「あなたは、ガンです。半年のいのちです」とお医者さんから言われたら、これはショックです。あと半年経てば、もう自分という存在は無くなってしまう。人生は終わってしまう。誰もが死にたくない。恐怖が全身を襲うだろう。人間は所詮、死ぬ存在だが、年期を告げられると耐え切れない。このガン患者の救いはどこにあるのか。伊藤武子さんが、お医者さんからガンを告げられたとき、教会の親友の武田佳代子さんに直ぐ電話をかけてきたという。「やっぱり、ガンだったのよ」。電話の奥で、なき声が聞こえた。2年前の桜が咲く頃、伊藤武子さんは武田さんと聖コルベ館へ巡礼に来た。そのとき伊藤さんは私に、「日本26聖人のDVDを下さい」と願った。私は「個人には差し上げていません」と言いつつも、その熱意に負けて、お渡しした。伊藤さんは長崎巡礼を楽しみにしていたが、昨年は、3・11の大震災のため中止。あと1年、待とう。それが今年だったが、伊藤武子さんは神に召された。伊藤さんは日本26聖人の映画を観たであろうか。それにしても本当に悲しい。もしも私たち自身が病み、ガンで、あと半年のいのちですと言われたら、安らぎ、救いはどこに有るのか。信仰が、有るか、無いかで、希望が大きく別れるだろう。伊藤武子さんは「わたし、必ず、復活するから」「死ぬのは、いっとき。だから大丈夫」と言って亡くなった。神さまの元へ帰ります。今まで神に祈り、あこがれ、罪を悔やみ、つながってきた。いま神の愛と永遠のいのちに戻ります。希望がある。現実を受け入れるというよりも、未来を見詰める。だから私たちの信仰は、苦しみや病気の悲しみにも意味がある。それを実例をもって教えてくれる所が長崎だった。
5月19日のところに、武子さんのお知り合いの方からのコメントを発見しました。
返信削除その方は去年、修道士さんに、病気の武子さんを力づける言葉を書き送って下さい、と頼んだそうです。
それを見て、ピンときました。
去年の騎士誌12月号に、病人を慰める言葉を依頼されたという、記事がありましたから。
修道士さんは、ご自身の経験から、病人を慰める言葉は、そう甘くない、細心の注意が必要、病人の心を傷つけては大変と、何日か苦しんだ末、次の言葉を送られたそうですね。
「苦しみは、神の喜びに変わる。神は沈黙していない。あなたのそばに、イエスが居られる。」
苦しい時、なぜ自分だけが、なぜウチの子だけが、と思ってしまったら、よけい苦しくなるだけです。
未来に希望をつなげる信仰があるかないかで、大きく違ってきます。
その信仰を深めるためには、日々聖コルベ館でみられるよう
な「出会い」と「つながり」が必要なのだと、あらためて思いました。
私も「長崎に行く」のを日々の励みにして暮らしています。
返信削除ご冥福をお祈り致します。