2019年4月7日日曜日

踏んだらワルイ。罪の意識あり。踏んで平気、キリシタンじゃない

日曜日。ミサで祈る。ホームの瀧神父さんが司式するミサだった。福音は、罪を犯した女性が大衆の前に引き出され、モーゼの掟によれば、石殺しの刑になるという場面。イエスは答えた。「罪なき者から、石を投げよ」。老人から次々にその場を去っていった。後に、イエスと女性が残された。瀧神父さんはお説教で、「ゆるしの秘跡」について、やさしく説いた。
★聞きながら、祈りながら、修道士とて過去を思うとき、完全ではない。良心に背く行ないが、度々あった。本当に落度が多かった。ダメなオレだった、そう、まぎれもなく認める。だから、その都度、告白もしてきた。長い人生、沈みながらも、倒れながらも、何とか、これまで勤めてやってこれた。人間は本当に弱い存在です。よく分かります。石は、とても投げられません。
★踏んだら、ワルイ。罪の意識がある。踏んで平気なら、キリシタンじゃ、ない。罪の意識が、有るか、無しか。これが大事です。意識は有りました。それでも、また踏んでしまう。そこで昔は「コンチリサン(痛悔の祈り)」を唱える。今は正直に、告白(ゆりしの秘跡)をする。恥ずかしい、隠したい罪でも、正確に打ち明ける。そして、もう再び犯さないと決心します。踏みたくありません。イヤですと、ハッキリ拒否する。
★ところが最近、老いてきて、過去を振り返るとき、良心に背く行ないを成したことを、1つの人生の経験だったと思い込み、単純に、ああ、ダメだったとは、スパッとは思えないんですね。それ考えると、人間って、ホントに、ワカラン存在です。複雑やな、と思います。人生に、そういう体験があって、よかったと、心の隠れた所で思うんですね。これは、どういう心境のネジレですか。歳をとって、悩みます。真の痛悔がなされていなかったのか、って。
★ハッキリ、わるかった。申し訳なかった。認めなさい。降参しなさい。首、かしげるの?そのとき、罪の意識があって、ごめんなさい、と述べて、何年、年十年経っても、あれは悪かったと認めなければ、ホントウじゃ、ない。むずかしい。人間って、最後まで分からない。

1 件のコメント:

  1. 神さまの眼差しは、罪の有る無しに関係ないように勝手に思っています。信仰を手離し
    神様の愛を信じない事が一番の罪だと思ってます

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