2018年7月8日日曜日

突然アメリカ人たちがホーム訪問。原爆の話を聞く

男子の職員が自室に来て言った。「いまアメリカ人たちが10人ほどホームに来ていて、廻っているが、原爆の話を聞きたいと言っている。出来ますか?」。即答した。「ああ、出来るよ」「時間は余りないそうです。5分、10分」「それでも、いいよ。行きますから」
★修道服に着替えて、食堂へ行った。先ず目に付いたのが、写真の私の後ろに居るコンベンツアル修道服を着た神父さんだった。「ああ、うちの会じゃないか」。修道服を見ると、一緒なんだ、と嬉しいね。写真、右側に修道院の浜田神父さんも案内役で居る。その隣は、本修道会の二コラス神父さん(愛知県瀬戸教会の主任)。「なんーだ」「「車椅子で来るかと思った」。中央の、青いシマの入ったシャツを着た若者が「原爆の話を聞きたい」と言う。「90だ」というと、「おー、おー」の声が上がった。訪ねてくれるのは有り難い。
★10分位で話せ、そりゃムリだよ。お決まりの話を語った。通訳は日本人の女性。家は爆心地から500m。家も母も吹っ飛んで、母の遺体も捜せない。こんな話を聞くと誰でも悲しいよ。私は17歳。家から歩いて30分のトンネル工場で働いていた。質問「被爆の瞬間、トンネル内はどうなったか?」。18日間、原爆の丘で暮らした。
★浦上天主堂が一瞬に崩壊。何日も燃え続けた。毎晩、燃える火を見て泣いた。これだけは強調したかった。私は念を押したよ。「原爆は2度と使用してはならない。今の核兵器は何十倍、何百倍に威力を発揮する。大きな被害が生じる。平和であることを望む」。幾つかの質問もあった。「トンネル工場で何を造っていたのか」「真珠湾攻撃で使った爆弾(魚雷)を造っていた」「なぜ修道会へ入ったのか」。母に導かれて聖母の騎士のルルドへ。戦争が終わって、直ぐに入った。「あなたの健康は大丈夫か」「ガンにも、なったよ」「どこのガンか」「そんなこと、言えないよ」
★彼らは、他の国からアメリカへ帰る途中に、3泊だけ長崎へ寄った。聖母の騎士修道院を訪ねて、ここへ来た。次に小長井の施設を訪ねる予定と言う。青いシマのシャツ男に聞いた。「あなたの職業は何か」「政府の仕事をしていたがー」と答えた。
★突然の訪問者たちだが、ホームに居れば、どんな人でも好意をもって歓迎する。何事も、体験を伝えるのは老人の仕事と考えて、快く応じている。また、イラッシャイ。