2019年11月30日土曜日

ゆっくりした時間、ホームで暮らす。誓願の更新で、わが身を律す

ホームのテラスから眺めた朝の雲仙岳と有明海です。きょうも、ゆったりしたホームの時間が始まる。
★「ありがとう」「おつかれさま」「ごめんなさい」「こんにちわ」「おかげさまで、たすかった」「うれしいよ」「よろしくね」「おやすみなさい」。ホームで使う言葉。
★ホームは計算された食事を食べている。お陰で健康に生きていける。ホームの老人は長生き者が多い。ありがたい。
★湯江教会・祭壇の生け花です。お花を見るのが楽しみです。きょうは「聖アンドレ使徒」の祝日だった。彼は漁師。主から「付いて来なさい。人を漁どる者になりなさい」と呼ばれて、舟と網を残して従った。十字架の殉教は恐れ多いと、X型の十字架で殉教したと伝えられる。
★五島列島の最北端に、米山教会がある。教会の庭に、聖アンドレのご像がある。舟と、網と、X型の斜めのクルスがある。教会は高台にあり、背後は広い海。絶景であった。
★きのうは「フランシスカン家族の諸聖人」の祝日。よく、日記に、湯江教会が出て来ますが、左の写真のようになっています。右側はホーム。直ぐ隣が湯江教会。屋根の十字架の奥が修道院。きのうは夕方、6時から教会で「教会の祈り」があり、その後、修道誓願の更新式があった。湯江修道院の修道者と、ホームから瀧神父さん、西山神父さん、トマ修道士が参加した。
★主から「わたしに従え」と呼ばれたわけです。54年前に誓願を立てました。その初心を忘れず、年に1度、この日に更新して、身と心を律する決意を新たにするのです。弱い人間が、主の道を行くのには、強力な助けが必要です。そして皆さんの祈りと支えも必要です。アシジの聖フランシスコの道、あこがれる道、それは「愛と平和」です。

2019年11月29日金曜日

「フェスティバル」の手みやげ。ホームに来た男性のご縁あり

ちょうど1年前の写真です。この度の「ポーランド・フェスティバル」の「写真展」に、この男性が、「小崎さんへ」と、著名なお菓子を持って来られました。お菓子は、小崎の元へ届けられた。
★「誰から、だろう?」。1枚の短い文面が入っていた。「昨年の11月23日に訪問し、27日の日記に載せていただいた」。調べてみると、ありました。この男性です。あの日の出会いを思い出して、「フェスティバル」に来て下さって、ありがとう。
★あの時の出会いは、ほんのひと時でした。「長崎空港に着いて、レンタカーを借りて、真っ直ぐに、ホームへ来ました。一目お会いするのが念願でした。日記は2年前から読んでいます」。会話は短く、玄関での話となった。おみやげに、赤いシクラーメンの鉢物を差し出した。もう少し、お話したかったのに、惜しかった。
★こうして日記を、午後から毎日、書いている。どこで、誰が、読んで下さるのか、トマには分からない。ただ自分のボケ防止のため、終末の心境で記している。だが突然、日記を通して面会に来る人が居れば、それは嬉しい。ホームに訪問のその人が、フェスティバルにも来てくれた。お菓子までも下さった、ありがたいじゃないですか。知らないところで、ご縁はつづいていたのです。そういう出来事はお恵みです。全く知らない人が、一目会いたいと、わざわざ遠いホームまで訪ねて下さるのは珍しい。熱意に心が動きます。あの「男性の幸せを、祈ります」と返事を書いた。
★日頃の出来事も、そうだが、もっと、「心に、ひびく言葉。手アカの、ついていない言葉。タマシイをふるわせるほどの、一句がほしい」。いつも、そう思う。日記を書いて、それを読む人が、何に引き付けられるのか、自分では分からない。これから先、人は、どのように枯れていくのか。終末の心境を綴りたい。
★過去を振り返れば、「希望の明るさもあった。欲望の暗さもあった。人は、希望と、欲望の、2つを絶えず振幅して生きている」。そんな歩みだったと思う。「もう枯れてしまったよ。希望だけ、残したい」

2019年11月28日木曜日

東京「ポーランド・フェスティバル」成功の報告。喜び感謝

東京・丸の内で開かれた「ポーランド・フェスティバル」。昭和の長崎・ポーランドの修道士たちの写真を展示した風景です。1日限りの開催でしたが、超・大勢の人たちが入場しました。長崎から持参し、会場で役割を努めた野々村哲さん、塩沢美樹さんは沢山の出会いがあり、展示は成功でした。皆さんの協力のお陰です。ありがとう。
★野々村哲さん、塩沢美樹さんが、ホームの自室に来て、展示の日の様子を説明してくれた。最初、トマは不安に思っていたのです。果たして、見に来てくれる人が居るだろうか。その心配は吹き飛んで、喜びと感謝の報告を聞きました。
★2人は、自作のカードを150枚作って、写真の傍の机に置いていたら、開会2時間ほどで、全部、無くなってしまった。皆さんは熱心に見てくれた。
★東京にお住みの「元日のエリザベット(美和子)」さんも、一緒に居てくださって、心強いでした。会場は大変な込み合いで、長崎の2人は食事をとる時間もない。美和子さんが、場を引き受けて、2人は、ポーランド料理(ここも大勢の行列)を食べたそうです。
★ここで、どんな人が来たか、紹介しましょう。赤羽教会の帰りです、と言って、大福を2個くれた人。多摩から来た女性は、穏やかな人で、ゆっくり見てくれた。こういう人の熱情が伝わるんですね。
★「トマさんのことば」を持って来た人もいる。びっくりだよね。ありがたいね。「2人に会えると思って来ました」
★関町修学院の2人の修道者も来て、長い時間、現場に付き添ってくれた。写真の修道者たちは、彼らの先輩になるからね。また日記を見て、夫妻で来られた。日記で呼びかけた効果があった。日記で、いつか紹介したが、大きな「クリ」を送ってくれた男性が居た。その男性も来てくれた。
★別の男性が、お菓子を持って見物に来た。彼が言った。「ホームに、突然お伺いしたのにトマさんは会って下さった。日記にも載せて頂いた」と感謝しておられた。(そう言われて、日記を開くと、ああ、覚えています、この人、と当時を思い出しました)。このように色んな人たちが、見に来て下さり、感謝で一杯です。
★ポーランド大使館広報センター所長のマリアさん、職員さんにお世話になりました。東京で、またポーランド広報の中で、ポーランド修道士や、コルベ神父の展示の予定が有りましたら、ぜひ協力させて下さい。期待して、感謝と、喜びのなかで、この開催に終わりを告げた。野々村哲さん、塩沢美樹さん、お疲れさまでした。

