2018年1月4日木曜日

白浜さんが来る。浦上四番崩れの話を語り合った

正月休みに、長崎の白浜さんが自室に来た。聖母の騎士の「ルルドのお水」10本と、ブログ(日記)をA4の紙に起こした冊子を持参する。白浜さんは、ルルドと、修道院の屋外の仕事をしている。上五島の出身で、金沢で長年、働いていた。
★今日の話しは、「浦上の信徒でも、『浦上四番崩れ』を知らない者がいる。残念だ」から始まった。白浜さんによると、金沢は加賀百万石で、526人の浦上信徒が流配された。現地で食料不足や「はやり病い」で、105人が亡くなった。この信徒達の事を忘れてはならぬ。金沢に殉愛キリスト教の牧師さんが居て、熱心に高山右近を研究し、教会内に資料館も作っている。牧師さんは聖コルベ館にも、7、8人の信徒と共に、見学に来た。こんな感心な人もいる。
★確かに、こられの先祖達の殉教の話は、親が子どもに伝えて行かねばならない。私が始めて浦上受難の記事を書いたのは、1957年・昭和32年8月、戦争が終わって12年後だった。この時、86年前にさかのぼる、とある。3413人が流された。その年の5月26日に、流配記念祭があったが、男子1人(84)、女子3人(92)(88)(87)の4人が生存していた。私はその信徒たちを写真に撮った。名前も分かっている。土佐藩、鳥取藩、紀州に流された人たちだった。現地で生まれた人かも知れない。当時は80代といえば、高齢者であった。
★私は、白浜さんに言った。「流配から帰って、何十年か、経ったとき、記念碑を浦上天主堂に建てた。それにはラテン語で『神の仕業によって、苦難を受け、帰郷できた』と書かれている。永井博士は、その精神を基本に、『神の摂理』と受け止めたのではないか。浦上の復興が、どこの被災地よりも早かった」