2019年12月1日日曜日

ローマン修道士、ホームで逝きて5年。100歳の修道人生だった

1983年夏、ポーランド人ローマン修道士さんと一緒に、ポーランドを旅行した時の、スナップです。ポーランドの少年・少女と写した。
★過ぎ去った11月24日は、ローマンさんの命日だった。私がホームに入所して、1か月が経っていた。ローマンさんはホームに5年程、お世話になっていた。何回か、見舞いに行ったが、職員さんから本当に好意の介護を受けていた。
★夕方の5時過ぎ、ローマン修道士さんが、ポーランドから着てきたチョッキ、温かい毛を足元にかけた時、神に召された。100歳だった。長崎に来たのは昭和9年、20歳。80年、日本で働いた。どれほどの足跡を残したのか、神さましか分からない。
★私が初めてローマンさんに会ったのは、昭和18年、戦争中だった。母親から、聖母の騎士に連れて行かれ、ポーランド人修道士と仲良くなって、修道院の中まで入れてもらった。院内の仕事をするようになる。与えられた仕事が、ローマンさんのご像造りの作業だった。その時、私は15歳。白い石膏のご像を懸命に磨いた。
★逝去は「長崎新聞」にも載った。「アウシュヴィッツ強制収容所で、男性の身代わりとなり殺されたコルベ神父が長崎滞在中、一緒に生活し、活動を手助けした。太平洋戦争が始まる前、在日ポーランド大使館一行が長崎から帰国する際、「平和な時代が来るまで、守って」と国旗を託され、99年に返却した。戦時中は、他の外国人と熊本県阿蘇に抑留された。戦後は、ゼノ修道士らと原爆・戦争孤児を親身になって世話をした」
★私はローマンさんに通訳を頼んで、ポーランドを旅行した思い出もある。その時、ガヨビニチェックさんにも出会って、証言を録音して今も残している。

5 件のコメント:

  1. 本当に、大切な人が、神様の所に召されても、どうしても、忘れる事は難しいですね。私の母も、神様の所にいってから、早くも9ヶ月が来ようとしていますが、涙が、出てしまいます。母は、ホームに、1ヶ月半位、お世話になりました。ホームの皆様が、毎日を、穏やかに、過ごせるように、お祈りしています。

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    1. 両親に、死に別れるのが、いちばん、ツライです。長崎の修道士が、お母さんのご冥福をお祈りします。

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  2. ローマン修道士様は20歳の若さで熱い思いを抱いて来日されたのですね。
    ポーランド大使館から「平和な時代が来るまで」と国旗を託されたこと、
    戦争孤児の御世話のことなど、修道士様一人一人に世間には知られていない逸話があることを
    心にとどめました。
    トマさんがホームのローマン修道士様のお見舞いに行かれた記事を記憶しています。

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    1. Unknownさまのお母さまのご冥福をお祈りいたします。
      母を喪うことは辛く淋しいことですね。
      何年たっても泣いていいと思います。
      飛び入りで返信してしまいました。失礼しました。

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    2. ローマンさんは、美を愛し、庭を愛で、聖母の騎士のルルドもローマンさんが監督をつとめました。言葉、少なく、チーズが大好きでした。

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