2019年11月27日水曜日

訪ねてきた外国人。博士獲得。1冊の本に未来を託す。トマも喜ぶ

寒い冬の日だった。オーストリアからグウィン・マクレランドさんが、ホームの自室に訪ねてきた。博士論文のためだという。私の原爆体験や、コルベ神父の話を聞かせた。
★あの日から、3年9か月が流れる。グウィンさんが再び自室に現われた。「博士になりました。博士論文から、本にまとめました。この本です」DANGEROUS・MEMORY・IN・NAGASAKI。「長崎の恐怖の記憶」
★本は216頁。その中の「文化的見方」に、小崎修道士の体験を10頁ほど載せている。「原爆、見た、体験した、逃げた」「新しい使命」「殉教者の道」「長崎からアウシュヴィッツ」などの項目がある。
★グウィンさんは、12歳のとき、英語版の「はだしのゲン」を読んで原爆を知る。日本に興味を持った。何度か日本へ来て、公立中学校でも英語の教師を勤めた。
★広島と長崎を訪問する度に、両者に違いが分かる。長崎には「十字架」「マリア」「浦上天主堂」の柱がある。カトリック信徒たちは、どのように復興したのか、注目した。それが博士論文の主題になる。著書には、小崎少年の原爆地図も載せた。再度、彼を迎えた小崎修道士は、「よくぞ、まとめてくれました」と感謝した。この度は3週間ほど日本に滞在する。長崎でパパさまのミサにも参加して祈った。
★グウィンさんはキリスト教徒(バプチスト)である。オーストラリアのメルボルン・モナシュ大学・歴史学部で教師をしている。奥さんの写真を見せてくれた。2人の子供さんも居る。写真も見せてくれた。これから幸せがくるだろう。
★この1冊の本が、彼の未来を開くだろう。この度の滞在で、東京や京都、長崎の大学で、日本語で講義をします、と嬉しそうに笑った。小崎の頁の中に、私が北朝鮮の中学入試のとき、「天皇の軍隊と、キリストの軍隊と戦ったら、どちらに付くか」と試験官から問われて、「キリスト」と答えたことも載せている、と聞いて、びっくりした次第だった。

2019年11月26日火曜日

傾聴ボランティアの女性が来る。心の内を聞いてもらいスッキリ

傾聴は、3年前から始まった。今年は、8回目。合わせれば、23回になる。
★来てくれる女性。仕事の休みを犠牲にして、自分で電車賃、バス代を出費して、歩いてホームへ。帰りも又同じ。いっさいのモノ、受け取らない。傾聴するだけ。本当に、敬服の至りです。しかも、3、4回で終わるのでは、ない。ホームに居て、初めて、こういう出会いに行き当たった。有り難い気持ちで一杯です。おそらく聴く内容は、同じような事でしょう。それも受けて下さる。
★誰が、他に、こんなにも聞き手をつづけてくれる人が居りますか。「愛」とか「思いやり」とか、言葉や文字はあふれているが、「傾聴」に黙々と来る人は、誰も居ない。迎える度に、驚きと感謝あるみです。女性は言います。「個人では、出来ません。怖いです。このカード(京都に、この会がある)に、つながれているから出来るのです」
★相手が、語るのを、ただ聴くだけ。言葉じりを反復して返すだけ。説教や指示や、教導は一切しない。しかし人間は「本当にツライことは、こころに隠して、言いませんよね」。それでも語る人の話に、ジッと辛抱して聞いてくれる。人間の心の底辺と、底辺の接触のような事を感じます。
★この度は、やはりカラダの事から話しました。ステントの入れ替えや、歩行が困難になること、腎機能が低下する、不安があること、しかし日記を書いて気力を養っていること、などですね。ただ、ただ思いつくままに語ります。そうすれば、自分のアタマの中の整理が出来る。「ブッチャケ、こころの中を、吐露(とろ)するわけです」。時間は、アッという間の1時間が過ぎる。次は12月は、年末で慌ただしいので、来年の1月に決めた。
★「あと、3ケ月だよ。12、1、2月経つと、92歳だよ。1年の重みは尊いね」

2019年11月25日月曜日

号外が出た。パパさま長崎へ。鎮魂の黙祷。歓喜の平和のミサ

「みどり」さんの、日記に寄せられたコメントで知った。パパさまが長崎に来られて、松山町の県営ビッグNスタジアムで、ミサを行なわれた日は、2008年11月24日に、同じスタジアム会場で、「ペトロ岐部と187人殉教者」の列福式が行なわれた日だった。この摂理的な一致に、神の大きなお恵みを感じた。
★この日にちの一致のことは、この日、沢山の報道がなされたが、全く注目する者は居なかった。「やはり、神は、黙って、おられる御方では、ない」。あの列福式に参加した喜びと感動を忘れない。この度、パパさまが長崎へ来られた日が、列福式と同じ日とは、不思議さに、胸が熱くなる。
★このミサには、身体の都合で参加が出来なかった。ホームの入居者は4人が参加した。湯江教会は、ホームや、他の信徒も交えて、合わせて53人が、パパさまのミサ・祭壇の近くの席を与えられて、感動の祈り、歌を捧げた。新聞の号外も出る。夕方、高原修道士さんが自室に持って来た。
★今朝、湯江教会のミサの後で、男性の1人が喜びながら「孫が、ね。パパさまから抱かれて祝福をいただいたよ」と、ほほ笑みながら私に伝えた。「よかった、ね」。確かに、参加者には、それぞれの恵みのドラマが有っただろう、と思った。
★私は、被爆者としても、パパさまのお言葉を聞いた。「核兵器に、平和は、ない」。パパさまが、雨の降る中、原爆落下中心地で、鎮魂の花輪を捧げ、頭を垂れて祈り、しばらくすると顔を上げて、目が少しだけ左右に動いた。また頭を垂れて、黙して祈られた。その間、テレビに「1分40秒」と数字が出た。長い祈りであった。パパさまの黙祷の祈りは、うちの母親にも届いたろうか、そんな思いが、瞬間、アタマをよぎった。
★一方、この日、東京・丸の内では、「ポーランド・フェスティバル」が行なわれていた。私の協力者の野々村哲さん、塩沢美樹さんが出向いているので、会いに行ってください、と日記に書いたら、効果があった。多数の人が声をかけて下さった、と喜びの声で携帯に知らせが入った。2人が帰ったら、詳しい内容が聞けるでしょう。訪ねてくださった人たちに感謝します。ありがとう。

