2015年11月30日月曜日

待降節に入り、無原罪の聖母マリアの祭日まえの努め

今週の、湯江カトリック教会・祭壇の前のスナップです。右側に、生け花が飾られている。左側に、4本のローソクが見えます。待降節に入りました。去る日曜日には、大きな1本に、点火されて、ミサで祈ります。主の御誕生を迎える4週間が始まりました。物で外見を飾るのも必要でしょうが、合わせて心の準備をするのも大切です。
★北海道のマリア・フランチェスカさんのコメントを読みました。無原罪の聖母マリアの祭日まえの9日間の祈りは、29日から始まります。湯江教会では、ミサ後に、「聖マキシミリアン・コルベの祈り」(けがれなき聖母の騎士会の小冊子・56ページに載っている)を唱えております。9日間の祈りを果たすように努めましょう。

2015年11月29日日曜日

日々は、幸せか。殉教か。年数は流れる。あ、あ・・・

島原・有馬のキリシタン記念館の玄関です。資料室は撮影禁止といわれました。ここ、玄関は、撮っても良いと許可が出ました。大きな背景の構図の説明は聞かなかった。
★トマさん、どうしていますか。お元気ですか。
★整骨院へ行きました。帰りに、「12月は寒くなるので、外出をひかえたい、整骨院はしばらくお休みします」と受付に伝えました。長崎の女性から、靴下3足と、お菓子が送られてきた。
★ここが生活の場です。入居して、3年になるという利用者がいる。5年になりますよ、という人もいる。いや、10年、過ごしています、という利用者もいます。昨夜、11年を過ごしたという女性がホームで亡くなった。平和で、安らかで、眠るような最後だった、と聞いた。きょうは、みんなで見送る会があって、遺体は引き取られて行った。さびしいです。
★そういう利用者の年数を聞くと、ここが、家で、これらの年数を、よくぞ耐えたと、胸が熱くなります。精神的、心理的にも暮らしていけるんですね。生活の場は、この部屋です。食堂で、3食、いただいております。限られた場所で、日々を過ごしております。
★見舞いに来る人も、ホームを去っていけば、家に帰って、生活の場がある。限りない自由がある気がして、うらやましい。そんな気持ちで、暮らしています。

2015年11月28日土曜日

書き残すことは、のち、のち、ためになる。歴史あり

きのう、原城跡へ行ったとき、広場の片隅に、ひっそりと立っている小さな墓標の写真です。天草四郎の墓碑と説明がついている。「花が添えられ、大事にされているよ」と誰かが言った。
★きょう、南島原の記事を書いたことを思い出して、探したら、あった。聖母の騎士誌の1967年6月号だった。「四郎の篭城をやめさせたいと幕府方は、7歳になる四郎の妹を原城内に使いにやりましたが、四郎は妹の手に、形見として指輪と木の実を二つしっかりと握らせて帰したのでした」。悲しい逸話である。
★周辺を、地元の人に案内していただいたことを書いているが、いま読んでみて、書き残すことは、のち、のち、ためになると思った。

2015年11月27日金曜日

島原半島を一周するドライブ。原城、かわいそうだよ

ホームの日帰えり旅行。ドライブ。島原半島一周。18人が出かけた。運転は男性職員の事務長さん。ガイド・世話役は女性の職員さん。それに女性の看護師さん。そしてボランチアの女性・明子さん。万全の備えで、ホームを出て、2時間、小型マイクロ・バスはひたすら走る。ちょうど2時間で、原城跡の、海側の宿に着いた。★宿の温泉につかる。ガラス戸の向こうは天草灘だった。海を見ると、心がなごむ。豪華な、和食のごちそうが出た。時間はあったのに、おみやげを買うのを、気にとめなかったのが、後で後悔となる。気づかいが足りない、と反省する。
★一行は、原城跡にむかった。これが、この写真が、その場所です。オラッショの旅で、どれほどの組をここに案内したであろう。場所は変わっていない。ただ、あの頃の時代の元気、気概、アタマの回転が今、ないのが、もどかしい。この場所で、3千8百人の一揆軍が殺された。400年前の出来事である。ひどい話だ。冥福を祈るしかない。これから400年経ったら、この世の中はどんな思想になっているだろう、そんな想像をボンヤリと考える。ガイドを務める女性職員さんが言った。「悲しい出来事です。いまも、どこかで戦争はつづいています。平和を願いましょう」。それから一行は、最近出来た「記念館」にバスを走らせた。
★ホームに帰ったのは夕食前でした。7時間15分のドライブだった。

