2016年4月18日月曜日

神さまのために生きるんだ。人は、これしか、ない

北海道から、一枚の絵ハガキが届いた。長年の親友・男性からだった。人生のなかで、特に若い頃、出会った人が、生涯忘れられぬ人になる。昨年、腹部に病気がみつかり、手術も、クスリも受けない。自然のまま生きる、と伝えてきた。あれから、どうなったのか。心配していた。夫妻で、ケアハウスで生活している。
★そこへ届いたハガキ。文面に、人生の覚悟が記されていた。「永らくご無沙汰した。愚生、昨夏より、身の自由も無くなった。今迄、永年の数々のご交誼を感謝申し上げます。何より、日本二十六聖人の映画巡回が、一番印象に残っている。どうも有難う。いづれ天国で会いしましょう」。心の痛む便りだった。彼とは、同年代で、経歴もよく知っている。
★ハガキの裏を返すと、濃い青色の深い森に、白いススキが「サー」「サーッ」と揺れている。手前には、金色のススキ。ジーッと絵を見ていると、彼の心境を表現しているように思えた。おそらく私にとって、この絵ハガキの風景は、生涯忘れぬものになるだろう。
★彼は、戦後、混乱のなかに生きた。これまでの価値観はくずれ、「何のために自分は生きているのか、わからなくなった」。悩み抜いた彼は、配給米をリュックにつめ、北海道を出て、日本列島をタテに混乱の鈍行列車の旅をつづけた。4、5日かけて、着いた所が、長崎だった。
★仰げば、大浦天主堂の十字架が目に飛び込んでくる。司祭館を訪ね、司祭に問うた。中島神父は親切に応対し、言った。「あります。神さまのために生きるんですよ」と励ました。この中島神父の一言が、彼の人生の土台となる。中島神父から、当時、ゼノ修道士たちが立ち上げた戦災孤児の施設を紹介される。ここで暮らし、要理を学び、洗礼を受け、3年間の期間を施設で働いた。その後、すんなりと聖母の騎士修道院へ入った。
★私と知り合ったのは、その頃だった。私は結核の病気で苦しんでいた。彼と共に、生活したこともある。彼は志願期、修練期、3年間の誓願期を過ごす中で、養護施設での過労の仕事で、すっかり体調を壊してしまっていた。
★有期誓願を更新する区切りがきたとき、意を決して、故郷の北海道へ帰ろう。戻ったとき、8年の歳月が流れていた。故郷へ帰っても、長崎で得た信仰を忘れなかった。会社員をしながら、教会のためにも熱心に尽力した。
★その後、私も北海道の彼の自宅も度々訪ね、日本二十六聖人の巡回映画会では、各地を案内してくれたのは、親友の彼だった。その彼が、いま苦境に立たされている。
★ハガキが届いた夜、早速、彼に電話をかけた。なつかしい声に違いはなかった。「この2週間、何にも食べていないんだよ。空気を吸って、冷蔵庫の四角い氷をなめて、生きている。栄養剤も一切使わない。痛みが全く無いのが幸いだ」と言った。どのように慰めていいのか、励ましていいのか。ただ、長々と話し込んだ。最後に、「写真を、送ってくれよ」と頼んだ。
★彼は言った。「長崎で覚えた『ベニクレアトル・スピリツス(聖霊、来たり給え)』、忘れないんだよ。歌ってくれよ」