2019年11月24日日曜日

パパさま来崎の前日。夫妻が自室へ。日記の愛読者。いつも喜びを

パパさまが長崎に来られる前日だった。昼食後、すぐに自室に、1組の夫妻が訪ねて来た。
★部屋に入ると、奥さんの方が満面の笑みを浮かべて、感動したかのように、両手を差し出し、出会いを喜びを、カラダを屈(かが)めて、私の手をしっかりと結んでくれた。ご主人も喜んでいる。奥さんが「トマさんの日記の愛読者です。会えて、うれしい」。感激に満ちている。
★明るい雰囲気の2人を椅子に座らせて、落ち着かせて、夫妻の話を聞いた。もちろん、パパさまを迎えるために、長崎へ来た。今日は、時間があるので、「どうしてもトマさんの所へ来たかった」「そりゃ、どうも。日記を読んでくれて、有り難う」。2,3年前に、パソコンを操作していたら、登明日記に行き当たったと言う奥さん。「長崎のコルベ神父」「十七歳の夏」ほかにもトマさんの本、みな読みました。熱心や、な。
★愉快な、はなし好きの奥さんだった。聞いていて、夫妻の歩みのなかに、不思議な神さまの導きを感じた。こんな話の流れを聞いたのは久々(ひさびさ)だった。
★奥さんは、中・高カトリック系の学校で学んだ。中学生のとき、教皇ヨハネ・パウロ二世が来日された。その時、感動して、様々な資料を集めた。高校を卒業して、教会へ行き、洗礼を受ける。霊名は、マリア・ゴレッティ。(12歳で、貞潔を守るため命を捧げたイタリア人聖少女)「いい霊名ですね。なぜ選んだの?」「学校の保護者が、マリア・ゴレッティでした」
★洗礼に当たって、両親は猛反対した。特に父親は許さなかった。しかし洗礼を受けて家に帰ると、両親から「おめでとう。今日は、よかったね」と慰められた。洗礼の時は燃えていたが、冷めた時期もあった。教会から遠ざかる。すると両親が悲しい顔をした。「好きで入ったのに、なぜ行かないんだ」
★教会へ通うようになり、教会で、ご主人と出会った。ご主人は幼児洗礼。霊名は、ヘンリコ。2人は信仰によって結ばれた。ご主人は「感謝しなさい。お互いに尊重する」。奥さんの好きな言葉は、「いつも喜んでいなさい」。苦しみ、喜び、分かち合っている。
★奥さんのお父さんが、今週の火曜日に神に召された。88歳、米寿だった。心配をかけたお父さんとの別れは辛かった。木曜日がお通夜。金曜日が葬儀・告別式。土曜日、今日が長崎へ。パパさまのミサで、お父さんのため祈りたいと言った。「お父さん、天国から見てくれているでしょう」
★今朝のホームから見た天候です。午前中、NHK長崎テレビで、パパさまの飛行機が長崎空港に到着するところから放映された。長崎は、雨だった。原爆落下中心地での行事では、雨が、かなり降っていた。しかし午後になると、青空が広がり、3万人を超える人びとの祈りのなかで、パパさまのミサは行なわれた。ホームの私たちは、食堂で、スクリーンで、テレビの放送を見た。
★「ああ、あの夫妻も、この人たちの中に居るんだな。祈っているあな」と思った。

2019年11月23日土曜日

東京で、明日。ポーランド・フェスティバル。2人に会いに来てね

ポーランドを旅行した時の写真です。15年前になる。聖母マリアの巡礼地、チェンストホーバの教会です。ポーランドは東欧にあり、観光地としても見どころが沢山ある。
★今年は、日本とポーランドが国交樹立をして100周年になる。私はポーランドが好きです。10回訪問。コルベ神父の愛の語りべで、外務省・勲章も戴きました。
★明日、24日に、東京のポーランド広報文化センター、大使館、観光局、在日・商工会議所などの主催で、「ポーランド・フェスティバル2019」が東京で開催されます。ポーランドを愛する人たちが集まり、音楽や芸術、食べ物、飲み物、雑貨なども楽しめて、ポーランドに触れる、魅力が一杯あります。
★今年の8月から9月にかけて、長崎で、ポーランド人の修道士たちの「写真展」を開きましたが、その写真の数枚を飾って頂けるということで、野々村哲さん、塩沢美樹さんの2人が長崎から東京へ出かけました。
★登明日記を読んで下さる東京や、東京周辺の人たちにお願いします。「フェスティバル」の会場に来られて、2人に会って下さい。2人は私の強力な助け手です。これまで「トマさんのことば」や「写真集」や「写真展」で活躍してくれました。2人が居なかったら実現しなかった。お願いします。会場に来られて、2人に話しかけて下さると大きな喜びがあります。わざわざ長崎から東京へ出かけました。ぜひ、会場を訪ねて、2人に会って、あげて下さい。私も強く望みます。喜びます。日記を通して、新しい友情も出来るでしょう。頼みますよ、東京や、近くにお住いの皆さん、期待しています。
★会場は、東京国際フォーラム・ホールD7。千代田区丸の内3-5-1。山手線・有楽町の駅の近くです。入場無料。11月24日。11時から19時まで。