2015年11月26日木曜日

ある日の夕食です。しっかり食べれば、元気が出ます

料理をつくる人も、食べる人も、食事には気をつかうでしょう。お年寄りに、消化のよい食事がでます。作る人も、いろいろ考えますよ。経験がモノをいうと思います。この日のメニューは、ごはん、マーボー豆腐、さつまイモの天ぷら、もやしと青菜のナムル、中華風スープ、柿、でした。食べる人にとっては、楽しみです。
★幾つのなっても、目標を持つことは大切です。生活のツナギがある。「よし、こんどは、これを目標に生きよう」。いま考えていることは、88歳になること、米寿、これだね。もう11月も終わりで、12月、1月、2月・・・と、あと3ヶ月ぐらいで、誕生日がくる。88まで、生かされるとは思ってもいなかったよ。こうなったら足をきたえ、声をきたえて、88に備えよう。目標が出来た。88になるまでは、ブログ日記を書きつづけたいと思う。しっかり食べれば、元気も出るでしょう。生かされているのは、いちばん、ありがたい。
★海岸の、波よせ砂場をハダシで歩くと、足跡が残る。波が押し寄せて、かき消されるだろう。それでも、いい。いまの足跡を印したい。
★名前は、どうでも、いい。その人の行為が、こころに残る。

2015年11月25日水曜日

平凡に、生きております。特別なことは、ありません

昨日の真鯛のサシミ、ヤズのサシミと、アラカブの汁です。みんな喜んで盛り上りました。これだけあれば、長崎人は充分です。満足します。元気が出るんですね。サシミも無造作に積まれている。これで、いいのです。「ヤズも、けっこう、いけるな」なんて、声も出た。「こんどは、12月8日、マリアさまのお祝い日に、招待するからな」「トマさんが、もう1年経ったとは、思わんやったケンね」
★きょうは長崎市から女性職員が訪ねてきて、「生活は、どうですか?」の調査があった。
★午後から、屋外に散歩に出かけた。携帯の歩数、2.790。時間が経つのが、はやい。

2015年11月24日火曜日

タイが釣れたよ。大漁だよ。夕食を食べにお出でよ

ホームの隣の修道院から、夕食を食べに来ないか、と誘いがあった。
★神父さんの1人が、身近な3人と、早朝、サカナ釣りに出かけた。3時頃に帰ってきたが、神父さんの釣り上げた分は、真鯛が殆どで、数にして、35匹ぐらいあった。なかでも大きな真鯛が、これです。メジャーで計ると、50cmです。もう1つの長いサカナは、ブリの子で、長崎では、ヤズといいます。
★わたしが釣ったのではありませんが、こんなサカナを見れば嬉しくなります。「オー、お見事」と感心します。これだけの大物を釣れば釣り人も満足でしょう。わたしは、ただ、ただ夕食が楽しみです。また今夜はお世話になります。修道院で食事が出来るのは楽しい。嬉しい。慰めになる。「神父さんに、カンシャ」

2015年11月23日月曜日

きょうの新聞に釘付け。2度と戦争は起こすまい

今朝、朝日新聞の長崎版に、一つの記事を読んだ。「あの日、11月23日」。そうだ、11月が、カトリックでは「死者の月」になっていて、死者のために特別に祈る習慣がある。浦上で、一番、沢山の信徒が亡くなった日。8月9日、原爆の日。あれから3ヶ月経って、生き残った信徒たちは、祈るどころか、心中に、いろんな痛み、苦しみ、叫びなどを抱えていた。11月がきて、死者の月を思い出して、祈ろう、祈ろうの心が湧いてきた。残された信徒は泣きながら、歌い、叫びながら、祈り、初めて父や母や兄弟姉妹、親戚、周りの知人たちが神に召された事実を自らの胸に受け止めた。それでも戦争への怒りはあったよ。新聞に載っていた一枚の写真、残骸の天主堂の前の広場で、簡単な祭壇が組まれて、信徒たちは集まり、その日は涙の日となった。参加した。17歳であった。
★黒崎教会の金祝のときに語ったが、田川家の墓碑に、父、母の名前は刻まれているが、遺骨は無い。父は北朝鮮の土となり、母は原爆で行方不明となる。結婚式の写真を分けて、遺骨の変わりに収めた。何度、書いても悲しいことだよ。
★教会の司祭に、両親のため、ミサをお願いした。

2015年11月22日日曜日

長ーがい、人生、いろいろ、あるでしょう。これも道

今週の、教会の祭壇の生け花です。
★昨日は、隣の修道院から、夕食を一緒に食べようと、お声がかかりました。夕方、6時にアンゼラスの鐘がなると、教会で、修道者たちが祈りを始めます。その祈りにご一緒しました。教会の祈りです。最後に「サルべ・レジーナ」を歌いました。人数は少ないです。司祭が3人、修道士が3人の共同体です。それでも一緒に声を合わせて祈りを唱えると、又、違った心の喜びがあります。
★祈りの後で、夕食でした。散らし寿司と、イワシの刺身を、ヌタをつけて食べました。ソーメンの味噌汁もあった。ホームで1人、自室で暮らしていると、置き去りにされた気持ちになるのです。これまで修道者の共同体のなかで、人生と信仰を過ごしてきました。今の変わりようは、ツライです。気持ちは、いつも共同体にあります。自室に1人で居ると、寂しいです。「神さまの計らいは、ここにある」。苦しみも、寂しさも、喜びに変わるでしょう。長ーがい人生です。いろいろあるでしょう。

2015年11月21日土曜日

神にめぐり合った日、神を感じたときは、いつでした?

