2018年7月20日金曜日

定期診察で長崎へ。天主堂の坂に、立て看板。絶句す

長崎の定期・診察のクリニック玄関です。行く日は、どうも気が重い。朝食は修道院でお世話になる。焼いたパン1枚、上にチーズ。牛乳。決まっているが、今朝は大きな桃1個、それに「トコロテン」があった。おなかが満腹になる。90歳の腹には、こたえるよ。8時5分に出発する。高原修道士は車を走らせる。
★1時間と少々でクリニックに着いた。待つ患者は、2、3人。少ない。「しめた」と思う。早々と名前を呼ばれた。高原修道士も呼ばれた。10時には終わる。ホッと、する。このクリニックには毎月、もう十何年も通っている。酷暑だし、最近は早くホームに帰りたい。
★車が、浦上天主堂を通る時、天主堂の登り坂に、立て看板が見えた。(あ?誰かの葬儀かな?)。素早く見ると、「佐藤神父」の字が瞬時に読めた。(え?あの佐藤神父さま?)。ホームに帰ったのは、昼食にまだ十分な時間があった。新聞の「おくやみ欄」を見ると、「佐藤哲夫さん、92」とあった。佐藤神父さまが亡くなった。私は、よく知っている。原爆のとき、同じトンネル工場で働いていた。
★佐藤神父さまの家は、私の家より、爆心地に近い場所にあった。佐藤神父さまも、私も、被爆直後、燃えさかる家に帰っている。戦後、姉か、妹が、北海道のトラピスチン修道女院に入ると言う事で、同行した佐藤神父さまも北海道のトラピスト修道院へ入会した。その後、司祭になったが、原爆症になり、聖書を読みながら、鼻から血が流れ落ちていた。苦労されたそうだ。長崎教区の司祭になられた、話を聞いていた。
★話が、とても面白い神父さまだった。度々お会いして、原爆の話をお互いに語り合った。佐藤神父さまは原爆症で苦労されたが、私は大した症状もなく、この歳まで生きた。佐藤神父さまが、2つ年上だった。被爆のときは19歳。私は17歳。同じ工場の仲間として、神に召された佐藤哲夫神父さまの安息を祈ります。