2019年11月22日金曜日

長崎市へ定期の診察へ。気が重い。帰りに、携帯の修理をした

ヨゼフ・クリニック、高木先生の定期の診察日。長崎市まで出かける。この日は、気が重い。
★9時10分に着いた。待合室に、4、5人の患者さん。運転の高原修道士さんも診察券を出す。9時40分頃には、名前を呼ばれた。「早・ハヤ」。
★「先生、写真」というと、すぐ応じてくれる。抵抗なく、撮れた。以前は、遠慮していた。気安くなった。「胸のレントゲンを撮ろう」。出来上がった胸部の写真を診る。素人でも分かるように、右の肺が白く、左は黒い。13、4歳頃に病んだ痕が現実に今も表れている。
★もう18年、高木先生の診察を受けている。いつまで続くのか。「どうですか?」「足が弱って、フラフラです」「歩きなさい。歩かんと、ダメよ」「歩けませんよ。今年の1月、急性肺炎を患って、入院した。それから、どうも肺の調子がよくない。今度、風邪ひいたら、アウトですよ」「そうなったら、こまる。あなたには長く生きて働いて欲しい。大体、ホームに居ないで、聖母の騎士に出て来なさい」「聖母の騎士は、坂が多くて危険ですよ。暮らせない」。次に、「高原ブラザー」と呼ばれた。先生の「ブラザー」と呼ぶのは、好まない。待合室に動揺が起こる感じがする。診察が終わった頃には、待合室に、15,6人の患者さんが居た。
★診察が終わって、ホッとする。諫早のdocomoドコモに寄った。私の携帯、ガラケイが発信、着信しない。昨日からです。「携帯にかけても、つながらない」と文句がある。故障かな、見てもらった。女性の店員さんは親切だった。調べてもらうと、携帯の中のカードが、ちょっとだけ、ずれている。それで、つながらない。「携帯、落としませんでした?」「いや、そんな記憶はないね」「もう大丈夫です。落としたり、ポケットの中のカギなど、合わせないようにしてください」「そんな敏感なのかね」
★高原さんが言った。「ここの店員さん、感じが、いいね。ボクのスマホは別の会社。ここに変えようかな」
★ホームに帰って、疲れて、しばらくベッドで休んだ。いま、起きたところです。長崎行は、まる1日かかる。ホームに帰ると、安らぎます。

2019年11月21日木曜日

エレベーターで初めての会話。「私、キリシタン」。おどろいた

ホームにある唯一のエレベーターです。押し車の4人と、杖の2人と、見守りの職員さんが1人、計7人は乗れます。
★エレベーターの中で、2人の時でした。私と、背高い、杖の男性老人から、声をかけられた。「あなたは、テレビに出とりました、な」「ああ、見たの?」「どうも、顔が似とるごと、あったもん」「そうでしたか」
★この老人は、耳が遠くて、彼の耳に、口をつけて声を出さないと、言葉が通じない。普通には会話が出来ない。入居して、もう1年近くになるが、1度も話した事がなかった。初めて、エレベーターの中で声をかけられた。テレビというのは、先日、NHK長崎テレビで再放送された「潜伏キリシタン・宣教・迫害・復活の歴史」の番組だった。
★男性老人が言った。「わたしも、中江の島のお水取り、知っております」「え?あの平戸の?」「隠れキリシタンです。信仰、しとりました」。エレベーターの中で、衝撃を受けた。出て、廊下を歩きながら、大きな声で会話した。「キリシタンも、カトリックも、仏教も、いっしょ、です。親戚の者もカトリックと結婚しました」「あなたは、どうされました?」「働きに出ました。今もキリシタンです」
★詳しい話は聞けなかったが、1年近く隣で生活して、毎食、姿を見て、近所に居たのに、「キリシタン」と聞かされて、何やら、わたしの心中に、風が「フゥー」と吹き抜けた感じがした。信仰は、先祖から、親へ、子へ、つながれていく。そんな身近な例が、ここにあった。
★「隠れキリシタン」は、まだ長崎県には、居る。「なぜ、カトリックに戻らないのか」。ご先祖さまに、申し訳がない、だから守る、その理由もあるようです。背高い、杖の老人は、幸せそうに、ゆっくりと、きょうも、ホームの廊下を歩いている。

2019年11月20日水曜日

廊下の窓からの風景。血が出たショック。人生に色々体験あり

きのうは、ホームを、下の方から見た写真を載せましたが、きょうは、自室の廊下から、お寺と保育所を見た風景を案内します。この風景を見ながら、毎朝、体操をしています。
★「フォロワーが、103人になりました」と日記に書いたところ、コメントで、「Twitterには2.500人以上がいます」と教えられ、びっくりしました。Twitterのことは、よく分かりません。見てもいません。日記を書くのが関の山です。Wi-Fiを使っているので、電波の乱れを案じて、ただ日記を書くだけの作業です。91歳、毎日、コツ、コツと、日ごろの思い、出来事、悩みを書いている次第です。
★もう、10日ほど前になりますね。早朝、ミサの祈りの中で、ノドにタンが出そうになったので、チッシュで取ると、血が出ていた。それが、この写真です。「こりゃ、なんだ?」。ショックでした。人生、長く生きると、色々ありますな。到底、その日の日記には載せられなかった。
★ミサが終わると、すぐ前席の高原修道士さんに、写真の血を見せて、「病院へ行きたい」と頼んだ。心配なのは、2日後に、女子高校生180人に語りべの予定があったからです。「果たして、どこから出た血なのか?」。不安になる。高原修道士さんの運転で、1日かけて、長崎市まで、診察に行きました。3か月毎に、近ごろ、診察を受けている耳鼻咽喉科です。毎回、カメラで調べている。今回も、血を見せて、カメラで診てもらった。結果は「腫瘍も、ガンもない。大丈夫でしょう」。五百円玉の大きさに、赤い色の部分があった。「これか、な?」。度々、血が出るなら、精密検査を紹介しましょう、と言われて、以後、納まっている。
★「もう死んでも、いい歳だと思うときがある。いや、いや、まだ、まだ生きたいと思うときもある。左か、右か、まん中が、今の自分。今をしっかり生きれば、それでよい。生あるものは、いつかは滅す」