「あなたに問う。①神にめぐり合った日、神を感じたときは、いつでした?②信じると、どんな体験があるか?」
★自分の人生で、即、いえるときは、浦上・原爆の日でした。トンネル工場に入るときは、緑があった。家があった。人が歩いていた。被爆後、1時間あと、トンネルを出て、おどろいた。腰を抜かした。営々と築いたものは、すべて破壊される。青空を仰いで、神を感じた。次いで、修道士になった日、誓願を立てた日、50年前になる。やはり神を感じた。大きな体験は、それだろう。その間も、多々、神を感じた日、事があったに違いない。
★信じると、どんな体験があるのか?日々、何者かに守られている。導かれている。そう感じる日々、事があるだろう。思い出すのは、コルベ神父の生涯である。自らに対する問いかけは易しいが、答えは難しい。それだけ、まだ信仰の確信が足りないのだろう。
★午前中は、整骨院の車が迎えへにきた。「調子は、どうですか?」。毎度、聞かれる。「ハイ、いいようです」。大きな声で返事した。両ヒザに電気をかけて、電気棒で両ヒザをこすって、治療を終わる。車で送ってくれる。原爆手帳があるので、治療費は払わない。おかげで助かります。
★昼前、携帯に、「教えてください」と問いかけがあった。「なに?」「日本26聖人は殉教のあと、遺体はどうなったのですか?」。いきなり、400年前か、そんな時代に引き戻される。おそらく26聖人は神を体験し、神と交わり、神がすべてと、イノチを捧げたのであろう。
★26聖人が殉教するや、信者たちは竹矢来を押しやぶって乱入し、したたる鮮血を衣に受けたり、十字架を削ったり、衣服のすそを切り取ったり、血で染まった土を掘ったりして、一瞬、場内は混乱した。聖人たちの遺体は、40日間、西坂にさらされていた。言い伝えによると、鳥は全く寄り付かず、夜になると聖骸から光が出ていたという。遺体は、信者たちによって大切にされ、国外へ移送された。明治になって、プチジャン神父と信徒のドミンゴ森松次郎がマニラに渡り、半年あまり調査して、遺骨や資料を発見することができた。
★ドミ二コ森松次郎の姉が、カタリナをせさんで、をせさんの息子がイグナシオ森与重さんで、その与重さんの息子さんから、もう昔に聞いた話であった。

2015年11月20日金曜日

外海の黒崎教会。今年は心に強く残る場所になった

外海の黒崎カトリック教会です。地元の信徒から、「金祝のときは、お会いできて嬉しかった。これからはご自分の体力に合わせて、信心業にもと努めくだい」と、ハガキが届いた。その裏に、この教会の姿が載っていたのです。喜びの心で眺めました。金祝のときは、教会全体の写真が撮れなかったので、嬉しい便りでした。外海に行ったことのある人なら、必ず寄って、お祈りしたでしょう。赤レンガの天主堂です。写真を見るだけで、わくわくします。
★11月も、残り三分の一となった。早いですね。きょうは懇談会といって、全員が集まって、来月12月の行事予定が発表された。クリスマス、年末と、もう、今年も終わりですよ。
★ホームという限られた場所に住んでいても、一年が過ぎ去った今、振り返ってみれば、単調、平凡の日常のなかでも、いろいろな出来事が、あったんですね。からだのこと、訪れてくれた人びと、金祝もあった。黒崎教会でも、お祝いをしていただいた。最高の思い出ですよ。新聞記者も来て、新聞にも載った。熱心に日記を読んでくださる人もいる。ホームの職員さんも見てくださる。沢山の人にお世話になったことを感じます。貴重な一年であり、意味がある一年でもあった。生かされているのが、実感です。感謝しながら、ひっそりと受け入れて行こう、そう思っています。

2015年11月19日木曜日

口も達者、手も腕もタッシャ。ただ足が弱いね、なやみ

午後から、グランドゴルフです。久しぶりに参加した。真夏のあいだは、見送った。やはり気になるのは自分の体力です。1年前は、「ポーゥン」と打って、球を転がしていたが、腕力は萎えていないか。それは気になります。試す気持ちもあった。
★けっこう、打つ力はありました。要領がよくないのは、練習が不足です。職員さんといっしょに交わることも効果があります。ケアをする者も、される者も、目線を同じくして、向き合う心が大切でしょう。よいホームとは、閉鎖的でない、開かれた介護施設になれば、いいと思います。最後の場所だから、幸せも、ほしいよ。
★10人ほどが参加して、最初に告げられた。「1番、2番、3番は、賞はもらいません。4番と5番の人が特別のお菓子をもらえます」。よかった、4番でした。プレイの後は、全員が参加のお茶とお菓子で楽しんだ。建物の影が、半分、広い庭を包もうとしていた。

