2011年12月10日土曜日

十字架は苦しみのシルシ。主よ、付いて行けない

修道士さんの部屋に、机の上に、十字架が置かれていた。十字架にはキリストさまが苦しみを受けている姿がある。その修道士さんの十字架は、いつも裏返しだった。苦しむキリストのご像は見えなかった。「なぜ、そんなに反対にするの?」と聞くと、修道士は答えた。「主の苦しみに寄り添いたい。その願いはあるけど、まだまだワタシは弱い。苦しみが来るのが,不安になる。子どもは親の背中を見て、育つという。今の私は主の背中を見て、少しでも御跡に従いたいと願っている」と、その修道士は答えた。それから10年が経過して、修道士の部屋を訪ねると、十字架は真っ直ぐ置かれていた。「主よ、ワタシにも御身の十字架の苦しみに添わせて下さい。弱い私ですが、主の御チカラで強めてください」。そう願っていた。それから何10年がたって、その修道士は神に召された。・・・・この話を、昨日、阿野修道士さんの葬儀のときに、元・寮生で、神学生だった木場田友次さんが弔辞で読み上げたのだった。今朝、私は、木場田さんに電話をかけた。「昨日の弔辞はありがとうね。よかったよ」。そして思った。信仰者の生活の中には、このような「こぼれ話」というか、時折、土着した信仰の表現がポロリと出てくることがある。「ツミのツグナイ」とか、「降誕祭に向けて、わるい習慣を改めよう」など。これこそ信心の甘味さだと思うのです。「パパさまが来られたとき、ツミが許された」も、その一言。それらの小話を大事にちていきたいと思うのです。