2019年11月19日火曜日

お寺と教会・ホーム、神社。鐘に太鼓、共存。午後は歯医者さん

フォロワーが103人になりました。有り難いです。ホームで暮らす、なんの変哲もない老人ですが、見守ってくださり、生きるのに、張り合いが出ます。
★ごらんのように、ホームは高台にあります。見下ろすと、お寺とお墓、保育所がある。写真は下からホームを見上げた風景です。職員さんに頼んで写してもらった。
★右側から、湯江修道院。次の茶色は修道院の車庫。次に、ホームの建物がある。私の自室は、左側の、樹木で隠れた部分になる。体操をするとき、いつも、お墓や、お寺を眺めながら、カラダを動かしている。ホームの向こう側には、神社もあります。神社と、教会と、ホームと、お寺と、共存しているわけです。お寺の鐘も、教会の鐘も毎回、神社の太鼓は時々、よく聞こえます。恵まれた場所にある。
★午前中は普段通り、自室で何事もなく過ごしております。午後から、歯医者さんへ出かけますので、早めに日記を書きました。
★歯は、入れ歯は無く、自分の歯なので大切にしている。自慢でもある。歯科衛生士さんが丁寧に、歯を点検して、掃除をして、歯の磨き方を教えてくれる。いつも磨き方が不十分ですと言われるのは、こまるね。歯磨きは、難しいね。衛生士さんに満足してもらえない。最後には、お医者さんが診察して、約1時間10分は、かかります。トイレに行きたくなるのが難点です。
★歯科医院は、ホームの車で行きます。約20分の場所。運転は職員さん。車には、リハビリの3人も同乗して、途中で、リハビリ・センターに立ち寄る。帰りは、その逆です。
★ホームでは、争いもなく、文句も聞かず、平穏に、日々を過ごしております。ただ、肝心の歩行が困難になりました。ホームの庭で、3歳児、5歳児、小3ぐらいの女の子が走り回って遊んでいる。「歩くって、普通なんだな。うらやましいよ。自分にも、あんな時代があったのに」と思うだけ。
★「若さって、何だろう?切り返しが、早いことか、な。マゴ、マゴしないで、す早く返答することか、な」。耳も、遠くなったよ。

2019年11月18日月曜日

3日前に来た小夜子さんからブドウ。99歳お母さんの信仰

3日前に、3人の女性がホームに面会に来た。その中の1人、小夜子さんから、大きなブドウ・ピオーネが届いた。ブドウは好物です。喜びました。
★小夜子さんは、あの時、「赦し」が最も難しい、と言った。あの「赦し」は、心に残っている。あまりにも赦されぬ出来事が多い。社会の事だけでなく、家族にもあるだろう。小夜子さんは「祈って、祈って、時間が経てば、乗り越えられる」と答えた。そうかな、と思う。「赦しますが、忘れない」。こう言う人もいる。小夜子さんは、「忘れてしまう」。そこまで達しなければ、本当の「赦し」にならない、と言葉を残した。ムズカシイな、と思う私に、ピオーネが届いた。
★実は、小夜子さんのお母さん、クニ子さんに、大変お世話になっている。99歳で元気にしています、と小夜子さんが写真をくれた。最近の写真で、押し車で歩けるという。
★私が原爆で孤児になり、修道士になり、それでも寂しかろう、とクニ子さんは応援してくれた。私の母の姉、伯母さんも浦上で、よく知っていると言った。その「つながり」も聞かせてくれる。「同じ、浦上のモンじゃ、もん、な」。私の母も浦上出身です。
★クニ子さんは、浦上で、近所の女性たち、15,6人を、毎月『9の日』(原爆が落ちた8月9日の9の日です)に寄せ合って、各々家族の死者のため、ロザリオの祈りや他の祈りを捧げていた。「自分たちが生かされているのは、死者のため、祈りの務めがある」。それが信念だった。ロザリオの後で、各人が、家族死者の霊名を言う。例えば、「聖パウロ」とか「聖ミカエル」、「聖マリア」「聖アンナ」など、家族の霊名を3、4人あげると、「我らの為に祈り給え」と、皆が応える。そういう習慣を踏襲していた。私も何度か集会の祈りに参加した。
★クニ子さんのお宅は、浦上の高台にあったが、今はマンションにお住まいという。なつかしい、その浦上信徒の信仰を思いながら、きょうはピオーネを冷蔵庫に収めた。後のお楽しみだよ。

2019年11月17日日曜日

フォロワー101人。皆さんに有り難う。生きるチカラ頂いた

「フォロワー、あと1人で、100人だよ」と、昨日、書いたら、101人になった。
★「うれしか、ばい。よくぞ、こたえて、くれました。やっぱり、心を寄せてくださる人が居る。ありがたいです」。100人を超えて、胸があつくなりました。
★「平和の語りべ」。小崎の非売品の文庫本です。表紙も裏も、生涯の、いろいろな写真が載せてある。ただ、右下の兵隊さんだけ違う。戦死した従兄です。神学生だった。かわいがってくれた。
★人間、生まれて、育って、学んで、いっぱし、の人生をつづけて、いまは、老人ホームにいる。自分の人生、振り返えって、「生きるとは、何か」。時々思いますよ。
★人は、1人では、生きられない。国という大きな歴史、社会という大きなウネリの波の上で、ほんろうされ、つづけてきた。その中で、大切なことは、真実の愛を見つけることでしょう。でも、生きるとは、あまりにも、過酷な生き死にを体験すること、過去の殺戮(さつりつ)の現場を見て唖然とすることだったと、思う。悲しい人間の「業(さが)」の連続があった。
★人は、常に、真実の愛と、善と、平和を求めつづけている。「あなたに会って、よかったよ。幸せになったよ。喜びを見つけたよ。そんな人に出会いなさい」。若者に、そう告げたい。生きる基本は、この心情だと思うよ。
★もう1つ、経験から言える。「困難な『壁』にブチ当たっても、そこには必ず助ける人が居た。やっと壁を避けて、また進めば、更なる『壁』にブチ当たる。そこにも助ける人が、やっぱり居た。だから、今まで生きてこれた。今があるのです」。これは持論です。
★歳、老いた老骨は、何を思うのか。何を語り残すのか。沢山の言葉は知らない。どこの国の人も、民族も、「幸せになって、ほしい」。それだけ、だね。もう戦いは、イヤ。殺傷は、イヤだね。
★幼い子どもの、あの「あどけない」顔と、表情が、浮かび上がってくる。人は、成長するのに、なぜ、あの表情は変化していくのだろう。幼い子の表情に戻りたい。ホームにも、優しい顔を持った人もいるのだから。