2015年11月18日水曜日

人さまの体験は、なかなか難しくて、書けません

今週の、教会の祭壇の生け花です。
★むかし書いたメモがある。「偶然の出会いによって、一つの記事が書けた。あるんだな、そんなことが。だから人生は、毎日がおもしろい。楽しい日々が過ごせる」(2008.1.11)
★あのメモから、8年の歳月が流れた。いま何を思うか、トマさんは・・・。
★「田川さん」でホームに入ったが、じょじょに「登明サン」とか、「小崎サンですか?あなたの記事を読んで、楽しみにしていました」と言ってくれる人が、3、4人出てきた。嬉しいことだと思っている。長年、騎士誌に毎月、「信仰実話」を書いてきた。ほとんど偶然の出会いによって書けた記事だった。あの頃は生き甲斐もあったよ。出会いによって、その人の生き方や、信心や体験を聞いて、その流れのなかに、お恵みというか、導きというか、つながり、ご縁を感じて、これを、まとめて、書いた信仰実話だった。
★昨日の新聞に、介護職員が、「お年寄りから人生の聞き書きをつづけている。思い出ばなしを、いきいきと、しゃべる人がいる・・・」との記事を見た。「トマさんも、このホームに入って、ここのお年寄りたちに、何か人生体験を聞き出せないか、考えたことは無かったの?」と言われそうにもある。実際、勧める人もいた。
★しかし正直いって、書くどころか、まず自分が、まともにホームで生き抜くことが、先決問題であったのです。環境が変わったから、受ける心理も複雑なものがあった。確かに、ホームの老人たちは、誰もが、様ざまな人生模様に生きてこられた。戦後を生き抜いた人たちばかりで、なかには苦労の思い出ばなしを、チラッ、チラッと、もらすように語る人もいる。
★だが、まとまった話を聞き出すまでには至りません。8年前の「偶然の出会いが・・・」と言うわけには行きません。難しさを感じます。ゆっくり時間はあるのですが、まだ人さまの心に入ることは出来ないのです。環境の変わる難しさを感じる、この頃です。自分のことすら、本音が書けない。老いる難しさが、そこにある。

2015年11月17日火曜日

永井博士と田川初治先生を思う、心ゆさぶる電話

めずらしく、県外から、電話がかかってきた。
★やっぱり、歳をとった者の強みは、背中に背負った歴史ですね。過去のことは、遠いむかしというけれど、昔を体験したのは、老人です。背負っているのは老人です。
★電話の内容は、永井隆博士の「絵」についてと、思いもかけず田川先生のことでした。1枚の写真がある。2人とも浦上の信者で、永井隆先生と、田川初治先生がいっしょに写った珍しいペアの写真を、大切にしている。理由は、この2人の先生に出会って、授業や話を聞いた、直接の思い出があるからです。思い出は、心の宝です。永井先生と、田川先生の2人は最も仲の良い間柄でした。永井先生は、大学の博士、田川先生は、小学校の教師で、童話家でした。17歳、18歳の頃、聖母の騎士で、お2人から身近にお話を聞いた。永井先生から、中学の理科を教わった。電話の女性が田川先生の名前を言ったのには、おどろいた。切っても切れない、お2人です。信仰で結ばれていた。
★電話をかけてくれた女性に、永井先生の絵が、「十字架の道行」として、14枚、平戸市の木が津教会に残っていると伝えた。木が津はカトリック信者の集落だが、何とかして自分たちの教会を持ちたいと、苦労しながら、1962年10月に木造の教会を造った。この教会内に、掲げられている。ある熱心な信者さんがいて、浦上教会から、貴重な14枚の「十字架の道行」を頂いてきたのだった。その信者さんに出会って、話を直接聞いている。いまも、木が津教会に掲げられているだろうか。
★そういう事実を知っているのは、やはり歳の功といえるだろう。田川初治先生は、日本26聖人の無声映画の弁士を務めた忘れがたい先生だった。

2015年11月16日月曜日

祈れば、心は安らぐ。書けば、ボケ防止には、なる

毎朝と、夕方、いまの時間に、いつも祈っている小さな教会、湯江カトリック教会です。左側の建物がホームです。いまも、ロザリオを10人ほどで共同で唱えて、自室に戻ってきたところです。
★「いつも、ロザリオだね」。園長神父さんの口癖だが、神父さんも在園中は、いっしょに唱えているから、慰めになる。言葉だけで勧めるのでなく、信念をもって自ら実行している。それは幼いとき、少年のとき、神学生のとき、司祭になってからも、自分の身に律してきた信心というか、生き方というか、心の中に棒のような柱を持っているのです。
★車椅子に収まって、首を少しまげて、ほんとうに安らかな気持ちで、祈りに参加している「おばあちゃん」がいる。見て、幸せを感じる次第です。自分に言い聞かせる。「生かして、もらって、ありがとう」。これは我が心の小さな叫びです。それより他に、何もないよ。
★午前中、絵てがみ教室がありました。絵を描く、ノートに字を書く。パソコンに日記を書く。大した事ではないかも知れない。しかしアタマのボケ防止にはなる。

