栄養師さんと、炊事職員さんの優しい配慮が食事に現われている。洗濯の職員さんのご苦労、事務所の職員さんの配慮、みんなのチカラが働いているのを、誕生会では感じるのです。
★台風の接近で、刺身は無いと思ったが、ちゃんと出た。おかしら付きのタイでした。誕生会では「ノド自慢」もあった。滝神父さんも、進んで1曲歌った。「沖縄の歌です」。大きな拍手が沸いた。

2018年10月5日金曜日

町の女性が来る。好物クルス・センベイ遺産格上げ

同じ町、高来町の女性が訪ねてきた。おみやげに「クルス」のお菓子を持って来た。「どうして私を知ったのですか」「長崎新聞の記者さんから聞きました。同じ町内に、原爆体験の語り部が居るよっ、て。ゼノ修道士さんの新聞記事も読みました。図書館に『焼けたロザリオ』があり、読んで、自分でも注文して、買いました」「嬉しいですね。語り部は湯江小と、飯盛西小で行なった。中学校でも語りたいですね」
★文化活動をされている。作家の浦野興治さんの「諫早少年記」を教えてくれた。高来の暮らしを少年の目で描いている。マンジュウ屋も、サカナ屋も、トウフ屋も文章になり、干潟の少年たちが生きている。女性の話に興味を持った。
★私が聞いた。「町の道路を車で通る際に、『○○大佐』の看板がトッサに見える。あれは誰ですか」。女性の説明によると、昭和19年秋、戦争の終盤、坂本大佐の飛行機が、アメリカ軍のB29に特攻・攻撃をかけた。墜落した地点に碑が建って供養している。B29は、隣町、小長井町に墜落し、アメリカ兵が亡くなった。そこにも供養の碑が建っている。「戦争は、イヤですね。戦争の怖さを、今の時代の子ども達に教えたい」。女性は終戦のとき、2歳だった。
★ホームの応接室で、1時間半、語り合った。もちろん原爆も語った。「中学校でも語りたいね」。戴いた「クルス」のお菓子は、私が以前から好きなクルス・せんべい、だった。「潜伏キリシタン遺産記念」とレッテルが貼られて、せんべいにも「長崎しあわせクルス」「外海ゆうこうクルス」と記してあった。お菓子も格上げするんだな。
★『トマさんのことば』「困った人を助ける」「困難があっても逃げるな」「アダなるニンゲンも赦せ」「それが平和の原点だ」。私の叫びを、少年少女たちの心に染み込ませたい。

2018年10月4日木曜日

アンセルモ大曾昭神父の葬儀ミサに参列。祈った

アンセルモ大曾昭神父さまの葬儀ミサ、告別式が、長崎・聖母の騎士教会で行なわれる。
★戴いた小さなカードには、写真と経歴、次の言葉があった。「戦後まもなく入会した。几帳面な性格で、しっかりとした身だしなみに努めた。教会の伝統的な精神を尊び、主に司牧や教育の現場で、誇りをもって職務を果たした」
★竹内昭彦・管区長神父が、ミサの司式と説教を務めた。「五島で生まれ、大きな恵み、召命を受け、修道者・司祭叙階で、皆さんとの出会いがあった。50年代、60年代、宣教活動の責任者であった。人の前に立つには、自分を律する。弱い存在だが、神の恵みと、皆さんと生きた。身だしなみ、ネクタイ、スーツに、こだわりがあった。聖フランシスコ園に訪ねたが、優しい言葉をかけてくれる。師父聖フランシスコは、死ぬ最後のとき、すべては神の恵み、病気も苦しみも死も、恵み。死を兄弟姉妹よ、と呼び、喜びのうちに神の元へ帰った。1226年10月4日の出来事。今日は10月4日、大曾神父も死を兄弟姉妹と受け入れ神のもとへ帰った」
★竹内昭彦・管区長神父は、告別式の後、出棺の前に、皆さんにお礼を述べ、次のように語った。「実は私と、大曾昭神父さまは親戚なんです。『昭』と『昭彦』は似ている名前なので、親しみを感じ、導きを受けました」
★ホームからは、山内園長神父、職員4人、瀧神父、トマ、信徒の2人が参加し、湯江修道院から浜田院長神父、橋口、高原の2人の修道士、信徒の1人が参加し祈りました。
★台風の接近で、朝から雨が降っていたが、ホームを出るときは止み、帰りには車窓から墨絵のような雲仙岳が棚引いて見えた。昼食はホームに帰ってから、瀧神父さん、トマ、信徒2人の4人で食堂で頂いた。ホーム聖フランシスコ園の保護の聖人のお祝い日でもある。散らし寿司、刺身、茶碗むし、など食卓にあったが、4人は黙々として食べた。寂しい気持ちで、一杯です。

2018年10月3日水曜日

大曾神父さん、お別れの会。思い出は消えない


左は、大曾昭神父さんがホーム「聖フランシスコ園」に入居された時の写真です。左から岩田事務長さん、大曾神父さん、トマ修道士、浜田神父さん。右は、ホームで誕生会のお祝いの写真です。山内園長神父さんと一緒です。
★大曾神父さんは上五島で生まれ、昭和15年に長崎・聖母の騎士小神学校へ入学。中学2年の時、太平洋戦争が始まる。工場で働きました。戦争中も終戦直後もご苦労されながら勉学をつづけ、司祭になって、東京・赤羽教会や、愛知県春日井教会、長崎・聖母の騎士学園(中・高)の校長の要職など勤められた。
★大曾神父さんがホームに入居されて、上五島出身の入居者も何人も居ましたから、神父さんの所に寄ってきて、親しく声を掛け合う場面もありました。親戚や、地元の人たちが居るのです。大曾神父さんは食事はゆっくりと、いつも全部残さず食べていました。
★大曾神父さんの話。「むかしの聖母の騎士の教会で、いつも一人で祈っている者がいた。いつ教会へ行っても祈っている。衣服を着て、祈る姿に感心やな、と思ったよ。それがトマさんだった」。戦争中だった。「知っているよ」と言われて、少年だった頃の自分を、今の自分が眺めている感じがした。あの頃、着ていた衣服は兵隊色のボタン付きだったのか、それとも工員さん風の姿だったのか。
★トマが入居して、ホームでは、ローマン修道士(100歳)、フランシスコ中村修道士(93歳)、ピオ中島神父(87歳)、ヨハネ村山修道士(93歳)、アルナルド谷村神父(76歳)、アンゼルモ大曾神父(91歳)を神の御元へとおくり、寂しくなりました。
★ホームでは今日の午後2時から、湯江教会で、大曾神父さんとのお別れの会があります。