2019年11月16日土曜日

フォロワーが、99人。あと1人、応援すると、100人だよ

女子高校生たちに語りべを務めたとき、「40分間、立ったままでした」と、日記に書いたところ、幾つかのコメントで、「よくがんばった」とお言葉を頂きました。女子高校生たちが、熱心に聞いてくれたので、つい、つい、惹かれて、立っている事を忘れていたのでした。若い人に出会うと、パワーをもらうんですね。
★昨日の夜、NHK長崎テレビで、「潜伏キリシタン関連遺産が全てわかる72分番組」が再放送されて、五島・三井楽の「岳踊り」で、小崎修道士のコメントも出ました。ホーム聖フランシスコ園の全景も出たので、うれしかった。
★老いたる修道士の日記の応援をしてくださって、ありがとう。「フォロワーする」が、いま、99人です。あと1人、応援してくださると、100人になる。頼みますよ。いまのところ、日記が生き甲斐なんですから。「ニンゲン、人生、どんなに枯れて行くのか」。自分で見守る。ホームの生活は、静かで、平凡で、穏やかに暮らしているから、特別、書く材料もないのです。それでも書くのが楽しみです。
★大抵、午後に、昼食の後、しばらくベッドに休んで、それから書きます。何も、書くことが浮かばない時は、困るなァ。日記の後で、教会の祈りを唱え、その日に当てられた旧約聖書を読み、ロザリオを唱える。だいたい4時過ぎになる。5時15分から夕食です。考えると、そんなに時間は無いですよ。来年の計画は、立てない。「今を、呼吸して、それで、よし」
★血圧は、自分で、腕輪を巻いて、3回、計る。朝5時。午後2時。夜7時。上は130代、下は70代、血圧のクスリは飲まない。サラサラの薬も飲まない。7時30分には、寝る準備をします。8時前には、ベッドの上です。おやすみなさい。ホームは静寂になります。70人が、それぞれの人生を生きて来た。過去は語らず。みな、同じ顔。
★「神さま、いのちを、ありがとう。ああ、きょうも、晴れ晴れと、生かされました」。CPAPを鼻の穴に差し込み、呼吸し、いのちを託して眠ります。

2019年11月15日金曜日

3人の女性たちの訪問。一緒に食べて、語って、喜んで、疲れた

絵手紙教室があった。早くも、年賀ハガキの原画を描いた。今年も、ツバキの花にした。
★教室が終わると、長崎市から、女性の3人が会いに来た。昼食は、小長井町の「おおはし」へ行った。皆が、ヒラスの定食を注文した。この辺は、「竹崎がに」が有名なので、1匹、試食した。皆で分け合って食べ、会話がはずんだ。食後、ホームの自室で、2時半頃まで、楽しく語り合った。
★右の写真で紹介しよう。左側が、千草さん。1人おいて右側が、運転の蓉子さん。2人は時々、来ている。真ん中が、初めてホームに来られたが、お世話になっている小夜子さん。
★会話の中で、私が問うた。「いま、考えていること、大切な事って、なんですか?」
★『千草さん』さまよい歩く人間になっても、1袋のパンが与えられば、それでよい。主を信じて、生きて行きたい。母が96歳になり、ホームで生活している。
★『小夜子さん』私の母は、99歳。自宅にいる。信仰とは、父母を大事にする、基本と思います。天主の十戒にも、1から3までは神さまの事。4から10までが人間に対しての事。真っ先に来る4が、父母を敬え、の掟です。これが原点。親を大事にしないと、人を大切に出来ない。それと「赦し」の難しさを感じます。許されない事が多い。祈っているうちに、時が経つのを待っている。癒されて、考えが変わるのではないか、そう願っています。
★『蓉子さん』今まで生かされて、多くの出会いを戴いた。これが一番の宝です。「一期一会」ですね。出会った人に、宣教をしたい、望みがあります。
★話を聞いていると、小夜子さんの長男さんの小学3、4年生の担任が、蓉子先生だった、と分かって、これも「つながり」を感じた。

2019年11月14日木曜日

女子高校生たちへの「語りべ」。無事に、お役目、果たした

女子高校生たちへの話は、無事に終わりました。熱心に、目を、しっかり修道士の方へむけて、聞いてくれました。約40分、修道士は立ったまま、語りべを勤めました。
★この女子高校には、1991年から語っている。30年近くの歴史がある。修道士にとっては、特別の学校です。女子高校生たちは、夏休みの宿題に、自著「十七歳の夏」を読んでいる。修道士さんに会うのが楽しみです、と先生が言った。修道士も同じです。長崎入りして、真っ先に訪れたのが、聖母の騎士でした。
★修道士の話は、きまっている。原爆の日の朝、お母さんとの別れから始まる。原爆の体験から、コルベ神父の生き方、死に方に入る。しかし、この度は、ポーランドで聞いた、コルベ神父のお母さんの話を加えた。お母さんは聖母マリアへの信心が篤く、仕事は、観想シスターたちの修道院で、受付や外交係を務めていた。お母さんを知っているシスターたちが証言した。ある日、お母さんは町に出た時、不具合になり、道で倒れた。ちょうど後方から2人の看護師が歩いていた。看護師の1人はシスター修道院へ通報、1人が看護した。石段にお母さんを座らせた。
★するとお母さんが突然、立ち上がって、「息子よ」と叫んで、息絶えた。シスターに案内されて、コルベ神父のお母さんのお墓にお参りをした。その時、私は思ったのです。私のお母さんは、どんなにして死んだのか。「息子よ」と言ってくれたのか。話に、しばらく沈黙がつづいた。
★語りべの後、女子高校生たちは、「ハレルヤ」と「愛」を荘厳に歌った。その歌声に感動した。
★きょうは、外海へ行くそうです。天気は、秋の晴天です。遠藤周作文学館からの海の眺めが素晴らしいでしょう。意義ある「校外学習」の成果を願っています。
★今朝、ミサの後で、信徒が私に声をかけた。「はなし、どうでした?」「ああ、よかったよ」「そうでしょう、今朝の足取りが、違うよ」

2019年11月13日水曜日

いよいよ今日が出番。「立ち上がって、行きなさい」。助けがある

絵は、山頭信子・作「原爆少年が見つけた平和の星」(1997年)より。長崎・原爆の日の朝の思い出です。
★今朝のミサの福音に、「立ち上がって、行きなさい」(ルカ17-19)の1節があった。
★朝から、高原修道士さんの運転で、長崎・聖母の騎士へ出かけます。昼ごろ、女子高校生たち、180人が、到着します。女子高校生たちに向かって、語りべを勤めます。帰りは、夕方になるでしょう。
★高校生への話は、先ず、母親との別れ。聖母の騎士へ入ったこと。コルベ神父の生き方、死に方。出会いと、お礼を求めない愛。イノチの大切さ、平和のこころ、などを語ります。「立ち上がって、行きなさい」。胸に抱いて、出かけます。
★先日、励ましの手紙が届きました。これを紹介しましょう。
★「登明さん、文化祭の絵手紙の賞、おまでとうございます。流れにまかせる『ささ舟』、時には岩もある。トマさんは主と共に受け入れているから、流れにまかせているから、原爆の後、今日まで歩いて来たのでしょうね。
★そうでない日もあったかも知れないですが、トマさんを、主の愛がいつも包んでくださっていたのだと思います。
★生意気を許して下さるのなら、それはトマさんのお母さんが信仰を通して届けてくださった主の愛なのだと私は思います。
★十七歳のトマさんが、原爆の後、聖母の騎士を訪れた話に、私はいつも胸が一杯になります。私も自分の十字架を放り出すことなく、流れにまかせて歩いて行けたらと思います。
★30年間も続けて来られた、女子校への講話、これからも続けるお恵みを主が与えてくださいますように、祈っています」
★きょうの一日、導きと、お恵みがありますように。