2015年11月15日日曜日

ポーランドから高校生が長崎にくる。思い出の一こま

人のために役に立つのは嬉しいことですね。
★ポーランドから高校生と教師が、長崎へ来る。短い日程で、どこを見学したら良いでしょうか、とホームに訪ねてきた教師がいた。8月末の日記にも載せた。そのとき、アタマに浮かんだのが、もちろんコルベ神父の聖母の騎士と、長崎港の入口にある神の島の教会とマリア像でした。ポーランドは北に海はあるが、ワルシャワあたりには、海はない。めずらしいでしょう。100年以上の歴史を刻む天主堂があって、岬には大きな岩があり、マリアさまの像が、出船、入り船の安全航海を祈っておられる。きっと喜ばれるはずです。自信をもってお勧めした。
★教師から、便りと、写真が送られてきた。教えた日程通りに見学し、コルベ神父の聖母の騎士と、神の島は、皆さんに非常に喜ばれた、との嬉しい知らせだった。長崎の海は、魅力的だったに違いない。

2015年11月14日土曜日

待って、ましーた、月に1度の誕生会。長生き

誕生会は楽しみだね。1つ、歳をとるのは、長生きで、めでたいよ。いつまでもお元気で、それが願いです。神さまに感謝だね。人さまにも、感謝だね。もう歳をとると、感謝しかないよ。職員さんが演じる、出し物は何だろう?
★皆さん、宮崎から来ました。日向の名物の、ひょっとこ踊りです。厄や、わるさは、あっち、行けー。踊りまくって、皆さんを楽しませた。この後は、楽しい食事。歌も出ました。昭和初期の歌だよね。なつかしいね。3番まで歌うから、参いちゃうよ。

2015年11月13日金曜日

訪問してくれたシスターの、つづきです

訪問してくれたシスターのつづきです。
★シスターに、フランシスコ中村安五郎修道士のロザリオを差し上げている場面です。この写真を、載せようか、載せまいか、迷ったのだが、元気な顔を見ていただくため、載せました。この後で、高原修道士さんが自室に訪ねて、「中村修道士さんの修道服も保存している。写真も数枚あります」と言われた。「大事に、保存していてください」と頼んだ。
★シスターさんには、自著の『長崎のコルベ神父』を読むように勧めた。中村修道士の召し出しや、最初の修道士たちの話が書いてある。本は、わたしの手元に無い。ホームの図書棚に、2冊あったので、その1冊を取って、シスターに見せようと持ってきた。すると、ちょうど園長神父さんと、シスターが話していた。これ幸いと、シスターに、この本をくださいと、園長神父さんに許可をもらうように勧めた。園長さんは快く、「いいですよ」。「サインをしてください」と頼まれ、かくして本をしシスターに贈ることになった。シスターは喜んで、にこにこだった。そのほか、『西九州キリシタンの旅』も、聖母文庫で求めて、読むように勧めた。亡き修道士の遺品が欲しいと、求めてくる人は、そう、そう、居ないでしょう。

2015年11月12日木曜日

中村修道士の、戦争中の思い出。つながって、人生

きのうは、シスターが来て、フランシスコ中村安五郎修道士さんの大切な形見のロザリオを持って行かれた。惜しむわけではないが、寂しさを感じる。写真の右下の年代は、2010年10月、わたしが撮った1枚が手元に残っている。長年、聖母の騎士の受付係として活躍していたから、知っている人も多いだろう。
★中村修道士さんを偲べば、15、6歳頃のわたしの貧困を思い出す。母と2人暮らしだった。朝鮮から帰ってきて、長年、わたしの結核の病いの看護・付き添いをしながら、やっと病気から立ち直ったとき、どのように生活するか、母と子は貧しさに苦しんでいた。母は、収入のため、わたしの付き添いの経験を生かして、その頃は、大学病院で患者さんの付き添い婦として、病院に泊り込んで働く職業があった。
★一方、わたしは大学病院の裏門の近くに、1人で部屋を借りて、寝泊りだけをしていた。食事は戦争中でもあり、配給だったので、米は1人分決まっており、3度の食事は病院の患者の横で母の手料理を食べていた。お米の配給は玄米で、母は、玄米を一升瓶に入れて、棒で突くのである。すると、ヌカが外れて、白米になった。母を思うとき、その棒で、しきりに突いている姿を思い出す。忘れない。
★裏門の家は、環境がよくなく、聖母の騎士のポーランド人ミロハナ神父さんに相談すると、家を探してあげなさいと、フランシスコ中村修道士さんに任せたのだった。中村修道士さんが探してくれた家が、浦上天主堂のすく近くにあったカトリック信者の仕立て屋さんだった。その頃から、聖母の騎士とのつながりが出来てくる。
★だから人生とは、クサリのように、こうなって、ああなって、つながって、今がある、そう思えてならない。今があるのは、偶然ではない。

