2019年12月8日日曜日

従弟修道士の命日。人の一生、子供に愛を、アシジの人に親しみを

昨日は、私の従弟の、ユスチノ田川幸雄修道士の命日でした。逝って、15年になる。享年73。
★人生って、何をもって幸せというのか。能力を使って、成功し、子や孫に包まれて終末を迎えるのが、幸せなのか。ホームに居て、老人たちの背中をみて、よく考える。生まれた赤子の未来は誰にも分からない。
★キリシタンの貧しい村で生まれて、子供の頃から教会へ行くのを好んだ。ミサで、司祭への奉仕をする。当時はラテン語で司祭に答えていた。誇りもあった。隣の少年は小学校を終えると、神学校へ行くという。じゃあ自分も行きたいと、彼の心に浮かんだのが、従弟の人生を決めた。
★聖母の騎士に入学する。司祭を目指して東京で、哲学・神学を学んでいたが、腰の痛む病気になって、学問を中断する。修道士の道に進んだ。元気を取り戻した彼は、養護施設の指導員を20年近く務めた。ここでは家族を離れた子供たちの親代わりとなる。修道士が面倒をみる。「ユスチノさん」「ユスチノさん」と、皆から慕われた。写真はその頃の一枚です。彼は、優しい性格から、子供たちに人気があった。施設の園長をも勤めている。
★貧しい村で生まれた彼が、今は、大勢の子供たちに囲まれて、子供たちの世話をしながら、生き甲斐を見つける。彼は満足であったろう。この道が使命だと感じただろう。だが時代や、家族の変改には逆らえない。施設の子供たちの抱える問題も、特殊化し多様化してくる。「むかつく」とか「切れる」という心境の時代になった。指導する苦労も並大抵な心労ではなかったろう。彼の純朴な人生は、これで終わるのか。
★次に与えられた環境は、全く変わって、イタリア・アシジの聖フランシスコ大修道院の担当になる。ユスチノさんは、元もと、話しが大好き。大げさな表現で、人の心を捕らえるのがウマイ。彼の、大聖堂の説明役は全くの好評であった。涙を流して聞き入る女性も居た。1年目は、1万4千人の日本人旅行者が、6年目には、6万人に達した。写真は大修道院の回廊で写した。
★彼が、アシジ赴任中に、私は巡礼団を組んで、訪問したことがある。また単独で、2週間ほど、アシジに生活した。ユスチノさんのお世話になった。修道院の最高の客室に泊めてもらった。
★日本に帰って、東京の修道院に住んでいたが、病気になって、神に召された。これが1修道士の人生だった。沢山の人に出会った。愛した。奉仕した。自分を捧げた。それだけでユスチノは十分な人生ではなかったか。
★私は、東京で葬儀に参列した。ホームレスの男性が、お世話になりましたと、焼香に来ていた。愛は貧しい人にも届いていたのだ。私は悲しみながら、ユスチノ修道士・従弟の遺骨を抱いて、長崎へ帰った。長崎の私たちの修道会の墓地・納骨堂へ納めた。あれから15年が経ったのか。一緒に、修道士の道を歩いていたのに、彼は、はぐれて消えた。寂しさを覚える。東京で、彼が暮らしていた修道院の彼の部屋に入ったとき、タンスには、衣類、ハンカチ、タオル、下着類が、きちんと、一寸の違いもなく整理されていた。あの印象は、「さすが、ユスチノ」と、うなり声をあげた。彼の性格をあらわしている。
★ホームに居て彼を偲ぶとき、思う。人の幸せとは、一生とは、何なのか。貧しい村で生まれたが、少年ながらも神への憧れがあったばかりに、修道士となり、施設の子供たちの親代わりとなる。神が、彼に与えた道だったのか。
★晩年は、アシジで暮らしたが、アシジの街では、気安く住民たちに声をかけ、イタリア語で呼びかけ、抜群の人気があった。彼の人生には、困難に向かう勇気もあれば、イタリアでの慰めもあった。生きるということは、浮き沈みの振幅なのです。まだ生きている自分の、これから先、最後の筆を置くときは、いつなのか。

2 件のコメント:

  1. マリア・フランチェスカ2019年12月8日 16:17

    ユスチノ修道士様は
    神様から小崎さんと共通の賜物を頂いていたように感じます。
    今夜はユスチノ田川幸雄修道士様の為に祈らせて頂きます。

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  2. ユスチノ田川修道士のためのお祈りに感謝します。

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