2019年11月12日火曜日

あしたは「語りべ」の務めなのに、まさかの血たん。診察へ

月曜日、昨夜、ホームの自室から見た満月です。
★水曜日には、長崎市・聖母の騎士で、神奈川県の女子高校生たち、校外学習の180人に、語りべの務めがある。配布するカードや、心の準備もして来ました。
★今日、火曜日。朝、ミサの祈りの中で、タンが出そうになったので、チッシュに取ると、真っ赤に血で染まり、カタマリもあった。「え?これは、なんだ?」。オドロキがあった。自室に帰って、デジカメで撮った。その写真もあるのですが、日記には載せられない。ショックです。「なんで、血が出るの?あしたは、語りべ、だよ」
★高原修道士さんに、ミサ後にお願いして、長崎市の「かかりつけの耳鼻科」へ診察に行った。正常に、声が出ないので、去年の11月、今年の5月、8月と、咽喉カメラで診察をしてもらっている。「血が出ました」とチッシュを見せて、カメラで診察を受けた。
★ガンの様子は見当たらない。五百円玉ぐらいに赤みがかった筋肉がある。「そこからの出血か。大丈夫でしょう。もし、また何度も出血するなら、検査が必要でしょう」の診断だった。一応、安心はして、午後2時にホームへ帰った。
★あしたは、女子高校生に語りべを頑張ります。

2019年11月11日月曜日

五島の「岳踊り」。NHK長崎テレビで2年前に放送。再放送と連絡

これは、2年前に、NHK長崎が、ホームに取材に来た時の写真です。長崎県の五島の三井楽に伝わる「岳(たけ)踊り」の由来について語りました。
★私が、45年ほど前に、雑誌に書いた記事「岳踊り」が、よくぞ、NHKのディレクターの目に留まりました。その取材の熱心さに感心しました。福江島・三井楽教会の「岳踊り」は2017年10月にテレビで放映された。
★突然、NHK長崎テレビから電話がありました。「来る11月15日に、あの番組を再放送します」というのです。おそらく、教皇さまの来・長崎に合わせて、再放送されるのでしょう。再び、テレビで紹介されるのは、ありがたい事です。やっぱり、むかし書いた老人の記事は、今でも、お役に立ちます。
★「岳踊り」は、長い棒を、叩き合わせながら踊る、喜びの踊りです。
★現在も「岳踊り」は行なわれていますが、私は1972年に、既に、教会の信徒から証言を聞いていた。
★外海のキリシタンたちは、迫害を避けて、五島へ、五島へと難をのがれた。だが五島でも迫害の嵐は起こった。島の各地に、殉教の血と、汗を流した足跡が残っている。
★三井楽町岳(たけ)にも、牢屋の跡がある。ここでは『三十六人衆』と呼ばれる信徒たちが、刀とムチの責苦を受けた。迫害が終わった後、信徒たちが、カタナ責めや、ムチ責めを払いのけるために始まったのが、この踊りです。そう私に教えてくれたのは、当時、信徒の長老で、同町教育委員でもあった男性(59歳)でした。
★信徒の女性は、こうも言った。「以前は、男と女と混じって踊っていたが、男が減って、いまは女ばかりの持ち役となりました」
★踊りは、鉢巻姿のいでたちで、まことに、りりしい。はかま姿の男役が竹を2本、女は1本持って、自由になった喜びを、敏しょうな踊りに託しながら、竹を前後で打ちあい、厄を払いのけるのです。
★主任神父さんの言葉もあった。「信者だけの踊りとしては長崎でも唯一のものです。踊りを通して先祖の苦悩をしのび、その信仰にならうことができます。これからも育て伝えていきたいですね」
★NHK長崎で、2年ぶりに再放送されるという。テレビでは、私のコメントも入っている。「踊りを見て、もう1つ、思いつきました。踊り手が手にしている『紅白』の棒です。それは信仰が自由になった喜びと、その人(迫害した人たち)を憎むとか、そんなことではなくて、自由になった喜びを感じます」
★45年前に取材し、写真を撮った時、五島には、こんな屋根の家の風景もあった。今も、あるだろうか。あの頃の思い出が、懐かしい。

2019年11月10日日曜日

台湾人の女性・許さんが来る。巡礼者のガイド。ゆっくり話す

これは、大阪市の台湾女性・許書寧(きょ・しゅ・にん)さんが、「カトリック週刊誌・こじか」に連載している「愛に生きたコルベ神父」の物語の絵です。第14話で、題は「ライモンド、チュウシャ大きらい」です。
★ライモンドとは、コルベ神父の本名です。「イエスの十字架と共に苦しむ病人は、修道院の宝です。一番の働き者です」と修道院で病む病人の修道者を大切にしました。コルベ神父自身も病人であり、苦しみました。しかしライモンド=コルベは、注射が大きらいでした。そのことを、許さんは、文と絵で描いています。週刊誌の物語は、第20話までつづくそうです。
★きょう、その許さんが、ホームの自室に訪ねて来ました。「やあ、ひさしぶり」と迎えました。台湾から司祭が同行の22人の巡礼団が来た。台湾語で、巡礼団を案内して、無事に終わりました、と明るい顔をしていた。
★「どこを回ったの?」。平戸、紐差(ミサ)、生月、田平(ミサ)、長崎市内、日本二十六聖人(ミサ)、聖母の騎士(ミサ)、黒崎(ミサ)、島原、雲仙(ミサ)。6泊7日。この日程を見れば、巡礼地が分かる。この度の巡礼団は、カトリック13人、プロテスタント6人、その他が3人、各地で熱心にロザリオを唱えたそうです。
★許さんは言った。「二十六聖人は、京都を出たとき、各地の人でした。しかし長崎に着いたとき、みな、心は一つになった。私たちの今度の巡礼も、雲仙の湯けむり立つ地獄の殉教地で、十字架を囲んで、みなでロザリオを唱えたとき、カトリックでない人の口も、同じように動いていました。それ見て、ナミダが出た、心は一つになった、強い感動を覚えました」。こころ、なごむ話でした。
★許書寧さんは、午前10時頃、自室に来て、昼食にホームのチキン・カレーを食べて、ゆっくり時間を過ごして、午後2時頃帰った。
★週刊誌「こじか」に載せた「コルベ神父の物語」を置いて行った。注射に弱かったコルベ神父、最後は、注射で殺されて殉教した。神さまの導きは、わからない。