2015年11月11日水曜日

フランシスコ中村安五郎修道士の貴重な遺品を

東京のシスターが訪ねてきた。五島の久賀島(ひさがじま)の先祖について調べている。「久賀島出身のフランシスコ中村安五郎修道士さんの、何か、遺物はないですか?」の問いだった。
★中村安五郎修道士は、今年の2月15日、このホーム聖フランシスコ園で、93歳の生涯をとじた。コルベ神父が長崎に滞在中に、長崎の聖母の騎士に入った修道士だった。そのとき、わたしはホームに居たので、中村安五郎修道士の遺品を3点自室に飾っている。
★シスターは突然に現われて、安五郎修道士の遺品を欲しいという。久賀島に、資料館を作りたいので、そこに展示したい、との願いである。シスターが訪ねてきたのに負けて、大事な遺品「ロザリオ」を差し上げた。喜んでいるシスターです。
★シスターを案内して、連れて来たのは、愛野カトリック教会のポーランド人のブリ神父さんだった。ブリ神父さんの心も伝わってくる。大事な、大事な、フランシスコ中村安五郎修道士の遺品だが、有効に展示されることを願いつつ、シスターに手渡した。
★この日、朝の食事もしないで、早々と、長崎のクリニックへ診察に出かけた。昼前に帰ってきたが、シスターとブリ神父さんが待っておられた。あと、2点、持っている。それは、簡単には渡せなかった。久賀島に、どんな資料館が出来るのか。楽しみにして、期待している。

2015年11月10日火曜日

平凡に、今日も、暮れる。小さな失敗は、あるが・・・

湯江教会の小さなステンドグラスが、床に投影しているところです。
★地方の新聞記事を見ていると、原爆資料館で、原爆・被爆の語り部をしているときの仲間が亡くなったと出ていた。彼は僧侶だった。「わたしも語り部をしたい」と申し込んだとき、受け入れてくれたのが彼だった。顔写真も載っていた。歳はわたしより、1つ下。小学校の教師を定年で退職して、僧侶になった、と記事にはあった。もう何10年前になるか。あの頃はまだ原爆の体験者たちも健在で、よく活躍していた。それらの被爆者がじょじょに亡くなり、実際に原爆を見た者たちは、居なくなっていく。やはり、「こう、だった」と語るのと、「こう、だった、そうです」と語るのでは、迫力が違う。仲間が居なくなるのは寂しい。冥福を祈ります。
★午後から、ショッピングといって、小型バスに乗って、10人ほどが買い物に出かける。バスが走り出して、どうしてだろう、サイフを持って来なかったことに気がついた。これで2度目。準備はしているのに、肝心なものを忘れる、というより、気がつかない。運転の高原・職員さんから、こっそり告げた。こうして今日も何事も無く、暮れる。

2015年11月9日月曜日

愛の実行には勇気がいる。いのち、愛。生きるチカラ

ひさしぶりに、聖コルベ館から電話があった。「修学旅行生たちが来るのだが、前もって、幾つかの質問が送られてきた。コルベ神父のことで、日本語の会話はどの程度だったのか?日本人の友人はいたのか?愛をどのように伝えればいいのか、などなど、聖コルベ館で働いていた頃のファイトを思い出して、「行って、話したいな」の憧れも湧いてきた。
★わたしは居なくなったが、聖コルベ館を訪れる人たちに、幸せを祈る気持ちに変わりない。コルベ神父は餓死室で亡くなったが、強制収容所には、殺人のガス室があった。度々、そこを訪れ、祈った。
★先日、NHKのテレビで、戦争前に、ドイツでは、精神科病院で、ガス室の殺人が医療者の手で行なわれていたことを知って衝撃をうけた。ヒトラーの政策とかち合って、強制収容所のガス室に発展したとテレビは言った。同じ民族の人間が、弱者や病者を殺害していた。当時はそういう雰囲気も許容していた。そういう雰囲気を作り出す時代が恐ろしい。テレビは人権に対して、堂々と声をあげたのは、カトリック教会の司教だったと、伝えていた。その勇気と権力にいのちをかけて立ち向かった人がいたのは救いだった。

2015年11月8日日曜日

もう、1週間が終わった。歳月の流れ、はやーい

ホームの入り口から、100mほど車道を行くと、ごらんの風景が広がる。静かな集落といって良いでしょう。
★2、3年前も、そんなに長く歩けなかった。車を運転していたし、運転をやめても、人の車に乗せてもらっていたから、移動には支障はなかった。
★ホームに入ってから、自由に移動が出来ないのが、忍耐が要ります。もちろん助けを受けて、連れて行ってもらいますが、ホームには自分1人が居るわけではない。自分の足で、どこへでも行けたときは全く感じなかったが、歳をとってみて、いちばん大切なのは、「歩けること」だと、良くわかりました。
★日曜日ですが、平穏に過ごしました。午前中は、90歳になる男性と、いっしょに風呂に入った。楽しみです。午後からは、「ビデオの日」といって、時代劇のビデオが1時間40分ほど上映された。ロザリオを共同で唱えたら、この時間になりました。

2015年11月7日土曜日

庭の噴水。チカラの泉。希望をもって祈りましょう

芝生の庭にある、小さな噴水です。噴出す水のチカラに、いのちを感じます。
★元日のエリザベットさんの、パパさまの御祝福の訳はありがとう。「忠誠心と、内なる喜び」「神と教会に、祈りの貢献をする」。この精神の重さを感じます。水が湧き出るように、内なる喜びが出てくると、いいのですが、現実は、浮き沈みです。それでも希望は失わないように努めたいです。
★ホームの年配の女性が、自室を訪ねてきて、正座して、ていねいに深々とお辞儀をしました。何でも、10数年まえに、わたしがホームに取材に来て、そのとき「小崎登明」の名前をおぼえて、騎士誌も読むようになって、1度はお会いしたい、お会いしたいと切に望んでいました。ところが誰からか、小崎登明さんなら、このホームにおられるわよ、と聞いて、びっくりして、おじゃました次第です。「ハイ、もう1年になります」。今度は女性が「あら、まあ、そんなに」と、びっくりされた。「お会いできて、うれしいです」と喜んでくださる。ありがたいことです。「登明の水」は、まだ吹き出ておりました。
★女性が残した言葉が、いま、心に浮かぶ。「神さまは、お願い事をすれば、必ず聞き入れてくださる。そうですよね」「ハイ、そうです。希望をもって祈りましょう」

