2015年11月4日水曜日

墓標に、父と母の名前が刻まれているが、遺骨はない

外海・黒崎教会での誓願金祝のお祝いが終わって、信徒会館の前で写した。右から、教会の主任司祭・大山神父さま、気楽に声をかけてくださった。隣が、ホームからの乗り物を世話してくれた橋口修道士さん、わたしの左が、お世話役の信徒会長さん、信徒のお医者さん。これで祝賀会を終わります。
★当然、教会で、ひと言、お礼をのべる義務があった。話すのはニガテだが、こう言いました。「父は黒崎出身で、母は浦上です。戦争前に、出稼ぎで、北朝鮮の奥地の町で、商売をしていた。父は病死して、北朝鮮の土となる。北朝鮮では、日本人が何千、何万といたが、カトリック信者は我が家が1軒のみだった。宗教の面で、さびしかった。教えのことは何もわからない。黒崎へ帰ってきて、リッパな天主堂があり、まわりはカトリック信者の家々をみて、感動した。大きな慰めを受けた。
★忘れ得ぬ思い出は、教会前の国道から少し入ったところに、修道院があって、当時は女部屋と呼ばれた。シスターたちが10人ほど共同生活をして、祈り、農家の働きをしていた。皆さん、信仰熱心な、心優しい女性ばかりだった。なかでも、顔が丸くて、いつもニコニコしている「あねさん」がいた。特に可愛がられて、一から公教要理を教えてもらった。これがカトリック信仰の基礎になったと信じている。黒崎教会で堅信を受けた。戦争中だった。
★その後、長崎へ出て、母がつれて行ってくれたのが聖母の騎士のルルドだった。ルルドへ度々行ったが、母は、1つの祈りを、ルルドのマリアさまに捧げたと確信している。「マリアさま、この子を御身にささげます。お導きください」。原爆が落ちたとき、家は爆心地から500m、母も家も吹き飛んで、何も残らず、母の骨も拾えなかった。
★黒崎教会のカトリック共同墓地に、田川家の墓碑がある。父、トマ・松吉。母、クララ・ワサの名前が刻まれているが、骨壷には、両親とも骨は無い。結婚式の写真を収めている。父も、母も、かわいそうに・・・と思う。黒崎教会の金祝のお祝いの日は、ちょうど「諸聖人の祭日」にあたっていた。今日の日に、両親は、神の国から、わたしが黒崎教会でお祝いされているのをみて、喜んでくれているに違いない、と心に慰めを抱いて、ホームへ帰ってきた。皆さんのお祈りは、ありがとう。
★今年は、もう残り少なくなったが、ホームに居ても、金祝のおかげで、良い年になった。
★きょうは、午後から、総合病院で、ステントの入れ替えがある。痛いよ、苦しいよ、喜びもあれば、覚悟もいる。
★きょう、ミサのとき、読んだ聖書。ルカ、14章。①自分の命を、憎まない者(26)。②自分の十字架を背負って、ついてくる者(27)。③自分の持ち物を、一切捨てない者(33)。・・・・でなければ、わたしの弟子でありえない。ステントの入れ換えのとき、思い出せるか。

1 件のコメント:

  1. 田川家のお墓にご両親のお骨がないということに
    いままで思いが至りませんでした。
    お若いころから、さぞかしお淋しい思いをなさったことでしょう。深くもだすばかりです。

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