2019年11月9日土曜日

四人部屋に入院中、様々な家族の声が聞こえる。オレは一人だ

入院中の朝の食事です。「諫早牛乳」が出ていました。懐かしい「諫早(いさはや)牛乳」です。
★もう三十年ほど前になる。椿原の(施設)小・中学校に勤めていた頃、後援会があり、学校の行事(入学式や卒業式、運動会など)を盛り上げて下さっていたのが、諫早牛乳の奥さんでした。児童を引率して、工場の見学もした。食卓に一個の牛乳を見ると、ここにも縁があるのを感じた。後援会の仲間には、医院の奥さん、住職の奥さんなどが居た。
★この度、入院したのは、四人部屋でした。私以外の三人には、それぞれ奥さんが居り、娘さんもいる。常に親しく語り合う声を聞きました。だが、オレは、一人だよ。やっぱり感じるね。
★原爆で死んだ母親を思い出した。母は、教えた。「人の痛みは、三年でも、こらえる」。(お前は、他人を頼りにするな。孤独でも、強く生きなさい)。そういう意味だろうと、母の気持ちを解釈する。兄弟を産んでいない。一人っ子だからね。
★その母親の苦労も、オレが十七歳のとき、消えた。それまで重篤の病気をして、たくさん、母親に心配をかけたな。スマンよ、母ちゃん。
★オレは一人で、生きている。目には見えない御者を信じて、呼吸している。
★退院して、ホームに帰ると、最初に、瀧神父さんから言われた。「トマよ、いい顔しているよ。明るい顔だよ」

2019年11月8日金曜日

昨夜の男子看護師の話。きょう無事に退院。ホームのメシがウマか

主治医の先生は、病院の副院長でもある。先生は現場の医療と、その他のお仕事でご多忙です。朝は一番早く医局に来られ、夜おそくまで医局に来て、必ずベッドへ来られる。これまで、5時、6時、遅くても7時だったが、昨夜は夜8時にベッドへお出でになった。「あした、退院しても、いいでしょう。次の予約の診療日を決めておきましょう」と許可が出る。
★すぐ携帯で、ホーム・湯江修道院の濱田院長神父さんに連絡する。「あした午前中に退院です、お迎えよろしくお願いします」
★夜の8時半ころ、男子の看護師さんが、検温、血圧を測りに、ベッドへ来た。電子カルテの台車を押してくる。私は、起き上がって、彼を見た。看護師さんは、電子カルテから目を私にむけるや、「え?お歳は、91なんですか」「そうだよ」「私なら、その歳になったら、きっと、もうボロボロですよ」「ナンて事を、言うんだい。アンタの世代には、95歳、100歳まで生きるよ。でも、ね」と、ここで語気を強めて言った。「長生きすれば、その分、苦しみが増える」。男子看護師さんは明るい笑いを残しながら去った。
★今朝、又その男子看護師が、台車を押しながら、検温、血圧を測りにきた。そこで、私は待っていましたとばかり、「きのう、アンタが、私を見て、若いね、と言ったね。どうして、そう言うた、と?」。すると彼が答えた。「パッと見て、元気があるな、輝いているな、そう感じたんですよ」「そう、だったのか。ア、ハ、ハ、」と、つい嬉しくなった。
★その彼が、また後で、「退院支援計画書」を持って来た。細かい字で沢山な事が書いてある。「そのまま、読めるんですか?」と又、おどろく。「サインしてください」「きれいな字を書きますね」。この男子看護師は、91歳を誉めて、誉めまくった。
★9時半ころ、濱田院長神父さんと高原修道士さんが迎えに来た。
★3日しか経っていないのに、田舎みちを走る車からの、秋の薄い青空が広がりは新鮮に感じた。あの山々が、フトコロに入る気持ちだった。
★ホームに無事に帰る。誰からも、「おかえり」「お帰りなさい」と笑顔で迎えられた。ホームの昼食に間に合った。「ああ、やっぱり、ホームが、いいね」「ホームのメシが、ウマか、ばい」

2019年11月7日木曜日

入院2日目。手術は無事に終わる。順調。祈りに感謝。

ホームを出かける時に「ションボリ、している」と声を掛けられたが、きょうは、何とか乗り切りました。
★手術は無事に終わる。明るい気持ちになりました。高原修道士が付き添いました。
★4人部屋の天井を見つめながら思います。「つなげるイノチ。ふしぎなイノチ」
★皆さんのお祈りに感謝します。ありがとう。

2019年11月6日水曜日

きょう、入院します。手順は決まっている。お祈りください

今朝のミサの福音。「自分の十字架を背負って、わたしに付いて来なければ、わたしの弟子になりえない」。グサッと、胸に突き刺さりました。
★きょう、諫早総合病院へ入院します。
★9時30分、高原修道士さんの運転で、出かけます。車で約25分。10時から受付が始まる。
★病棟は、もう何度も入院しているから、事情は分かる。今日の手順も分かる。大部屋だそうです。
★病院衣に着替えて、点滴が始まる。午後3時過ぎに、主治医の先生から呼ばれる。車椅子で、泌尿器科・外来の処置室へ。4時頃から麻酔、手術、ステント交換が行なわれる。順調に交換が出来るように願っています。両手、両足を伸ばして、十字架に付けられた体形です。「弟子に、ならせて、ください」
★帰りは、ベッド車です。自室のベッドに「よっ、こらしょ」と抱えられて移される。それから第二の苦難が始まる。安静が、2時間つづく。悪寒に襲われ、苦しむ。寒い。寒い。これを耐え抜く。
★2時間が経ったら、起きて、夕食。点滴が終わるのが、夜の10時頃になる。やっと解放される。お祈りください。見守ってください。また元気を取り戻します。生かされている限りは、生きる意味がある。気力と、希望は、捨てません。