2015年11月6日金曜日

秋も終わりか、でも今日の陽ざしは暑いほどあった

散歩の途中で、出会った男性2人です。
★左側の人は、畑にサツマイモを沢山収穫してくれた。ホームの食卓で度々出たイモの天ぷらは、抜群に、おいしかった。畑作業に全力を注いでいる働き者の男性です。洗礼を受けました。「やー」「おおー」。いつも挨拶する。こころよく写真に応じてくれた。
★右の小柄な男性は、買い物を手伝ってくれる。ありがたい存在です。「ブドウは、まだ、あるね」「だいじょうぶ」。自転車で、スイ、スイ、町内のエレナまで買いに出かけてくれる。助けられて、生きているわけです。彼が小学生の頃から知っている。ご縁とは、不思議なものだと思います。
★最近は、寒さが近づいていたが、きょうは暖かだった。午前中は、町内の庁舎に、書道や写真や手づくり作品の展示の文化祭を見学に誘われる。
★夕食の食卓で、「何が一番食べたいか」の話題が出た。1人は言う。「和牛のステーキが食べたい」。同感だな、と、こころの中。もう1人は言う。「イセエビのサシミが食べたい」。ホームでは、とても食べられないからね。ホームでは老人が食べやすい食材が出ている。そのため、皆さん、長生きです。ありがたく感謝している。

2015年11月5日木曜日

ステントの入れ換えは無事に終わった。苦しみを捧げる

ホームの入口にあるアシジの聖フランシスコのご像です。
★昨日は、病院の泌尿器科で、ステントの入れ替えがありました。やはり痛い。覚悟の上です。待合のときは、十字架のことを考えていましたが、いざ、手術台にのぼり、処置が始まると、「痛い」「イターイ」。そのことで神経が高ぶっていました。どうしようも、ないのです。お医者さんは、抜いたままにしようか、と考えましたが、前のお医者さんの意見を取り入れて、やはり入れ替えることにしました。
★こうしなければ生きて行けないのでしょうか。
★次は3月9日といわれた。3月1日が誕生日だから、88になる。受け入れるしかありません。生きて行けるだけ、お恵みです。神さまは、「いのち」を与えてくださる。その「いのち」は、愛です。苦しみを、誰か、苦しんでいる人のために、ささげよう。

2015年11月4日水曜日

墓標に、父と母の名前が刻まれているが、遺骨はない

外海・黒崎教会での誓願金祝のお祝いが終わって、信徒会館の前で写した。右から、教会の主任司祭・大山神父さま、気楽に声をかけてくださった。隣が、ホームからの乗り物を世話してくれた橋口修道士さん、わたしの左が、お世話役の信徒会長さん、信徒のお医者さん。これで祝賀会を終わります。
★当然、教会で、ひと言、お礼をのべる義務があった。話すのはニガテだが、こう言いました。「父は黒崎出身で、母は浦上です。戦争前に、出稼ぎで、北朝鮮の奥地の町で、商売をしていた。父は病死して、北朝鮮の土となる。北朝鮮では、日本人が何千、何万といたが、カトリック信者は我が家が1軒のみだった。宗教の面で、さびしかった。教えのことは何もわからない。黒崎へ帰ってきて、リッパな天主堂があり、まわりはカトリック信者の家々をみて、感動した。大きな慰めを受けた。
★忘れ得ぬ思い出は、教会前の国道から少し入ったところに、修道院があって、当時は女部屋と呼ばれた。シスターたちが10人ほど共同生活をして、祈り、農家の働きをしていた。皆さん、信仰熱心な、心優しい女性ばかりだった。なかでも、顔が丸くて、いつもニコニコしている「あねさん」がいた。特に可愛がられて、一から公教要理を教えてもらった。これがカトリック信仰の基礎になったと信じている。黒崎教会で堅信を受けた。戦争中だった。
★その後、長崎へ出て、母がつれて行ってくれたのが聖母の騎士のルルドだった。ルルドへ度々行ったが、母は、1つの祈りを、ルルドのマリアさまに捧げたと確信している。「マリアさま、この子を御身にささげます。お導きください」。原爆が落ちたとき、家は爆心地から500m、母も家も吹き飛んで、何も残らず、母の骨も拾えなかった。
★黒崎教会のカトリック共同墓地に、田川家の墓碑がある。父、トマ・松吉。母、クララ・ワサの名前が刻まれているが、骨壷には、両親とも骨は無い。結婚式の写真を収めている。父も、母も、かわいそうに・・・と思う。黒崎教会の金祝のお祝いの日は、ちょうど「諸聖人の祭日」にあたっていた。今日の日に、両親は、神の国から、わたしが黒崎教会でお祝いされているのをみて、喜んでくれているに違いない、と心に慰めを抱いて、ホームへ帰ってきた。皆さんのお祈りは、ありがとう。
★今年は、もう残り少なくなったが、ホームに居ても、金祝のおかげで、良い年になった。
★きょうは、午後から、総合病院で、ステントの入れ替えがある。痛いよ、苦しいよ、喜びもあれば、覚悟もいる。
★きょう、ミサのとき、読んだ聖書。ルカ、14章。①自分の命を、憎まない者(26)。②自分の十字架を背負って、ついてくる者(27)。③自分の持ち物を、一切捨てない者(33)。・・・・でなければ、わたしの弟子でありえない。ステントの入れ換えのとき、思い出せるか。

2015年11月3日火曜日

鐘がなると、ハイ、祈り。普通に信仰が生活に溶け込む


信徒会館は、黒崎教会の裏手に、教会に並んで、一段と高くなった場所にある。祝賀会はそこで行なわれた。シスターや、役員さんや、女性会、教会の主な信徒たちがお祝い会場には姿をみせた。中央に、女性会の手作りのごちそうが、目を見張るように、豪華に並べられていた。
★宴が始まったのが、10時半すぎ頃であったろうか。隣は、赤レンガの立派な天主堂。大正時代から、そのままの形で教会を守ってきた。戦争中は、赤レンガを、敵の空襲、攻撃から守るために、真っ黒に塗った歴史も秘めている。戦争が終わると、真っ黒を、赤レンガのもとの形に苦労しながら戻した。皆さん、賑やかに、飲んだり、食べたり、語ったり、楽しい雰囲気がつづいていた。
★すると、突然、12時の、お告げの鐘が聞こえてきた。鐘は、教会玄関の前に「鐘の塔」がある。敏感に聞き取った役員さんの1人が、「皆さん、お告げの鐘です。祈りましょう」と告げた。普通なら、見過ごしてしまうわけなんだが、みんなは、何の抵抗もなく、自然体で、皆さん、一斉にそろって立ち上がり、手を合わせて、お告げの祈りを始めた。先あげ(先唱者のこと)は、ごく普通に、暗記した祈りを先導して唱えていた。瞬時の出来事だった。さすが、外海の黒崎教会と、この行動には感心した。祈りの習慣が、生活にしみこんでいる。
★祈る皆さんの、窓辺の頭上には、額縁がづらりと並ぶ。創立者、ド・ロ神父から、歴代の主任司祭の額が見下ろしている。「あさ、つづいて、宴会、つづけてください」。先あげは言った。皆は、楽しそうに談笑はじめた。30分後、祝賀会は終了した。「ありがとう」「からだ、おだいじに」

2015年11月2日月曜日

霊的花束に心をこめて、祈り、犠牲をささげて準備した

「きのうの、こと、どうでした?」。2、3人のホームの人から声をかけられる。「ええ、いい、でしたよ」。感心したことは、ミサが終わって、教会のなかで、役員さんの祝辞や、子どもさんの祝辞も、お花の贈呈などがあったが、なかでも「霊的花束」という色紙をいただいたことです。それは私たち2人のために、教会の信徒たちが意向をきめて、果たしてくれたお祈りと犠牲の結果の数字でした。
★「トマ田川幸一様。金祝のお祝いおめでとうございます。信徒一同、心をこめてお祈り致しました。霊的花束。御ミサ、347回。聖体拝領、343回。ロザリオの祈り、1.043回。主の祈り、4.425回。アヴェマリアの祈り、6.058回。愛のおこない、471回。黒崎教会信徒一同」。
★以前も、そうでした。意向をきめて、お祈りや愛の犠牲、善業など、心をこめて、意識して、尽くした習慣があった。それが、まだ黒埼教会に残っていたのが、大きな喜びでした。意向をきめて、長い間、「この人のために」と、子どもさんも、シスターさんも、女性、男性、信徒の皆さんが、思いをもって準備して、この日を迎えてくれたのでした。このような心のこもった、思いのこもった行ないが、この世の中にあるでしょうか。ありがたい、心の交流を感じました。本当に、根からお祝いをしてくれているのを、ひさしぶりに感じました。私たちも、むかしは、よく、やっていた教会の習慣です。黒崎教会の皆さん、ありがとう。修道士は、あまり信徒の前には出ない存在ですが、大切に思ってくれたのですね。印象に残りました。


2015年11月1日日曜日

無事に、黒崎教会での祝賀会は終わりました。感謝

外海の黒崎教会。黒崎の出身者、2人の修道士、誓願50周年、金祝を教会をあげて行なってくださった。約200人が参加した。祝賀ミサの後で、記念撮影。諸聖人の祭日でもあり、子どもの頃から親しんでいる教会で、お祝いを受けたのは大きな喜びであった。この後、信徒会館で、祝賀会が行なわれた。9時から始まり、終わったのは、12時半すぎていた。